細川俊夫のオペラ《地震・夢》の世界初演に接して

2018-07-02 00-27地表の揺れは収まった。今や自然現象としての地震は、過ぎ去ったのかもしれない。しかし、大地の揺れとそれがもたらした空が閉じるほどの破壊の衝撃は、けっして過ぎ去ることはない。動揺のなかで心のなかに刻まれた地震の爪痕は、余震のようにその記憶を回帰させ続ける。いくつもの夢として。細川俊夫のオペラ《地震・夢》のドイツ語の原題„Erdbeben. Träume“は、このことを暗示しているのではないだろうか。その舞台では、地震とそれに続くおぞましい出来事のなかで孤児となった一人の少年が、余震としての夢を辿り、赤ん坊の頃に自分が、そして生みの親が何を体験したのかを目の当たりにする。この少年の名はフィリップ。ハインリヒ・フォン・クライストの小説「チリの地震」で、ジェロニモとジョセフェの禁断の愛によって生まれ、この両親が虐殺された後、息子を殺されたエルヴィーレとフェルナンドの夫妻の養子となった子どもである。

2018年7月1日にシュトゥットガルト州立歌劇場で世界初演を迎えた《地震・夢》のリブレットは、「チリの地震」を基に、現代ドイツを代表する作家マルセル・バイアーの手によって書かれた。バイアーのテクストは、クライストの小説の基本的な結構と筋を生かしながらも、その作品世界を詩的に、いくつもの夢の世界として展開させている。当然ながら、それによってテクストに加わる抒情性は、登場人物に歌う声を与えるのみならず、1647年にチリで起きた大地震の歴史的文脈を離れて、地震とそれに続く出来事を、身近で起きたこと、あるいは起きうることとして想像する余地をも開いている。そのような台本を響かせる細川の音楽は、それ自体として夢の世界の内奥へ観客を引き込む回路をなしていると言える。観客はフィリップとともに、いくつもの夢として回帰する地震とそれに続く出来事を潜り抜けるのだ。

全18景から成る《地震・夢》の最初の情景は、不穏な風の音が渦巻くなかに開かれる。2016年1月27日にハンブルクで初演された《海、静かな海》は、激しい打楽器の前奏から始まったが、《地震・夢》は、オラトリオ《星のない夜──四季へのレクイエム》(2010年)のように、死者の吐息のようでもある風音とともに始まるのだ。やがて地の底から衝撃を浸透させるかのような打撃音とともに鳴り始める管弦楽の響きは、大地の底知れぬ力のみならず、地震の後に起きる惨劇をも予感させる。その響きは、垂直的な深さと内的な密度の点で、これまでの細川の舞台作品で聴かれた管弦楽の響きのそれを凌駕するように思われる。そのような管弦楽の響きの強度が随所に生かされているのが、《地震・夢》という作品の特徴と言えよう。なかでもそれが際立つのが、三つの「オーケストラのモノローグ」である。「震動、津波」、「生」、「死」とそれぞれ題された三つの「モノローグ」は、かつて起きた、そして今夢見られている出来事の「独白」と言えるかもしれない。これらは、劇の進行を中断しながら、出来事そのものへ観る者を引き入れる。

「震動、津波」では、地の底から湧き立つ打楽器を中心とした響きが、すべてをなぎ倒し、洗い流す力が渦をなすさまだけでなく、その力が破壊の後も渦巻きながら漂っているさまをも表わしているようだったし、「生」では、災厄の後にこそ人が抱く生きることへの渇望が響いているようだったが、これら以上に印象深かったのが「死」の音楽である。コンスタンツェ、ジェロニモ、ジョセフェ、そして乳児──フェルナンドとエルヴィーレの子である──が虐殺された後で、これら四人を哀悼するその深沈とした響きは、アルバン・ベルクの《ヴォツェック》の幕切れ近くのアダージョを思わせながら、災厄のなかで非命の死を強いられること、そのことに対する哀しみを深淵から湧き上がらせる。その響きは、《地震・夢》という作品の核心をなすものとさえ言えよう。シルヴァン・カンブルランの指揮による歌劇場のオーケストラは、深い息遣いでこの哀悼の音楽を響かせていた。細川のオラトリオ《ヒロシマ・声なき声》の初演を手がけ、その音楽を熟知したカンブルランの指揮の下、オーケストラは終始緊密なアンサンブルで、《地震・夢》の音楽の特色をいかんなく発揮させていたと思われる。

今回の初演においては、管弦楽とともに、オペラ雑誌『オーパンヴェルト』で2017年の最優秀のアンサンブルに選ばれた合唱団の素晴らしさも特筆されるべきであろう。集団としての歌唱の力強さと、一人ひとりの演技力によって、災害の後のユートピアとしての分け隔てない連帯の発生と、その連帯の集合的な狂気への転化とが、説得的に表現されていた。大規模な合唱がひとまとまりの集団として活躍するのも《地震・夢》というオペラの特徴であるが、シュトゥットガルトの合唱団は、それを舞台上に見事に発揮させていたと思われる。合唱団は、そのように群衆として動くのみならず、舞台裏で風の音とともに、無名の死者たちのように舞台上の登場人物に語りかける。合唱のこうした影のコロスとでも言うべき役割も忘れられてはならないはずだ。その息遣いに乗って、愛を語るにしてもどこか不安に駆られたアリアや重唱が繰り広げられるのも、このオペラの特色と言えよう。

歌手のなかでは、エルヴィーレ役を歌ったゾフィー・マリリーが、第11景の「告別のアリア」を哀しみの籠もった声で響かせて、とくに印象深かった。ジョセフェ役を歌ったエステル・ディルケスと、ジェロニモ役を歌ったドミニク・グローセの絶望の表現も、切々とした感銘深いものだった。とはいえ、主要な登場人物を演じた歌手たちは、それぞれ単独でと言うよりは、合唱を含めたアンサンブルのなかで、演技力を含めたその美質を発揮させていたように思われる。そして、そこにはドラマそのものを、登場人物の布置として表現されるアンサンブルによって表現し、そのなかで個々人の歌唱力と演技力を生かす、ヨッシ・ヴィーラーの演出上のコンセプトも表われていたと考えられる。ヴィーラーと、ドラマトゥルクのセルジオ・モラビトのシュトゥットガルトでの最後の協働による《地震・夢》の緊密な舞台は、一時の階級なき社会を生への渇望に満ちたものとして、また扇動された群衆の狂気を鬼気迫るものとして描き出すことに成功していた。

このように共生へ向けた連帯と、虐殺への狂気とが現出する場として、舞台上に据えられた橋が重要な役割を果たすわけだが、アンナ・フィーブロックによるその装置は、その手前に据えられたコンクリート造りに見える建物の廃墟を含め、日本の震災で津波に洗われた橋を思い起こさせずにはおかない。彼女を含めたシュトゥットガルトの《地震・夢》の制作チームは、福島を訪れ、震災に遭う経験への省察を深めてきた。それが、舞台装置とそれを生かしたドラマの表現に生きていたのではないだろうか。装置は、全体として上下に動くように造られていたが、その揺れるような運動のなかに横たわる、大地の猛威に曝された剝き出しの身体は、津波の後で波間に漂う屍のようにも見えた。そして橋は、能舞台の橋懸かりを思わせるかたちで、一貫して敷居の役割を果たしていたのではないだろうか。それはまず、舞台上で繰り広げられる夢の世界への敷居であると同時に、連帯から排他的な集合的な狂気への敷居の役割も果たしている。そこに立って、災厄とそれに続く惨劇を目の当たりにすることは、幼い子どもには確かに辛い体験である。原サチコが黙役で演じたフィリップは、それに対する抵抗を示しながら、厳しい葛藤を経て、最後には自分がかつて記憶の彼方で体験したことを引き受けようとしていたのではないだろうか。

それにしても、狂気に駆られた群衆が現出させる惨劇は凄惨きわまりない。その凄まじさは、「サディスティックな少年」と名づけられた児童合唱が加わることで増幅されていよう。クライストの原作では虐殺そのものの下手人であるペドリーリョは、バイヤーの台本では、原作における司祭の役割も含みながら、群衆の煽動者となるわけだが、その役を歌ったトルステン・ホフマンの演技力も際立っていた。ペドリーリョの演説によって焚きつけられた群衆が、コンスタンツェ、ジェロニモ、ジョセフェ、そして乳飲み子の四名に襲いかかる様子は、音楽の高まりと相俟って恐ろしいまでの勢いを示していた。そのような虐殺への狂気に駆られた群衆に関して、今回の舞台では反ユダヤ主義との結びつきが暗示されていた──虐殺の現場に、キッパに似た帽子が投げ捨てられていた──と思われるが、日本の震災の廃墟を思わせる装置の上で惨劇が演じられるのを目の当たりにするとき、関東大震災の際の朝鮮人やアナーキストなどの虐殺や、それを反復する火種を孕んだ被災地でのデマの拡散を思わずにはいられなかった。舞台上の橋は、異質な他者を虐殺する──それは社会的に抹殺することも含まれよう──群衆の狂気を、未だ過ぎ去らない問題として受け止めることへ、観る者を導く役割も果たしているのかもしれない。

装置としての橋と緊密なアンサンブルを繰り広げるかたちで、《地震・夢》というオペラにおいてまさに橋の役割を果たすのが、細川の音楽である。プログラムに寄せられた文章のなかで細川は、自身の音楽を能の橋懸かりに準えている。その点で、《地震・夢》において、彼の能の精神にもとづくオペラの基本的なコンセプトは、音楽の内部に凝縮されていると言えよう。それは、オーケストラによる「死」のモノローグが示すように、地震とそれに続く出来事の犠牲者への哀悼を音楽に浸透させ、死者を橋としての舞台に回帰させること──それは細川のオペラのある意味で反オペラ的な特徴である──に結びついている。このことが、《地震・夢》においては、地震とその後の出来事の記憶を、いくつもの夢として描くバイアーの台本のコンセプトと呼応しているにちがいない。その最も際立った特徴が、死者に声を与えていることである。最後の場面で霊魂と化したジョセフェとジェロニモは歌う。「ある者は獣が鳴くのを聞く。別の者は……」と。確かに東日本震災の死者たちは、避難区域に取り残された家畜の声を聞いているはずだ。

36465733_1626825124112935_4303460576647970816_n《地震・夢》というオペラは、橋懸かりとしての音楽を軸としたアンサンブルとして、18の相を示す一つの橋をなしていると考えられる。それは、地震に遭い、その後の惨劇に直面した死者たちの記憶の世界──それは、悪夢を含んだ「いくつもの夢」である──のただなかへ観る者を導きながら、死者への哀悼から今ここにある危険を見通す回路を指し示している。満場の歓呼によって迎えられたその初演によって、細川とバイアー、そしてシュトゥットガルトのアンサンブルは、クライストがその小説の緊密なテクストのなかに描き込んだ要素を、深い嘆きを含んだ現代の詩的な表現──それは広い意味で「うたう」ことである──によって舞台上に解き放ったうえで、震災をはじめとする災害と、群衆による虐殺を歴史的に経験した後に、他者たちのあいだに生きることへの深い問いかけに再結晶させたと言えよう。

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