原爆の図丸木美術館における母袋俊也展「魂−身体 そして光──《TA・GEMBAKUZU》《ta・KK・ei》」展を観て

母袋俊也の絵画に初めて向き合ったのは、2020年末から翌年の初めにかけて川越のCAFÉ & SPACE NANAWATAで開催された作品展「《ta・KK・ei2020》──『奇数連結』再始動」でのことだった。母袋は、マティアス・グリューネヴァルトが描いた磔刑図の綿密な調査にもとづく《ta・KK・ei》を1998年に制作している。それは、奇数の画面の連結によるシリーズに区切りをつけるものでもあったという。それから二十年以上の時を経てパンデミックのさなかに、グリューネヴァルトの磔刑図との対話を、そして「奇数連結」の絵画を再開したことに強く惹かれた。

磔刑図を含むグリューネヴァルトの《イーゼンハイムの祭壇画》は、1512年から16年にかけ、聖アントニウス修道会の施療院の礼拝堂のために描かれた。この施療院では、ペストをはじめ感染症の患者の治療も行なわれていたという。元はそのような場所に置かれていた磔刑図のイエスは、あらゆる病と傷を負って血を流しながら、襤褸のように十字架に垂れ下がっている。母袋の1998年の《ta・KK・ei》は、そのような磔刑図の基本的な方向性に忠実でありつつ、イエスの身体を闇のなかに浮かび上がらせる光彩の運動を、凝縮された仕方で、画面から湧き上がるように表現していた。

それから22年後に制作された《ta・KK・ei2020》では、暗い地からイエスの身体が浮かび上がる動きがよりはっきりと描き出されている。それと同時に、画面全体に、グリューネヴァルトの磔刑図とはある意味で対照的な、上昇する運動が加わっているのが印象的だった。その運動はとくに、三つの画面を貫くかたちで描かれている、一種の光輪のように見える環によって強調されていた。16世紀の初頭に、傷病を負うことを描き抜いた先に希求されていたものをも幻視しようとするかのような2020年の絵画の方向性は、感染症の恐怖に晒されている魂に語りかけるものと思われた。

その年の暮れに、これら二つの《ta・KK・ei》を前に母袋と対談する機会が得られたのは忘れがたい。このとき、2020年の《ta・KK・ei》は、磔刑図との対話にもとづく作品の、さらには新たな「奇数連結」の出発点になるはずだと語っていたのが心に残っている。その後母袋の《ta・KK・ei》はどのように展開したかを見てみたいと思い、原爆の図丸木美術館で開催されている「魂 Seele−身体 そして光──《TA・GEMBAKUZU》《ta・KK・ei》」展(2023年1月22日まで)へ出かけた。展覧会の表題にあるとおり、丸木夫妻の《原爆の図》との対話も展示されているのも興味深い。

今回の展覧会でまず目を引いたのは、2021年からの《ta・KK・ei》の新たな作品化のために、画家が《ta・KK・ei study》と呼ぶ膨大な習作が重ねられていたことである。そのなかでとくに印象的だったのは、一つの色にもとづくグリューネヴァルトの磔刑図との対話である。その様子を見つめていると、一見具象的で静的な画面を織りなす運動が見通されていく感触もある。なかでも、赤と緑という補色を基調とする二点の習作が印象的だった。赤の画面からは光の力が強く伝わってくる一方で、濃緑色の画面では、細い光の筋からイエスの身体が浮き彫りになっていく。

とりわけ後者は、2022年に制作された二つの《ta・KK・ei》の最初の作品、《ta・KK・ei 2022-1》の方向性に生かされているように思われた。そこでは、病と傷を負って蒼ざめつつ、人々が傷病に苦しむ地上へ降りていこうとするイエスの身体が、中央の画面に描き出されている。その身体は、一つの貌と化してこちらに迫ってくるかのようだ。その一方で左右の画面では、白と金色の光が翼をなすように湧き上がっている。それゆえ、垂直的な運動が強調されながらも、イエスの身体は絶妙な平衡の下に浮かび上がる。このことによって、蒼い身体の崇高さがより際立っているように感じられた。

この《2022-1》に先立つ《ta・KK・ei 2021》では、むしろイエスの身体を浮かび上がらせる光に表現の力点が置かれている。いくつもの層を示す黄金の輝きからは、苦悩を究めた後にこそありうる救いへの祈りも感じられる。これらの新しい《ta・KK・ei》の対照的な二作を見ると、それらにおいて、2020年の作品ではどこか分節されないままに画面に込められていたものが、習作を重ねた末に、グリューネヴァルトの磔刑図に潜在する力を、それぞれ異なった方向へ引き出す表現に結晶している。さらに《ta・KK・ei 2022-2》では、先の二作の異なった方向性が、変容と救済へ向けて総合されていると思われた。

広い展示室に掲げられた《2022-2》において際立つのは、前の二作より柔らかな色と上へ向かうヴェクトルである。色彩が施された画面は深い奥行きを感じさせるが、そのなかでイエスの身体は、変容しながら引き上げられていくように感じられる。その方向性は、中央の画面の上部に描かれた、翼を思わせるピンク色の形象によって、いっそう強調されている。この作品を見る者は、色彩に包まれながら、救済へ向かう上昇の運動に引き込まれていく。たとえそこにある救いが自分のためのものではないとしても。

このような《ta・KK・ei》の新たな表現には、母袋が丸木夫妻の《原爆の図》に取り組んだことも影を落としていると思われた。そして、対話の相手としてとくに第三部「水」が選ばれたのにも必然性があると感じられた。このモノクロームの作品においては、水面が独特の静けさをもたらしながら、画面ほぼ中央の母子像に集約される祈りと呼応している。それと向き合うことをつうじて生まれた母袋の作品は、水平軸に屏風などの偶数の画面を連結させる「TA」シリーズの一変奏なのかもしれない。それゆえ作品は、《TA・GEMBAKUZU》と名づけられているのだろう。

たしかに、ここでも水平軸は意識されている。そして、それは《原爆の図》の水面と照応するものと思われる。しかしその一方で、丸木夫妻の「水」を見るときに引き込まれざるをえない横の流れが、母袋の作品では、白い画面によって断ち切られていることも感じないわけにいかない。「水」を前にすると、しばしば横の流れを追うように絵を見てしまう。それとともに、絵の語りを聴こうとするのだ。この流れが母袋の画面では遮断される。まさにそれによって、「水」に潜在する身体の動きが、新たな絵画のうちに凝縮されたかたちで、その力とともに引き出されるのである。

その動きは、例えば左端の画面に折り重なっていく犠牲者が示す、断末魔の苦しみに身をよじらせる動きである。死にじかに晒されながらもがく身体の運動とも言えよう。それは何かを摑もうとしながら、屍と化して積み重なっていく。その運動を黄金の色で際立たせながら、母袋はそこに、肉体の死が避けられないなかでの魂の救済への祈りを感じ取ったのかもしれない。身体が原子爆弾の威力の前に脆く崩れていくなかにこそにある祈りの強さは、右の画面の人々の表情が崇高に浮かび上がるなかからも感じられる。左の画面で、淡い色彩のなか、犠牲者の塊がどこか宙に浮いているように見えたのも印象的だった。

一連の出品作を見ると、母袋は、「水」に描かれた原爆の犠牲者の祈りと、グリューネヴァルトの凄惨な磔刑図に込められた救済への希求に、相通じるものを感じ取っているように思われる。そのことは、自身の絵画を、とくにその媒体を含めた形式を批評的に省みながら、グリューネヴァルトと丸木夫妻の作品と粘り強く対話し続けてこそ可能だったと考えられる。展覧会をつうじて、母袋の絵画には、過去の作品の潜在力と絵画そのものの可能性の双方が、対位法的に浮かび上がっているという感触を得た。そして、今回展示された《ta・KK・ei》と《TA・GEMBAKUZU》の表現は、パンデミックの脅威に、戦争と核の脅威に晒されている者の心の琴線に触れうるものと言えよう。これらのさらなる展開を待ちたい。

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