イスラエルでの国際ヴァルター・ベンヤミン協会の大会に参加して

闇のなかからふと現われ出たその「天使」は、あらぬところへ来てしまった子どものように、落ち着かない様子で漂っていた。それはもはや場所ではないところに、一つの〈あいだ〉にいるのだ。大きく見開いたその両眼は、それぞれ異なった方向を見つめている。そうして境界領域に浮遊しているという点では、これを「天使」と呼べるのかもしれない。とはいえ、その姿も〈あいだ〉にあると言うほかない。鳥の羽とも退化した手ともつかぬ両腕を広げながら、この「天使」は、人と獣のあいだを、彼岸と此岸のあいだを漂うのだ。

Coll IMJ, photo (c) IMJ

パウル・クレー《新しい天使》/Paul Klee, »Angelus Novus«, 1920 [Public Domain]

イェルサレムのイスラエル博物館で初めて目の当たりにした、パウル・クレーの《新しい天使(Angelus Novus)》(1920年)のこうした姿は、それ自体、当地のヘブライ大学とテル・アヴィヴ大学で12月13日から16日にかけて開催された国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究大会(International Walter Benjamin Society Conference “SPACES, PLACES, CITIES, AND SPATIALITY”)のテーマであった、ベンヤミンの思考における「空間」を開くようであった。その「空間」とは、それ自体として「閾」という境界領域である。それは生と死のあいだに、生誕や再生と、生まれ損なうこととのあいだに開かれる。彼が「空虚で均質な」と形容した「進歩」や「成長」の時空間に空隙を穿つようにして。

したがって、今回の学会全体のテーマであった「空間」は、ひと言で言えば、体験とは異なった経験の媒体であり、ベンヤミンが言う優れた意味での「根源」でもある。その現代の時空間におけるトポグラフィーを、みずから撮影したり、蒐集したりした映像そのものに語らせるかたちで、そしてベンヤミンの著作の読解を一歩進めるかたちで示していたのが、12月14日にテル・アヴィヴで行なわれた、ジョルジュ・ディディ゠ユベルマンの基調講演だった。そのなかで彼が、ベンヤミンの根本的な慎み深さを指摘していたのが印象に残っている。

その慎み深さは、例えば、「ベルリン年代記」のなかでベンヤミンが、自分が文章を書く際に「私」という主語を立てることを自分に禁じていた、と語っていたことに表われていよう。それによって、この「年代記」をはじめとする著作で、記憶の像がおのずと立ち現われてくるのだ。そのような意味で優れてベンヤミン的と言える手つきで、ディディ゠ユベルマンは、「名もなき者たち」の痕跡を辿り、大都市の片隅の薄明を捉えていた。

都市の薄明が浮かび上がらせるのは、両義性の空間である。両義性を帯びた事物のうちに過ぎ去ったものと今との緊張に満ちた布置を捉えることで、ベンヤミンは、「十九世紀の首都」パリのパサージュを近代の「根源史」の場として描き出すこと。これをベンヤミンはついに成し遂げえなかったわけだが、そのような歴史の場としてのパリの空間が、ナポリ、ベルリンといった、ベンヤミンが他の著作でその像を浮かび上がらせた都市の空間に通じていることも、今回の学会の主要なテーマの一つであった。それが取り上げられる際に、彼がナポリの建築空間に見た「多孔性」がしばしば指摘されていたが、その概念を、現代の空間ないし空間経験にどのように位置づけるか、またそのことにもとづいて、経験そのものをどのように捉え返すか、ということは、あらためて課題として浮き彫りになったと思われる。

「冥府」へ通じた「閾」にしてもう一つの歴史の経験の場である「パサージュ」、それは残存するものが来たるべきものとなって回帰する場でもある。「翻訳者の課題」が原作の「残存」を翻訳の出発点に置いていることを念頭に置きつつ、ベンヤミンが要請する字句どおりの翻訳──それは文字を、文字の姿のままに受け容れることだ──がもたらす言語の「非接合」によって開かれる言語そのもののパサージュ、すなわち「翻訳者の課題」に言う「アーケード」を、言語自体の媒体性ないし霊媒性を構成するものと捉え、このパサージュを、「根源史」の媒体としてのパリのパサージュと橋渡ししようとする議論は、示唆に富むものであった。

想起の媒体として根源史を形づくるとベンヤミンが考える「像」──それは彼によれば、言語的なものである──のうちにある時間の空間化を、それ自体として、「空虚で均質な時間」と神話的な歴史の連続の双方を中断する時間性において捉えることも、ベンヤミンの思考における「時空間/時代(Zeitraum)」としての空間の問題として浮上したのではないだろうか。さらに、その静止した「時空間」を構成する「時代の夢(Zeit-traum)」からの「目覚め」をどのように考えるか、という問題は、ベンヤミンの著作の読解をつうじて、今ここにある時空間をどのように見通せるか、という問いにも通じていよう。

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テル・アヴィヴの海岸にて

今回の国際学会では、「イスラエルにおけるベンヤミン」というテーマのパネル・ディスカッションの場が持たれたが、議論がイスラエルの国内政治の問題をめぐって噛み合わないままで、占領とは何か、また占領する力の上に成り立つイスラエルとはそもそも何か、というところにまで及ばなかったのは惜しまれる。こうした問題は、生涯シオニズムに批判的で、ついにパレスティナの地に足を踏み入れることのなかったベンヤミンの「暴力批判論」などを読み直す視点からこそ、問題そのものに介入するかたちで論じられうるのではないだろうか。今回の学会では、イスラエルでの学会に相応しく、と言うべきか、ベンヤミンの思考を、ゲルショム・ショーレム、マルティン・ブーバー、ヘルマン・コーエン、フランツ・ローゼンツヴァイクといった同時代のユダヤ系の思想家との布置のなかに浮かび上がらせようとする議論が目についた。

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ヘブライ大学のあるスコープス山からのイェルサレム郊外の開発地の眺め

学会の期間中には、テル・アヴィヴ美術館で、ベルリン芸術アカデミー付設のベンヤミンの手稿などが、「ヴァルター・ベンヤミン──亡命のアーカイヴ」のテーマの下で、ベンヤミンの著作に触発されて創られた現代芸術作品とともに展示されていた。それを見ると、ベンヤミンがいかに緻密にみずからの著作を組み立てていたかが伝わってくる。ゲーテの『親和力』の批評では、全体の細かな構成を一枚の紙に書き出したうえで、その組み立てどおりに小さな文字で原稿を書き、さらにその縁に、構想を組み立てた際に記した小見出しを転記しているのである。あるいは、カフカ論では、断章を記した紙を切り、紙片を並べ直して草稿を組み立てている。こうした手法は、いったん描いた作品を切り分けることで新たな像を浮かび上がらせた、クレーの手法と一脈通じるところがあるのかもしれない。『パサージュ論』では、独特の記号を駆使して構想を組み立てているのが印象的である。

学会の最終日には、学会の会場を抜け出して、ヘブライ大学のあるスコープス山とは反対側のヘルツルの丘──そこには「ユダヤ人国家」の発案者の一人テオドール・ヘルツルの墓がある──にあるヤド・ヴァシェム・ホロコースト博物館を訪れた。たしかに、ショアー、すなわち「ホロコースト」の歴史に関する展示は、エマヌエル・リンゲルバウムがゲットーのなかに残そうとしたアーカイヴのそれを含む貴重なドキュメントと、生還者──そのなかにヘウムノの生き残りであるシモン・スレブニクの姿があった──へのインタヴュー映像を巧みに配して、差別と迫害の下での生と死を、さらに絶滅の暴力の下に置かれることを、それぞれのゲットーや収容所の特徴を含めてありありと、かつ胸に迫るかたちで浮かび上がらせるものと言える。しかし、全体からは、ナチスの支配下における蜂起のヒロイズムを称揚し、オスカー・シンドラーをはじめとするユダヤ人を救った「義人」の力を強調することが、最終的に生還者たちの手によるイスラエルの建国へ流れ込んでいく、ナショナリスティックなストーリーの流れを感じないではいられない。「名前の部屋」の圧倒的な空間のなかに佇みながら、ここに「名もなき者」たちの場所はあるのだろうか、と自問せざるをえなかった。

Le_réfugié,_1939

フェリックス・ヌスバウム《難民》/Felix Nussbaum, »Le réfusié« 1939

ヤド・ヴァシェムの「ホロコースト」の歴史に関する展示からは、ショアーに至る迫害と抹殺をもたらした問題そのものが未だ解決されていないどころか、現代の世界で新たなかたちで深刻化していることを考え続けようという問題意識を感じ取ることはできなかった。歴史に関する展示のスペースに併設されている、「ホロコーストの芸術」を展示している美術館で目にすることのできた、フェリックス・ヌスバウムの《難民(Le réfugié)》(1939年)が、現在の問題の所在を静かに、しかし鋭く照らし出しているように思われた。その絵のなかでは、地球儀の置かれた長い机の傍らで、行き場を失った一人が頭を抱えて座り込んでいる。

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広島市現代美術館の「ライフ=ワーク」展を観て

「ライフ=ワーク」展flyer

「ライフ=ワーク」展flyer

広島市現代美術館で「被爆70周年:ヒロシマを見つめる三部作」展の第1部として開催されている「ライフ=ワーク」展を見た。戦争の傷を抱えながら生きることの刻まれた芸術作品、あるいはそのような生を浮かび上がらせる作品をつうじて、生の経験の結晶としての芸術を共有する場を開くとともに、その地点から戦争、そして原爆の記憶を新たに照らし出そうとする展覧会と言えようか。

最初に、被爆した広島の人々による「原爆の絵」が相当数展示されていたが、それによってこの「原爆の絵」の表現の多様さが際立っていた。小林岩吉が描いた最初の原爆の絵の一つには、被爆死した朝鮮人の老人と「南方留学生」の姿がさりげなく描き込まれていた。天満川の川面を埋め尽くす死体を執拗なまでに描いた中田政夫の絵は、やはり忘れがたい。そして、何よりも印象的だったのは、生塩敏夫が描いた死んだ母親を見守る少女の絵が示す、深い悲しみが染み透ったような静けさであった。全体として、具象と抽象のあいだで変化に富むなかに被爆の記憶を呼び起こす「原爆の絵」の表現には、被爆後の30年を超える歳月の経験が影を落としているように思えてならない。

地下展示室の壁の曲面に、石内都の「ひろしま」連作が、彼女の「Mother’s」連作とともに展示されているのも目を惹く。被爆死した女性たちの遺品として平和記念資料館に収蔵されている彼女たちの衣服を撮影し続けるなかから生まれた「ひろしま」連作は、この日(2015年7月18日)行なわれたアーティスト・トークで石内自身から聞いたところによると、これらの衣服を身に着けて街に出ていた女性たちの魂がいつでもそのなかに還って来られるように、美しく、カラーで撮影されているという。

実際、一枚一枚の写真からは、ブラウスなどの肌触りが伝わってくるようだし、人が着て歩いているときのように、袖口や裾が風になびいているかのように見える写真もある。「Mother’s」連作がどちらかと言うと、モノクロの写真に死の記憶を刻もうとしているのに対して、「ひろしま」は身体の再生を志向しているように思えるし、そこに込められた石内の思いが写真上の衣服をより生々しく、時に艶やかにさえ見せているのも確かだろう。初めてプリントされたという、血でピンクに染まった赤いブラウスの写真の前では、年配の女性が体を震わせながら目に涙を溜めていて、思わずそれに共振しそうになったが、そこにある共感ないし共苦を、どのように死者の哀悼と死者という他者の魂との呼応に結びつけるかが重要と思われる。

殿敷侃の作品や入野忠芳の作品を、いくらかまとまったかたちで見ることができることも貴重である。殿敷が母の遺品を文字通りの点描だけで描ききったいくつかの作品の精神が、1980年代に生まれた、無数の魂たちが夜の音楽のリズムで、天の川のように顕現するさまを思わせる《霊地》連作に結実するさまと、入野の被爆樹木の執拗な写生が、生長と枯死の凄まじいまでの緊張のなかに樹木の存在を屹立させた《精霊》連作を生み出しているさまは、いずれも本展覧会のテーマ「ライフ=ワーク」を具現するものと言えよう。とりわけ、《精霊》連作において樹木の表面を埋め尽くす、有機的であると同時に無機的で、張り裂ける運動を示す表現は、先日泉美術館での「ヒロシマ70」展で見ることができた入野の抽象画に通底するものと言えよう。

これら以外に、生の経験と芸術の結びつきを強く感じさせて印象的だったのは、香月泰男の《運ぶ人》。背負っている重い荷物に潰されて、荷物と一体となりつつある人物は、その記憶にも押し潰されようとしているのかもしれない。そして、今回の展覧会で際立っていたのはやはり、大道あやの《花火》だった。

無数の花火が炸裂する凝縮された時空間のなかに、太田川の生きものたちが乱舞する。川魚や蟹たちは、死者たちの生まれ変わりにちがいない。その魂の輝きが、素朴ながら永遠すら感じさせる花火の極彩色の光彩となって幾重にも画面を包んでいる。そのような表現は、生ある者たちへの慈しみを、無念の死を遂げた者たちへの深い哀悼ともに、手仕事のなかに深く落とし込んだなかから生まれたものであろう。濁った太田川を泳ぐ魚の姿にも個人的に共感を覚えるが、それとも通底するであろう生の肯定、それぞれかけがえのない生命の原理とも言える魂(アニマ)との共鳴──それこそが死者の哀悼をも貫いているのだ──が、芸術の源にある。今回の「ライフ=ワーク」展は、このことを、それぞれの作品の背景にある芸術家たちの歴史の経験とともに深く感じる場を開くものであると言えよう。多くの人がその場に身を置くことを願っている。

パウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」を観て

宇都宮美術館におけるパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」flyer

宇都宮美術館におけるパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」flyer

「愚かさは、カフカのお気に入りのものたち──ドン・キホーテから助手たちを経て動物たちに至るまで──の本質をなすものだ。〔中略〕カフカにとって、次のことだけは疑いもなく確かなことだった──まず第一に、人は誰かを助けるためには愚か者でなければならないということ、第二に、愚か者の助力だけが真に助けであるということ。不確かなのは、ただ、その助けがまだ人間の役に立つのかという点だけだ」。

現在宇都宮美術館で開催されているパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」の最終章のタイトル「愚か者の助力」は、ここに引いたヴァルター・ベンヤミンが友人のゲルショム・ショーレムに宛てた書簡のなかでフランツ・カフカの文学の核心にあるものを論じる一節から採られている。この最終章の空間に集められているのは、《何が足りないのだろう?》(1930年)という自嘲的とも見える小品に描かれた胴体のない人物=動物像をはじめ、出来損ないの被造物=生きものたちの形象である。クレーが晩年に集中的に描いた天使たちもまた、こうした被造物の仲間なのだ。

クレーの天使たちは、神の使者として地上に真理を啓示する力を未だ手にしていない。同じ空間のなかに展示されている《天使、まだ手探りをする》(1939年)に描かれた天使の姿が示すように、真理から遠ざかり、歪んでしまった世界のなかでもがいている。もしかすると、人に手を差し延べることは、この天使の手探りのような、盲目的でどこか愚かしい身ぶりでしかありえないのかもしれない。しかし、この祈りのような身ぶりがもたらすメタモルフォーズ──たとえそれが、《巣を発明した雌》(1925年)のような異形の生きものを産むものであったとしても──こそが、生あるものたちの息遣いなのだ。

このことを、クレーの開く「遊戯空間」は、いたずらっぽい微笑みとともに示している。「だれにも、ないしょ。」というテーマで開催されている今回のクレー展は、どこか出来損ないのところを含むことで、分類し、飼い馴らす眼差しを逃れていく生きものたちが変貌のなかに息づくこの「遊戯空間」に独特の時空間へ見る者を誘い、形象のさらなる解読を触発する展覧会であると言えよう。これほどまでに豊かな知覚経験のなかで、クレーの絵画の新たな奥行きを、彼の創作過程をも垣間見ながら楽しむことができるクレー展は、少なくとも日本ではこれまでなかったのではないだろうか。そのことは言うまでもなく、クレー独特のテーマの下にさまざまな時期の作品を、互いに響き合うよう配置しうるまでに深められたクレー研究に裏打ちされている。

今回のクレー展において重要と思われたのはまず、彼の絵画についてつとに指摘されてきた音楽性が深められる経験である。クレーの「遊戯空間」に鳴り響く音楽は、《赤のフーガ》(1920年)のような独特のポリフォニーであるが、それは複数の声部の共鳴であるだけにとどまらず、そのなかから第三のものが生まれてくるダイナミズムともなる。本展覧会の第2章「多声楽」は、その響きの振幅の大きさをも存分に味わえる場となっていた。例えば《島》(1932年)では、点描を駆使した色彩のポリフォニーの海のなかから、閉じることのない島の形態が、多次元的な運動とともに浮かび上がってくる。

あるいは、クレーのポリフォニーの響きは、《光にさらされた葉》(1929年)においては、補色という両極の混合によって作られた色彩のグラデーションを形成しながら、一枚の葉を生成させる。ゲーテの言う、植物の生成そのものを象徴する「原現象」としての葉を静かに差し出すようにして。この作品の静謐さは、初期作品《裸体》(1910年)の神秘的な静けさにも通じていよう。この作品には、画面を90度反転させた状態の赤外線写真が添えられていたが、それに浮かび上がる小さな人物が、実際の画面では、身ごもっているとも見える悲しげな裸体の女性の胸の辺りに、微かに浮遊している。

そのことは、小さな人物が生まれ出る前に埋葬されてしまっていることを告げながら、同時にこの人物が、女性の悲しみのなかに懐胎され、甦ろうとしていることをも暗示しているのではないだろうか。塗り重ねによる画面の重層化によっても表わされるクレーのポリフォニーは、生と死のあわいへも、見る者を誘っているのだ。このことは死者の深い哀悼にもとづいていよう。とりわけ、第一次世界大戦でおびただしい死を経験したクレーは、歴史の遺物を自然が侵食する廃墟のなかから、生きものたちが甦り、息づく場を開こうとしているのではないか。このことを暗示しているのが、第3章「デモーニッシュな童話劇」に集められた、緑が印象的な作品群であろう。

なかでも、《女の館》(1921年)は、深い闇のなかから明滅する緑がメルヒェン的な、自然と人工物の境界を不分明にするような形態を浮かび上がらせ、もう一つの世界への玄関へ見る者を誘う。また、《小道具の静物たち》(1923年)では、打ち捨てられた小道具たちが、怪しい光を放ちながら動き始める。その時間が、現実世界のクロノロジカルな時間とは別の時間であることも、クレーの絵画は優れて音楽的に示しているのだ。そのことは、第1章「何のたとえ?」に集められた、音楽のフェルマータやターンの記号をモティーフとした作品が、説得的に示しているのではないだろうか。

時間の転回をもたらす装飾音ターンの記号は、《子ども》(1918年)の顔では、後の《新しい天使》(1920年)を思わせる顔を形づくっているが、《ある音楽家のための楽譜》(1924年)では、矩形の形態が分解して落下する運動の時間を、ぐっと繋ぎ止めているようにも見える。他方、眼を思わせるフェルマータの記号は、《アクセントのある風景》(1934年)では、時の静止をもたらすとともに、風景をたわませ、緑に息を吹き込む。このような、もう一つの時間によって貫かれることによって、生あるものたちが──失われたものも含め──甦り、メタモルフォーズのなかに息づく世界。これをクレーの絵画は構成するわけだが、そこへと誘うのが、本展覧会の第5章の表題にもなっている「中間世界の子どもたち」であろう。

最晩年の《無題[子どもと凧]》(1940年)に登場する、体が手紙と化した子どもは、自分がいる画面の裏側にある楽園、《無題[花と蛇]》の世界──それを見せる展示から、クレーの両面制作の重要性も伝わってくる──へ、見る者を導くかのようだ。その姿は、メタモルフォーズとともに生あるものの形態が浮かび上がってくる源泉へ見る者を招待する、クレーの絵画そのものの象徴でもあるのかもしれない。そして、今回のクレー展「だれにも、ないしょ。」は、その招待に応じてクレーのいたずらっぽい微笑みの足跡を辿ることで、けっして完結することのない彼の世界の内奥へ、豊かな音楽の経験と新たな知見とともに導かれる、希有な機会と言えよう。《プルンのモザイク》(1931年)などの傑作も集まっている。

[2015年7月5日〜9月6日:宇都宮美術館/9月19日〜11月23日:兵庫県立美術館

四國五郎追悼・回顧展を見て

四國五郎追悼・回顧展の8枚組みの絵葉書より

四國五郎追悼・回顧展の8枚組みの絵葉書より

日本銀行旧広島支店を会場に開催されている「四國五郎追悼・回顧展」をようやく見ることができた。画家が愛した横丁が、その手による映画のポスターなどで彩られたかたちで再現された、手作りのエントランス──そこには四國五郎に私淑したガタロさんの作品も置かれていた──からして魅力的である。全体として、この画家に対する主催者の深い愛情が伝わってくる展示だった。

このエントランスの近くの広島の風景を描いた小品を集めた一角に置かれていた《相生橋》という作品に、思わず釘付けになった。かつての「原爆スラム」のバラックの廃材で造られたその絵の額縁にも驚かされたが、そのバラックが建ち並ぶ「相生通り」から原爆ドームを望む風景を、澄んだ筆致で描き取った画面が何よりも魅力的だった。「相生通り」の街並みを愛情を込めて描きながら、元安川の穏やかな水面とともに一つの静謐な風景に構成した《相生橋》は、この展覧会の冒頭を飾るに相応しい作品と言えよう。

四國の作品からは、全体的に、生命あるものへの深い愛情、それにもとづく戦争に対する怒り、そしてさりげないユーモアが画面から感じられるが、これらが強烈なアイロニーに結びついた作品として、第一次世界大戦の戦死者を描いたオットー・ディクスの作品を思わせる《大日本帝国兵馬俑》が、とくに印象に残る。今も読み継がれている絵本『おこりじぞう』の挿し絵を描くなかから生まれたと思われる《おこりじぞう(死の灰)》は、原爆の惨禍のただなかに巻き込まれることと、そのなかでなおも生きようとする少女の意志とを凝縮させた作品として感銘深い。「黒い雨」を表題に持つ、1970年代末からの一連の作品からは、四國の核の問題への多様なアプローチを垣間見ることができる。

これらの作品を見ていくと、この画家が、独特の温かな即物性を基調としながら、対象やテーマによって、実に多様な様式を使い分けていることが伝わってくるが、同時に彼の画業において一貫していると思われるのは、絵を描き、作品を世に送ることが、つねに一つの行為に結びついていることである。そのことを端的に示すのが、峠三吉の詩を街に掲げる「辻詩」のための絵ではないだろうか。一つの行為としての四國の詩画を、それが生まれた文脈を踏まえつつ、いわゆる絵画の枠組みを越えて再評価する必要も感じられた。

それから、彼の戦後の画業には、シベリア抑留の経験が影を落としているが、抑留のなかから生まれたデッサンを母子像の連作と照らし合わせるとき、抑留の経験は、例えば香月泰男のそれとは違った意味を持っているようにも思われてくる。四國は、自分が武器を携えた、しかも中国の人々を虐殺してきた関東軍の兵士として虜囚となったことを、重く受け止めていたのではないだろうか。母子像などの作品に見られる、絵画と詩的な言葉の結びつきについても、さらに議論が深められる必要があるようにも思われた。

優しい人物像の画家といった四國のイメージを一変させる彼の絵の多彩さを示すとともに、その時代ごとの状況における強度をも伝えるこの展覧会が、彼の画業の再評価と新たな作品や資料の発掘に結びつくことを願ってやまない。彼の絵画が生まれた文脈や状況、そして彼の芸術と呼応する絵画や文学を照らし合わせるかたちで、四國五郎の画業は見直される必要があるのではないだろうか。

転機の二月に

早いもので、二月も終わりに近づいてきました。少しずつ春の兆しが感じられるようになっています。いつもにも増して厳しかったこの冬もようやく終わりに近づいてきたようですが、しばらくは寒暖の差が激しい日々が続くことでしょう。みなさまどうかご自愛ください。

さて、この二月には、いくつか転機となる、あるいはなるべきと思われる出来事がありました。なかでも、その最初の日に、ジャーナリストの後藤健二さんが、ISILの構成員の手によって殺害されたのには、大きな衝撃を受けました。紛争地の勇気ある取材をつうじて、現地の人々の困難な暮らしとそれが投げ掛ける問いを伝えてきたジャーナリストがこうして非業の死に追いやられたことに、深い悲しみを覚えないではいられません。

同時に、そこに至る日本政府当局の対応は、厳しく検証される必要があるとも思われます。「テロには屈しない」という言葉が喧しく繰り返されている裏で、どのような選択がなされていたのか、そこにどのような力が作用していたのか、といったことが明らかにされ、そこにある問題が追及されるべきでしょう。もし、その過程について「特定秘密保護」といったことが言われるとするならば、現在の政府は何を志向しているのかが、いよいよ深刻に問われなければならないはずです。

実際、日本のパスポートを携えて国境を越えていく人々が、命の危険に曝されないような状況を作るために外交的に働きかけることよりも、「日本人には指一本触れさせない」などと主張する武力を海外に拡大して、全世界的な戦争の一翼を担うことに、現政権が重心を置いていることが明白になりつつあります。海外への武器輸出や、海外での武力行使の道を拡げることに汲々とし、地元の移設反対派の住民を暴力で弾圧しながら、アメリカ軍の普天間基地の辺野古への移設へ向けた作業を強引に進めるやり方には、深い憂慮を覚えます。そして、「邦人保護」を名目に海外へ武力を送ろうという方向には、日本の戦争の歴史を重ねないではいられません。

ともあれ、2月1日を境に、日本の旅券を所持する者にとって世界は、根本のところで変わってしまったと思われます。そのような日に、一つの世界の崩壊を現出させるシェイクスピアの『リア王』を基に作曲された細川俊夫さんのオペラ《リアの物語》の広島での公演(Hiroshima Happy New Ear Opera II:細川俊夫《リアの物語》、2015年1月30日、2月1日、アステールプラザ中ホール)が楽日を迎えたのは、何かの巡り合わせなのかもしれません。すでに別のところで述べましたように、主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、プログラム・ノートを執筆し、日本語字幕の制作に携わり、プレ・トークとアフター・トークの司会を務めるかたちで、この公演をお手伝いさせていただきました。こうしたかたちで今回の公演に関わることができたことを、非常に光栄に思っています。また、全国各地からこの公演に駆けつけてくださったみなさまに、心から感謝申し上げます。

《リアの物語》の16年ぶりの上演となった今回の公演は、すでに各方面から好評をもって迎えられているようで、喜ばしく思っております。また、さまざまな意味で厳しい《リアの物語》という作品を、こうして演奏家と聴衆の集中力が一体となるようなかたちで舞台に載せることができたのは、Hiroshima Happy New Ear、ひろしまオペラルネッサンスといった、広島における地道な音楽活動の成果と思われます。しかし今は、今回の公演のなかで同時に、広島から新たなオペラを今後創り出していくうえでの課題も浮き彫りになったとも感じています。能舞台を用いて行なわれた今回の公演は、日本からの、そして広島からのオペラの創造の可能性を示すものであったと思われますが、その可能性を実現するためには、個々の演奏家とスタッフが音楽と舞台に対するみずからの役割と責任を明確にすることによって、芸術的な完成度、とりわけ音楽の完成度を高めることが急務ではないでしょうか。それをつうじて、今回の公演をオペラそのものの転機にする必要があると考えています。

この《リアの物語》の公演の二週間後、この公演で素晴らしい指揮を見せてくれた川瀬賢太郎さんが指揮台に立ち、リーガンの役を歌った半田美和子さんが、リゲティの《マカーブルの秘密》──これは、オペラ《ル・グラン・マカーブル》のゲポポのアリアを演奏会用に編曲したもので、バーバラ・ハンニガンが得意とする曲です──を歌うこともあって、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の神奈川県立音楽堂での定期演奏会を聴きに行きました(2月14日)。

この《マカーブルの秘密》が最初に演奏されたのですが、この曲で半田さんが、素晴らしい声と技巧で、リゲティの難曲のテクスチュアとテクストを余すところなく生かした演奏を繰り広げたのには、心動かされました。この作品をここまでの完成度で歌えるのは、日本では半田さんだけではないでしょうか。楽譜とテクストをしっかりと読み込んだ演奏によって、テクストの不条理さと、それが表わす錯乱も、表現として響いてきました。ドイツ語のテクストで歌われたのも、こうした行き方に相応しかったように思います。ドイツ語のほうが、断片化した言葉も含め、言葉が立って聞こえます。

川瀬賢太郎さんの指揮の下、神奈川フィルハーモニーのアンサンブルとの息も合っていて、半田さんの声と管楽器の響きが溶け合っているのが、表現に深みをもたらしていました。とくに声と管楽器の細かいトリルが遠くからひたひたと迫ってくるのには鳥肌が立ちました。以前に東京で接したバーバラ・ハンニガンのパフォーマンスほどには強い視覚性はないとはいえ、リゲティの音楽自体の凄さが研ぎ澄まされたかたちで伝わる演奏とパフォーマンスだったと思います。こうした演奏をつうじて、《マカーブルの秘密》が他ならぬリゲティの作品であることと、オペラの文脈を確かめることは絶対に必要ではないでしょうか。

その後、ハイドンの作品が二曲演奏されましたが、いずれの曲でも川瀬さんとオーケストラがよい関係を築いていることが音楽に表われていました。なかでも、交響曲第60番ハ長調「うかつ者」の演奏は素晴らしかったです。川瀬さんと神奈川フィルハーモニーはこの交響曲で、ハイドン独特のユーモアを存分に生かしつつ、躍動感と繊細な歌に満ちた演奏を繰り広げていました。この多彩な6楽章の交響曲のフィナーレのパフォーマンスも、実に楽しかったです。川瀬さんがここぞというところで示す音楽の推進力は目覚ましいもので、沸き立つようなリズムが聴衆の心を捕らえていました。それと田園情景を思わせる、ゆったりとした歌とのコントラストも生きていたと思います。チェロ協奏曲第1番では、独奏を担当した門脇大樹さんの端正な演奏もさることながら、川瀬さんが、ともすれば単調になりがちな伴奏から、実に豊かな歌を引き出していたのが印象に残ります。

神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会の翌日、渋谷の松濤美術館へロベール・クートラス展「夜を包む色彩」を見に行きました。小さくて静かな、そして手仕事の痕跡を残す夜の絵を興味深く見ることができました。聖堂の修復にも携わったことのある彼ならではの中世的なアルカイスムのなかに、ルドンを思わせる幻想性と、ルオーに見られるような聖性が同居するのが、とくに魅力的に思われます。また、小さなタロット・カード状の「カルト」に敢えて画面を制限しながら、そこに象徴性と意匠性を、素朴さを交えつつ凝縮させているのも面白かったです。そこに聖性と極端なまでの卑俗さの双方を込めながら、自分の存在の跡を執拗なまでに残そうとする画家の身ぶりからは、その深い存在の不安が感じられます。

ロベール・クートラス展flyer裏面

ロベール・クートラス展のflyer裏面

ちなみに、 「カルト」は極度の貧困のなかで夜ごと描かれたそうです。クートラスの晩祷の連作と言えましょうか。そこに中世の聖堂のファサードに見られる、人間の罪を象徴した像が表われるのも、聖堂の修復に携わった彼ならではのことかもしれません。祖霊への崇敬と魅力的な天使像の見られるグワッシュの作品や、テラコッタの立体作品も面白かったです。クートラスという画家のことは、これまで寡聞にして知らなかったのですが、よい出会いとなりました。

2月18日には、原民喜の甥の原時彦さんが、民喜の手帳を広島平和記念資料館に寄託されたとの報せを聞きました。この手帳の現物は、何度か見せていただいたことがありますが、とくに「夏の花」に描かれた場所を巡るフィールドワークの折に見せていただいたときのことを印象深く覚えています。「コハ今後生キノビテ コノ有様ヲツタヘヨト 天ノ命ナランカ」との決意を表わす文言が含まれる、自分が目にした広島の惨状を克明に記した「原爆被災時のノート」(その全文を土曜美術社刊の『新編原民喜詩集』などで読むことができます)がよく知られていますが、それ以外の部分にも反戦の意志が表われていたりして興味深いです。何よりも、こうして資料館に寄託されたのを機に、この手帳の存在が広く知られるようになるとともに、そのなかに記されたすべての文字が研究に活用される道がしっかりと開かれることが重要かと思います。

同時に、被爆から70年を迎えるこの年に寄託されたことは、一つの転機を示すものであると同時に、いくつもの問いを投げかけるものでもあるように感じます。峠三吉や栗原貞子らの作品の自筆草稿などとともに、世界記憶遺産への登録を目指す意味もあるとのことですが、登録されたなら、広島の人々は、この遺産を生かしていく使命を負うことになります。では、どのようにしてその使命を果たすことができるのでしょうか。何よりもまず、「娘を嫁に出すような心境だ」と新聞記者に語る時彦さんの思いに、どのようにして応えることができるのでしょう。広島における文学館の不在が、今あらためて問題として浮かび上がっているようにも思われます。

この二月、何冊かの本との出会いがありましたが、なかでも印象深かったのは、若松英輔さんが著わされた『吉満義彦──詩と天使の形而上学』(岩波書店、2014年)でした。吉満義彦は、近代日本のキリスト教思想史に大きな足跡を残した哲学者にして神学者です。私の母校の上智大学でも教えていたので、彼の名前を私の指導教員などの口から聞くこともあったのですが、彼のことを知る機会は、これまでほとんどありませんでした。若松さんの評伝を読んで初めて、彼が徳之島の出身で、私の高校の大先輩にも当たることを含めた彼の生涯と、霊性とは何かを問い続けた彼の思想に興味を覚えたところです。

徳之島などの南島で、珊瑚礁が死者の彼岸と生者の此岸のあいだに位置づけられていることと、吉満が、地上と超越者のあいだにある中間域を、死者との共生の場として、かつ形而上学の場として追求したこととが重なり合うところが、とくに興味深く感じられます。若松さんの評伝を、二読、三読しながら、吉満自身の著作にも触れてみたいと思います。同時に、「近代の超克」などへの彼のコミットメントも辿りながら、戦争の時代における天使的な思想の境位を確かめられればとも考えています。

この二月には、一つ小さな仕事を公にしました。広島芸術学会の会報第131号の巻頭言です。「芸術の力で死者の魂と応え合う時空間を──被爆70周年の広島における表現者の課題」という表題のごく短い文章で、細川俊夫さんのオペラ《リアの物語》が夢幻能の精神にもとづく作品で、その上演が死者とともにある空間を開くものであることや、原民喜の「鎮魂歌」がその強度において死者の嘆きを反響させていることを踏まえつつ、芸術の力によって死者とともに生きられる時空間を広島の地に切り開くことを、被爆70周年の広島における表現者の課題として提起する内容のものです。また、昨年12月に第46回原爆文学研究会の「『戦後70年』連続ワークショップⅣ──カタストロフィと〈詩〉」のなかで行なった報告「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌──パウル・ツェランと原民喜の詩を中心に」の要旨などを記した小文も、原爆文学研究会の会報第46号に掲載されております。

殿敷侃の点描

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《釋明昭信女A》

足袋に残された皺は、持ち主の足の形のみならず、その身のこなしや佇まいをも物語っているにちがいない。その内側には、持ち主の汗や垢のみならず、床と土を踏みしめた記憶も沈着しているだろう。そのような足袋が、漆黒の闇のなかから、異様な存在感をもって浮かび上がってくる。広島県の廿日市市役所の隣に設けられている、はつかいち美術ギャラリーで開催されていた展覧会「殿敷侃──現代社会への警鐘」(2013年8月1日~9月1日)で目にした《釋明昭信女》(1978年)と題された殿敷侃(1942~92年)の絵画は、この戒名を授かることになった母親への哀惜に捧げられた作品と言えようが、それは足袋の右片方だけを、その皺のみならず、染みや色のくすみに至るまで、恐ろしいまでに緻密に描くことによって、この足袋を履いて生きていた者の存在を、その生きざまとともに伝えながら、その不在を突きつけてもいる。

殿敷の母親は、夫を探して原子爆弾が投下された直後の広島に入り、負ぶっていた当時3歳の殿敷とともに二次被爆した。足袋の肌理には、その後遺症と経済的な困窮に苦しみながら息子を育てた母親の過酷な生の記憶が染みついていよう。《釋明昭信女》の画面は、張りつめた静けさに貫かれたなかに、時間を積み重ねて生じた足袋そのものの質量を、ただならぬ気配をもって浮かび上がらせているが、それによって殿敷は、母親がもういないことを噛みしめているように見える。もう一つ、細密な点描で母親が身に着けていたものを描いて母親を哀悼する作品に、母親の襦袢を描いた《釋明昭信女A》(1978年)があるが、それは、無造作に広げられた襦袢を描き出して、蝕まれた身体をかつて包んでいたことを痛切に感じさせる。

母親の足袋も襦袢も、点描で描かれている。無数の点によって、履き込まれた足袋が、着込まれた襦袢が浮き彫りにされているのだ。一つひとつの点を打ち込む筆の尖端には、母親に寄せる思いが、その生命を蝕み、奪った原子爆弾への怨念などとともに、凝集していたにちがいない。殿敷の点描は、自分自身の記憶と思いを研ぎ澄ませ、一つひとつの点に凝縮させながら、一つの形象を浮き彫りにする技法として見いだされたのではないだろうか。そのように、点描が第一次的には自分自身へ向かうものであることを示しつつ、爆心地に佇む自分の像を描き出したのが、《自画像の風景》(1975年)と言えよう。この作品は、細密でありながら異化されている──右眼だけが、別人の眼のように大きく開いている──と同時に、死骸のような冷たさをもった殿敷自身の姿を、不穏な背景のなかに浮かび上がった広島の廃墟の上に出現させている。それが屹立する様子は、何かに、おそらくは忘却に抗うようでもある。もしかしたら、敗戦から30年後の年──それは「復帰」した沖縄で「海洋博」が催された年でもある──に描かれた殿敷の自画像においても、靉光らの自画像と通底する抵抗が貫かれているのかもしれない。

この《自画像の風景》は、自画像の周りにシュルレアリスム的とも見えるモティーフを配して、どこか寓意的でもある。そのなかでとくに印象的なのが、前景に置かれた段ボール箱のなかから、原子爆弾のキノコ雲が立ち上っている様子。原爆投下の記憶は、けっして封じ込められることなく噴き出てくることを暗示しているのだろうか。その傍らでは、殿敷の頭部が白骨化していくのが描かれている。この作品は、一つの出来事が過ぎ去ることなく記憶に甦ってくる動きと、二次被爆によって蝕まれた自分の身体──それは記憶の場でもあるのだけれども──が朽ちていく動きという、相反する動向を一つの画面のなかで対峙させているのかもしれない。この作品における殿敷の自画像は、両者がせめぎ合うなかに立っているようだ。そして、画面全体は、この作品の殿敷に直接の影響を与えたであろうシュルレアリスムの絵画のみならず、アウシュヴィッツで惨殺されたフェリックス・ヌスバウムの、自嘲的とも言える寓意性を示す作品を思わせるところもある。

ところで、後に銅版画でも突き詰められることになる殿敷の点描は、モティーフを細密に描き出すのみならず、無機的な物が持つ、人の手を拒むかのようなざらざらとした質感を表現するものでもあろう。被爆死した父親の唯一の遺品である鉄兜と、それが発見された場所の煉瓦とを描いた《釋寛量信士》(1977年)や、原爆ドームの下に散乱する瓦礫の一つを拾い上げた《ドームのレンガ》(1977年)では、殿敷の点描のそうした特徴が強く表われているように見える。いや、生き物も、《カニ》(1977年)などが示すように、人が知るのとは別の相貌を帯びながらこちらへ迫ってくる。こうした、言わば物自体に迫ろうとするアプローチも、靉光に通じるものであろう。靉光は、きわめて緻密な筆遣いによって、殿敷は、研ぎ澄まされた点描によって、物を解き放とうとしたのではないだろうか。

廃物の集積を自然の空間に解放しようとしたり、自然の力を食い込ませることで建築物を廃墟の相において現出させようとしたりする、殿敷の早すぎた晩年の美術館をはみ出した行き方は、1982年にカッセルの「ドクメンタ7」でヨーゼフ・ボイスの《7000本の樫の木》に接したことをきっかけとして始まったと語られることが多いが、たしかに直接のきっかけはそこにあるとしても、潜在的にはすでに点描のなかで、こうしたインスタレーションやパフォーマンスにおいて実現されるべきことが試されてきたのではないだろうか。点描で描かれた《クシ》や《ノコ》が密やかに何かを語り始めるように、自然の樹木の上に、あたかもそこから生えてきたかのように置かれた古タイヤも、そのひび割れから、それが経てきた歳月を物語り始めるにちがいない。その声をいつか聴いてみたいと思う。

フランシス・ベーコン展を見て

舞踊家をはじめとする幾多の表現者や思想家を惹きつけてきた20世紀の画家フランシス・ベーコン。そのアジアで初めてという大規模な回顧展が、東京国立近代美術館で開催されているのを見ることができた(2013年5月1日)。人間の身体とその変貌を生涯描き続けたといってよい彼の作品は、時にこちらに吠えかかってくるようであり、あるいは時に見る者の居心地を悪くさせるまでに身体の襞を掘り下げているようでもある。そのような彼の作品に、尖った魅力を感じながらも、ずっと何か摑めないもどかしさを感じていた。今回、1940年代に始まるベーコンの活動の初期から最晩年に至る作品ををまとまったかたちで見ることによって、彼が目指そうとしたものの一端に触れられたように思われる。

初期のベーコンは、人間の身体を凝視することで、それが別のものに変貌していく移行の瞬間を捉えていようとしているように見える。なかでも《屈む裸体のための習作》(1952年)は、屈曲する身体が、肉体としての最後の輝きを発しながら量塊と化していく瞬間を、見事に画面に定着させていよう。それはどこか、靉光が動物園のライオンを肉の塊のように描いた連作を思い起こさせるが、ベーコンの作品において目を惹くのは、影のように下に顔が映るのが、どうしても顔そのものが落ちているようであること。そこでは、人間の匿名化と身体の物質化が奇妙に符合しているように見えてならない。

この作品と同時期に始まる、カトリック教会の教皇や枢機卿をモティーフとする一連の作品もまた、身体の変容を追求するものであるが、そこでは身体の統合の崩壊がさらに進められている。この点からは、例えば同じアイルランド出身のジェイムズ・ジョイスらも抱いていたであろう、カトリックの聖職者に対する複雑な思いがうかがわれるが、この宗教的な精神性を代表すべき者の身体が、世俗性の極限においてどのような相貌を呈しうるのかを、ベーコンは、僧服を纏った聖職者の姿の物体としてのありさまを仮借なく描くことによって追求している。《座る人物像(枢機卿)》(1955年)では、枢機卿の身体が、同じ椅子に長時間座り続けるなかで溶け出してしまっているようだ。名高い《叫ぶ教皇の頭部のための習作》(1952年)では、幾重にも、あるいは幾人もの恐怖が一人の人間の内部で折り重なり──教皇の両眼には、エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』のオデッサでの虐殺のシーンで戦慄する乳母の両眼が重ねられているという──、顔が匿名の叫びそのものと化す瞬間が、フランス・ハルスを思わせるような素早いタッチで捉えられている。

このようなベーコンの挙措は、けっして聖職者とその聖性をたんに冒瀆することを意図するものではなく、むしろその世俗の身体を、そこに宿る生命を、その自由において肯定しようとする試みだったのではないか。しかも、そのために身体の物体化と断片化がむしろ祝福される。哲学者ジル・ドゥルーズを惹きつけたのもこの点なのかもしれない。そして、身体の歪曲と解体によって、生きることの自由を回復する回路は、ベーコンにとっては、やはり聖なるものの解体をつうじて探られなければならなかったようだ。1960年代後半からは、伝統的に祭壇画の形式として聖性が象徴される場をなしていた三幅対の画面が、ベーコンの生の肯定としての絵画の現場となるのである。

三幅対の画面を用いるにあたり、ベーコンは、三つの画面の物語的な関連を徹底して排しながら、断片化された身体の運動のある局面をそこに配置することで、解体された三幅対──それは、今回の展示を辿るとき、人生の三段階を人間に問うスフィンクスの変貌の果てにあるものにも見える──を、異形の身体による対の遊びに構成し直している。あたかもその遊戯のうちに自由が浮かび上がることを目指すかのように。その際彼は、《ジョージ・ダイアの三習作》(1969年)をはじめとするいくつかの作品に見られるように、一瞬の表情のうちに浮かび上がる顔の窪みや襞を徹底的に掘り下げたり、あるいは鍵を回すといった回転運動をモティーフとして、それによって強調されて浮かび上がる身体の局所を切り出したりしている。こうしてベーコンは、今や身体を屈ませるだけでなく、回転させ、歪ませ、解体することによって、人間の身体に物体としての可塑性を取り戻させようとしている。今やこのような迂路だけが、生きることの自由を回復する道筋なのかもしれない。ベーコンの三幅対は、解体された身体の無限の可塑性と、それにもとづく新たな自由とが暗示される場と考えられる。

もしかするとベーコンは、かつて一個の全体としてアウラを放っていた人間の身体の有機的な統合を破壊し、その歪曲され、解体された姿を、その可塑性において画面に定着させることによって、身体が新たなアウラを発するようになるとさえ考えていたのかもしれない。ムンクの一連の「心霊写真」を思わせる仕方でゆらめく身体が、三幅対のうちに描き出されているのを見るとき、またベーコンのエクトプラズムへの関心を聞くとき、そのように想像が駆られるが、ともあれ、物体と化しながらも一定の量感を保つ身体の、そのある局所の、移ろい行く瞬間の相貌を描き出すことで、生の根源的な自由を思い起こさせるところに、ベーコンの20世紀後半の具象画家としての本領の一つがあるのは確かと思われる。それが今回の展覧会で最も美しく発揮されていたのが、ガルシア・ロルカによる闘牛士への追悼詩にもとづくという晩年の《三幅対》(1987年)ではないだろうか。鮮やかなオレンジの上で身体の断片が、不思議な存在感と生命感をもって輝きを放っているのが、非常に印象深い作品である。

パリへの旅より

先週末からごく短い期間でしたが、パリに滞在しました。パリを訪れるのは、6年ぶりのことになります。滞在期間が、ちょうどアルプスの北側が寒波に見舞われた時期と重なり、最低気温が氷点下になる日もありましたので、真冬のコートを着て美術館や演奏会場に通いました。美術館は、いくつかの絵に再会したくてルーヴルとオルセーへ行ったのですが、いずれも観光客でごったがえしていて、あまり落ち着いて絵を見られませんでした。初期フランドル派の絵画や古いドイツの絵画を展示しているルーヴルの一角が閉鎖されていたのも、残念だったことの一つです。ヤン・ファン・エイクの「ロランの聖母」などを見たかったのですが。あらためてジョルジュ・ラ・トゥールの傑作をじっくり見られた──彼の絵のあたりは人が少ないのです──のが、救いと言えば救いでしょうか。それから、オルセーでは、«L’ange du bizarre»──「風変わりな天使」とでも訳せましょうか──というテーマで、とても興味深い展覧会が開かれているのを見ることができました。人間が自分の恐怖や、自分の内なる魔的なものをどのような形象に結晶させてきたかが、絵画と文学、さらには映画を交差させるかたちで探られていました。

展覧会と言えば、リュクサンブール美術館で見た、「シャガール──戦争と平和のあいだ」というテーマのシャガール展も、なかなか興味深かったです。シャガールの油絵作品をこれほどまとまったかたちで見たのは、広島のシャガール展以来ではないでしょうか。最初のパリ時代の作品と、ハシディズムの影響を感じさせるとともに、第一次世界大戦が影を落とすヴィテブスク時代の作品に始まって、ベラとの愛の日々を描いた美しい作品と続いていましたが、この時期の静かで、同時に親密さを感じさせる絵には独特の魅力があります。第二次世界大戦の恐怖のなかで描かれた作品としては、「レジスタンス」、「復活」、「解放」の三部作──これは広島でも見ています──が、聖書のいくつかの場面を描いた小さな作品に続いて展示されていたのが印象的でした。戦後の作品では、「五本の蝋燭」という比較的に小さな、青を基調とした静かな絵が最も感銘深かったです。鮮やかな黄色が特徴的な「ダンス」と同時期の、1950年頃の作品ですが、蝋燭の上に浮かぶ月と、その傍らにある、赤い花を生けた青白い花瓶に人の顔が映っています。戦争中に死んだ妻のベラをはじめ、戦争中に亡くなった人々への哀悼の思いが深い青に沈着した一枚と感じました。

さて、今回の滞在期間中、二つの演奏会に二つのオペラの公演、そしてバレエの公演に一つ接することができました。その印象を以下に、覚え書き風に記しておきます。まず、パリに到着した3月23日の夜に、オペラ・コミックで、ヴォルフ=フェッラーリの『スザンナの秘密』とプーランクの『声』の二本立ての公演を観ました。真っ白な、おそらく故意に狭さを感じさせるアパルトマン風の装置を使った、奇をてらうことのない、かつ洗練された演出(ルドヴィク・ラガルド)で好感がもてます。装置が狭いからこそ、『スザンナの秘密』では、夫婦間の擦れ違いや家のなかのドタバタが増幅されて、効果的だったのではないでしょうか。逆に後半の『声』では、装置を回転させ、前半では見えなかった部屋も見せることで、独り住まいの女性の寂しさを醸し出していました。それにしても、歌手たちの演技を含めた表現の巧みさには驚かされます。とくに、『スザンナの秘密』では、喫煙の趣味をどうにか隠そうとする妻をコミカルに演じたアンナ・カテリーナ・アントナッチが、『声』では一転して、別れようとする恋人に対するやるせない思いを、奥行き豊かに表現していたのには感銘を受けました。ここでは、彼女の深みのある声も、よい方向に作用していたように思います。パスカル・ロフェ指揮のリュクサンブール・フィルハーモニー管弦楽団もなかなかの力演でした。

3月24日には、まず午前中にシャンゼリゼ劇場で、ストラヴィンスキーの《兵士の物語》の演奏を聴きました。とくに演出を施さない、2人の語り手と7人の器楽奏者のアンサンブルによる演奏でしたが、作品に相応しい演奏で非常に感銘深かったです。ディディエ・サンドルとシャルル=アントワーヌ・ドクロワの二人の雄弁な語りもさることながら、ジャン=クロード・マルゴワール指揮する器楽アンサンブルの演奏の巧さがとくに印象に残りました。ヴァイオリンを中心に、悪魔に騙された兵士の惨めさ、王女と出会った兵士の喜び、さらにはそのそこはかとない虚しさまでも、鋭いリズムと苦い諧謔によって醸し出していたように思います。第二部の小コンセールと一連の舞曲はとくに聴き応えがありました。クラリネット奏者と打楽器奏者の演奏が素晴らしかったのも印象に残っています。それにしても、音楽全体の、どこか突き放すような貧しさと救いのない結末は、考えさせるものがあります。もしかすると《兵士の物語》とは、伝統的な寓話を題材とした、今ここに立ち返る思考を喚起する一つのアレゴリーなのかもしれません。そう言えば、未来とお金をちらつかせる悪魔は今、世界中に蔓延っている気がします。

同じ24日の夕方には、サル・プレイエルで、グスターヴォ・ドゥダメルが指揮するロス・アンジェルス・フィルハーモニックの演奏会を聴きました。クロード・ヴィヴィエの《ジパング》、ドビュッシーの交響的素描《海》、それにストラヴィンスキーのバレエ音楽《火の鳥》の全曲というプログラム。パリの聴衆を前に敢えてドビュッシーの《海》を取り上げるあたりに、ドゥダメルの意気込みを感じますが、実際この曲の演奏が最も力のこもったものでした。たしかにフランスのオーケストラの演奏のような微妙なニュアンスは感じられないものの、波濤のダイナミックな動きが実に鮮やかに表現されていました。とにかく響きの解像度を保ちながら、推進力に富んだ演奏が繰り広げられるのが印象的で、終曲など、無数の蠢きがポリフォニックにクライマックスへ高まっていくようでした。もう一つの《海》の姿を、説得的に示した演奏だったのではないでしょうか。ドゥダメルの指揮はこのように、持ち前のリズム感を、オーケストラの機能性を最大限に活かすかたちで発揮させる一方で、精緻な表現も志向していて、その方向性は、ストラヴィンスキーの《火の鳥》の演奏でいっそうはっきりと示されていたように思います。ただ、「カスチェイ一党の凶悪な踊り」の曲が終わったところで盛大な喝采が起きてしまって、やや興を殺がれてしまいました。演奏そのものは、各曲を細やかに描き分けた、また起伏と緊迫感に富んだ、なかなか聴き応えのあるもので、各楽器のソロも見事でした。ヴィヴィエの《ジパング》は、ところどころ響きが魅力的な箇所があったものの、時間の推移が少し単調に思えました。

3月25日の夜には、バスティーユの国立オペラ劇場で、ヴァーグナーの楽劇『ジークフリート』の公演を観ました。題名役を歌ったトルステン・ケールをはじめ力のある歌手が揃っていて、とくにアルベリヒの役を歌ったペーター・シドムなど、もの凄い迫力の声で驚かされました。ケールは徐々に調子を上げて、最後の場面ではブリュンヒルデ役のアーウィン・メラーと力強い愛の二重唱を聴かせてくれました。そのように、歌手たちの出来にはそれなりに満足できたのですが、ギュンター・クレーマーの演出がどうしても気に入らず、最後までもどかしい思いで観ておりました。何と言っても、舞台から歴史性が感じられないのです。唯一歴史の一端が垣間見られたのは、大蛇の姿で指環を隠し持つファーフナーが、「ラインの黄金」と書かれた木箱を引きずる、奴隷のような男たちの集団によって表現されていた場面でしょうか。ただそれも、充分に掘り下げられた表現とは言えず、どちらかと言うと、スペクタクルを志向するもののように思われました。その志向が最もはっきりと表われていたのが第3幕で、たしかに舞台全体を天井まで覆い尽くす階段は、眼には鮮やかですが、逆に人物を小さくして、その造形の彫りを甘くしてしまうものに感じられてなりません。実際、音楽を掘り下げるかたちで細かい演技が工夫されているところは少なかったように思いますし、そのせいか舞台がとても退屈でした。このような表面的な演出の舞台に、フィリップ・ジョルダンのやや呼吸の浅い指揮による音楽が響くと、ヴァーグナーの音楽が、時折安っぽい「テーマ音楽」のように聴こえてしまう印象はどうしても拭えません。オーケストラのせっかくの力演が虚しく響く場面も、いくつかあったように思います。聴衆はとても喜んでいて、盛んに喝采を送っていましたが、そのぶんいっそう、今ヴァーグナーを取り上げることの難しさを感じないではいられませんでした。

リュクサンブール公園の桜

リュクサンブール公園の桜

3月26日の夜には、ガルニエ宮の国立オペラ劇場で、ローラン・プティの振り付けによるバレエの公演を観ました。この劇場のバレエ団を代表するプリマ、オーレリー・デュポンの登場する後半の「カルメン」が呼び物だったのでしょうが、全体的に、歌がないと様にならない曲に無理して踊りを付けている印象が拭えず、少し退屈でした。たしかにデュポンの美しい踊りには独特の存在感がありましたが。個人的には、ディティユーの音楽を使った「狼」が、コミカルなところも含めて、最も楽しめました。音楽自体の躍動感と舞台上の身体的な動きがとてもよく呼応していたように思います。最後には狼男が、彼を愛した女性ともども虐殺されてしまう「狼」のストーリーそのものは、とても残酷なもので、一般受けはしにくいでしょうが、このバレエは、「人間」そのものを問うアレゴリーとして、もう少し取り上げられてもよいかもしれません。

エル・グレコ展と東京の二つのオーケストラの演奏会

先日、東京都美術館で開催されているエル・グレコ展を見ることができました。揺らめく炎のように天へ立ち上る身体が、聖なるものに触れた魂のエクスタシーを伝えるとともに、それに対する激しい憧れを感じさせるエル・グレコ(本名はドメニコス・テオトコプーロス)の絵画。それに、倉敷の大原美術館に展示されている「受胎告知」や、上野の国立西洋美術館に展示されている「十字架のキリスト」などをつうじて、以前から強い魅力を感じていましたが、今回そんなエル・グレコの絵画を、ギリシア時代からトレドでの晩年に至るまで、まとまったかたちで見ることができて、非常に興味深かったです。

「受胎告知」にしても、「十字架のキリスト」にしても、エル・グレコが繰り返し描き続けてきた画題で、今回の展覧会では、同一主題における画風の変遷も辿ることもできます。後者の主題で描かれたものとして、国立西洋美術館所蔵の作品以外に、ロス・アンジェルスのゲッティ美術館所蔵の作品も展示されていて、これが非常に精緻な画風を示していました。十字架上のイエス、そしてその死に対する思いの強さをうかがわせます。もしかすると、誰か近しい人の死をきっかけにして描かれたのかもしれません。

受胎告知の主題で描かれた作品は、かなりの数が展示されていましたが、とくに印象的だったのは1600年頃のティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵の大きな作品です。天から舞い降りて、マリアに神の子の受胎を伝える天使、それをじっと見つめるマリア、その受胎を祝福する天使の奏楽──スピネットのような鍵盤楽器をはじめ、いくつもの楽器が見られます──のあいだに垂直的に広がる空間が見る者の眼差しを引き込みます。おそらく、これが教会の祭壇に置かれているときに下から仰ぎ見たときの印象は圧倒的だったことでしょう。

どうやら、この「受胎告知」をはじめとして、教会の祭壇を飾るために制作されたエル・グレコの作品は、画家であるだけにとどまらない、空間造形家としての彼の側面を示すものでもあるようです。彼は信仰の空間を演出するためにさまざまな工夫を凝らしていたことにも、今回の展覧会では光が当てられていました。一見デフォルメに映る彼の絵の引き伸ばされた身体は、実は見上げたときの錯覚を計算しつつ、プロポーションを保つ工夫でもあるとのこと。とはいえ、そのことを冷静に考慮したとしても、エル・グレコ晩年の大作「無原罪の御宿り」は強烈な印象を残します。肖像画、風景画などの表現技法の粋を集めながら、創造のロゴスの分有としての受胎への祝福を、螺旋を描きながら天へ昇っていく空間のうちに表現しきっているように思えます。何と豊饒な求心性でしょう。

今回の展覧会では、感覚的には不可視である聖なるものを見えるものに変える、エル・グレコの“Visual Poetics”も焦点の一つでしたが、私にとってはそうした象徴的表現以上に、聖なるものを幻視する魂の動きが、人物の眼差しや所作に浮かび上がっているところが魅力的でした。エル・グレコは、そうした人物像の表現を、肖像画をつうじて磨き上げたに違いありません。その点では、パウロや聖フランチェスコに共感を示した作品も印象的でしたが、晩年の「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」は、肖像画として大変な傑作だと思います。こうしたことを考え合わせると、エル・グレコはもしかすると、それ自体としては目に見えない魂の内的なドラマを描き出しながら、それを空間のドラマと結びつけようとしたのかもしれません。

ところで、今回の東京滞在中、エル・グレコ展を訪れた以外に、二つの演奏会を聴くことができました。遅くなりましたが、その印象も少し記しておこうと思います。まず、1月19日(土)の午後には、インゴ・メッツマッハーが指揮する新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を、サントリーホールで聴きました。メッツマッハーの指揮は、彼のハンブルク時代──そのときは、国立歌劇場でプーランクの『カルメル会修道女の対話』の公演を指揮するのと、その翌日に国立フィルハーモニーの演奏会でブラームスの交響曲第2番などを指揮するのとを聴いて、彼のタフさに驚嘆したものでした──とベルリン・ドイツ交響楽団時代──非常に気合いのこもった、壮大なマーラーの第3交響曲の演奏が印象に残っています──に一度ずつ聴いていますが、彼が新日本フィルハーモニーを振るのを聴くのは今回が初めてでした。9月より彼はこのオーケストラのコンダクター・イン・レジデンスに就任して、これまで以上に多くの定期演奏会を指揮することになっているようですが、それが今から楽しみになってくるほど、彼とオーケストラの相性の良さが、響きから伝わってきます。

とくに印象的だったのは、チェロとコントラバスが、メッツマッハーの指揮に敏感に反応しながら積極的にオーケストラを主導していて、それによって重心の低い、かつスケールの大きな響きが構築されていたことです。最初に演奏されたシューベルトの「未完成」交響曲の冒頭で、チェロとコントラバスの音が開く深淵の上をヴァイオリンがさざめき始め、さらにそれに乗って木管が憂いを帯びた旋律を柔らかく歌い始めると、全体の響きが低音からしっかりと積み上げられていることがすぐに伝わってきましたし、同時に転調なども明瞭に伝わってきたのには目を見張らされます。しかも、ピラミッド状に構築された響きは、高い解像度を保ちながら柔軟な運動性も示していて、そのことは、この日の休憩後に演奏されたブルックナーの第9交響曲の構造を、とても新鮮なかたちで浮かび上がらせていたように思います。全体的に、ピアニッシモに対して過剰に神経質になることなく、ピアニッシモが求められる箇所でも、ある程度楽器を鳴らしながら、シューベルトの柔らかな歌が湧き上がったり、あるいはブルックナーの永遠を指し示すかのように清澄な響きが続いたりするのを表現していたことが、好方向に働いていたように感じました。

とはいえ、特筆すべきは、この日の演奏でメッツマッハーが、彼ならではのアプローチで、シューベルトとブルックナーの交響曲の崇高さを、厳しく、かつ清新な作品像を浮き彫りにするような仕方で抉り出していたことです。まず、シューベルトの「未完成」交響曲の演奏では、この曲に内在する悲劇性を、あらためて思い知らされました。とくに第1楽章の展開部では、地の底から這い上がってきた音が崩れ落ちていくかのようでしたし、そのような頂点に至るまで、テンポを上げながら響きが凝縮度を増していく音楽の進行には、息を呑みました。また第2楽章では、冒頭の淡い夕映えのようにたゆたう主題が変奏されて、形相を変えて屹立するのに、圧倒される思いでした。今回の演奏は、この交響曲の、もしかすると作曲者自身の手に余るほどの大きさを、モダン楽器のオーケストラにこそ可能な仕方で描ききった演奏と言えるのではないでしょうか。

このような厳しい表現があるからこそ、柔らかな響きの美しさが際立ちます。「未完成」交響曲の末尾近くの木管楽器のハーモニーは、これまでに聴いたどの実演よりも美しかったです。また、第1楽章の美しい第2主題に関して言えば、提示部が繰り返され、それがもう一度歌われた際に瞠目させられました。旋律の襞がふっと消え入るように響いて、言いようのない儚さを感じさせたのです。メッツマッハーの響きに対する鋭敏な感覚が、旋律の細やかな表現に生きた瞬間でした。

他方で、この日のブルックナーの第9交響曲の演奏は、敢えて喩えるなら、クレンペラーの演奏の峻厳さと、フルトヴェングラーの演奏の雄渾なダイナミズムを兼ね備えた演奏と言えるでしょうか。シューベルトの演奏でも見られたように、メッツマッハーはかなり振幅の大きいアゴーギグを示していましたが、それがけっして不自然ではなく、音楽そのものから発しているように聴こえましたし、また音楽の流動性と、ブルックナーに特徴的なブロックごとの垂直的な構造体の表現とが、見事に両立していたように思います。すべての楽器がなだれ込むようにして奏される第1楽章冒頭のユニゾンの一節をはじめ、巨大な響きの柱が現出する瞬間が何度も訪れましたし、憧れに満ちた歌が連綿と続いていくのも、停滞することなく表現されていたのではないでしょうか。とくに、アダージョの楽章の第2主題は非常に美しかったです。

それから、第1楽章の第2主題から第3主題への移行句が、非常に遅いテンポで演奏されているのを聴きながら、何か異次元に迷い込んだかのような気持ちになったのは私だけでしょうか。今回の演奏においてその一節は、メッツマッハーが容赦なく、恐ろしいまでに引き延ばした不協和音とともに、ブルックナー自身をも超えた世界を指し示していたのかもしれません。ブルックナーの最後の交響曲であると同時に、彼以後の音楽を暗示する作品として、メッツマッハーは、この第9交響曲をきわめて説得的に提示していたと思います。そこには、メッツマッハーの現代音楽の世界での経験──彼はアンサンブル・アンテルコンタンポランのピアニストとして活動を開始しています──と指揮者としての手腕が見事に生きていました。あらためて、メッツマッハーと新日本フィルハーモニーの今後の演奏に注目しなければと思いました。

1月20日(日)には、東京芸術劇場でエリアフ・インバルが指揮する東京都交響楽団の演奏会も聴きました。全席完売で、このコンビの人気の高さがうかがわれます。前半は上野由恵の独奏で、モーツァルトのフルート協奏曲第2番が演奏されました。フルートの澄んだ音色を心地良く聴きました。後半はマーラーの交響曲第5番嬰ハ短調。推進力に富んだ、またインバルの自在なアゴーギグが特徴的な演奏だったと思いますが、それが非常に説得的で、スリリングなまでの加速と、じっくりと歌い上げる表現の両方に生きていました。全体的に彼のさらに自由度と深みを増した解釈の下、振幅の大きい表現で歌い上げられた雄渾な演奏で、たしかに聴き応えがあったのですが、何か物足りないものもないではありません。聴き終えての感銘の大きさは、以前にベルリンのコンツェルトハウスでインバルが指揮するこの曲の演奏を聴いたときのほうが勝ります。

インバルの指揮に機敏に応える東京都交響楽団の演奏が巧みで、明晰なのは良いのですが、その分陰翳に乏しく、第5交響曲の時期のマーラーの響きにとりわけ必要な苦みが足りないように思いました。この組み合わせによるマーラー演奏の特質なのかもしれませんが、葬送行進曲をはじめ、とくに前半の楽章で、響きがほとんど物質的になるまでに苦味を噛みしめるような表現を掘り下げないと、コラールの輝かしさや、リッケルトの詩による歌曲集の世界にも通じるアダージェットのこの世を超えた美しさが、もう一つ生きてこないのではないでしょうか。インバルと都響の信頼関係の深さとともに、マーラーを演奏することの難しさも少しばかり感じた演奏でした。

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「パウル・クレー──創造の物語」展

[2006年7月17日/川村記念美術館]

パウル・クレーの絵には響きがある。絵の世界のなかから鳴り響いてきて、見る者の眼を優しく開き、その心のなかに暖かな灯を点す音響。クレーの絵を見るとは、その響きと、絵を見ている自分とを共鳴させることではないか。クレーの絵を見るとは、そのままこのようにして聴くことであろう。それとともにふつふつと湧き上がる感興。この感興に包まれるところにこそ、クレーの絵を見る喜びがあるものと思われる。

クレーの絵にこのような響きをもたらすものとしてしばしば挙げられるのが、独特の諧調をもった色彩の配置である。絶妙のグラデーションやコントラストをもって配された色と色が呼応しあうなかから、時にさざめいたり、また時にゆらめいたりといった音響が聴こえてくるのだ。とはいえ、ここでは響きの源として、もう一つ描線を挙げておきたい。クレーに独特の、つねにわずかな震えや擦れをともなって描かれる線。それはさまざまな境界を揺さぶる。人間と動物、動物と植物、人工物と自然物、神話と啓蒙、図と地などの境界線を、線によって揺り動かし、これらを反転させたり、相互に浸透させたりするのだ。このような震動する描線の脱構築的とも言うべき運動が、クレーの絵に、けっして耳を鋭く突き刺すものではないとはいえ、安定した調性をもたない響きをもたらしているのではないだろうか。

このようなことを考える契機となったのが、佐倉の川村記念美術館で開催されていた「パウル・クレー──創造の物語」展であった。「日本におけるドイツ年」の一環として開催されたこの展覧会は、デュッセルドルフのノルトライン=ヴェストファーレン美術館、ハノーファーのシュプレンゲル美術館、そしてヴッパータールのフォン・デア・ハイト美術館というドイツ北西部の3つの美術館のクレーのコレクションに、日本国内にあるクレーの作品を加えて展示するもの。クレーの故国スイスに並ぶとされるこれら3つの美術館の充実したコレクションを中心に構成されたこの展覧会は、最初期の風刺的なエッチングから、最晩年の、まったく無駄のない画面構成のなかに暖かな静謐さを感じさせる作品まで網羅することによって、画家としてのクレーの仕事を一望させるばかりでなく、5つのテーマのもとに作品を配することによって、クレーの創造の核心にあるものへも迫ろうとしていた。

「光の絵」と題された第1部は、1910年代までの初期の作品によって、クレーがモノクロームの世界を脱して、光に満ちた世界を色彩的に構成し始めるに至るまでの作風の変遷を描き出していた。それが示すのは、神の世界創造の原理でもある光を、クレーが最初期から追求していることである。風刺的なエッチングに取り組んでいた若きクレーは、黒の描線によって地上の現実を照らし出す光を画面にもたらそうとしていたのだ。その光は、苦い鋭さを放ちながら、人間社会の矛盾を歪んだ寓意像のかたちで抉り出す。世俗の王冠を前に身をかがめる一方で、他人を前にしてはみずからの優位を主張するといった人間の醜悪さをアイロニーとともに浮かびあがらせるクレーの「作品1」の版画集「インヴェンション」は、ゴヤの「ロス・カプリチョス」と比べて見たらどのように映るだろうか。

そのように苦渋に満ちたまなざしと鋭い黒の描線をもって人間社会の矛盾を照らし出す光を追い求めていたクレーは、1910年代には、光に満ちた世界を、水彩で色彩豊かに、かつ抽象的に構築し始める。ロベール・ドローネーの作風に触れたこと、そしてよく知られているチュニジアでの光の啓示は、人間社会の深奥へ突き入っていたクレーのまなざしを、豊かな光彩と広がりをもった世界へ向けて開いていったようだ。そしてクレーは、線描画家から、そのような世界を画面のうちに色彩をもって再創造する画家に変貌することを決意したのかもしれない。神が世界を創造する光の強烈な放射を、力強い線の動きと一体となった色彩によって描き出そうとする「はじめに光ありき」は、そのマニフェストのようにも見える。

「自然と抽象」と題された第2部は、クレーにおける経験的な自然の観察と抽象的な画面構成の緊密な関係に焦点を絞るものであった。「芸術は、眼に見えるものを再現することではなく、眼に見えるようにすることなのだ」と宣言するクレーにとって、自然の事物を見るとは、その眼に見える輪郭を写し取ることではない。それは事物の内的な躍動を、生命の律動を見て取ることを意味していたのではないだろうか。このような運動を「眼に見えるようにする」のが、色彩の配置などとして行なわれる画面の抽象的な構築であるとするなら、クレーにおける抽象は、経験的な世界の要素の幾何学的なものへの抽象ではなく、世界を経験的なものとして成り立たせている世界そのものの躍動を画面上に構成し、可視化する営みとしてあることになろう。そして、それは内的な運動の可視化である以上、絵画空間のなかに時間的な動きをもたらすにちがいない。クレーの絵に音楽があるのは、一面ではそれが時間を絵にしているからではないだろうか。

この音楽を一枚の譜面にも見えるようなかたちに構成しているように見えるのが、「駱駝(リズミカルな樹々の風景のなかの)」である。赤を基調とする柔らかで暖かな色彩のなかに駱駝のようで駱駝に見えない動物の姿が溶け込んでゆくなかから、いくつもの声部と拍子をもった音楽を鳴り響かせようとしているかのようだ。また、これも赤を基調とした絵であるが、「バラの庭」においては、ひとつひとつの形態の動きと画面全体の色彩の諧調が見事に結びついていよう。そこでは、石積みの建築物の石の隙間から力強く花を咲かせ、光を放射するようなバラの花が、暖かな光によって照らし出された石の建築物によって覆われた風景に動きを与えている。バラが一輪また一輪と咲くなかで、石の階梯が色の諧調をなしているのである。

クレーは、このように音楽を聴き出すようにして自然の生命へまなざしを注ぎながらも、同時代の社会的現実からけっしてまなざしを逸らしてはいない。第一次世界大戦による物心両面での破壊の悲惨さを一つの風景に凝縮させたかのような「破壊された街」は、このことを証し立てるものだろう。蝋燭の希望の灯が消えてしまった世界を、真っ赤な太陽がじりじりと照らし、廃墟を剝き出しにするさまを描くこの絵は、慰めなき世界を凝視するクレー自身のまなざしも同時に描いているのかもしれない。これと好対照をなすのが、暖かな光で照らし出された空間のなかに古代ギリシアの円柱を思わせるような建築物の断片を配し、瓦礫から何かが少しずつ造り上げられようとしていることを感じさせる「再構築」だろうか。

ところで、自然の形態と画面の構成とが見事に結びついた作品として、もう一枚「蛾の踊り」にも触れておきたい。虫とも鳥ともつかない形態を浮かび上がらせ、その羽根の動きを描き出す震える線の動きが、青を基調とする画面全体の色彩の配置と緊密に結びついている。中心に描かれた生き物の踊りが空間を響かせているかのようだ。

第3部は「エネルギーの造形」と題して、自然の事物が内側から自己を生成させる生命の躍動を画面上に描き出すクレーの創造を作品によって照らし出そうとしている。この第3部では、2枚の対照的なモノクロームの絵に魅かれた。1枚は「螺旋状にねじれた花II」。画面の右上、右下、そして左下から伸びてくる線をたどってゆくと、闇のなかに密やかに咲く花の形態に行き着くが、その花を描き出す螺旋状の線は、別の花ともつながっている。暗闇のなかで静かに応えあう生命のいとなみを描き出すようでいて、画面全体は闇のなかへ沈み込みながら、見る者の心を静め、沈思へと誘う。この闇のなかに沈潜してこそ、自然の生命に耳が開かれるのかもしれない。

もう1枚のモノクロームの絵とは、死の前年に描かれた「シュユップ」という奇妙な画題をもった作品。魚類や爬虫類の鱗を思わせる形態が画面を覆い、嵐のように渦巻いている。その荒々しい動きは、「皮膚硬化症」と診断されたクレー自身の身体に現われた病魔の動きから見て取られたものであるという。病に苦しみながらも、自分自身の身体を蝕んでゆく自然の動きと対峙し、それを描き取ろうとする画家としてのクレーの姿が、その苦悩とともに伝わってくる作品。

「イメージの遊び場」と題された第4部に配された作品はどれも、震動しながら既成のさまざまな境界線を揺り動かし、空間のなかに「遊び場」を開くクレーの線の魅力を発揮している。見ていて笑みを浮かべずにいられないような作品が多い。「窓辺のマリオネット」という作品に描き出されているのは、E・T・A・ホフマンの「砂男」に登場する窓辺の自動人形のようだ。柔らかな紫を基調とする色彩の諧調に包まれるなか、人形が涙を流し始めているようにも見える。「赤い鳥の物語」においては、線の動きがさまざまな生き物の形態への想像をかき立てる。画面の右上に描かれた赤い鳥(のような生き物)は、これからどのような生き物と出会うのだろう。鯨だろうか。それとも自分の何倍も大きな鳥だろうか。

最後の第5部は、晩年のクレーの作品の画面を「物語る風景」として提示している。病魔に冒され、自由が利かなくなったクレーの手が、けっして直線的にではなく、緊張に満ちた震えを孕みつつ、行きつ戻りつしながら、あるいは線と線を縺れ合わせながら描く線。それは空間と時間を多層的に分節しながらイメージを産み出し、見る者に語りかけてくる。それは線が文字を思わせるようなかたちで空間を区切っているからかもしれない。そのような文字がイメージと、さらには画面全体の色彩の諧調と見事に結びついている作品として、「石板の花」を挙げておきたい。薄緑の石に刻まれたさまざまな記号が、花を咲かせるように、赤や青の色を帯びて浮かびあがる。しかし、記号をかたちづくる線そのものは、硬い石のなかへ沈み込んでゆくようにも見える。色と線の緊張。これが画面に独特の静けさをもたらしているのではないか。そして、静けさのなかで有機質の音と無機質の音が応え合っているかのようだ。

そう、晩年のクレーの作品はどれも静けさによって貫かれている。ただし、その静けさは、冷えきった静けさではない。どこか暖かさを感じさせる静けさである。そして、その暖かさをもたらしているのは、時に生命あるものへの優しいまなざしであったり、時に醜悪な人間の生きざまをアイロニーを交えつつ受けとめようとするまなざしであったりするのだろう。とはいえそのまなざしも、自分自身へ向かうときには、厳しさを増しているように思われる。寓意的な自画像のように見える「忘れっぽい祝宴の席もはててから」の画面においては、晩年のクレーがしばしば手がけた天使像を思わせる形象が、自分自身へと沈潜している。そしてその姿は、寒色を基調とする硬質の静けさのうちに静止している。自分自身を厳しく見すえるクレーの透徹した眼差しを感じさせる作品である。

最後に置かれていた死の年の「隣の家」は、クレーの現世への別れの挨拶のようにさえ見える。そこでは、隣の家へ遊びに行く子どもとなったクレーが、彼岸への扉を開こうとしているのではないか。落ち着いた緑と茶を基調としながら、微妙にちがった色を格子状のブロックに配することで、家々とその背景を構成する画面は、静かな暖かさに満ちている。クレーは、自分のこれまでの生きざまを受けとめながら、彼岸へ赴こうとしているのだろうか。

このように、暖かな静けさによって貫かれているのは、もしかすると何も晩年の作品だけではないのかもしれない。振り返ってみると、今回の展覧会で見たクレーの絵のなかに、騒々しく自己主張したり、居丈高になったりするものは一枚もない。何よりもまず静けさによって貫かれているからこそ、クレーの画面は、何かを響かせ、語りかけてくるのではないだろうか。その無調の響きの源にある静けさ。それをもたらしているのは、クレーの透徹した耳をもった眼、生命の囁きを聴き取るまなざしであろう。それは彼の創造の核心をなすものの一つではないだろうか。今回訪れた「パウル・クレー──創造の物語」展は、初期から晩年までのクレーの優れた作品を数多く見せてくれるばかりでなく、このようなクレーの創造の核をなすものにまで思考を誘う展覧会だったと言えよう。