ハインツ・ホリガーの《スカルダネッリ・ツィクルス》の日本初演に接して

コンポージアム2017フライヤー作曲家ハインツ・ホリガーの音楽の集大成の一つ《スカルダネッリ・ツィクルス Scardanelli-Zyklus》の日本初演が、東京オペラシティのコンポージアム2017「ハインツ・ホリガーを迎えて」の一環として行なわれた(2017年5月25日/東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル)のを聴くことができた。1975年から1991年かけて書き継いで成ったこの《ツィクルス》は、最晩年のヘルダーリンが架空の日付と「敬白、スカルダネッリ」という署名を付して四季に寄せた詩にもとづく無伴奏混声合唱のための《四季》、小管弦楽のための《スカルダネッリのための練習曲集》、そしてフルート独奏のための《テイル (t)air(e)》にもとづいている。そのなかの《四季》と《練習曲集》において特徴的なのは、季節ごとの自然の風景をその本質において凝結させたかのようなヘルダーリンの詩の世界を、微分音や呼吸の特殊技法、さらには楽器の特殊奏法を含めた現代音楽のさまざまな語法を駆使して、恐ろしいほど透明度の高い、時にほとんど重さを感じさせない音響に昇華させるとともに、およそ700年にわたる音楽史を見据えながら、詩の世界をその陰翳に至るまで掘り下げるのに、古い音楽の語法をも用いていることであろう。幸運なことに、演奏会の翌日に東京藝術大学音楽学部で行なわれたホリガーのレクチャーを聴講できたが、それによると、彼はこの《ツィクルス》を構成するにあたり、同じ曲を声楽でも器楽でも演奏していた17世紀のハインリヒ・シュッツの時代の伝統を参照すると同時に、14世紀の最古のカノンも意識していた。

たしかに《スカルダネッリ・ツィクルス》の実演を聴くと、とくにカノンの技法がそれぞれの曲のなかに実に多彩に変形されながら、非常に効果的に用いられていることが伝わってくる。それによって、ホリガーが俳句に喩えるヘルダーリン最晩年の詩の静かに凝結した世界がひたひたと迫ってくると同時に、時にどこか雅楽を思わせるように響きが柔らかに折り重なっていく。それによって織りなされた重力から解放されたかのような響きがふと歪む瞬間は、詩人の精神の深淵を垣間見せる。また、無伴奏合唱のための《夏》においては、それぞれの歌手の脈拍にしたがって詩句を語る一種のカノンが、詩(うた)そのものが崩壊して消え去っていく過程を突きつけるものと言えよう。そこに突如として介入する男性の「パラクシュ」──精神を病んで塔の一室に籠もったヘルダーリンは、返事に窮するとこう叫んだという──の語は、詩人が魂の危機にあっても、詩に結晶する自由を求め続けていたことを表わしているようにも思える。これを含めた表現の凝縮された強さが、今回の実演に接してとくに印象的だった。その強さは、音響と沈黙の双方から感じ取られた。それが顕著に現われていたのが、第一部に置かれたフルートと小管弦楽のための《断片》と、第三部の頂点とも言うべきフルート独奏のための《テイル》であろう。ホリガーが語っていたところによると、彼はとくに器楽作品において、テュービンゲンの塔に籠もる前の、ホンブルク時代のヘルダーリンの抵抗を響かせようと試みた。これらの曲において、自己の世界が崩れていくのを押しとどめようとする息遣いが、恐ろしいまでの沈黙を交えた、聴く者の肺腑を抉るような音の連なりとして表現されていることは、この曲が捧げられたオーレル・ニコレに学んだフェリックス・レングリの演奏によって、非常に説得的に伝わってきた。とくに《テイル》の演奏は、今回の《ツィクルス》の日本初演における白眉だった。

ラトヴィア放送合唱団の歌唱の素晴らしさも特筆に値しよう。きわめて微細な音高のコントロールを保ちながら、ありとあらゆる呼吸法が要求されるなかで、響きの基本的な透明性を保ちつつ、言葉を響かせ、狂気を暗示する強い表現を成し遂げていたのには瞠目させられた。たゆたうような響きのなかで、「人間性 Menschheit」のような語が突如として混濁したりする瞬間には、自分自身の内にもある精神の闇を突きつけられる思いだった。バルコニー席の一角なども使って、オペラシティのホールの高い空間を存分に生かし、そこに響きの層を漂わせたのは、無伴奏合唱のための《四季》のテクスチュアを生かす最善の方法だったと思われる。正確でかつ表現の振幅の大きな演奏を聴かせたアンサンブル・ノマドの力演にも感銘を受けた。なかでも、モーツァルトの《フリーメイソンのための葬送音楽》の和音をさまざまに変調させた第三部冒頭の《葬送のオスティナート》の演奏は見事だった。この曲やJ. S. バッハのコラール「来たれ、おお死よ、眠りの兄弟よ」にもとづく《氷の花》が暗示しているのは、もはや人間の見る働きを感じさせることのない静謐な風景を現出させるヘルダーリンの詩魂が、死に限りなく接近していることであろう。そのことは、バッハのコラールの旋律のネガティヴが詩人の言葉を寸断する《冬》においてさらに突き詰められることになろう。ツィクルスのちょうど中間に位置する《氷の花》と《冬》で、音楽そのものが死の側へ、さらには「石」──シラーに宛てた手紙でヘルダーリンは、自分は「石で出来ている」と語っている──の無機性の側へ折り返されるのかもしれない。

51DU-b6fRAL._SX425_ホリガーの作品のなかで合唱によって読み上げられる、ヘルダーリンが詩に「スカルダネッリ」の署名とともに記したほとんどが架空の日付の年は、1648年から1940年にわたっている。三十年戦争の終結の年から、第二次世界大戦の戦火が東へ広がり、ナチスによるユダヤ人などの虐殺が本格的に始まる時期が、この三百年弱のあいだに含まれることになるとホリガーは語っていた。例えば「ヒュペーリオンの運命の歌」が示すように、フランス革命の推移ともに激動する同時代の状況を見据えながら、死すべき人間の運命の過酷さを究めたヘルダーリンは、精神の薄明のなかで、この期間に起きる破局を見通していたのかもしれない。そのような眼と化すとともに、見る主体性を消し去り、死の間近に身を置く魂が「スカルダネッリ」の署名とともに季節に寄せた詩を書くところにある世界を、その崩壊もろとも厳密に構成した《ツィクルス》が、作曲家自身の指揮によって見事な完成度で響いたのに立ち会えたのは本当に幸運だった。その二時間半の恐ろしいまでの緊張は忘れがたい。

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