Hiroshima Happy New Ear XIX「次世代の作曲家たちIII」を聴いて

55360c23940a6広島を拠点に活動している現代美術作家原仲裕三は、1945年8月6日8時15分、広島の上空で原子爆弾が炸裂した瞬間に、生命あるものが未来永劫背負わなければならない時が刻まれたとして、その瞬間を起点とする時刻「ヒロシマ時刻(Hiroshima Time)」をさまざまな空間的造形のうちに表示する作品を創り続けている。その作品は、現在の空間にもう一つの時を刻み込むことで、クロノロジカルに進み行く時のみならず、アナクロニックに回帰する時、癒えることのない傷としての「時刻」をも見る者に想起させる。

このとき原仲の作品は、広島の街のなかを慌ただしく過ぎ行く時のなかに、過ぎ去ることのない時の欠片が潜んでいることを暗示しているのかもしれない。人々が労働と消費に駆り立てられるなかで嵐のように過ぎ去っていく時間のただなかに入り込む、このもう一つの時、それを内側から生きることを可能にするのが音楽であることを証明したのが、第19回を迎えるHiroshima Happy New Ear「次世代の作曲家たちIII」(2015年6月25日、JMSアステールプラザオーケストラ等練習場)で世界初演された徳永崇と三浦則子の作品だった。

《広島時間》と題された徳永崇の作品は、現在の都市空間を埋め尽くさんばかりの声や音を、その人工性や実際に鳴り響く音の背後に渦巻く欲望を含めて、この作曲家にしか可能でない速度感とともに表現し、生命ある者を押し流そうとしている時の奔流へ聴き手を引き込む。しかし、その表現は、苦いユーモアを交えながら、明るすぎるかに見える響きのなかに、暴力の影、とりわけ戦争と核の暴力の影が潜んでいることも示すものであった。

破壊的とも聞こえる中断を挟みながら音楽はやがて、現在の喧騒を形づくっていた音の欠片から複数の歌を紡いでいく。そこからは、生まれ来たる生命への感謝のこもったブリコラージュとともに、核と戦争の脅威が未だ去らない今ここから、生きることの未来を切り開こうとする意志をも聴き取ることができよう。深く息の余韻を響かせながら徳永の《広島時間》は閉じられるが、生きることの源をなす呼吸が、風を感じることであることを伝えていたのが、三浦則子の《ヒロシマを渡る風──室内オーケストラのための》だったのかもしれない。

この作品は、ふっと吹き過ぎる風が、生命あるものの息遣いを感じさせながら、さまざまな響きや香りを運んでくることを実に繊細に、かつ共感覚的に響かせるものだが、その時間には張りつめたものがある。たびたび差し挟まれる休止は、まさにこの時期の広島の夕暮れ時にしばしば訪れる凪を感じさせるが、その緊張は、風が止んだところに過ぎ去ることのない時が凝集することを示していよう。夕凪のなかに、傷としての「時刻」の記憶が甦るのだ。

歌の息吹を感じさせるパッセージと、どちらかと言うと物質的なパッセージとが交互に奏でられ、やがて両者が折り重なって、強い、深淵をのぞかせるような響きが生まれた後、凪を感じさせる静寂が訪れる。そこにある時の中断の衝撃が、打楽器の打撃によって表わされているようにも聞こえた。《ヒロシマを渡る風》は、深く重い問いを残すようなバス・ドラムの一撃によって閉じられる。三浦の次の作品へ道を開きながら、聴き手を想起と思考に誘う一曲と言えよう。

今回のHiroshima Happy New Earでは、徳永と三浦の室内オーケストラのための新作以外に、この現代音楽の演奏会シリーズの音楽監督を務める細川俊夫が、テューバと室内アンサンブルのために書いた協奏曲《旅VIII》の改訂版も初演された。この曲では、チベット仏教の僧侶の祈りの声から着想を得たというテューバの独奏が、室内アンサンブルのとくに低音楽器の響きと溶け合うなかから徐々に浮かび上がって、息の音を含めた実に多彩な音色を、自然な移行をつうじて響かせていたのが、何よりも印象的であった。それは、テューバを現代音楽の独奏楽器として奏でる可能性を開拓し続けている橋本晋哉にして初めて可能なことだったにちがいない。

その一方で、この曲で川瀬賢太郎の指揮の下、広島交響楽団の奏者たちが、それこそチベットの高地に吹き荒れるような風を見事に奏でていたのも印象深い。響きが深く広がるなかで吹きすさび、激しい打楽器の打撃音とともに仮借のない時の移ろいを感じさせる嵐のような風は、もしかすると、広島の街の表層の下に渦巻く怨念や悔恨などにも通じているのかもしれない。それに抗いながら、あるいはそれと呼応しながら、テューバの独奏は、地の底から響くような切なる祈りを奏でていた。

最後に演奏されたのは、ジェルジー・リゲティのオペラ《ル・グラン・マカーブル》より、ゲポポの三つのアリアを一曲のコンサート・ピースにまとめた《マカーブルの秘密》。このオペラには、「死を思え(メメント・モリ)」という箴言があまりにもリアルだった中世から、いくつもの全体主義を経験した現代──その歴史を身をもって生きたのが他ならぬリゲティだった──までのいくつもの時が折り重なっているが、それらを貫く人間の錯乱を含んだ変貌を凝縮させたのが、この一曲であろう。

この曲で独唱を担当した半田美和子は、ゲポポが人と物のあいだを行き来しながら、自分が国家機密として秘密裏に伝えようとする想念によって、みずから錯乱していくさまを、澄んだ、それでいて強い声で歌いきっていた。恐ろしいまでの速度のなかで、一語一語を明確に響かせつつ、微妙に音色や息遣いを変えて、リゲティの超人的な要求に見事に応えながら、現代の世界に生きる、狂気を潜在させた人間を深層から浮き彫りにした演奏だったと思われる。この《マカーブルの秘密》の演奏において、ここまでの音楽的な完成度に達することができるのは、日本では半田だけであろう。

今回のHiroshima Happy New Earにおいて取り上げられた作品はどれも、複数の時の緊張関係や相互浸透を、優れて音楽的に響かせていたと考えられる。そのような作品こそが、ヒロシマの記憶を新たにし、その記憶とともに生きることを省察する契機となるにちがいない。このような意味で「ヒロシマの」と言える音楽が新たに生まれる瞬間に立ち会えたことを、まずは率直に喜びたい。この音楽の誕生の出来事が、これからさらにヒロシマの、そして広島からの音楽が生まれてくる契機になることを願っている。

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