クリスチャン・ボルタンスキーの「モニュメント」としての作品──東京での展示を見て

モニュメントという語は、語源に遡れば、思い出させるものを意味するという。しかし、今日モニュメントと言えば、どちらかと言うと、規模の大きな記念碑や記念像を指すことが多い。たしかにこれらも、過去に何が起きたか、またその出来事を誰が体験したかを思い出させるものとして造られていよう。しかし、大規模な記念物は、それ自身の威容によって出来事を強く意味づけてしまう。そして、これにしばしば付される銘文は、過去を説明してしまう。観る者は、モニュメントの大きさに圧倒されることによって、またその説明を読むことによって、しばしばかつて起きたことを思い起こした気になっている。

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《幽霊の廊下》から《ぼた山》を望む

だが、このことは、ある意図の下で現在そこに置かれているものの効果でしかない。ここに過去はない。何も思い起こされていないのだ。ここにあるのは、現に物語られている歴史のみである。それに感情移入することは、壮大なモニュメントを造る力に同一化することに終わる。そのことは何よりもまず、歴史による過去の抑圧に荷担することである。クリスチャン・ボルタンスキーの作品は、それによって進行する忘却に、モニュメント、すなわち思い出させるものの名において抗うものと思われる。国立新美術館で開催されている(2019年6月12日〜9月2日)この作家の回顧展「Lifetime」のなかで、彼が1980年代を中心に制作した「モニュメント」の数々を見ることができた。

ボルタンスキーの「モニュメント」は、いずれも基本的には方形の枠や箱を積み上げた上に死者の写真を配し、電燈で柔らかに照らすことによって、祭壇状の──今回の展覧会の制作を記録した映像において作家は、自作の展示空間と教会の相似性を強調していた──インスタレーションを構成するものと言えるが、そのなかでとくに印象的だったのは、「プーリムの祭り」と題された作品だった。そこでは、ブリキの箱が聖櫃のように積まれた上に、死者の写真が置かれている。一人ひとりの生には、その人が誰であるかを形づくるいくつかの段階があり、それは物に痕跡を残している。このことを思うとき、もはや誰のものか特定しがたい写真が暗示する誰かが「いた」ことが迫ってくる。

さらに、《聖櫃(プーリムの祭り)》においては、死者の顔写真もブリキの箱に収まっている。それが電燈によって照らされると、見る角度によって顔が微かに立体性を帯びる。それによって、この死者が今ここに回帰しているかのような感覚に襲われる。同じような感覚を、《その後──写真》と題された肖像写真のインスタレーションでも味わうことができよう。出口近くに設けられた暗い空間におぼろげに漂う顔が、光を受けた瞬間に色を帯び、生きた人の顔貌のように浮かび上がる。そのことを感じとるとき、唯一無二の誰かの存在がいっそう強く迫ってくる。自分がこれまで知ることのなかった死者に遭遇し、その魂に捕らえられるのだ。

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C・ボルタンスキー《アニミタス(白)》部分

ただし、そのような感覚を覚えたのは、今回個人的には、これまでに挙げた作品に加え、《しわくちゃのモニュメント》を前にしたときだけだった。他の「モニュメント」を見た際には、隣接する他のモニュメントが目に入ってしまうこともあって、未知の死者との交感のような感覚を味わうことはできなかった。ボルタンスキーの「モニュメント」はやはり、一つひとつが別々の空間に置かれてこそ、「思い出させるもの」としての力を発揮しうるのではないだろうか。ただし、裏側の壁面に《アニミタス(白)》の映像が投影されていたために、その風鈴の音が「モニュメント」の部屋にも流れてきたことが、魂の気配を漂わせていたのも確かである。

現在東京では、寒風吹きすさぶカナダで撮影された《アニミタス(白)》に加えて、エスパス・ルイ・ヴィトン東京で《アニミタスII》を観ることができる(2019年6月13日〜11月17日)。後者では、瀬戸内の豊島とイスラエルの死海で撮影された「アニミタス」の映像が向き合うように流されている。これらを前にすると、細い杭に吊るされ、風を受ける風鈴の音によって、中空に漂う魂がここに呼び寄せられているようにも感じられる。しかし、風鈴があまりにも多く、その響きを含んだ風の音が、やや人工的な塊のように聞こえたことも否めない。風鈴の数をぐっと減らすならば、映像空間にいっそうの奥行きが生まれて、風鈴の音とともに漂ってくる気配の実在感が増したのでは、と思えてならない。

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C・ボルタンスキー《保存室(カナダ)》部分

ボルタンスキーは展示制作のドキュメンタリーのなかで、半世紀に及ぶ作家生活を回顧する展示の全体を一つの作品として見てほしいと語っていたが、展示空間という一つの作品に対しても、その内部に配された作品の一部に対しても、過剰を感じた。先の「アニミタス」シリーズもそうだが、もっと要素を切り詰めてほしいと思う場面がいくたびかあったのは確かである。しかし、独特の過剰さが作品の強度に結びついた作品もある。その代表例が《保存室(カナダ)》と題されたインスタレーションであろう。その空間の壁面には、死者が身に着けていた衣服が、びっしりと掛かっている。そのさまは、一人ひとりの生が、ある時期にこれほどおびただしく奪われたことの重さを突きつけている。

「カナダ」とは、アウシュヴィッツで囚人から剝ぎ取られた品々が貯蔵されている場所を指す収容所の隠語である。そこには、豊かな「カナダ」のように何でもあるのだ。ただし、そこに積み上げられた衣服には、死者の身体的な生が染みついている。そのような衣服の集積を前にしてその一枚一枚を目で追うとき、これを身に着けていた人々がいたことだけでなく、この人々が無残な死に追いやられたことに思いを馳せずにはいられない。ボルタンスキーが先の映像で、近親者とショアー/ホロコーストとの関係に触れていることからもうかがえるように、作家が作品のうちにその魂を回帰させようとしている死者が、歴史のなかで生を断ち切られた者であることも銘記されるべきだろう。

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C・ボルタンスキー《幽霊の廊下》部分

ボルタンスキーの作品は、このような死者に、その魂に捕らえられるかたちで遭遇する場を開く。彼の作品がその意味で「モニュメント」であることは、過去を想起すること自体が、死者と出会うことであり、記憶すること自体に亡霊の回帰が内在していることを告げているのかもしれない。新国立美術館の展示会場に新たに設けられた《幽霊の廊下》に影絵となって漂う天使たち──あるいは鬼神たち──は、このことの寓意像のようにも見える。魂を呼び覚ましながら、記憶すること自体を問うボルタンスキーの「モニュメント」に、今度は静かで小さな空間で向き合ってみたい。

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