展覧会「三」を観て

38787411_1945404652185666_8217036060958392320_n8月9日、長崎に原子爆弾が投下された日に、旧日本銀行広島支店とギャラリー交差611の二つの会場で開催されていた、新井卓、小原一真、片桐功敦の三人のアーティストによる展覧会「三」を観た。写真を中心とした表現活動を繰り広げている新井と小原の二人と、華道家の片桐が一つの展覧会をというのは意外に思われる向きがあるかもしれないが、三人にはまず、ここ数年福島をはじめとする東日本大震災と原発事故の被災地を見つめながら創作を続けてきたという共通の立脚点があるとのこと。また、歴史が刻み込まれた生命が発現する現在を捉えることを表現の焦点としながら、その行為の姿に対して批評的な意識を保ち続けている点でも、三人は相通じる芸術を繰り広げていると思われる。

新井は、ギャラリーではダゲレオタイプの手法で、行く先々で出会った17歳の若者の姿を銀板に定着させていく「明日の歴史」プロジェクトの広島での展開を、若者の声とともに展示していた。ダゲレオタイプは、「写真小史」のヴァルター・ベンヤミンにとっては、実生活において「持続」という経験の厚みを失った人間の最後の逃げ場の一つだったわけだが、銀板に沈着した若者たちの姿は、彼女たち、あるいは彼らが日常の時間ではけっして感じさせることのない身体の奥行きと表情の深さを示している。大人が作ったこの息苦しい仕組みのなかに生きることを本当はどう思っているのか、訊いてみたくなるような一つのひとつの顔を、どこか儚さを感じさせながら浮き彫りにする写真ではないだろうか。

旧日銀の会場で上映されていた新井の短編映画『49パンプキンズ』は、原爆投下の試験として投下された「カボチャ爆弾」などから着想を得ながら、アメリカ軍のB-25爆撃機から実際に49個のカボチャを投下することによって、この爆撃機に苦しめられた祖父の体験に迫ろうとする作品と言えよう。ユーモアを交えた映像で、空襲そのものの愚かしさを痛烈に諷刺しながら、空襲の下にあることの恐怖を生々しく伝えているのが、この作品の特徴であろう。大量のカボチャの衝撃に震える大地に伏せて、不自然に揺れる枯れ草と一つになるかのようなショットは、実に印象的だった。

小原は、“Far East / A Stolen Father”という表題の下、旧日本軍がタイとビルマを結ぶかたちで建設した泰緬鉄道の鉄路を拓く労働を、劣悪な環境のなかで強制され、死に追いやられもした犠牲者たちの足跡を辿り、その遺品やこれを強制労働の記憶とともに受け継いでいる被害者(労務者)の二世たちとともに写真に収めていくプロジェクトの一端を、ギャラリーと旧日銀で異なった手法で展示していた。ギャラリーに展示されていた写真でとくに印象に残ったのが、犠牲者の二世に当たる多様な背景を持った人々の横顔を捉えた写真だった。すでに高齢なこれらの人々の顔には深い皺が刻まれているが、そこからは父たち──それぞれの「盗み取られた父」──の体験が滲み出ているようにも感じられる。体験の語りを直接に聴いている、あるいはそれを語れないことを肌で感じている第二世代の身体の存在が、重量をもって迫ってくる写真だった。その身体には、けっして割り切れない感情を含むかたちで、出来事の記憶が染み込んでいるのだ。

これらの写真において捉えられているのが、二世たちのプロフィールであるところには、写真によって日本の侵略と暴虐の歴史に迫ろうとするアプローチに対する小原の批評的な反省も表われている。横顔を見せる人々の視線の先には、小原がいるのだ。こうして見られていることをも写真に刻もうとするところには、俯瞰的な視点から一種の「正史」として物語られる歴史が絶えず抑圧していく一人ひとりの物語に迫ろうとする際に、過ぎ去ることのない記憶によって見つめられているところから出発しようとする小原の姿勢も示されているのではないだろうか。旧日銀の一室で展開されていた、写真のスライドショーなどによるインスタレーションは、現実にはけっして交わることのなかった人々の物語が交差する時空間を提示するものと言えよう。そこに身を置きながら、泰緬鉄道建設のための「労務者」たちの体験の内実を、今ここで働くことに深刻な問いを投げかけるものとして捉え返す必要も感じないわけにいかなかった。今やほとんど誰もが、泰緬鉄道の歴史の当事者になりうるのではないだろうか。

片桐はギャラリーでは、8月2日からのおよそ一週間にわたり、広島を歩いて採取した花々を、土の花器に片桐自身のさりげない言葉を添えて生けた、拾遺集としての展示「広島花拾遺」を繰り広げていた。道端で見慣れた花たちが、その場所からいったん切り離され、別の時空間に置き直されることによって、その生命を強烈に発するのは、生け花そのものの特性の現われとはいえ、やはり興味深い。白い夾竹桃の花が妖しいまでの美しさを放つのには、思わず惹きつけられた。7月の豪雨災害の被災地の一つでもある似島で採取された、ニセアカシアの肉体の質量も印象的である。とはいえ、この拾遺集において異彩を放ちながら、行為としての生け花の一つの姿を印象的に示しているのは、平和公園で拾われた菊の花であろう。菊の花は、今も禍々しい歴史を象徴しているが、生命力の強いこの花が、「慰霊」の文脈から切り離されて一つの生け花になるとき、それは枯れながらその歴史を見返しているようにも感じられる。

旧日銀での片桐の展示は、広い空間を使って、これも死者に手向けられることの多い白百合がおのずと、あらゆる方向へ茎を伸ばし、叫ぶように花を咲かせる運動を、身体的に感じさせるものであった。作品の一つは「木に花を継ぐ」と題して、片桐が譲り受けた被爆樹の楠の幹に白百合を生けたもの。その一本が屹立しながら枯れていく様子は、広島の被爆をはじめとする出来事の記憶を身体に染み込ませながら、出来事の場に踏みとどまって生きようとする意志を強烈に感じさせる。出来事の現場に生きるとはどういうことかを深く問う作品と言えよう。もう一つの大規模な作品は、破れた布で被われた木の塊に、白百合をはじめとする花々を、茎を強調するかたちで生けたものであるが、茎がさまざまな方向へ伸びていく姿は、強い生命力を感じさせる一方で、ある場所に癒えようもなく刻まれた傷が、不意に開いて、苦悩の記憶を甦らせる様子も、そこに見ないわけにはいかなかった。傷を負った場所に咲く花は、片桐がギャラリーに生けた街角の小花を含めて、傷口に疼くものを吸い上げて咲いている。そのような花が散って、花弁を床に散乱させているさまは、苦悩の記憶を忘却して「前へ」進もうとする現在への怒りも感じさせる。

38512070_2097067553658044_9209899742354472960_oギャラリー交差611の並々ならぬ意志によって企画された広島での展覧会「三」に集った三人の芸術家の作品は、菊の花に象徴される禍々しい歴史が連続している今に生きていることを踏まえながら、この今に現われる生ある者たちを、その身体性において捉えている。このとき三人は、この歴史が忘れ去ろうとしている記憶が、生ある者たちの身体に浸透していることをも見通している。そのような眼差しにもとづく表現に触れるとき、過ぎ去ることのないものがここにあることを、肌で感知できるにちがいない。その地点から、歴史的な現在をどのように捉え返すことができるかが、今切実に問われているはずである。旧日銀での展示は8月10日で終わってしまったが、ギャラリーでの写真作品の展示は、17日まで続くとのこと。多くの人が会場で、過去と現在の相互浸透を感じ取ることを願ってやまない。

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