ベルリン通信VI/Nachricht aus Berlin VI

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秋晴れの下のジェンダルメンマルクト

ベルリンではここ数日で秋が深まった印象です。朝晩の気温が10度前後になりましたし、街路の木の葉も色づいてきたように見えます。それとともに街の雰囲気が少し落ち着いた気がしますが、それは八月の下旬頃から街の至るところに騒々しく掲げられていた選挙のポスターが、おおかた撤去されたからかもしれません。ポスターそのものは鬱陶しいですが、そこに書かれている各政党の主張は、現在この都市ないし地区で問題になっていることをそれぞれの立場から伝えていて、それはそれで興味深かったです。ベルリンでは、9月18日に当地の議会の議員を選ぶ選挙が行なわれました。ベルリンの東西を往復すると、この街に実にさまざまな背景を持った人々が暮らしていることが実感されると同時に、とくに東側が資本の力によって、幾重にも引き裂かれている感触を持たざるをえません。今回の選挙の結果は、それによって生まれた隙間に、排外主義的な主張が徐々に浸透しつつあることを懸念させるものと思われました。

さて、九月とともに、ベルリンには音楽のシーズンが到来しました。その始まりを毎年彩っているのが、Musikfest Berlin(ベルリン音楽祭)です。数多くの同時代の作品が取り上げられるこの音楽祭の演奏会を聴きに、たびたびフィルハーモニーに足を運びました。9月3日にオープニングを飾った、ダニエル・ハーディング指揮のバイエルン放送交響楽団によるヴォルフガング・リームの《トゥトゥグリ》の演奏では、フィルハーモニーの天井も床も抜けんばかりの音響のエネルギーに圧倒されました。他方で、アントナン・アルトーの晩年の詩的なテクストに触発されたこの作品の演奏においては、音楽の繊細な肌理も聞こえてきて、演奏の完成度の高さも伝わってきました。ワレリー・ゲルギエフとミュンヒェン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会では、ショスタコーヴィチの交響曲第4番の演奏に驚嘆させられました。音楽そのもののダイナミズムを、整理された演奏からはこぼれ落ちてしまう情動的なものも含めて生かしきった演奏で、時に音響がうねり狂うかのようでした。

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フィルハーモニーとその傍らに設けられたT4作戦を記憶するモニュメント

とはいえ、演奏そのもので最も強い印象を受けたのは、17日に聴いたハンブルクのアンサンブル・レゾナンツの演奏会でした。とりわけシューベルトの初期の「序曲」と交響曲第5番の演奏は、様式性と新鮮さを兼ね備えた活気溢れるもので、瞠目させられました。自発性に富む演奏を繰り広げながら、非常に透明度の高い響きを保っていました。これを指揮者なしでやってのけるのですから驚きです。シューベルトの作品に挟まれるかたちで演奏されたエンノ・ポッペとレベッカ・サウンダースの作品では、いずれも独奏楽器とアンサンブルのための曲を面白く聴きました。とくにサウンダースのチェロ協奏曲では、チェロと打楽器の対話のなかから聞こえる響きがとても多彩で、かつそれが音楽の有機的な発展とも結びついていて、印象に残りました。ポッペのヴィオラ協奏曲では、タベア・ツィンマーマンが、存在感に満ちた素晴らしい演奏を聴かせてくれました。

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夕暮れ時のコンツェルトハウス

この九月には、イザベル・ファウストの素晴らしいヴァイオリンを聴くことができたのも嬉しかったです。9月2日の夜遅くにMusikfestの一環として行なわれたルイジ・ノーノの“La Lontananza Nostalgica Utopica Futura”の演奏も、電子音響ときわめて繊細な対話を繰り広げるものでしたが、22日のコンツェルトハウス管弦楽団の演奏会におけるバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番の演奏は、すべての音に必然性と生命がこもった素晴らしいものでした。考え抜かれた弓遣いとフレージングのなかから、魂の息吹を一つの風景とともに響かせるような歌が紡がれていきました。それが楽章を追うごとに熱を帯びていくのにすっかり引き込まれました。同時に、曲全体の構成を浮き彫りにする造型にも感動を覚えたところです。ヴァイオリニストと言えば、同じコンツェルトハウス管弦楽団のシーズン最初の演奏会におけるユリア・フィッシャーの演奏も魅力的でした。ヘンツェのヴァイオリンと室内オーケストラのための《イル・ヴィタリーノ・ラドッピアート》を、ヴィターリの原曲の解体過程を浮き彫りにするかのように弾いた後、アンコールにパガニーニのカプリースの完璧な演奏も聴かせてくれました。

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リチャード・セラによるT4作戦の犠牲者のためのモニュメント(1988年)

九月からは、興味深い美術展も始まっています。例えば、ベルリン美術館(Berlinische Galerie)では、「ダダ・アフリカ(DADA Afrika)」展が開催されています。ダダ百年の今年、チューリヒのリートベルク美術館の協力の下、ダダの作家とアフリカ、ないし異他なる世界との対話に光を当てるこの展覧会を先日見ましたが、とりわけハンナ・ヘーヒの作品が魅力的に思われました。このベルリン美術館では、この「ダダ・アフリカ」展以上に、たまたま入った「モデルネの幻視者たち(Visionäre der Moderne)」というテーマの展覧会に惹きつけられました。『ガラス建築』などでベンヤミンにも影響を与えたパウル・シェーアバルトの版画や、ブルーノ・タウトの絵画や建築の設計図のほか、パウル・ゲシュという彼と同時代の作家の作品が数多く展示されていて、これがとても魅力的でした。幻想的でありながら、非常に澄んだ目を感じさせる水彩画の数々が並んでいました。ゲシュには情緒不安定なところがあったようで、いくつかの医療施設を転々とした末、1940年にブランデンブルクの「安楽死」施設で虐殺されることになります。あらためてナチスの「T4作戦」の問題に向き合わせられました。演奏会を聴きにしばしば通っているフィルハーモニーがある場所は、この作戦の司令部が置かれたかつてのティーアガルテン4番地に当たるので、フィルハーモニーの傍らには、この「安楽死」の名による虐殺を記憶する場所が設けられています。

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ポルボウの公共墓地内のベンヤミンの(墓)碑

それから、すでに別稿に記しましたとおり、九月末には、ヴァルター・ベンヤミンが亡命の道を阻まれ、自死を遂げたスペインのポルボウを訪れることができました。彼が亡くなったのが1940年の9月26日とされていますので、彼の76回目の命日にポルボウに滞在したことになります。この地に設けられた彼を記念するモニュメントには、いずれも彼が「歴史の概念について」記したテクストの一節が刻まれています。ベンヤミンが葬られた墓地のなかの碑には、「同時に野蛮の記録であることのない文化の記録など、あったためしがない」という一文が引かれていますし、またイスラエルの芸術家ダニ・カラヴァンが、ベンヤミンの没後50年を機に、墓地の手前の崖を貫くかたちで制作したモニュメント《いくつものパサージュ》には、次の一節が引用されています。「名のある人々の記憶を称えるよりも、名もなき者の記憶を称えることのほうがいっそう難しい。歴史の構成は、名もなき者たちに捧げられている」。これらを、ポルボウの入江から広がる真っ青な地中海とともに見ながら、歴史哲学に対する問題意識を新たにしたところです。十月は、自分自身の研究を形にすることに徐々に力を傾けなければなりません。

現代史に関わることに最後にもう一つだけ触れるならば、1941年9月29日から30日にかけてウクライナのキエフにあるバビ・ヤールの峡谷で、ナチスの特別部隊による最大規模の虐殺が繰り広げられました。今年はそれから75年ということになります。その犠牲者を追悼するキエフでの式典で、ドイツ連邦共和国大統領ヨアヒム・ガウクが、ナチズムの歴史を踏まえた印象深い言葉を残しています。そのごく一部を、ディ・ツァイト紙所載(2016年9月29日付)の抜粋からご紹介しておきたいと思います。国民社会主義の「抹殺への意志」が、死者だけで満たされることはなかったのは、「犠牲者の記憶すらも消し去られるべきだとしていたからであります」。「私たちは、ショアーの深淵を前にするとき、計り知れない苦悩を、そして私たちドイツ人の法外な罪責を語ることになります」。「この深淵への眼差しを抜きにしては、ドイツの罪責について、ひいては私たちが共有する歴史について思いを致すことはありえません」。このバビ・ヤールでの虐殺を含めた、ナチスの特別部隊による「バルト海から黒海に至る」大量射殺の歴史に関する展示が、テロルのトポグラフィーで始まっていますので、それも近々見に行かなければと思います。

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ポルボウへの旅

[2016年9月25/26日]

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ポルボウ駅風景

バルセロナを午後5時過ぎに出発した列車がポルボウの駅に着いたのは、午後8時過ぎだった。本来はもう少し早く着いているはずだったが、おそらくは一時間半ほど前から降り始めた激しい雷雨の影響で、到着が少し遅れた。幸い雷雨は収まっていたものの、プラットホームに降り立つと、駅舎の屋根に小雨がぱらつく音が聞こえる。寂れた駅舎を抜けると、潮の香りが漂ってきた。

ナチス・ドイツからの亡命者たちにピレネー越えを手引きしていたリーザ・フィトコに導かれたヴァルター・ベンヤミンが、同行者とともにこの入江の国境の街に辿り着いたのは、1940年9月25日のことだった。駐在する国境警察に、フランスの出国ヴィザを持たない者は送還すると脅された一行が、一夜の滞在を許されたホテルへ重い足取りで向かった時も、このように日が落ちて、街路が薄暗かったのだろうか。雨をよけながら細い街路を下って行くと、海辺にある今夜の宿が見えてきた。

ベンヤミンは、9月25日の深夜に、彼が万一の際に備えて持ち歩いていた致死量のモルヒネを嚥んだとされている。「そうするよりほかに術がなかった」。亡命先のアメリカにいるテオドーア・W・アドルノに伝えるよう、同行のへニー・グルラントに託した伝言にあるように、行く手を阻まれ、帰路も塞がれた状況で、ベンヤミンが取れる手だてはこれだけだった。彼は、ナチス・ドイツの占領下に置かれたフランスで、ゲシュタポの手にわが身が引き渡され、辱められた末になぶり殺されることだけは避けなければならなかった。案内人に「私個人の命よりも大切だ」と語った原稿を所持していたからである。

こうしてベンヤミンは、他殺の拒否を貫いた。彼は、言葉とともにある生を生き抜こうとして自死を遂げたと言えるかもしれない。混濁してゆく意識のなかで、彼は、大西洋の向こうにいる友人の手に、トランクのなかの原稿が渡ることを念じていただろう。しかし、その願いは叶わなかった。彼が所持していたとされる原稿の行方は、杳として知れない。深夜の海岸からは、波が打ち寄せる音が、風音とともに響いてくる。絶命しつつあるベンヤミンの耳にも、海からの音は届いていただろうか。

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ダニ・カラヴァンのモニュメント《いくつものパサージュ》とポルボウ公営墓地の門

先のアドルノへの伝言にあるとおり、ベンヤミンは、「自分のことを誰も知らない街」で死んだ。いや、それどころか、結局誰であるか知られないまま死んだとさえ言えるかもしれない。当地に残る記録によれば、彼はカトリックの司祭の終油を受けて、ポルボウの公共墓地に葬られた。その記録に彼の名は、“Benjamin Walter”と記されている。故意によってか手違いによってか、姓と名が取り違えられることによって、彼の名前からは、彼がユダヤ人であることを示す要素が消されていた──“Benjamin”は、イベリア半島では一般的なファースト・ネームであるという──のである。このようにしてベンヤミンは客死した。

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ベンヤミンの最後のメッセージを記した墓地内のモニュメント

海に面したポルボウの公共墓地には、もうベンヤミンの墓は残っていない。代わりにというわけではなかろうが、墓地の奥まった場所に、彼を記念する小さな石碑が設けられている。その手前には、ベンヤミンがグルラントに託した伝言の全文とされる文章が記されたモニュメントも造られていた。こちらは、彼の没後75年を記念して設置されたという。この場所を訪れたのは、翌9月26日の朝。墓地から見下ろす海が、もはやベンヤミンが見ることのなかった陽射しを受けて輝いていた。昨夜の雷雨が嘘だったかのように、空は晴れわたっている。

墓地のなかの記念碑には、彼の最後の著作の一つで、未定稿だけが残された「歴史の概念について」の第7テーゼの一節が引かれている。「同時に野蛮の記録であることのない文化の記録など、あったためしがない」。なぜこの一文が刻まれたのかは知る由もない。ただし、ここにベンヤミンの歴史に対する基本的な姿勢が示されていることは確かだろう。彼の思考は、現在を廃墟の相において見据えながら、「進歩」や「発展」と美化されてきた歴史のうちに、抑圧と破壊の痕跡を見届ける理路を探っていた。そして、この痕跡が顔をのぞかせる一瞬を捉え、同じテーゼに言われる「抑圧された者たち」の記憶を今に呼び覚まして、歴史そのものを反転させる可能性を、言葉に凝縮させようとしていたのだ。「歴史の概念について」書かれたテクストは、その試みの痕跡である。それが時の権力者たちにとってきわめて危険なものであったことは、細部の表現が変わっている異稿の存在が物語っていよう。

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墓地内の記念碑

公共墓地の門の手前に、イスラエルの芸術家ダニ・カラヴァンがベンヤミンの没後50年を記念して制作したモニュメントが設けられていることは、つとに知られていよう。海辺の崖を貫通するかたちで造られたこのモニュメントには、《いくつものパサージュ(Passages/Passatges)》という表題が付いているが、それはこのモニュメントの物理的な構成からすれば、逆説的なタイトルではある。なぜなら、その内部の階段を下りて行った先にあるのは海なのだから。ベンヤミンが旅人として、あるいは思想家として辿ってきたいくつもの、いや無数のパサージュ──アーケード、通路、隘路など──に思いを馳せながら、それがこの場所で途絶したことを追想する空間と言えようか。あるいは、この狭い空間を通り抜けることを、カラヴァンは、ベンヤミンが繰り返し論じた「経験」──とくに「閾の経験」──に準えているかもしれない。「経験(experience)」の語には、語源的に「危険(peril)」を潜り抜けるという意味がある。

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カラヴァンの《いくつものパサージュ》の内部から海を望む

モニュメントの内部に入り、階段を下って行くと、カラヴァンが制作した他のモニュメントにも見られるように、開口部の手前に透明の板が組み込まれていて、その上に言葉が刻まれている。その言葉は、《いくつものパサージュ》においては、ベンヤミンが「歴史の概念について」のテーゼを準備するために記した草稿から採られている。「名のある人々の記憶を称えるよりも、名もなき者の記憶を称えることのほうがいっそう難しい。歴史の構成は、名もなき者たちに捧げられている」。行き止まりでもあるカラヴァンの《パサージュ》に刻まれているのは、従来の「歴史」に名を残せなかった者たちに応えようとするベンヤミンの歴史哲学の基本的な問題意識を示しながら、その困難をも暗示する言葉である。その言葉が、ポルボウのモニュメントの空間の内部では、特別な力を持っているようにも感じられる。

カラヴァンが意図しなかったことかもしれないが、ベンヤミンの言葉が刻まれた透明の板には、見る者の姿が必ず映る。モニュメントの内部空間の写真を撮ると、カメラを手にする影が写り込むことになる。モニュメントのなかへ入る者は、海に向かいながらベンヤミンの言葉を読む自分の姿も同時に見ることになるのだ。それによって、ボードレール論における彼の言い方を用いるなら、「眼差しを返される」体験をすることになろう。それも、言葉によって。困難な「歴史の構成」を語るベンヤミンの言葉をここで読む者は、その言葉によって問い返される。この時代、この世界で、彼の歴史への問いをどのように受け止めるのか、と。

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ポルボウ公共墓地から地中海を望む

容易に手の届く史料を基に歴史を物語る──そのことは、ベンヤミンに言わせれば、支配者への同一化である──のではなく、「歴史」から削ぎ落とされ、抹殺されかねない記憶を忘却から掬い上げ、断片でしかありえないこの記憶を継ぎ合わせ、照らし合わせる「構成」は、どれほど困難であることか。しかし、それをつうじて、いくつもの「抑圧された者たち」の記憶を星座のように呼応させ、現在を新たに照らし出す可能性を追求することに、生存──それは死者とともに生き残っていくことである──そのものが懸かっている。だからこそベンヤミンは、「歴史の概念」を、「歴史」に抗して語ろうとした。そして、彼がそのなかに「嵐」を見た「歴史」は、今や彼の時代よりもさらに深く生命を侵食しながら、生存を脅かしている。そのような現在──核の歴史のただなかにある現在──において、歴史の問題にどう取り組むのか。モニュメントのなかで、ベンヤミンの言葉によってそう問われているように思われた。その際、ポルボウでの彼の死にも向き合わざるをえないのではないだろうか。

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ベンヤミンの眼鏡があしらわれたホテル・デ・フランシア跡の銘板

カラヴァンのモニュメントを後にし、ポルボウの街を通って駅へ向かう途中、ベンヤミンがファシストの手先に見張られながら一夜を過ごし、自死を遂げたホテル・デ・フランシアのあった建物の壁面に、そのことに触れた銘板があるのを目にした。彼の特徴だった眼鏡があしらわれていた。それ以外にもポルボウの街の至るところに、ベンヤミンとその死に触れたプレートが置かれている。この街では、皮肉なことに、ベンヤミンの記憶は「文化財」と化しつつあるのかもしれない。それがやがて、「文化財」という名の消費財と化してしまうのに抗いながら、彼の思考の問いを喚起する力を掘り起こす必要を、あらためて感じないではいられない。そのことは、ベンヤミンの言葉を、今ここで読む者の責務であろう。

こうしたことを思いながら、午後のバルセロナ行きの列車に乗り込んでポルボウを後にした。ジローナ県の町々を通って行く車窓の外には、往路は見えなかったカタルーニャの田園風景が広がっていた。乾いた土に、強い陽射しが照りつけている。馬が草を食む姿がふと目に入った。牧草地の先には、葡萄畑がどこまでも広がっていた。