チューリヒへの旅より

前アルプスを望むチューリヒ湖の風景

前アルプスを望むチューリヒ湖の風景

広島では初夏のような蒸し暑い日が続いています。みなさまお元気でお過ごしでしょうか。去る5月8日から11日にかけて、ごく短期間ではありますが、スイスのチューリヒへ出かけました。クリストフ・フォン・ドホナーニが指揮するチューリヒのトーンハレ管弦楽団の演奏会を聴くのが主たる目的でしたが、それ以外にもオペラを観たり、美術館を訪れたり、旧知の友人と、前アルプスを望むチューリヒ湖畔でゆっくり語らったりすることができました。音楽に身を浸す喜びだけでなく、今後の研究へ向けた刺激も得ることもできました。この時季の緑はとても鮮やかで、眩いばかり。チューリヒ湖畔から前アルプスを望むと、冠雪の残る山並みと多彩な緑のコントラストも楽しめました。

5月9日と10日の2日間、トーンハレでこの響きの豊かな「楽堂」の名を冠したオーケストラの演奏会を聴きました。曲目は、ルドルフ・ブッフビンダーの独奏によるモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K. 466とブルックナーの交響曲第7番ホ長調。いずれもクラシック音楽を聴き始めた頃からとても好きな曲で、実演で繰り返し聴きたいと思っているものですから、このタイミングでチューリヒまで行くことにしたわけです。いろいろな意味で、わざわざ出かけた甲斐がありました。

1929年生まれのクリストフ・フォン・ドホナーニは、今年で86歳になるわけですが、その指揮には若々しささえ感じられます。明確で緊密な造型の下で、楽譜に書かれている音を生かしきろうとする彼の音楽の特徴が、いずれの曲にもよく表われていましたが、いささかの緩みもない音楽の運びのなかから、時に爽やかささえ感じさせる歌も聴かれたのが印象に残ります。とりわけブルックナーの第7交響曲では、淀みないテンポの移行のなかにさりげないアゴーギグを加えながら、雄渾な響きも聴かせていました。

古書店などが並ぶ教会通り

古書店などが並ぶ教会通り

ルドルフ・ブッフビンダーのピアノは、どちらかというと朴訥とした語り口ながら、フレージングに独特の軽みがあって、そのあたりがモーツァルトの演奏に生きていたと思います。彼の音楽にも独特の造形美があって、ドホナーニと息の合った演奏を繰り広げていました。ドホナーニ、ブッフビンダーとトーンハレ管弦楽団は、毎年共演を重ねていて、チューリヒの聴衆に好評をもって迎えられているようです。それでもとくにブルックナーの交響曲を演奏するのは、けっして容易なことではなく、今回は2日にわたって演奏会を聴いて──そういうことはめったにないのですが──定期演奏会を2回以上行なうことの大きな意義を感じました。ドホナーニが指揮したトーンハレ管弦楽団の演奏会について、これ以上のことは稿を改めて書くことにいたします。

10日の夜には、チューリヒ歌劇場でベートーヴェンの《フィデリオ》の公演を観ました。マルクス・ポシュナーの指揮の下での演奏は、歌手の声の弱さやオーケストラのアンサンブルの粗さが少々気になるところもありましたが、ほぼ申し分のないものでした。レオノーレの役を歌ったアーニャ・カンペも、フロレスタンの役を歌ったブランドン・ヨヴァノヴィチも、好みの方向の歌唱と演技ではなかったとはいえ、なかなかの好演だったと聴こえました。しかし、ベートーヴェンの音楽がなかなか胸に迫ってきません。それは、アンドレアス・ホモキの演出による舞台に入っていけなかったからでした。

彼の演出による《フィデリオ》は、よく知られた序曲ではなく、このオペラのクライマックスとも言える第2幕の四重唱から始まります。そして、実際のドラマにはない悲劇的な結末──銃の暴発によってレオノーレが斃れてしまいます──が演じられるなか、ドン・フェルナンドの到着を告げるラッパが響くと、音楽がレオノーレ序曲第3番へと移行するのです。その後で《フィデリオ》のドラマがあらためて始まるのですが、そうするとドラマが最初から普遍化されてしまって、個々の登場人物をめぐるドラマが、どうしても空々しく映るのです。

たしかに、ホモキは敢えてそのことを狙ったのかもしれません。登場人物の名前やそれが発する言葉の一節が、場面ごとに、何ひとつ装置の置かれていない舞台に投射されるのですが、そのことは舞台空間をアレゴリー化するものだったと考えられます。また、登場人物自身に台詞を語らせるのではなく、その断片化されたテクストを匿名の声としてスピーカーで響かせるやり方も、《フィデリオ》の状況をアレゴリー化し、観客を思考に誘うものと言えるでしょう。こうした手法自体の可能性は、ポストドラマ的な舞台を呈示するものとして評価できます。

ステンドグラスが美しい聖母教会

ステンドグラスが美しい聖母教会

しかしながら、今回の《フィデリオ》の上演の場合、このような手法によって、場面どうしの関連が伝わらなくなり、ドラマの緊張感が薄れるとともに、音楽も生きなくなってしまっていたように思えてなりません。それぞれのアリアや重唱がばらばらに聴こえてしまうことによって、このオペラに特徴的とも言える、言葉が歌に移行する瞬間の感動が失われ、音楽の展開とドラマの緊密な関係が見えなくなっていたのではないでしょうか。いくつもの疑問を抱えながら舞台を眺めておりました。《フィデリオ》という作品の上演の難しさをあらためて感じさせる公演でした。

さて、今回のチューリヒ滞在のあいだ、マレク・シャガールとアルベルト・ジャコメッティによるステンドグラスが美しい聖母教会の他、街から少し外れた静かな住宅地のなかにあるリートベルク美術館も訪れました。ヴァーグナーがマティルデ・ヴェーゼンドンクと恋に落ち、その後楽劇《トリスタンとイゾルデ》の第1幕を書いたヴィラ・ヴェーゼンドンクを中心とする、非西欧の美術作品のための美術館です。そこで現在行なわれている「コスモス(宇宙)」をテーマとする特別展が面白いと聞いたので、出かけてみました。

何よりもまず、美術館の建物とそれを取り囲む緑の美しさに引き込まれました。 世界の各地域の──死者の世界を含めた──宇宙観を象徴する作品を集めた「コスモス」展では、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応が、人体の表現を焦点としながら、世界中で実に多彩に表現されていることが示されていて、とても興味深かったです。一人ひとりがそれぞれに宇宙を宿すということから、詩人たちが「万物照応」と表現してきた感性の在り処とともに、自然ないしその生きものたちと結びついた人間像が捉え直されうるかもしれません。また、古代エジプト以来のさまざまなコスモスの表現からは、人がどこから来て、どこへ向かうのか、という根本的な問いについてのさまざまな取り組みも垣間見えるようにも思われました。

リートベルク美術館となっているヴィラ・ヴェーゼンドンク

リートベルク美術館となっているヴィラ・ヴェーゼンドンク

リートベルク美術館では、同時に20世紀初頭の最初期のカラー写真の展覧会「色彩のなかの世界」も行なわれていて、とりわけその撮影者が、当時のヨーロッパ世界にとって辺境の地に目を向けていたのが印象に残ります。そして、この美術館において何よりも驚かされたのが、そのコレクションの充実ぶりです。日本の絵画や仏像を含め、非西欧の世界のほぼあらゆる地域の美術工芸品が、相当に網羅的に集められているうえ、そのどれもがきわめて質の高い作品なのです。とくにアジアの宗教美術のコレクションは素晴らしいもので、この美術館がアジアの多彩な宗教文化に、非常に深い関心を寄せていることがうかがえます。

この美術館では、午前中にパトリシオ・グスマンのドキュメンタリー映画『光へのノスタルジー』の上映も行なわれていました。チリのアタカマ砂漠に設置された天体望遠鏡で、遠い過去からの光を捉えることを、ピノチェトの恐怖政治の下で消された人々の死を悼んで砂漠のなかで遺骨を探すのに重ねる、映像的にも美しい瞬間の多い作品です。この映画も非常に感銘深いものでした。とりわけ、砂漠の厳しい日差しと風のなかで、虐殺された肉親の遺骨を一心に掘り起こそうとする女性たちの言葉が胸を打ちます。この映画に出会えたことも、今回の滞在の収穫の一つでした。チューリヒへ来たのは、2003年に当地の大学でアドルノ生誕百周年の学会が行なわれたとき以来二度目でしたが、今回もダダ生誕の地、キャバレー・ヴォルテールへ足を運ぶ時間がなくなってしまいました。次回の楽しみに取っておこうと思います。

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