チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏会を聴いて

5月のチューリヒの緑

5月のチューリヒの緑

クリストフ・フォン・ドホナーニという指揮者の音楽には、これまでいくつかのディスクをつうじて親しんできた。音楽監督を務めていたクリーヴランド管弦楽団を指揮したブラームスやマーラーの交響曲の演奏、そしてヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したメンデルスゾーンの交響曲やバルトークの管弦楽作品の演奏を収めたディスクを繰り返し聴いてきたが、そのいずれも、引き締まった造形のなかに楽譜に書かれている音を生かしきろうとするドホナーニの音楽の美質をよく伝えているように思われる。なかでも、バルトークの演奏は、クリーヴランド管弦楽団を指揮した《管弦楽のための協奏曲》の演奏と併せて、もっと高く評価されてもよいのではないだろうか。

ドホナーニの音楽の造形は、独特の芯と低い重心を持ちながら、構成を浮き彫りにする明澄さを示す響きによって支えられていて、それが彼の音楽の求心力を成していると思われる。しかも、それが明確なテンポの構成とも不可分であることを、演奏そのもののの説得性とともに示したのが、彼が2015年5月9日と10日にチューリヒのトーンハレで、この「楽堂」の名を冠したオーケストラ、トーンハレ管弦楽団を指揮した、ブルックナーの交響曲第7番ホ長調の演奏だった。ドホナーニは、この交響曲の各部分のテンポの差異を、これ以上ない明瞭さで描き分けながら、各部分のあいだを、時にパウゼを挟みながら間然することなく、音楽そのものの推進力を保ちながら移行させ、非常に聴き応えのある音楽を形づくっていた。1929年生まれの彼は、86歳になろうとしているが、彼の指揮は、巧みさとともに若々しささえ感じさせる。

トーンハレ管弦楽団の響きには、ドイツ語圏のオーケストラらしい低い重心と同時に、独特の開放性が感じられて、それがブルックナーの第7交響曲の演奏に、この曲に相応しい明澄さをもたらしていたと思われる。第1楽章の冒頭の主題が、豊かな歌を響かせながら、光の筋を描くように上昇していくところからこの演奏に惹きつけられた。この主題がヴァイオリンの対旋律を伴いながら、チェロに柔らかに回帰したときの響きの、天国的とも言える明澄さは、その直前にこの主題の鏡像型が仮借のない激しさで展開されていただけに、非常に感動的だった。第三主題が再現された後、第一主題の後半部が「非常に荘重に」、まさに「深き淵より」歌われると、第1楽章はコーダを迎える。ドホナーニはそこで、ノーヴァク版の楽譜の指示どおり、最後までテンポを速めながら音楽を上昇させ続けた。その様子は、彼の音楽の徹底性とともに、この曲に込められた祈りの強さを示すようだった。

アダージョの第2楽章の演奏は、もちろんヴァーグナーへの哀悼も込められた荘厳さを示すものではあったが、その一方で、連綿と歌が連なる音楽の流れを、自然な息遣いによって保つものでもあった。最初の主題の提示は、とくに弦楽の総奏によるその後半は、ともすれば過剰に重々しくなりがちであるが、ドホナーニの演奏は、独特の空気感を持って音楽を無理なく前へ運ぶものであった。その直後、「繊細に」と指示された一節が、一音一音を愛おしむかのように、柔らかに奏でられた。ドホナーニは、この一節に交響曲全体に、いやブルックナーの音楽そのものに込められた祈りが凝縮していることを伝えたかったのだろうか。また、ヴァーグナーへの哀悼に捧げられた結尾部の一節も、もちろん哀切極まる叫びを聴かせるものではあったのだけれども、デュナーミクのコントロールが絶妙で、むしろ叫びの余韻のほうが感銘深かった。何よりも、クライマックスへ向けて、寄せては反すように高まっていく音楽の流れが、巨視的にも微視的にも自然で、そのために頂点に置かれたシンバルの一撃も、取って付けたようには響かなかった。

なお、今回の演奏では、オーケストラの配置に対向配置が採用されていたが、それがブルックナーの第7交響曲でも効果的であることが伝わってきた。この曲では、とくに第1楽章の第二主題と第2楽章の主題が、第二ヴァイオリン、あるいは第二ヴァイオリンとヴィオラによって奏でられるが、それが豊かな響きを持って浮き彫りになったのは、とても好ましく思われた。また、全体的に、調性の変化に伴う響きの色調のコントラストも明瞭で、第3楽章では、ドホナーニは、響きを沈んだ色調で締めながら、リズムの動きをはっきりと際立たせていた。けっして急ぎすぎることなく、個々のモティーフが絡み合いながら高まっていく流れを、時に荒々しささえ示しながら、実に説得的に表現したスケルツォの演奏だったと思われる。何よりも印象だったのが、音楽がいったんクライマックスに達した後に、あるいはスケルツォの主部が終わった後に残って、ピアノでリズムを刻むティンパニの音色。これが実に意味深く次の音楽を用意していた。その後に奏でられたトリオのメロディには、陽が差すような明るさと温かさがあって、主部のほの暗さと好対照をなしていた。

フィナーレでは、ドホナーニは、絶妙とも言うべき、さりげない緩急を付けて、跳ね上がるようなリズムを持った主題を提示していた。その自然な流れは、第三主題に至るまで一貫していて、総奏によるその提示も、むろん峻厳なものではあるが、けっして居丈高になることはなく、次の音楽に自然に連なっていくものだった。その第三主題が、ゴシック的とも言うべき高みへ向かいながら再現された後、しばらくの沈黙の後で静かに奏でられ始める第二主題の柔らかな歌は、心からの感動を呼び起こすものであった。その後、第一主題が変形されながら再現され、さらに展開されながら、音楽は全曲のコーダへと移行していくが、そのあたりの音楽の設計、そして響きのバランスも実に見事で、あらためて全曲の構成に自然な見通しを与えるものだったと言えよう。

それから、この第4楽章のコーダは、ある意味で指揮者にとって鬼門で、しばしば拍子抜けするかたちで曲が終わってしまうのだが、ドホナーニは、スラーを持った第1楽章の第一主題をくっきりと浮かび上がらせながら、コーダが全曲のそれであることを示すとともに、最後の2小節ではしっかりテンポを落として、全霊のこもった最後の音を引き出していた。そこに全曲の凝縮された姿を見る思いだった。今回のドホナーニとトーンハレ管弦楽団によるブルックナーの第7交響曲の演奏は、例えば、カルロ・マリア・ジュリーニとヴィーン・フィルハーモニーによる演奏と同様に、かつそれとは対照的なアプローチで、ノーヴァク版の楽譜をすみずみまで、かつ説得的に生かした演奏だった。同時に、老境を迎えてしなやかさを増したドホナーニの音楽の新たな境地を示すものでもあった。

なお、今回のトーンハレ管弦楽団の演奏会では、ブルックナーの第7交響曲の前に、ルドルフ・ブッフビンダーの独奏で、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K. 466が演奏された。ブッフビンダーのピアノは、どちらかと言うと朴訥とした語り口ながら、そこから奏でられる音楽に独特の造形性があって、それがドホナーニの音楽とよく噛み合っていた。ブッフビンダーは、オーケストラと張り合って独奏を聴かせるのではなく、むしろオーケストラとのアンサンブルを楽しむようなアプローチで、それぞれのパッセージを、全体の響きのなかで意味深く響かせていた。なかでも、第1楽章の展開部や第2楽章の中間部で、管楽器との掛け合いのなか、同じパッセージが転調を繰り返しながら高まっていくあたり、これまでに聴いたこの曲の演奏のなかで最も説得力があった。ドホナーニの指揮は、澄んだ響きのなかに、とくに第1楽章ではシンコペーションを基調としたリズムの動きを明瞭に浮き立たせるもので、フォルテの打ち込みの鋭さも特筆に値する。

ヴィーンのピアノ演奏の伝統に根差すブッフビンダーのピアノのフレージングには、独特の軽みもあって、それがとりわけ緩徐楽章では歌の柔らかさをもたらしていた。それをさらに、音楽の展開の必然性を感じさせるのに結びついていたあたり、彼の手腕を感じさせる。全体的に、装飾音の処理の仕方も、音楽の連綿とした流れを意識したものであったように思われる。フィナーレでもブッフビンダーは、かなり急速なテンポのなかで、音の粒立ちを失うことなく、個々の楽節を意味づけていた。カデンツァの後で、第17番ト長調の協奏曲のフィナーレのコーダを思わせるように、さらにテンポをプレストにして、全曲の結尾へ音楽が駆け抜けていったのも、ニ短調からニ長調への変化を生かしながら、レクイエム的な短調とのコントラストにおいて天上的な愉悦を際立たせるものとして効果的であると感じられた。手堅く、かつ自然な息遣いのなかで、古典的な造形とともに独特の説得性を示したニ短調協奏曲の演奏だった。

チューリヒのトーンハレの正面玄関

チューリヒのトーンハレの正面玄関

なお、ここまでドホナーニが指揮したトーンハレ管弦楽団の演奏会について記してきたことは、基本的に2日目の演奏を聴いての印象にもとづいている。今回、このオーケストラの定期演奏会として行なわれたこの演奏会を、2日にわたって聴いたわけだが、定期演奏会を2日以上(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は3日間)行なうことの意義を再確認させられた。ドホナーニは、トーンハレ管弦楽団との共演をここ数年重ねているが、それでも指揮者がその意図を楽員に浸透させ、息の合った演奏を繰り広げるのは容易ではない。初日の演奏には、少なからぬアンサンブルの綻びがあったし、オーケストラを統率しようと、ドホナーニの音楽の運びがやや性急になる箇所も見られた。それに、ブルックナーの交響曲のアダージョのクライマックスの直前で、あろうことか、シンバルが飛び出してしまうという事故も起きていた。2日目の演奏では、こうした問題がほぼすべて解消され、音楽の流れがブルックナーに相応しい落ち着きを取り戻していた。こうした経験を重ねながら、とくに若い楽員の多く含まれるオーケストラは、アンサンブルを成熟させていくはずである。

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チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏会を聴いて」への1件のフィードバック

  1. ご参考までに、Neue Zürcher Zeitungに載った演奏会評へのリンクを貼り付けておきます。全体的に好意的な評のなかで、私が書き忘れたことですが、協奏曲のカデンツァがベートーヴェンのものだったことと、初日の「事故」のことが触れられています。http://www.nzz.ch/feu・・・/klassik/erfahrener-alter-1.18540379

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