ポルボウへの旅

[2016年9月25/26日]

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ポルボウ駅風景

バルセロナを午後5時過ぎに出発した列車がポルボウの駅に着いたのは、午後8時過ぎだった。本来はもう少し早く着いているはずだったが、おそらくは一時間半ほど前から降り始めた激しい雷雨の影響で、到着が少し遅れた。幸い雷雨は収まっていたものの、プラットホームに降り立つと、駅舎の屋根に小雨がぱらつく音が聞こえる。寂れた駅舎を抜けると、潮の香りが漂ってきた。

ナチス・ドイツからの亡命者たちにピレネー越えを手引きしていたリーザ・フィトコに導かれたヴァルター・ベンヤミンが、同行者とともにこの入江の国境の街に辿り着いたのは、76年前の今日、1940年9月25日のことだった。駐在する国境警察に、フランスの出国ヴィザを持たない者は送還すると脅された一行が、一夜の滞在を許されたホテルへ重い足取りで向かった時も、このように日が落ちて、街路が薄暗かったのだろうか。雨をよけながら細い街路を下って行くと、海辺にある今夜の宿が見えてきた。

この日の深夜に、ベンヤミンは、彼が万一の際に備えて持ち歩いていた致死量のモルヒネを嚥んだとされている。「そうするよりほかに術がなかった」。亡命先のアメリカにいるテオドーア・W・アドルノに伝えるよう、同行のへニー・グルラントに託した伝言にあるように、行く手を阻まれ、帰路も塞がれた状況で、ベンヤミンが取れる手だてはこれだけだった。彼は、ナチス・ドイツの占領下に置かれたフランスで、ゲシュタポの手にわが身が引き渡され、辱められた末になぶり殺されることだけは避けなければならなかった。案内人に「私個人の命よりも大切だ」と語った原稿を所持していたからである。

こうしてベンヤミンは、他殺の拒否を貫いた。彼は、言葉とともにある生を生き抜こうとして自死を遂げたと言えるかもしれない。混濁してゆく意識のなかで、彼は、大西洋の向こうにいる友人の手に、トランクのなかの原稿が渡ることを念じていただろう。しかし、その願いは叶わなかった。彼が所持していたとされる原稿の行方は、杳として知れない。深夜の海岸からは、波が打ち寄せる音が、風音とともに響いてくる。絶命しつつあるベンヤミンの耳にも、海からの音は届いていただろうか。

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ダニ・カラヴァンのモニュメント《いくつものパサージュ》とポルボウ公営墓地の門

先のアドルノへの伝言にあるとおり、ベンヤミンは、「自分のことを誰も知らない街」で死んだ。いや、それどころか、結局誰であるか知られないまま死んだとさえ言えるかもしれない。当地に残る記録によれば、彼はカトリックの司祭の終油を受けて、ポルボウの公共墓地に葬られた。その記録に彼の名は、“Benjamin Walter”と記されている。故意によってか手違いによってか、姓と名が取り違えられることによって、彼の名前からは、彼がユダヤ人であることを示す要素が消されていた──“Benjamin”は、イベリア半島では一般的なファースト・ネームであるという──のである。このようにしてベンヤミンは客死した。

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ベンヤミンの最後のメッセージを記した墓地内のモニュメント

海に面したポルボウの公共墓地には、もうベンヤミンの墓は残っていない。代わりにというわけではなかろうが、墓地の奥まった場所に、彼を記念する小さな石碑が設けられている。その手前には、ベンヤミンがグルラントに託した伝言の全文とされる文章が記されたモニュメントも造られていた。こちらは、彼の没後75年を記念して設置されたという。この場所を訪れたのは、翌9月26日の朝。墓地から見下ろす海が、もはやベンヤミンが見ることのなかった陽射しを受けて輝いていた。昨夜の雷雨が嘘だったかのように、空は晴れわたっている。

墓地のなかの記念碑には、彼の最後の著作の一つで、未定稿だけが残された「歴史の概念について」の第7テーゼの一節が引かれている。「同時に野蛮の記録であることのない文化の記録など、あったためしがない」。なぜこの一文が刻まれたのかは知る由もない。ただし、ここにベンヤミンの歴史に対する基本的な姿勢が示されていることは確かだろう。彼の思考は、現在を廃墟の相において見据えながら、「進歩」や「発展」と美化されてきた歴史のうちに、抑圧と破壊の痕跡を見届ける理路を探っていた。そして、この痕跡が顔をのぞかせる一瞬を捉え、同じテーゼに言われる「抑圧された者たち」の記憶を今に呼び覚まして、歴史そのものを反転させる可能性を、言葉に凝縮させようとしていたのだ。「歴史の概念について」書かれたテクストは、その試みの痕跡である。それが時の権力者たちにとってきわめて危険なものであったことは、細部の表現が変わっている異稿の存在が物語っていよう。

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墓地内の記念碑

公共墓地の門の手前に、イスラエルの芸術家ダニ・カラヴァンがベンヤミンの没後50年を記念して制作したモニュメントが設けられていることは、つとに知られていよう。海辺の崖を貫通するかたちで造られたこのモニュメントには、《いくつものパサージュ(Passages/Passatges)》という表題が付いているが、それはこのモニュメントの物理的な構成からすれば、逆説的なタイトルではある。なぜなら、その内部の階段を下りて行った先にあるのは海なのだから。ベンヤミンが旅人として、あるいは思想家として辿ってきたいくつもの、いや無数のパサージュ──アーケード、通路、隘路など──に思いを馳せながら、それがこの場所で途絶したことを追想する空間と言えようか。あるいは、この狭い空間を通り抜けることを、カラヴァンは、ベンヤミンが繰り返し論じた「経験」──とくに「閾の経験」──に準えているかもしれない。「経験(experience)」の語には、語源的に「危険(peril)」を潜り抜けるという意味がある。

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カラヴァンの《いくつものパサージュ》の内部から海を望む

モニュメントの内部に入り、階段を下って行くと、カラヴァンが制作した他のモニュメントにも見られるように、開口部の手前に透明の板が組み込まれていて、その上に言葉が刻まれている。その言葉は、《いくつものパサージュ》においては、ベンヤミンが「歴史の概念について」のテーゼを準備するために記した草稿から採られている。「名のある人々の記憶を称えるよりも、名もなき者の記憶を称えることのほうがいっそう難しい。歴史の構成は、名もなき者たちに捧げられている」。行き止まりでもあるカラヴァンの《パサージュ》に刻まれているのは、従来の「歴史」に名を残せなかった者たちに応えようとするベンヤミンの歴史哲学の基本的な問題意識を示しながら、その困難をも暗示する言葉である。その言葉が、ポルボウのモニュメントの空間の内部では、特別な力を持っているようにも感じられる。

カラヴァンが意図しなかったことかもしれないが、ベンヤミンの言葉が刻まれた透明の板には、見る者の姿が必ず映る。モニュメントの内部空間の写真を撮ると、カメラを手にする影が写り込むことになる。モニュメントのなかへ入る者は、海に向かいながらベンヤミンの言葉を読む自分の姿も同時に見ることになるのだ。それによって、ボードレール論における彼の言い方を用いるなら、「眼差しを返される」体験をすることになろう。それも、言葉によって。困難な「歴史の構成」を語るベンヤミンの言葉をここで読む者は、その言葉によって問い返される。この時代、この世界で、彼の歴史への問いをどのように受け止めるのか、と。

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ポルボウ公共墓地から地中海を望む

容易に手の届く史料を基に歴史を物語る──そのことは、ベンヤミンに言わせれば、支配者への同一化である──のではなく、「歴史」から削ぎ落とされ、抹殺されかねない記憶を忘却から掬い上げ、断片でしかありえないこの記憶を継ぎ合わせ、照らし合わせる「構成」は、どれほど困難であることか。しかし、それをつうじて、いくつもの「抑圧された者たち」の記憶を星座のように呼応させ、現在を新たに照らし出す可能性を追求することに、生存──それは死者とともに生き残っていくことである──そのものが懸かっている。だからこそベンヤミンは、「歴史の概念」を、「歴史」に抗して語ろうとした。そして、彼がそのなかに「嵐」を見た「歴史」は、今や彼の時代よりもさらに深く生命を侵食しながら、生存を脅かしている。そのような現在──核の歴史のただなかにある現在──において、歴史の問題にどう取り組むのか。モニュメントのなかで、ベンヤミンの言葉によってそう問われているように思われた。その際、ポルボウでの彼の死にも向き合わざるをえないのではないだろうか。

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ベンヤミンの眼鏡があしらわれたホテル・フォンダ・フランサ跡の銘板

カラヴァンのモニュメントを後にし、ポルボウの街を通って駅へ向かう途中、ベンヤミンがファシストの手先に見張られながら一夜を過ごし、自死を遂げたホテル・フォンダ・フランサのあった建物の壁面に、そのことに触れた銘板があるのを目にした。彼の特徴だった眼鏡があしらわれていた。それ以外にもポルボウの街の至るところに、ベンヤミンとその死に触れたプレートが置かれている。この街では、皮肉なことに、ベンヤミンの記憶は「文化財」と化しつつあるのかもしれない。それがやがて、「文化財」という名の消費財と化してしまうのに抗いながら、彼の思考の問いを喚起する力を掘り起こす必要を、あらためて感じないではいられない。そのことは、ベンヤミンの言葉を、今ここで読む者の責務であろう。

こうしたことを思いながら、午後のバルセロナ行きの列車に乗り込んでポルボウを後にした。ジローナ県の町々を通って行く車窓の外には、往路は見えなかったカタルーニャの田園風景が広がっていた。乾いた土に、今なお強い陽射しが照りつけている。馬が草を食む姿がふと目に入った。牧草地の先には、葡萄畑がどこまでも広がっていた。

ベルリン通信V/Nachricht aus Berlin V

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八月末に訪れたプラハ城を望む風景

九月を迎えて、ベルリンでは朝夕に秋の気配が感じられるようになりました。午後はそれなりに気温が上がりますが、日が落ちるとすぐに冷気を含んだ風が漂ってきます。日本も、そろそろ秋風が吹き始める頃でしょうか。八月もあっと言う間に過ぎて行きましたが、その感触は、中旬の10日間を猛暑の広島と東京で慌ただしく過ごしたことも影響しています。8月15日から集中講義などのために一時帰国しておりました。集中講義では、4日間で一学期分の講義をして、試験まで済ませたわけですが、学生たちがとてもよく付いて来てくれたと思います。それ以外のいくつかの仕事にも見通しを得ることができました。貴重なお時間を割いてご協力くださった方々に心から感謝申し上げます。その内容については、追い追いお伝えしていきます。

仕事の一つに、中國新聞の文化面の「緑地帯」のための原稿執筆がありました。すでに8月30日付の朝刊より、「ヒロシマ─ベルリン通信」と題して、全8回のコラムの連載が始まっております。本コラムでは、すでに『現代思想』誌の「〈広島〉の思想」特集所載の拙稿に盛り込んだエピソードも含め、4月からの研究滞在中に見聞きしたことを交えつつ、ここベルリンでの思考の一端を綴ってまいります。とくに、今も続く核の歴史に、記憶することをもってどのように向き合いうるか、その際に芸術がどのような力を発揮しうるか、といった問いをめぐって、拙いながら考えたことをお伝えできればと思います。全文が同紙のヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトに掲載されますので、ご笑覧いただければ幸いです。

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ブランデンブルクの旧市庁舎の入り口に立つローランの像

一時帰国に先立っては、71回目の広島の原爆忌をベルリンで迎えました。その日の夜は、中心街にあるカイザー・ヴィルヘルム記念教会へ、IPPNW(International Physicians for the Prevention of Nuclear War:核戦争防止国際医師会議)の主催によるチャリティー・コンサート„Nie wieder Hiroshima – No more Hiroshima“を聴きに行きました。演奏会は、昨年広島を訪れて若い演奏家と共演したギャレット宇見のピアノ独奏によるもので、彼女が、輝かしい音色と技巧の確かさにおいて才能に恵まれたピアニストであることを伝えるものでした。演奏会の中ほどで、IPPNWの代表者によるスピーチ„Nie wieder Hiroshima – No more Hiroshima“があり、そのなかで広島と長崎の原爆の犠牲者に捧げる黙祷も行なわれました。科学者と原爆開発の関わりを詳しく辿ったそのスピーチの最後で、ギュンター・アンダース(ベンヤミンの従弟に当たります)の「広島は遍在している」という言葉が引かれていたのが印象的でした。

8月11日には、ブランデンブルク(Brandenburg an der Havel)を訪れました。ハーフェル川の辺のこの古い街までは、ベルリンから電車で一時間足らずです。ナチス・ドイツのいわゆる「安楽死」施設の跡に設けられた記念館の展示を見るのが小旅行の目的でした。旧市庁舎の前にはローランの像が立ち、随所に中世の面影を残す美しい古都には、あの「T4作戦」の実行施設の一つが造られ、1940年1月から10月までのあいだに9000人を超える人々がガスによって、「安楽死」の名の下で虐殺されています。その跡地には、犠牲となった人々を紹介するモニュメントが置かれるとともに、ガス室のあった場所が示されています。

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「安楽死」施設記念館のモニュメント

記念館の展示はとても詳細なものでした。誰がどのような立場で虐殺の過程に関わったのか、どのような人々が、どこから、またどのような手続きでこの施設へ送られてきたのか、虐殺の背景にどのようなイデオロギーがあったのか、といったことが、ドキュメントとともに網羅的に描き出されています。犠牲者の多くは心身に障害を持った人々でしたが、なかにはユダヤ人であるという理由で虐殺された人もいたようです。そして、この施設で虐殺に関わった人々の一部は、後に「ラインハルト作戦」の下でソビブルやトレブリンカの絶滅収容所を稼働させるのに重要な役割を果たすことになります。「最終的解決」とも深く結びついたナチスの「安楽死」の問題を、現在を照らし出す問題として考えなければという思いを新たにしました。

8月13日には、ベルリンの歴史ある野外演奏会場ヴァルトビューネで、ダニエル・バレンボイムが指揮するウェスト゠イースタン・ディヴァン管弦楽団の演奏会を家族で聴きました。大勢が集まる演奏会ということで少し不安もありましたが、アラブ諸国とイスラエルの若い演奏家で組織された、そしてバレンボイムと今は亡きエドワード・W・サイードによって創設されたこのオーケストラの演奏を聴ける貴重な機会と思って出かけた次第です。プログラムは、イェルク・ヴィトマンの《コン・ブリオ》に始まり、マルタ・アルゲリッチの独奏によるリストのピアノ協奏曲第1番、休憩を挟んでヴァーグナーの歌劇《タンホイザー》の序曲、楽劇《神々の黄昏》より、「ジークフリートのラインの旅」と「ジークフリートの葬送行進曲」、そして楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の第一幕への前奏曲というもので、なかなか聴き応えがありましたが、音楽家たちはどのような気持ちでこれらの作品に取り組んでいるのでしょうか。

さて、このオーケストラは、バレンボイムとの共演をすでに何年も積み重ねていることもあって、彼の細かいアゴーギグにも実によく付いて行きます。PAを通した音がどうしても聞こえるので、細かいところが伝わらないのが残念ですが、全体として、バレンボイムの求める音楽が、重心の低い、充実した響きとともに引き出された演奏だったと思います。とくに「葬送行進曲」は、気迫が込もっていて、圧倒的な印象を残しました。とはいえ、やはり素晴らしかったのは、マルタ・アルゲリッチのピアノ。幼馴染みで気心の知れたバレンボイムとの共演とあって、感興に富んだ、若々しいとさえ思える演奏を繰り広げていました。のピアノの闊達さが曲ともマッチしたリストの演奏だったと思います。アンコールにバレンボイムとの連弾で、ラヴェルの組曲《マ・メール・ロワ》からの一曲が演奏されました。

八月には、もう一つオーケストラの演奏会を聴きました。ヨーロッパを中心とした世界各地のユース・オーケストラの音楽祭Young Euro Classicの一環として行なわれたルーマニア・モルドヴァ・ユース・オーケストラの演奏会です。隣接する二つの国の17歳から25歳の若い音楽家によって構成されたこのオーケストラの演奏能力の高さと、音楽のエネルギーに驚かされました。オーケストラが一体となっての響きの力感と推進力は息を呑むほどでしたし、繊細な表情にも欠けていません。何と言っても、セクションどうしがよく聴き合って、つねに見通しの利く響きを形成しているのが素晴らしかったです。とくに、プロコフィエフの《ロメオとジュリエット》の組曲における音楽の振幅の大きさには瞠目させられました。

二つの国から集まった若い音楽家の力をいかんなく発揮させていたのが、ルーマニアの名匠クリスチャン・マンデアル。緊密で有機的な響きをオーケストラを引き出しながら、間然することのない音楽の流れを形成していました。彼が得意なレパートリーを指揮するのを、ぜひ聴いてみたいところです。とはいえ、今夜最も驚嘆させられたのは、チャイコフスキーのロココ風の主題による変奏曲における、アンドレイ・イオニーツァという若いチェリストの独奏。すでにチャイコフスキー・コンクールなどのコンクールでの受賞と著名な音楽家との共演を重ねてきたチェリストですが、素晴らしい才能と思います。豊かで深い音から実に闊達な音楽を聴かせていました。

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プラハ城内にある聖ヴィート教会のゴシック様式の身廊

月末には、休暇を取ってプラハへ二泊三日の家族旅行に行ってきました。ベルリンからプラハへは、飛行機を使うと一時間足らずです。旧市街とプラハ城などのお定まりの観光地くらいにしか行けませんでしたが、とくにプラハ城内の教会は、何度見ても発見があります。今回は天候に恵まれたので、聖ヴィート教会のステンドグラスがひときわ美しかったです。ロマネスク様式の聖イジー教会の建築も、あらためて興味深く思いました。旧市街の塔からの「百塔の街」の眺めも楽しめました。家族旅行だったので、初めてケーブルカーでペトリの丘に登ったり、公共の渡し舟でヴルタヴァ川を渡ったりもしました。プラハの街は、観光客でごった返していて、それを当て込んだ店が多いのは相変わらずですが、全体として落ち着きを取り戻しつつある印象を受けました。

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プラハ動物園で見たゴリラの親子

ちなみに、家族がプラハで最も喜んだのは、最終日に訪れた動物園。プラハまで来て動物園、と思われるかもしれませんが、この動物園は一日過ごす価値があります。広大な敷地で実にさまざまな動物の生態を間近に見ることができます。家族にはやや不評だったユダヤ人街の外れのギャラリーでは、上海に逃れたユダヤ人の生きざまを記録した写真の展示を興味深く見ました。プラハ城内の国立美術館では、デューラーの《ロザリオの聖母》をはじめ、ホルバイン、レンブラント、ライスダールらの名作と再会しましたが、クラーナハについて、ややとまった展示もありました。そう言えば、近々東京と大阪でもクラーナハ展が開催されるようですが、それがこの画家の再評価の機縁になればと思います。

さて、冒頭で触れましたように、すでに九月が始まりました。4日からは、福井県越前市で武生国際音楽祭が始まります。ここ数年毎年聴かせていただいていたこの素晴らしい音楽祭に、今年伺えないのが残念ですが、今年も、古典と現代を結びつけながら、両者に新たな光を当てる充実したプログラムが組まれていますので、例年に増して多くの聴衆が集まることを心から願っております。5日からは娘が通う小学校の新学期が始まります。そして、すでにベルリンでは、芸術週間の演奏会や催しが始まっています。まもなく各劇場の新シーズンも本格的に始動します。研究に、仕事に、そして劇場や演奏会場に通うのに忙しい日々が始まりそうです。季節の変わり目に差しかかりますので、みなさまもお身体大事にお過ごしください。