広島市現代美術館の「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」展を観て

majiwaruito_flyer_j-284x400室内にいるのに、どこまでも広がっていく風景と、そのなかを漂う風が感じられる。風景を描くものを含めた作品を造形することが、しばしば空所を埋め、空気の通う場を塞ぐことに行き着くのに対し、広島市現代美術館で開催されている(2017年12月22日から2018年3月4日まで)「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」展の空間には、すみずみまで風が通っている。作品の外へ、さらには展示空間の外部へ訪れる者を誘うその風は、作品の造形そのものが呼び寄せている。繊維を素材とした作品が集められたこの特別展を見てまず強く感じたのは、糸で織ることが、空気の通う回路を、すなわち「あいだ」を開く行為であるということである。

最初の展示室に漂っている上原美智子の「あげずば織」の織物は、きわめて細いと同時に、どこか生きものやその土壌との繋がりを思わせる糸を用いて織られているが、そのテクスチュアはきわめて繊細であると同時に、微かな遊びを醸し出している。その確かでありながら柔らかな存在感が、風を呼び込んでいた。織物の傍らに蚕から吐き出された糸が置かれているのも、どこか風が通うなかに生きものたちが息づく風景を感じさせる。上原の作品とともに、外へ広がる風景を想像させる作品としてまず挙げられるべきは、呉夏枝が亜麻で織った“Floating forest”であろう。

今年の早春に京都で見たこの作家の《仮想の島》(付記参照)が、水中に根を張りながら、島々を繋ぐように造形されていたのに対し、今回の「交わるいと」展の地上と地下の「あいだ」の円筒状の吹き抜けの空間に吊られた「浮遊する森」は、中空で風を通い合わせながら応え合う島々とその森林の奥行きある空間を感じさせる。亜麻で織られた一枚一枚の織物は、波打ち際とそこに広がる岩礁とともに、そこから森が続いていくことを想像させるが、そのような織物が不規則に吊られている空間は、一つの多島海のようでもある。空間に風を孕んで浮遊する織物は、海に浮かぶ島々への、その森に息づく、あるいは眠るものたちへの入り口を開くとともに、別の島へも通じていよう。

「浮遊する森」を紡ぎ出す亜麻の織物において、もう一つ注目されるべきは、その重層的な陰翳を醸す色彩である。この色彩が、織物のなかに深い奥行きとともに、風景を形づくるものたちの存在感をもたらしているわけだが、それは糸を抜くことによって浮かび上がってくるのだという。織ることは同時にほぐすことでもあり、その行為が風景を開いている。その空間は他所へ通じる「閾(しきい)」と言えるかもしれない。その閾の空間において、想像力は島々へ、この多島海の向こうの島々へ、さらにはこれらを深層で結ぶ記憶へと誘われる。

地に足を着けた手仕事としての織りが、別の場所への閾としての「あいだ」を開きうることは、福本潮子の《対馬IX/X》からも見て取ることができよう。印象的な藍の開口部を示すこの織物は、その素材となる糸のみならず、染織の技術なども、島々を人々が行き交うなかから伝えられてきたことを思い起こさせる。また、胡桃の繊維からあたかも生成するように編まれた籠は、内部空間の多次元性を示しながら、別の空間への閾を無数に開いていた。そのような多孔的な籠が、北村武資の化学繊維でありながら繊細に空気を通わせる織物とともに置かれることで、柔らかな運動性も示していたのが印象的だった。

染織が、繊維を布の平面へと織り込み、色を染め込んでいくことであるだけでなく、糸をほぐし、色を抜いていくことでもあることは、今回の展覧会から教えられたことの一つであるが、このことが独特の力強い造形に結びついている作品として、加賀城健の《Manipulation──モツレル、ウンガ、ナガレノ》を挙げることができよう。色を抜き、素材のなかに入り込むように指で描くことによって生み出されたおびただしい管は、無数の管が入り組んだ都市の地下空間を感じさせながら、今も地の底から管が生成するかのようにこちらに迫ってくる。そのモノクロームの色合いが、視角によって変わってくるのも面白い。

あるいは、ほぐすことを徹底させることも、想像力を喚起する造形に結びつきうる。このことを説得的に示していたのが、平野薫の《初着》であろう。初めてのお宮参りの着物をほぐし尽くすことによって作られたこの作品は、その独特の纏わりつくような存在感によって、幼年期から衣類に染みついてきた記憶を辿ることへ誘うが、そのなかでとくに印象的だったのは、がま口のハンドバックがほぐされた姿だった。それは、身体のうちに今も蠢くものへの開口部を示しているようにも見える。

「交わるいと」展の展示において興味深いのは、二人ないし二組の制作者が対をなすかたちで作品が配されていることである。なかでも、きわめて繊細であると同時に、温かさと風を通す柔らかさを感じさせる高木秋子の着物と、知的障害者支援施設しょうぶ園の利用者たちによる、おのずと生えてくるように生成し、既成の型をはみだしながらも、形や色へのしなやかな愛情を感じさせる刺繍作品とが、一つの空間に置かれることによって生じる「対の遊び」には、心温まる面白さがあった。

このように、制作者の対のうちに「あいだ」を開くことも含めて、今回の「交わるいと」展からは、幾重にも折り重なったあいだを感じ取ることができる。もとより、糸を紡ぎ、織ること自体も、さらには言葉を紡ぎ、そのテクスチュアを織りなすことも──間テクスト性の概念を持ち出すまでもなく──、回路ないし通い路としてのあいだを開くことであろう。織物を、テクストを生む者は、人と人の、物と物の、あるいは場所と場所のあいだから自己を生成させている。その出来事によって開かれたあいだに身を置き、現代の社会でともすれば凝り固まってしまう自分を内側からほぐし、あいだの風景とそこを吹き抜ける風に身を委ねる、その深い愉しみがこの「交わるいと」展にはある。

【付記】呉夏枝個展「仮想の島── grandmother island 第1章」(Voice Gallery pfs/w)を見て(2017年3月17日記)

亜麻を素材にグァテマラやインドネシアの織物の技法を参照しながら丹念に織られた地図、ないしは海図としての織物は、けっして平面で完結することなく、中空で螺旋をなしながら、あるいは地下茎を伸ばしながら、別の時空へ連なっていく。その様子は、人が記憶の越境的な連なりを生きていることと同時に、いくつもの記憶が海を越えて遭遇する可能性をも暗示しているように見える。海の上に火山島を思わせる島が浮かび上がる風景は、いくつもの記憶が折り重なり、さらには生の記憶が歴史と痛みとともに交錯することによって織りなされているのかもしれない。

目を変えながら織られた織物の上に黒のなかのさまざまな色が滲み出る──それが、島の像の存在感と遠さを一つながらに醸し出していた──ところには、テクスト、あるいはテクスチュアからこぼれ落ちるものが染み出ているようにも見えた。作品のテーマとなっている地図ないし海図とは、このような過程に人を引き込む一つの閾としての空間に身を置く一人ひとりの記憶のなかに織られていくのかもしれない。そのことは、吉増剛造とパウル・ツェランが詩作を、織ったり、編んだりすることに喩えていたことにも呼応するだろう。ギャラリーの内部に風を感じさせる空間が形づくられていたことも印象的だった。

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