晩秋の仕事と二つのオペラ公演

23131876_1677489805636718_3631688594356689424_n早いもので11月が終わろうとしています。今年は、紅葉をゆっくり味わう間もなく冬になってしまったような季節の移り行きで、余計に時の流れの速さを感じます。実際、大学の仕事と研究関係の原稿執筆などで、息つく暇もないくらいでした。とはいえ、今月初旬には、広島の北にある三段峡を訪れることができました。紅葉はまだまだでしたが、峡谷の遊歩道が多くの人出でごった返す前に来られたのは、かえってよかったのかもしれません。クヌギなどの葉を落とす風の音や多彩な流水の音、そして鳥の声に耳を澄ましながら歩くのは気持ちがよいものです。

現在もいくつかの原稿を並行して準備している最中ですが、そのような綱渡りのような生活は、少なくとも年末まで続きそうです。初夏の頃からずっと執筆に追われている感じですが、そのようななか、10月と11月のそれぞれ下旬に、素晴らしいオペラの公演に接することができたのは幸運でした。まず挙げなければならないのが、11月23日に大津のびわ湖ホールで開催されたオリヴィエ・メシアンのオペラ《アッシジの聖フランチェスコ》の演奏会形式での上演です。スコアを完全に手中に収めたシルヴァン・カンブルランの指揮とそれに見事に応えた演奏でこの神秘劇の全曲を聴けたことは、とても貴重な体験となりました。正味四時間半に及ぶ全曲を聴き終えて、圧倒された、というのではなく、何か温かいものに満たされた、という感触を持ちました。このプロジェクトを実現させ、この精妙にして巨大な作品の全貌を聴衆に届けてくれた演奏者と関係者のみなさまに心から感謝しています。

23167768_1677494542302911_2385720205421113172_nこの作品の実演に接するのはまったく初めてなので、とても立ち入ったことは言えないのですが、最も内容豊かで、かつメシアンの持ち味が発揮されているのは、ジオットのフレスコ画の画題にもなっている「鳥たちへの説教」の情景(第6景)だったように思われます。この情景の音楽を聴いていると、メシアンが数十種類も聴き分けて、細やかにみずからの音楽に生かしていた鳥たちの声の一つひとつが、実に力強い生命力を放っていることが伝わってきます。それを受け止めながら語りかけるフランチェスコの声が、神秘の徴を呼び起こすところには、地上の生命を深く肯定するところに聖性との接点を見届けようとするメシアンの神学が表われているのかもしれません。

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この第6景に至る長い第2幕の音楽を聴きながら、フランチェスコが創始した修道会に属した中世の神学者ボナヴェントゥラの著書『魂の神への道程』のことを思い出しながらも、道行きの具体的な方向にはそれと反対のものを感じていました。メシアンは、どこまでも被造物の生命の営みを、第一幕に登場した男の皮膚病のような病も含めて引き受けていくことによって、汎神論すれすれのところで創造の痕跡を捉える方向性を示していますが、それが三台のオンド・マルトノの使い方に象徴的に表われている気がします。この楽器が繊細に奏で、やがて合唱とも重なっていく「天使のヴィオール」の主題は、もちろん神秘的で印象に残ったのですが、それ以上に三方向から絶えず降り注ぐようにオンド・マルトノの音が響いてくる(この点でびわ湖ホールでの楽器の配置は功を奏していたと思います)のが印象的で、音響に垂直的な、どこか天井画を持ったバロックの聖堂の建築のような広がりをもたらしていたと感じます。

とはいえ、《アッシジの聖フランチェスコ》の音楽の頂点は、フランチェスコが聖痕を受けるに至る第7景にあったように思います。びわ湖ホール声楽アンサンブルと新国立劇場合唱団の混成による合唱の力演もあって、トーン・クラスターを駆使した音響が凄まじい緊張感を醸していました。それまで具体的な被造物との関わりのなかで探究されていた、イエスの受難とは何かという問いが、フランチェスコのなかで突き詰められるこの情景があってこそ、このオペラは魂のドラマにおける焦点を持ちうるのではないでしょうか。そのなかで聖書の言葉が、シェーンベルクとはまったく異なった響きの下で、意味を越えた力として響くのも興味深く思われました。ここでの歌唱を含め、フランチェスコの役を歌ったヴァンサン・ル・テクシエの歌唱は、役柄に相応しい劇性と気品を兼ね備えていました。今回の上演では、読売日本交響楽団の演奏にも感嘆させられました。オーケストラが一つになって複雑なリズムを生き生きと刻みながら、艶やかな歌を響かせるアンサンブルの緊密さは、上演の成功に大きく貢献していたと思います。

22815609_1671956036190095_1275962100839757002_n10月28日に兵庫県立芸術文化センターで、関西二期会の第88回オペラ公演として行なわれたヴェーバーの《魔弾の射手》の公演を見られたのも貴重な経験となりました。ベルリン滞在中に知り合った気鋭の演出家菅尾友さんの演出は、このオペラのスコアとリブレットの双方を読み抜いて、そこに現代に生きる者に語りかける内実が含まれていることを説得的に示していたと思います。説明過剰になることなく物語の背景や登場人物の立場を示す方法も巧みでしたし、主人公の心の動きと音楽の変化が、人物の動きや装置の変容と緊密に結びついた舞台の進行が最後まで貫かれている点には、心からの感動を覚えました。

なかでも印象的だったのは、群衆を含めた他の人物像との対照のなかに浮かび上がるマックスとアガーテの姿でした。両者とも、ジェンダー・バイアスも同調圧力も強い慣習的な共同体のなかで、どうしても要領よく立ち回れない繊細な若者として浮き彫りにされていたと思います。そしてその繊細さが、アガーテにおいては無意識の領域にまで浸透する恋人への思いの深さとして、マックスにおいては悪魔の自在弾に手を染める弱さとして表われることが、優れて音楽的に表現されていたのも印象的でした。それから、現代の若い人々の共同体にも見られる、マチスモに集団で寄りかかった暴力性が、第一幕と第三幕の合唱で明瞭に描がれるとき、この国の人々が今まさに置かれている関係が照らし出されると同時に、《魔弾の射手》を「ドイツ」のオペラとして称揚するナショナリスティックな共同体意識も、痛烈に批判されていたように感じます。狩人の共同体に「魔弾」をもたらした悪魔ザミュエルの部屋が、サブ・カルチャーの凝縮された錬金術の工房のように描かれていたことも、現代の若い人々の共同体における想像力を凝縮しているようで興味深かったですし、第二幕における肖像画の巧みな使い方も光りました。

全体として、呪術性と合理性のあいだで揺れ、けっして善悪で割り切ることのできない人間性を、観客の一人ひとりに内在するものとして見事に浮き彫りにした《魔弾の射手》の舞台でした。もちろん、音楽も聴き応えがありました。とくにアガーテ役を歌った木澤佐江子が、傷つきやすい心を伸びのある声で歌いきって、存在感を示していたのが心に残ります。エンヒェンの役を歌った熊谷綾乃も、アガーテと好対照を示しながら、好奇心旺盛であると同時に心配りの利く女性の姿をしっかりと印象づけていました。ピットに入ったキンボー・イシイの指揮による関西フィルハーモニー管弦楽団の演奏も、若々しい躍動感に満ちていて、今回の舞台に相応しかったと思います。とくに随所に聴かれるオーボエの独奏と、エンヒェンのアリアにおけるヴィオラの独奏は印象的でした。合唱も、全体で40名足らずながらも、聴きどころの合唱でとても力強いハーモニーを聴かせていました。これだけ凝縮度と説得力のあるヴェーバーの代表作の公演を観られたことは幸せでした。

324513この間に公になった仕事に一つ触れておきますと、11月25日に発売された『メルロ゠ポンティ哲学者事典』別巻(白水社)の大項目として、ヴァルター・ベンヤミンの生涯と思想をコンパクトに紹介する文章を寄稿させていただきました。このような機会を与えてくださった編者のみなさまに、心より感謝申し上げます。拙稿では、1917年の「来たるべき哲学のプログラムについて」における経験への問いを出発点としつつ、言語哲学、美学、そして歴史哲学から「哲学者」としてのベンヤミン像に迫ろうと試みました。彼が「哲学者」というのは、もしかすると日本では一般的とは言えない見方かもしれませんが、ドイツ語圏をはじめヨーロッパでは「哲学者」としても認知されています(もちろん、哲学畑で研究する人は少ないですが……)し、彼が葬られたポルボウの墓地には、「ヴァルター・ベンヤミン/ドイツの哲学者」という銘が残っています。ともあれ、ご興味のある方に他の項目と併せてご一読いただければ幸いです。私としても、ここに示したベンヤミン像を足がかりとしながら、さらに研究を深め、彼の思考から今に生きることを照らし出す洞察を引き出したいと考えております。

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