広島の旧陸軍被服支廠の保存と活用に関するパブリック・コメント

IMG_05831945年8月6日に一発の原子爆弾によって壊滅するまで、広島は帝国の軍都だった。1889年に宇品港が竣工し、そこへ通じる鉄道が1894年に開通して以来、広島は陸軍の拠点都市として発展していた。現在その歴史を伝える建物はわずかである。大きなものとしては、缶詰工場だった旧糧秣廠(現広島市郷土資料館)と旧被服支廠という兵站を担った二つの施設の建物だけが、被爆の傷を晒しながら立ち続けている。

このうち旧陸軍被服支廠の4棟の建物は、広島駅と宇品港のほぼ中間に立ち並んでいる。軍用鉄道の線路の近くに建てられたこの建物では、軍服や軍靴が製造されていた。そのための労働が日夜を問わない苛酷なものだったことを、少年期から被服支廠で働くことを余儀なくされた経験を持つ詩画人、四國五郎が証言している。そこでは朝鮮人も働かされていた。寒冷地の軍服に毛皮を使うために、兎も飼われていた。

このように動物をも巻き込んだ総力戦体制を象徴する被服支廠は、被爆直後には負傷者の収容所としても使われている。そこに重傷を負って運び込まれた人々が、建物の片隅で一人、また一人と死んでいくさまを、戦後に四國と協働することになる詩人、峠三吉が「倉庫の記録」という詩に描いている。したがって、今も被爆の傷を晒す被服支廠倉庫の建物には、原爆の犠牲になった人々の苦悩も染み込んでいる。

IMG_0582このように戦争と被爆の傷を一つながらに伝える旧陸軍被服支廠の現存する4棟の建物のうち、3棟を広島県が管理している。昨年末に県の当局は、その2棟を解体するという案を県議会に上程する方針を示した。その際に、市民の意見(パブリック・コメント)を募集していたので、自由記述欄に、以下のような建物の解体に反対する理由と、その活用策に関する意見を記して送付した。参考になれば幸いである。

このような広島県の動きに対しては、旧陸軍被服支廠という歴史的な建造物の全棟保存を求めるキャンペーン(被服支廠キャンペーン)を、若い人たちがいち早く起こしてくれた。その求めに応じるかたちで、この建物の保存と再生に関する基本的な考えを、すでにキャンペーンのnoteに「生存の文化の拠点としての『倉庫』の再生のために」と題して記しておいた。以下と併せて参照していただければと思う。

なお、パブリック・コメント募集への反響の大きさや、建物の解体に反対する市民の要望などを受けて広島県は、旧陸軍被服支廠の解体に来年度着手することは見送った。ただし二棟解体という県の方針自体が撤回されたわけではないので、引き続き県議会の議論を含めて事態の推移を注視するとともに、三棟の活用策について議論を深めていく必要があると考えている。

旧広島陸軍被服支廠に係る安全対策方針(案)に対する意見募集回答(パブリック・コメント)

■なぜ建物の解体に反対するか?

1913年に造られ、百年以上を経た今もほぼ原型をとどめている旧陸軍被服支廠の倉庫は、軍都としての広島の記憶と、被爆の記憶を一つながらに伝える貴重な建物である。そこは、近代日本の戦争の歴史のなかで、広島がどのような役割を果たしたのか、また人が原爆に遭うとはどういうことなのかを、立ち止まって考えることができる貴重な場である。そして、威容を示しながら立ち並ぶ建物のすぐ近くに民家や学校がある都市風景は、広島の復興の歩みを物語るものでもあろう。

そのような風景を含めて、被服支廠の建物を残すことは、広島に生きる者の歴史的な使命であると考えられる。このことは、戦争と被爆を、これらの問題が今も続いている現在を照らし出すかたちで記憶する姿勢を、広島から内外に示すことでもある。このことを、世界中の人々は広島に期待しているはずである。建物を解体することは、広島に生きる者の使命と、世界の人々の広島への期待の両方を裏切ることになる。

旧陸軍被服支廠の建物の保存、活用の方策については、1992年6月に石丸紀興氏らがまとめて提出した「赤れんが 生きかえれ!」をはじめとする提案が民間から出されてきた。これらを十分に検討することなく、安全対策を理由に二棟解体の方針を示すことは、広島県の行政の怠慢を露呈させるものにほかならない。近隣住民の安全が問題ということであれば、その時点で可能な建物の補強などの対策を打っていくのが筋だったはずだ。

また、建物の活用に際しては、どのような方向性が建物の歴史的な意義にふさわしいか、また広島の街にどのような施設が真に必要かを、広島市とも連携しながら検討することと同時に、その議論に市民を巻き込むことが必要なはずである。これらをいずれも積極的に進めることなく、今になってあたかも解体が必然であるかのような方向性を提示するというのは、被爆地の平和行政の使命を忘れ、歴史的建造物の保存と活用について見識を深める努力を怠り、市民の意見にも耳を傾けることなく無為無策を積み重ねてきたことを、みずから表明することにほかならない。

言うまでもなく、建造物を一度壊してしまったら、けっして元には戻らない。そして、ところどころ欠けた赤煉瓦を辿り、窓の歪んだ格子や鎧戸を見つめることで想像が喚起され、被服支廠で軍服などが製造されていた時代の人々の労苦に、そして被爆し、重傷を負って倉庫に運び込まれた人々の苦悩に思いを馳せることは、建物に触れ、触れられる身体的な経験としてのみ可能である。ディジタル技術が作り出すヴァーチャル・リアリティによっては、このような経験は不可能である。

建造物がまさに物として存在することによって、人はある時空間に遭遇するのだ。そのような記憶の経験の場を、歴史的建造物を活用して創造することこそ、広島の人々に課せられているはずである。古い、いわゆる負の歴史も刻まれた建物の内部を改修し、文化的な創造の場として再生させている例は、枚挙にいとまがない。

■どのような建物の活用策があるか?

旧陸軍被服支厰倉庫の建物を継続的に活用する方途の一つとして、まず、世界のアーティストが建物のなかの空間をアトリエとして使って作品を創り、展示する、滞在型のアート・スペースとして整備することが考えられる。これだけの規模の建物であれば、耐震工事を進めながら広い空間を確保することも可能であろう。それによって規模の大きなインスタレーション作品の制作にも道が開かれる。

こうした制作と展示の空間が歴史的な建築物の内部にあることは、世界中のアーティストにとって魅力的と思われる。このことは、伊藤由紀子氏らの主催により被爆建物を主な会場に開催されてきた現代美術展、ヒロシマ・アート・ドキュメントによって実証されている。他方で、世界のアーティストが広島で想を得て制作した作品に接する者も、広島の記憶を世界的な視野の下で見つめ直すことができるにちがいない。

また、軍需施設としての建物の歴史を踏まえた被服支廠の活用策も検討されるべきだろう。その一つとして、明治期から帝国日本の植民地主義と戦争の拠点として発展した広島の歴史を、アジアの歴史を視野に入れながら省みるための史料を、建物の一つに可能なかぎり集め、閲覧できるようにすることが考えられる。

宇品港を尖端の一つとして持った帝国主義によってアジアの各地域が結びつけられてしまった歴史を振り返る場が、広島には欠けている。そのことが、アジアにおける広島の位置と歴史的な意義を自覚できない現状に結びついているのではないか。沖縄と、東南アジアも含めたアジアの各地域と、人々の対話と記憶の分有へ向けて、さらには平和のための連帯へ向けて結びつく回路を模索するための原点は、近代日本における広島の役割を、現代の問題と照らし合わせながら見つめ直すところにある。

さらに、演劇をはじめとする舞台芸術の作品を、時間をかけて制作し、上演する空間を、建物の一つに設けることも考えられる。その際、別の建物での造形芸術と協働することも考えられよう。美術にせよ、舞台芸術にせよ、滞在型の制作空間は、広島には欠けている。だが、それこそがこの街に求められるのではないか。戦争の記憶に、被爆の記憶に、さらには復興の記憶に、時間をかけて向き合い、それを解きほぐして、表現に結びつける取り組みのなかからこそ、広島から生まれ、世界へ送り出されうる作品が生まれるはずである。

このような滞在型のアートスペースの姿に関しては、廃校になった小学校(明倫小学校)の校舎と跡地を芸術振興の拠点施設として再生させた、京都芸術センターの例が参考になろう。これをはじめとする、歴史的建造物の創造的な活用策を比較検討しつつ、人々が芸術を媒介に交差し、世界的な文脈のなかで戦争、被爆、復興の記憶を甦らせる場として、旧陸軍被服支廠の建物を再生させる方策が議論されるべきと考えられる。

初夏の音楽と美術など

[2017年6/7月]

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世羅高原の薔薇「詩人の妻」

暑中お見舞い申し上げます。うだるような暑さの日が続きますが、お元気でしょうか。広島では、夕凪がいつもにも増して蒸し暑く感じられます。今年は空梅雨の後に、局所的な豪雨が日本列島の各地を襲いましたが、ここ広島も六月の末に、三年前の土砂災害の日を思い出させるような豪雨に見舞われました。それにしても、7月5日から6日にかけての九州北部での豪雨の被害には心が痛みます。と申しますのも、以前に佐賀県の鳥栖市でラ・フォル・ジュルネ(「熱狂の日」音楽祭)が開催されていたのに通っていたとき、今回の豪雨の被害が最も大きかった福岡県朝倉市の杷木温泉を宿泊に使っていたものですから。それにこの朝倉市には、「国際子ども芸術フェスティヴァル」の伝統もありました。被災した方々の一日も早い生活再建を願ってやみません。

六月から七月にかけては、心身の調子があまり良くありませんでした。四月から、まったく新しい講義を含めた大学の仕事が本格的に始まり、二年前よりもかなり多忙だったこともありますが、そのなかで暗然とさせられることがあまりにも多かったのも確かです。昨今、大学のあり方について、大学の内外でさまざまな「改革」の必要性が言われていますが、その多くは、大学を含めた組織の次元の低い自己満足と、子どもとその親にたかる「教育産業」の新たな利権のためのものでしかないと思われてなりません。そして、そのために若い人たちと、その一人ひとりのための教育が食い物にされることは、許しがたいことです。こうした風潮すべての虚妄を見抜けるような批判的思考を培うことも、大学における教育の責務となりつつあることを痛感する昨今です。

七月の上旬には夏風邪を引いてしまったのですが、その症状が治まってきたところで、手足の末端に力が入らなくなってしまいました。一種の虚脱状態になって、何も手につかない日がしばらく続きましたが、おかげさまで今はある程度体調が回復してきました。そのようなわけでなかなか思うように仕事ができず、忸怩たる日々を送っていたわけですが、学ぶことにひたむきな学生の姿とその成長には救われます。今学期の三年生向けのゼミでは、学生の問題意識に応じるかたちで、花崎皋平の『生きる場の哲学──共感からの出発』(岩波新書)を講読しましたが、それをつうじて私も学ぶことが多かったです。その以下の一節は、今あらためて個々人の置かれている状況とともに顧みられるべきかもしれません。「無にひとしいものでありながら、自分とおなじ運命のもとに他人もまたおかれていることを、身につまされて感ずることができたら、そこに生まれる感情は『やさしさ』と名づけられるだろう。つまり、『やさしさ』とは、疎外された社会的個人のありようを、共感という方法でとらえるときに生ずる感情である」。

20170725 原サチコ グローバル人材育成講演会 - コピー

原サチコさん講演会のflyer

7月25日に、大学の「『市大から世界へ』グローバル人材育成講演会」の講師に、ハンブルク・ドイツ劇場の専属俳優として活躍されている原サチコさんをお迎えできたのは、大きな喜びでした。「ヒロシマを世界に伝えるために──ハノーファーでの『ヒロシマ・サロン』の試みから」というテーマでお話しいただきましたが、ハノーファーをはじめとするさまざまな場所でのヒロシマ・サロンを、そのきっかけとなった林壽彦さん(広島とハノーファーが姉妹都市になるきっかけを作った方です)との出会いを含めてご紹介いただいたことによって、ヒロシマがチェルノブイリなど二十世紀の世界的なカタストロフィのあいだにあることが浮き彫りになると同時に、それとの関係のなかで被爆の記憶を継承していくことの課題が照らし出されました。そして、苦難の記憶を分かち合うことにもとづく交流が、まずは相手に対する関心と尊敬にもとづいてこそ、実質的なものになることも、聴衆に伝わったと思います。何よりも、講演会をハノーファーへの留学生を含めた人々の出会いの場にできたことは嬉しかったです。

58dcddff527ebところで、六月と七月にはいくつか感銘深い演奏会に接することができました。まず、6月7日に広島市のアステールプラザのオーケストラ等練習場で行なわれたHiroshima Happy New Ear XXIII「次世代の作曲家たちV」では、川上統さんと金井勇さんが「ヒロシマ」に寄せた新作の誕生の瞬間を多くの聴衆と分かち合うことができました。川上さんの《樟木》と金井さんの《凝視》は、好対照をなしていたので、巧まずして刺激に満ちた演奏会の構成にもなったのではないでしょうか。川上さんの作品では、旋律的なモティーフが折り重なるなかで響きが徐々に熱を帯びていく過程が印象的でしたが、それは「樟木=クスノキ」の生命が、地下へ根を張り、中空に葉を茂らせていく様子とともに、それを見守る人間の魂の存在も感じさせるものでした。川上さんの作品では、歌心を感じさせる時間の連続が特徴的でしたが、金井さんの作品では逆に時を断ち切る衝撃が、ただならぬ緊張感を醸していました。そこにあるのは、時系列的のうえでは72年前に起きたことが未だ過ぎ去っていないことに触れる、いや、むしろ触れられることの衝撃なのかもしれません。この衝撃とともに始まる「凝視」と想起の時間を象徴するソリスティックなパッセージの連なりも、求心力に満ちたものだったと思います。川上さんの作品は、被爆してもなお滅びることのなかった木々の生命力を、金井さんの作品は、被爆の痕跡を目の当たりにする衝撃と、それに続く想起の時の緊張を、魂の奥底から感じさせるものと思います。そのような作品を広島に届けてくださったお二人に、あらためて感謝したいと思います。

今回のHiroshima Happy New Earで、ブーレーズの《メモリアル》の演奏と細川俊夫さんのギター協奏曲《旅IX──目覚め》の演奏に接することができたのも大きな喜びでした。ブーレーズの作品では、何と言っても森川公美さんのフルートが素晴らしかったです。音楽の展開をわがものにした読みと繊細な歌心を兼ね備えた演奏によって、魂=言葉の雅な舞いが浮かび上がっていました。亡くなったフルーティストに捧げられたこの作品の凝縮度の高さも伝わってきました。細川さんの《旅IX》における福田進一さんのギターの独奏も、作品への共感に満ちた素晴らしいものでした。自然のなかを歩む人間の魂の開花を象徴したこの作品の音楽においては、大きく螺旋状に発展していくなかで、一つひとつの音が沈黙のなかから立ち上がってくる瞬間がことに印象的でした。その出来事によって、時に空間がたわむかのようにも聞こえました。福田さんのギターと広島交響楽団のアンサンブルが緊密に呼応し合うなかで、実に豊かな響きが生まれていたのも印象的でしたが、その響きがぎらりとした、強烈な生命の輝きをも見せていたのには驚かされました。それにしても、細川さんの作品を聴いていて、川瀬賢太郎さんが指揮する広響の素晴らしさをあらためて実感しました。響きの風景と空気感が実に見事に表現されているのです。それぞれの作品の響きが独特の時間に結びついているのがひしひしと伝わる、素晴らしい解釈と演奏でした。

18301815_1885690948358355_7477246877900166576_n7月14日に広島の流川教会で行なわれた、ザ・ロイヤル・コンソートの演奏会も心に残ります。そこでは、J. S. バッハが未完のまま遺した《フーガの技法》が、寺神戸亮のバロック・ヴァイオリンと三台のヴィオラ・ダ・ガンバにより演奏されました。二曲に“BACH”の名を音列のかたちで織り込み、バッハの作曲技法の自己省察を示すこの巨大なトルソーは、楽譜に楽器編成が記されていないことから、従来管弦楽、弦楽四重奏、あるいはオルガンのような鍵盤楽器で演奏されてきましたが、今回のように当時一般に用いられていた弦楽器のミニマムな編成で演奏されると、三つないし四つの声部が複雑に絡み合うなかから、大バッハとその同時代人の息遣いが響いてくる気がします。透明でありながら、モダン楽器の四重奏などよりも呼吸を感じさせる響きがまず印象的でした。それが、歌うことと一体となった精緻な思考によってフーガやカノンが組み立てられていることを感じさせます。

また、基本主題のリズムを変えたり、その反行型を作ったりすることにもとづいて曲が構成されることが、全体の響きの色合いを変えるのが、直接的に過ぎないかたちで伝わってくるのも好ましかったです。長調の響きのなかで、ヴァイオリンが高い音域を奏でる瞬間など、柔らかな光が上から差してくるように聴こえました。他方で、細かい音型のコンチェルタントな掛け合いが聴かれる曲や、途絶した三つの主題によるフーガの力強さにも欠けていなかったと思われます。ルネサンスの声のポリフォニー音楽との連続性も感じさせるかたちで、《フーガの技法》の魅力を再発見させる素晴らしい演奏会でした。詳細な解説と各曲の作曲技法をスクリーンに投影する工夫も、聴衆の理解を助けてくれました。

細川俊夫さんの《嘆き》がマーラーの交響曲第2番「復活」とともに取り上げられた東京交響楽団のミューザ川崎での定期演奏会(7月15日)については、すでに別稿で触れましたが、それ以外に7月22日には、すみだトリフォニーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団のサマーコンサートを聴きました。今回の演奏会のプログラムは、音楽監督の上岡敏之が、聴衆のリクエストにもとづいて選曲して指揮するという趣向でしたが、上岡は「ヴィルトゥオーゾ」という観点から、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調とベルリオーズの幻想交響曲を選んでいました。演奏と作曲双方のヴィルトゥオーゾの作品というところでしょうか。

後者に期待して出かけたのですが、上岡と新日本フィルハーモニーは、よい意味で驚きに満ちた演奏を聴かせてくれました。上岡は、「初心に還って」音楽作りをしたいという旨のことを、プログラムに収められたインタヴューで述べていましたが、「初心に還って」ベルリオーズが書いたスコアを読み直すと、これほどまで豊かな内容が引き出されるのか、という驚きが、音楽を聴く喜びと結びついた演奏だったと思います。幻想交響曲に慣習的に付け加えられていることを排して、ある意味で書かれた音だけでもしっかり響かせるなら、標題音楽的な情景、いや譫妄のなかのおどろおどろしい光景までもおのずと響くことを感得できました。

そうした方向性は、割合さらりとした序奏からも伝わってきましたが、上岡の指揮は、主部に入って音楽が熱を帯びるなかでも、見通しのよい響きを保ちながら、ベルリオーズの持っていた音色の豊かさを存分に生かしていました。全曲を通して、打楽器の音色を実に細かく使い分けていたのが印象的でした。それが音楽の進行に絶妙なアクセントを添えていました。この交響曲では個人的に、ヴァイオリンと木管楽器が一緒に旋律を奏でる響きが好きなのですが、そうした箇所の響きの美しい広がりも、歌の美しさも申し分のないものでした。第二楽章のワルツの旋律を含め、伸びやかな歌に満ちた演奏でもありました。第三楽章のコーラングレやクラリネットの独奏をはじめ、木管楽器の演奏はどれも素晴らしかったです。弦楽セクションのアンサンブルの充実は、上岡との音楽作りの成果を示して余りあります。

前半には戸田弥生の独奏でパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏されましたが、その演奏も、技巧の誇示に終わることのない音楽の有機的な発展を伝えるものであったと思います。戸田の独奏は、力が入りすぎたと見える箇所もありましたが、豊かな音で歌心を示した、好感の持てるものでした。彼女の最近の充実ぶりは、アンコールで演奏されたJ.S. バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータのサラバンドが雄弁に物語っていたように思います。アンコールと言えば、幻想交響曲の後にリストのハンガリー狂詩曲第2番が取り上げられたのですが、その演奏が圧巻でした。個人的にこの曲を積極的に聴くことはないのですが、今日ばかりは曲の面白さを、そして演奏と作曲の両面におけるリストのヴィルトゥオジティを心から楽しみました。

六月から七月にかけては、いくつか重要な美術の展覧会にも接することができました。まず、6月11日には、ギャラリー交差611でのいさじ章子さんの個展「基町の文化人──いさじ章子の小宇宙」を見ることができました。比較的大きなサイズの油絵に始まり、「ハルコ」の名で繰り広げられた街頭パフォーマンスの記録映像、そしてそれぞれが一篇の詩を感じさせる小さな絵画作品と続く展示は、実に見応えがありました。なかでも小さな絵の数々が、文字通り林立するかたちに掲げられたいさじさんの詩的な言葉と応え合っているところは、非常に感銘深かったです。言葉を読んで、あらためて絵を見ると、いさじさんが一貫して自身の生きざまを身体的な次元まで深く掘り下げ、そこにある生命の蠢きを感じ取るところから作品を創っていることが伝わってきます。最近の絵画作品では、《水のように歩く》や《佇む》といった作品が印象に残ります。ちなみに、いさじさんは、拙著『共生を哲学する──他者と共に生きるために』(ひろしま女性学研究所)の表紙に素晴らしい絵を描いてくださった方です。

また、7月5日には、峠三吉と四國五郎の交流、とくに1950年前後の「辻詩」の共同制作に光を当てた展覧会「駆けぬけた広島の青春」を、広島市の合人社ウェンディひと・まち交流プラザで見ました。四國と峠の合作による「辻詩」の現存するすべてを並べて見られたのが何と言っても印象深かったです。おそらく、この当初から儚さを運命づけられた合作は、往来に貼られる一つの行為によって、街路を辻、すなわち人と人が交差する場に変えていたにちがいありません。それとともにどのような人たちが出会っていたのかと想像しながら見入りました。控えめな画面が詩の言葉を引き立てている一枚もあれば、絵の動きに詩が吸い込まれていくかのような一枚もありました。なかでもインパクトが強かったのはやはり、日本銀行旧広島支店での四國五郎の回顧展にも出品されていた、当時の「パンパン」の姿を突きつける一枚でした。「辻詩」の1985年の原水爆禁止署名活動における復活を示す連作も、ナジム・ヒクメットの詩の受容を含め、興味深かったです。1949年の日鋼争議を描いた四國の絵と、そこで朗読された峠の詩が展示されていたのも、両者の出会いを印づけるものとして貴重だったのではないでしょうか。

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無題I(或いはピゴチャーズI)

7月22日には、東京の祖師谷のGallery Taga2にて、ボローニャとニューヨークを拠点に活動しているアーティスト吉田萠さんの個展「ジェルンディオ」を見ました。浅海の砂泥に棲む半索動物ギボシムシの生態から着想を得ながら人間の記憶、人間の自己形成ないし自己の崩壊を孕んだ変成の過程、さらにはスタニスワフ・レムとアンドレイ・タルコフスキーの「ソラリスの海」を思わせるその時空間を、多層的に、かついくつもの感覚を刺激するかたちで問う創作活動が展開されているのを、萠さんのお話を聴きながらとても興味深く見ることができました。萠さんの作品は、言葉やさまざまなイメージを書き込んだ平面にいくつもの層を重ねたり、層の一部を、それ自体ギボシムシの形を思わせるような言葉の型をくり貫いたりするなどして構成されていましたが、それをつうじて一部が消えて読めなくなっている文字は、それ自身で新たな運動を始めているかのようでもありました。そして、その動きが作品の空間を越えた世界に通じていることも示す、開かれた構成も作品から感じられました。

砂を吸っては吐いて栄養を摂取するギボシムシは、さまざまな観念やイメージを吸収しながら、あるいはそれを忘れながら生きる人間の自己形成の過程を連想させると萠さんは語っておられました。その過程で記憶の襞に、澱のように固着していくものもあることでしょう。作品のなかの石や錆を思わせる細部からは、そうしたものの存在を感じました。作品そのものが、無数の襞を持った人間の不可視の記憶器官をめくり返したようでもあり、同時に器官としての作品が蠕動し始めているようにも思われました。イタリアの古い扉をモティーフにしたという、別の世界へ通じる扉のような作品も、ギボシムシの生態を、記憶の海に生息する半機械的な生物に変成させた立体作品も、非常に魅力的でした。とくに、脆さも感じさせるかたちでゆらめきながら何かを感知している生き物は、見ていて飽きることがありません。その姿は、人間の自己の脆さとともに、その変成の未来をも暗示しているのかもしれません。

ちなみに萠さんは、細川俊夫さんのオペラ《リアの物語》の広島での上演の際に、卓抜な舞台美術を担当された方です。その公演の演出家ルーカ・ヴェッジェッティさんのお連れ合いでもあり、昨夕はルーカさんとも再会できました。広島で日本銀行旧広島支店に強烈な印象を受け、そこに何度も通ったとのお二人のお話を聴きながら、いつかこの被爆建物の空間で萠さんの作品を見てみたいと思いました。

7月23日には、国立新美術館でジャコメッティ展を見ました。マルグリット&エメ・マーグ財団のコレクションを中心とした大規模な展覧会で、アルベルト・ジャコメッティの回顧展を見るのは、数年前に兵庫県立美術館で見て以来ということになります。存在感に満ちた一連のディエゴの胸像やおそらくは妻のアネットをモデルとした細い女性の立像から強い眼差しを感じながら、ベンヤミンが「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」に記した、眼差しをめぐる考察を思い出していました。彼はこう述べています。「つまりアウラの経験とは、人間社会にしばしば見られる反応形式を、生命を持たないものや、自然と人間の関係に転用したものである。見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、眼差しを開く。ある現象のアウラを経験することは、この現象に眼差しを開く能力を付与することである」。ジャコメッティは、この眼差しの出来事に形を与えようという狂おしい試みを続けていたのかもしれません。

ベンヤミンが描くボードレールにとってこの「アウラの経験」が不可能であったように、ジャコメッティにとって一人の人間が眼差しを放ちながら立ち現われてくることの全体を捉えることは不可能であり続けたでしょう。しかし、彼はその出来事をその精髄において捉えようと苦心を重ねました。その過程をシュルレアリスムの影響下にあった初期から辿ることによって、ジャコメッティの芸術が、以前よりも身近に感じられるようになりました。

今回出品されていた作品のなかで印象に残ったのは、どちらかと言うと後期の作品で、とくに《ヴェネツィアの女たち》の立像群は美しく思われました。一体一体を少し距離を置いて見ると、一人ひとりが独特の顔立ちと眼差しでこちらを見つめ、何かを語りかけてくるように感じられます。それ以外の女性の立像のほかには、歩く男の像が興味深かったです。大きな《歩く男》も《三人の歩く男》の群像も、さまざまな力を背負いながら大いなる一歩を踏み出すという出来事を強く印象づけます。その力を、人間のみならず、《犬》も一身に背負っていることでしょう。これほど哀しい犬の姿は見たことがありませんが、それを形にするところにジャコメッティの生あるものへの愛を感じます。

さて、早いものでもう八月になります。学期の仕事がようやく終わりに近づいてきましたので、九月に二度予定されている講演の準備や、依頼されている原稿の執筆に本腰を入れなければなりません。また、その先に予定されている原稿の執筆の準備にも取りかかる必要があります。この二か月ほどで作業日程にいろいろと遅れが生じていますので、それを可能なかぎり取り戻したいとは思いますが、個人的な事情で思い通りにいかないことがあるかもしれません。それでも、現代世界における芸術の可能性を批判的に省察する、あるいは歴史のなかに生きることを、自分自身の問題として考えるきっかけになるような言葉をお届けできるよう、一ページずつ文献を読み進め、一文一文を書き連ねていきたいと思います。これから暑さがいっそう厳しくなるでしょうが、みなさまどうかお身体に気をつけて、よい夏をお過ごしください。

四國五郎追悼・回顧展を見て

四國五郎追悼・回顧展の8枚組みの絵葉書より

四國五郎追悼・回顧展の8枚組みの絵葉書より

日本銀行旧広島支店を会場に開催されている「四國五郎追悼・回顧展」をようやく見ることができた。画家が愛した横丁が、その手による映画のポスターなどで彩られたかたちで再現された、手作りのエントランス──そこには四國五郎に私淑したガタロさんの作品も置かれていた──からして魅力的である。全体として、この画家に対する主催者の深い愛情が伝わってくる展示だった。

このエントランスの近くの広島の風景を描いた小品を集めた一角に置かれていた《相生橋》という作品に、思わず釘付けになった。かつての「原爆スラム」のバラックの廃材で造られたその絵の額縁にも驚かされたが、そのバラックが建ち並ぶ「相生通り」から原爆ドームを望む風景を、澄んだ筆致で描き取った画面が何よりも魅力的だった。「相生通り」の街並みを愛情を込めて描きながら、元安川の穏やかな水面とともに一つの静謐な風景に構成した《相生橋》は、この展覧会の冒頭を飾るに相応しい作品と言えよう。

四國の作品からは、全体的に、生命あるものへの深い愛情、それにもとづく戦争に対する怒り、そしてさりげないユーモアが画面から感じられるが、これらが強烈なアイロニーに結びついた作品として、第一次世界大戦の戦死者を描いたオットー・ディクスの作品を思わせる《大日本帝国兵馬俑》が、とくに印象に残る。今も読み継がれている絵本『おこりじぞう』の挿し絵を描くなかから生まれたと思われる《おこりじぞう(死の灰)》は、原爆の惨禍のただなかに巻き込まれることと、そのなかでなおも生きようとする少女の意志とを凝縮させた作品として感銘深い。「黒い雨」を表題に持つ、1970年代末からの一連の作品からは、四國の核の問題への多様なアプローチを垣間見ることができる。

これらの作品を見ていくと、この画家が、独特の温かな即物性を基調としながら、対象やテーマによって、実に多様な様式を使い分けていることが伝わってくるが、同時に彼の画業において一貫していると思われるのは、絵を描き、作品を世に送ることが、つねに一つの行為に結びついていることである。そのことを端的に示すのが、峠三吉の詩を街に掲げる「辻詩」のための絵ではないだろうか。一つの行為としての四國の詩画を、それが生まれた文脈を踏まえつつ、いわゆる絵画の枠組みを越えて再評価する必要も感じられた。

それから、彼の戦後の画業には、シベリア抑留の経験が影を落としているが、抑留のなかから生まれたデッサンを母子像の連作と照らし合わせるとき、抑留の経験は、例えば香月泰男のそれとは違った意味を持っているようにも思われてくる。四國は、自分が武器を携えた、しかも中国の人々を虐殺してきた関東軍の兵士として虜囚となったことを、重く受け止めていたのではないだろうか。母子像などの作品に見られる、絵画と詩的な言葉の結びつきについても、さらに議論が深められる必要があるようにも思われた。

優しい人物像の画家といった四國のイメージを一変させる彼の絵の多彩さを示すとともに、その時代ごとの状況における強度をも伝えるこの展覧会が、彼の画業の再評価と新たな作品や資料の発掘に結びつくことを願ってやまない。彼の絵画が生まれた文脈や状況、そして彼の芸術と呼応する絵画や文学を照らし合わせるかたちで、四國五郎の画業は見直される必要があるのではないだろうか。