新緑の季節の仕事

[2017年4/5月]

IMG_0087

三滝の公園の新緑

木々の緑に映える陽射しが初夏の眩しさを感じさせるようになりました。よく晴れた日はまだ空気が乾いているので、体感のうえでは気持ちよく過ごすことができます。そうした日は、三滝橋を渡って、大田川放水路の堤の上を、山々の緑と足下の草花を眺めながら歩くようにしています。橋の上からは、海から上ってきた大きな魚が悠々と泳ぐのが見られることもあります。四月からの日々も非常に慌ただしく、かつ暗澹とせざるをえないことばかりが続くので、こうしてようやく勤め先に通えるだけの心身の平衡を保っているところです。とはいえ、折々に講演や寄稿などの機会をいただいて、そのたびに刺激を得ていることには救われています。そのような場をご用意くださった方々に、心から感謝しています。そこで、四月以降の活動を、この間に接した演奏会や映画などの印象を含めてご報告しておきたいと思います。

IMG_0085

晴れた日の大田川放水路

まず4月29日には、広島市現代美術館で特別展「殿敷侃──逆流の生まれるところ」に関連して、「逆流の芸術──ヒロシマ以後のアートとしての殿敷侃の芸術」と題する講演を行ないました。殿敷が晩年に自作について語った「逆流」という語の含意を、彼の制作を貫くモティーフを指し示すものとして掘り下げながら、彼の芸術をヒロシマ以後のアートとして、狭義の美術を越えた広い文脈のなかで捉え直す可能性を探るお話をさせていただきました。幸いにして会場が一杯になるほどの方々にお集まりいただきました。講演会の場をご準備くださった広島市現代美術館の関係者のみなさまとご来聴くださったみなさまに、あらためて感謝申し上げます。

b5884546-s5月21日まで開催されていた「殿敷侃──逆流の生まれるところ」は、原爆によって両親を失い、自身も被爆したことに向き合い続けながら、実にさまざまな作風を試み、平面も、さらにはアトリエをも飛び出していった殿敷侃の活動の全容を、各地から集められた膨大な作品と、それにまつわる貴重なドキュメントによって浮き彫りにしようとする意欲的な回顧展でした。それをつうじて、作品の形態を変えながらも、このちょうど四半世紀前に亡くなったアーティストが、絶えず打ち捨てられ、忘れられたものを拾い上げ、今に甦らせようとしていること、それによって彼の芸術が、現在に介入する一つの行為に結びついていることも、美術館の空間とのせめぎ合いから伝わってきます。この殿敷侃展が、彼の芸術の踏み込んだ研究と、彼の作品の美術館への収蔵の契機になることを願っています。

top_image5月4日には、横川シネマでおよそ一年ぶりに映画を見ました。見たのは空族の新作『バンコクナイツ』。前作の『サウダーヂ』同様、三時間という長さを感じさせないテンポのなかに、今作ではタイの東北部イサーン地方の歌が効果的に差し挟まれて、映画に奥行きを添えていました。タイとラオスでのロケによるスケールの大きなロードムーヴィーであるのも、『バンコクナイツ』の特色でしょう。同時に、植民地主義が形を変えながら人々の内面にまで浸透する現在に対峙するかたちで、イサーン地方の抵抗としての生活の伝統を、さらにはその森林に逃れた抵抗者たちの足跡を掘り下げることによって、時間的にも空間的にも深みのある作品に仕上がっていると感じました。金に目がくらんだ植民者の欲望がいくつもの角度からこれでもかと抉られるのは『サウダーヂ』にも通じますが、『バンコクナイツ』では、それと同時に歴史に翻弄された人々の悲しみが、映像によって深く掘り下げられているのが特徴的でしょう。映画で流れるイサーン地方の歌には、震災と原発事故に遭った東北地方の人々や、米軍基地によって生活が侵食され続けている沖縄の人々の悲しみも反響しているように感じました。

5月5日には、広島市と大邱広域市の姉妹都市提携20周年を記念してのオペラの共同制作公演をアステールプラザへ観に行きました。演目はプッチーニの《ラ・ボエーム》。合唱を含む歌手が大邱オペラハウスから来演し、広島交響楽団や広島ジュニアコーラスなどが広島側から演奏に加わるかたちで公演が開催されました。何よりも大邱を拠点に活躍する歌手たちの声の強さに驚かされました。なかでもイ・ユンギョンという歌手は、ミミの苦悩を振幅の大きな、かつ彫りの深い表現で歌い上げていました。声の美しさも特筆されます。第三幕以降の切々とした歌唱は、とくに印象的でした。また、マルチェッロ役を歌ったキム・スンチョルという歌手の自然な発声と懐の深い歌は、この歌手の並々ならぬ実力を示すものと思われました。プログラムに記されていたプロフィールを見ると、韓国の歌手たちが実に貪欲に、韓国の外に活躍の場を求めていることがうかがえます。演出にはいくつか注文を付けたいところがありましたが、今回の《ラ・ボエーム》の共同制作公演が、大邱のオペラが高水準で活況を呈していることを、素晴らしい歌とともに伝えるものだったのは確かでしょう。

18401940_1500969589955408_2240876196494931709_o5月15日には勤め先の広島市立大学で、クレズマーの1980年代後半におけるアメリカでのリヴァイヴァルと、その後のグローバルな展開を象徴するミュージシャンで、グラミー賞を受賞したバンドKlezmaticsの創立メンバーでもあるフランク・ロンドンさんを迎えての特別講義とささやかなライヴを開催しました。ロンドンさんは、クレズマーをはじめ移民音楽の研究に取り組んでおられる松山大学経済学部の黒田晴之さんのご尽力によりお招きすることができました。午後の特別講義にも、夕方のミニ・ライヴにも、学外から多くのお客さまにお越しいただきました。ご来聴に心から感謝申し上げます。

特別講義は、ワールド・ミュージックのブームに乗ったクレズマーのリヴァイヴァルを見つめてきた音楽批評家東琢磨さんが、ロンドンさんにインタヴューするかたちで行なわれました。東欧ユダヤ人の言語であるイディッシュとクレズマーの結びつきや、アメリカでの他の音楽との混淆による音楽の変化などが、ディアスポラ(世界各地への離散)を生きるユダヤ人の二重の生活とともに語られました。お話のなかでは、世界中のさまざまな音楽と接触しながらグローバルに生成するなかで、東欧ユダヤ人の文化に由来する特殊なものの普遍性を体現していく、ロンドンさんのクレズマーの特徴も示されました。ショアー(ホロコースト)の記憶に向き合い、この言い表わしがたいものを歌う可能性を追求する、みずからの音楽の使命にも触れておられました。

夕方のライヴは、日本でいち早くクレズマーの魅力を発見し、それとストリート・ミュージックとの融合を図ってきたバンド、ジンタらムータとの共演により行なわれました。結婚式の踊りに使われた音楽をはじめ伝統的なクレズマーのほか、実に多彩な曲が披露されましたが、なかでもかつて美空ひばりが唄った《お祭りマンボ》の演奏は、ロンドンさんとジンタらムータの出会いを象徴するものだったと言えるでしょう。心の奥底からの祈りを、驚くほどの振幅で聴かせる曲もあれば、会場を祝祭的な興奮の渦に巻き込む激しいリズムの音楽もありましたが、どの曲からも聴く者の魂を揺さぶる力が感じられました。原曲がイディッシュの平和を祈る歌“Sholem-lid”が日本語の訳詞でプログラムの最後に歌われたことは、非常に意味深いことだったと思われます。

banar_motohashi5月20日には、原爆の図丸木美術館で開催されている本橋成一写真展「ふたりの画家──丸木位里・丸木俊の世界」と関連して原爆文学研究会との共催で開催された、本橋さんの監督による映画『ナージャの村』(1997年)と、この作品の公開から20年後の再訪ドキュメントの上映後のトークの聞き手役を務めました。当時8歳だったナージャを、地に根を張った村人たちの生きざまのなかに浮かび上がらせた映画を、大人になって町で働くナージャが登場する報告映像と併せて見るなかで、チェルノブイリの原発事故によってばらまかれた放射能によって、彼女が帰るはずの場所が失われ、生き物との関わりを含めた風景のなかの生が根こそぎにされつつあることを、原発事故の福島で起きていることと結びつけながら思わざるをえませんでした。それに対する哀しみによって貫かれていることが、『ナージャの村』の映像を今に生かしている気がしてなりません。そして、再訪ドキュメントを見ると、『アレクセイと泉』(2002年)を含めた、チェルノブイリ原発事故後のベラルーシを撮った作品が、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)とも通底するかたちで、人と人の密な関係のなかに一つの出来事を浮き彫りにするものであることも伝わってきます。この人間関係の始まりを含めて興味深いお話を、本橋さんからうかがうことができました。丸木夫妻の写真も含め、本橋さんの映像は、立ち振る舞いや仕草の細部から、既成の人物像をはみ出す人物を浮かび上がらせています。写真展を含め、とても見応えがありました。

18671216_1516927588359608_6340337683729439282_n5月25日には東京オペラシティのコンサートホールで、コンポージアム2017「ハインツ・ホリガーを迎えて」の一環として《スカルダネッリ・ツィクルス》の日本初演が行なわれましたが、そのプログラムに「ヘルダーリンの詩と音楽」と題する小文を寄稿させていただきました。作品解説を補完するかたちでヘルダーリンの生涯と詩作を音楽との関わりにおいて紹介する内容のもので、アドルノのヘルダーリン論「パラタクシス」を参照して、とくに二十世紀以降の音楽とヘルダーリンの詩の親和性に着目しました。今回の記念碑的とも言うべき《スカルダネッリ・ツィクルス》の日本初演の印象は、すでに別稿に記したとおりですが、これに立ち会えたことをとても嬉しく思っています。実演を聴いて、最晩年のヘルダーリンの詩にもとづく無伴奏合唱曲《四季》、小管弦楽のための《スカルダネッリのための練習曲》、フルート独奏のための《(t)air(e)》によってまとめられたこの《ツィクルス》が、「スカルダネッリ」の署名を持つヘルダーリンの詩が生まれる世界を、その崩壊も含めて厳密に構成/作曲したものであることがよく分かりました。ラトヴィア放送合唱団、フェリックス・レングリのフルート、そしてアンサンブル・ノマドの演奏も素晴らしかったです。

18679097_1385938901514262_1156041139_n5月28日には、アステールプラザのオーケストラ等練習場で開催された「安保惠麻 現代への眼差し──20世紀のヴィオラ作品を中心に」を聴きました。現在広島交響楽団と神奈川フィルハーモニー管弦楽団の首席ヴィオラ奏者を兼任されている安保さんの独奏を、初めて間近で聴いたことになります。ショスタコーヴィチの最後の作品であるヴィオラ・ソナタを中心とした演奏会でしたが、とくにその終楽章は素晴らしかったです。中間のカデンツァ風の一節から徐々に静まっていく展開の緊張感には息を呑みました。安保さんのヴィオラの音は豊かでありながら透明性も兼ね備えているので、このソナタの第一楽章の微かなピツィカートもよく響きます。そのことを生かした振幅の大きな表現が魅力的な演奏でした。その前に取り上げられた武満徹の《星が道に降りてきた》も美しかったです。ピアノの響きが道を作るなかに、ヴィオラの闊達な動きが豊かな歌とともに響いていたと思います。リゲティのソナタが聴けたのも収穫でした。どの楽章からもひと筋の線が感じられました。広島を拠点に活躍されている作曲家徳永崇さんの《舟歌If》の初演もありました。音戸の舟歌が変奏されるなかに風景を感じさせる曲、という印象を受けました。

このようにして新緑の時季は慌ただしく過ぎ、早くも六月に入りました。忙しさにかまけ、肝心の研究に関わる仕事を進められていないのには忸怩たる思いです。今月からは研究とその成果の執筆に力を傾注しなければなりません。その際、今ここで哲学することの意義があらためて問われることになるでしょう。このことを思うとき、5月20日に訪れた原爆の図丸木美術館に展示されていた丸木夫妻の共作《大逆事件》(1989年)が目に浮かびます。1910年に明治天皇の暗殺を共謀したとの理由で官憲に摘発された人々のうち、死刑となった12名の姿が絞首のためのロープとともに浮かび上がるその画面は、内心の自由を根底から脅かす「共謀罪」が制定されようとしている現在を、静かに問いただしています。異論を封じ、自発的隷従──これが「忖度」の意味するところでしょう──を強いる法律の制定を、許しがたい不正と暴力を重ねながら急ぐ政権の欺瞞は食い止めたいと思いますし、同時にそれによって圧殺されることのない精神の在り処を、思考によって他者たちのあいだに切り開きたいとも考えているところです。

映画との出会いと再会

現在、6回目を迎えるヒロシマ平和映画祭が、「地を這うものたちのまなざし」をテーマに開催されています。直接的な暴力によって、あるいは体制や制度のなかに構造化された暴力によって虐げられながらも生き続ける者たちとともに歩むカメラが映し出す世界。それは、現在の世界の仕組みに内在する暴力の所在を指し示しながら、抑圧された者たちが、地面に這いつくばって生きるなかで培ってきた、生きものたちとの親密な関わりとそこにある生きる知恵をも映し出しているように思われます。そのことは、「人間」が生きものの一つであることを伝えながら、「人間」とは何かを問いかけているのではないでしょうか。

さて、今回の映画祭でも、いくつもの素晴らしい映画に出会うことができましたが、そこには最近の映画のみならず、3、40年前に作られた映画も含まれます。なかでも、深作欣二監督の『軍旗はためく下に』(1972年)と小池征人監督の『人間の街──大阪・被差別部落』(1986年)からは強烈な印象を受けました。その印象はとてもひと言では言い尽くせませんが、いずれも「日本」に現在も構造化されている暴力に鋭く迫りながら、それに立ち向かう眼差しをも捉えているように思います。とくに『人間の街』からは、差別の暴力そのものを解体しようとする意志も感じられました。他方で、『軍旗はためく下に』という映画は、戦争をするとはどういうことか、軍隊とは何か、という今や差し迫ったものとなりつつある問題を、国家の存立の暗部に迫るかたちで掘り下げているのではないでしょうか。

もう一つ印象に残った作品に、姫田忠義監督の『豊松祭事記』(1977年)があります。広島の最東部の豊松村の自然崇拝的な祭祀によって分節された暦を辿るこの作品は、中世以来の伝統を保つ村の暮らしを伝えるのみならず、先の『軍旗はためく下に』とはまた異なった視点から、まつろわぬ民の存在を示唆していたようにも思われました。そして、供養を含めた屠畜場の営みに光を当てる小池監督の『人間の街』ともどこか通底するかたちで、人間と他の生きものたちとの親密な関係を映し出していたのも、興味深く感じたところです。

12669421_1028066270586897_944965380566543657_n今回の映画祭では、こうして今まで見たことのなかった映画に出会えたばかりでなく、かつて見た作品と再会する機会にも恵まれました。見直すことができた作品の一つに、広島の卓抜なドキュメンタリストである平尾直政さんがプロデューサーとして手がけた『The A-bomb──ヒロシマで何が起こったか』があります。敢えてやり尽くされたことをやった、という平尾さんの言葉からうかがえるように、1945年秋の広島を撮った未編集のフィルムをハイ゠ヴィジョン化して駆使しながら、広島の原爆被害を可能なかぎりコンパクトにまとめて、これだけは見てほしいと伝えるものですが、とくに平尾さんがずっと追ってこられた原爆小頭症患者の姿などからは、原爆が未だ終わっていない出来事であることが切々と伝わってきます。この作品には英語版もありますので、教材としても活用していきたいと考えています。

12594050_1073045299414508_1639790615333354909_oもう一つ今回の映画祭で再会できた作品に、ミシェル・クレイフィとエイアル・シヴァンの共同監督によるドキュメンタリー映画『ルート181──パレスチナ〜イスラエル 旅の断章』(2003年)があります。この映画を広島で初めて見たのが2006年ですから、今から10年前ということになりますが、今もその衝撃は忘れられません。この映画の上映会に足を運んだことが、今回に至るまでヒロシマ平和映画祭の実行に関わるきっかけともなりました。それから10年を経て、パレスティナの消された境界線を辿るこの映画を見直すとき、現在世界中に浸透しつつある、人を蔑み、根こそぎにし、死へ追い立てていく暴力の源に何があるのかが、あらためて突きつけられる思いでした。

今回広島市立大学の講堂で『ルート181』を見直して、一つ考えさせられたことがあります。それは、この映画が実は周到なかたちでクロード・ランズマンの『ショアー』に問いかけているのではないか、ということです。『ショアー』を意識した場面として、ロッドでのイスラエル兵によるパレスティナ人住民虐殺が証言される床屋のシーンがしばしば挙げられますが、それと併せて、破壊され、地図から消されたパレスティナ人の村々の歴史を語る人々が複数であることも、ほぼラウル・ヒルバーグ一人が「歴史」を代表する『ショアー』と対比させられうる点と思われました。監督の一人クレイフィは、『石の賛美歌』でもアラン・レネの『ヒロシマ・モナムール』に批判的に問いかけていましたが、彼のそのような志向が『ルート181』にも表われているのかもしれません。

ちなみに、広島市立大学では、2007年にクレイフィの『石の賛美歌』(1990年)を上映していますし、アラブ研究を専門とされる国際学部の同僚の宇野昌樹さんは、同じクレイフィの『ガリレアの婚礼』(1986年)の日本語字幕を監修された方です。今回宇野さんには『ルート181』上映後のトーク・セッションにもお越しいただきました。そして、宇野さんや他の来場者と遣り取りするなかで、やはりこの映画の4時間半にわたる長さには理由があるという思いを強くしました。二人の監督が執拗に問いかけるなかでこそ、「国民」の神話が忘却してきたものが、あるいはそのアイデンティティの下で抑圧されてきたものが、身振りや声のかたちで引き出されてくるのです。そして、そこにこそこの作品の映画としての重要性があるように思います。

『ルート181』という映画は、あからさまに「パレスティナ人」の存在を否認する言辞と、おびただしいパレスティナ人が故郷を追われたり、虐殺されたりしている「ナクバ(大災厄)」の証言とを突き合わせるだけではありません。この映画は、パレスティナ人を差別し、抑圧する人々と、イスラエルという国家の暴力に絶えず苛まれているパレスティナ人の双方に、明確な言葉にならないままわだかまっている複雑な思いをも、まさに映像のなかから暗示しているのではないでしょうか。動作や声のトーン、沈黙や躊躇いがいかに多くを物語っているかを、例えばチュニジアからイスラエルに移住した一人の女性が、パレスティナ人との共生は可能かとの問いに、一瞬否と答えかけながら、可能かもしれないと言い直す瞬間から感じ取ることができるでしょう。

平尾さんも、ドキュメンタリーを撮影する際には、間や沈黙に着目していると語っておられましたが、その姿勢は先の『The A-bomb』のインタヴュー映像の端々にも表われています。そして、まさにそのことから、ヒロシマが現在進行中の出来事であることが伝わってくるのです。こうした映像の力を五感を開いて受け止めながら、他者へ思いを馳せ、出来事を想起すること。そうして、国家、民族、地域、世代、宗教などのさまざまな壁を、さらには「表象」の限界をも越えるかたちで想像を解放すること。これこそが、平和に生きることを追求する出発点にあるという認識が、もしかすると「映画」と「平和」を結びつけているのかもしれません。

今回のヒロシマ平和映画祭2015/16のテーマ「地を這うものたちのまなざし」には、「下からの平和」というサブ・テーマが添えられています。ここ広島にあっては、「下からの平和」という言葉は、実はほとんど冗語表現ですらあります。被爆した子どもたちの詩集の表題の言葉を借りるなら、平和という語は、「原子雲の下」から、抑えきれない怨みと癒えぬ苦悩も込めながら、同じく「原子雲の下」に置かれた人々との連帯へ向けて発せられてきたのですから。しかし、今敢えて「下からの平和」と言われなければならない背景に、平和を「下から」希求することが、広島でも危うくなりつつあることがあるようにも思われます。「原子雲」を上から眺める視点から、人々の自由を奪ってきた境界をより強固にし、さらには「抑止」のための軍事的な力すら求める主張に、「平和」という言葉が掠め取られかねない状況が、いわゆる「安保法制」が議論の俎上に上った頃から露呈しつつある気がするのです。こうした状況を見据えつつ、壊滅した街の地面に這いつくばるところから、あるいは「軍旗はためく下」から、今平和とは何かとあらためて問いながら、他者とともに平和に生きることを求める思考を、ヒロシマ平和映画祭の催しに来てくださるみなさんと分かち合いたいと願っているところです。

アンゲロプロスとエレニ/ギリシア──『エレニの帰郷』を見て

テオ・アンゲロプロスという映画監督は、冬の風景ばかりを撮り続けていたのではないだろうか。『旅芸人の一座』から、先頃公開された遺作『エレニの帰郷』に至るまで。雪や冷たい雨のなかに廃墟が沈んでいくような映像──それを極限まで拡大したのが、『エレニの旅』における水没する村の映像なのかもしれない──、それはカタルシスなき歴史、彼の映画でしか伝えることのできない歴史のアレゴリーのようにも思われる。

実際、旅芸人の一座の旅に、イタリアとドイツの侵略に晒される1930年代後半から内戦が一応の終結を見る1950年代初頭までのギリシアの歴史を凝縮させ、そこにギリシア悲劇のオレステスとエレクトラの別離と再会が見事に重ねられる『旅芸人の記録』においては、一座のなかに埋めることのできない溝が穿たれ、その一人ひとりのなかに癒えることのない傷が刻まれていくさまが、およそ15年にわたるギリシア史の亀裂から浮かび上がってくる。また、『エレニの旅』における、息子の遺骸を見つけたエレニの突き刺すような叫びは、「永遠に続く苦悩は、拷問に遭っている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を表現する権利を持っている」という『否定弁証法』におけるアドルノの言葉を思い起こさせずにはおかない。

家族の逃れの場所だったオデッサからみなしごとなってギリシアに帰還したエレニの苦難の生涯に、20世紀のギリシアの苦難を重ねる『エレニの旅』は、国家の反逆者を匿った疑いで監獄を転々とするあいだに、まず内縁の夫を沖縄戦で失った──エレニの幼なじみで、後に恋人となるアレクシスは、音楽家として羽ばたくチャンスをアメリカに求めた後、家族を呼び寄せるために米軍の移民部隊に加わっていたのだった──うえに、第二次世界大戦後の内戦で、双子の息子まで亡くしてしまった彼女の慟哭によって締めくくられるのである。その声は、こうして歴史の暴力に晒され続けながら、エレニがそれでもなお生きている証しを、見る者の胸に刻むだろう。

そう、エレニは生き続けなければならない。別離と再会を繰り返しながら。20世紀の歴史に翻弄されるエレニの旅は続く。その過程でエレニはさらに傷を負い、その子どもも孫も傷を内に抱え込んでいく。アンゲロプロスの遺作『エレニの帰郷』(原題は“The Dust of Time”:「時の塵」)は、アンゲロプロス自身を映し出すかのような映画監督Aが、自分の両親の生涯を歴史と照らし合わせる映画を作ろうとする試みを縦糸に、その母親エレニと父親のスピロス、そしてシベリアの収容所からエレニに寄り添ってきたユダヤ系難民ヤコブの別離と再会、そしてAとその妻の離婚、さらにはそれをきっかけにしたAの娘のエレニの抑鬱を緯糸に絡ませながら織りなされていく。その運びは、これまでのアンゲロプロスの作品に比べると、いささか急な印象もなくはない。

とはいえ、この映画の基調となるのもやはり冬の風景である。スターリンの死去が報じられる雪のテミルタウ──ここに映画の時間的な原点を置くなら、『エレニの帰郷』は、『旅芸人の記録』、それと当然のことながら『エレニの旅』が終わった時点から始まっていることになる──、凍てつくシベリア、冷たい霧が立ちこめるカナダ、そして冬の重い空がのしかかる20世紀最後の日のベルリンと映画は巡り、そのベルリンでAは両親とヤコブに再会するのだが、その廃墟では、幼くして生きる拠り所を失った小さなエレニが自殺を図ろうとしている。そんなエレニと祖母のエレニの感情が共鳴し、自殺が未遂に終わるところには逆に、20世紀を生き抜いたエレニの傷が、癒合しないままその孫にまで転移していることが浮かび上がっているように思われる。

アンゲロプロスの映画において、そのような傷を噛みしめる自分の生の息遣いを他者と通い合わせ、生きていることを確かめる場として、音楽につねに重要な位置が与えられている。『旅芸人の記録』におけるアコーディオンの哀調を帯びたメロディ、『こうのとり、立ちずさんで』における国境を越えて交換される歌、『エレニの旅』におけるヴァイオリン弾きニコスを中心とする「音楽の溜まり場」が思い起こされる。しかし、『エレニの帰郷』では、音楽にこれまでとは別の意味が込められているようにも思われる。ベルリンの地下鉄駅でのストリート・バンドの音楽とそれに合わせた主人公たちの踊りは、映画を最後の展開へ動かすことになるのだ。再会を喜び、ヴィッテンベルク広場駅の階段で肩を寄せ合って踊る年老いたエレニ、ヤコブ、スピロスの三人のなかでは、それまでの生涯が走馬灯のように駆けめぐっているのだろうか。

このとき、ひときわ踊ることに熱心だったヤコブは、エレニとスピロスに別れを告げた後、シュプレーの運河に身を投げる。あたかも、エレニとともに生き抜いた苦難のなかにのみ彼の人生があったかのように。彼は天使の「第三の翼」を手にすることができなかったのか、あるいはそれを求めて身を投げたのか。ヤコブの自殺は、小さなエレニの自殺未遂と対をなしながら、20世紀における離散の民の苦悩を象徴しているのかもしれない。彼は、イスラエルへの「帰還」の機会をみずから見逃して、エレニとともにディアスポラを生き、ディアスポラのままみずから生涯を閉じた。そのようなヤコブを演じたブルーノ・ガンツの演技は、これまで見た彼の演技のなかで最も含蓄に富むものだったと思われる。

アンゲロプロス『エレニの帰郷』スチル画像

映画『ハンナ・アーレント』を見て

マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ハンナ・アーレント』をようやく見ることができた。この映画の焦点は、イェルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴し、それをつうじて見いだされた「悪」の真実を、勇気と弛まぬ意志を持って伝えるアーレントの姿である。彼女は、ユダヤ人であるために、亡命先でのフランスで抑留を余儀なくされ、死の収容所へ移送される危険に直面した経験を持つが、このような苦難の日々に連れ戻されることを覚悟のうえで、彼女は裁判を傍聴しにイェルサレムへ出かけ、それをつうじて考え抜いたことを、包み隠さず伝えようとする。

こうした彼女の生きざまのなかで貫かれる「私は理解したい」という意志と、ナチの親衛隊は「怪物」であるといった前提をも突き抜ける思考──「思考」と「意志」は、彼女の未完の遺作『精神の生活』のテーマでもある──こそ、映画全体のテーマであろう。それゆえ、アイヒマン裁判のシーンにおいても、焦点となるのは、去来する大戦中の記憶に苛まれながら裁判に臨み、裁判の進め方に苛立たされながらも、「アイヒマン」という問題に向き合い続けるアーレントである。そのような彼女の内面の掘り下げも──そのために裁判の歴史的な叙述が犠牲になっている面もあるが──、見応えがある。

裁判の傍聴をつうじて捉えられたアイヒマンの「悪の凡庸さ」を──アーレントがユダヤ人指導層のナチによるユダヤ人移送への荷担を指摘していることと相俟って──、当時の多くの人々は理解できず、そのためにアーレントは、轟々たる非難の嵐に巻き込まれることになるのだが、アイヒマンの悪が、さらにありふれたものになっているという意味でも「凡庸」である現代に生きる者は、そこにある、自分自身を問い、行ないを省み、自律的に判断する思考──アーレントによれば、「人間性」そのものを形づくる思考──の欠落という問題に、みずから考えることによって向き合うべきだろう。そのことが「世界」と友人たち──「民族」ではなく──への愛をもって生きる力になることを、バルバラ・スコヴァ演じるアーレントは、力強く示していた。スコヴァは、落ち着きと温かみのある演技で、アーレント独特の率直さに奥行きを与えていたように思う。

フォン・トロッタの映画におけるアーレントには、『イェルサレムのアイヒマン』という傍聴記に向けられた、彼女は冷酷であるという非難を反駁する意味でも、非常に温かいが、それがメアリー・マッカーシーとの親交や、ドイツ語で思いを打ち明けられる環境に支えられていたことも、映画では強調されている。その名も『私は理解したい(Ich will verstehen)』という表題の対談集に収められたインタヴューのなかでアーレントは、亡命後、自分にはドイツ語という「母語だけが残った」と表白しているが、アメリカでの生活のなかでもドイツ語で思索し、ドイツ語で親しい人と遣り取りする彼女の姿が捉えられている点も、この映画の特徴と言えよう。

ちなみにこの映画では、アーレントに「思索」を教えた一人であるハイデガーとの関係にも光が当てられているが、朴訥ながら力強く「思索」そのものを語りかける若き日の姿と、老いてなおアーレントとの「縒り」を戻そうとする彼の姿の落差が大きく、やや滑稽な印象もなくはない。この映画で、それ以上に卑小に描かれているのが、アーレントと同じくハイデガーに学んだハンス・ヨーナスであるが、それにより、みずからの思考を貫くアーレントの姿がいっそう力強く際立つことになる。おそらく、勇気と温かみの双方を強調しながらフォン・トロッタが描きたかったのは、過去の苦難や人間関係だけでなく、理由のない非難にも苦悩しながら、それに応答し、みずからの言葉で「悪」への洞察を実直に伝え続けようとするアーレントの意志──「私は理解したい」という意志である──と、そのなかで貫かれる、他者と世界を肯定する愛──これは彼女がアウグスティヌスから学んだものだ──であろう。『ハンナ・アーレント』は、これらが徹底的な思考と一人の人間のなかで緊密に結びつきうることを、力強く示した映画と思われる。映画『ハンナ・アーレント』画像