広島交響楽団第369回定期演奏会を聴いて

369アダージョのテンポを規定する、前へ進むと言うよりは一歩踏みしめるごとに深まっていくようなリズムのなかから、ヴァイオリンの奏でる最初の主題が密やかに響き始めると、この優しくも確かな祈りの歌が、微かな熱を帯びて胸に染み込んできた。ブルックナーの第8交響曲の全体を貫く、畏れながら高みへ向かおうとする精神の姿を凝縮させた主題が、波が寄せては返すようにして徐々に高揚していく歩みを、今日の下野竜也が指揮する広島交響楽団の演奏以上に意味深く聴いたことはなかった。この歩みの頂点では、シンバルとトライアングルが打ち鳴らされるが、その音は、会場に満ちた響きを芯から輝かせるものだった。そこに至るまでに挟まれる、主にチェロが奏でるもう一つの主題も、深沈とした響きの奥から実に柔らかく響いていた。

ブルックナーの第8交響曲を取り上げた広島交響楽団の定期演奏会は、下野竜也の音楽総監督就任披露の演奏会だったわけだが、作品の精神がそこにあることを示すアダージョの演奏は、下野と広島交響楽団の将来を約束するものだったと言えよう。第一、第二ヴァイオリンを両翼に配し、舞台の一番奥にコントラバスを並べた楽器配置が功を奏したとも言えようが、このオーケストラがここまでの一体性をもって、奥行きの深い、そして聴く者の魂の奥底に染み込む響きを奏でたのは、今まで聴いたことがなかった。このように、オーケストラの潜在力を一つのアンサンブルとして引き出したのは、ブルックナーの交響曲を愛してやまない下野の指揮である。その解釈は、複雑なテクスチュアの全体を見通して間然するところがない。以前に第4交響曲の演奏でもそう感じたが、下野の指揮するブルックナーの演奏は、一つの形を伝える流れを持っている。

第一楽章と第二楽章がいずれもいくぶん速めのテンポで、ほぼアタッカで続けられたのには少し驚かされたが、悠揚迫らないながらもけっして弛緩することのないテンポによる後半の二つの楽章の演奏──それは、下野が選択したハース版の特性を生かしきったものと言えよう──を聴けば、そのような行き方にも納得させられる。第一楽章で、第8交響曲のもう一つの顔とも言うべき峻厳さが説得的に示されていたのも印象に残る。コーダの手前では黙示録的なファンファーレが仮借なく吹き鳴らされ、その後まったくリタルダンドすることなく楽章が閉じられた。スケルツォの第二楽章におけるリズムの躍動も素晴らしかったが、流れにもう少し余裕があったほうがよかったかもしれない。とくにトリオでは、主部とのコントラストを際立たせる意味でも、あと少し歌が広がるのを聴きたかった。

フィナーレの演奏は、落ち着いたテンポと丁寧な仕上げで、音楽の荘厳さを最大限に引き出したもの。ともすれば皮相に響きがちなトランペットやティンパニの音も、壮大な響きの構成のなかにしっかりと位置づけられている。第一楽章の主題が厳しく再現されてからコーダに至る流れは、慄くような歌を交えながら作品の大きさをあらためて示すものだった。ただ、これほどまでにブルックナーの第8交響曲の内実を響かせえた下野竜也と広島交響楽団の解釈がもはや会場に収まりきれないことが、演奏の傷となって表われていたのも確かである。すでに大阪のザ・シンフォニーホールでの演奏を終えて広島での演奏に臨んだ奏者の様子からは、広島文化学園HBGホールの残響の乏しさに対する戸惑いが感じられた。ピアノで入る箇所のアインザッツが乱れたり、響かないなかで何とか音を鳴らそうとするあまり、ダイナミック・レンジが狭くなってしまったりしている箇所が散見されたのは惜しまれる。

会場にもう一秒の残響があれば、思いきったピアニッシモにも挑戦できたはずだし、とくに第一楽章の展開部では、横に広がる音型とリズミックな動きの対照が、いっそうの高揚感をもって響いたにちがいない。下野竜也と広島交響楽団のコンビの門出の演奏会は、両者がすでに世界から聴衆を集めうるほどの充実した音楽に達していることを示すものである。このコンビを大事に育てることを考えるのであれば、何よりもまず広島の地に欠けている音楽専用ホールの必要性をあらためて痛感しなければならない。下野の広島交響楽団音楽総監督就任披露の定期演奏会は、彼のブルックナー指揮者としての実力と、それによって引き出されたオーケストラのアンサンブルの可能性をいかんなく示すと同時に、広島の聴衆に、積年の重い課題を突きつけるものだった。

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チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏会を聴いて

5月のチューリヒの緑

5月のチューリヒの緑

クリストフ・フォン・ドホナーニという指揮者の音楽には、これまでいくつかのディスクをつうじて親しんできた。音楽監督を務めていたクリーヴランド管弦楽団を指揮したブラームスやマーラーの交響曲の演奏、そしてヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したメンデルスゾーンの交響曲やバルトークの管弦楽作品の演奏を収めたディスクを繰り返し聴いてきたが、そのいずれも、引き締まった造形のなかに楽譜に書かれている音を生かしきろうとするドホナーニの音楽の美質をよく伝えているように思われる。なかでも、バルトークの演奏は、クリーヴランド管弦楽団を指揮した《管弦楽のための協奏曲》の演奏と併せて、もっと高く評価されてもよいのではないだろうか。

ドホナーニの音楽の造形は、独特の芯と低い重心を持ちながら、構成を浮き彫りにする明澄さを示す響きによって支えられていて、それが彼の音楽の求心力を成していると思われる。しかも、それが明確なテンポの構成とも不可分であることを、演奏そのもののの説得性とともに示したのが、彼が2015年5月9日と10日にチューリヒのトーンハレで、この「楽堂」の名を冠したオーケストラ、トーンハレ管弦楽団を指揮した、ブルックナーの交響曲第7番ホ長調の演奏だった。ドホナーニは、この交響曲の各部分のテンポの差異を、これ以上ない明瞭さで描き分けながら、各部分のあいだを、時にパウゼを挟みながら間然することなく、音楽そのものの推進力を保ちながら移行させ、非常に聴き応えのある音楽を形づくっていた。1929年生まれの彼は、86歳になろうとしているが、彼の指揮は、巧みさとともに若々しささえ感じさせる。

トーンハレ管弦楽団の響きには、ドイツ語圏のオーケストラらしい低い重心と同時に、独特の開放性が感じられて、それがブルックナーの第7交響曲の演奏に、この曲に相応しい明澄さをもたらしていたと思われる。第1楽章の冒頭の主題が、豊かな歌を響かせながら、光の筋を描くように上昇していくところからこの演奏に惹きつけられた。この主題がヴァイオリンの対旋律を伴いながら、チェロに柔らかに回帰したときの響きの、天国的とも言える明澄さは、その直前にこの主題の鏡像型が仮借のない激しさで展開されていただけに、非常に感動的だった。第三主題が再現された後、第一主題の後半部が「非常に荘重に」、まさに「深き淵より」歌われると、第1楽章はコーダを迎える。ドホナーニはそこで、ノーヴァク版の楽譜の指示どおり、最後までテンポを速めながら音楽を上昇させ続けた。その様子は、彼の音楽の徹底性とともに、この曲に込められた祈りの強さを示すようだった。

アダージョの第2楽章の演奏は、もちろんヴァーグナーへの哀悼も込められた荘厳さを示すものではあったが、その一方で、連綿と歌が連なる音楽の流れを、自然な息遣いによって保つものでもあった。最初の主題の提示は、とくに弦楽の総奏によるその後半は、ともすれば過剰に重々しくなりがちであるが、ドホナーニの演奏は、独特の空気感を持って音楽を無理なく前へ運ぶものであった。その直後、「繊細に」と指示された一節が、一音一音を愛おしむかのように、柔らかに奏でられた。ドホナーニは、この一節に交響曲全体に、いやブルックナーの音楽そのものに込められた祈りが凝縮していることを伝えたかったのだろうか。また、ヴァーグナーへの哀悼に捧げられた結尾部の一節も、もちろん哀切極まる叫びを聴かせるものではあったのだけれども、デュナーミクのコントロールが絶妙で、むしろ叫びの余韻のほうが感銘深かった。何よりも、クライマックスへ向けて、寄せては反すように高まっていく音楽の流れが、巨視的にも微視的にも自然で、そのために頂点に置かれたシンバルの一撃も、取って付けたようには響かなかった。

なお、今回の演奏では、オーケストラの配置に対向配置が採用されていたが、それがブルックナーの第7交響曲でも効果的であることが伝わってきた。この曲では、とくに第1楽章の第二主題と第2楽章の主題が、第二ヴァイオリン、あるいは第二ヴァイオリンとヴィオラによって奏でられるが、それが豊かな響きを持って浮き彫りになったのは、とても好ましく思われた。また、全体的に、調性の変化に伴う響きの色調のコントラストも明瞭で、第3楽章では、ドホナーニは、響きを沈んだ色調で締めながら、リズムの動きをはっきりと際立たせていた。けっして急ぎすぎることなく、個々のモティーフが絡み合いながら高まっていく流れを、時に荒々しささえ示しながら、実に説得的に表現したスケルツォの演奏だったと思われる。何よりも印象だったのが、音楽がいったんクライマックスに達した後に、あるいはスケルツォの主部が終わった後に残って、ピアノでリズムを刻むティンパニの音色。これが実に意味深く次の音楽を用意していた。その後に奏でられたトリオのメロディには、陽が差すような明るさと温かさがあって、主部のほの暗さと好対照をなしていた。

フィナーレでは、ドホナーニは、絶妙とも言うべき、さりげない緩急を付けて、跳ね上がるようなリズムを持った主題を提示していた。その自然な流れは、第三主題に至るまで一貫していて、総奏によるその提示も、むろん峻厳なものではあるが、けっして居丈高になることはなく、次の音楽に自然に連なっていくものだった。その第三主題が、ゴシック的とも言うべき高みへ向かいながら再現された後、しばらくの沈黙の後で静かに奏でられ始める第二主題の柔らかな歌は、心からの感動を呼び起こすものであった。その後、第一主題が変形されながら再現され、さらに展開されながら、音楽は全曲のコーダへと移行していくが、そのあたりの音楽の設計、そして響きのバランスも実に見事で、あらためて全曲の構成に自然な見通しを与えるものだったと言えよう。

それから、この第4楽章のコーダは、ある意味で指揮者にとって鬼門で、しばしば拍子抜けするかたちで曲が終わってしまうのだが、ドホナーニは、スラーを持った第1楽章の第一主題をくっきりと浮かび上がらせながら、コーダが全曲のそれであることを示すとともに、最後の2小節ではしっかりテンポを落として、全霊のこもった最後の音を引き出していた。そこに全曲の凝縮された姿を見る思いだった。今回のドホナーニとトーンハレ管弦楽団によるブルックナーの第7交響曲の演奏は、例えば、カルロ・マリア・ジュリーニとヴィーン・フィルハーモニーによる演奏と同様に、かつそれとは対照的なアプローチで、ノーヴァク版の楽譜をすみずみまで、かつ説得的に生かした演奏だった。同時に、老境を迎えてしなやかさを増したドホナーニの音楽の新たな境地を示すものでもあった。

なお、今回のトーンハレ管弦楽団の演奏会では、ブルックナーの第7交響曲の前に、ルドルフ・ブッフビンダーの独奏で、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K. 466が演奏された。ブッフビンダーのピアノは、どちらかと言うと朴訥とした語り口ながら、そこから奏でられる音楽に独特の造形性があって、それがドホナーニの音楽とよく噛み合っていた。ブッフビンダーは、オーケストラと張り合って独奏を聴かせるのではなく、むしろオーケストラとのアンサンブルを楽しむようなアプローチで、それぞれのパッセージを、全体の響きのなかで意味深く響かせていた。なかでも、第1楽章の展開部や第2楽章の中間部で、管楽器との掛け合いのなか、同じパッセージが転調を繰り返しながら高まっていくあたり、これまでに聴いたこの曲の演奏のなかで最も説得力があった。ドホナーニの指揮は、澄んだ響きのなかに、とくに第1楽章ではシンコペーションを基調としたリズムの動きを明瞭に浮き立たせるもので、フォルテの打ち込みの鋭さも特筆に値する。

ヴィーンのピアノ演奏の伝統に根差すブッフビンダーのピアノのフレージングには、独特の軽みもあって、それがとりわけ緩徐楽章では歌の柔らかさをもたらしていた。それをさらに、音楽の展開の必然性を感じさせるのに結びついていたあたり、彼の手腕を感じさせる。全体的に、装飾音の処理の仕方も、音楽の連綿とした流れを意識したものであったように思われる。フィナーレでもブッフビンダーは、かなり急速なテンポのなかで、音の粒立ちを失うことなく、個々の楽節を意味づけていた。カデンツァの後で、第17番ト長調の協奏曲のフィナーレのコーダを思わせるように、さらにテンポをプレストにして、全曲の結尾へ音楽が駆け抜けていったのも、ニ短調からニ長調への変化を生かしながら、レクイエム的な短調とのコントラストにおいて天上的な愉悦を際立たせるものとして効果的であると感じられた。手堅く、かつ自然な息遣いのなかで、古典的な造形とともに独特の説得性を示したニ短調協奏曲の演奏だった。

チューリヒのトーンハレの正面玄関

チューリヒのトーンハレの正面玄関

なお、ここまでドホナーニが指揮したトーンハレ管弦楽団の演奏会について記してきたことは、基本的に2日目の演奏を聴いての印象にもとづいている。今回、このオーケストラの定期演奏会として行なわれたこの演奏会を、2日にわたって聴いたわけだが、定期演奏会を2日以上(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は3日間)行なうことの意義を再確認させられた。ドホナーニは、トーンハレ管弦楽団との共演をここ数年重ねているが、それでも指揮者がその意図を楽員に浸透させ、息の合った演奏を繰り広げるのは容易ではない。初日の演奏には、少なからぬアンサンブルの綻びがあったし、オーケストラを統率しようと、ドホナーニの音楽の運びがやや性急になる箇所も見られた。それに、ブルックナーの交響曲のアダージョのクライマックスの直前で、あろうことか、シンバルが飛び出してしまうという事故も起きていた。2日目の演奏では、こうした問題がほぼすべて解消され、音楽の流れがブルックナーに相応しい落ち着きを取り戻していた。こうした経験を重ねながら、とくに若い楽員の多く含まれるオーケストラは、アンサンブルを成熟させていくはずである。

チューリヒへの旅より

前アルプスを望むチューリヒ湖の風景

前アルプスを望むチューリヒ湖の風景

広島では初夏のような蒸し暑い日が続いています。みなさまお元気でお過ごしでしょうか。去る5月8日から11日にかけて、ごく短期間ではありますが、スイスのチューリヒへ出かけました。クリストフ・フォン・ドホナーニが指揮するチューリヒのトーンハレ管弦楽団の演奏会を聴くのが主たる目的でしたが、それ以外にもオペラを観たり、美術館を訪れたり、旧知の友人と、前アルプスを望むチューリヒ湖畔でゆっくり語らったりすることができました。音楽に身を浸す喜びだけでなく、今後の研究へ向けた刺激も得ることもできました。この時季の緑はとても鮮やかで、眩いばかり。チューリヒ湖畔から前アルプスを望むと、冠雪の残る山並みと多彩な緑のコントラストも楽しめました。

5月9日と10日の2日間、トーンハレでこの響きの豊かな「楽堂」の名を冠したオーケストラの演奏会を聴きました。曲目は、ルドルフ・ブッフビンダーの独奏によるモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K. 466とブルックナーの交響曲第7番ホ長調。いずれもクラシック音楽を聴き始めた頃からとても好きな曲で、実演で繰り返し聴きたいと思っているものですから、このタイミングでチューリヒまで行くことにしたわけです。いろいろな意味で、わざわざ出かけた甲斐がありました。

1929年生まれのクリストフ・フォン・ドホナーニは、今年で86歳になるわけですが、その指揮には若々しささえ感じられます。明確で緊密な造型の下で、楽譜に書かれている音を生かしきろうとする彼の音楽の特徴が、いずれの曲にもよく表われていましたが、いささかの緩みもない音楽の運びのなかから、時に爽やかささえ感じさせる歌も聴かれたのが印象に残ります。とりわけブルックナーの第7交響曲では、淀みないテンポの移行のなかにさりげないアゴーギグを加えながら、雄渾な響きも聴かせていました。

古書店などが並ぶ教会通り

古書店などが並ぶ教会通り

ルドルフ・ブッフビンダーのピアノは、どちらかというと朴訥とした語り口ながら、フレージングに独特の軽みがあって、そのあたりがモーツァルトの演奏に生きていたと思います。彼の音楽にも独特の造形美があって、ドホナーニと息の合った演奏を繰り広げていました。ドホナーニ、ブッフビンダーとトーンハレ管弦楽団は、毎年共演を重ねていて、チューリヒの聴衆に好評をもって迎えられているようです。それでもとくにブルックナーの交響曲を演奏するのは、けっして容易なことではなく、今回は2日にわたって演奏会を聴いて──そういうことはめったにないのですが──定期演奏会を2回以上行なうことの大きな意義を感じました。ドホナーニが指揮したトーンハレ管弦楽団の演奏会について、これ以上のことは稿を改めて書くことにいたします。

10日の夜には、チューリヒ歌劇場でベートーヴェンの《フィデリオ》の公演を観ました。マルクス・ポシュナーの指揮の下での演奏は、歌手の声の弱さやオーケストラのアンサンブルの粗さが少々気になるところもありましたが、ほぼ申し分のないものでした。レオノーレの役を歌ったアーニャ・カンペも、フロレスタンの役を歌ったブランドン・ヨヴァノヴィチも、好みの方向の歌唱と演技ではなかったとはいえ、なかなかの好演だったと聴こえました。しかし、ベートーヴェンの音楽がなかなか胸に迫ってきません。それは、アンドレアス・ホモキの演出による舞台に入っていけなかったからでした。

彼の演出による《フィデリオ》は、よく知られた序曲ではなく、このオペラのクライマックスとも言える第2幕の四重唱から始まります。そして、実際のドラマにはない悲劇的な結末──銃の暴発によってレオノーレが斃れてしまいます──が演じられるなか、ドン・フェルナンドの到着を告げるラッパが響くと、音楽がレオノーレ序曲第3番へと移行するのです。その後で《フィデリオ》のドラマがあらためて始まるのですが、そうするとドラマが最初から普遍化されてしまって、個々の登場人物をめぐるドラマが、どうしても空々しく映るのです。

たしかに、ホモキは敢えてそのことを狙ったのかもしれません。登場人物の名前やそれが発する言葉の一節が、場面ごとに、何ひとつ装置の置かれていない舞台に投射されるのですが、そのことは舞台空間をアレゴリー化するものだったと考えられます。また、登場人物自身に台詞を語らせるのではなく、その断片化されたテクストを匿名の声としてスピーカーで響かせるやり方も、《フィデリオ》の状況をアレゴリー化し、観客を思考に誘うものと言えるでしょう。こうした手法自体の可能性は、ポストドラマ的な舞台を呈示するものとして評価できます。

ステンドグラスが美しい聖母教会

ステンドグラスが美しい聖母教会

しかしながら、今回の《フィデリオ》の上演の場合、このような手法によって、場面どうしの関連が伝わらなくなり、ドラマの緊張感が薄れるとともに、音楽も生きなくなってしまっていたように思えてなりません。それぞれのアリアや重唱がばらばらに聴こえてしまうことによって、このオペラに特徴的とも言える、言葉が歌に移行する瞬間の感動が失われ、音楽の展開とドラマの緊密な関係が見えなくなっていたのではないでしょうか。いくつもの疑問を抱えながら舞台を眺めておりました。《フィデリオ》という作品の上演の難しさをあらためて感じさせる公演でした。

さて、今回のチューリヒ滞在のあいだ、マレク・シャガールとアルベルト・ジャコメッティによるステンドグラスが美しい聖母教会の他、街から少し外れた静かな住宅地のなかにあるリートベルク美術館も訪れました。ヴァーグナーがマティルデ・ヴェーゼンドンクと恋に落ち、その後楽劇《トリスタンとイゾルデ》の第1幕を書いたヴィラ・ヴェーゼンドンクを中心とする、非西欧の美術作品のための美術館です。そこで現在行なわれている「コスモス(宇宙)」をテーマとする特別展が面白いと聞いたので、出かけてみました。

何よりもまず、美術館の建物とそれを取り囲む緑の美しさに引き込まれました。 世界の各地域の──死者の世界を含めた──宇宙観を象徴する作品を集めた「コスモス」展では、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応が、人体の表現を焦点としながら、世界中で実に多彩に表現されていることが示されていて、とても興味深かったです。一人ひとりがそれぞれに宇宙を宿すということから、詩人たちが「万物照応」と表現してきた感性の在り処とともに、自然ないしその生きものたちと結びついた人間像が捉え直されうるかもしれません。また、古代エジプト以来のさまざまなコスモスの表現からは、人がどこから来て、どこへ向かうのか、という根本的な問いについてのさまざまな取り組みも垣間見えるようにも思われました。

リートベルク美術館となっているヴィラ・ヴェーゼンドンク

リートベルク美術館となっているヴィラ・ヴェーゼンドンク

リートベルク美術館では、同時に20世紀初頭の最初期のカラー写真の展覧会「色彩のなかの世界」も行なわれていて、とりわけその撮影者が、当時のヨーロッパ世界にとって辺境の地に目を向けていたのが印象に残ります。そして、この美術館において何よりも驚かされたのが、そのコレクションの充実ぶりです。日本の絵画や仏像を含め、非西欧の世界のほぼあらゆる地域の美術工芸品が、相当に網羅的に集められているうえ、そのどれもがきわめて質の高い作品なのです。とくにアジアの宗教美術のコレクションは素晴らしいもので、この美術館がアジアの多彩な宗教文化に、非常に深い関心を寄せていることがうかがえます。

この美術館では、午前中にパトリシオ・グスマンのドキュメンタリー映画『光へのノスタルジー』の上映も行なわれていました。チリのアタカマ砂漠に設置された天体望遠鏡で、遠い過去からの光を捉えることを、ピノチェトの恐怖政治の下で消された人々の死を悼んで砂漠のなかで遺骨を探すのに重ねる、映像的にも美しい瞬間の多い作品です。この映画も非常に感銘深いものでした。とりわけ、砂漠の厳しい日差しと風のなかで、虐殺された肉親の遺骨を一心に掘り起こそうとする女性たちの言葉が胸を打ちます。この映画に出会えたことも、今回の滞在の収穫の一つでした。チューリヒへ来たのは、2003年に当地の大学でアドルノ生誕百周年の学会が行なわれたとき以来二度目でしたが、今回もダダ生誕の地、キャバレー・ヴォルテールへ足を運ぶ時間がなくなってしまいました。次回の楽しみに取っておこうと思います。

広島交響楽団第338回定期演奏会を聴いて

雨が上がって春の日差しが戻った休日(4月29日)の午後、広島文化学園HBGホールで広島交響楽団の第338回定期演奏会を聴いた。下野竜也の指揮で、シューマンのヴァイオリン協奏曲にブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」というプログラム。新緑の季節に相応しいプログラムではないだろうか。

まず、後半のブルックナーの演奏が、下野の最近の音楽の充実を物語る内容だった。この「ロマンティック」交響曲の独特の瑞々しさがよく表われた演奏だったと思う。何よりも印象的だったのが、下野が響きのバランスに細心の注意を払いながら、いささかの無理も感じさせない音楽の運びを示していたこと。それによって、時として埋もれがちな低声や内声の動きが聞こえてきて、響きがいっそう有機的になるとともに、この曲を特徴づける豊かな歌がしなやかに息づく。なかでも、第2楽章のヴィオラの歌は実に魅力的に響いた。強奏が続く部分から弱奏の部分への移行の処理も細やかだったし、フィナーレのコーダでこの曲のさまざまな要素が結集しながら徐々に壮大なクライマックスを築いていくあたりは、今回の演奏の白眉だったのではないだろうか。それだけに、最後の和音がまだ響いているうちに「ブラヴォー」の声と拍手が始まってしまったのは残念でならない。東京のいくつかのホールで行なわれているように、指揮者がタクトを降ろすまで拍手など控えてほしい、とアナウンスで要請するしかないのかもしれない。

「ロマンティック」交響曲の演奏に戻ると、今回の演奏は、曲を完全に手中に収めた指揮者が、その意図をしっかりと伝えるならば、広響が非常に内容豊かな演奏を繰り広げうることを証明した好例と言えよう。とはいえ、この曲からはもう少し深い静けさと、そこからいくらかの疾走感を伴って湧き上がる響きを聴きたかった、という気持ちも拭えない。そして、下野はさらにもう一段振幅の大きな音楽を響かせたかったのでは、という印象も受けたが、それはこのホールの条件からしても難しかったかもしれない。

前半のシューマンのヴァイオリン協奏曲では、独奏を担当した若い三浦文彰の奏でる美音とその音楽の繊細さが光った。さまざまな意味で聴かせるのが難しいこの曲を、三浦がここまでの完成度をもって弾ききったことは特筆に値しよう。とくに、濁ることのない重音の響きのなかから溢れ出る瑞々しい歌は、とても魅力的だった。ただ、フレージングがやや窮屈になって、音楽を持て余している印象を受ける箇所が散見されたのは惜しまれる。そのために、音楽の奥行きが狭くなり、シューマンの音楽に求められる陰翳が少し損なわれてしまった。もっと自由にテンポを動かしながら歌ってもよかったのではないか。三浦が──人生のそれも含めて──経験を積んで、もっと振幅の大きな音楽を聴かせるようになってからこの曲に臨んだら、きっと本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれるにちがいない。

シューマンの演奏でもう一つ惜しまれるのは、下野の音楽性がどちらかと言うとブルックナーにより親和的だったせいだろうか、オーケストラの響きが、全体的に腰が重すぎたこと。もう少し躍動感のあるリズムで、独奏に機敏に反応してもよかったのではないだろうか。このようにいくつか惜しまれる点があるとはいえ、ここまでの水準の演奏で、めったに取り上げられないシューマンのヴァイオリン協奏曲を聴くことができたことと、それをつうじて将来を嘱望される才能に巡り合えたことは、率直に喜びたいと思う。

広響定期338Flyer