ペーター・ルジツカのオペラ《ベンヤミン》を観て

 

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プログラムより(下も)

ヴァルター・ベンヤミンは40歳を迎える頃、自殺を真剣に考えていた。離婚をめぐる裁判の結果、財産のほとんどを失ったばかりでなく、友人のゲルショム・ショーレムに語った、ドイツの第一級の批評家として身を立てたいという希望を成就させる見通しも立たなくなったことが、その外的な理由として考えられよう。ただし、ベンヤミンのなかには、いずれも儚く崩れた女性たちとの関係を含め、人生を生き終えたという思いもあったようだ。彼が手記に綴っているところによると、彼はその頃、自分をめぐる人間関係を一つの像として描き出そうと試みている。その像が記された紙片は失われたようだが、もしかすると、ベンヤミンがピレネーの麓で48年の生涯を閉じようとするときにも、彼の周りにいた人々の関係は、一つの像として彼の脳裡に去来したのかもしれない。

ベンヤミンをめぐる人間関係は、親しい友人との関係も含めて緊張を含んでいる。ショーレムとは四半世紀にわたって交友を続けたが、ヘブライ語を学んでパレスティナへ渡ることへの誘いに、ベンヤミンは結局乗らなかった。ブレヒトの詩作に魅かれていたとはいえ、そのイデオロギーに同調することはなく、彼との雑誌も計画倒れに終わった。死を間際にしたベンヤミンが幻視していたであろう、こうした緊張に満ちた布置としての人間関係を舞台上に描き出すことによって、ベンヤミンという思想家の像を浮き彫りにすること。これがペーター・ルジツカのオペラ《ベンヤミン》(Peter Ruzicka, „BENJAMIN“)の企図したことなのかもしれない。2018年6月3日に行なわれた初演から数えて6回目の上演を、10月14日にハンブルク州立歌劇場で観ることができた。

このオペラには、すでに挙げたショーレムとブレヒトのほか、ベンヤミンの生の行方を左右することになった三人の女性、一時期妻となったドーラ・ケルナー、彼が愛し、モスクワまで追いかけたアーシャ・ラツィス、そして亡命生活を共にしたハンナ・アーレントが登場する。ただし、舞台に登場するこれらの人物は、主人公のベンヤミンも含め、残されたドキュメントを基に、あくまで文学的、かつ音楽的に構成された虚構である。そのことを示すために、キム・ヨナによるリブレットには、ヴァルター・B、アーシャ・Lのように、人物の姓はイニシャルでのみ記されている。今回観たハンブルクでの初演のプロダクションでは、キム・ヨナ自身が演出も手がけている。おそらくは彼女の構想にもとづく、廃墟めいていると同時に旅の宿駅を思わせる舞台装置は、旅の多い生涯を送ったベンヤミンを描くに相応しく思われた。

このオペラ《ベンヤミン》には、「七つの宿駅による音楽劇(Musiktheater in sieben Stationen)」という副題が付されている。ベンヤミンのなかに湧き起こる想念のなかで、人間関係の布置が情景とともに浮かび上がるさま──その一部は、思想の風景とも言えるだろう──を、彼の生涯の宿駅になぞらえながら、想起の展開を描き出そうという企図を表わすものであろう。その最初の宿駅は、不安に満ちた響きが悶えるようにして始まる。やがて、ゲシュタポからの逃避行の果てに疲れ果てたと見えるベンヤミンの許に、群衆のなかからもう一人の彼の姿が近づいてくる。こうしてベンヤミンを歌う歌手の他に、彼を演じる「俳優」が登場するのには、いくつかの理由が考えられよう。まず彼が自分の思考を記憶も含めて、つねに比喩的な像のかたちに描き出してきたことが、内的な理由として想定される。

他方で外的な理由として、散文の人ベンヤミンに、歌だけで語らせるのは難しいということもあったにちがいない。第一の宿駅では、彼の「歴史の概念について」が引用され、歴史主義の物語を代表する合唱の歌と、その連続性を中断して「歴史」が抑圧した過去を救い出す歴史認識を語る「俳優」の語りが、激しい論争を繰り広げる。その様子は、「音楽劇」の作り方として一つの可能な方向性と見えた一方で、ベンヤミンの思考の描き方としては、対立が硬直しすぎているとも思われた。ギュンター・シャウプによる「俳優」の演技は、台詞の語りを含めて実に巧みであったが、時に饒舌さが気になるところもあった。ただし、第四の宿駅でベンヤミンとブレヒトがチェスの盤を囲む際に、そのテーブルの下に潜り込んで、しばらくそのテーブルを被って演技を続けるというアイディアは、秀逸だったと思われる。

IMG_0466なぜなら、身を屈めてチェス盤の下に潜る姿は、この宿駅で合唱によって伝えられる、独ソ不可侵条約の締結という危機を前にして、ベンヤミンの「歴史の概念について」の最初のテーゼに浮かび上がる、チェスの駒を動かす人形のなかに隠れて勝負を必ず勝利へ導く「せむしの小人」の像と同時に、彼の生涯を挫折に次ぐ挫折へ導いた、彼の不器用さの寓意とも言うべき「せむしの小人」の姿を、同時に思い起こさせるからである。こうしてベンヤミンの想念の像を、想念の運動に応じた情景の転変とともに、ほとんど時系列を無視したかたちで浮かび上がらせる手法は、ベンヤミンを描くオペラの作り方としては当を得たものと考えられる。そして、その過程をルジツカの音楽の持続が貫いている点が、《ベンヤミン》というオペラの説得力に結びついていると思われた。プログラムに掲載されたインタヴューのなかで彼は、このオペラのための音を追求したと述べていたが、たしかに音楽を貫き、オペラの基本的な性格を決定する響きの存在がつねに感じられる。

それを伝えるオーケストラの演奏は、部分的にいくらか緩みを感じたとはいえ、きわめて水準の高いものだったと言える。とくにアンサンブルの緻密さは特筆に値しよう。全体の指揮は作曲家のルジツカ自身が執っていたが、楽器編成が巨大なためにもう一人指揮者を要するようで、副指揮者を石川星太郎が務めていた。ベンヤミンの役を歌ったディートリヒ・ヘンシェルをはじめとする歌手たちのアンサンブルにも隙がない。ヘンシェルは、歌唱と演技の双方でベンヤミンという人物を感じさせて印象深かった。児童合唱を含む合唱も、一貫して力強い歌唱を聴かせてくれた。

それにしても、ルジツカの音楽の展開の緊密さは、この作品だけに聴かれるものではないとはいえ、あらためて瞠目させられる。冒頭で不安に満ちたかたちで響いた動機が、幾重にも変奏され、時に巨大な音響の塊を形成する場面があるかと思えば、弦楽器の各声部の独奏に表われて、きわめて繊細な移行を響かせる場面もある。こうして変形を重ねた動機が、最後の宿駅で三人の女性の柔らかで、哀しみを湛えた重唱に収斂していくのは、たしかに感動を呼ぶ。そして、その響きが震えながら静まって、消え入っていくなかでベンヤミンが息絶える過程も、深い感銘を残すものであった。しかしながら、このような音楽の展開が、「ベンヤミン」という主題と緊密に結びついたものだったか、という点に関しては留保せざるをえない。

このオペラの第五の宿駅は、一つの間奏であると同時に、舞台の展開に「中間休止(ツェズーア)」を刻むものである。そこでは、大規模な管弦楽と合唱が一体となって破局の予感を響かせるが、その音楽はルジツカの前々作のオペラ《ツェラン》から引用されたものである。彼にとってつねに内的な対話の相手であるという詩人パウル・ツェランを主題としたオペラの音楽をここで引用することは、ベンヤミンの危機的な状況における思考とその死が、ツェランの詩作が向き合い続けたショアー/ホロコーストを予感させるという解釈を示すものであろう。この解釈そのものに対してはまったく異論はないが、それを提示する音楽には少し付いて行けないものを感じた。たしかに、巨大な響きのうねりが打ち寄せるのには圧倒的な力がある。しかし、そのなかで「イェルサレム」の名が、これでもかとばかりに繰り返されるのに対しては、どこか取って付けた印象を拭うことができなかった。

もしそこに至る過程で、ベンヤミンの歴史をめぐる思考が音楽と舞台表現によってもう少し突き詰められ──その意味で「歴史の概念について」からの引用は、別なかたちで第四の宿駅に置かれるべきだったかもしれない──、それが彼の死後の巨大な破局に突きつけられるとするならば、間奏における《ツェラン》からの引用は、恐ろしいまでの説得性を持ちえただろう。しかし、そのようには実際のオペラが展開しなかったことは、ルジツカが自分の音楽の展開を優先させたことのみならず、キム・ヨナが書いたリブレットと、それにもとづく舞台作りにも要因があると考えられる。非常に巧みに構成されているとはいえ、リブレットにおけるベンヤミンの言葉の扱い方に対しては、言いたいことが数多くあるが、今はそれは措いて、演出とそこに表われるテクストの問題に焦点を絞ることにしたい。

すでに触れたように、舞台上の人物はあくまで虚構である。だとすれば、それぞれの人物は舞台の展開のなかで、音楽とともにその登場人物としての人格を表出すればよいはずである。しきりに煙草を吸う女性はハンナ・Aのままでよく、実在のアーレントを知る観客は、それとの関連を隠喩として想像すればよいのではないか。しかしながら、今回の演出では、ヴァルター・B以外の人物が登場すると同時に、その背後で実在の彼女および彼の引き伸ばされた肖像写真が掲げられた。オペラの主題となる歴史上の人物との関連を示すためとはいえ、その表現はあまりにも直接的で、違和感を拭えなかった。それ以上に問題があると思われたのが、個々の人物の造形である。アーシャ・Lは、なぜソヴィエト共産党のテクノクラートのようで、かつ容姿と声で性的な魅力を振りまく存在として登場しなければならないのだろう。

このオペラのなかでブレヒトとラツィスは、つねにマルクス主義の側へベンヤミンを引き込む役回りを演じる。そのためにみずからの主張をほとんどドグマのように繰り返すわけだが、それによってブレヒトの詩作も、ラツィスの演劇との関わりもどこかへ吹き飛んでしまう。そのために、第六の宿駅で試みられるプロレタリアートのための児童演劇も、ユートピア的な性格を失ってしまっていた。その舞台は、歴史の塵のなかからこそ浮かび上がる一つの希望を、不可能なものとして暗示すべきではなかっただろうか。他方で、ベンヤミンをユダヤ教の側へ、かつパレスティナへ導こうとする役割を果たすショーレムの姿も、どこか型にはまった印象を受ける。彼がほぼ始終キッパを被っているのには、違和感を禁じえなかった。

こうして──敢えて比喩的に言えば──モスクワとイェルサレムのあいだの対立が、あまりにも図式的に描かれてしまっていることともに、問題があると思われたのが、アーシャ・Lとドーラ・Kが、あまりにもジェンダー的に差別化された役割を与えられてしまっていることである。ベンヤミンの息子シュテファンを連れたドーラが母性を強調するかたちで登場すること以上に、アーシャがベンヤミンの男性的な欲望の対象として、ほとんど典型的なイメージとして現われるのには、強い違和感を覚えた。詰め襟でかつ深いスリットの入ったスパンコールのドレスは、モスクワへ向かう恋愛劇の小道具としては分かりやすいかもしれないが、これを女性に着せるところに、性差別的で、かつ舞台上の人物形象を旧来のオペラの登場人物としての「人間」に還元する──ここにこそ差別が含まれているのではないのか──眼差しの存在を感じないでいられない。

たしかに、キム・ヨナの舞台上の人物の動かし方は、合唱の扱いも含めて実に巧みで間然するところがない。舞台美術上のイメージの扱いも、人物の肖像写真とクレーの《新しい天使》の絵を除いては、効果的だったと思われる。だが、その手法は分かりやすすぎるかたちでオペラ的で、それゆえにあまりにも人間的である。ルジツカの音楽の緊密さとその強度には目を瞠るものがあるが、それは彼の音楽としてあまりにもよく鳴りすぎている。しかし、それは歴史の屑を拾い、その内奥にまで入り込んだベンヤミンに相応しいこととは思えない。彼は自伝的な手記の一つで、彼の思考の伴侶と言うべき天使は、「別れざるをえなかったもの、人々、そしてとくに物事に似ている」と述べている。そのような天使が指し示している、あらゆる人間的なものを突き抜けた、廃物そのものが語るような表現の強度こそが、時間の流れを止めて、ベンヤミンの思考を歴史のなかに屹立させるのではないだろうか。

すでにフランクフルター・アルゲマイネ紙などの新聞に出た批評が示すように、ルジツカの《ベンヤミン》は、現代のオペラとして一定の評価を得ているようである。しかし、そのことはベンヤミンを主題とすることに成功したことを意味しない。これまで見てきたように、ルジツカとキムは、ベンヤミンの思考と、それを生きた生涯とを、ルジツカの音楽の論理と現在通用している「オペラ」の論理の内部に閉じこめて、一つのドラマを作り上げてしまった。そのことは《ツェラン》、《ヘルダーリン》と書き継がれてきたルジツカの詩人オペラの三部作の完結編には相応しかったかもしれないが、そうして自己完結するなら《ベンヤミン》は、歴史的な現在に語りかける力を失ってしまうだろう。なぜ今ベンヤミンでオペラなのか。この根本的な問いに答える可能性は、「オペラ」の論理ではなく、破局を透視しながら潰えた可能性を過去から探り出すベンヤミン自身の思考を、現在との布置において掘り下げるなかからこそ、開けてくるにちがいない。偉大な芸術作品は、ジャンルを破壊するかそれを創造するかのいずれかであるというベンヤミンの言葉を、あらためて噛みしめておきたい。

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