節目の夏の仕事

原民喜の持ち家の庭の川縁に被爆以前から生えていたという被爆柳

原民喜の持ち家の庭の川縁に被爆以前から生えていたという被爆柳

2015年8月6日、広島は被爆から70年の節目を迎えました。そのことは何よりもまず、広島で被爆を記憶していくことに重い課題を突きつけるものとして受け止められる必要があるでしょう。原爆を直接体験しなかった人々が、被爆の痕跡と死者の記憶を深く胸に刻みながら、同時に広島で何が起きたのか、なぜ起きたのか、と問い続けながら、みずからの手で被爆の記憶を絶えず新たに呼び起こし、伝えていかなければならない時代が到来しています。そして、そのことは今や、世界史的な文脈のなかに広島を位置づけながら、他の場所で起きた、あるいは起きつつある苦難の出来事と、広島の被爆を照らし合わせることで現在を見通し、同様のことが繰り返されることを食い止めようと努めることでもあるはずです。このように、今ここで被爆を記憶することついての理論的な考察の一端を、先頃上梓した拙著『パット剝ギトッテシマッタ後の世界──ヒロシマを想起する思考』(インパクト出版会、2015年)のなかに示しておきましたので、ご一読いただけるとありがたいです。

さて、被爆という出来事を、他の出来事と照らし合わせながら、その特異性において記憶する具体的な実践の可能性を探るうえで、8月7日という被爆の記憶の継承へ向けて新たな一歩を記すべき日に行なわれた、アニー・デュトワさんの講演は示唆に富むものだったのではないでしょうか。当日は、この講演を含む「アニー・デュトワ博士と広島の学生との平和交流&萩原麻未による被爆ピアノ演奏」(広島交響楽団主催)の進行役を務めさせていただきました。アニー・デュトワさんは、5日に行なわれた広島交響楽団の「平和の夕べ」コンサートで、これ以上はありえないと思われるベートーヴェンのピアノ協奏曲とシューマンの小品の演奏を聴かせてくれたマルタ・アルゲリッチの愛娘。その演奏会に来られた方には、チャールズ・レズニコフの詩と原民喜の詩を、作家の平野啓一郎さんとの絶妙の掛け合いとともに印象深く朗読されたのが記憶に新しいところでしょう。

デュトワさんの講演は、アウシュヴィッツとヒロシマがいずれも語りえない、自分の経験と関連づけるのがきわめて困難な出来事である点で通底していることを念頭に置きつつ、そのような出来事を、自分と結びつけながら、かつ現在の問題として理解することの重要性を、ヨーロッパ中から集まった17、8歳の若者たちとアウシュヴィッツを訪れた経験にもとづいて語りかける内容でした。まず、今なお歴史修正主義がはびこるなかで、歴史的な事実をしっかりと知っておくことがまず重要であることを、ショアー(ホロコースト)にまつわる基本的な事実やデータを紹介しつつ述べておられましたが、知識としての歴史だけではけっして充分ではないことを強調されていました。犠牲者に共感しつつ、なぜこのようなことが起きたのかを、想像力を働かせて自分の問題として理解しようとしなければ、将来を切り開く行動は生まれないとのことです。

そのために、デュトワさんがヨーロッパの若者たちと参加した“Trains des milles”(千人の列車)プロジェクトは、さまざま工夫を行なっているようです。例えば、近代史上の人物を一人選んで、この人物にとって最も大事な身の回りの物は何かを考え、その人物のスーツケース──ユダヤ人たちがアウシュヴィッツへ携えて行ったスーツケースです──を自分で作り、個々人の経験への共感の回路を開く試みがなされているとのことでした。また、若者たちは34時間かけて列車でアウシュヴィッツを目指すわけですが、その列車にはアウシュヴィッツの生き残りが同乗し、みずからの体験を語るのだそうです。広島における被爆の記憶、ないしは戦争の記憶の継承の可能性を考えるうえでも参考になることの多いプロジェクトではないでしょうか。

デュトワさんは、ヨーロッパで極右勢力がじわじわと拡大し、反ユダヤ主義をはじめとするレイシズムが声高になりつつあるなかで、“Trains des milles”のようなプロジェクトの重要性はいっそう高まっていると述べていました。まして歴史修正主義が一種の大衆性すら帯びるなか、ヘイト・スピーチがパブリックな媒体においても行なわれているこの国では、そうしたプロジェクトは喫緊の課題と言うほかありません。同時にこうした若者が参加するプロジェクトに、文学や音楽をはじめ、芸術に触れる機会を組み込み、若者たちのなかに共感の回路を開くことの重要性も、デュトワさんと確認し合ったところです。広島ではとくに、原爆文学と呼ばれる文学の作品を深く味わう機会を設けることが大事ではないでしょうか。その一つとして原民喜の被爆時の足どりを辿るフィールドワークは、非常に有意義な機会と思われます。

8月5日、広島花幻忌の会が主催する原民喜の「夏の花」を歩くフィールドワークに、学生たちと参加しました。炎天下を、原民喜が目の当たりにした被爆時の光景を思いながら、彼の生家の跡から「夏の花」の基になる「原爆被災時のノート」が書き始められた東照宮まで歩きました。民喜の甥の時彦さんのお話を聞きながら、また原民喜の文学を研究されている竹原陽子さんの朗読を聴きながら、被爆時の原民喜の足跡を辿ることができるのは、「夏の花」を深く読むうえでも、この作品に込められた記憶を絶えず新たに呼び覚ましていくうえでも、とても貴重なことです。もっと多くの若い人たちに参加してほしいものです。

ところで、広島と長崎の被爆とともに、敗戦からも70年が経とうとしていますが、それとともに戦争の記憶が薄れ、戦争体験者の平和への切なる願いも、忘れられつつあるように思えてなりません。まさにそのような今、「平和」という言葉が、生きることから掠め取られ、殺し、殺されるのに人を駆り立てるのに使われ始めています。そして、そのような、いわゆる「安保法制」の確立へ向けた動きを貫くのは、記憶殺しとも言うべき歴史修正主義であり、帝国日本の植民地主義を支えたレイシズムです。こうした考えを抱きながら、現政権の無法なやり方を批判する拙稿を、週刊書評紙『図書新聞』第3218号(2015年8月8日)の特集「『戦争法案』に反対する」に掲載していただきました。

拙稿は、「記憶を分有する民衆を、来たるべき東洋平和へ向けて創造する──平和を掠め取り、言葉を奪い、生きることを収奪する力に抗して」という表題のものですが、これは今年のささやかな平和宣言です。平和という言葉のみならず、言葉そのものを、さらには生きること自体を食い物にしながら、平和主義を根幹から骨抜きにしようとする政権の無法な動きを、歴史的な問題として見据えつつ、まさにその動きに抗して、国会前で、各地の街頭で、そして大学のキャンパスで生まれつつある言葉を、記憶を分有する民衆の創造へ向けて結び合わせることを要請する内容の小文を書きました。ご高覧いただけたら幸いです。

7月31日には、東京ドイツ文化センター図書館での連続講演会「ベンヤミンの哲学──言語哲学と歴史哲学」の第1回「導入:ベンヤミンの生涯と著作」を何とか終えることができました。お運びくださったみなさまに心から感謝申し上げます。聴き手の熱心さがひしひしと伝わり、とても話しやすかったです。ベンヤミンの生涯を通観するかたちで話をするのは初めてでしたが、とてもよい経験になりました。次回のテーマは「ベンヤミンの言語哲学」、拙著『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)の内容をかみ砕きながら、かつ今回の反省点も踏まえつつ、言葉への問いをご参加のみなさまと共有できるよう努めたいと思います。

それにしても今年は酷暑が続きます。みなさまくれぐれもお身体に気をつけて、この厳しい夏を乗り切ってください。私も、この暑さのなか、大学の講義などのさまざまな仕事をこなす傍ら、ひたすら原稿を書き続けてきたので、さすがに少々夏バテ気味です。ひとまず、上記の『図書新聞』紙への寄稿の原稿をはじめ、急ぎの原稿はすべて出し終えたこともあり、10日から14日までは、鹿児島の実家に帰省して休暇を取ることにいたします。その間、英気を養いながら、次の仕事のためのアイディアを温めたいと考えております。

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クラクフへの旅より

クラクフ旧市街の風景

クラクフ旧市街の風景

7月20日から24日にかけて、第19回国際美学会 [19th Jubilee International Congress of Aesthetics, Krakow 21.–27. July, 2013] で研究発表を行なうために、ポーランドのクラクフを訪れました。クラクフを訪れるのは、2009年の秋以来2度目ということになります。幸いなことに滞在中はずっと晴れていて、日差しに映える緑がとても美しかったです。クラクフの人々が憩う緑深い公園に囲まれるような感じで、歴史的な建造物が建ち並ぶ旧市街があるのですが、大きな市場の建物があるその中心は、世界各地から集まった観光客でかなりごった返していました。ちょうどヴァカンスの季節でもあります。

国際美学会は、古くはコペルニクスが、比較的新しいところではローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も学んだという中欧最古の大学の一つヤギエヴォ大学(1367年創立)の新しい講堂 [Auditorium Maximum] を会場に開催されています。旧市街の中心から少しばかり離れたところに、おそらくごく最近建てられたと思われる講堂は、非常に機能的で、大ホールを二つに分割して同時に使用できますし、映写や音響の装置が整った比較的小規模のホールやセミナー・ルームも数多く備わっています。そのため、膨大な数に及ぶ学会のセッションを、ほぼすべて同じ講堂の内部で回すことができています。これは、いくつものセッションを渡り歩きたい学会参加者にとっては非常に便利です。ロビーの横にはスタッフ常駐のクロークが、また地下には会食も可能なビストロも備わっています。このような施設が、広島市の千田町にある広島大学の跡地あたりに建設されれば、とも思ったところです。

7月23日の夜のセッションに組まれていた私の研究発表は、さまざまな方のサポートのおかげで、大過なく終えることができました。“Toward the Poetics of Echo: From Revisiting the Image of ‘Echo’ in Walter Benjamin’s Writings”というテーマで行なった発表は、ヴァルター・ベンヤミンの著作、とくに「翻訳者の課題」と「歴史の概念について」に見られる「谺(こだま:Echo)」の形象とそれが示唆する美的経験を検討しながら、「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマ」以後の詩的表現の可能性とともに、いわゆる「表象の限界」を超える歴史的想像力の可能性を探る試論とでも言うべき内容のものです。あるいは、自己が根底から震撼させられるほどの強度を持った「照応(コレスポンデンス)」の経験のなかから、言語の限界において「谺」としての言葉を響かせることのうちに、テオドーア・W・アドルノの「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である」という言明に応答する回路を探る試み、とも言えましょうか。発表のなかでは、パウル・ツェランの「黒土」や「帰郷」、あるいは原民喜が小説「夏の花」に挿入した詩や彼の「鎮魂歌」にも言及しました。温かい雰囲気のセッションで、何人もの方から好意的なコメントをいただけたのが嬉しかったです。内容的にはまだまだ詰めなければならない点がありますし、英語での研究発表にはいろいろと課題がありますが、ともあれまずはよい経験になったと思います。

ちなみに、“Aesthetics in Action”を全体のテーマとする今回の国際美学会を、クラクフ市は全面的に支援している──おそらく資金面でも相当に──ようで、この学会に合わせたいくつもの芸術に関わるアクティヴィティも企画されていました。まず、7月22日の夕方にはフィルハーモニー・ホールで、ヤチェク・カスプツィクの指揮による、クラクフのベートーヴェン・アカデミー管弦楽団の演奏会が行なわれ、国際美学会の枠内で開催されるこの演奏会のために作曲された、カロル・ネペルスキという若い作曲家の“Aisthetic Symphony”──「感性の交響曲」とでも訳せばよいのでしょうか──という作品が初演されました。オーケストラの楽器によって、あるいはそれ以外の水笛のような楽器によって、さらにはサンプリングされた音声によって響く断片的なモティーフを、いくつもの方向から響かせることで、聴覚を空間的に拡げていこうという発想そのものは理解できるのですが、音楽的にはそれほど面白いところのない単純なモティーフが、これまたあまり音楽的な必然性が感じられないかたちで延々と反復されるのは、個人的には聴いているのが辛かったです。

7月23日の夜遅くには、旧市街の中心にある時計塔に、アフガニスタンやイラクの戦争に動員されたポーランド兵およびその家族の言葉を、軍用車によって投影し、さらにその言葉を銃声とともに撃ち崩すという、現代芸術家のクシュシトフ・ヴォディチコのパフォーマンスが行なわれました。アメリカを中心とするいわゆる「テロとの戦争」の列に加わろうという国家政策のために、戦争のなかで心身に傷を受け、家族との関係にも傷を負わされた兵士、そしてその家族の言葉が、断片的な叫びとして突き刺すように時計塔に投げつけられ、それが轟音とともに掻き消されるのを目の当たりにすると、戦争の暴力が今なお続いていることを強く感じざるをえません。

前回2009年にクラクフへ初めて来たのは、そこからアウシュヴィッツを訪れるためだったのですが、今回も学会の予定が組まれていない7月21日を使って、アウシュヴィッツへ行ってきました。クラクフ本駅に隣接するバス・ターミナルから1時間半ほどのところにあります。アウシュヴィッツの展示やビルケナウの廃墟を見るのは今回が二度目なので、前回ほどの衝撃は受けなかったものの、これらの場所で行なわれた計画的にして大規模な抹殺の痕跡を目の当たりにすると、戦慄を覚えないではいられません。しかし、これを見据えて、何が行なわれたのかを、現在の問題として考え続けなければならないと思います。アウシュヴィッツのガス室やビルケナウのバラックからは、今も気配のようなものが感じられます。

さて、10時から15時までの時間、国立博物館でもあるアウシュヴィッツでは、見学者はガイド・ツアー──ビルケナウまで行くと4時間ほどかかります──への参加を義務づけられています。私は前回同様、英語のツアーに参加しました。そして今回も、国家資格を持ったガイド──その一人に『アウシュヴィッツ博物館案内』の著者の中谷剛さんがいます──がよく訓練されているばかりでなく、伝えることへの並々ならぬ熱意をもって見学者を導いてくれることに、感動すら覚えました。英語のツアーのグループの参加者は、当然ながら相当な人数だったのですが、今回の年配のガイドの方も、人混みを避けて見学者をうまく誘導し、展示に関して要を得た、かつ内容の深い説明をしてくれました。その言葉が、ガイドの方自身の言葉になっているので、何が問題なのかが非常によく伝わってくるのです。今、広島で養成されるべきは、このように自分自身の言葉で被爆の記憶をしっかりと伝えられる、プロフェッショナルでかつ真に熱意を持ったガイドではないでしょうか。