早春の仕事など

IMG_0080柔らかな陽射しを楽しむかのような鳥たちの声が聞こえる日が多くなり、ようやく春の訪れを実感できるようになってきました。近所の公園の桜の古木にも、花をのぞかせ始めたつぼみがちらほらと見られます。最近目にしたヘルダーリンのフランクフルト時代の断片は、このような一見穏やかな春の萌しのうちに、老いとそこにある硬直に立ち向かう若々しさそのものを、それを貫く生命の迸る動きを鋭敏に感じ取っていました。できればいかに忙しいなかでも、そのような生命の力を内に感じていたいものです。早いもので、広島に戻ってすでに一か月半が過ぎましたが、その間二週間の集中講義を含めて非常に慌ただしく過ごしておりました。その間の活動を、ここでご報告しておきたいと思います。

まず、3月4日には、駿河台のESPACE BIBLIOにて細川俊夫著『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(柿木伸之訳、アルテスパブリッシング、2016年)の刊行を記念して開催されたトーク・ショー「細川俊夫の創作の背景にせまる──尹伊桑、武満徹、そしてオペラへの道」の聞き手役を務めました。このトーク・ショーでは、著者の細川俊夫さんをお迎えして、本書において初めて語り下ろされたこの世界的な作曲家の創作の軌跡の背景にあるものなどを、2012年にドイツで本書の原書が刊行されて以後の作曲活動を含めて詳しくお話しいただきました。また、特別ゲストとしてリコーダー奏者の鈴木俊哉さんをお迎えして、細川さんの創作活動の里程標をなす作品を演奏していただきました。51fwl3vou1l

幸い、トーク・ショーには会場が満員になるほどのお客様にお越しいただき、心から感謝しております。鈴木さんの素晴らしい演奏と貴重なオペラ上演の映像を交えての細川さんのお話には、尹伊桑や武満徹との関わりについて初めて聞く話がいくつもありましたし、細川さんの音楽そのものについて改めて深く考えさせられる言葉や、現代日本の状況に対する重要な問題提起もありました。このような充実した場をご用意くださったエスパス・ビブリオのみなさま、アルテスパブリッシングの木村さんに、心から感謝申し上げます。

また、3月11日には、成蹊大学アジア太平洋研究センターの主催で開催されるシンポジウム「カタストロフィと詩──吉増剛造の『仕事』から出発して」にお招きいただき、パネリストの一人として「言葉を枯らしてうたえ──吉増剛造の詩作から〈うた〉を問う」という発表をさせていただきました。ヴォイス・レコーダーを構え、じっとこちらを見つめる吉増剛造さんを前に、またかねがね尊敬している錚々たる方々のあいだで少し緊張しましたが、何とか役目を果たすことができました。最近のものを含めた吉増さんの詩作を読み解きながら、また奇しくもまったく同じテーマ(「カタストロフィと〈詩〉」)で行なわれた三年前の原爆文学研究会のワークショップで原民喜やパウル・ツェランの詩についてお話ししたことを少し振り返りながら、今〈うたう〉可能性を詩のうちに探る内容のお話をさせていただきました。

17218299_1434549826597385_7177254774096220764_oまさに東日本大震災が起きた日に開催されたこのシンポジウムは、これまで参加させていただいたシンポジウムのなかで、最も密度の濃いものの一つでした。吉増さんの詩作の初期から『怪物君』(みすず書房、2016年)にまで貫かれているものを文脈を広げながら掘り下げ、詩とは何か、詩を書くとはどういうことかを突き詰めていく思考が、4時間以上にわたって積み重ねられました。そのような議論が最後に『怪物君』とは何かという点に収斂したのは、この日のシンポジウムに相応しかったと思われます。吉祥寺という場所で胸騒ぎを覚えながら引用した原民喜の「鎮魂歌」の一節に「僕は結びつく」という言葉がありますが、自分のなかでいくつものモティーフが結びつき、たくさんの宿題を持ち帰ることができました。それに吉増さんを介して、素晴らしい方々とも出会うこともできました。このような場を作ってくださった、李静和さんと成蹊大学アジア太平洋研究センターのみなさんに、あらためて心から感謝申し上げます。

それから、図書新聞の第3297号(3月25日発売)に、竹峰義和さんの近著『〈救済〉のメーディウム──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会、2016年)の書評を書かせていただきました。「媒体の美学の可能性──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲの不実な遺産相続の系譜から浮かび上がるもの」と題する拙稿では、時に「剽窃」と非難されることもあるアドルノによるベンヤミンの思想の継承に内在する、破壊的ですらある読み替えが思想の内実を批評的に生かしていることや、師にあたるアドルノが映画や放送メディアのうちに見ようとした可能性を、師とは異なった方向性において開拓するクルーゲの仕事に光を当てる本書の議論が、「フランクフルト学派」のもう一つの系譜とともに、知覚経験を解放する「救済の媒体(メーディウム)」の美学の可能性を示している点に触れました。この原稿が、ベルリン滞在中に公刊を予定して書いた最後の原稿ということになります。

この間、いくつか印象深い演奏会や展覧会に接して、自分の仕事の出発点を顧みる機会を得られたのは幸いでした。まず、3月3日に六本木のギャラリーOta Fine Arts, Tokyoにて、「ニルヴァーナからカタストロフィーへ──松澤宥と虚空間のコミューン」を見ました。嶋田美子さんの素晴らしいキュレーションによって精選された貴重なドキュメントの数々は、松澤宥という、その緻密な思考にもとづくアートによって、アートを突き抜けたアーティストの行為の軌跡と、それを結節点として世界中のアーティストが結びついていくさまを実に生き生きと伝えるものでした。松澤が一つのマンダラの形で構想していた、物質の滅却、人類の滅亡、さらにはその先にある虚無へ向けた思考の布置を構成していくアートを今どのように捉えるか、という点は、膨大な資料の解読にもとづくこれからの研究によって掘り下げられなければならないと思います。

とはいえ、松澤が拠点を置いた諏訪と広島、長崎を結びつけたこともある彼の仕事が、そこに生まれる呼応関係によって、危機的な現在を照らし出すものだということは、展示からひしひしと伝わってきました。そのことは同時に、とくに日本列島に生きる者たちが外的にも内的にも取り返しのつかないカタストロフィに足を踏み入れつつあることを問いただしているようにも感じられます。諏訪の松澤宥プサイの部屋を訪れて、彼を結節点とするアートの強度とアクチュアリティを、資料から計測する研究者が出て来ることを願ってやみません。松澤の空への呼びかけに応じて集まったアーティストたちによる、手書きによって構成された葉書や書簡、そして電報(テレグラムとしてさらに考えてみたいところです)の数々も、新たなポエジーの胎動を感じさせるものでした。

17350038_1444674655584902_3959852989274643360_o3月12日には、横浜のみなとみらいホールで横浜芸術アクション事業Just Composed 2017 in Yokohamaの「能・謡×弦楽四重奏」の演奏会を聴きました。馬場法子さんの《ハゴロモ・スイーツ》の世界初演を聴いて、出かけた甲斐があったと思いました。青木涼子さんの声と謡を見事に生かしながら、能の「羽衣」のエッセンスをなす要素を新鮮に、潮風と気配を感じさせる風景のなかに響かせていたのが印象に残ります。楽器の生かし方も、モノ・オペラとしての空間の演出も、実に巧みだったと思います。終演後に馬場さんからお話をうかがって、これらが謡の綿密な研究の成果であることも分かりました。ステファノ・ジェルヴァッゾーニの《夜の響き、山の中より》も、西行法師の歌の配列のなかに声を多彩に生かしながら一つのモノ・ドラマを現出させる作品として興味深く聴きました。能の謡とミニマムな器楽アンサンブルのコラボレーションに可能性を感じさせる演奏会でした。

3月16日には、京都のVoice Gallery pfs/wにて呉夏枝さんの個展「仮想の島── grandmother island 第1章」を見ました。亜麻を素材にグァテマラやインドネシアの織物の技法を参照しながら丹念に織られた地図、ないしは海図としての織物は、けっして平面で完結することなく、中空で螺旋をなしながら、あるいは地下茎を伸ばしながら、別の時空へ連なっていきます。その様子は、人が記憶の越境的な連なりを生きていることと同時に、いくつもの記憶が海を越えて遭遇する可能性をも暗示しているように見えます。海の上に火山島を思わせる島が浮かび上がる風景は、いくつもの記憶が折り重なり、さらには生の記憶が歴史と痛みとともに交錯することによって織りなされているのではないでしょうか。

目を変えながら織られた織物の上に黒のなかのさまざまな色が滲み出る──それが、島の像の存在感と遠さを一つながらに醸し出していました──ところには、テクスト、あるいはテクスチュアからこぼれ落ちるものが染み出ているようにも見えました。作品のテーマとなっている地図ないし海図とは、このような過程に人を引き込む一つの閾としての空間に身を置く一人ひとりの記憶のなかに織られていくものと思われます。そのことは、吉増剛造さんとパウル・ツェランが詩作を、織ったり、編んだりすることに喩えていたことにも呼応することでしょう。風を感じさせる空間が形づくられていたことも印象的でした。もしかするとそのことは、作家の創作の新たな段階を暗示するものかもしれません。

それにしても、この一月半のあいだ、ベルリン滞在の準備に追われていた一年前に比べてさらに社会が息苦しくなっていることを、さらにその息苦しさが、思想とその表現の自由が最後まで守り抜かれるべき場さえも覆おうとしていることを、実感せざるをえませんでした。もし、幾重もの不正と汚職をめぐる狂騒に紛れて共謀罪──「テロ等準備罪」なるものは、共謀罪以外の何ものでもありません──が法的に作られるなら、思想信条の自由が、それを表現する権利が実質的に奪われるのではと危惧しています。それによって、精神は萎縮し、上目遣いの自粛が蔓延し、いかがわしい「公益」なるものが幅を利かせる社会が出来上がるでしょう。そのような状況のなかで、人が息苦しさと無力さに押し潰されてしまう前に何ができるかを、新たな年度が始まる4月へ向けて、自分の置かれた場所で考えてみたいと思います。

 

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