東京交響楽団第652回定期演奏会を聴いて

[2017年7月15日/ミューザ川崎シンフォニーホール]
650_652作曲家細川俊夫がみずからの創作活動の軌跡を、その音楽思想とともに語った対談書『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(柿木伸之訳、アルテスパブリッシング、2016年)には、2011年3月11日の東日本大震災によって甚大な被害を受け、痛ましい姿を晒すミューザ川崎シンフォニーホールの写真が収められている。その後復旧を遂げたこのホールで、細川が震災の犠牲者、とりわけ地震と津波によって子を失った母親たちに捧げた《嘆き》(2013年)とグスタフ・マーラーの交響曲第2番ハ短調「復活」(1894年)を、東京交響楽団の定期演奏会で聴くことができた。地震によって傷ついたその空間を、死者に思いを馳せ、その魂が地の底から、あるいは水底から甦る場を開く響きがを満たしたことには、特別な感慨を覚える。なお、細川の《嘆き》は、元はソプラノとオーケストラのために書かれているが、今回は独唱を務めたメゾ・ソプラノの藤村実穂子のために改稿された版で演奏された。

オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルが死の直前に友人に宛てて書いた手紙の一節と、「嘆き」と題された一篇の詩をテクストに書かれた《嘆き》は、深沈とした打ち込みから始まる。それは細川の言う「書」としての音楽の起筆の打ち込みであるが、同時に海鳴りを思わせながら、出来事の余震を伝えているようにも聴こえる。深淵を開くかのようなその響きは、もしかすると、災厄の死者の沈黙を突きつけているのかもしれない。それに慄くかのように音楽が動き始めると、やがてメゾ・ソプラノが不穏な気配を感じさせる響きに乗ってトラークルの手紙を読み始める。その語りは、友人への語りかけと言うよりも、巨大な破局によって心が引き裂かれてもなお生きることを願う祈りなのかもしれない。オーケストラの激しい総奏が突きつける世界の崩壊を目の当たりにしながら、「狂気に陥るなと言ってくれ」と語りかける言葉には、破局を潜り抜けて未来へ向かうことへの切なる願いが込められていよう。

しかし、その願いとは裏腹に、破局はけっして過ぎ去らない。それを体験した後に生きる者は、その記憶から逃れられないのだ。破局の記憶の回帰の予感を奏でる打楽器のリズムは、途方もない出来事が再びひたひたと迫ってくることを、風景のざわめきとともに伝えるものと言えようが、その響きは一方では、《嘆き》に先立って書かれた《星のない夜》(2010年)やオペラ《海、静かな海》の打楽器による間奏が破局の予兆を告げるのと重なる。しかし、《嘆き》における打楽器の音は他方で、破局に遭った人々の内側に、その衝撃の余波が迫ってくることを伝えているようにも思われる。風の音を含んだその高まりが、《星のない夜》の「天使の歌」──そこに聴かれるのは、繰り返される人間の過ちに怒る天使の歌である──の楽章を思わせる猛々しい響きを導くと、トラークルが書いた「嘆き」の詩が歌われ始める。

そのような一節の激しい響きは、時間の水平的な流れに逆らう強さを示すと同時に、出来事の衝撃が寄せては還す、巨大なうねりのような動きも感じさせる。その動きはさらに、無数の渦によって形づくられているようでもある。こうした、破局の生き残りのうちにその記憶が否応なく湧き上がってくるのを暗示する激烈な音響が一瞬断ち切られると、「嘆き」が空間を切り裂くように歌い出される。藤村美穂子の声は、まさに時間を静止させる強度をもってまさに屹立していた。彼女の声の澄んだ強さは、一つひとつの語を際立たせながら、破局の回帰によって引き裂かれる魂の訴えを、オーケストラの響きを突き抜けるかたちで聞き手に届けるものと言えよう。冒頭の語りの部分を含めて貫かれた細やかな表現は、作品への温かい共感を示すものでもあった。「深紅の肉体は砕け散り」という詩句が、凄まじい強さを孕んだ響きで歌い切られるとともに開かれた深い沈黙は忘れがたい。

この沈黙のなかから弦楽器による柔らかな哀悼の歌が響き始めると、音楽も全体として静寂へ回帰していく。《嘆き》という作品において特徴的なのは、それとともに歌が再び語りの様相を帯びることである。《嘆き》の歌唱のパートの結構は、一見するとレチタティーヴォとアリアの組み合わせを思わせるが、それは例えば旧来のコンサート・アリアのように、語りを歌に昇華させるものではない。むしろ歌は訥々とした語りになって、静かな響きのなかへ消え入っていく。破局の衝撃と喪失の悲しみのただなかに再び身を置き、その記憶と一つになることによって心身が砕け散った後に初めて、救済がありうることを暗示するかのように。このような《嘆き》における歌の姿は、途方もない破局を人間が歴史的に経験した後に、歌うことがどのように可能かを問うものかもしれない。

このように、傷ついた魂にみずからを捧げるかたちで、巨大な震災を経た後の歌と詩(うた)双方の可能性を、それらの強度を追求するかたちで問う細川の《嘆き》を、藤村美穂子の独唱で聴けたのは幸運だった。ジョナサン・ノットの指揮も、作品の構成を完全に手中に収めていた。もっと密やかなピアニッシモの響きを求めたい箇所があったものの、東京交響楽団は、全力でノットの指揮に応えて見事な演奏を聴かせていた。このような共感に満ちた《嘆き》の演奏によって、後半に取り上げられたマーラーの「復活」交響曲における死者の魂の救済への祈りが深まったにちがいない。この壮大な交響曲の演奏も総体として、作品の全貌を明確に浮き彫りにする素晴らしいものだった。とりわけ解釈の点で、細部の彫琢と全体の構成を音楽的に結びつけた演奏は、実演では聴いたことがない。

ノットはこの交響曲を暗譜で指揮していたが、そのことは、彼が楽譜──今回は新全集版が用いられた──のみならず、それに込められた音楽そのものダイナミズムをもわがものにしていることを示していることが、演奏から伝わってきた。ノットの解釈は、全体に速めのテンポを基調としながら、きびきびと音楽を運ぶ箇所と、思いを込めて歌う箇所の対照を明確にし、さらに透明度の高い響きで作品の構成を浮かび上がらせるものだった。そのために例えば、細かい音の処理が工夫されていたのは特筆されるべきだろう。三連符や付点音符のリズムにおいて、後の音を軽くすることを徹底させることで、音響の透明性と音楽の運動性の双方を高めていたのは、実に印象的だった。第一楽章の第二主題の柔らかな歌が、たゆたうような響きのなかから聞こえてきた瞬間の美しさも忘れがたい。その主題が再現されたときのヴァイオリンのポルタメントも自然で、歌の美しさを引き立たせていた。木管楽器の一部に、もう少し闊達なフレージングを求めたい箇所もあったが、第二、第三楽章の歌謡的な部分も実に魅力的だった。

ノットの解釈でもう一つ印象に残ったのは、音楽の停滞することのない運びを重視する一方で、一瞬差し挟まれるパウゼを、音のエネルギーを瞬間的に溜めて、その強度を開放するのに見事に生かしていたことである。激烈な音響の奔流が一瞬塞き止められる第一楽章の展開部は、それを示す一例と言えよう。とくに弦楽器の総奏において、音響の塊としての強さがもう少しあれば、と思う箇所もあったが、東京交響楽団の演奏は、ノットの首尾一貫した解釈に見事に応えて、マーラーが壮大な音響の強度を、バランスのよい響きと自然な音楽の運びのなかで伝えていた。それによってフォルテないしフォルティッシモの続く箇所も、くどく聴こえなかった点は、とくに好ましく思われた。今回の「復活」交響曲の演奏は、ノットが音楽監督を務めるなかで、オーケストラがアンサンブルを高めてきた成果を示すものでもあったと言えよう。

最終楽章で、ミューザ川崎のホールの構造を生かすかたちで、バンダの音がさまざな場所から聴こえてきたのも、「少年の不思議な角笛」の詩を第四楽章「おおもとの光」──この楽章での藤村美穂子の歌唱も、一語一語のニュアンスを生かした見事なものだった──の歌詞に用い、自然と人間の照応をも意識する「復活」交響曲に相応しいと思われた。そして、暗譜で演奏に臨んだ東響コーラスの入魂の合唱は、死者の魂の再生への願いを力強く歌い上げるものだった。その歌は、六年前の大震災の後も打ち続く災厄の犠牲となった死者たちに思いを馳せながら、細川の作品に聴かれた「嘆き」を強い祈りの歌のうちに掬い取っていたのかもしれない。死者の魂の再生と、その先にある魂そのものの救済への切なる祈りが、音楽の強度のうちに込められた細川の《嘆き》とマーラーの「復活」交響曲を、一度は震災のために傷ついたミューザ川崎の空間に見事に響かせた今回の東京交響楽団の定期演奏会は、忘却の進行する現在に抗いながら、今ここに生きる者が立ち返るべき想起の場を指し示すものだったと思われる。

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