山口裕之『映画を見る歴史の天使──あるいはベンヤミンのメディアと神学』を読んで

81+oQZcBq6Lジョルジョ・アガンベンの『残りの時──パウロ講義』(岩波書店、2005年)の日本語訳に寄せられた、訳者の上村忠男と聖書学研究者の大貫隆との対談による解説のなかで話題になっていることの一つに、「日本のベンヤミン研究者における非神学化志向」がある。大貫は、「日本のベンヤミン研究者には総じて、ベンヤミンを非神学化しようという傾向が強く、それが暗黙のプレッシャーとして働いている」と述べ、それに応じて上村は、今村仁司の『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波書店、2000年)が「メシア」を「認識の機能」に変換していることを、「非神学化」の傍証として挙げている。

1990年代から今世紀初頭にかけての日本におけるベンヤミン受容の一傾向として、「非神学化志向」があったのは確かだろう。それはとくに彼の思考を、同時代の思想と結びつけようとする際に顕著に表われてきた。もしかすると、それとともに例えば、「メシア」についてベンヤミンとデリダのあいだにある理解の隔たりが掘り下げられないままになっているのかもしれない。しかし、ベンヤミンの著作と向き合う研究者のあいだで、救済の思考としての彼の神学の内実が絶えず問われてきたことも忘れられてはならない。研究者たちは、彼の神学が歴史哲学のみならず、言語哲学にも、さらには美学にも貫かれていることを見届けてきた。

例えば、竹峰義和の『〈救済〉のメーディウム──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会、2016年)は、副題として記されている思想家の布置においてこの点に迫るとともに、ベンヤミンによる救済の媒体の探究を、その「死後の生」に開いた論考として特筆されるべきであろう。ベンヤミンの没後80年を迎える今年、彼の神学的思考に正面から取り組みながら、その展開を彼のメディア論のうちに見届ける論考が現われた。すでに『ベンヤミンのアレゴリー的思考』(人文書院、2003年)によって神学と深く結びついたアレゴリー論の構成を明らかにした山口裕之の『映画を見る歴史の天使──あるいはベンヤミンのメディアと神学』(岩波書店、2020年)である。

本書の冒頭で著者は、「ベンヤミンはメディアの理論家としてしか理解できない」というノルベルト・ボルツの言葉を引いているが、すぐ後でその顰みに倣うかたちで、「ベンヤミンは神学的思考の理論家としてしか理解できない」と述べている。彼の思考は、神学にしてメディア論なのだ。そのことを示すために著者は、「技術的複製可能性の時代の芸術作品」を、その初稿のおよそ5年後にまとめられる「歴史の概念について」のテーゼの視点から読み、また逆に、複製技術論の側から歴史哲学の救済をめぐるテーゼの潜在力を照らし出すことを試みている。本書の表題には、そのような著者の視座が示されている。

このことは同時に、ベンヤミンの思考を徹底的に「アレゴリー的思考」として読み解くことでもある。『ドイツ悲劇の根源』においてバロック悲劇の寓意的表現の技法を論じる文脈で導入され、「カール・クラウス」をはじめとする著作で繰り広げられるアレゴリー的思考は、一方で文字と図像が緊密に結びつき、ハイパーメディアの姿を先取りするかのようなアレゴリーの表現としての側面に固執する。他方でこの思考は、アレゴリーの表現が、神的な次元からの離反し、世俗化を重ねた歴史的世界のただなかに、神的な根源の断片を見て取ることも捉えている。そのような思考が、メディア論と歴史哲学の双方で貫かれていることを、著者は見届けようとしている。

その際に著者はまず、「オーラの衰退」と軌を一にした技術的複製可能性の発展のただなかで、新たな魔術性──それは仮想的な身体性でもある──を帯びるに至るメディアの変貌を跡づけている。それとともに、それと不可分の事柄としてベンヤミンが人間の知覚経験の歴史的な変容を挙げることの意義も、感覚の思想史から浮き彫りにしようとしている。彼はこの思想史を踏まえたうえで、映画などの触覚性を、その可能性へ向けて掘り下げようとしている。だからこそ、「技術的複製可能性の時代の芸術作品」において繰り広げられているのは、「知覚論」としての美学なのである。

このようなベンヤミンのメディアの美学の検討にもとづいて著者は、現実世界からアレゴリーを救い出す技法としてモンタージュを捉えようとしている。それは同時に、複製技術論において、映画をその触覚性において成り立たせる技術としてモンタージュが重視されることと、『パサージュ論』において「私の仕事は文書によるモンタージュである」と語られることとを接合することにほかならない。著者によると、映画のモンタージュも、歴史のモンタージュも、何よりもまず中断の技術である。いずれも、破局に満ちた歴史的世界のただなかに根源の破片が入り込むのを、時間の中断と縮約によって捉え、『ドイツ悲劇の根源』に言われる「復活のアレゴリー」として映し出すのだ。ベンヤミンの美学は、人間の知覚がそのことに応じうることをも示していよう。

もしかすると、こうして「メシア的時間」の破片を救い上げて配置し、そこに凝縮されているものを解き放つことのうちにメディアの可能性があるのかもしれない。そして、そこに救済があるとすれば、メディア論とは、まさに救済の思考としての神学であることになろう。著者は、ベンヤミンの神学がユダヤ教の神学よりもむしろ、同時代のプロテスタント神学──とくにカール・バルトの弁証法神学──の強い影響の下で形成されたことを、マイケル・ジェニングスらの最新の研究にもとづいて指摘している。このことは、同時代の思潮と歴史的状況に向き合うなかでベンヤミンの神学が深められたことの傍証でもあろう。

この神学が考える救済は、著者によれば、けっして楽園への回帰といった予定調和的なものではない。むしろ、歴史的な世界の徹底的な破壊として経験されざるをえないという。この破局を神話的な夢想からの目覚めとともに経験することを媒介するものとして、メディアの技術的な可能性を問うところに唯物論があるとすれば、それはつねに神学でもある。「歴史の概念について」の最初のテーゼは、そのことのアレゴリーなのだ。このようなメディア論における神学と唯物論の相即を示す本書は、ベンヤミンの神学ならびに救済の概念の再考を促しながら、技術的なメディアにおける現実認識の革命的とも言える変容の可能性へ向けて、彼の神学的思考を辿り直すことへ誘っている。

「灰谷正夫コレクション」展を観て

haitani_flyer_omote_v3解剖された人体の臓器の連なりを思わせる形態の連鎖は、ほの暗い画面のなかから、その深い奥行きを感じさせるリズムとともに浮かび上がる。その運動は静けさに貫かれていて、画面全体の造形も、事物の組成に及ぶ画家の眼を感じさせる。それゆえ、赤茶色に揺らめく形態の連鎖もどこか硬質で、その傍らに配された紫色の形態とともに、瑪瑙のように見えなくもない。

こうして有機物と無機物の境界を、どこまでも緻密な造形によって曖昧にする画面を構成することで、画家は何を目指したのだろう。みずからの身体を、鉱物を含む自然の事物のあいだに返そうとしたのだろうか。この絵の表題は《献体》。成立時期は不明という。画家の名は灰谷正夫(1907〜85年)。広島県北部の吉田に生まれ、戦前から戦後にかけて広島の前衛的な美術運動を牽引した一人である。

この作品に出会ったのは、灰谷の作品を、彼が画家たちとの交流のなかで蒐集した作品とともに展観する「灰谷正夫コレクション──画家・灰谷正夫がふれたもの」においてである。会場となった廿日市市のアートギャラリー・ミヤウチは、灰谷も通った「画廊梟」のオーナーで、作家でもあった志條みよ子の「梟コレクション」を所蔵しているが、そこからもこの画家と関わりの深い作品が出品されていた。

灰谷の経歴でまず注目されるべきは、靉光、野村守夫とともに広島市の印刷所で図案工として勤めたことが、画家を目指すきっかけになったことである。靉光の作品、とくに小品を見るたびに思うのは、画家の線描の恐ろしいまでの緻密さであるが、それは印刷所での経験を踏まえて考えられる必要があるかもしれない。同様に灰谷の画面の緻密さの源の一つも、図案工としての経験にあるのではないだろうか。

ちなみに靉光も広島県北部の生まれであるが、同郷の友を追うかたちで灰谷も東京へ向かう。そして、古賀春江に師事したことが、灰谷の画風を方向づけたと言えよう。彼は古賀を唯一の師と呼んでいたという。古賀は、日本で最も早くパウル・クレーの美術の影響を受けた一人である。灰谷も、クレーに私淑するようになる。晩年にアトリエを訪れた美学者の金田晉によると、クレーの素描集が開かれていた。

今回の展示には、この素描集に加え、灰谷が折々に参照してきたと思われるクレーの画集も、参考資料として展示されていた。さらに灰谷は、クレーの作品の数点をみずから複製していた。灰谷をここまでクレーに引き寄せたものは何だったのだろうか。ともあれ、その芸術に取り組んだことは、灰谷が構成する画面に独特の伸びやかさと奥行きをもたらしているように思われる。

なかでも、《まつり》と題された梟コレクションの一点からは、細長い形態の連なりが風にそよぐような動きが、独特のリズムとともに、爽やかさをも感じさせながら伝わってくる。個々の形態の描き方には、クレーも示した線の探究も見て取ることができよう。あるいは、色紙に描かれた、赤と黒を基調とする抽象的な風景には、1920年代のクレーを思わせるような深沈とした奥行きがある。

ちなみに灰谷は、展示資料によると、1914年頃からクレーが盛んに行なった、画面の切断による再構成にも興味を示していたようだ。ただし、灰谷の絵画を貫く、執拗なまでの緻密さに関しては、別の影響関係を考える必要がある。これについてつとに指摘されてきたのが、新聞社での写真修整技師としての経験である。灰谷は、1943年から中國新聞社で写真修整工として働いている。

その経験をつうじて、彼は色のぼかしをも、色合いの異なる点の集積へと分析する眼を養ったという。そのような眼は、例えば無題の本当に小さな画面に描き込まれた、色彩の変化の細密さに表われている。ここからはさらに、写真のイメージと絵画の関係とは異なった、機械的な映像技術と絵画の関係も見て取ることができる。技術が絵を描く眼を作ったことの意義は、一考に値しよう。

灰谷は、新聞社の写真修整工として原子爆弾の投下に遭ったわけだが、彼の眼は、被爆後の惨状を描くことを許さなかった。あまりにも酷いと感じたという。この点は、いち早く壊滅した街の様子を描き取った福井芳郎とは対照的である。福井と灰谷は、戦後の広島で活動を共にすることになる。そのような画家の一人として、入野忠芳も忘れることができない。彼の《裂罅》の一枚も展示されていた。

晩年の灰谷が注目していた一人に、殿敷侃がいたことも、彼のコレクションは伝えている。今回展示されていたなかで、《ドームのレンガ》は、恐ろしいまでに稠密な点描にもとづくエッチングである。そこに灰谷は自身の眼に通じる何かを見て取っていただろうか。今回あらためてこの作品と向き合い、この一個の瓦礫のなかに、廃墟としての世界が浮かび上がるのを見る思いがした。

灰谷は1985年に死去しているが、その遺体は、遺言により広島大学医学部に献体されたという。とするとと、《献体》という作品には、この遺言に込められたものが描かれているのだろうか。それは何だったのだろう。彼の芸術を貫く思想について謎が深まるが、呆然とする会葬者を前に、遺体が献体先へ運ばれていく様子を、井上長三郎が伝えていた。彼の魅力的な作品も、灰谷は所持していた。

灰谷の芸術を、それをめぐる交流関係とともに伝える今回の「コレクション」展において、とりわけ貴重と思われたのが、山路商の映る写真が、彼の作と思われる《黄色イカベ》とともにいくつも展示されていたことである。アトリエに芸術家を集め、ジャンルを越えて結びつけようとした、そして芸術運動としてのシュルレアリスムを実践しようとした山路の遺志を継ごうとした一人が、灰谷だったのかもしれない。

シュルレアリスムの灰谷への影響は、例えば1967年頃の作とされる無題の作品に、凝縮されたかたちで表われていよう。そこには、海を思わせる画面にいくつものマックス・エルンストらを想起させる形態が、有機性と無機性のコントラストを示しながら浮かび上がるが、それらが呼応し合うなかで、両者の境界も、さらには水質のものと繊維質のものとの境界も定かでなくなる。

戦争と原爆によって取り返しのつかないかたちで失われた、1945年以前の広島の前衛的な芸術運動の潜在力を測るためにも、灰谷の芸術の意義を、彼の作品のみならず、他者の作品の蒐集を含めた活動からも探る研究が待たれる。まもなく奥田元宋・小由女美術館丸木位里展が始まる(7月2日より)が、この画家がそのような広島の芸術運動のなかにいたことも、これを機にあらためて省みられるべきと思われる。

広島のgallery Gでの「松澤宥+植田信隆」展のことなど

早いものでもう五月が終わろうとしています。そう慌ただしく動き回っているわけでもないのに、時が過ぎるのが速いのは、やはり大学の「オンライン授業」への対応に追われているからでしょう。一週間があっという間に経つ印象を受けます。これに関して個人的には試行錯誤が続いていますし、立場柄さまざまな苦労を仄聞していますが、そのなかで授業のツールに関する各人の相性があることも感じます。その選択の余地が残されている状況は、恵まれていると言えるのかもしれません。

授業のみならず、各種の会議もオンラインで行なわれるようになってすでに久しいわけですが、これを含めた「ミーティング」が一日にいくつも重なると、言いようのない疲労感に襲われます。たとえディスプレイ越しに顔が見えていても、参加者の動きや反応を理知的に、言わば不自然に読み取ろうとするからかもしれません。あらためて、コミュニケーションが全身で行なわれていることを感じます。日にいくつもオンラインで授業を受ける学生の身体的な負担も考えて、授業を組み立てる必要がありそうです。

こうして奇妙に忙しく過ごすなかで、芸術にじかに触れる機会をほとんど持てないでいるわけですが、そのことは仕事にもじわじわと影響を及ぼしつつあります。小さな原稿の執筆をはじめ、目前の仕事はこなすことができたものの、最優先に取り組むべき仕事については足踏みしてしまいました。芸術に身体的に接することから、いかに多くの刺激を得てきたかを噛みしめているところです。そのようななかで、gallery Gで5月19日(火)から始まった「松澤宥+植田信隆展」を観ることができたのは、非常に貴重でした。

1a8c5b546da0bf38fd825b6828b06e49-212x300-2本展は、2002年から晩年の松澤宥と交流を続け、2004年に広島市現代美術館で開催された「松澤宥キュレーション展」にも深く関わられた広島の美術作家、植田信隆さんの企画による展覧会です。「ヒロシマから消滅する人類へ|警鐘は繰り返される」というテーマの下、会場には1960年代からの松澤のコンセプチュアル・アートの展開の足跡を伝える作品とともに、彼の言葉と植田さんの絵画が結びついて生まれた「消滅するヒロシマに捧げる九つの詩」も展示されていました。

広島と長崎への原爆投下の衝撃を受け止めるなか、そこに至った物質的な文明世界とその主体としての人類の消滅を見通し、この破局の先へ「行こう」という思想を、アートを根底から変える芸術に高めた松澤の問いに、被爆から75年になる今向き合う可能性を探る展覧会と言えるでしょう。その開幕に際してのシンポジウム「松澤芸術を語る」において、パネリストとしてお話する機会をいただきました。このような機会を設けてくださった植田さんとギャラリーのみなさまに心から感謝申し上げます。

展覧会場で無聴衆で収録されたシンポジウムでは、植田さんのお話から、「量子芸術」に至る松澤宥の芸術とその背景について学ぶことができました。私は、3年前に嶋田美子さんが手がけたOTA FINE ARTS, TOKYOでの展覧会「ニルヴァーナからカタストロフィーへ──松澤宥と虚空間のコミューン」で初めて彼の芸術に接して、その後彼の『量子芸術宣言』(1992年)を読んで、さらに今回の展示を観て考えたことを、拙いながらお話しました。シンポジウムの模様は、すでにYouTubeで公開されています。

その準備を進める過程で興味深く思われたのが、1970年代前半にメール・アートとしても繰り広げられた松澤宥の「破局芸術」ないし「消滅芸術」をめぐる思考でした。松澤は一貫して、文明世界を構築する主体としての「人類」が自滅へ向かっているという見通しの下、その自己滅却の先へ「行こう」と呼びかけ続けていたわけですが、彼は、それに対する応答の連鎖が、精神のコレスポンデンスに生きる思想のコミューンを形成する可能性も探っているように見えます。

837131291271f98fe2b8f2c49b2ed808-723x1024それによって物質的な「人類」の世界の彼岸にある別の世界を切り開くことを、松澤は「世界蜂起」として構想していたのかもしれません。このことは1970年代前半には、核開発の進展と、それとともに進んだ環境破壊というかたちで、「人類」の世界の危機が露わになったことに呼応するものだったと考えられます。そして、危機を前に、今の現実としての世界の破滅を突き詰める姿勢は、ヴァルター・ベンヤミンが第一次世界大戦直後の1920年頃に語った「ニヒリズム」に通じるものがあります。

とはいえ、この頃松澤が、内外の植民地化として進行し、現在も続いている日本の歴史、さらにはそれを貫く支配体制と厳しく対峙するなかから、人類の消滅を構想していたことは忘れられてはならないという思いを、今回のgallery Gでの展示を観て新たにしたところです。作品の一つに次のような言葉が含まれていることを忘れることはできません。「千数百年も俺ら弱者をしいたげつづけて来たヤツの末を千数百年間の俺らの先祖にかわってキチンとオトシまえをつけてから逝こうじゃないか」。

弱者を虐げてきた支配の仕組みと対決し、その歴史を終わらせる道を探ることと、「人類」の彼方での、さらには重力の彼岸での生存の道を探ることとが、松澤の思考においては表裏一体であると考えられます。そのことは「量子芸術」の展開においても、基本的には変わっていないでしょう。そして、このような思想的な営為としての芸術は、「アート」のあらゆる制度を越えていきます。このような行為としての芸術の姿から問いを受け取ることの重要性を、今回の展示に接してあらためて実感しました。

他方で最近、今年の秋に予定されていた「ひろしまトリエンナーレ2020 in Bingo」の中止が決定されるに至った経緯においては、ここで触れた、生存へ向けて歴史的な現実を問いただす芸術を軽んじる広島県当局の姿勢が際立ちました。美術の専門家を排除して、論争を呼ぶ可能性のある作品をスクリーニングする委員会を設け、芸術を「観光資源」として飼い馴らそうとする当局の態度が、実行組織の瓦解の要因であることは疑いようがありません。そして、その背景にある、作品を「売り物」と見なす立場の前提をこそ、松澤は倦むことなく批判し続けたのではないでしょうか。

ともあれ、このような行政の姿勢は、それが本当に住民の幸福な生を追求するものなのかという点にも疑念を抱かせます。芸術は、現在の生を根底から揺さぶる問いを投げかけます。その問いを受け止めながら、全身で作品に向き合うなかに深い悦びがあることを、古代から美学者たちは洞察していました。そして、この地点から人は生を真に愛しうることを知っているからこそ、心あるヨーロッパの文化行政の責任者は今、生存の糧としての芸術の担い手に手厚い支援を差し延べているのです。来たるべき時のために。

とくに危機的な状況における芸術への支援については、「温度差」をはるかに越えた彼我の差があり、暗澹とせざるをえないのも確かです。しかし、列島のいわゆる「コロナ禍」の歴史的な現実と対峙しながら、生に踏みとどまる芸術の潜在力を拓く思考を積み重ねておくことが、来たるべき時に、権力に足元をすくわれることなく新たな現実を創り出すために必要なのではないでしょうか。松澤の芸術は、そのような思考のコレスポンデンスが、「世界蜂起」に結びつきうることを語りかけているように思われます。

曝されながらともに生き延びるために

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最後に残った桜の花

世界保健機関(WHO)が2020年3月11日に、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が「パンデミック」であると宣してから50日が経とうとしています。「パンデミック」という言葉は、哲学者のマルクス・ガブリエルが、集英社新書編集部のウェブサイトに日本語訳が掲載された論考「コロナ危機──精神の毒にワクチンを」で述べているように、語源的には「すべての(パン)」と「民(デモス)」という二つの語から成っています。それゆえ「パンデミック」という複合語自体には、「すべての民に関わる」という意味しかないのですが、今日ではこの語はもっぱら、ある疫病が世界中の人々に関わる流行を示していることを指して用いられています。

こうした言葉の分析を俟つまでもなく、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)には、今やすべての人が曝されています。誰もがこれに感染しうるのです。できるのは、感染の危険を遠ざけると思われる手だてを講じることだけです。だからこそ、それぞれの住まいからできるだけ外に出ないこと、仕事をするにしても、在宅で働くことが推奨されているのです。しかし、そうして「ステイ・ホーム」を続けることが、住まいの外で働く人々によって支えられていることは、けっして忘れることができません。食品をはじめ生活に必要なものを運んでくれる人々や、それを店で販売する仕事に就いている人々なしには、「リモート」の仕事も、「ホーム」での生活も成り立ちません。

「ホーム」に留まっていても、病気になったり怪我をしたりします。それに、すでに病を抱えていたりなどして医療を絶えず必要とする人々もいます。こうした人々の生を支える医療、看護、介護の仕事を病院などの施設で、あるいはそれぞれの住まいを回りながら続けている医師や看護師、介護士がいます。誰もが新型コロナウイルスに感染しうるわけですが、もしその感染症が表われたら、これらの人々の助けなしに生き延びることはできません。にもかかわらず、医療や介護の現場に、それに従事する人々を感染から守るための物資が行き届いていない現状には心が痛みます。ビニール袋で仕切りや「防護服」を作り、フェイスガードも自作しなければならない状況下で、厳しい労働を続ける人々がいると聞きます。

それから、ゴミの収集など、生活環境の衛生状態を保つのに不可欠な仕事に従事している人々がいることも、忘れられてはなりません。もしそのような仕事が続けられなくなったら、住民全体の感染の危険が一気に高まることは言うまでもありません。このように、新種の、そして目に見えないウイルスにすべての人が曝された状況は、同時に人間が造った世界に、そしてそのなかの「ホーム」に住まう生存そのものが、住まいの外で働く多くの人々に支えられていることを露呈させました。しかも、この人々は今、相対的に大きな感染の危険に曝されています。さまざまな理由から、自分を護る住まいを持つことができない人々がいることも、忘れられてはならないはずです。

WHOは、新型コロナウイルス感染症が「パンデミック」化するなかで、「インフォデミック」の流行も世界的に拡がっていると指摘し、注意を呼びかけています。「インフォデミック」は、疫病が拡がるなかで、大量の、多くは根拠のない情報が氾濫するなか、パニック的な行動のようなかたちで、その影響が現実に表われることを指します。買い占めのような行動が、その典型的な症候ですが、スマートフォンなどの情報端末を介し、絶えずインターネット上の情報に接しているなか、世界中のほとんどすべての人がインフォデミックに巻き込まれていると言えるでしょう。そのような状況で、他者に対する攻撃性が剝き出しになっていることも、看過できないことです。

すでに欧米をはじめ世界各地で他者に対する攻撃性は、人種差別的なかたちで現われています。とくにアジア出身者が攻撃の対象になっていることには、胸が痛みます。それもさることながら、この列島においてとくに由々しいことと思われるのは、「何々人お断わり」のような外国人に対する差別的な言動が拡がりを見せ、さらには看護や介護の仕事に就いている人々や、運送の仕事に就いている人々のように、自分の生活を支えてくれている人々を、社会的に排除する攻撃的な言動が見られることです。どうしてこのような人々を深く傷つけるようなことができるのでしょう。そこには、防衛本能だけでは片づけられない、より根深い問題が表われているのではないでしょうか。

41cbey-9uml-_sx298_bo1204203200_この列島では、新たなウイルスに人々が曝されるなか、社会における差別と排除を可能にしてきた、ひいては関東大震災時に朝鮮人らの集団虐殺の要因でもあった他者観も、歴史的なものとして露呈しつつあります。それは、今なお列島に根を張っているのです。いわゆる「コロナ禍」は、「ニッポン」の地金を剝き出しにしたと言えるでしょう。そのことを前に、哲学者のテーオドア・W・アドルノが戦後に語った言葉を噛みしめる必要を感じています。「過去の出来事の原因が取り除かれた時初めて、過去は総括されたのだと言ってよいかもしれません。過去の出来事の原因が残り続けているからこそ、過去の呪縛は今日まで解かれることがなかったのです」(『自律への教育』中央公論新社、2011年、36頁)。

アドルノの友人ヴァルター・ベンヤミンの言葉を借りるなら、「歴史を逆なで」して捉え返し、「ニッポンジン」であることにこびりついたその地金を引き剝がずことなしには、「コロナ後」の社会はありえないとすら思えます。なぜなら、新種のウイルスに曝されるなかではっきりとしたのは、生存そのものが、幾重にも他者に依存していて、生き延びるためには助け合わなければならないという、それ自体としては当たり前の事実だからです。そして、「リモート」の仕事と「ステイ・ホーム」が、家の外で働く人々に依存しているとするならば、そのような人々の労働環境の安全と生活の保障こそが要求されなければならないはずです。にもかかわらず、そこへ攻撃性を振り向ける人々がいるのが現状です。

厄介なのは、関東大震災時の虐殺のときとまったく同様、攻撃的な行動がデマに対する脊髄反射と、それとともに高じるある種の「正義感」に起因していることです。「正義」を振りかざすところに正義はありません。そこに他者の排除のみがあることは、「正義の戦争」の歴史が物語っています。とはいえ見過ごしてはならないのは、「われわれの正義」を強く語ろうとする人々が、「戦争」の言説に容易に感染することです。権力者が発する「ウイルスとの戦い」のような空疎なスローガンに、いとも簡単に共鳴してしまうのです。何かとの「戦争」という言葉は、自己中心的な権力者の常套句です。それによって、権力の維持と利権の拡大のための行動に人々を動員し、「頑張る」という受忍を強いるのです。

この列島において、その「戦い」がある時点までは「オリンピック」なる巨大な「スポーツの祭典」を「予定通り」開催するためだったことも明らかになりつつあります。ちなみに、「コロナとの戦い」それ自体には勝ち目はありません。感染症の専門家が語っているように、最終的には、ウイルスとの居心地がよいとは言えない共棲の道を探るしかないでしょう。その条件を整えるために、「コロナ禍」に立ち向かうことは必要です。その際に直視しなければならないのは、この禍をその要因とともにもたらしているのが、現政権だということです。それが利権構造を「オリンピック」を実現させようとするほど拡大するのを、すでに七年にわたって許してしまいました。

WHOのテドロス事務局長がいわゆるパンデミック宣言を出したのが3月11日だったことは、この列島においては暗示的です。九年前のその日に起きた大震災とともに起きた福島第一原子力発電所の事故の後、水、土、そして空気の放射能汚染は止んでいません。現政権は、その危険から人間を含めた生きものたちを守るための施策には力を注ぐことなく、原発の再稼働を進めてきました。そのような、列島に暮らす者の安心立命ではなく、自分たちの利権を追求するやり方を糊塗するために、マスクの一件が象徴するように、杜撰な手口で「やってる感」を演出するわけです。しかも、利権のために。それに騙されて殺されることなく、ともに生き延びる道こそが探られなければならないはずです。

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力強い香りを放つジャスミン

ウイルスに等しく曝された、しかし感染の危険度において差異が生じてしまう状況を見据えながら、この列島でともに生き延びる道を探るためには、排他的な他者観を国民性と表裏一体のものとして形成した過程として、歴史を見つめ直すことがまず必要でしょう。それをつうじて、他者の生き方を想像する回路が開かれるはずです。そうして曝されてある弱さを労りあうことが、ともに生き延びることを可能にするのではないでしょうか。今は若葉を茂らせ、花を咲かせている生命の営みに目を凝らし、耳を澄ますことがその重要性に気づくきっかけになりうることを、ローザ・ルクセンブルクは、獄中から若い友人に語りかけていました。「鳥の歌声がいつも同じ調子にしか聞こえてこないというのは、無頓着な人間の粗雑な耳だけのことです」。

早春の仕事と所感

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広島市植物公園にて

Social distancingという言葉を人類で共有しなければならない状況になりました。新型コロナウィルス感染症(Covid-19)の広がりは、人と人が住まいの外でじかに接触することを、いかなる場合にも極力避けなければならない段階に来ています。息苦しく、気持ちの塞ぐ境遇を脱する見通しは当分立ちそうにありませんが、状況をこれ以上悪化させないためには、今はsocial distancingに努めるしかないのは自明でしょう。在宅での生活の支援を含め、その条件を社会で整えなければならないのは、言うまでもありません。

Social distancingという言葉は、一般に「社会的距離」と訳されているようですが、socialという単語には「社交的」という意味もあります。人付き合いを続け、共に生きていくために、互いの立場や境遇に可能な限り配慮しながら、今は感染拡大の防止に必要な物理的距離を保つ、というようにsocial distancingの意味を理解してはいかがでしょう。国家のことを語るのは正直気後れしますが、このことは国と国の関係にも当てはまるでしょう。特定の国を一方的に遠ざけるようなことは、後に禍根を残すだけです。

むしろ国際的な相互理解にもとづいて、国境での人の出入りのコントロールを検疫を含めて強化するとともに、帰国者を含めた入国者の一定期間の隔離が必要ならば、そのための移動と滞在生活の条件を保証することが、まず必要でしょう。そして、新型コロナウィルスへの感染を広げないために今必要なsocial distancingが何かを、国内にいるすべての人に対し、科学的な根拠にもとづいて論理的に説明すると同時に、社会的な行動制限に伴う損失を埋め合わせる枠組みを提示したうえで、国内での感染防止策を徹底することが、政府の第一の責務のはずです。

残念ながら、何ら根拠のない各種学校の休校「要請」が象徴するように、この国の政府は、自分たちの「やってる感」を演出することに血道を上げています。その中枢を占める人々の言動からは、社会的な行動が制限されざるをえないなかで、国内に生きる人々の生活を保障することへの真摯な問題意識が感じられたためしがありません。それが少しでもあるなら、「商品券」を配るなどという発想は出て来ないはずです。にもかかわらず、そのような政府が「緊急事態宣言」すら出せるようになってしまいました。このことこそが生命の危険です。

それもさることながら、新型コロナウィルスの人から人への感染が始まった頃から危惧しているのが、感染症の流行によって人々が分断され、差別が横行するようになることです。すでにそれはさまざまなかたちで現われています。今回のウィルス禍は、人々の心の奥に潜む差別意識を剝き出しにしただけでなく、マスクや食料品を不必要に買い集めようとする行動が示すように、高度に情報化された新自由主義の浸透が、いかに人間の魂を蝕んでいるかを露呈させました。

今は、根拠のない情報にけっして躍らされることなく、それぞれの住まいで知恵を深め、それを身体的接触を介することなく交換し、互いの立場を理解し合いながら、現在の苦境をともに潜り抜ける道を探る時でしょう。Social distancingという言葉は、このことを指し示していると思われます。その際に最も頼りになるのが本でしょう。本は、自分を時空を隔てた他者と結びつけながら、自分の境遇をその歴史的な背景を含めて照らし出してくれます。Social distancingが、そのような良書との出会いの契機になることを願ってやみません。

それにしても、現在の厳しい状況の下で多くの文化的な催しが中止や延期を余儀なくされていることは寂しいことですし、何よりもそのために大きな経済的な損失を負う組織や、フリーランスのアーティストの苦悩を思うと言葉がありません。一日も早く文化を担う組織の存続とアーティストの生活を保障する仕組みが整えられる必要があるはずです。文化に携わる人々が、この社会に生きる人々の魂の陶冶を担い──これが「文化」の原義です──、社会の礎を築いていることを、今こそ省みるべきでしょう。

今からすると、2月の15日と16日に広島で細川俊夫さんの《松風》の公演が無事に行なわれたことは奇跡のようにすら思われます。Hiroshima Happy New Ear Opera IVとして、アステールプラザの能舞台を用いて開催された上演には、両日とも満席に近いお客さまにお越しいただきました。主催組織のひろしまオペラ・音楽推進委員会の一員として、あらためて感謝申し上げます。非常に充実した内容の上演になったと思います。すでにMercure des Artsに能登原由美さんによる公演評が掲載されています。

1268前後しますが、『週刊金曜日』2020年2月14日号に、旧陸軍被服支廠倉庫の再生へ向けて「戦争と被爆の記憶が刻まれた建物をアジア各地域と連帯する文化拠点に」と題する小論を寄稿させていただきました。「加害と被害、二重の記憶をとどめる戦争遺構」というテーマの下で掲載されています。被服支廠が戦争の時代にどのような場所だったかを切明千恵子さんの証言を基に掘り下げ、解体へ向けた県当局の動きと、それに抗して保存を求める運動を浮き彫りにした宮崎園子さんの「解体計画に揺れる広島・被服支廠」と併せてご笑覧いただければ幸いです。

3月7日に発売された講談社の文芸誌『群像』2020年4月号の「論点」の欄には、「抗う言葉を分かち合う──芸術と批評の関係をめぐって」と題する小論を寄稿させていただきました。この息苦しい時代に芸術が何でありうるかを、ニーチェの『悲劇の誕生』の顰みに倣えばベンヤミンの精神から、批評との緊密な関係のうちに探る内容の論考です。批評的な反省を内在させた創作と、言説としての批評が協働し合うなかに、生命があまりにもないがしろにされる流れに抗い、生きることに踏みとどまる芸術の営みがありうるのではないか、という考えを表題に込めました。

202004表題に掲げた芸術作品を「抗う言葉」と見る視点は、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』、それに触れた詩人パウル・ツェランのビューヒナー賞受賞講演「子午線」、そしてビューヒナー戯曲の最終部のリュシールの言葉を用いたヴォルフガング・リームの《街路、リュシール》を論じることをつうじて得ました。今年の1月25日に東京交響楽団の定期演奏会でリームの作品を、角田祐子さんの素晴らしい歌唱とともに聴けたことは、拙稿を綴る重要な契機の一つとなりました。

今回の小論では、ベンヤミンの「写真小史」などの議論に接続させるかたちで、佐々木知子さんの写真集『Ground』所収の長崎の写真を、新国立美術館で開催されていた「DOMANI・明日2020」展で見た藤岡亜弥さんの広島の写真とともに取り上げています。佐々木さんの写真と出会えたこと、そして藤岡さんの「川はゆく」シリーズに向き合う機会を得たことも、拙稿の展開の重要な契機となりました。

拙稿の後半では、ファシズムによる「政治の審美主義化」に抗する「芸術の政治化」をめぐるベンヤミンの議論を、「ディセンサス」を鍵語とするジャック・ランシエールの芸術論とも照らし合わせ、複数性を生きる民衆を創造する芸術の可能性にも触れました。その際に、作品の「抗う言葉」を構成し、伝える言説としての批評の役割にも論及しています。美術出版社の『美術手帖』4月号のテーマが「表現の自由」ですが、それをめぐる議論とも緩やかに呼応する内容もあるかと思います。

Ground_展示DM_book obscura_omoteこの間、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書)をめぐって二つの動きがありました。まず、2月29日に本川町のREADAN DEATにて、写真家の佐々木知子さんと「土地の記憶、闇を歩く批評」と題して対談を行ないました。丁寧に準備してくださったおかげで、選りすぐりの本と器に囲まれながら、佐々木さんの写真集『Ground』に収録された長崎の写真とそれが喚起する記憶について、またある場所に立って写真を撮る行為と言葉を発することの関係について、拙著の内容とも絡めながら密度の濃い議論ができました。

佐々木さんとの対談では、カーテンを引いて視界を遮断することなく、歴史的な現在を凝視する思考と、その媒体としての写真の可能性などについて、多くを考えさせられました。拙著でも論じた言葉そのものの肯定性について、新たな視角から省みる機会ともなりました。今回の対談の場をご準備くださったREADAN DEAT店主の清政さん、『Ground』版元tentoの漆原さんに心から感謝申し上げます。また、当日は約20名の方にお集まりいただきました。大変な状況のなか、足を運んでくださったことに心から感謝しております。

それから、3月15日の中國新聞読書面の「著者に聞く」コーナーで、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』をご紹介いただきました。インタヴューを丁寧にまとめて、言語、芸術、歴史を問うベンヤミンの危機の時代の思考の足跡を辿る本書の特徴を浮かび上がらせてくれた森田裕美さんに心より感謝申し上げます。拙著が新たな読者と出会うきっかけになることを願っています。

記事の後半は、本書の成り立ちと広島との関わりにも触れています。核分裂が発見された研究所のそばにあるベルリン自由大学の図書館に日々籠もってベンヤミンの著作に取り組むなかから生まれたこの小さな本に込められた思考を、「核の普遍史」に抗する広島からの、そして他の場所とも結びつく想起の営みの意義を考えるのに少しでも生かせればと思います。

IMG_0634その後、勤務先の大学の図書館の司書の方が、この記事を使って私の著書のコーナーを作ってくださいました。来館者が拙著を知る契機を設けてくださったことに感謝申し上げます。ご報告が遅くなりましたが、拙著は、みすず書房の月刊『みすず』2020年1・2月合併号における「2019年読書アンケート」特集で、姜信子さんと成田龍一さんに挙げていただいています。「歴史の反転」へ向かうベンヤミンの思考に着目した本書の趣旨を深く汲んだお二人のご紹介に、心より感謝申し上げます。

時代は先の見えない、そして息苦しい闇と化しつつあります。そのなかを歩むのに、拙著が少しでもお役に立てたらと願っています。早いもので三月もあとわずかです。次の仕事を少しでも先に進めておかなければなりません。厳しい状況が続きますが、適度な緊張感と社交的な距離を保ちながら、お健やかにお過ごしください。

広島の旧陸軍被服支廠の保存と活用に関するパブリック・コメント

IMG_05831945年8月6日に一発の原子爆弾によって壊滅するまで、広島は帝国の軍都だった。1889年に宇品港が竣工し、そこへ通じる鉄道が1894年に開通して以来、広島は陸軍の拠点都市として発展していた。現在その歴史を伝える建物はわずかである。大きなものとしては、缶詰工場だった旧糧秣廠(現広島市郷土資料館)と旧被服支廠という兵站を担った二つの施設の建物だけが、被爆の傷を晒しながら立ち続けている。

このうち旧陸軍被服支廠の4棟の建物は、広島駅と宇品港のほぼ中間に立ち並んでいる。軍用鉄道の線路の近くに建てられたこの建物では、軍服や軍靴が製造されていた。そのための労働が日夜を問わない苛酷なものだったことを、少年期から被服支廠で働くことを余儀なくされた経験を持つ詩画人、四國五郎が証言している。そこでは朝鮮人も働かされていた。寒冷地の軍服に毛皮を使うために、兎も飼われていた。

このように動物をも巻き込んだ総力戦体制を象徴する被服支廠は、被爆直後には負傷者の収容所としても使われている。そこに重傷を負って運び込まれた人々が、建物の片隅で一人、また一人と死んでいくさまを、戦後に四國と協働することになる詩人、峠三吉が「倉庫の記録」という詩に描いている。したがって、今も被爆の傷を晒す被服支廠倉庫の建物には、原爆の犠牲になった人々の苦悩も染み込んでいる。

IMG_0582このように戦争と被爆の傷を一つながらに伝える旧陸軍被服支廠の現存する4棟の建物のうち、3棟を広島県が管理している。昨年末に県の当局は、その2棟を解体するという案を県議会に上程する方針を示した。その際に、市民の意見(パブリック・コメント)を募集していたので、自由記述欄に、以下のような建物の解体に反対する理由と、その活用策に関する意見を記して送付した。参考になれば幸いである。

このような広島県の動きに対しては、旧陸軍被服支廠という歴史的な建造物の全棟保存を求めるキャンペーン(被服支廠キャンペーン)を、若い人たちがいち早く起こしてくれた。その求めに応じるかたちで、この建物の保存と再生に関する基本的な考えを、すでにキャンペーンのnoteに「生存の文化の拠点としての『倉庫』の再生のために」と題して記しておいた。以下と併せて参照していただければと思う。

なお、パブリック・コメント募集への反響の大きさや、建物の解体に反対する市民の要望などを受けて広島県は、旧陸軍被服支廠の解体に来年度着手することは見送った。ただし二棟解体という県の方針自体が撤回されたわけではないので、引き続き県議会の議論を含めて事態の推移を注視するとともに、三棟の活用策について議論を深めていく必要があると考えている。

旧広島陸軍被服支廠に係る安全対策方針(案)に対する意見募集回答(パブリック・コメント)

■なぜ建物の解体に反対するか?

1913年に造られ、百年以上を経た今もほぼ原型をとどめている旧陸軍被服支廠の倉庫は、軍都としての広島の記憶と、被爆の記憶を一つながらに伝える貴重な建物である。そこは、近代日本の戦争の歴史のなかで、広島がどのような役割を果たしたのか、また人が原爆に遭うとはどういうことなのかを、立ち止まって考えることができる貴重な場である。そして、威容を示しながら立ち並ぶ建物のすぐ近くに民家や学校がある都市風景は、広島の復興の歩みを物語るものでもあろう。

そのような風景を含めて、被服支廠の建物を残すことは、広島に生きる者の歴史的な使命であると考えられる。このことは、戦争と被爆を、これらの問題が今も続いている現在を照らし出すかたちで記憶する姿勢を、広島から内外に示すことでもある。このことを、世界中の人々は広島に期待しているはずである。建物を解体することは、広島に生きる者の使命と、世界の人々の広島への期待の両方を裏切ることになる。

旧陸軍被服支廠の建物の保存、活用の方策については、1992年6月に石丸紀興氏らがまとめて提出した「赤れんが 生きかえれ!」をはじめとする提案が民間から出されてきた。これらを十分に検討することなく、安全対策を理由に二棟解体の方針を示すことは、広島県の行政の怠慢を露呈させるものにほかならない。近隣住民の安全が問題ということであれば、その時点で可能な建物の補強などの対策を打っていくのが筋だったはずだ。

また、建物の活用に際しては、どのような方向性が建物の歴史的な意義にふさわしいか、また広島の街にどのような施設が真に必要かを、広島市とも連携しながら検討することと同時に、その議論に市民を巻き込むことが必要なはずである。これらをいずれも積極的に進めることなく、今になってあたかも解体が必然であるかのような方向性を提示するというのは、被爆地の平和行政の使命を忘れ、歴史的建造物の保存と活用について見識を深める努力を怠り、市民の意見にも耳を傾けることなく無為無策を積み重ねてきたことを、みずから表明することにほかならない。

言うまでもなく、建造物を一度壊してしまったら、けっして元には戻らない。そして、ところどころ欠けた赤煉瓦を辿り、窓の歪んだ格子や鎧戸を見つめることで想像が喚起され、被服支廠で軍服などが製造されていた時代の人々の労苦に、そして被爆し、重傷を負って倉庫に運び込まれた人々の苦悩に思いを馳せることは、建物に触れ、触れられる身体的な経験としてのみ可能である。ディジタル技術が作り出すヴァーチャル・リアリティによっては、このような経験は不可能である。

建造物がまさに物として存在することによって、人はある時空間に遭遇するのだ。そのような記憶の経験の場を、歴史的建造物を活用して創造することこそ、広島の人々に課せられているはずである。古い、いわゆる負の歴史も刻まれた建物の内部を改修し、文化的な創造の場として再生させている例は、枚挙にいとまがない。

■どのような建物の活用策があるか?

旧陸軍被服支厰倉庫の建物を継続的に活用する方途の一つとして、まず、世界のアーティストが建物のなかの空間をアトリエとして使って作品を創り、展示する、滞在型のアート・スペースとして整備することが考えられる。これだけの規模の建物であれば、耐震工事を進めながら広い空間を確保することも可能であろう。それによって規模の大きなインスタレーション作品の制作にも道が開かれる。

こうした制作と展示の空間が歴史的な建築物の内部にあることは、世界中のアーティストにとって魅力的と思われる。このことは、伊藤由紀子氏らの主催により被爆建物を主な会場に開催されてきた現代美術展、ヒロシマ・アート・ドキュメントによって実証されている。他方で、世界のアーティストが広島で想を得て制作した作品に接する者も、広島の記憶を世界的な視野の下で見つめ直すことができるにちがいない。

また、軍需施設としての建物の歴史を踏まえた被服支廠の活用策も検討されるべきだろう。その一つとして、明治期から帝国日本の植民地主義と戦争の拠点として発展した広島の歴史を、アジアの歴史を視野に入れながら省みるための史料を、建物の一つに可能なかぎり集め、閲覧できるようにすることが考えられる。

宇品港を尖端の一つとして持った帝国主義によってアジアの各地域が結びつけられてしまった歴史を振り返る場が、広島には欠けている。そのことが、アジアにおける広島の位置と歴史的な意義を自覚できない現状に結びついているのではないか。沖縄と、東南アジアも含めたアジアの各地域と、人々の対話と記憶の分有へ向けて、さらには平和のための連帯へ向けて結びつく回路を模索するための原点は、近代日本における広島の役割を、現代の問題と照らし合わせながら見つめ直すところにある。

さらに、演劇をはじめとする舞台芸術の作品を、時間をかけて制作し、上演する空間を、建物の一つに設けることも考えられる。その際、別の建物での造形芸術と協働することも考えられよう。美術にせよ、舞台芸術にせよ、滞在型の制作空間は、広島には欠けている。だが、それこそがこの街に求められるのではないか。戦争の記憶に、被爆の記憶に、さらには復興の記憶に、時間をかけて向き合い、それを解きほぐして、表現に結びつける取り組みのなかからこそ、広島から生まれ、世界へ送り出されうる作品が生まれるはずである。

このような滞在型のアートスペースの姿に関しては、廃校になった小学校(明倫小学校)の校舎と跡地を芸術振興の拠点施設として再生させた、京都芸術センターの例が参考になろう。これをはじめとする、歴史的建造物の創造的な活用策を比較検討しつつ、人々が芸術を媒介に交差し、世界的な文脈のなかで戦争、被爆、復興の記憶を甦らせる場として、旧陸軍被服支廠の建物を再生させる方策が議論されるべきと考えられる。

広島での細川俊夫のオペラ《松風》の上演へのお誘い

EHZb3NYUUAIgu_g早いもので1月が終わろうとしています。ここ広島では真冬とは思えない暖かな日が続いています。みなさまいかがお過ごしでしょうか。来たる2月15日(土)と16日(日)に、ひろしまオペラ・音楽推進委員会が主催するHiroshima Happy New Ear Opera IVとして、細川俊夫のオペラ《松風》の公演が、広島市のJMSアステールプラザの中ホールで開催されます。主催組織の委員の一人として、多くの方々にご覧いただきたいと願っています。

細川俊夫さんを音楽監督に迎え、その作品をはじめとする現代の音楽を軸とする演奏会シリーズ、Hiroshima Happy New Earでは、2012年からHiroshima Happy New Ear Operaとして、2012年から細川さんのオペラを上演しています。最初に取り上げられたのは《班女》(平田オリザ演出)で、2015年には《リアの物語》(ルーカ・ヴェッジェッティ演出)、2018年には再び《班女》(岩田達宗演出)を、いずれも能舞台を使って上演してきました。

第4回を迎える今回、満を持して《松風》を取り上げます。この作品に関しては、好評を博した2018年2月の新国立劇場での日本初演をご記憶の方も多いことでしょう。サシャ・ヴァルツさんの振り付けと塩田千春さんの美術による2011年の世界初演以来の舞台は、細川さんの音楽とともにオペラの新しい姿を、日本の観客に鮮烈に印象づけました。それによって《松風》のイメージが決定づけられている面もありますが、広島の《松風》のプロダクションは、初演のそれとはまったく異なった作品像を提示するものです。

今回も上演に能舞台が用いられます。演出を担当するのは、前回の《班女》に続いて岩田達宗さんです。昨日(1月29日)行なわれた公開リハーサルの際に岩田さんは、オペラ《松風》の台本がドイツの女性作家ハンナ・デュブゲンによって書かれたことを重視しておられました。原作を生かしながらも、男性の原作者とは異なった感性によって作られたリブレットを介することで、およそ600年前に世阿弥が能曲として書き記した内実が、現代の身体に甦ることを、岩田さんの演出は示してくれるにちがいありません。

須磨の浦の海女、松風と村雨の姉妹は、そこで出会った在原行平への恋情を募らせながらこの世を去ったわけですが、その魂のなかで、思慕の念は狂おしいまでに高まっていきます。そして、恋慕の情の高まりは、魂がこの世に回帰することによって、すなわち身体の現象において表現されうるのです。このことを、能舞台を用いた今回の演出は、オペラの第二場の姉妹の美しい二重唱から証明してくれるはずです。そして、それを可能にする音楽家も、広島でのプロダクションには集まっています。

EHZb3NkUUAAEFuZ指揮を担当するのは、2012年からずっと広島での細川さんのオペラを指揮してきた川瀬賢太郎さんです。細川さんの音楽の息遣いを一貫した流れに生かし、歌とともに豊かに響かせる川瀬さんの音楽作りは、高い評価を得てきました。そのいっそうの深まりが示されることでしょう。松風と村雨の役を歌うのも、Hiroshima Happy New Ear Operaの第1回公演から見事な歌唱を聴かせてきた半田美和子さんと藤井美雪さん。第二場の二重唱と第三場の松風のアリアは本当に楽しみです。

《松風》というオペラは、手の届かないところに他者がいるからこそ、一体となろうとするまでに思い焦がれるという人間の逆説と、そこにある懊悩からの救済の可能性もまた、他者との邂逅のうちにあるという洞察とを、風が吹き、波が打ち寄せる岸辺を感じさせる音楽によって伝えています。能舞台を用いてその魅力を凝縮されたかたちで表現する上演をぜひご覧ください。今回の公演は、キャストを含めて日本人による最初の《松風》の上演ということになります。広島からの、そして日本からの《松風》の誕生の瞬間を、多くの方とともに見届けたいと願っております。

公開リハーサルを見て、舞台が順調に仕上がってきていることを確信しました。お見逃しのないよう、お誘い合わせのうえ、チケットをお早めにお求めください。2月15日(土)、16日(日)とも、開演は14:00です。両日とも、終演後にトークが計画されています。広島県内はもとより、九州、そして関西や関東からも日帰りで、あるいは旬の牡蠣を楽しむことを込みに小旅行を兼ねてお越しいただけることでしょう。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。今回の《松風》の公演のプログラムにも、作品解説の小文を寄稿させていただきました。ご観覧の際にご笑覧いただけたら幸いです。

Chronicle 2019

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周防大島の夕暮れ

広島でいつになく暖かい大晦日を迎えています。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。気候が穏やかなことは、年を追うごとに寒さに弱くなる身にはありがたいとはいえ、それを手放しで喜ぶ気にはなれません。これもやはり地球規模の気候変動の影響なのではないか、という思いを拭えないからです。

今年、温暖化に対する無為無策を力を込めて批判する国連でのグレタ・トゥンベリさんのスピーチが話題になりました。その言葉は、前へ進むことが、次世代の未来を閉ざすかたちで生存の環境を破壊することでしかないことを突きつけました。にもかかわらず、列島の人々は虚妄の未来に躍らされているままです。

まず求められているのは、立ち止まって足下を見つめ直すことでしょう。どのような歴史が積み重なった現在に生きているのかを考え、生き方を変えていくことでしか生存の道筋は開かれないでしょう。そして、いわゆる「負の歴史」も刻まれた近代の遺構と向き合うことは、そのきっかけになるはずです。

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旧陸軍被服支廠の窓

現在広島県は、県当局が管理する広島市南区の旧陸軍被服支廠倉庫の三棟のうち、二棟を解体するという方針を示そうとしています。その考えには、軍都にして被爆地であることが刻まれた広島にこそ求められる、歴史への真摯さに背反する重大な問題が含まれていると思われます。歴史的な建物を残し、活用する可能性へ向けて、市民を交えて知恵を絞るのが先ではないでしょうか。

禍々しいまでの威容を湛えて立ち並ぶ被服支廠の建物は、近代日本の戦争と植民地主義の記憶と、被爆の記憶を一つながらに伝えています。その軍服工場では、朝鮮人を含む人々が苛酷な労働を強いられました。また被爆直後には、重傷を負った多くの人々がその建物に運び込まれて命を落としています。

そのような被服支廠の建物を、死者の記憶に思いを馳せながら歴史的な現在を見つめ直し、さらに広島の記憶を他の場所の記憶と照らし合わせる場として再生させる可能性を提示する小文「生存の文化の拠点としての『倉庫』の再生のために」を、若い人たちが立ち上げた「被服支廠キャンペーン」に応えて寄稿しました。ご覧いただけると幸いです。

それにしても、この一年ほど神話が消費されることによって、歴史の隠蔽が進んだ年もなかったでしょう。それによって演出された天皇の代替わりに対する「奉祝」ムードが、「オリンピック」への狂躁へと接続されるなか、幾重にも差別が組み込まれた「公」に同調する雰囲気が醸成されています。

この多幸症的な空気のなか、植民地支配下の強制労働も、人が被曝を強いられることも、生活をその原風景もろとも壊されるかたちで戦争に巻き込まれることも、現在の問題であり続けていることが、すっかり忘れられています。これらは今、日本列島に生きる人々の生を日々蝕んでいるにもかかわらず。

歴史の忘却と、前へ進むことへの幻想は表裏一体です。そこに「国民」を束ねるかたちで、現政権とその取り巻きは、人民のもの、すなわちres publicaを私物化しています。今や自分たちが犯したあらゆる不正と犯罪を隠蔽しながらメディアと官僚機構を操り、差別を問いただす表現を抑圧することが、「公」と化しつつあります。「未来」とは、この連中の利権の拡大という虚妄でしかありません。

そのような私物化のファシズムのために、天皇の代替わりの一連の行事まで利用された観すらあります。ただしそのことは、神話的な天皇制を拵えて、国民を支配の対象としながら、性急に帝国主義的な近代化を押し進めた、遅れて来た近代国家としての日本の無惨な成れの果てを示すものでもあると思われます。

日本列島ではこのような破滅的な地点にまで立ち至った近代の歴史的な過程に向き合い、それが進行する内部で、「進歩」が打ち捨ててきた歴史の残骸の一つひとつを拾い上げ、そこに沈澱した記憶から、近代の歴史を総体として捉え返す思考。その回路を探究していたのが、ヴァルター・ベンヤミンでした。

473158今年の9月20日には、二十世紀前半に文筆家として活動したユダヤ人思想家ベンヤミンの思考を、神話に抗いながら言語、芸術、歴史をその可能性において問う批評と捉え、その足跡を辿った小著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を、岩波新書の一冊として上梓することができました。

岩波新書編集部の中山永基さんはじめ、そのためにお力添えくださった方々に、この場を借りてあらためて感謝申し上げます。本書の内容については、このウェブサイトの別のページに少し詳しく記してありますのでご参照ください。すでにお手に取ってくださった多くのみなさまに心より感謝申し上げます。

本書は期せずして、ある意味ではベンヤミンが生きた時代よりも息苦しい闇のなかに送り出されることになりました。その闇のなかで、他者と、そして死者とともに生きる道を探る思考の歩みのお伴して、来年はさらに多くの方に読んでいただけたらと願っております。来年は、ベンヤミン没後80年の年です。

ちなみに、今年は彼の友人だったテーオドア・W・アドルノの没後50年の年でした。アドルノとベンヤミンの往復書簡を検討し、両者がファシズムに抗する美学の共同戦線を模索していたことを示したうえで、そのための両者の思考が、相異なった方向性を持つメディアを創る言葉の探究に結びついたことを描く論考「メディアを創る言葉へ──ベンヤミンとアドルノの書の死後の生によせて」も年末に執筆しました。

こちらは岩波新書編集部のウェブサイト「B面の岩波新書」に、「新書余滴」として掲載されております。ご覧いただけると幸いです。今年こうして一冊の小さな本とそれに関連する論考を公にできたことは幸いでしたが、哲学と美学に関する自分の研究をさらに深めて公にする仕事は、充分だったとは言えません。

EHZb3NYUUAIgu_gベンヤミンの没後80年と被爆から75年の節目を迎える2020年は、拙著を丁寧に精読してくださっている方々がいることを胸に刻みながら研究にしっかりと取り組み、その成果をお伝えできるよう努めたいと思います。併せて、芸術に関わる仕事にも、力の及ぶ範囲で取り組んでいきたいと考えています。来年2月には早速、広島で細川俊夫さんのオペラ《松風》の公演があります。

今年も音楽と美術にまたがるかたちで、芸術に関する小文を公にする機会に恵まれました。それを設けてくださった方々に感謝申し上げます。とくに、広島交響楽団のディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethovenのプログラム・ノートを、連載のように執筆する機会をいただいたことは幸いでした。それによって、この二人の作曲家とその音楽について学ぶことができました。

今年一年のみなさまのご支援やご指導に心より感謝申し上げます。来たる2020年がみなさまにとって、少しでも幸多く平和な年であることを願っております。変わらぬご指導のほどよろしくお願いいたします。

■Chronicle 2019

  • 2018年12月27日:神戸・ユダヤ文化研究会の雑誌『ナマール』第23号に、「天使の変貌──ベンヤミンにおける言語と歴史をめぐる思考の像」と題する論文が掲載されました。パウル・クレーの《新しい天使》を手に入れて以来、ベンヤミンの生涯の節目に、ないしは危機に彼の著作に描き出された天使の像を、言語と歴史を徹底的に問う彼の思考を読み解く鍵として検討するものです。
  • 1月12日:フタバ図書MEGA祇園中筋店で「今、地域で生きる/暮らすということ」第2回として開催された森元斎さんのトークで聞き手を務めました。
  • 3月6日:佐藤零郎監督の映画『月夜釜合戦』の批評新聞『CALDRONS』に、「手つきと身ぶり──広島で『月夜釜合戦』を『山谷──やられたらやりかえせ』とともに観て」と題する批評が掲載されました。2018年1月13日、『山谷──やられたらやりかえせ』の監督の一人山岡強一の命日に、この映画と『月夜釜合戦』を観たのを踏まえ、後者を前者に対する応答と捉えるとともに、両者の対照を指摘し、佐藤零郎監督の劇映画『月夜釜合戦』の独特の特徴を浮き彫りにする映画評です。
  • 3月9日:東京文化会館小ホールで開催された演奏会「現代音楽と能〜くちづけ」のプログラムに、「閾(しきい)を開く声──青木涼子の謡の展開によせて」と題する小文が掲載されました。現代音楽と協働しながら彼岸と此岸の閾を開き、うたう可能性を開拓し続けている青木さんの活動を、パリでの細川俊夫さんの《二人静》の初演のことを含めて伝える内容のものです。
  • 3月21日:神戸大学で開催された第14回形象論研究会で、クリストフ・メンケの美学について研究報告を行ないました。
  • 4月〜7月:広島市立大学国際学部の専門科目として、共生の哲学I、社会文化思想史II、専門演習I、卒論演習I、そして多文化共生入門と国際研究入門の一部を担当しました。多文化共生入門ではコーディネーターも務めました。全学共通系科目の世界の文学の2コマと平和と人権Aの1コマも担当しました。大学院では、全研究科共通科目の人間論A、国際学研究科の現代思想Iを担当しました。広島大学の教養科目である戦争と平和に関する学際的考察でも、2コマの講義を担当しました。
  • 4月6日:国際交流基金のウェブ・マガジン『をちこち』に寄稿した「魂の息吹が交響する場を開く作品の予感 ──2018年度国際交流基金賞受賞記念イベント「越境する魂の邂逅」における文学と音楽の共鳴に接して」と題するエッセイの英語訳“Premonitions of Works Where Souls Reverberate”が、同ウェブ・マガジンに掲載されました。
  • 4月14日:本願寺の聞法会館で開催された公開シンポジウム「『戦争/暴力』と人間 ──美術と音楽が伝えるもの」第2回「総力戦体制下の芸術」で、司会とコメンテイターを務めました。
  • 5月17日:広島交響楽団ディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethoven第1回演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。
  • 6月1日〜11日:Erasmus Plusにもとづくハノーファー専科大学(Hochschule Hannover)と広島市立大学の交流事業に参加しました。ハノーファー専科大学の第V学部で二つの講義を行ない、同学部などに属する教員との交流を深めました。
  • 6月15日:批評誌Mercure des Artsに、「初夏のドイツへの旅より──ベルリンとブラウンシュヴァイクで接した公演を心に刻む」と題する批評が掲載されました。2019年6月1日から11日にかけてハノーファーとベルリンに出張した際に接したオペラの公演と演奏会の批評で、6月5日にブラウンシュヴァイク州立劇場で観たミェチスワフ・ヴァインベルグのオペラ《女船客》の公演の批評を、作品の紹介を交えて記したほか、6月8日のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会におけるマリア・ジョアン・ピレシュの演奏の批評を、彼女のピアニズムと教育活動に論及するかたちで記しました。
  • 6月17日:JMSアステールプラザで開催されたひろしまオペラ・音楽推進委員会主催の演奏会Hiroshima Happy New Ear XXVII:次世代の作曲家たちVIの終演後のトークで進行役を務めました。
  • 7月19日:「本とうつわの小さな店」READAN DEATで開催された瀬尾夏美さんの著書『あわいゆくころ──陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019年)の出版記念トーク・イヴェントで、瀬尾さんと対談しました。
  • 9月12日:武生国際音楽祭の武生国際作曲ワークショップにて、「芸術のなかの批評──ヴァルター・ベンヤミンの美学を手がかりに」と題するレクチャーを行ないました。ベンヤミンのロマン主義論とバロック悲劇論、そして「技術的複製可能性の時代の芸術作品」の議論が、批評を組み込んだ芸術の姿を提示していることを示し、作曲家がみずからの方法論を歴史的文脈のなかで反省することの重要性を問いかけました。
  • 9月18日:立命館大学衣笠キャンパスで開催されたジェノサイドと奴隷制を考えるブレイン・ストーミングで「M・ヴァインベルグとその《女船客》」と題するレクチャーを行ないました。ヴァインベルグの生涯と音楽、そしてそのオペラ《女船客》を紹介しました。
  • 9月20日:岩波新書の一冊として『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を上梓しました。最新の研究にもとづくヴァルター・ベンヤミンの思想への入門書となる評伝です。時代の危機を見通しながら、その危機のうちに決定的な岐路を見て取るベンヤミンの思考を批評と特徴づけながら、それが言語とは、芸術とは、そして歴史とは何かを、これらを生きる可能性へ向けて根底から問うていることを浮き彫りにしました。戦争とファシズムの時代を生きたベンヤミンの足跡から彼の言語哲学、美学、歴史哲学を描き出し、著作への入り口を示す一書で、略年譜と主要参考文献一覧も付されています。
  • 9月28日:ひろしまオペラルネッサンス2019年度公演モーツァルト《魔笛》プログラムに、プログラム・ノート「『人間』を問う特異な歌芝居(ジングシュピール)──モーツアルトの《魔笛》によせて」が掲載されました。作品成立の背景とともに、これが「歌芝居(ジングシュピール)」として書かれていることを踏まえながら、《魔笛》という作品において自由な人間の尊厳が歌い上げられる一方で、「人間」と認められていない者の側から「人間」であること自体への問いが今に鋭く突きつけられていることを指摘するものです。
  • 10月〜2019年2月:広島市立大学国際学部の専門科目として、共生の哲学II、社会文化思想史I、卒論演習IIを担当しています。全学共通系科目として、哲学Bも担当しています。これに加え、広島大学の教養科目哲学Aを担当しました。
  • 10月1日:日本社会文学会の会報『社会文学通信』に、「岩崎稔氏の基調講演印象記」が掲載されました。6月30日に早稲田大学で開催された日本社会文学会2019年度春季大会のシンポジウム「歴史学と文学──言語論的転回以後を考える」で岩崎稔さんが基調講演を行ないましたが、ヘイドン・ホワイトの『メタ・ヒストリー』とそれ以後の彼の理論の展開に定位しつつ、修辞学の伝統を重視するホワイトの議論の可能性を、出来事を語る可能性へ向けて掘り下げる講演の趣旨を紹介したものです。
  • 10月4日:広島交響楽団ディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethoven第2回演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。
  • 10月12日:小山市立車屋美術館での呉夏枝さんの個展「手にたくす、糸へたくす」のカタログに、「記憶の多島海へ──呉夏枝のほぐす芸術によせて」と題する評論が掲載されました。作家の芸術の歩みを、記憶の越境的な継承の可能性へ向けて論じるものです。
  • 10月15日:批評誌Mercure des Artsに、「30回目の武生国際音楽祭に参加して」が掲載されました。今年30回目を迎えた武生国際音楽祭にゲスト講師として参加しての報告です。9月の音楽祭で新たな音楽が生まれた様子を伝えると同時に、音楽家が出会い、世界的な音楽創造の芽が育まれる場として続いてきた武生国際音楽祭の意義にも触れました。
  • 10月22日:8・6ヒロシマ大行動実行委員会が主催した拡声器規制問題に関する第2回公開討論会(広島市東区民文化センター)にパネリストの一人として参加しました。平和祈念式典のあり方を、市民自身がどのように考えるか、という問いを広く共有することが必要であることなどを論じました。
  • 11月2日:広島市立大学広島平和研究所の直野章子さんが主催したシンポジウム「記憶の存在論と歴史の地平」に、ディスカッサントとして参加し、「記憶から歴史を問う──想起の経験から歴史の地平を開くために」と題する問題提起を行ないました。
  • 11月15日:中国文芸研究会の主催によりハナワインで開催された拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』の合評会に参加しました。
  • 11月19日:NHK交響楽団のウェブサイトに、「エルネスト・ブロッホとその音楽のユダヤ的要素」と題した小文が掲載されました。ブロッホのヘブライ狂詩曲《ソロモン/シェロモ》をはじめ、彼の「ユダヤ連作 Jewish Cycle」を中心に、彼の音楽のユダヤ的な要素を焦点とした小伝です。
  • 12月5日:広島交響楽団ディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethoven第3回演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。
  • 12月22日:福岡のブックカフェ本のあるところajiroにて、「ベンヤミンを読み始めるために──『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を入り口に」と題するトークを行ないました。ベンヤミンがどのような時代に生き、またそのなかでどのような問いに取り組んだかを、拙著『ヴァルター・ベンヤミン』に沿ってお話ししました。
  • 12月23日:被服支廠キャンペーンのnoteに、「生存の文化の拠点としての『倉庫』の再生のために」と題する小文を寄稿しました。被服支廠の建物の一角で繰り広げられた被爆死の光景を描く峠三吉の「倉庫の記録」を読み直したうえで、総力戦と被爆の記憶を一つながらに伝えるこの赤煉瓦の建物を、戦争と核開発の歴史に立ち向かう想起の文化が創られる空間として再生させる可能性を探る文章です。
  • 12月29日:岩波新書編集部のウェブサイト「B面の岩波新書」の連載「新書余滴」として、「メディアを創る言葉へ──ベンヤミンとアドルノの書の死後の生によせて」と題する論考を寄稿しました。拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』のとくに後半部の補遺として、ベンヤミンとアドルノの1930年代後半の往復書簡を読み解き、その思想の相即と背馳を検討しました。

サントリーホール「作曲家の個展II」細川俊夫&望月京を聴いて

20190628114943930_0001-1-212x300民衆の祭りの音楽を形づくる要素の一つに、執拗なまでの反復がある。同じリズムが太鼓などの打楽器で、あるいは同じメロディが笛や歌で何度も何度も繰り返される。それに乗って人々が路上を踊り歩くなかで、いつしか集団が熱を帯びてくる。それとともに、人間のうちに潜み、日常生活の秩序のなかでは馴致され、覆い隠されている力が剝き出しになる。祭りの喧騒のなかにこの動物的とも言える力が露呈することと、各地の祭りでしばしば肌が露わにされることには、何か関係があるのだろうか。

望月京は、人間の世界が「コスモス」として分節される手前にあって、この生き物の生を衝き動かしている混沌とした力に、早くから惹かれていたのかもしれない。ヒトという動物が生き続けるなかに絶えず働いていながら、ときにその途方もない攻撃性としても現われる力。祭りのなかで人間の動物性として噴出するこの力に、音楽で立ち返り、その動力を汲み出そうとする望月の作曲の方向性は、2010年に東京フィルハーモニー交響楽団の創立百年を祝うために書かれた、オーケストラのための《むすび》からも聴き取られるのではないだろうか。

サントリー芸術財団の創立50年を記念して2019年11月28日にサントリーホールで開催された「作曲家の個展II」──実質的には望月と細川俊夫の二人展であるが──の冒頭でこの《むすび》が演奏されたが、その後半でチェロのオスティナート的な音型が高まった後、混沌を感じさせる響きのなかに、途方もないエネルギーが凝縮される。そこには、曲の前半部でどこからともなく響き始めて高揚し、華やいだ雰囲気を醸し出した打楽器のリズムを衝き動かしていた力が、一気に流れ込んでいるようにも聴こえた。

このことはさらに、新たな生命が芽吹いているのを言祝ぐような響きが、どこか浮き立つような祭りの予感として、きわめて繊細に構成されていたのと、コントラストをなしていよう。祭りには、世界の始まりの模倣という側面がある。そこにある儀式的な秩序と、これを形づくる運動を衝き動かす力の緊張が、祭りそのものを成り立たせている。これら相対立するものの「むすび」を響かせる方向性を、打楽器を音楽の前面に押し出すことで徹底させたのが、今回の「個展」で世界初演された《オルド・アプ・カオ》であろう。

「混沌からの秩序」と直訳できる表題を持つこの打楽器とオーケストラのための作品もまた、非常に繊細な響きから始まるが、それは冒頭からすでに不穏さを帯びている。そのなかからやがてイサオ・ナカムラの奏でる打楽器が響き始める。オーケストラの打楽器セクションに近い奥まった場所から現われた彼は、ギロを擦ったり、叩いたりしながら前へ進み出て、指揮台の横に据えられた一群の打楽器を駆使した圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。それとオーケストラの打楽器の緊張に満ちた掛け合いが、音楽の推移の一つの軸となっていた。

ナカムラのパフォーマンスは、文字通り全身を、生の根源にある力の媒体として躍動させていた。ただし、その運動はつねに一つの律動を形づくってもいる。音楽において混沌とした力の蠢きは、リズムとしてのみ響くのだ。足踏みのなかからポリリズム的に動きが生成するさまは、そのことを象徴していよう。そのような打楽器の独奏と、舞台後方の打楽器の鋭い音響とが応え合ったり、あるいは対立したりしながら音楽がダイナミックに高揚していく音楽の推移は、今回の新作において最も強い魅力を放っていた。

その過程で聞こえた音のなかで最も印象の残ったのが、ナカムラが細長いマレットで大太鼓の金枠を擦る音である。音量的にはさほど大きくないものの、その摩擦音は、打音とはまったく異質に響き、何よりもその鋭さが、音響そのものを断ち切る強さを示していた。それによってもたらされる中間休止が、絶えず新たな「混沌からの秩序」を響かせる望月の新作の末尾で響いた、希望と諦念の双方を含み持つかのように柔らかに浮遊する響きは、人間の世界を統べる秩序を、その起源から考えることへ誘っているように聴こえた。

世界の起源にあるのは力である。ただし、その力は生命の営みから発現する。そう考えるなら、望月が作曲のなかで追求してきたことと、細川俊夫が絶えず表現しようと試みてきたことは、通底していることになろう。細川は、自身の音楽を書と捉えるようになって以来、書の運筆を動かす息に関心を寄せてきた。息ないし気息は、言うまでもなく、プネウマのような古語が示すように、太古から生命の原理と見られてきた。呼吸にも示されるその循環的な運動を響かせる媒体として、細川は笙という古い楽器を見いだしたのだった。

このことを示すのが、1980年代半ばに書かれた笙とハープのための《うつろひ》であるが、以来細川は笙を用いた作品を書き継いでいくことになる。そして、今回の「個展」において日本初演されたオルガンとオーケストラのための《抱擁──光と影》(2016/17年)は、笙と同じく空気で管を振動させて音を響かせるパイプオルガンを、気息の媒体として用いた作品と言えよう。オルガン独奏のための《雲景》(2000年)をベースに書かれたこの曲は、柔らかなオルガンの響きに先導されて始まる。

陰と陽の対照を含んだオルガンの響きがオーケストラの響きに入り込み、さらにオーケストラとともに最初の響きの明暗を展開していくことが、音楽の基本的な推移を形づくっていると聴こえたが、他方で陰陽の対照が巨視的に、上昇的な運動によって特徴づけられる部分と、下降する運動が折り重なる部分とによって示されるのも興味深い。そして、オーケストラとオルガンが一体となって、光と影の緊張に孕まれた力を、輝かしい音響の強さとして広大な空間に放つ「抱擁」の瞬間に、この作品の頂点があることは間違いない。

とはいえ、それ以上に魅力的だったのは、作品の後半でオルガンの響きがオーケストラのなかに徐々に浸透していくことが、弦楽器の各セクションの独奏のアンサンブルに結びつき、そこに体温を感じさせる響きが生まれたことだった。そこには「抱擁」が身体的な行為であることだけでなく、自分とは異なる者に抱きとめられることでもあることも表現されていたのではないだろうか。クリスティアン・シュミットの独奏は、作品への深い共感を感じさせるものだった。古い教会のオルガンだったら、どのような響きが生まれていただろうか。

《抱擁》においてオルガンとオーケストラが響かせた、陰陽の対照のなかに何かを現わし、世界を出現させる気息の循環運動は、今回の「個展」において世界初演されたオーケストラのための《渦》においては、生命の原基としての海のなかから響くことになる。寄せては返すその波動を音響の空間的な運動として表現するために、オーケストラは、二群の弦楽器と打楽器、管楽器、そして舞台両翼の金管楽器のバンダの五グループに分けられている。柔らかな弦楽器の響きの層に、しずくが落ちるようにハープの撥音が乗るところから音響の運動が始まる。

この《渦》という作品において特徴的なのは、《記憶の海へ──ヒロシマ・シンフォニー》(1998/99年)などの海をテーマとした作品において用いられていたバンダが、基本的には響きの空間的な運動を構成する要素として用いられていることである。その効果も相まって、オーケストラの各グループを、さざめくような音響が往還する運動が繰り返されるとともに、じわじわと、螺旋を描くように全体の水位が上昇する。そして、ついには渦をなす響きが舞台から溢れ出るかのようなクライマックスに至る。

このとき、波に呑み込まれたかのような気持ちにならざるをえない。細川は開演前のトークにおいて、海に関連した音楽を書くとき、東日本大震災の途方もない津波を思い起こしてしまうと語っていたが、そこにも表われたような、巨大な自然の力が溢れ出すのに巻き込まれているような感慨を、この新作の頂点で抱かざるをえなかった。生命を育む海、それは渦をなしながら、ときに恐ろしい牙を剝いて命あるものを呑み込む。そのことに対する畏怖も、《渦》の響きには含まれているのかもしれない。

とはいえ、音楽はやがて静まっていく。柔らかに空間を包んでいく響きが、水面の煌めきと水気を感じさせる潤いを帯びていたのが印象的だった。最後に残るのは水の滴る音。それが聞こえるのは地上である。聴き手は今、波打ち際に佇んでいるのではないだろうか。《松風》、《海、静かな海》、《二人静》といった、海辺を舞台とする細川のオペラの登場人物のように。《渦》の穏やかな終結部は、狂おしいまでの生命の営みと言語を絶する災厄の記憶を湛えながら広がる海に、聴き手を向き合わせるように思われる。

細川俊夫と望月京の二人展として開催された今回の「作曲家の個展」では、人間の世界の根源にあるものに対する両者の関心が呼応し合うことが確かめられるなか、命あるものを動かす力と息吹へ向かう思索を響かせる二人の音楽の最新の姿が力強く響いた。曲の緻密な分析に裏打ちされた杉山洋一の明快な指揮の下、東京都交響楽団が機能性を発揮して、新たな楽譜が見事に響いたのは確かだが、音楽の大きな流れを見通したなかで、演奏家が自発性を発揮する局面があってもよかったかもしれない。

神無月の仕事──『ヴァルター・ベンヤミン』刊行から一か月を経て

十月も下旬というのに、ここ広島ではまだ日中の気温が高く、何を着て出かけるか迷う今日この頃です。先月から今月にかけて、二つの巨大な台風が相次いで列島を襲い、ご存知のとおり、痛ましい被害が各地に深い傷を残しています。被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。

473158さて、先月20日に岩波新書の一冊として拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を上梓してから一か月が経ちました。この間すでに、いくつもの温かいお言葉をいただいております。読者のなかには文字通り精読してくださっている方もおられて、著者冥利に尽きると感じております。

拙著『ヴァルター・ベンヤミン』をいち早くお手に取ってくだり、ご感想をお寄せくださった方々に心より感謝申し上げます。おかげさまで、この種の書籍としては比較的多くの読者の手許に届いているようです。拙著は、図書新聞の第3421(2019年11月2日)号の「ポケットブック」のコーナーをはじめ、各種媒体でも紹介され始めています。

今、思わぬかたちで、ベンヤミンが抱いていた問いがアクチュアリティを帯びていると感じています。その一つは、拙著の主に第四章で論じた、今芸術は何でありうるかという問いではないでしょうか。彼は、知覚経験が変容し、従来の意味で「美しい」芸術作品が成り立ちえなくなっている状況のなかで、芸術が、そして作品がどのようにありうるかを、同時代の芸術の動きを見据えながら問うています。

あいちトリエンナーレとその「表現の不自由・その後」展をめぐっては、芸術は民衆に役立つものであるべきだといった、民衆を上から統治の対象としてしか見ていない言説も聞かれました。しかし、ベンヤミンはむしろ、そのような対象とはならない民衆そのものが生じる媒体として、芸術作品が創造される可能性を、新たな、批評を内在させた芸術のうちに見届けようとしていました。

こうして、ベンヤミンの思考が取り組んだ問題がアクチュアリティを帯びて浮上することは、同時に彼が生きた時代よりもその闇が深まったことの徴候でもあるでしょう。とくに、行き交う情報のいっそうの断片化が進むなか、歴史修正主義が精神を蝕むかたちで浸透しつつあることは、排他的ないし排外主義的な暴力としても現われながら、現代の闇を深めていると感じています。

ベンヤミンの著作には、こうした現在の闇の要因を見通しながら、そのなかを歩むことへ向けた思考のきっかけや手がかりが含まれていると考えて、拙著を公にしました。彼の批評的な思考の足跡を、彼の生涯のなかに浮かび上がらせた拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を書店で見かけられたら、お手に取っていただけると幸いです。

71293874_2691610117558010_7584518907336065024_oところで、今月は芸術に関わる仕事をいくつか公にすることができました。機会を与えてくださった方々に感謝申し上げます。まず、10月4日に開催された広島交響楽団のディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethovenの第2回演奏会のプログラムに、曲目解説を寄稿させていただきました。

この演奏会では、何よりも細川さんの《月夜の蓮》を望みうる最高の演奏で聴けたのが嬉しかったです。児玉桃さんの明晰でありながら、豊かな歌に貫かれたピアノに、下野竜也さんが指揮するオーケストラが見事に応えて、生気に満ちた流れた生まれていました。

72554808_2726928977359457_3251842159254437888_oまた、10月12日から栃木県の小山市立車屋美術館で始まった呉夏枝さんの個展「手にたくす、糸へたくす」のカタログにも、「記憶の多島海へ──呉夏枝のほぐす芸術によせて」と題する小文を寄稿させていただきました。作家の芸術の歩みを、記憶の越境的な継承の可能性へ向けて論じるものです。

糸を扱う手仕事によって、言葉にならなかった記憶の気配を伝える空間を開き、その継承の回路を紡いできた呉夏枝さんの仕事の多彩さを伝える展示も楽しみなところです。この機会に、多くの方に彼女の芸術に触れていただきたいと思います。

それから、10月15日に発行された芸術批評誌『Mercure des Arts』の第49号には、今年30回目を迎えた武生国際音楽祭にゲスト講師として参加しての報告を寄稿させていただきました。9月の音楽祭で新たな音楽が生まれた様子を伝えると同時に、音楽家が出会い、世界的な音楽創造の芽が育まれる場として続いてきた武生国際音楽祭の意義にも触れました。ご一読いただけると幸いです。

10月22日には、8・6ヒロシマ大行動実行委員会が主催した、拡声器規制問題に関する第2回公開討論会にパネリストの一人として参加しました。その際、毎年8月6日に開催される平和祈念式典のあり方を、市民自身がどのように考えるか、という問いを広く共有することが必要であることや、式典会場周辺での拡声機使用を条例で規制することは、表現の自由に抵触する危険があることなどを論じました。

討論会では、平和祈念式典の成り立ちを歴史的に検証することへの問いを含め、さまざまな視点からの発言があって、多くを学ぶことができました。あいちトリエンナーレに対する文化庁の補助金不交付の問題とも通底するものを含んだ拡声器規制問題については、広島に注目する世界中の人々を失望させることにならないよう、市当局の動きなどを注視していきたいと考えています。

71184137_3005860276108036_4509768596271923200_o来たる11月2日には、勤務先の大学の広島平和研究所の直野章子さんが主催されるシンポジウム「記憶の存在論と歴史の地平」に、ディスカッサントとして参加させていただきます。直野さんはじめ、このテーマをめぐる研究をリードしている学者が顔を揃えるこのシンポジウムにご関心のある方は、広島市立大学のサテライトキャンパスへお越しください。参加は無料です。

11月中旬からは、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』の合評会や刊行記念のトークなども続きます。12月22日に開催される福岡市の書店&カフェ「本のあるところajiro」でのトークについては、広報も始まっています。これらについては、FacebookTwitterでも情報を発信していきたいと考えております。拙著にご関心のある方とお会いできることを、心から楽しみにしております。

もうしばらくしたら、広島にも紅葉の季節が訪れます。それとともに朝晩は冷え込むことでしょう。台風やその後の大雨のために避難生活を余儀なくされている方々にとっては、寒さがとりわけ厳しくなると思います。どうかみなさまお身体大切にお過ごしください。