ジョルジョ・アガンベン『開かれ──人間と動物』

本書『開かれ』においてアガンベンは、あらゆる政治体制のうちに内在化されるかたちで晩年のフーコーが言う「生政治」が全世界を覆いつつある状況の内部に、その「生政治」が機能不全に陥る可能性を探っていると考えられる。つまり、絶えず「人間」と「非人間」を分割し、「人間」であるか、それともたんなる「動物」であるかを決定し、そうして──アガンベンに言わせれば「開かれざるもの」を「開く」ことによって──暴露された「剝き出しの生」を管理し、一定のかたちで生き残らせる、言わば「収容所」を含み込んだ「生権力」の支配が常態化している状況のただなかに、「例外状態」が、その力が及びえない場所が、一つひとつの生そのもののうちに開かれる可能性を探ろうとしているのではないか。そしてその場所の名こそ、「開かれ」にほかならないだろう。

この「開かれ」についての考察が、ここでのアガンベンの中心的な課題であることは言うまでもないが、このハイデガーが「人間」のうちに見て取り、「動物」に認めなかった世界への「開かれ」の真相が示されるのは、アガンベンによれば、ハイデガーが「形而上学の根本諸概念」についての講義において長大な考察を充てている「倦怠」、それも「深き倦怠」においてである。なすべきことをもたず、気晴らしだけを求める「倦怠」のなかで、人間は存在者の「閉ざされに開かれている」。そのことを指摘するハイデガーは図らずも、彼にしてみれば人間に固有の「開かれ」が、「開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない」のに触れているのである。「開かれや存在の自由は、暴露されざるものそのものの顕現であり、開かれを見ないヒバリの宙づりにして生け捕りなのである。動物の放心とは、人間界とその開かれの中心に象嵌された宝石にほかならない。「存在者が存在する」という驚異とは、露顕せざるもののうちに曝されることによって生物のうちに生起する「本質的な震撼」をつかまえることにほかならないのだ。実際、開かれは、この意味で、不合理な説明なのである。つまり、開かれにおいて賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである」。

そのように、世界への「開かれ」が実は、存在者の「閉ざされ」に曝されることであり、「人間」と「非人間」の区別が宙づりにされる場面を指し示していることに触れながらも、アガンベンによれば、ハイデガーは「人間」と「動物」の関係の不可能な決定のうちに「民族」の歴史的命運を見るとともに、その命運が芸術作品のうちに示されると語っている。これに対してベンヤミンは、芸術作品のうちに、「おのれ自身へと送り返された」、「いかなる昼も待望することのない」自然の「救出された夜」の表現を見ている。それはハイデガーの言う「露顕せざるもの」を、そのようなものとして救い出す可能性を示しているのだ。さらに、ハイデガーが指摘するように「芸術」と同じ起源をもつ「技術」は、ベンヤミンによると、「人間」が「自然を支配する」ためのものではなく、「自然と人類のあいだの関係を支配する」ものでありうる。アガンベンは、その「関係」のうちに、「人間」と「非人間」を区別する決定を「静止状態」において宙吊りにする「星座」を見て取っている。そして、その「星座」をなす「隙間=戯れ」を、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」において語っている「自然と人間の協働=共同遊戯」と重ねあわせたい、という誘惑に駆られるのは私だけだろうか。

アガンベンが『開かれ』の冒頭で取り上げる13世紀のヘブライ語聖書の写本に描かれる動物の頭部をもつ義人たちの形象、それは「人間と動物のいずれをも存在外へと存在せしめ、本来的に救うことのできない存在のうちで救済を果たす「大いなる無知」の形象」であるという。その「大いなる無知」が、「生政治」に覆われたこの世界のなかで、具体的にどのようなかたちで実現されうるのか、あるいはそれによってどのような「星座」が形成されうるのか、さらにはそれによって、どのように「生権力」が停止され、「救われざる残余」が救済されうるのか。この点は、アガンベンは明らかにしていない。これを衝いて彼を「修辞的」と批判することもできようが、「大いなる無知」の可能性を考えることに読み手を誘うだけでも、彼の『開かれ』は重要な一冊あると言うべきであろう。

[ジョルジョ・アガンベン『開かれ──人間と動物』岡田温司+多賀健太郎訳、平凡社、2004年/2005年8月31日執筆]

Chronicle 2014

ダニ・カラヴァン《初めに》(霧島アートの森)内部より

ダニ・カラヴァン《ベレシート(初めに)》(霧島アートの森野外展示)内部より

年の瀬にようやく寒さが落ち着いた感がありますが、今年の冬の寒さは例年になく厳しさで、12月中旬には広島でもかなりの雪が降り積もりました。すでに別稿で述べたとおり、それは息苦しい冬の時代の到来を告げるかのようでもあります。東日本大震災と福島の原子力発電所の重大事故を経て、日本列島の人々の暮らしは少しは身の丈に合ったものに変わるかと思いきや、二度の総選挙を経てこの国に残ったのは、救いがたくフラットで、目障りなほどに華やかさを装う「ニッポン」という虚像。この自己慰撫と他者への憎悪によってのみかろうじて維持しうる華やかさを増殖させるために、今や放射能の深刻な脅威が、日本列島の全域に実際に迫りつつあります。そして、そのキッチュなきらびやかさと表裏一体の排他的な歴史修正主義は、暴力の歴史の犠牲になった人々の尊厳を奪いながら、日本列島に生きる人々の世界的な信用を損ねています。

人々の生を資本に売り渡して圧殺する「ニッポン」という神話の暴力に抗して、まずアジアの島々の連なりのうちに息をつく余地を探ることが、どうやら来たる年の課題になりそうです。そのために、これまでにも増して地に足を着けて哲学することが求められるように思われてなりません。そこで来年はまず、被爆70周年を迎える広島の記憶を、その複数性と世界性において再考し、その痕跡と証言を今ここで見届け、聴き届ける可能性を考えてみたいと思います。今年夏に起きたイスラエル軍によるガザ地区の人々の虐殺も連なる暴力の歴史を見通し、それを食い止める可能性へ向けて、ヒロシマの記憶は継承されるべきではないでしょうか。そして、その理論をもう一つの歴史、「国民」の名の下の暴力の歴史の残余から描き出される歴史の概念に結びつけていくのが、次なる課題となることでしょう。

そのためにも、先頃批判版のテクストが刊行されたヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」を読み直すことが急務と思われます。その足がかりとして、今年の夏、奇しくもベンヤミンの誕生日に当たる7月15日に、学位論文を基にした著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』を平凡社から上梓することができました。そのためにご尽力くださった編集者の関正則さんと安井梨恵子さんに、あらためて心から感謝申し上げます。幸い拙著は、各方面で温かく迎えられているようで、すでに二つの書評が公にされ、一千人近い読者を得ています。また10月11日には、西南学院大学で拙著の合評会も催していただきました。その実現にご尽力くださった田村元彦さんと行友太郎さんに感謝申し上げます。

この合評会の場でも拙著に素晴らしいコメントをくださった森田團さんには、『週間読書人』紙の12月5日号に、「研究の大きな道標に──言語と歴史をめぐる思考の内的な連関を解釈する可能性を指し示す」と題する濃密な内容の書評をご寄稿いただきました。拙著の意義とアクチュアリティを緻密に読み解いたうえで、ベンヤミンの問いを受け継ごうとするモティーフまで汲んでくださっています。また、インパクト出版会の『インパクション』第197号には、細見和之さんによる拙著の書評「『歴史の天使』は破局に満ちたこの現在にあくまでとどまろうとする」が掲載されています。拙著のベンヤミン受容史における位置、彼の言語哲学と歴史哲学を接続させる議論の意義と射程などを明らかにするとともに、今後課題とすべき点もしっかり指摘した、非常に充実した内容の書評と受け止めております。これらを励みに、上に記したような課題に取り組むべく、研究に精進したいと思います。

今年も、講義と大学の公務と家事の合間を縫って研究と執筆を続ける日々が続いたわけですが、そのなかで、11月にバイエルン国立歌劇場で観たベルント・アロイス・ツィンマーマンの《軍人たち》をはじめ、素晴らしい音楽や舞台に触れられたのは大きな喜びでした。また、細川俊夫さんのモノドラマ《大鴉》の広島初演へ向けた日本語字幕制作や、武生国際音楽祭などでのレクチャーや演奏会をつうじて、音楽と言葉の関係について、実際に作品に触れながら考える機会を持てたことも刺激的でした。そして、私も「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌」という報告をさせていただいた12月下旬の原爆文学研究会は、あらためて詩を生きることの可能性を実感する貴重な機会となりました。詩を生きることの分有のためにも、言葉そのものをさらに掘り下げなければと思います。

以下に記すように今年一年の公的な活動を振り返ると、たしかに今年の前半はさまざまな仕事が積み重なって、相当に忙しかったことが分かります。そのためもあって、7月初旬に橈骨神経麻痺を発症し、2か月強にわたり利き手の右手が不自由な生活を余儀なくされました。おかげさまで今はほぼ何の問題もなく右手を使って仕事ができていますが、長いリハビリの日々は、生活観をかなり変えることになりました。以前は一顧だにしなかった筋力の強化のため、週二回ほどジムに通って、ウェイト・トレーニングとスイミングに取り組んでいます。その成果もあって基礎体力はいくぶん向上しました。引き続き体力の強化に努めながら、地道に仕事に取り組んでいきたいと思います。来たる年もよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。2015年がみなさまにとって少しでも平和で幸せに満ちた年になることを祈念しております。

■Chronicle 2014

  • 1月31日:細川俊夫さんの《星のない夜──四季へのレクイエム》の広島初演が行なわれた広島交響楽団第335回定期演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。この大規模な声楽作品《星のない夜》が、ゲオルク・トラークルの詩をつうじて、四季の循環とそのなかの生々流転を描きながら、広島への原子爆弾の投下とともに、ドレスデンへの空襲を想起する作品であることに触れたうえで、その構想の重要な契機となったのが、パウル・クレーの《新しい天使》とその絵に寄せられたテクストであることにも論及しています。《星のない夜》という作品全体の特徴を紹介し、この作品を、過去を想起するよう促す裂け目を含んだ新しい暦と特徴づけました。併せて、モーツァルトのフリーメイソンのための葬送音楽とヨーゼフ・マルティン・クラウスの交響曲嬰ハ短調の特徴も紹介しています。
  • 2月7日:同日付中国新聞29面に、「佐村河内守作曲」とされてきた作品の作曲者偽装問題について、「作品批評の在り方検証を」という論考を寄稿しました。「交響曲第1番HIROSHIMA」をはじめとする楽曲が別人の作曲によるものであったことが判明したことを受けて、その音楽自体を批評にもとづいて紹介するのではなく、耳が聞こえないなかで作曲する「現代のベートーヴェン」の神話だけを独り歩きさせてきた音楽業界とマス・メディアのあり方を批判し、そのイメージ戦略に乗って美談の消費に流れ、広島では「市民賞」を授与するにまで至った音楽文化のあり方に警鐘を鳴らす内容のものです。
  • 3月7日:学位請求論文「ベンヤミンの言語哲学──翻訳と想起」により、上智大学より博士(哲学)の学位を授与されました。この論文は、7月に刊行される著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社)の基になった論文です。本にするにあたり、終章を中心にかなり改稿しました。論文要約が上智大学学術情報リポジトリに掲載されています。
  • 3月20日:広島大学総合科学研究科人間存在研究領域人間文化研究会編『人間文化研究』第6号に、「谺の詩学試論──ベンヤミンにおける『谺』の形象を手がかりに」が掲載されました。2013年7月23日に、ポーランドのクラクフで開催された第19回国際美学会 (19th International Congress of Aesthetics) において英語で発表した原稿 (Toward the Poetics of Echo: From Revisiting the Image of “Echo” in Walter Benjamin’s Writings) のもとになった日本語の草稿を改稿したものです。ヴァルター・ベンヤミンの著作、とくに「翻訳者の課題」と「歴史の概念について」に見られる「谺(こだま:Echo)」の形象を批判的に検討するとともに、それが示唆する美的経験を、パウル・ツェランや原民喜の詩的作品のうちに見届けながら、「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマ」以後の詩的表現の可能性とともに、いわゆる「表象の限界」を超える歴史的想像力の可能性を探っています。
  • 4月1日:丸川哲史さんの著書『魯迅出門』(インスクリプト、2014年)の書評「転形期における魯迅の『文』の探究を世界的な文脈へ解放する」が、『情況』3・4月合併号に掲載されました。魯迅の文学を、従来の魯迅研究などから解放しつつ新たに読み解き、そこに世界史を自主的に構成する道の模索を見て取ろうとする本書の特色を、魯迅の「文」の探究を中心に論じています。この「文」の探究を、中国を越えて同時代の文学における「文」の試みと接続させることによって、魯迅を読み直す新たな、世界的な文脈を開いている点に光を当てるとともに、それによって魯迅とヴァルター・ベンヤミンの同時代性が浮き彫りになっている点に注目しました。
  • 4月〜7月:広島市立大学国際学部の専門科目として、「共生の哲学I」、「社会文化思想史I」、「多文化共生入門」の講義、「発展演習I」、「卒論演習I」、オムニバス講義の「国際研究入門」を担当しました。「国際研究入門」ではコーディネーターも務めました。大学院国際学研究科の「現代思想I」では、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(月曜社)を講読しました。全学共通科目として、「世界の文学」の2回の講義と「平和と人権A」の1回の講義を担当しました。広島大学では教養科目の「哲学A」の講義と「戦争と平和に関する総合的考察」の2回の講義を、日本赤十字広島看護大学では「人間の存在」の講義を担当しました。
  • 6月7日:広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン」事業の出張講座として、広島市映像文化ライブラリーにて「迷宮としての映画──ヴォイチェフ・イェジー・ハス監督『サラゴサの写本』」と題する短い講演を行ないました。ポーランド貴族ヤン・ポトツキが1804年から1805年にかけてロシアのサンクトペテルブルグで秘密出版した幻想的な小説『サラゴサ手稿』を原作とするハス監督のこの1965年の作品の映像美は、ルイス・ブニュエルをはじめとする世界中の映画監督を魅了してきましたが、そこではナポレオン戦争時代のスペインのサラゴサで一人の将校が偶然手に取った一冊の古い写本のなかで回想が別の回想を呼び、物語がいつ果てるともなく連なっていき、さながら映画そのものが迷宮と化すかのようです。今回の講演では、ハス監督の傑作をポトツキの小説とともに紹介しながら、この迷宮としての映画の魅力に迫りました。
  • 7月1日:広島芸術学会の『広島芸術学会会報』第128号に、「『そっくり』の深淵へ──このしたPosition!!リーディング公演『人間そっくり』を観て」という劇評が掲載されました。5月2日に広島市の東区民文化センターのスタジオ2で行なわれた「人間そっくり」の公演の批評で、京都の演劇ユニットこのしたやみと三重県の劇団Hi!Position!!による、安部公房の小説『人間そっくり』を構成したテクストのリーディングによる公演を、リーディングと巧みな演出によって安部公房の作品の論理的な仕掛けを生かしたスリリングな舞台と紹介しています。
  • 7月12日:『図書新聞』第3166号に、「大衆文化の夢から目覚め、歴史の主体になれ──歴史への覚醒の場をなす形象の座標系」と題するーザン・バック=モースの『ベンヤミンとパサージュ論──見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014年)の書評が掲載されました。ベンヤミンの『パサージュ論』の古典的研究を読み解き、そこにあるベンヤミンの「弁証法的形象」を媒体とする「根源史」の試みの救出に光を当てることで、歴史修正主義とも結びついた今日の大衆文化からの歴史への覚醒を今に語りかける一書として、日本の読者に紹介するものです。
  • 7月15日:著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』を平凡社より上梓しました。先に上智大学に提出された博士論文を改稿したものです。言語の本質を探究するベンヤミンの哲学的思考を、彼が生涯の節目ごとに著作のうちに描き出した天使の像に結晶するものと捉えつつ、そのような思考を、初期の言語論「言語一般および人間の言語について」から、遺稿となった最晩年の「歴史の概念について」に至るまで貫かれる思考として読み解き、ベンヤミンの思考を独特の言語哲学として描き出そうと試みるものです。本書は、言葉を発すること自体を「翻訳」と考えるベンヤミンの着想に注目しつつ、それが深化される過程を辿ることによって、言語そのものが、共約不可能な他者と呼応し合う回路を切り開く力を発揮しうることを示しています。さらに、過去の出来事を一つひとつ想起する経験のなかから、神話としての「歴史」による抑圧を乗り越えて新たに歴史を語る可能性をも、言語そのものから引き出そうとしています。もう少し詳細な内容と目次については、別稿をご参照ください。
  • 9月27日:9月27日と28日にアステールプラザ大ホールにて開催された、ひろしまオペラルネッサンスのビゼー作曲『カルメン』の公演のプログラムに、「掟を知らない自由を歌うオペラ、その掟破りの新しさ──ビゼーの『カルメン』に寄せて」と題するプログラム・ノートを寄稿しました。『カルメン』というのオペラの時代に先駆けた、かつ当時のオペラの慣習を破る新しさを紹介し、まさにそうした掟破りの新しさによって、けっして掟に縛られることのない、かつ身体的に生きられる自由が表現されていることを、時代背景などに目配りしつつ描き出すものです。
  • 10月〜2015年2月:広島市立大学国際学部の専門科目として、「共生の哲学II」、「社会文化思想史II」の講義、「発展演習II」、「卒論演習II」を担当しています。大学院国際学研究科の「現代思想II」では、カントの『判断力批判』の美と崇高の分析論を講読しています。全学共通科目として「哲学B」を担当しています。広島大学の教養科目「哲学B」の講義と、広島都市学園大学の「哲学」の講義も担当しています。
  • 11月16日:広島平和文化センターの主催による「国際交流・協力の日」の催しとして行なわれた広島市立大学国際学部の公開講座「大衆文化を通じた国際交流──世界各国における日本の大衆文化・日本における世界の大衆文化」の司会を務めました。
  • 12月21日:九州大学西新プラザで開催された第46回原爆文学研究会「戦後70年」連続ワークショップIV「カタストロフィと〈詩〉」 のパネリストとして、「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌──パウル・ツェランと原民喜を中心に」と題する研究報告を行ないました。テオドーア・W・アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」という言葉を、その文脈から跡づけ、そこに含まれる問いを取り出したうえで、それに対する詩の応答の一端を、原民喜とパウル・ツェランの詩作のうちに求め、そこに含まれる詩の変貌ないし変革に、破局の後の詩の可能性を見ようと試みるものです。

小著『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』を上梓しました

『ベンヤミンの言語哲学』書影

帯背コピー:天使の像に結晶した思想の軌跡を追う

このたび『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』と題する小著を、平凡社から上梓しました。初版第1刷発行日の日付は2014年7月15日、ヴァルター・ベンヤミンの122回目の誕生日に当たります。このような日に、ベンヤミンの思想を細々とながら研究してきた成果を世に送り出せることを、大変嬉しく思っております。ここまで導いてくださった方々のお力添えに、心から感謝申し上げます。以下、本書の特徴をごく簡単にご紹介いたします。

ベンヤミンを論じた他の多くの書物と同様に、本書の表紙には、彼が20年にわたって私蔵していたパウル・クレーの《新しい天使》を掲げましたが、このことは、本書の視座を暗示しています。本書は、この絵を手に入れて以来、ベンヤミンが生涯の節目ごとにその著作に描き出した天使の像を、言語の本質へ向かう彼の思考の結晶と捉える視点から、彼の青年期から晩年に至る思考のうちに一貫した言語哲学を見て取ろうとする試みを記したものです。1916年、第一次世界大戦のさなかに書かれた初期の論考「言語一般および人間の言語について」から、死の年の1940年、今度は第二次世界大戦の嵐が押し寄せて来るなかで記された「歴史の概念について」のテーゼに至るまで、ベンヤミンは、これらの戦争を引き起こすに至った時代の趨勢に抗いながら、また言語を覆う神話的な前提を掘り崩しながら、言語そのものを突き詰め、その可能性を追求していたと考えられます。

そのような言語の本質の探究は、何よりも、鋭敏な批評眼と繊細な感性を兼ね備えた著述家にして翻訳家であったベンヤミン自身の言葉が研ぎ澄まされることと軌を一にしていたわけですが、それは同時に、言葉を生きることを深く肯定する道筋を探るものでもありました。彼の思考は、言葉そのものが、死者でもある他者と、あるいは儚い事物と呼応する生命の息遣いとして、翻訳とともに発せられる言語の生成の相を見据えながら、犠牲を美化する神話としての歴史に抗して、想起とともに一つひとつの生を肯定する歴史を語る言葉を見いだそうとしているのです。「翻訳としての言語、想起からの歴史」という本書の副題には、このように、言葉を発すること自体を翻訳することと捉え、過去の出来事が思い起こされるなかから──従来の「歴史」を転換させるような──歴史を語る可能性を追求する、ベンヤミンの思考を浮き彫りにしようという意図が込められています。

天使の像に結晶するベンヤミンの言語哲学を辿る本書は、図らずも、他者の存在そのものを否認する暴力のために、記号としての言葉が撒き散らされ、他者の心身に癒しがたい傷を負わせた出来事の記憶を否認する暴力として、神話としての歴史が喧伝される、危機的な状況のただなかへ送り出されることになりました。本書は、博士学位論文を基にした、ベンヤミンの思想についての研究書ではありますが、そこに織り込まれた、言語自体の歓待性と創造性に触れた議論が、あるいは想起にもとづく新たな歴史を生きることへ向けた議論が、もしわずかなりとも、この深刻な危機のなかに、他者たちのあいだで、他者たちとともに、死を強いられることなく言葉を生き抜く突破口を切り開く契機となるならば、著者としてこれ以上の幸いはありません。

このように本書は、ベンヤミンの言語哲学の研究をつうじて、言語と歴史への一つの視点を提示しようとするものではありますが、申し上げるまでもなく、そこにはベンヤミンの思想の研究という点でも、言語と歴史についての哲学的思考という点でも、不十分なところが数多く残っていることでしょう。ご一読のうえ、そうしたところを、今後の課題とともに忌憚なくご指摘いただければ、これからの研究へ向けて何よりの励みとなります。以下に、本書の目次を掲げておきます。内容を推し量る際の目安としていただければと思います。

『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』目次

はしがき

序章 ベンヤミンの言語哲学の射程

  • プロローグ 天使という思考の像
  • 第一節 今、ベンヤミンとともに言語を問う
  • 第二節 ベンヤミンの言語哲学の射程

第一章 翻訳としての言語へ──「言語一般および人間の言語について」の言語哲学

  • 第一節 ベンヤミンの言語哲学をめぐる思想史的布置
  • 第二節 言語とは媒体である
  • 第三節 言語とは名である
  • 第四節 言語とは翻訳である

第二章 「母語」を越えて翻訳する──「翻訳者の課題」とその布置

  • 第一節 ディアスポラから言語を見つめ直す
  • 第二節 ベンヤミンとローゼンツヴァイクにおける言語の創造としての翻訳
  • 第三節 ディアスポラを生きる翻訳

第三章 破壊による再生──あるいは言語哲学と歴史哲学の結節点

  • 第一節 迂路を辿る言語
  • 第二節 像としてのアレゴリー
  • 第三節 言語哲学と歴史哲学の結節点

終章 歴史を語る言葉を求めて

  • 第一節 認識批判としての歴史哲学
  • 第二節 想起にもとづく歴史の言葉へ
  • 第三節 過去の像としての歴史を語る言葉
  • エピローグ 言語と歴史

参照文献一覧

あとがき

序章には、外観だけはエマニュエル・レヴィナスの『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方に』と同じように、各章の梗概を添えました。本論では、議論の道筋が伝わるよう言葉を尽くしたつもりではありますが、もし議論の出口を見通しがたくお感じになったら、梗概をご参照いただけたらと思います。目次からもうかがえるように、ベンヤミンの言語哲学を、フランツ・ローゼンツヴァイク、ジャック・デリダといった思想家の言語についての思考との布置のなかに浮かび上がらせようとしているのも、本書の特徴の一つと言えるでしょうが、おそらくベンヤミンの言語哲学には、この二人以外に、レヴィナス、ジャック・ランシエール、ジョルジョ・アガンベンといった人々の思想とも呼応し合うところがあるにちがいありません。いずれこうした関係にも論及する機会があればと考えております。ともあれ、まずは本書『ベンヤミンの言語哲学』から、他の生ある者たちに、そして死者たちとともに言葉を生き、さらには歴史を生きる息遣いの場を開こうとする議論を読み取っていただけたらと、心から願っているところです。本書の内容に興味を持っていただき、お手に取っていただけたら幸いです。

[本書は、お近くの比較的大型の書店のほか、Amamzon.co.jp楽天ブックスhonto紀伊國屋BookwebMARUZEN & JUNKUDOエルパカBOOKSセブンネットショッピングなどでご購入いただけます。]

初夏の仕事、能と現代音楽の共鳴

本当に早いもので、そろそろあちこちから梅雨明けの声が聞かれる時季となりました。この時季、急な豪雨が来たり、猛暑に見舞われたりと気候が不安定ですので、みなさまくれぐれも体調などに気をつけてお過ごしください。最近では、初夏に大きな台風が日本列島に上陸するようにもなってきました。先の台風で被害に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げます。

さて、この6月から7月上旬にかけても、非常に慌ただしく過ぎていきました。心も身体も追いつかないくらい、さまざまなことがあった今年の初夏でした。まず、6月7日(土)のことですが、広島市映像文化ライブラリーでのポーランド映画祭2014のなかで、ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の傑作『サラゴサの写本』(1965年)が上映された際に、広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン出張講座」ということで、この作品を紹介するお話をさせていただきました。ナポレオン戦争下のサラゴサで発見された手稿本のなかで、さまざまな物語が無限に組み合わさっていくさまを、実に魅力的に描き出したこの映画のなかでは、今私たちも幻視すべき、異質な者たちが共存する世界が繰り広げられています。また、その世界を小説のうちに現出させた原作者ヤン・ポトツキが示す、歓待性にもとづく精神の自由も、あらためて顧みられるべきではないでしょうか。

それにしても、この『サラゴサの写本』という映画をつうじて、ハスという監督に出会えたのは幸運でした。翌日には、ブルーノ・シュルツの小説にもとづく『砂時計』(1973年)を見ましたが、そこでは、映像のマニエリスムとハシディズム的な幻想が一つになって、驚くべき世界が繰り広げられていて、圧倒されました。今回のポーランド映画祭では、これらのハス監督の作品以外に、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』というアンジェイ・ワイダの初期の傑作を見ました。前者では、明暗の対照のなかに極限的な緊張のうちにある心理が鋭く浮き彫りにされるさまが鮮烈でしたし、後者には、最近の『カティンの森』まで貫かれるワイダのテーマが、凝縮されたかたちで浮かび上がっているように思われました

さて、6月から7月上旬にかけては、二つの評論を公表させていただきました。一つは、5月2日に広島市の東区民文化センターのスタジオ2で行なわれた「人間そっくり」の公演の批評で、こちらは、広島芸術学会の会報128号に掲載していただきました。この公演は、京都の演劇ユニットこのしたやみと三重県の劇団Hi!Position!!による、安部公房の小説『人間そっくり』を構成したテクストのリーディングによるもので、拙稿「『そっくり』の深淵へ──このしたPosition!!リーディング公演『人間そっくり』を観て」では、この公演を、リーディングと巧みな演出によって安部公房の作品の論理的な仕掛けを生かしたスリリングな舞台とご紹介しました。

もう一つは、スーザン・バック=モースの『ベンヤミンとパサージュ論──見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014年)の書評で、こちらは図書新聞の3166号(2014年7月12日付)に掲載していただきました。「大衆文化の夢から目覚め、歴史の主体になれ──歴史への覚醒の場をなす形象の座標系」という表題で、過分にも一面の頭に載せていただいております。バック=モースのこの本は、ベンヤミンの『パサージュ論』の古典的と言ってよい研究ですが、そこにあるベンヤミンの「弁証法的形象」を媒体とする「根源史」の試みの救出に光を当てることで、歴史修正主義とも結びついた今日の大衆文化からの歴史への覚醒を今に語りかける一書として、日本の読者に紹介する内容となりました。おそらく編集者のほうでも、この点に注目してくださったのだろうと思います。ちなみに、四半世紀以上前に刊行された原書は、「見ることの弁証法」という表題が示すとおり、「目の人」としてベンヤミンを特徴づけるのに一役買った書物ですが、現在では彼の思想の音響的なモティーフに注目する研究も増えてきています。今年3月に、広島大学大学院総合科学研究科人間文化講座の論集『人間文化研究』第6号に載せていただいた拙論「谺の詩学試論──ベンヤミンにおける『谺』の形象を手がかりに」も、こうした方向性を示す一つと言えるでしょう。

このように、講演したり評論を執筆したりするあいだにも、大学での講義や演習、そして年々増えるばかりの雑務に追われていたわけですが、大学院の演習では、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(上村忠男+廣石正和訳、月曜社、2001年)を、学生たちと読み直すことができました。ところどころあまりに存在論的と思われる議論も見られますが、アガンベンのこの論考は、証言の可能性を、言語自体の──不可能性と隣り合わせの──可能性から照らし出すとともに、証人であることを主体そのものの「脱主体化」から捉え直させる重要な文献であることは間違いありません。これから、この論考をはじめとするアガンベンの仕事や、ベンヤミンの歴史哲学的なテクストなどの再読をつうじて「残余からの歴史」ということを考え、被爆の記憶を──ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」へ向けて──継承することの世界的な意義にも、わずかなりとも光を当てられたらと思います。それから、ベンヤミンの言語哲学を論じた小著は、まもなくお手に取っていただけます。ご笑覧いただけたら幸いです。こちらについては、稿をあらためてご紹介いたします。

ところで、6月には幸運にも、いくつか非常に充実した内容の演奏会を聴くことができました。それについては、すでに別の記事でお伝えしましたので、ここでは一枚の素敵な、そしてこれからの音楽の可能性を考えるうえで非常に重要なディスクをご紹介しておきたいと思います。6月初旬に、敬愛する能楽師青木涼子さんが、デビュー・アルバム『能×現代音楽』をコジマ録音より出されました(ALCD-98)。これは、青木さんが2010年より“Noh×Contemporary Music”のテーマの下、ヨーロッパの作曲家に能に触発された作品を委嘱し、演奏し続けてきた取り組みの精華であると同時に、青木さんの能謡の魅力が、現代音楽の多彩な書法との共鳴のなかで見事に発揮された一枚であると言えるでしょう。東京オペラシティの今年のコンポージアムで、青木さんの手で日本初演されたペーテル・エトヴェシュの《Harakiri》の演奏も収められています。

このディスクを聴いていて、何よりも素晴らしいと思われるのは、現代の作曲家が、楽器の特殊奏法を含む新たな書法を駆使して、音響の身体性とも言うべき次元を追求しているのが、青木さんの声と共鳴し合っているところです。青木さんの声には、一本の芯とともに、深みと広がりが具わっているのですが、そんな彼女の声は、息遣いとともに周囲の空気に浸透し、またそこから立ち上がってきます。あたかもそれに触発されるかのように、作曲家たちは、響きが生まれる瞬間に注意を差し向けているように聞こえます。また、それによって何かが出現する気配が感じられるのが、この『能×現代音楽』というアルバムの大きな魅力ではないでしょうか。この気配こそ、能をはじめとする舞台芸術の場を開き、満たすとともに、歌う/謡うことを一つの出来事として成り立たせていると考えられます。この出来事のなかで、言葉が意味を帯びて響いてくることでしょう。

青木さんのアルバムのなかで、ことに魅力的に思われたのが、冒頭に収められたフェデリコ・ガルデッラの《風の声》でした。バス・フルートによって奏でられる音楽が、緊密なテクスチュアのなかで楽音と息音を行き来し、響きの襞を感じさせるのが、『井筒』の能謡と見事に調和して、時間的にも奥行きのある世界が開かれています。三島由紀夫の割腹自殺に触発されて書かれたエトヴェシュの《Harakiri》では、自死を遂げるなかで三島の脳裡に去来する想念が、最終的に彼の命を絶つ禍々しい音が断続的に、異様な身体性を伴って響く時間のなかで、聴き手にひたひたと迫るかたちで掘り下げれているように思われました。音楽をその根源に立ち返らせながら、音楽を舞台空間に、あるいはその空間自体を開くかたちで響かせる可能性をじかに感じさせる──マドリッドでヴォルフガング・リームのオペラ《メキシコの征服》にも出演された青木さんの活躍は、それを体現するものと言えるかもしれません──青木さんのアルバム『能×現代音楽』が、能楽を含めたこの時代の音楽の新たな展開を触発するかたちで広く聴かれることを願っております。

青木涼子アルバム表紙1