原爆の図丸木美術館での「横湯久美展──時間 家の中で 家の外で」を観て

yokoyu_leafret01時間のなかに生きること、それは前世紀以来哲学が語ってきたように、一人の人間に有限性を刻印しながら、まさに死すべきであることにもとづいて、独特の生を歩むことを可能にする。その歩みはこの人の死後も、物語として紡がれていくだろう。ただし、その物語は歴史と関わりを持たざるをえない。とくに近代以降、人は「国民」のアイデンティティをも形づくるような「歴史」が物語られているなかに生まれ落ちるのだから。その神話は、人生の物語に浸潤していき、しばしばそれを呑み込んでしまう。この力を避けられないなかで、一人ひとりの生の歩みをどのように世界に刻むことができるのか。この問いに人は、自分のなかに抱えた一人の死者と向き合うなかでこそ取り組むことができるにちがいない。そして、そのことはとりもなおさず、一人の人間の「歴史」との対峙の回路を探ることでもある。

先日原爆の図丸木美術館で観た「横湯久美展──時間 家の中で 家の外で」は、一人の死者の生の痕跡を辿りながら「歴史」と対峙する可能性の探求が、写真を軸とする独特の表現に結晶しうることを示すものだったと言えよう。会場で作家から説明を受けながら作品を見ることができたのは、実に貴重だった。なかでも、第一次世界大戦が始まった年に生まれ、治安維持法による思想弾圧に曝されながら二十世紀を生きた作家の祖母の記憶を、その姿を写真に捉えながら、さらには死後も記憶の痕跡を追い求めながら細やかに制作された作品は、一人の死者とともに生きることを表現をつうじて深く掘り下げながら、観る者にその現場が「歴史」のただなかにあることも告げている。

yokoyu_leafret02なかでも「昭和」以来の時の積み重なりを感じさせる室内から、札幌の雪景色を眺める作家の祖母の姿を撮った一連の写真は、治安維持法下で、あるいは戦後も息を潜めていなければならなかった時の重みとともに、同時代の動きと向き合う意志の強さも感じさせる。「家の中」にいることの重みと、そこからの「家の外」への眼差しに含まれる時の重層性が、映像の求心力を高めているのではないだろうか。また、祖母の生涯の歩みを二十一世紀に至る世界の、そして日本の歴史のなかに差し挟みながら作られたクロノロジー“A Woman was Born into the World, 1914”は、「歴史を書くとは、年号にその相貌を与えることである」というベンヤミンの言葉を変奏させるなら、「歴史的」な出来事の起きた年月に一人の女性の表情を刻むものと言えるかもしれない。人は「歴史」に翻弄されるだけではない。翻弄されながらも、「歴史」の現場にみずからの生の隘路を思想をもって探ることができる。その試みを、あるいはその挫折を「歴史」に刻むならば、そこから「歴史」そのものが異なった相貌において見つめ直されうることを、このクロノロジーは一つの像として示している。

表情を刻むと言えば、苺の果実を使って布に沈着させた、亡くなった祖母の顔が、クッションとともに撮られた写真は、それ自体としてまず、中世以来宗教画のトポスをなしてきたヴェロニカの布に浮かび上がったイエスの顔貌を連想させながら、室内にその魂が出現する一つの出来事を感じさせる。その写真を、傍らに掲げられた作家が小学生の頃に描いた祖母の顔のスケッチと、それがスケッチ帳の次のページに写っているのが撮られた写真とともに見ると、全体として一つの三幅対をなしているようでもある。先のクロノロジーも、歴史叙述の古い形式であることを考え合わせるなら、高度な写真技術による制作のなかに、古いアートの記憶が期せずして入り込んでいるのかもしれない。優れて現代的な表現技法が駆使されることによって、像の出現そのものが、絵画表現の起源にあるものへ立ち返るのも、今回の展示で興味深く思われたことの一つである。

作家の祖母が生まれれたのは、第一次世界大戦開戦の年であった。このことを契機として作家は、この最初の世界大戦の記録や戦跡、さらにそこに設けられた墓地を、写真によって辿っている。その歩みもまた、一人の死者からもう一人の死者への回路を開きつつ、その生を記憶し、「歴史」に刻んでいくものと言えよう。開戦のまさに引き鉄となったピストルがホチキスとさほど変わらない大きさだったことへの驚きから出発して制作された、とくにソンムなどの戦跡の墓地を写真に撮り、さらに墓石の配置をホチキスで刻んでいく作品は、作家がイギリス留学時代に取り組んでいたランド・アートの残響を感じさせるとともに、撃つという行為──ホチキスの発明者は、「ホチキス式」機関銃の開発者でもあった──を、戦死した一人ひとりの個としての存在を刻むものに反転させる手仕事を示していよう。さらにこのことは、英語では撃つことである、映像を撮る行為の意味を変えうるのではないだろうか。今やそれは「歴史」を撃ち抜いて、そのただなかに生の記憶を刻印するのだ。

今回の丸木美術館での横湯久美展「時間 家の中で 家の外で」において際立っていたのは、映像を定着させ、現出させる行為が、優れて身体的な記憶する手仕事として示されていることだろう。苺の果実で亡くなった祖母の顔を布に定着させることも、優れて身体的行為であり、またそれは死者との交感の回路を探る、呪術的でさえある行為と言えるかもしれない。そして、そのような行為において、現代の表現と、死者の哀悼とともにあった最初の芸術が交差するのだ。こうした特徴を含めて作家の制作は、身体的に一人ひとりの死者に近づいて、それをつうじて歴史に内側から楔を打ち込むような記憶の芸術を示しているように思われた。一人の死者との結びつきのなかで「歴史的」な出来事を見つめ返す一つの方向性が示すことによって、死者とともに「歴史」のなかに生きることを問うことへ誘う展覧会であった。

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