道を拓く歩みの強さを聴く──広島交響楽団新ディスカバリー・シリーズ「黄昏の維納」第8回を聴いて

20181116222648-0001を拓く歩みは、一歩一歩が強くなければならない。草をかき分けた先にある地面を踏みしめる物理的な力だけではない。その一歩に込められる意志も強くなければ、歩みはそこで止まってしまうだろう。そしてその意志は、確かな信念と豊かな創造力によって支えられていなければならない。野生の混沌のなかから一つの世界を創造し、ある方向への見通しを切り開くことができなければ、一本の道を拓くことはできない。

シューベルトのすべての交響曲を、新ヴィーン楽派を象徴する作品と突き合わせる広島交響楽団の新ディスカバリー・シリーズ「黄昏の維納」の最終回の演奏会(2019年1月25日、JMSアステールプラザ大ホールにて)で、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲とシューベルトの「大ハ長調」交響曲を聴いて、この二人のヴィーン生まれの作曲家の音楽には、道を拓く歩みの強さがあると感じた。ここで道とは、シューベルトの場合はベートーヴェン以後に音楽が進みうる道であり、シェーンベルクの場合には、言うまでもなく、調性音楽以後の音楽が進むべき道である。

シェーンベルクがアメリカへ亡命してから最初の大規模な作品であるヴァイオリン協奏曲には、自身の十二音技法の可能性を新天地で拡げ、この技法が開拓する音楽の新たな境地を合衆国の聴衆に知らしめたいという意欲が漲っている。そのことは、ヴァイオリン協奏曲の伝統的な三楽章形式を、十二音技法で改鋳しようとしているところにも表われていよう。しかし、亡命者シェーンベルクがアメリカで活動する際に、数々の困難に直面せざるをえなかったことは想像に難くない。不安のなかで、ナチスの迫害の恐怖が脳裡によぎることもあっただろう。

厳格な論理で組み立てられていながら、そのように歴史的な状況を生きる人間の息遣いを感じさせるのが、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の特徴と言えるかもしれない。この曲は、画家としての才能も示したこの作曲家の音楽による自画像にも見える。三管編成の管弦楽が織りなす響きのなかを、個としての魂が、時にときめきながら、あるいは時に打ちひしがれながら歩んでいく。その歩みの強さを、魂を取り囲む響きの豊かさとともに感じることができたのは実演ならではのことである。

177初演を手がけたルイス・クラスナー(この人名に関してプログラムに誤植があった)の独奏による演奏など、録音でこの作品を聴くことはあったが、実演に接するのは今回が初めてだった。第二楽章で、木管などと独奏が密やかな対話を繰り広げた後、疾走する管弦楽の上で独奏が悲痛な歌を響かせるに至るあたりなど、実演でこそ、音楽の展開の強度が伝わってくる。今回それにじかに触れて、とくに印象深かったのは、川久保賜紀の独奏である。彼女のヴァイオリンの音の強さ、そして緻密に造形された音の運動を、感情のこもった魂の躍動として響かせる、彼女の音楽の豊かさには瞠目させられた。

演奏困難ですらある技巧がちりばめられたシェーンベルクの協奏曲を、川久保が魅力的に響かせることに成功した要因の一つが、彼女のヴァイオリンのG線の音の強さであろう。その強さとは、芯を保ちながら広がる強さである。それによって、重音も、フラジョレットも、奥行きを感じさせながら豊かに響く。決然とした独奏とともに始まる第三楽章の終わりで、伴奏付きカデンツァのような独奏の展開が熱を帯び、エネルギーを凝縮させたオーケストラと対峙するに至る展開には心を打たれた。

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲は、彼が50歳になろうとする時期に書かれているが、シューベルトの最後の交響曲は、この作曲家の30歳に満たない頃の作品である。その規模の大きさは、ベートーヴェン以後に書かれうる交響曲の道を探り当てた喜びの表われでもあろうが、その一時間ほどの歩みを貫くのは、音楽を前へ前へ運んでいく若々しいエネルギーである。下野竜也の解釈は、このエネルギーを最大限に発揮させることを重視するものだった。そのために彼ならではの緻密な楽譜の読みが存分に活かされていたのが、今回の演奏の特徴と言えよう。

シューベルトの音楽の最大の特徴である魅力的なメロディを充分に歌わせながらも、それを前へ運ぶ細かい動きを強調する下野のアプローチによって、「大ハ長調」交響曲の全曲が若々しい躍動感で貫かれていた。物理的なテンポをとくに速いとは感じなかったが、きびきびとしながら力強い歩みが特徴的な演奏だったと思う。そのために、すべての反復が実行されたにもかかわらず、曲の長さはまったく感じられなかった。曲の後半を特徴づける、踏みしめて跳ね上がるようなリズムの力感も、フォルテでの響きの威容と迫力も素晴らしかったが、他方で響きの見通しのよさが失われることはない。スケルツォのトリオで、それこそ「天国的」にたゆたうような響きを造形するのに、トロンボーンが重要な役割を果たしているのに気づかされた。

とくに第三楽章と第四楽章で、下野の解釈が生きていて、作曲家のとめどなく湧き上がる楽想が、シューベルトに独特の響きと変化に富んだその推移に結びついていることを実感できた。とくに、フィナーレの音楽が徐々に熱を帯びて、途方もないエネルギーを発散するに至る演奏の展開には、心からの感動を覚えた。他方で、前半の二楽章では、もう少し繊細な歌を、奥行きのある響きのなかで聴きたかった。細かい動きに光を当てたこともあって、音量のミニマムなレヴェルが上がってしまったために、表現の振幅がやや狭くなってしまったことは惜しまれる。緩徐楽章のクライマックスの後の歌は、もう少し密やかに、探るように響き始めてもよかったのではないだろうか。

音楽の若々しさを重視するアプローチと、世代交代が進みつつあるオーケストラの若さとが、響きのエネルギーとリズムの躍動に結びつくと同時に、それによって聞こえなくなるものがあれることも感じさせたシューベルトのハ長調交響曲の演奏と聴いたが、演奏環境がもう少し整っていれば、下野と広響のコンビは、この作品への取り組みにおいて、もっと冒険して表現の幅を広げられたにちがいない。今回の会場のアステールプラザ大ホールは、定期演奏会の会場よりも個々の音の存在感をはっきりと伝えるし、演奏家と聴衆の一体感も生まれやすい。しかし、けっして残響が豊かとは言えないなかで、繊細な表現を紡ぐのは難しいだろう。例えば、オーケストラ・ピットの上に舞台を設ける際に、オーケストラの背後に張られる壁が、もう少し反響するものだったらどうだろうか。

それから、今回の演奏会には700名近くの聴衆が集まったようだが、演奏者の顔ぶれとプログラムからすれば、もう少し来場者があってもよいのでは、と思わざるをえない。聴衆を増やすためには、演奏会に出かけること自体を魅力的にする努力も求められよう。ホワイエで、遠方から来たと思われる聴衆の一人が、クロークはどこか案内係に尋ねる場面を目にしたが、そこで案内されるのがクロークならぬ有料のロッカーでは、気が殺がれるはずだ。こうした細かいところを改善しながら、演奏会を魅力的なものにし、聴取の文化を育んでいくこと。それによってこそ、音楽専用のホールを整備することをはじめ、広島の音楽をめぐる環境を改善することを求める声が、人々のあいだから湧き起こるにちがいない。

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武生国際音楽祭2017に参加して

Takefu-International-Music-Festival-2017-Leaflet第28回目を迎えた武生国際音楽祭2017に、今年は作曲ワークショップの特別ゲストとして参加させていただきました。9月13日に武生に入ってから17日の音楽祭最終日まで、数多くの演奏会とレクチャーに接することができて、とても言葉では言い尽くせない多くの刺激を受けることができました。この音楽祭の重要な特徴をなすワークショップでは一回レクチャーを持たせていただきましたが、それをつうじて、私のほうが学ぶことが多かったです。このような機会を設けてくださった武生国際音楽祭の音楽監督の細川俊夫さん、コンサート・プロデューサーの伊藤恵さん、そして理事長の笠原章さんをはじめとする武生国際音楽祭推進会議のみなさまに、まずは心から感謝申し上げます。本当にお世話になりました。

5日にわたって聴かせていただいた演奏会は、どれも印象深いものでしたが、とくに9月14日の夜に聴いた「マエストロの調べ──イリヤ・グリンゴルツを迎えて」、15日の夜に聴いた「細川俊夫と仲間たち」、そして最終日の17日に聴いた「ユン・イサンの音楽──100年目の誕生日に寄せて」は、忘れがたい演奏会となりました。まず、細川俊夫さんの作曲の師であった尹伊桑の百回目の誕生日に行なわれた「ユン・イサンの音楽」では、深い吐息とともに発せられた一つの音が、自己自身を拡げながら渦巻くように力強く発展していくこの作曲家の音楽の凝縮された姿を、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラの独奏のうちに聴くことができました。一つの音に潜在する響きを聴き出しながら、書の線として展開する細川さんの音楽の源泉の一つがここにあることがあらためて実感されました。

なかでも、尹が十二音技法を用いながら、この西洋音楽の論理の展開に、朝鮮半島の伝統的な音楽や朗唱の要素によって息を吹き込んだ1963年成立の二つの作品、フルートとピアノのための《ガラク(歌楽)》、ヴァイオリンとピアノのための《ガーザ(歌詞)》の音楽の凝縮度の高さには目を瞠りました。演奏会の冒頭で細川さんが、日本の植民地主義によって言語を奪われた経験を持つ尹は、自身の音楽のうちに自分自身の言葉を求めていたと語られたのを感銘深く聴きましたが、これらの二つの作品で尹は、やがて彼自身にも及ぶことになる軍事政権の圧政のなかで、魂が息づく余地を、作曲の方法を突き詰めながら切り開こうとしているように聴こえます。そして、そのような作曲の基本的な姿勢は、今あらためて顧みられる必要があるのではないでしょうか。とりわけ、張りつめた静けさのなかを一段一段上って、言わば舞台の上で音の舞いを羽ばたかせた後、静かな祈りへ還っていく過程を示す《ガラク》の音楽を、温かさと強さを兼ね備えた音で歌い抜いた上野由恵さんのフルートには心を動かされました。上野さんは、無伴奏フルートのための《エチュード》からの三曲でも見事な演奏を聴かせてくれました。

尹の《ガーザ》で、静かな息遣いが徐々に熱を帯びて、忘我の朗詠にまで高揚していく過程を、美しい音で、かつひたひたと迫り来るような緊張感を持って表現したイリヤ・グリンゴルツさんのヴァイオリンには、今回の音楽祭で最も驚嘆させられました。14日の「マエストロの調べ」で彼は、伊藤恵さんの豊かな歌を持ったピアノのサポートを得ながら、シューベルトのイ短調のソナチネとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「クロイツェル」の完璧と言って過言ではない演奏を披露してくれましたが、連綿と連なっていくかのような旋律線のなかに起こるドラマを、恐ろしいまでの凝縮度を具えた音楽に造形したシューベルトのソナチネの演奏は、とくに感動的でした。ベートーヴェンの「クロイツェル」ソナタでは、それぞれのフレーズの特質を繊細な感覚で生かしながら、音楽の自然な流れを造形する演奏に感銘を受けました。この曲の両端楽章の躍動も実に魅力的でしたが、その途方もない振幅のなかで澄んだ響きが保たれているのにも驚かされます。13日の夜には、グリンゴルツさんは、見事としか言いようのないパガニーニのカプリースの演奏も披露してくれました。

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珠寳さんによる、水辺から野への歩みと夏から秋への季節の変化を、儚さを感じさせるかたちに表現した引接寺での作品。

15日から16日にかけては、「細川俊夫と仲間たち」の演奏会と「新しい地平」シリーズで、同時代の数多くの作品を聴くことができましたが、とくに「細川俊夫と仲間たち」では、今まで実演に接することのできなかった細川さんの作品を聴くことができて嬉しかったです。なかでも、メシアンの《世の終わりのための四重奏曲》と同じ楽器編成で書かれた《時の花》では、弦楽器とクラリネットが織りなす柔らかな響きの層のなかにピアノの音が静かに打ち込まれることによって、時の動きが始まり、その動きが、分割不可能な時のなかで過去と現在が絶えず浸透し合うのを象徴しながら、渦巻くように高まっていく一連の動きが実に美しく響きました。また、フルートと弦楽三重奏のために書かれた《綾》における、フルートとヴィオラの深い息遣いをもった歌の掛け合いが、やがてどこか取り憑かれたかのように激しい動きへと高揚していく音楽の推移も、聴き手の心を渦のなかへ巻き込んでいくような強さを示していたと思います。これらの二曲を含む細川さんの作品は、毎年武生国際音楽祭で活躍している音楽家が構成する「タケフ・アンサンブル」によって、今年の10月にヴェネツィア・ビエンナーレでも披露されることになっています。

同じ「細川俊夫と仲間たち」で聴いたイザベル・ムンドリーさんの作品も印象深いものでした。とりわけ器楽アンサンブルのための《リエゾン》において、緊張感に満ちた持続のなかから、とても繊細で、しかも緻密に構成された響きが閃くのが印象的でした。《織る夜》においては、分割された声の構成的でかつニュアンスに富んだ扱いが、詩の壊れやすい世界を生かしていたと思います。この作品では、太田真紀さんの声が、こうした作品の特徴を見事に生かしていました。二日にわたって聴いた「新しい地平」シリーズのなかでは、陰翳に富んだ響きのなかから対がニュアンスを変えつつ生じてくる三浦則子さんの二台のピアノのための《二つの眼》や、笛と鼓を介した密やかな遣り取りが、声を通わせる対話に発展して、また遠ざかっていく金子仁美さんの《歌をうたい…I》などを面白く聴きました。これらの他に、ドイナ・ロタルさんのフルート独奏のための《JYOTIS》を、素晴らしい曲と感じました。東方教会とルーマニアの民俗音楽から得られた魅力的な歌の線に息が吹き込まれ、音楽の強度が増していくのが、マリオ・カローリさんの素晴らしい演奏によって聴衆に届けられました。彼は、尹の《ソリ》でも見事な演奏を聴かせてくれました。

こうした息遣いと深く結びついた音楽の力は、ヨーロッパの音楽の核心にあるものでもあるはずです。それがとても魅力的に発揮されたのが、16日夜の演奏会「珠玉の室内楽と魅惑の歌声」でした。なかでも、毛利文香さんと津田裕也さんが奏でたシューベルトの幻想曲の豊かな歌と感興に満ちた演奏は、敢えて「幻想曲」と銘打たれた作曲家晩年の作品の魅力を見事に伝えていたと思います。コーダの直前の歌の広がりと、そこからの追い込みには心を奪われました。こうして若い演奏家が自身の音楽を深化させている姿に接することができるのも、この音楽祭の魅力の一つでしょう。最終日の「ファイナル・コンサート」でのシューマンのピアノ五重奏曲の闊達な演奏や、先の「マエストロの調べ」におけるシューベルトの弦楽五重奏曲の躍動感と歌に満ちた演奏も、若い音楽家たちの成長を実感させるものでした。

16日夜の演奏会の最後に演奏された、イルゼ・エーレンスさんの独唱によるマーラーのリュッケルトの詩による五つの歌曲にも感嘆させられました。第4曲「私はこの世の人ではなくなった」と第5曲「真夜中に」における高揚には神々しいまでの輝きがありました。彼女は、来年2月に細川さんのオペラ《松風》の新国立劇場での日本初演で、タイトル・ロールを歌うことになっています。彼女は、「ファイナル・コンサート」でのブルックナーの《テ・デウム》でも独唱を務めましたが、自身のパートで見事な歌唱を聴かせるのみならず、合唱のパートもほぼすべて歌って、武生の人々の歌唱を支えていました。こうした姿勢に表われるエーレンスさんの人間としての温かさも、実に魅力的でした。彼女のサポートと相俟って、《テ・デウム》は力強く響いたと思います。台風が近づいていたので、最終日の演奏会への影響が心配されましたが、「ファイナル・コンサート」まで無事に盛況のうちに開催されたのは、実に喜ばしいことです。

作曲ワークショップでは、文学研究者にして音楽学者でもあるラインハルト・マイヤー゠カルクスさんと作曲家のイザベル・ムンドリーさんのレクチャーから多くを学ぶことができました。《アヴァンチュール》に代表されるリゲティの声の扱いとその背景にある前世紀の芸術運動について、細川さんの声の扱いの方法とその深化について、さらにムンドリーさんが音楽が生じてくる動きそのものに着目しながら作曲する方法や、その前提となる思想について興味深いお話をうかがいました。今回は、私もワークショップにて、「嘆きの変容──〈うた〉の美学のために」というテーマでお話ししました。困難な世界のなか、他者とのあいだで、そして死者とともに生きることを悲しみとともにわが身に引き受ける嘆きを掘り下げ、その嘆きを響かせるという観点から、〈うたう〉ことを、さらに言えば〈うた〉の出来事を、文学と音楽を往還するかたちで考察する内容のものです。慣れないことでいくつか反省点もありましたが、若い作曲家の方々にとっていくつか刺激になるものが話には含まれていたようで、後でいくつも質問をいただきました。その準備の過程では、学ぶことがとても多かったです。

このように、作曲家と演奏家にとって確かな手応えのあった、そして私にとっても刺激に満ちた今回の武生国際音楽祭に参加させていただいたことに、重ねて心から感謝申し上げます。また次回も、この音楽祭のために武生を訪れるのを、とても楽しみにしております。そして、この音楽祭が、武生の街における日常的な芸術の営み──それは、この街の至るところにある寺院やギャラリー、さらにはカフェのような場所で、美術作品の展示のみならず、詩的な作品の朗読やレクチャー、小さなパフォーマンスなどをつうじて行なわれうることでしょう──をつうじて、より深く人々のあいだに根づくことを願っております。音楽祭が開催された越前市文化センターの周りには、立派な図書館や子どもが遊ぶスペースが整えられていて、さまざまな背景を持った子どもたちの声が夕暮れ時まで響いていました。その声のなかに、武生の街の新たな文化の胎動があるのかもしれません。

ジョナサン・ノットのシューベルトのことなど

「ザ・グレート」の名で知られるシューベルトの最後のハ長調の交響曲(第8番D944)には、これまで誰も、ベートーヴェンさえも達することのできなかった、深く大きな世界を器楽だけで響かせようとする意欲が漲る一方で、次から次へと歌が湧き出てくる空間が、小気味よさを失うことのないリズムの躍動によって開かれるところがある。これらをいかに両立させるかが、この「大ハ長調」交響曲の解釈の鍵となると考えられるが、東京交響楽団の第621回定期演奏会[2014年6月14日/サントリーホール]でのジョナサン・ノット指揮する東京交響楽団による演奏は、その要求にきわめて洗練されたかたちで応えた演奏だった。

冒頭のホルンによるアンダンテの序奏は、ダイナミクスに過度に神経質になることなく、自然なフレージングで奏でられたが、その響きからは奥行きが感じられる。アレグロの主題の提示においては、付点のリズムによる主題の末尾がディミニュエンドするなかから、三連符のリズムが沸き立ってくるのが印象的であったが、それによって長いスパンを持った歌が感じられる点、実にシューベルトに相応しい。

第一楽章の提示部の終わりには、三度にわたって風が吹き寄せるように、フォルティティッシモの頂点に至る響きが打ち寄せてきた。軽やかなリズムの対の戯れから、高さを感じさせる壮大な響きが生まれてくる展開部の構築も見事。コーダは、けっして居丈高になることなく、しかし高揚感に満ちたかたちで序奏のモティーフを回帰させ、ここに一つの大きなアーチが築かれていることを感じさせてくれた。

第二楽章は、静かな歩みを感じさせるテンポのなかから、連綿と歌い継がれていく旋律が美しい。なかでも、ヴィブラートを抑えた響きによる第二主題は、これまで聴いたどの実演よりも清冽であった。木管が哀愁に満ちた歌を響かせたのに続いて、フォルティッシモで決然と歩みを進めようとする際に、ピリオド楽器の奏法を取り入れた鋭い響きが、新鮮なアクセントとなっていたのも印象に残る。凝縮度の高いクライマックスの後の密やかなチェロの歌は、感動的ですらあった。

第三楽章においては、軽やかさと有機性を失わないスケルツォのリズムの躍動が素晴らしかったが、とくにその主題の上昇音型が上り詰めたところで一瞬の間を取るのは、シューベルトがベートーヴェンたちと共有していたドイツ語圏の音楽の語法を示す表現として重要と思われるし、それによってリズムに息が吹き込まれているように感じられる。シューベルトがピアノのための作品で先鞭をつけた、そして後に豊かに展開していくワルツを予感させる旋律も、簡素さを感じさせながら小気味よく踊る。

フィナーレでは、ノットがテンポとフレージングを絶妙にコントロールしながら、リズムの躍動と旋律美を見事に両立させていた。この楽章においては、第一楽章同様に付点のリズムと三連符が目まぐるしく交錯するなかに、いかに間と静けさを確保するかが重要と考えられるが、ノットと東京交響楽団は、その要求に見事に応えて、とくに第二主題においては、密やかな歌の転調の妙を見事に響かせていた。シューベルトに相応しく、微笑みが歌われるなかに悲しみが染み込む瞬間がを聴くことができた。沸き立つリズムとともに、高揚感に漲った、しかし歯切れよさを失うことのないコーダのクライマックスの後、最後の音は、最も熱くて強い音がふっと消え去るように奏でられた。

シューベルトという作曲家は、歌が息遣いのなかで、儚く消え去る音によって織りなされることを、誰よりもよく心得ていた。おそらくそのことが、彼がしばしば楽譜に書き込んだ、他の作曲家よりも横に長いアクセントの記号に表われているのかもしれないが、ノットと東京交響楽団による「大ハ長調」交響曲の演奏は、こうしたシューベルトの特徴を、現代的な感覚と緻密な解釈で生かしたものと言える。とりわけノットによるこの曲の解釈は、これまで実演で聴いたなかで最も説得的であった。

この定期演奏会では、シューベルトの交響曲の他に、ブーレーズの《ノタシオン》の管弦楽版からの四曲とベルリオーズの歌曲集《夏の夜》が演奏された。ブーレーズの演奏は、当初少しもたつきが感じられたものの、徐々に響きが充実して、一つの流れが楽器間で受け渡されていくのが、また厳密に構成された蠢きが感じられる演奏となった。現代音楽の構成を響かせるノットの手腕を感じさせる演奏で、それがシューベルトなどの解釈にも生きているのだろう。

《夏の夜》において独唱を担当したメゾソプラノのサーシャ・クックの歌は、吹き抜けるような軽やかを求めたいところもあったが、別離の悲しみや死者への哀悼を歌う曲においては、テオフィル・ゴーティエの詩の深みを感じさせる豊かな歌を聴かせてくれた。全体として、この春に東京交響楽団の音楽監督に就任したジョナサン・ノットとこのオーケストラの相性のよさを感じさせ、両者の今後の活動を期待させる内容の演奏会であった。

[追記:6月に聴いた演奏会について]

この6月は、出張などで東京や札幌へ出かけることが多かったおかげで、上記の東京交響楽団の定期演奏会をはじめ、三つのオーケストラの演奏会を週末ごとに聴くことができました。6月22日には、すみだトリフォニーホールで、新日本フィルハーモニー交響楽団の第526回定期演奏会を聴きました。イザベル・ファウストとダニエル・ハーディングによるブラームスのマチネでしたが、この演奏会では何と言っても、ファウストのヴァイオリンが素晴らしかったです。今までに実演で聴いたなかで最高のブラームスの協奏曲であることは、間違いありません。

引き締まったテンポのなかで、ひたすらブラームスの音楽の核心に迫ろうとするアプローチと、それがもたらす演奏の完成度に、深い感銘を受けました。基本的に、音楽そのものに語らせる演奏でしたが、それによって生まれる音楽の内容の充実には、目を見張るものがあります。研ぎ澄まされた音で、恐ろしいまでに寂しさを掘り下げる第一楽章の一節など、鳥肌が立つほどでした。かといってけっして響きが冷たくなってしまうことはなく、第二楽章では、オーケストラの柔らかな響き──とりわけ木管のハーモニーが素晴らしかったです──に乗って、豊かな歌を聴かせてくれました。フィナーレでは様式感と愉悦感を兼ね備えた主題の提示から、次々に湧き立つような音楽の躍動に心を奪われました。管弦楽の伴奏の付いたブゾーニによるカデンツァが聴けたのも収穫でした。アンコールとして演奏されたバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番のラルゴでは、彼女のヴァイオリンの洗練された温かさが、最良のかたちで表われていたのではないでしょうか。

後半に演奏された交響曲第4番ホ短調では、オーケストラの豊かで、そこはかとなく寂寥感を漂わせる響きが感銘深かったです。全体的に、オーケストラの自発的で歌心に満ちた音楽作りが、ハーディングのボウイングを含めたさまざまな試み──第一楽章の第二主題の頂点で下げ弓を繰り返すボウイングで聴いたのは、アーノンクール以来でしょうか──より一歩先に行っていた印象を受けます。第二楽章の弦楽器の柔らかな響きは感動的でした。後半の二つの楽章において、音楽が熱気を増していくとともに響きが充実していくのも、この曲に相応しく、聴き応えがありました。

6月28日の午後には、札幌コンサートホールKitaraで、札幌交響楽団の第570回定期演奏会を聴きました。音楽監督としての最後のシーズンを迎えた尾高忠明の指揮で、ヴェルディのレクイエムが演奏されました。この演奏会では、札幌交響楽団の高い技術に裏打ちされた献身的な演奏もさることながら、礼響合唱団をはじめとする四つの合唱団によって構成された合唱団の素晴らしさに心を奪われました。充実したバスの響きに支えられながら、豊かな声と緻密なアンサンブルで、ヴェルディが作家マンゾーニを追悼するために書いた音楽を、見事に歌い上げていました。各声部のバランスのよさも特筆されるべきで、それがこの曲の随所に見られるフーガで生きていました。

曲の冒頭の、立ち止まりつつ沈潜していくような低弦のモティーフに続いて、悲しみと、死者の魂の安息への祈りに満ちた柔らかな響きが浮かび上がるあたりから、札幌交響楽団のアンサンブルの充実が感じられ、演奏に引き込まれました。「怒りの日」の音楽には、今一歩の荒々しさと推進力を求めたい気もしましたが、ここでの抑制は、この音楽が回帰する最後の「われを解き放ちたまえ(リベラ・メ)」に曲の頂点を築こうとする尾高の設計の表われであることが、後に判ります。表面的な効果に流れることなく、死者のための祈りの内実に迫ることは、この作品において第一に求められるべきことでしょう。「われを解き放ちたまえ」の曲で音楽がじわじわと高まり、充実したクライマックスが築かれるあたりは、実に感動的でした。四人の独唱者(安藤赴美子、加納悦子、吉田浩之、福島明也)の出来も、ほぼ申し分のないもので、とくに四者のアンサンブルには聴き応えがありました。指揮者、オーケストラ、合唱団、独唱が一体となって、ヴェルディが書いたレクイエムの内実を掘り下げ、豊かに響かせた演奏でした。

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緑豊かななかに日が差し込む6月の札幌の風景