出来事の生成の哲学、あるいは生きられるアナキズム

[森元斎『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社、2015年)によせて]

41qyoMxBevL._SX345_BO1,204,203,200_19世紀末から20世紀初頭にかけての哲学は、17世紀の哲学と同様に、自然科学の革命的な発見が世界像を根底から揺さぶるのに応えるという課題を背負わざるをえなかった。アーレントは、デカルトの哲学よりもガリレオの発見のほうが世界を変えたと語っているが、その衝撃を受け止めようとする17世紀の哲学は、世界の法則的認識に結びつく知の地平としての意識の働きに、人間の生の根拠を置いた。これに対して、デカルトとスピノザの時代からおよそ二世紀を経た時期の哲学は、例えばアインシュタインの相対性理論の衝撃を受け止めながら、知をもって自然の組成を人間の手で人間のために作り変える「科学技術」に結びつく意識の手前にある次元へ遡って、生きること自体を捉え直そうとしている。この次元にベルクソンは、生ある者が自己自身を不断に創造する生の躍動を見て取ったわけだが、その洞察のうちには同時に、この200年間の「進歩」に対する反省も込められているかもしれない。

ベルクソンと同時代を生きたホワイトヘッドは、自然を、けっして知の対象に還元することなく、あくまで生成の相において──しかも、まさにそのことによってアインシュタイン以後の物理学的な知にも開かれたかたちで──生涯にわたって考察し続けた。自然は、一つの出来事として経験され、そのとき時空間が開かれるかたちで一つの実在するものが立ち現われてくる。そこにある不断の移行の動きが、法則的にも認識されうるのだ。この過程が、すなわち一つの出来事を形づくる自然の蠢きが、世界の具体性をなしており、人も事物もこの具体性を生きている。森元斎の『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』の前半は、ホワイトヘッドが自然の生成のプロセスと結びついた具体性の次元を、実人生を賭けて、ベルクソンをはじめとする同時代人の思想との対決をつうじて省察していることを示している。著者によれば、ホワイトヘッドの自然哲学は、苛酷ですらあった彼自身の「経験の雫」なのである。

『具体性の哲学』の前半部においてはホワイトヘッドの哲学が、さらにライプニッツとドゥルーズの哲学との布置において検討されるが、そのことによって世界の具体性が、ドゥルーズがライプニッツのモナドのうちに読み込んだ、世界の、いや世界そのものの動的なヴィジョンとして生きられることが浮き彫りにされる。このとき、まさにモナドの概念が示すように、多から一が生成するわけだが、このとき一つの出来事が──この点ではライプニッツに反して──自己完結することはない。出来事自体は絶えず自然の生成過程のうちにあり、そのなかでつねに新たな要素を取り込みながら生長していくことをホワイトヘッドは洞察していたという。このことは例えば、一つの歴史的にも語られてきた出来事が、他の出来事と結びつきながら絶えず新たに捉え直されることなどとも関連づけられうるかもしれない。ただし著者によれば、そのようにして個々の出来事が実在することは、「抱握」の働きなしにはありえない。

「抱握」なしに世界の具体性はありえない。本書の議論において注目されるべきは、生長を伴った出来事、さらには「森羅万象」の媒体とも言うべき働きを表わすホワイトヘッドの「抱握」の概念が掘り下げられ、そこから近代の人間中心主義を乗り越える世界変革の思想が抽出されていることである。「抱握」において、人間も事物も森羅万象の一契機として、さらに言えばおのずから出来事として生成してくる。そのことに先立つこれらの本質は存在しない。むしろ「抱握」の働きのなかで、人間と事物は相互に結びつきながら絶えず新たに生まれ変わるのであり、このことが世界の具体性をなしている。いや、このときそれぞれ実在する生きものたちは、誕生しながら世界を「抱握」しているのであり、このことが最初に、そして具体性において世界を形成しているのだ。著者によれば、こうして生きものが世界そのものを変成させ、変革する主体へと生まれ変わる可能性を、自然がまさに自然として生成すること自体のうちに開いているのが、ホワイトヘッドの哲学の最も重要な知恵、すなわち「経験の雫」の一つなのである。

出来事が「抱握」されること、それが世界を具体性において開く。このことはホワイトヘッドにとっては当然ながら、世界の組成を法則的に認識することにも開かれているが、著者によると、出来事の「抱握」の始まりにあるのは、むしろ美的な「感得」である。そのことをホワイトヘッドの詩論の解釈をつうじて示す本書の後半部の議論は、彼の哲学を論じる文脈を広げるものでもあろう。例えば、第一次世界大戦中にベンヤミンは、意識の働きに先立って色彩がその野生の光彩において立ち現われてくる媒体としての「想像」を論じ、これを芸術の源泉に位置づけている。こうした初期の美学が、後に「複製技術時代の芸術作品」などで展開される、知覚経験の歴史的な変容を踏まえつつ世界の変革を志向する美学に結びつくわけだが、両者を貫く「知覚の学」は、ホワイトヘッドの「抱握」の美学とも通底していよう。ベンヤミンもホワイトヘッドも、出来事を具体的な生成において生きる次元を意識の底に見通しながら、そこから、ないしはそれにもとづく新たな美的経験から、芸術と技術の双方を捉え直そうとしていたのではないだろうか。

このようにホワイトヘッドの「抱握」概念を美的な「感得」から捉え返すとき、それはベルクソンが語り続けた「直観」と再び結びつく。そして、この地点において大杉栄がベルクソンのうちに「生の拡充」の可能性を見て取ろうとしていたことを想起するなら、アナキズムをその具体性において掘り下げる地平が開けるという。このことを指摘する最終部の議論は、本書の魅力をなすとともに、著者の今後の思考の展開を期待させる。アナキズムは、主権の否定といった抽象的かつ否定的な理念としてではなく、具体的な肯定性において生きられなければならない。そして、この生きられるアナキズムは、無籍者であることを貫いて最終的に自死を選んだ、金子ふみ子の「自分自身の体験から生まれた」思想と生きざまから読み取ることができる。天皇制をラディカルに否定し、ホワイトヘッドが「対象的不滅性」と呼んだ次元における魂の存続を信じた金子が身をもって示した、「戸籍」のようなものに寄りかかることなく、遭遇するもの物事を受け止めながら変成していく起源なき生が相互に結びつくとき、アナキズムが生きる可能性として具体化していくにちがいない。著者が洞察しているのは、その胎動が具体性を生きること自体のうちにあることにほかならない。

[本稿は、2016年3月20日に広島市留学生会館で開催された中国文芸研究会における森元斎『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』合評会にて発表された。]

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