国民社会主義下の絵画を問う二つの展覧会──ベルリンでのノルデ展を中心に

Exhibition_Brochures_Berlin2019色彩そのものの鮮烈さが際立つだけでなく、色と緊密に結びついた塊が、輪郭をはみ出しながらこちらに迫ってくる。しかも、その奥からは、絶えず何かが湧き出ている。このことが生命の脈動を感じさせる画面。そこにエーミール・ノルデの絵画の魅力があることは確かだろう。だが、まさにこの魅力には危うさも感じないではいられない。その危うさを、これまでは例えば、《失楽園》(1921年)のようなユダヤ゠キリスト教な主題を扱った作品が、異教的としか言いようのない土着的、ないしは土俗的な生の姿と結びつきうるところに見ていた。

こうしたノルデの危うさが、実は国民社会主義との協働の可能性でもあったことを、その画業を絵画とドキュメントの双方から綿密に跡づけて明らかにしたのが、2019年4月12日からベルリンのハンブルク駅現代美術館で開催されているノルデ展「エーミール・ノルデ──あるドイツの伝説」である。それは、一つの展覧会が画家像を一変しうるインパクトを持ちうることも示していた。それゆえにこの展覧会は話題を呼び、入場制限がかかるほどだった。ちなみに、首相の執務室に飾られていたノルデの《波濤》(1906年)は、展覧会が始まる直前に新国立美術館に返却されたという。

ただし、展覧会そのものは、けっしてノルデとナチスの関係を表立って告発するようなものではない。むしろ、補色も大胆に用いながら、飼い馴らされることのない自然の姿を画面に浮かび上がらせるノルデの傑作を、現在改装中の新国立美術館とゼービュルのエーミール・ノルデ財団のコレクションから集め、それを作品と同時期のノルデに関するドキュメントと、どちらかと言うと淡々と照らし合わせていた。展示室の奥には、戦争中、言わば蟄居していたノルデのアトリエの様子が、証言や記録を基に再現されるとともに、同時期の「描かれざる絵」も数多く展示されていた。

とはいえ、展示から浮かび上がるのは、自分こそがドイツの「民族的」絵画を牽引するのだとのノルデの自負である。これまで彼は一般には、一千点を超える作品が、ナチスによって「頽廃芸術」の烙印を押され、「頽廃芸術展」で大々的に見せしめにされたうえ、帝国造形芸術院からも除名され、画業を禁じられたナチズムの被害者との見方が強かった。ノルデをモデルにしたジークフリート・レンツの小説『ドイツ語の時間』も、被害者としてのノルデ像を定着させるのに一役買ったことは間違いない。しかし、彼はそれでもなお、ナチズムに積極的に貢献しようとしていた。

ノルデは1933年以降、ユダヤ゠キリスト教的な主題を封印し、「ゲルマン的」とも言うべき民族的な主題を主に手がけるようになる。この時期から、火のモティーフが際立つのが興味深い。農民の姿や民俗的な祭祀の様子も頻繁に描かれる。「職業禁止」のなかでも描き続けられた水彩画には、画風をナチスの上層部に認めさせる狙いも込められていたようだ。「頽廃芸術展」と同時に開催された「大ドイツ展」で称讃された絵画ではなく、自分の力強い絵画こそが、ドイツの芸術の将来を約束しうるという自負を、ノルデはナチ党の党員証とともに、戦時下でも保持し続けたのだ。

そうしたナチズムへの内的な関与の背景に、ノルデの反ユダヤ主義があることも、展示された書簡などのドキュメントから浮かび上がっていた。そのきっかけの一つは、画業の初期に彼の前に立ちはだかったユダヤ人の画家マックス・リーバーマンに対する敵視だったようだ。しかし、このような確信犯的ナチとしてのノルデの姿は、戦後彼自身によって封印される。彼は自伝から、反ユダヤ的と見られうる文言を削除し、ユダヤ゠キリスト教的なモティーフを扱った絵を再び描き始める。そして、そのように自己演出を進める一方で、自身の過去を悔いる様子は見られない。

このような、ベルリンのノルデ展の展示室に浮かび上がる新たなノルデ像を前にして、彼とマルティン・ハイデガーとの相似性を考えないではいられなかった。この同時代の哲学者もまた、一時期ナチズムに積極的に関与しようとし、その企ての挫折の後にも党員証を手放すことはなかった。そして、反ユダヤ主義的な信条を持ち続けたことも、いわゆる『黒ノート』などの公刊によって明らかになりつつある。さらにそこに、筋金入りの人種主義者だったと伝えられる夫人の影響があることも、ノルデと共通している。その最初の夫人も反ユダヤ主義者だったようだ。

ところで、ハンブルク駅現代美術館でのノルデ展と対をなすかたちで、ベルリンの南西の住宅街にあるブリュッケ美術館では、4月14日から「絵画への逃避か──国民社会主義下のブリュッケの芸術家」というテーマの特別展が開催されている。ヒトラーの体制の下で、とくに「頽廃芸術展」以後、芸術家集団ブリュッケを組織していたエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、オットー・ミュラー、エーリヒ・ヘッケル、マックス・ペヒシュタイン、カール・シュミット゠ロットルフらが、芸術家とした生き延びようとした苦闘の足跡が、関連する作品とともに展示されていた。

一部の画家は、批判と迫害の的になり始めてから、「ゲルマン的」なモティーフに傾斜したり、あるいはナチスの政策の下で新たに造られたアウトバーンを画題にしたりといった、痛々しい姿を示していた。キルヒナーは、ナチスが想定するのとは異なった意味でのドイツの画家との自覚を持って抵抗し続けたが、造形芸術院から除名されたうえに画壇から完全に黙殺されるようになり、自殺に至るまで苦悩を深めていく。その一方で、ブリュッケの芸術家を支えてきたユダヤ人のギャラリストは、亡命を余儀なくされたり、虐殺されたりしている。

こうした経緯を作品──キルヒナーの《女曲芸師》(1910年)のように、なかには「頽廃芸術」の烙印を押されて保管されている様子の写真とともに展示されているものもあった──とともに辿りながら、生存そのものが脅かされる状況のなかで芸術活動を続けるとはどういうことかを問わざるをえなかった。ブリュッケ美術館の展覧会「絵画への逃避か」にしても、先に触れたノルデ展にしても、今あらためて国民社会主義体制の下での芸術家の生きざま──それは作品のみならず、その成立と流通の過程にも表われる──を問うものと言えよう。そこには同時に、日本の超国家主義とその戦争の下での芸術の姿を振り返りながら、日に日に息苦しさを増す現在の状況のなかで作品を創ることの歴史的な位置と意義を問う契機も含まれていると思われる。