早春の仕事など

IMG_0080柔らかな陽射しを楽しむかのような鳥たちの声が聞こえる日が多くなり、ようやく春の訪れを実感できるようになってきました。近所の公園の桜の古木にも、花をのぞかせ始めたつぼみがちらほらと見られます。最近目にしたヘルダーリンのフランクフルト時代の断片は、このような一見穏やかな春の萌しのうちに、老いとそこにある硬直に立ち向かう若々しさそのものを、それを貫く生命の迸る動きを鋭敏に感じ取っていました。できればいかに忙しいなかでも、そのような生命の力を内に感じていたいものです。早いもので、広島に戻ってすでに一か月半が過ぎましたが、その間二週間の集中講義を含めて非常に慌ただしく過ごしておりました。その間の活動を、ここでご報告しておきたいと思います。

まず、3月4日には、駿河台のESPACE BIBLIOにて細川俊夫著『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(柿木伸之訳、アルテスパブリッシング、2016年)の刊行を記念して開催されたトーク・ショー「細川俊夫の創作の背景にせまる──尹伊桑、武満徹、そしてオペラへの道」の聞き手役を務めました。このトーク・ショーでは、著者の細川俊夫さんをお迎えして、本書において初めて語り下ろされたこの世界的な作曲家の創作の軌跡の背景にあるものなどを、2012年にドイツで本書の原書が刊行されて以後の作曲活動を含めて詳しくお話しいただきました。また、特別ゲストとしてリコーダー奏者の鈴木俊哉さんをお迎えして、細川さんの創作活動の里程標をなす作品を演奏していただきました。51fwl3vou1l

幸い、トーク・ショーには会場が満員になるほどのお客様にお越しいただき、心から感謝しております。鈴木さんの素晴らしい演奏と貴重なオペラ上演の映像を交えての細川さんのお話には、尹伊桑や武満徹との関わりについて初めて聞く話がいくつもありましたし、細川さんの音楽そのものについて改めて深く考えさせられる言葉や、現代日本の状況に対する重要な問題提起もありました。このような充実した場をご用意くださったエスパス・ビブリオのみなさま、アルテスパブリッシングの木村さんに、心から感謝申し上げます。

また、3月11日には、成蹊大学アジア太平洋研究センターの主催で開催されるシンポジウム「カタストロフィと詩──吉増剛造の『仕事』から出発して」にお招きいただき、パネリストの一人として「言葉を枯らしてうたえ──吉増剛造の詩作から〈うた〉を問う」という発表をさせていただきました。ヴォイス・レコーダーを構え、じっとこちらを見つめる吉増剛造さんを前に、またかねがね尊敬している錚々たる方々のあいだで少し緊張しましたが、何とか役目を果たすことができました。最近のものを含めた吉増さんの詩作を読み解きながら、また奇しくもまったく同じテーマ(「カタストロフィと〈詩〉」)で行なわれた三年前の原爆文学研究会のワークショップで原民喜やパウル・ツェランの詩についてお話ししたことを少し振り返りながら、今〈うたう〉可能性を詩のうちに探る内容のお話をさせていただきました。

17218299_1434549826597385_7177254774096220764_oまさに東日本大震災が起きた日に開催されたこのシンポジウムは、これまで参加させていただいたシンポジウムのなかで、最も密度の濃いものの一つでした。吉増さんの詩作の初期から『怪物君』(みすず書房、2016年)にまで貫かれているものを文脈を広げながら掘り下げ、詩とは何か、詩を書くとはどういうことかを突き詰めていく思考が、4時間以上にわたって積み重ねられました。そのような議論が最後に『怪物君』とは何かという点に収斂したのは、この日のシンポジウムに相応しかったと思われます。吉祥寺という場所で胸騒ぎを覚えながら引用した原民喜の「鎮魂歌」の一節に「僕は結びつく」という言葉がありますが、自分のなかでいくつものモティーフが結びつき、たくさんの宿題を持ち帰ることができました。それに吉増さんを介して、素晴らしい方々とも出会うこともできました。このような場を作ってくださった、李静和さんと成蹊大学アジア太平洋研究センターのみなさんに、あらためて心から感謝申し上げます。

それから、図書新聞の第3297号(3月25日発売)に、竹峰義和さんの近著『〈救済〉のメーディウム──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会、2016年)の書評を書かせていただきました。「媒体の美学の可能性──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲの不実な遺産相続の系譜から浮かび上がるもの」と題する拙稿では、時に「剽窃」と非難されることもあるアドルノによるベンヤミンの思想の継承に内在する、破壊的ですらある読み替えが思想の内実を批評的に生かしていることや、師にあたるアドルノが映画や放送メディアのうちに見ようとした可能性を、師とは異なった方向性において開拓するクルーゲの仕事に光を当てる本書の議論が、「フランクフルト学派」のもう一つの系譜とともに、知覚経験を解放する「救済の媒体(メーディウム)」の美学の可能性を示している点に触れました。この原稿が、ベルリン滞在中に公刊を予定して書いた最後の原稿ということになります。

この間、いくつか印象深い演奏会や展覧会に接して、自分の仕事の出発点を顧みる機会を得られたのは幸いでした。まず、3月3日に六本木のギャラリーOta Fine Arts, Tokyoにて、「ニルヴァーナからカタストロフィーへ──松澤宥と虚空間のコミューン」を見ました。嶋田美子さんの素晴らしいキュレーションによって精選された貴重なドキュメントの数々は、松澤宥という、その緻密な思考にもとづくアートによって、アートを突き抜けたアーティストの行為の軌跡と、それを結節点として世界中のアーティストが結びついていくさまを実に生き生きと伝えるものでした。松澤が一つのマンダラの形で構想していた、物質の滅却、人類の滅亡、さらにはその先にある虚無へ向けた思考の布置を構成していくアートを今どのように捉えるか、という点は、膨大な資料の解読にもとづくこれからの研究によって掘り下げられなければならないと思います。

とはいえ、松澤が拠点を置いた諏訪と広島、長崎を結びつけたこともある彼の仕事が、そこに生まれる呼応関係によって、危機的な現在を照らし出すものだということは、展示からひしひしと伝わってきました。そのことは同時に、とくに日本列島に生きる者たちが外的にも内的にも取り返しのつかないカタストロフィに足を踏み入れつつあることを問いただしているようにも感じられます。諏訪の松澤宥プサイの部屋を訪れて、彼を結節点とするアートの強度とアクチュアリティを、資料から計測する研究者が出て来ることを願ってやみません。松澤の空への呼びかけに応じて集まったアーティストたちによる、手書きによって構成された葉書や書簡、そして電報(テレグラムとしてさらに考えてみたいところです)の数々も、新たなポエジーの胎動を感じさせるものでした。

17350038_1444674655584902_3959852989274643360_o3月12日には、横浜のみなとみらいホールで横浜芸術アクション事業Just Composed 2017 in Yokohamaの「能・謡×弦楽四重奏」の演奏会を聴きました。馬場法子さんの《ハゴロモ・スイーツ》の世界初演を聴いて、出かけた甲斐があったと思いました。青木涼子さんの声と謡を見事に生かしながら、能の「羽衣」のエッセンスをなす要素を新鮮に、潮風と気配を感じさせる風景のなかに響かせていたのが印象に残ります。楽器の生かし方も、モノ・オペラとしての空間の演出も、実に巧みだったと思います。終演後に馬場さんからお話をうかがって、これらが謡の綿密な研究の成果であることも分かりました。ステファノ・ジェルヴァッゾーニの《夜の響き、山の中より》も、西行法師の歌の配列のなかに声を多彩に生かしながら一つのモノ・ドラマを現出させる作品として興味深く聴きました。能の謡とミニマムな器楽アンサンブルのコラボレーションに可能性を感じさせる演奏会でした。

3月16日には、京都のVoice Gallery pfs/wにて呉夏枝さんの個展「仮想の島── grandmother island 第1章」を見ました。亜麻を素材にグァテマラやインドネシアの織物の技法を参照しながら丹念に織られた地図、ないしは海図としての織物は、けっして平面で完結することなく、中空で螺旋をなしながら、あるいは地下茎を伸ばしながら、別の時空へ連なっていきます。その様子は、人が記憶の越境的な連なりを生きていることと同時に、いくつもの記憶が海を越えて遭遇する可能性をも暗示しているように見えます。海の上に火山島を思わせる島が浮かび上がる風景は、いくつもの記憶が折り重なり、さらには生の記憶が歴史と痛みとともに交錯することによって織りなされているのではないでしょうか。

目を変えながら織られた織物の上に黒のなかのさまざまな色が滲み出る──それが、島の像の存在感と遠さを一つながらに醸し出していました──ところには、テクスト、あるいはテクスチュアからこぼれ落ちるものが染み出ているようにも見えました。作品のテーマとなっている地図ないし海図とは、このような過程に人を引き込む一つの閾としての空間に身を置く一人ひとりの記憶のなかに織られていくものと思われます。そのことは、吉増剛造さんとパウル・ツェランが詩作を、織ったり、編んだりすることに喩えていたことにも呼応することでしょう。風を感じさせる空間が形づくられていたことも印象的でした。もしかするとそのことは、作家の創作の新たな段階を暗示するものかもしれません。

それにしても、この一月半のあいだ、ベルリン滞在の準備に追われていた一年前に比べてさらに社会が息苦しくなっていることを、さらにその息苦しさが、思想とその表現の自由が最後まで守り抜かれるべき場さえも覆おうとしていることを、実感せざるをえませんでした。もし、幾重もの不正と汚職をめぐる狂騒に紛れて共謀罪──「テロ等準備罪」なるものは、共謀罪以外の何ものでもありません──が法的に作られるなら、思想信条の自由が、それを表現する権利が実質的に奪われるのではと危惧しています。それによって、精神は萎縮し、上目遣いの自粛が蔓延し、いかがわしい「公益」なるものが幅を利かせる社会が出来上がるでしょう。そのような状況のなかで、人が息苦しさと無力さに押し潰されてしまう前に何ができるかを、新たな年度が始まる4月へ向けて、自分の置かれた場所で考えてみたいと思います。

 

Haus der Kunstにおける„Postwar“展を見て

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ミュンヒェンのHaus der Kunstの外観

現在、ミュンヒェンのHaus der Kunst(芸術の家)では、„Postwar: Kunst zwischen Pazifik und Atlantik, 1945-1965“(副題は、「太平洋と大西洋のあいだの芸術、1945〜65年」)というテーマの大規模な展覧会が開催されている(会期は、2016年10月14日から2017年3月26日まで)。第二次世界大戦終結後の20年間の美術の展開ないし変貌を、„Postwar“という視点から、太平洋と大西洋の両方にまたがる世界的な視野の下で捉えようとする、きわめて意欲的な展覧会である。そのウェブサイトに記されているところによると、「戦後の芸術について踏み込んだかたちで、かつグローバルな視野を持って開催される今回の展覧会は、65か国からの218名の芸術家による、総計350点の作品を展観するもので、そこには絵画、彫刻(立体作品)、インスタレーション、コラージュ、パフォーマンス、映画、芸術家の著書、ドキュメントおよび写真が含まれる」とのことである。

この展覧会において„Postwar“という語は、「戦後」というだけでなく、植民地体制の崩壊後という意味合いもあり、実際、アジアやアフリカの欧米の植民地だった国々の芸術家の作品も数多く出品されている。その展開が、独立運動などにおけるその芸術の働きも含めて示されているのも、展覧会の特徴の一つと言えよう。しかし、ここで„Postwar“という語に関してはむしろ、人間性を、さらには生命を根幹から破壊し、世界を崩壊させるに至った戦争が、取り返しのつかないかたちで起きてしまったことと、その衝撃が地球的な規模で波及したことが重要だろう。この歴史が、美術そのものをどのように変えたか、また美術の変貌のうちに世界の崩壊と再構築が、さらには人間像の変化がどのように捉えられているか、という点が、展覧会の焦点になっているのではないだろうか。

„Postwar“の衝撃の原点に広島と長崎への原爆投下が位置づけられているのも、今回の展覧会に関して特筆されるべきだろう。その最初の章は、「余波──零時と核時代」と題されていて、そこには丸木夫妻による《原爆の図》のうち第2部「火」と第6部「原子野」が、上下に並べて展示されている。このように展示されると、「火」における人物群像が示す、崩れ落ちてきそうなまでの立体性と動きが、いっそう際立つように見えた。また、「原子野」はちょうど目の高さで、非常に間近で見られたこともあり、見ていて闇の深さに吸い込まれそうな気がする。人物像の異様な、肉体を脱落させたとも言えそうな透明さも目に留まった。その周りには、被爆直後の長崎の写真や広島の──「幻の」と言うべきか──「慰霊碑」にまつわるイサム・ノグチの作品などが展示され、アラン・レネの《ヒロシマ・モナムール》の冒頭部分が流されている。この章は全体として、核と向き合った美術を新たな布置の下で見直せる空間を開いていると思われたが、そこに例えばベン・シャーンの作品がないことは少し気になった。

14481736_10154031414240749_5616080389525781663_o以下、第2章「形式が肝心である」、第3章「新たな人間像」、第4章「いくつものリアリズム」、第5章「いくつかの具体的なヴィジョン」、第6章「コスモポリタンなモダニズム」、第7章「形式を追求するさまざまな国民/民族」、第8章「ネットワーク、メディア、そしてコミュニケーション」の全8章によって展覧会は構成されている。第2章では、世界が崩壊した後の廃墟からの美術が、新たな形式を追求するなかで、物質的な素材に着目することによって、絵画の平面性を越えていく動きが捉えられている点が興味深く思われた。その動きは、第5章で示される立体的な作品の展開の一部にも連なっているだろう。なお、この第2章には、日本の具体派の作品や記録映像が、ジャクソン・ポロックの作品などとともに展示されている。また、白髪一雄の《作品II》や草間彌生の作品も見られた。

他に、第3章には河原温の《考える人》が、第8章には実験工房の映像作品(日本の自転車産業の宣伝を目的とした松本俊夫監督の実験的な映画《銀輪》)が展示されていたが、今回の展覧会における日本の戦後美術からの作品の選択は、全体的に、すでに一定の国際的な知名度を獲得しているものに偏っている印象は拭えない。現時点では致し方ないところかもしれないが、日本の戦後美術に関する美術史研究および美術批評の国際的な発信の課題が、この展覧会をつうじて照らし出されたようにも思われる。また、展示作品に朝鮮半島の作家の作品が全体的に少なかったのも少し気にかかるところである。

ところで、第3章「新たな人間像」では、第7章「形式を追求するさまざまな国民/民族」とも関係する、芸術の政治的な機能とも絡んだ、戦後の新たな人間像の追求の両義的な側面が示されていた。ジャコメッティの作品における、同時代の窮境のなかに生きる人間の姿を突き詰める方向性と、ドゥビュッフェらの作品から暗示される人間像そのものの崩壊のあいだの緊張のうちに、「人間」への歴史性を帯びた眼差しが映し出される本章は、今回の展覧会の白眉と言えるのではないだろうか。フランシス・ベーコンの《法皇》像が示す、支配的な権力の不気味さと、ピカソの《朝鮮の虐殺》やシケイロスの《アメリカ合衆国のカイン》が示す集団としての人間の残虐さの双方を念頭に置きながら、作家たちが新たな人間像を──ある作家は新たな「人間」の誕生へ向けて、またある作家は、人間像そのものの可能性を問いながら──模索する姿が浮かび上がっている点がとくに印象深い。この第3章は、„Postwar“の状況において「人間」が問われるべき存在になったことを、見る者に突きつける空間を開いていると思われる。

第4章では、政治的プロパガンダの機能を含めた戦後のリアリズムのいくつかの側面が描かれている。その歴史的な位置価を、さらにはその様式の美的ないし感性的な効果を、世界的な視野をもって問い直すことは、今も続く歴史的な過程を問う地平を開くうえで欠かせないのではないだろうか。それ以外に、第8章で展示されていた、コミュニケーション・メディアの変遷を視野に入れながら、アートと社会の新たな回路を探る試みなども興味深く見たが、全体として、企画責任者でHaus der Kunstの館長でもあるナイジェリア出身のオクイ・エンウェゾルのキュレーションが最も生きたのは、やはりアフリカ出身の作家の作品の選定においてであったのかもしれない。戦後ないし植民地支配後のアフリカ美術の豊かな展開の一端を歴史的な文脈のなかで見られることも、今回の„Postwar“展において特筆されるべき点の一つであろう。

なかでも、アーメド・シブレン、イブラヒム・エル゠シャラーイというスーダン出身の作家の作品は、カリグラフィーから着想を得たと思われる形象の配置を、形象そのものの発生から描き出していて印象深い。とりわけ、灰色の地の上に線の動きによって描かれた形象が、控えめな色彩とともに、静かに立ち上るように浮かび上がるエル゠シャラーイの作品は、《墓標の幻影》と題されている。それは、植民地支配のなかで、あるいはそれと関係した戦争のなかで命を落とした人々の魂に捧げられているのだろうか。画面に浮かび上がる形象は、墓碑のようでもあり、また死者の声なき言葉を伝える謎めいた文字のようでもある。それが暗示する死者たちの記憶と、例えば展覧会冒頭に展示されている《原爆の図》が伝える死者たちの記憶を照らし合わせながら、歴史的な現在を見つめ直すことは、今回の„Postwar“展を見る者に課せられていることだろう。戦争が取り返しのつかないかたちで、癒しようのない傷を残すかたちで起き、無数の死者を生み出してしまった„Postwar“の状況において、作家たちはその歴史にどのように向き合って作品を創り続けたか。このことを地球的な視野をもって検討することは、例えば差別や憎悪の問題といった今ここにある問題を、その起源から捉え返すうえでも不可欠と思われる。このような思考の地平を垣間見せているところに、あの「頽廃芸術展」と並行して「大ドイツ展」が開催されたHaus der Kunstを会場とする„Postwar“展の意義があるようにも思われる。

ベルリン通信VI/Nachricht aus Berlin VI

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秋晴れの下のジェンダルメンマルクト

ベルリンではここ数日で秋が深まった印象です。朝晩の気温が10度前後になりましたし、街路の木の葉も色づいてきたように見えます。それとともに街の雰囲気が少し落ち着いた気がしますが、それは八月の下旬頃から街の至るところに騒々しく掲げられていた選挙のポスターが、おおかた撤去されたからかもしれません。ポスターそのものは鬱陶しいですが、そこに書かれている各政党の主張は、現在この都市ないし地区で問題になっていることをそれぞれの立場から伝えていて、それはそれで興味深かったです。ベルリンでは、9月18日に当地の議会の議員を選ぶ選挙が行なわれました。ベルリンの東西を往復すると、この街に実にさまざまな背景を持った人々が暮らしていることが実感されると同時に、とくに東側が資本の力によって、幾重にも引き裂かれている感触を持たざるをえません。今回の選挙の結果は、それによって生まれた隙間に、排外主義的な主張が徐々に浸透しつつあることを懸念させるものと思われました。

さて、九月とともに、ベルリンには音楽のシーズンが到来しました。その始まりを毎年彩っているのが、Musikfest Berlin(ベルリン音楽祭)です。数多くの同時代の作品が取り上げられるこの音楽祭の演奏会を聴きに、たびたびフィルハーモニーに足を運びました。9月3日にオープニングを飾った、ダニエル・ハーディング指揮のバイエルン放送交響楽団によるヴォルフガング・リームの《トゥトゥグリ》の演奏では、フィルハーモニーの天井も床も抜けんばかりの音響のエネルギーに圧倒されました。他方で、アントナン・アルトーの晩年の詩的なテクストに触発されたこの作品の演奏においては、音楽の繊細な肌理も聞こえてきて、演奏の完成度の高さも伝わってきました。ワレリー・ゲルギエフとミュンヒェン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会では、ショスタコーヴィチの交響曲第4番の演奏に驚嘆させられました。音楽そのもののダイナミズムを、整理された演奏からはこぼれ落ちてしまう情動的なものも含めて生かしきった演奏で、時に音響がうねり狂うかのようでした。

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フィルハーモニーとその傍らに設けられたT4作戦を記憶するモニュメント

とはいえ、演奏そのもので最も強い印象を受けたのは、17日に聴いたハンブルクのアンサンブル・レゾナンツの演奏会でした。とりわけシューベルトの初期の「序曲」と交響曲第5番の演奏は、様式性と新鮮さを兼ね備えた活気溢れるもので、瞠目させられました。自発性に富む演奏を繰り広げながら、非常に透明度の高い響きを保っていました。これを指揮者なしでやってのけるのですから驚きです。シューベルトの作品に挟まれるかたちで演奏されたエンノ・ポッペとレベッカ・サウンダースの作品では、いずれも独奏楽器とアンサンブルのための曲を面白く聴きました。とくにサウンダースのチェロ協奏曲では、チェロと打楽器の対話のなかから聞こえる響きがとても多彩で、かつそれが音楽の有機的な発展とも結びついていて、印象に残りました。ポッペのヴィオラ協奏曲では、タベア・ツィンマーマンが、存在感に満ちた素晴らしい演奏を聴かせてくれました。

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夕暮れ時のコンツェルトハウス

この九月には、イザベル・ファウストの素晴らしいヴァイオリンを聴くことができたのも嬉しかったです。9月2日の夜遅くにMusikfestの一環として行なわれたルイジ・ノーノの“La Lontananza Nostalgica Utopica Futura”の演奏も、電子音響ときわめて繊細な対話を繰り広げるものでしたが、22日のコンツェルトハウス管弦楽団の演奏会におけるバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番の演奏は、すべての音に必然性と生命がこもった素晴らしいものでした。考え抜かれた弓遣いとフレージングのなかから、魂の息吹を一つの風景とともに響かせるような歌が紡がれていきました。それが楽章を追うごとに熱を帯びていくのにすっかり引き込まれました。同時に、曲全体の構成を浮き彫りにする造型にも感動を覚えたところです。ヴァイオリニストと言えば、同じコンツェルトハウス管弦楽団のシーズン最初の演奏会におけるユリア・フィッシャーの演奏も魅力的でした。ヘンツェのヴァイオリンと室内オーケストラのための《イル・ヴィタリーノ・ラドッピアート》を、ヴィターリの原曲の解体過程を浮き彫りにするかのように弾いた後、アンコールにパガニーニのカプリースの完璧な演奏も聴かせてくれました。

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リチャード・セラによるT4作戦の犠牲者のためのモニュメント(1988年)

九月からは、興味深い美術展も始まっています。例えば、ベルリン美術館(Berlinische Galerie)では、「ダダ・アフリカ(DADA Afrika)」展が開催されています。ダダ百年の今年、チューリヒのリートベルク美術館の協力の下、ダダの作家とアフリカ、ないし異他なる世界との対話に光を当てるこの展覧会を先日見ましたが、とりわけハンナ・ヘーヒの作品が魅力的に思われました。このベルリン美術館では、この「ダダ・アフリカ」展以上に、たまたま入った「モデルネの幻視者たち(Visionäre der Moderne)」というテーマの展覧会に惹きつけられました。『ガラス建築』などでベンヤミンにも影響を与えたパウル・シェーアバルトの版画や、ブルーノ・タウトの絵画や建築の設計図のほか、パウル・ゲシュという彼と同時代の作家の作品が数多く展示されていて、これがとても魅力的でした。幻想的でありながら、非常に澄んだ目を感じさせる水彩画の数々が並んでいました。ゲシュには情緒不安定なところがあったようで、いくつかの医療施設を転々とした末、1940年にブランデンブルクの「安楽死」施設で虐殺されることになります。あらためてナチスの「T4作戦」の問題に向き合わせられました。演奏会を聴きにしばしば通っているフィルハーモニーがある場所は、この作戦の司令部が置かれたかつてのティーアガルテン4番地に当たるので、フィルハーモニーの傍らには、この「安楽死」の名による虐殺を記憶する場所が設けられています。

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ポルボウの公共墓地内のベンヤミンの(墓)碑

それから、すでに別稿に記しましたとおり、九月末には、ヴァルター・ベンヤミンが亡命の道を阻まれ、自死を遂げたスペインのポルボウを訪れることができました。彼が亡くなったのが1940年の9月26日とされていますので、彼の76回目の命日にポルボウに滞在したことになります。この地に設けられた彼を記念するモニュメントには、いずれも彼が「歴史の概念について」記したテクストの一節が刻まれています。ベンヤミンが葬られた墓地のなかの碑には、「同時に野蛮の記録であることのない文化の記録など、あったためしがない」という一文が引かれていますし、またイスラエルの芸術家ダニ・カラヴァンが、ベンヤミンの没後50年を機に、墓地の手前の崖を貫くかたちで制作したモニュメント《いくつものパサージュ》には、次の一節が引用されています。「名のある人々の記憶を称えるよりも、名もなき者の記憶を称えることのほうがいっそう難しい。歴史の構成は、名もなき者たちに捧げられている」。これらを、ポルボウの入江から広がる真っ青な地中海とともに見ながら、歴史哲学に対する問題意識を新たにしたところです。十月は、自分自身の研究を形にすることに徐々に力を傾けなければなりません。

現代史に関わることに最後にもう一つだけ触れるならば、1941年9月29日から30日にかけてウクライナのキエフにあるバビ・ヤールの峡谷で、ナチスの特別部隊による最大規模の虐殺が繰り広げられました。今年はそれから75年ということになります。その犠牲者を追悼するキエフでの式典で、ドイツ連邦共和国大統領ヨアヒム・ガウクが、ナチズムの歴史を踏まえた印象深い言葉を残しています。そのごく一部を、ディ・ツァイト紙所載(2016年9月29日付)の抜粋からご紹介しておきたいと思います。国民社会主義の「抹殺への意志」が、死者だけで満たされることはなかったのは、「犠牲者の記憶すらも消し去られるべきだとしていたからであります」。「私たちは、ショアーの深淵を前にするとき、計り知れない苦悩を、そして私たちドイツ人の法外な罪責を語ることになります」。「この深淵への眼差しを抜きにしては、ドイツの罪責について、ひいては私たちが共有する歴史について思いを致すことはありえません」。このバビ・ヤールでの虐殺を含めた、ナチスの特別部隊による「バルト海から黒海に至る」大量射殺の歴史に関する展示が、テロルのトポグラフィーで始まっていますので、それも近々見に行かなければと思います。

ベルリン通信IV/Nachricht aus Berlin IV

[2016年8月1日]

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ベルリンの壁が残されているEastside Galleryからオーバーバウム橋を望む風景

ベルリンの七月は予想した以上に涼しく、夏の暑さを感じる日が少なかったように思います。今年はやや特別なのかもしれませんが、気候がずっと不安定で、一日のあいだにも目まぐるしく天気が変化しています。七月中旬には、曇りがちで、気温が20度ほどまでしか上がらない日が続いた時期もあり、そのせいで風邪を引いてしまいました。七月は蒸し暑いものと思い込んでいる身体が対応しきれなかったのでしょう。このような不安定な気候は、どこか人を不安にさせるものですが、それが的中したかのように、ドイツでは七月の下旬に、痛ましい出来事が相次ぎました。ヴュルツブルクで発生した列車内での刺傷事件に始まり、ミュンヒェンのショッピング・センターで起きた銃乱射事件、それにアンスバッハの野外コンサートの会場での自爆事件と日を置くことなく起き、ドイツ社会は大きく揺さぶられました。

捜査の進展により、徐々に容疑者のバックグラウンドが明らかになりつつありますが、これらの凶行に及んだのがいずれも社会から孤立した一人の若者であったことは、ドイツの社会を、ひいては人間関係を成り立たせていた根本的な何かが、すでに壊れてしまっていることを露呈させているのかもしれません。このことを感じ取っている人々は、シリアなどからドイツへ難を逃れてきた人々を何らかのかたちで社会に参加させる努力を続けています。七月の末には、Souk Berilinによるストリート・フードのフェスティヴァルに家族で出かけましたが、そこにはシリアやアフガニスタンなどの料理が並んでいました。きっとこれらの国々から逃れてきた人々も、料理の腕を振るったことでしょう。ステージでは、何人かの難民がベルリンまでの道程を語っていました。

言うまでもなく、こうした催しよりも重要なのが日常的な人間関係ですが、その背景にある他者観に関しては、ドイツでは両義的な様相が垣間見えます。ベルリンのような、すでにさまざまなバックグラウンドを持つ人々を受け容れている都市ではとくに、多くの人々がどこから来た人に対してもオープンですが、やはり差別を含んだ排外主義的な考えが浸透しつつあるのも確かで、このことを視線から感じることもあります。このような状況のなかで、娘が一人ひとりを大切にする温かい雰囲気のなかで学べたのは、幸運なことと言わなければなりません。7月20日でベルリンの公立の学校は夏休みに入り、娘も通知表をもらって来たわけですが、その二日前には、放課後に親たちで準備した終業パーティーが近くの公園で催され、担任の教師にプレゼントが贈られました。教師のほうでも、一人ひとりの生徒に手作りの小さな贈り物を用意していました。25人に満たないクラスだからこそ可能なことでしょう。

0711_GS_201608私がお世話になっているベルリン自由大学の夏学期はほぼ終わったようで、おおよそ毎日通っている文献学図書館の利用者もまばらになってきました。七月の下旬は、試験の準備や課題の研究のために図書館へ来る学生が多く、空いている席を見つけるのに苦労することもしばしばでした。このあたりは、日本の大学とまったく同じです。今は、静かになった図書館で、これまでの研究をさらに発展させる道筋を探るべく、文献を読むことに再び力を入れようとしています。7月の下旬には、これまでの研究を、今後の研究の構想も含めて日本語でお伝えする機縁にも恵まれました。その原稿を書くことは、広島の現在をベルリンから見つめながら、私自身が広島との結びつきのなかで哲学することをあらためて問い直す機会ともなりました。

 

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『現代思想』所載の拙稿で触れたかつてのカイザー・ヴィルヘルム研究所の建物

先日発売された青土社の『現代思想』の2016年8月号の特集は、「〈広島〉の思想──いくつもの戦後史」で、尊敬する友人や先達たちが力のこもった論考や記事を寄せて、広島の現在を照らし出し、広島という場に凝縮されている問題を掘り起こしています。私もその特集に、「そこに歴史はない──ベルリンからグラウンド・ゼロとしての広島を思う」と題する小文を寄稿させていただきました。ベルリンと広島のアメリカを介した結びつきに、現在も続く核の歴史の起源があることを確認し、その歴史を担う人物を迎えた広島の現在を、歴史哲学的に考察する内容のものです。広島に見られる「軍都」の記憶の抑圧と国家権力を正当化する物語への同一化が、沖縄の米軍基地の問題をはじめとする現在の歴史的な問題の忘却に結びついていることを指摘したうえで、一人ひとりの死者の許に踏みとどまるかたちで被爆の記憶を継承していくことのうちに、国家権力の道具となることなく、他者とともに歴史を生きる道筋があることを、残余からの歴史の概念の研究構想のかたちで示そうと試みました。ご関心がお有りの方にご笑覧いただければ幸いです。

さて、演奏団体や劇場のシーズンは、だいたい七月の前半で終わるので、先月はあまり生の音楽に触れる機会はなかったのですが、中旬にはベルリン州立歌劇場で、シーズン末の„INFEKTION!“の一環で上演されたサルヴァトーレ・シャリーノの室内オペラ《裏切りのわが瞳》(原題は“Luci mie traditrici”)を観ることができました。冒頭に子どもの声で印象的に歌われるカルロ・ジェスアルドのフランス語のシャンソンを軸に、妻とその愛人を殺害するに至るこの作曲家の物語(実話)が、間奏による何度かの中断を挟みながら展開され、バロック悲劇的とも言える破局の結末を迎えるこのオペラにおいて最も印象的だったのが、独特の風や気配を感じさせるシャリーノの音楽のなかに、冒頭のシャンソンが緻密に組み込まれていたことでした。また、恋と嫉妬における人間の盲目──それゆえに瞳は裏切るのでしょう──を鋭く浮き彫りにするこのオペラは、短いながら非常にスリリングでした。ユルゲン・フリムによる様式感のある洗練された演出の下、素晴らしい演奏でシャリーノの音楽の時空間の広がりを体験することができました。

七月は、演奏会場や劇場に出かけなかった代わりに、いくつか美術の展覧会を見に行きました。そのうち二つの展覧会をご紹介しておくと、まず絵画館(Gemäldegalerie)では、特別展„El Sigro de Oro: Die Ära Velàzquez“(「黄金の世紀──ベラスケスの時代」)が開催されています。フェリペ四世の時代を中心に、スペインが栄えていた主に17世紀の絵画と彫刻を集めた展覧会で、非常に見ごたえがありました。会場に入ってすぐのところでエル・グレコの素晴らしい《受胎告知》が見られますし、もちろんベラスケスの力強い人物の造形も堪能できます。ムリリョのイメージが少し変わる宗教画もいくつかありました。もちろん、彼らしい優しい絵もあります。とはいえ何よりも印象深かったのは、スルバランの作品。着衣の重みが質感とともに迫ってくるような聖フランチェスコの肖像には、思わず見入ってしまいました。イベリア半島の各地方の特徴も興味深く感じたところです。

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聖アンドレアス教会

もう一つご紹介しておきたいのは、ハンブルク駅現代美術館での「暗黒の時代──コレクションのいくつかの歴史 1933〜1945年」という展示です。ナチスが政権の座にあったこの期間のナショナル・ギャラリーのコレクション史を示す展示です。改装中の新ナショナル・ギャラリーのコレクションの一部が、こちらの美術館の一角に企画展のかたちで展示されるようになっています。イタリアも含めたファシズムに利用された作品とともに、「頽廃芸術」の烙印を押されて没収された作品などが、この時代におけるそれらの作品の歴史とともに展示されていました。小規模ながら、歴史的な資料とともに非常に見ごたえのある展示です。まず興味深かったのは、カール・ホーファーの《暗黒の部屋》と題された1943年の作品。太鼓を叩く人物を中心に、この時代の剝き出しにされた人間の虚ろな姿が、独特の彫刻的なところもある輪郭線とともに浮かび上がっています。近くに架かっていたパウル・クレーの《時》という小さな作品とともに、この時代を象徴するものと見えます。ホーファーの実作を見るのは初めてでしたが、具象的な画風を貫いた同時代の日本の画家とも比較研究されたらよい画家とも思われました。アルノルト・ベックリンの《死の島》は、この絵が総統の執務室を飾っている写真とともに展示されています。

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テルトウ旧市街の風景

「暗黒の時代」の展示で個人的に最も印象的だったのは、いずれも「頽廃芸術」とされたエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーとリオネル・ファイニンガーの作品でした。とくに後者のテルトウの街の風景を深い色調のなかに緻密に造形した《テルトウII》は、彼の傑作の一つと思われました。そこには教会の塔が浮かび上がっていますが、それは今もテルトウの旧市街にある聖アンドレアス教会の塔です。それが実際にはどのような様子か気になったので、晴れた日の夕方、娘と一緒に散歩がてらその教会へ行ってみました。思ったよりもこぢんまりとした佇まいです。建物の前には、1265年に街の教会となった経緯が書かれたプレートがありました。その後1801年に消失した建物の再建には、カール・フリードリヒ・シンケルが関わり、擬古典主義とネオ・ゴシックを折衷するかたちで外観を設計したとのことですが、確かにベルリンのネオ・ゴシックの教会とは趣を異にしています。この塔のフォルムに、ファイニンガーを触発するものがあったのでしょう。さまざまな石を埋め込んだ外壁も、遊びがある感じでです。テルトウの街も、ベルリンの街とは違った雰囲気でした。学校が夏休みのあいだ、ベルリンの近郊の街へもできるだけ出かけたいと思います。なかにはドイツの現代史を現在との関わりで考えるうえで重要な場所もあります。

イスラエルでの国際ヴァルター・ベンヤミン協会の大会に参加して

闇のなかからふと現われ出たその「天使」は、あらぬところへ来てしまった子どものように、落ち着かない様子で漂っていた。それはもはや場所ではないところに、一つの〈あいだ〉にいるのだ。大きく見開いたその両眼は、それぞれ異なった方向を見つめている。そうして境界領域に浮遊しているという点では、これを「天使」と呼べるのかもしれない。とはいえ、その姿も〈あいだ〉にあると言うほかない。鳥の羽とも退化した手ともつかぬ両腕を広げながら、この「天使」は、人と獣のあいだを、彼岸と此岸のあいだを漂うのだ。

Coll IMJ, photo (c) IMJ

パウル・クレー《新しい天使》/Paul Klee, »Angelus Novus«, 1920 [Public Domain]

イェルサレムのイスラエル博物館で初めて目の当たりにした、パウル・クレーの《新しい天使(Angelus Novus)》(1920年)のこうした姿は、それ自体、当地のヘブライ大学とテル・アヴィヴ大学で12月13日から16日にかけて開催された国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究大会(International Walter Benjamin Society Conference “SPACES, PLACES, CITIES, AND SPATIALITY”)のテーマであった、ベンヤミンの思考における「空間」を開くようであった。その「空間」とは、それ自体として「閾」という境界領域である。それは生と死のあいだに、生誕や再生と、生まれ損なうこととのあいだに開かれる。彼が「空虚で均質な」と形容した「進歩」や「成長」の時空間に空隙を穿つようにして。

したがって、今回の学会全体のテーマであった「空間」は、ひと言で言えば、体験とは異なった経験の媒体であり、ベンヤミンが言う優れた意味での「根源」でもある。その現代の時空間におけるトポグラフィーを、みずから撮影したり、蒐集したりした映像そのものに語らせるかたちで、そしてベンヤミンの著作の読解を一歩進めるかたちで示していたのが、12月14日にテル・アヴィヴで行なわれた、ジョルジュ・ディディ゠ユベルマンの基調講演だった。そのなかで彼が、ベンヤミンの根本的な慎み深さを指摘していたのが印象に残っている。

その慎み深さは、例えば、「ベルリン年代記」のなかでベンヤミンが、自分が文章を書く際に「私」という主語を立てることを自分に禁じていた、と語っていたことに表われていよう。それによって、この「年代記」をはじめとする著作で、記憶の像がおのずと立ち現われてくるのだ。そのような意味で優れてベンヤミン的と言える手つきで、ディディ゠ユベルマンは、「名もなき者たち」の痕跡を辿り、大都市の片隅の薄明を捉えていた。

都市の薄明が浮かび上がらせるのは、両義性の空間である。両義性を帯びた事物のうちに過ぎ去ったものと今との緊張に満ちた布置を捉えることで、ベンヤミンは、「十九世紀の首都」パリのパサージュを近代の「根源史」の場として描き出すこと。これをベンヤミンはついに成し遂げえなかったわけだが、そのような歴史の場としてのパリの空間が、ナポリ、ベルリンといった、ベンヤミンが他の著作でその像を浮かび上がらせた都市の空間に通じていることも、今回の学会の主要なテーマの一つであった。それが取り上げられる際に、彼がナポリの建築空間に見た「多孔性」がしばしば指摘されていたが、その概念を、現代の空間ないし空間経験にどのように位置づけるか、またそのことにもとづいて、経験そのものをどのように捉え返すか、ということは、あらためて課題として浮き彫りになったと思われる。

「冥府」へ通じた「閾」にしてもう一つの歴史の経験の場である「パサージュ」、それは残存するものが来たるべきものとなって回帰する場でもある。「翻訳者の課題」が原作の「残存」を翻訳の出発点に置いていることを念頭に置きつつ、ベンヤミンが要請する字句どおりの翻訳──それは文字を、文字の姿のままに受け容れることだ──がもたらす言語の「非接合」によって開かれる言語そのもののパサージュ、すなわち「翻訳者の課題」に言う「アーケード」を、言語自体の媒体性ないし霊媒性を構成するものと捉え、このパサージュを、「根源史」の媒体としてのパリのパサージュと橋渡ししようとする議論は、示唆に富むものであった。

想起の媒体として根源史を形づくるとベンヤミンが考える「像」──それは彼によれば、言語的なものである──のうちにある時間の空間化を、それ自体として、「空虚で均質な時間」と神話的な歴史の連続の双方を中断する時間性において捉えることも、ベンヤミンの思考における「時空間/時代(Zeitraum)」としての空間の問題として浮上したのではないだろうか。さらに、その静止した「時空間」を構成する「時代の夢(Zeit-traum)」からの「目覚め」をどのように考えるか、という問題は、ベンヤミンの著作の読解をつうじて、今ここにある時空間をどのように見通せるか、という問いにも通じていよう。

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テル・アヴィヴの海岸にて

今回の国際学会では、「イスラエルにおけるベンヤミン」というテーマのパネル・ディスカッションの場が持たれたが、議論がイスラエルの国内政治の問題をめぐって噛み合わないままで、占領とは何か、また占領する力の上に成り立つイスラエルとはそもそも何か、というところにまで及ばなかったのは惜しまれる。こうした問題は、生涯シオニズムに批判的で、ついにパレスティナの地に足を踏み入れることのなかったベンヤミンの「暴力批判論」などを読み直す視点からこそ、問題そのものに介入するかたちで論じられうるのではないだろうか。今回の学会では、イスラエルでの学会に相応しく、と言うべきか、ベンヤミンの思考を、ゲルショム・ショーレム、マルティン・ブーバー、ヘルマン・コーエン、フランツ・ローゼンツヴァイクといった同時代のユダヤ系の思想家との布置のなかに浮かび上がらせようとする議論が目についた。

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ヘブライ大学のあるスコープス山からのイェルサレム郊外の開発地の眺め

学会の期間中には、テル・アヴィヴ美術館で、ベルリン芸術アカデミー付設のベンヤミンの手稿などが、「ヴァルター・ベンヤミン──亡命のアーカイヴ」のテーマの下で、ベンヤミンの著作に触発されて創られた現代芸術作品とともに展示されていた。それを見ると、ベンヤミンがいかに緻密にみずからの著作を組み立てていたかが伝わってくる。ゲーテの『親和力』の批評では、全体の細かな構成を一枚の紙に書き出したうえで、その組み立てどおりに小さな文字で原稿を書き、さらにその縁に、構想を組み立てた際に記した小見出しを転記しているのである。あるいは、カフカ論では、断章を記した紙を切り、紙片を並べ直して草稿を組み立てている。こうした手法は、いったん描いた作品を切り分けることで新たな像を浮かび上がらせた、クレーの手法と一脈通じるところがあるのかもしれない。『パサージュ論』では、独特の記号を駆使して構想を組み立てているのが印象的である。

学会の最終日には、学会の会場を抜け出して、ヘブライ大学のあるスコープス山とは反対側のヘルツルの丘──そこには「ユダヤ人国家」の発案者の一人テオドール・ヘルツルの墓がある──にあるヤド・ヴァシェム・ホロコースト博物館を訪れた。たしかに、ショアー、すなわち「ホロコースト」の歴史に関する展示は、エマヌエル・リンゲルバウムがゲットーのなかに残そうとしたアーカイヴのそれを含む貴重なドキュメントと、生還者──そのなかにヘウムノの生き残りであるシモン・スレブニクの姿があった──へのインタヴュー映像を巧みに配して、差別と迫害の下での生と死を、さらに絶滅の暴力の下に置かれることを、それぞれのゲットーや収容所の特徴を含めてありありと、かつ胸に迫るかたちで浮かび上がらせるものと言える。しかし、全体からは、ナチスの支配下における蜂起のヒロイズムを称揚し、オスカー・シンドラーをはじめとするユダヤ人を救った「義人」の力を強調することが、最終的に生還者たちの手によるイスラエルの建国へ流れ込んでいく、ナショナリスティックなストーリーの流れを感じないではいられない。「名前の部屋」の圧倒的な空間のなかに佇みながら、ここに「名もなき者」たちの場所はあるのだろうか、と自問せざるをえなかった。

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フェリックス・ヌスバウム《難民》/Felix Nussbaum, »Le réfusié« 1939

ヤド・ヴァシェムの「ホロコースト」の歴史に関する展示からは、ショアーに至る迫害と抹殺をもたらした問題そのものが未だ解決されていないどころか、現代の世界で新たなかたちで深刻化していることを考え続けようという問題意識を感じ取ることはできなかった。歴史に関する展示のスペースに併設されている、「ホロコーストの芸術」を展示している美術館で目にすることのできた、フェリックス・ヌスバウムの《難民(Le réfugié)》(1939年)が、現在の問題の所在を静かに、しかし鋭く照らし出しているように思われた。その絵のなかでは、地球儀の置かれた長い机の傍らで、行き場を失った一人が頭を抱えて座り込んでいる。

広島市現代美術館の「ライフ=ワーク」展を観て

「ライフ=ワーク」展flyer

「ライフ=ワーク」展flyer

広島市現代美術館で「被爆70周年:ヒロシマを見つめる三部作」展の第1部として開催されている「ライフ=ワーク」展を見た。戦争の傷を抱えながら生きることの刻まれた芸術作品、あるいはそのような生を浮かび上がらせる作品をつうじて、生の経験の結晶としての芸術を共有する場を開くとともに、その地点から戦争、そして原爆の記憶を新たに照らし出そうとする展覧会と言えようか。

最初に、被爆した広島の人々による「原爆の絵」が相当数展示されていたが、それによってこの「原爆の絵」の表現の多様さが際立っていた。小林岩吉が描いた最初の原爆の絵の一つには、被爆死した朝鮮人の老人と「南方留学生」の姿がさりげなく描き込まれていた。天満川の川面を埋め尽くす死体を執拗なまでに描いた中田政夫の絵は、やはり忘れがたい。そして、何よりも印象的だったのは、生塩敏夫が描いた死んだ母親を見守る少女の絵が示す、深い悲しみが染み透ったような静けさであった。全体として、具象と抽象のあいだで変化に富むなかに被爆の記憶を呼び起こす「原爆の絵」の表現には、被爆後の30年を超える歳月の経験が影を落としているように思えてならない。

地下展示室の壁の曲面に、石内都の「ひろしま」連作が、彼女の「Mother’s」連作とともに展示されているのも目を惹く。被爆死した女性たちの遺品として平和記念資料館に収蔵されている彼女たちの衣服を撮影し続けるなかから生まれた「ひろしま」連作は、この日(2015年7月18日)行なわれたアーティスト・トークで石内自身から聞いたところによると、これらの衣服を身に着けて街に出ていた女性たちの魂がいつでもそのなかに還って来られるように、美しく、カラーで撮影されているという。

実際、一枚一枚の写真からは、ブラウスなどの肌触りが伝わってくるようだし、人が着て歩いているときのように、袖口や裾が風になびいているかのように見える写真もある。「Mother’s」連作がどちらかと言うと、モノクロの写真に死の記憶を刻もうとしているのに対して、「ひろしま」は身体の再生を志向しているように思えるし、そこに込められた石内の思いが写真上の衣服をより生々しく、時に艶やかにさえ見せているのも確かだろう。初めてプリントされたという、血でピンクに染まった赤いブラウスの写真の前では、年配の女性が体を震わせながら目に涙を溜めていて、思わずそれに共振しそうになったが、そこにある共感ないし共苦を、どのように死者の哀悼と死者という他者の魂との呼応に結びつけるかが重要と思われる。

殿敷侃の作品や入野忠芳の作品を、いくらかまとまったかたちで見ることができることも貴重である。殿敷が母の遺品を文字通りの点描だけで描ききったいくつかの作品の精神が、1980年代に生まれた、無数の魂たちが夜の音楽のリズムで、天の川のように顕現するさまを思わせる《霊地》連作に結実するさまと、入野の被爆樹木の執拗な写生が、生長と枯死の凄まじいまでの緊張のなかに樹木の存在を屹立させた《精霊》連作を生み出しているさまは、いずれも本展覧会のテーマ「ライフ=ワーク」を具現するものと言えよう。とりわけ、《精霊》連作において樹木の表面を埋め尽くす、有機的であると同時に無機的で、張り裂ける運動を示す表現は、先日泉美術館での「ヒロシマ70」展で見ることができた入野の抽象画に通底するものと言えよう。

これら以外に、生の経験と芸術の結びつきを強く感じさせて印象的だったのは、香月泰男の《運ぶ人》。背負っている重い荷物に潰されて、荷物と一体となりつつある人物は、その記憶にも押し潰されようとしているのかもしれない。そして、今回の展覧会で際立っていたのはやはり、大道あやの《花火》だった。

無数の花火が炸裂する凝縮された時空間のなかに、太田川の生きものたちが乱舞する。川魚や蟹たちは、死者たちの生まれ変わりにちがいない。その魂の輝きが、素朴ながら永遠すら感じさせる花火の極彩色の光彩となって幾重にも画面を包んでいる。そのような表現は、生ある者たちへの慈しみを、無念の死を遂げた者たちへの深い哀悼ともに、手仕事のなかに深く落とし込んだなかから生まれたものであろう。濁った太田川を泳ぐ魚の姿にも個人的に共感を覚えるが、それとも通底するであろう生の肯定、それぞれかけがえのない生命の原理とも言える魂(アニマ)との共鳴──それこそが死者の哀悼をも貫いているのだ──が、芸術の源にある。今回の「ライフ=ワーク」展は、このことを、それぞれの作品の背景にある芸術家たちの歴史の経験とともに深く感じる場を開くものであると言えよう。多くの人がその場に身を置くことを願っている。

パウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」を観て

宇都宮美術館におけるパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」flyer

宇都宮美術館におけるパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」flyer

「愚かさは、カフカのお気に入りのものたち──ドン・キホーテから助手たちを経て動物たちに至るまで──の本質をなすものだ。〔中略〕カフカにとって、次のことだけは疑いもなく確かなことだった──まず第一に、人は誰かを助けるためには愚か者でなければならないということ、第二に、愚か者の助力だけが真に助けであるということ。不確かなのは、ただ、その助けがまだ人間の役に立つのかという点だけだ」。

現在宇都宮美術館で開催されているパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」の最終章のタイトル「愚か者の助力」は、ここに引いたヴァルター・ベンヤミンが友人のゲルショム・ショーレムに宛てた書簡のなかでフランツ・カフカの文学の核心にあるものを論じる一節から採られている。この最終章の空間に集められているのは、《何が足りないのだろう?》(1930年)という自嘲的とも見える小品に描かれた胴体のない人物=動物像をはじめ、出来損ないの被造物=生きものたちの形象である。クレーが晩年に集中的に描いた天使たちもまた、こうした被造物の仲間なのだ。

クレーの天使たちは、神の使者として地上に真理を啓示する力を未だ手にしていない。同じ空間のなかに展示されている《天使、まだ手探りをする》(1939年)に描かれた天使の姿が示すように、真理から遠ざかり、歪んでしまった世界のなかでもがいている。もしかすると、人に手を差し延べることは、この天使の手探りのような、盲目的でどこか愚かしい身ぶりでしかありえないのかもしれない。しかし、この祈りのような身ぶりがもたらすメタモルフォーズ──たとえそれが、《巣を発明した雌》(1925年)のような異形の生きものを産むものであったとしても──こそが、生あるものたちの息遣いなのだ。

このことを、クレーの開く「遊戯空間」は、いたずらっぽい微笑みとともに示している。「だれにも、ないしょ。」というテーマで開催されている今回のクレー展は、どこか出来損ないのところを含むことで、分類し、飼い馴らす眼差しを逃れていく生きものたちが変貌のなかに息づくこの「遊戯空間」に独特の時空間へ見る者を誘い、形象のさらなる解読を触発する展覧会であると言えよう。これほどまでに豊かな知覚経験のなかで、クレーの絵画の新たな奥行きを、彼の創作過程をも垣間見ながら楽しむことができるクレー展は、少なくとも日本ではこれまでなかったのではないだろうか。そのことは言うまでもなく、クレー独特のテーマの下にさまざまな時期の作品を、互いに響き合うよう配置しうるまでに深められたクレー研究に裏打ちされている。

今回のクレー展において重要と思われたのはまず、彼の絵画についてつとに指摘されてきた音楽性が深められる経験である。クレーの「遊戯空間」に鳴り響く音楽は、《赤のフーガ》(1920年)のような独特のポリフォニーであるが、それは複数の声部の共鳴であるだけにとどまらず、そのなかから第三のものが生まれてくるダイナミズムともなる。本展覧会の第2章「多声楽」は、その響きの振幅の大きさをも存分に味わえる場となっていた。例えば《島》(1932年)では、点描を駆使した色彩のポリフォニーの海のなかから、閉じることのない島の形態が、多次元的な運動とともに浮かび上がってくる。

あるいは、クレーのポリフォニーの響きは、《光にさらされた葉》(1929年)においては、補色という両極の混合によって作られた色彩のグラデーションを形成しながら、一枚の葉を生成させる。ゲーテの言う、植物の生成そのものを象徴する「原現象」としての葉を静かに差し出すようにして。この作品の静謐さは、初期作品《裸体》(1910年)の神秘的な静けさにも通じていよう。この作品には、画面を90度反転させた状態の赤外線写真が添えられていたが、それに浮かび上がる小さな人物が、実際の画面では、身ごもっているとも見える悲しげな裸体の女性の胸の辺りに、微かに浮遊している。

そのことは、小さな人物が生まれ出る前に埋葬されてしまっていることを告げながら、同時にこの人物が、女性の悲しみのなかに懐胎され、甦ろうとしていることをも暗示しているのではないだろうか。塗り重ねによる画面の重層化によっても表わされるクレーのポリフォニーは、生と死のあわいへも、見る者を誘っているのだ。このことは死者の深い哀悼にもとづいていよう。とりわけ、第一次世界大戦でおびただしい死を経験したクレーは、歴史の遺物を自然が侵食する廃墟のなかから、生きものたちが甦り、息づく場を開こうとしているのではないか。このことを暗示しているのが、第3章「デモーニッシュな童話劇」に集められた、緑が印象的な作品群であろう。

なかでも、《女の館》(1921年)は、深い闇のなかから明滅する緑がメルヒェン的な、自然と人工物の境界を不分明にするような形態を浮かび上がらせ、もう一つの世界への玄関へ見る者を誘う。また、《小道具の静物たち》(1923年)では、打ち捨てられた小道具たちが、怪しい光を放ちながら動き始める。その時間が、現実世界のクロノロジカルな時間とは別の時間であることも、クレーの絵画は優れて音楽的に示しているのだ。そのことは、第1章「何のたとえ?」に集められた、音楽のフェルマータやターンの記号をモティーフとした作品が、説得的に示しているのではないだろうか。

時間の転回をもたらす装飾音ターンの記号は、《子ども》(1918年)の顔では、後の《新しい天使》(1920年)を思わせる顔を形づくっているが、《ある音楽家のための楽譜》(1924年)では、矩形の形態が分解して落下する運動の時間を、ぐっと繋ぎ止めているようにも見える。他方、眼を思わせるフェルマータの記号は、《アクセントのある風景》(1934年)では、時の静止をもたらすとともに、風景をたわませ、緑に息を吹き込む。このような、もう一つの時間によって貫かれることによって、生あるものたちが──失われたものも含め──甦り、メタモルフォーズのなかに息づく世界。これをクレーの絵画は構成するわけだが、そこへと誘うのが、本展覧会の第5章の表題にもなっている「中間世界の子どもたち」であろう。

最晩年の《無題[子どもと凧]》(1940年)に登場する、体が手紙と化した子どもは、自分がいる画面の裏側にある楽園、《無題[花と蛇]》の世界──それを見せる展示から、クレーの両面制作の重要性も伝わってくる──へ、見る者を導くかのようだ。その姿は、メタモルフォーズとともに生あるものの形態が浮かび上がってくる源泉へ見る者を招待する、クレーの絵画そのものの象徴でもあるのかもしれない。そして、今回のクレー展「だれにも、ないしょ。」は、その招待に応じてクレーのいたずらっぽい微笑みの足跡を辿ることで、けっして完結することのない彼の世界の内奥へ、豊かな音楽の経験と新たな知見とともに導かれる、希有な機会と言えよう。《プルンのモザイク》(1931年)などの傑作も集まっている。

[2015年7月5日〜9月6日:宇都宮美術館/9月19日〜11月23日:兵庫県立美術館

四國五郎追悼・回顧展を見て

四國五郎追悼・回顧展の8枚組みの絵葉書より

四國五郎追悼・回顧展の8枚組みの絵葉書より

日本銀行旧広島支店を会場に開催されている「四國五郎追悼・回顧展」をようやく見ることができた。画家が愛した横丁が、その手による映画のポスターなどで彩られたかたちで再現された、手作りのエントランス──そこには四國五郎に私淑したガタロさんの作品も置かれていた──からして魅力的である。全体として、この画家に対する主催者の深い愛情が伝わってくる展示だった。

このエントランスの近くの広島の風景を描いた小品を集めた一角に置かれていた《相生橋》という作品に、思わず釘付けになった。かつての「原爆スラム」のバラックの廃材で造られたその絵の額縁にも驚かされたが、そのバラックが建ち並ぶ「相生通り」から原爆ドームを望む風景を、澄んだ筆致で描き取った画面が何よりも魅力的だった。「相生通り」の街並みを愛情を込めて描きながら、元安川の穏やかな水面とともに一つの静謐な風景に構成した《相生橋》は、この展覧会の冒頭を飾るに相応しい作品と言えよう。

四國の作品からは、全体的に、生命あるものへの深い愛情、それにもとづく戦争に対する怒り、そしてさりげないユーモアが画面から感じられるが、これらが強烈なアイロニーに結びついた作品として、第一次世界大戦の戦死者を描いたオットー・ディクスの作品を思わせる《大日本帝国兵馬俑》が、とくに印象に残る。今も読み継がれている絵本『おこりじぞう』の挿し絵を描くなかから生まれたと思われる《おこりじぞう(死の灰)》は、原爆の惨禍のただなかに巻き込まれることと、そのなかでなおも生きようとする少女の意志とを凝縮させた作品として感銘深い。「黒い雨」を表題に持つ、1970年代末からの一連の作品からは、四國の核の問題への多様なアプローチを垣間見ることができる。

これらの作品を見ていくと、この画家が、独特の温かな即物性を基調としながら、対象やテーマによって、実に多様な様式を使い分けていることが伝わってくるが、同時に彼の画業において一貫していると思われるのは、絵を描き、作品を世に送ることが、つねに一つの行為に結びついていることである。そのことを端的に示すのが、峠三吉の詩を街に掲げる「辻詩」のための絵ではないだろうか。一つの行為としての四國の詩画を、それが生まれた文脈を踏まえつつ、いわゆる絵画の枠組みを越えて再評価する必要も感じられた。

それから、彼の戦後の画業には、シベリア抑留の経験が影を落としているが、抑留のなかから生まれたデッサンを母子像の連作と照らし合わせるとき、抑留の経験は、例えば香月泰男のそれとは違った意味を持っているようにも思われてくる。四國は、自分が武器を携えた、しかも中国の人々を虐殺してきた関東軍の兵士として虜囚となったことを、重く受け止めていたのではないだろうか。母子像などの作品に見られる、絵画と詩的な言葉の結びつきについても、さらに議論が深められる必要があるようにも思われた。

優しい人物像の画家といった四國のイメージを一変させる彼の絵の多彩さを示すとともに、その時代ごとの状況における強度をも伝えるこの展覧会が、彼の画業の再評価と新たな作品や資料の発掘に結びつくことを願ってやまない。彼の絵画が生まれた文脈や状況、そして彼の芸術と呼応する絵画や文学を照らし合わせるかたちで、四國五郎の画業は見直される必要があるのではないだろうか。

転機の二月に

早いもので、二月も終わりに近づいてきました。少しずつ春の兆しが感じられるようになっています。いつもにも増して厳しかったこの冬もようやく終わりに近づいてきたようですが、しばらくは寒暖の差が激しい日々が続くことでしょう。みなさまどうかご自愛ください。

さて、この二月には、いくつか転機となる、あるいはなるべきと思われる出来事がありました。なかでも、その最初の日に、ジャーナリストの後藤健二さんが、ISILの構成員の手によって殺害されたのには、大きな衝撃を受けました。紛争地の勇気ある取材をつうじて、現地の人々の困難な暮らしとそれが投げ掛ける問いを伝えてきたジャーナリストがこうして非業の死に追いやられたことに、深い悲しみを覚えないではいられません。

同時に、そこに至る日本政府当局の対応は、厳しく検証される必要があるとも思われます。「テロには屈しない」という言葉が喧しく繰り返されている裏で、どのような選択がなされていたのか、そこにどのような力が作用していたのか、といったことが明らかにされ、そこにある問題が追及されるべきでしょう。もし、その過程について「特定秘密保護」といったことが言われるとするならば、現在の政府は何を志向しているのかが、いよいよ深刻に問われなければならないはずです。

実際、日本のパスポートを携えて国境を越えていく人々が、命の危険に曝されないような状況を作るために外交的に働きかけることよりも、「日本人には指一本触れさせない」などと主張する武力を海外に拡大して、全世界的な戦争の一翼を担うことに、現政権が重心を置いていることが明白になりつつあります。海外への武器輸出や、海外での武力行使の道を拡げることに汲々とし、地元の移設反対派の住民を暴力で弾圧しながら、アメリカ軍の普天間基地の辺野古への移設へ向けた作業を強引に進めるやり方には、深い憂慮を覚えます。そして、「邦人保護」を名目に海外へ武力を送ろうという方向には、日本の戦争の歴史を重ねないではいられません。

ともあれ、2月1日を境に、日本の旅券を所持する者にとって世界は、根本のところで変わってしまったと思われます。そのような日に、一つの世界の崩壊を現出させるシェイクスピアの『リア王』を基に作曲された細川俊夫さんのオペラ《リアの物語》の広島での公演(Hiroshima Happy New Ear Opera II:細川俊夫《リアの物語》、2015年1月30日、2月1日、アステールプラザ中ホール)が楽日を迎えたのは、何かの巡り合わせなのかもしれません。すでに別のところで述べましたように、主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、プログラム・ノートを執筆し、日本語字幕の制作に携わり、プレ・トークとアフター・トークの司会を務めるかたちで、この公演をお手伝いさせていただきました。こうしたかたちで今回の公演に関わることができたことを、非常に光栄に思っています。また、全国各地からこの公演に駆けつけてくださったみなさまに、心から感謝申し上げます。

《リアの物語》の16年ぶりの上演となった今回の公演は、すでに各方面から好評をもって迎えられているようで、喜ばしく思っております。また、さまざまな意味で厳しい《リアの物語》という作品を、こうして演奏家と聴衆の集中力が一体となるようなかたちで舞台に載せることができたのは、Hiroshima Happy New Ear、ひろしまオペラルネッサンスといった、広島における地道な音楽活動の成果と思われます。しかし今は、今回の公演のなかで同時に、広島から新たなオペラを今後創り出していくうえでの課題も浮き彫りになったとも感じています。能舞台を用いて行なわれた今回の公演は、日本からの、そして広島からのオペラの創造の可能性を示すものであったと思われますが、その可能性を実現するためには、個々の演奏家とスタッフが音楽と舞台に対するみずからの役割と責任を明確にすることによって、芸術的な完成度、とりわけ音楽の完成度を高めることが急務ではないでしょうか。それをつうじて、今回の公演をオペラそのものの転機にする必要があると考えています。

この《リアの物語》の公演の二週間後、この公演で素晴らしい指揮を見せてくれた川瀬賢太郎さんが指揮台に立ち、リーガンの役を歌った半田美和子さんが、リゲティの《マカーブルの秘密》──これは、オペラ《ル・グラン・マカーブル》のゲポポのアリアを演奏会用に編曲したもので、バーバラ・ハンニガンが得意とする曲です──を歌うこともあって、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の神奈川県立音楽堂での定期演奏会を聴きに行きました(2月14日)。

この《マカーブルの秘密》が最初に演奏されたのですが、この曲で半田さんが、素晴らしい声と技巧で、リゲティの難曲のテクスチュアとテクストを余すところなく生かした演奏を繰り広げたのには、心動かされました。この作品をここまでの完成度で歌えるのは、日本では半田さんだけではないでしょうか。楽譜とテクストをしっかりと読み込んだ演奏によって、テクストの不条理さと、それが表わす錯乱も、表現として響いてきました。ドイツ語のテクストで歌われたのも、こうした行き方に相応しかったように思います。ドイツ語のほうが、断片化した言葉も含め、言葉が立って聞こえます。

川瀬賢太郎さんの指揮の下、神奈川フィルハーモニーのアンサンブルとの息も合っていて、半田さんの声と管楽器の響きが溶け合っているのが、表現に深みをもたらしていました。とくに声と管楽器の細かいトリルが遠くからひたひたと迫ってくるのには鳥肌が立ちました。以前に東京で接したバーバラ・ハンニガンのパフォーマンスほどには強い視覚性はないとはいえ、リゲティの音楽自体の凄さが研ぎ澄まされたかたちで伝わる演奏とパフォーマンスだったと思います。こうした演奏をつうじて、《マカーブルの秘密》が他ならぬリゲティの作品であることと、オペラの文脈を確かめることは絶対に必要ではないでしょうか。

その後、ハイドンの作品が二曲演奏されましたが、いずれの曲でも川瀬さんとオーケストラがよい関係を築いていることが音楽に表われていました。なかでも、交響曲第60番ハ長調「うかつ者」の演奏は素晴らしかったです。川瀬さんと神奈川フィルハーモニーはこの交響曲で、ハイドン独特のユーモアを存分に生かしつつ、躍動感と繊細な歌に満ちた演奏を繰り広げていました。この多彩な6楽章の交響曲のフィナーレのパフォーマンスも、実に楽しかったです。川瀬さんがここぞというところで示す音楽の推進力は目覚ましいもので、沸き立つようなリズムが聴衆の心を捕らえていました。それと田園情景を思わせる、ゆったりとした歌とのコントラストも生きていたと思います。チェロ協奏曲第1番では、独奏を担当した門脇大樹さんの端正な演奏もさることながら、川瀬さんが、ともすれば単調になりがちな伴奏から、実に豊かな歌を引き出していたのが印象に残ります。

神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会の翌日、渋谷の松濤美術館へロベール・クートラス展「夜を包む色彩」を見に行きました。小さくて静かな、そして手仕事の痕跡を残す夜の絵を興味深く見ることができました。聖堂の修復にも携わったことのある彼ならではの中世的なアルカイスムのなかに、ルドンを思わせる幻想性と、ルオーに見られるような聖性が同居するのが、とくに魅力的に思われます。また、小さなタロット・カード状の「カルト」に敢えて画面を制限しながら、そこに象徴性と意匠性を、素朴さを交えつつ凝縮させているのも面白かったです。そこに聖性と極端なまでの卑俗さの双方を込めながら、自分の存在の跡を執拗なまでに残そうとする画家の身ぶりからは、その深い存在の不安が感じられます。

ロベール・クートラス展flyer裏面

ロベール・クートラス展のflyer裏面

ちなみに、 「カルト」は極度の貧困のなかで夜ごと描かれたそうです。クートラスの晩祷の連作と言えましょうか。そこに中世の聖堂のファサードに見られる、人間の罪を象徴した像が表われるのも、聖堂の修復に携わった彼ならではのことかもしれません。祖霊への崇敬と魅力的な天使像の見られるグワッシュの作品や、テラコッタの立体作品も面白かったです。クートラスという画家のことは、これまで寡聞にして知らなかったのですが、よい出会いとなりました。

2月18日には、原民喜の甥の原時彦さんが、民喜の手帳を広島平和記念資料館に寄託されたとの報せを聞きました。この手帳の現物は、何度か見せていただいたことがありますが、とくに「夏の花」に描かれた場所を巡るフィールドワークの折に見せていただいたときのことを印象深く覚えています。「コハ今後生キノビテ コノ有様ヲツタヘヨト 天ノ命ナランカ」との決意を表わす文言が含まれる、自分が目にした広島の惨状を克明に記した「原爆被災時のノート」(その全文を土曜美術社刊の『新編原民喜詩集』などで読むことができます)がよく知られていますが、それ以外の部分にも反戦の意志が表われていたりして興味深いです。何よりも、こうして資料館に寄託されたのを機に、この手帳の存在が広く知られるようになるとともに、そのなかに記されたすべての文字が研究に活用される道がしっかりと開かれることが重要かと思います。

同時に、被爆から70年を迎えるこの年に寄託されたことは、一つの転機を示すものであると同時に、いくつもの問いを投げかけるものでもあるように感じます。峠三吉や栗原貞子らの作品の自筆草稿などとともに、世界記憶遺産への登録を目指す意味もあるとのことですが、登録されたなら、広島の人々は、この遺産を生かしていく使命を負うことになります。では、どのようにしてその使命を果たすことができるのでしょうか。何よりもまず、「娘を嫁に出すような心境だ」と新聞記者に語る時彦さんの思いに、どのようにして応えることができるのでしょう。広島における文学館の不在が、今あらためて問題として浮かび上がっているようにも思われます。

この二月、何冊かの本との出会いがありましたが、なかでも印象深かったのは、若松英輔さんが著わされた『吉満義彦──詩と天使の形而上学』(岩波書店、2014年)でした。吉満義彦は、近代日本のキリスト教思想史に大きな足跡を残した哲学者にして神学者です。私の母校の上智大学でも教えていたので、彼の名前を私の指導教員などの口から聞くこともあったのですが、彼のことを知る機会は、これまでほとんどありませんでした。若松さんの評伝を読んで初めて、彼が徳之島の出身で、私の高校の大先輩にも当たることを含めた彼の生涯と、霊性とは何かを問い続けた彼の思想に興味を覚えたところです。

徳之島などの南島で、珊瑚礁が死者の彼岸と生者の此岸のあいだに位置づけられていることと、吉満が、地上と超越者のあいだにある中間域を、死者との共生の場として、かつ形而上学の場として追求したこととが重なり合うところが、とくに興味深く感じられます。若松さんの評伝を、二読、三読しながら、吉満自身の著作にも触れてみたいと思います。同時に、「近代の超克」などへの彼のコミットメントも辿りながら、戦争の時代における天使的な思想の境位を確かめられればとも考えています。

この二月には、一つ小さな仕事を公にしました。広島芸術学会の会報第131号の巻頭言です。「芸術の力で死者の魂と応え合う時空間を──被爆70周年の広島における表現者の課題」という表題のごく短い文章で、細川俊夫さんのオペラ《リアの物語》が夢幻能の精神にもとづく作品で、その上演が死者とともにある空間を開くものであることや、原民喜の「鎮魂歌」がその強度において死者の嘆きを反響させていることを踏まえつつ、芸術の力によって死者とともに生きられる時空間を広島の地に切り開くことを、被爆70周年の広島における表現者の課題として提起する内容のものです。また、昨年12月に第46回原爆文学研究会の「『戦後70年』連続ワークショップⅣ──カタストロフィと〈詩〉」のなかで行なった報告「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌──パウル・ツェランと原民喜の詩を中心に」の要旨などを記した小文も、原爆文学研究会の会報第46号に掲載されております。

殿敷侃の点描

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《釋明昭信女A》

足袋に残された皺は、持ち主の足の形のみならず、その身のこなしや佇まいをも物語っているにちがいない。その内側には、持ち主の汗や垢のみならず、床と土を踏みしめた記憶も沈着しているだろう。そのような足袋が、漆黒の闇のなかから、異様な存在感をもって浮かび上がってくる。広島県の廿日市市役所の隣に設けられている、はつかいち美術ギャラリーで開催されていた展覧会「殿敷侃──現代社会への警鐘」(2013年8月1日~9月1日)で目にした《釋明昭信女》(1978年)と題された殿敷侃(1942~92年)の絵画は、この戒名を授かることになった母親への哀惜に捧げられた作品と言えようが、それは足袋の右片方だけを、その皺のみならず、染みや色のくすみに至るまで、恐ろしいまでに緻密に描くことによって、この足袋を履いて生きていた者の存在を、その生きざまとともに伝えながら、その不在を突きつけてもいる。

殿敷の母親は、夫を探して原子爆弾が投下された直後の広島に入り、負ぶっていた当時3歳の殿敷とともに二次被爆した。足袋の肌理には、その後遺症と経済的な困窮に苦しみながら息子を育てた母親の過酷な生の記憶が染みついていよう。《釋明昭信女》の画面は、張りつめた静けさに貫かれたなかに、時間を積み重ねて生じた足袋そのものの質量を、ただならぬ気配をもって浮かび上がらせているが、それによって殿敷は、母親がもういないことを噛みしめているように見える。もう一つ、細密な点描で母親が身に着けていたものを描いて母親を哀悼する作品に、母親の襦袢を描いた《釋明昭信女A》(1978年)があるが、それは、無造作に広げられた襦袢を描き出して、蝕まれた身体をかつて包んでいたことを痛切に感じさせる。

母親の足袋も襦袢も、点描で描かれている。無数の点によって、履き込まれた足袋が、着込まれた襦袢が浮き彫りにされているのだ。一つひとつの点を打ち込む筆の尖端には、母親に寄せる思いが、その生命を蝕み、奪った原子爆弾への怨念などとともに、凝集していたにちがいない。殿敷の点描は、自分自身の記憶と思いを研ぎ澄ませ、一つひとつの点に凝縮させながら、一つの形象を浮き彫りにする技法として見いだされたのではないだろうか。そのように、点描が第一次的には自分自身へ向かうものであることを示しつつ、爆心地に佇む自分の像を描き出したのが、《自画像の風景》(1975年)と言えよう。この作品は、細密でありながら異化されている──右眼だけが、別人の眼のように大きく開いている──と同時に、死骸のような冷たさをもった殿敷自身の姿を、不穏な背景のなかに浮かび上がった広島の廃墟の上に出現させている。それが屹立する様子は、何かに、おそらくは忘却に抗うようでもある。もしかしたら、敗戦から30年後の年──それは「復帰」した沖縄で「海洋博」が催された年でもある──に描かれた殿敷の自画像においても、靉光らの自画像と通底する抵抗が貫かれているのかもしれない。

この《自画像の風景》は、自画像の周りにシュルレアリスム的とも見えるモティーフを配して、どこか寓意的でもある。そのなかでとくに印象的なのが、前景に置かれた段ボール箱のなかから、原子爆弾のキノコ雲が立ち上っている様子。原爆投下の記憶は、けっして封じ込められることなく噴き出てくることを暗示しているのだろうか。その傍らでは、殿敷の頭部が白骨化していくのが描かれている。この作品は、一つの出来事が過ぎ去ることなく記憶に甦ってくる動きと、二次被爆によって蝕まれた自分の身体──それは記憶の場でもあるのだけれども──が朽ちていく動きという、相反する動向を一つの画面のなかで対峙させているのかもしれない。この作品における殿敷の自画像は、両者がせめぎ合うなかに立っているようだ。そして、画面全体は、この作品の殿敷に直接の影響を与えたであろうシュルレアリスムの絵画のみならず、アウシュヴィッツで惨殺されたフェリックス・ヌスバウムの、自嘲的とも言える寓意性を示す作品を思わせるところもある。

ところで、後に銅版画でも突き詰められることになる殿敷の点描は、モティーフを細密に描き出すのみならず、無機的な物が持つ、人の手を拒むかのようなざらざらとした質感を表現するものでもあろう。被爆死した父親の唯一の遺品である鉄兜と、それが発見された場所の煉瓦とを描いた《釋寛量信士》(1977年)や、原爆ドームの下に散乱する瓦礫の一つを拾い上げた《ドームのレンガ》(1977年)では、殿敷の点描のそうした特徴が強く表われているように見える。いや、生き物も、《カニ》(1977年)などが示すように、人が知るのとは別の相貌を帯びながらこちらへ迫ってくる。こうした、言わば物自体に迫ろうとするアプローチも、靉光に通じるものであろう。靉光は、きわめて緻密な筆遣いによって、殿敷は、研ぎ澄まされた点描によって、物を解き放とうとしたのではないだろうか。

廃物の集積を自然の空間に解放しようとしたり、自然の力を食い込ませることで建築物を廃墟の相において現出させようとしたりする、殿敷の早すぎた晩年の美術館をはみ出した行き方は、1982年にカッセルの「ドクメンタ7」でヨーゼフ・ボイスの《7000本の樫の木》に接したことをきっかけとして始まったと語られることが多いが、たしかに直接のきっかけはそこにあるとしても、潜在的にはすでに点描のなかで、こうしたインスタレーションやパフォーマンスにおいて実現されるべきことが試されてきたのではないだろうか。点描で描かれた《クシ》や《ノコ》が密やかに何かを語り始めるように、自然の樹木の上に、あたかもそこから生えてきたかのように置かれた古タイヤも、そのひび割れから、それが経てきた歳月を物語り始めるにちがいない。その声をいつか聴いてみたいと思う。