海辺での魂の邂逅の歌が照らし出すもの──パリでの細川俊夫の室内オペラ《二人静──海から来た少女》の世界初演に接して

2017-12-02 00-36-23

《二人静》初演の演奏会「二つの魂」のプログラム表紙

海辺には波が打ち寄せ、それとともに時空を隔てたものたちが流れ着く。そこに佇む者のなかにもまた、遠く隔たったものが去来する。こうした意味で漂着の場とも言うべき海辺は、オペラ《松風》以来、細川俊夫の舞台作品の一つのトポスを形成しつつある。いや、ソプラノとオーケストラのための《嘆き》のような彼の声楽作品からも、波打ち際に佇むなか、禍々しくさえある巨大な波濤に魂が呑み込まれていく者の姿が感じられる。そして、《松風》において細川が示していたのは、海辺が漂着の場であるだけでなく──もしこういう言葉を造るならば──、憑着の場でもあるということである。平田オリザとの共作によるオペラ《海、静かな海》でもそうだったが、海辺に佇む者のなかに死者、あるいは行方が分からなくなってしまった者の魂が入り込んで、生者を深く揺さぶるのだ。

細川と平田の二度目の共作による新しい室内オペラ《二人静──海から来た少女》は、まさにこの海辺における魂の憑着を強い音楽で描きながら、死者を抱えた孤独な人間が海岸に立ち尽くしている現在を鋭く照らし出す作品と言えよう。この作品は、平田が能の「二人静」を現代の物語に翻案して書いた原作を基に書かれている。舞台は今や吉野の山ではなく、地中海の浜辺。そこに立っているのは、海の向こう側の戦地から逃れてきた難民の少女である。小舟で波間を漂うなかで失った弟を思う彼女の心に、900年前に世を去った静御前の魂が取り憑く。その役を歌うのは能役者。《二人静》は、細川が能の謡いと舞いそのものを初めて舞台に導入した作品でもある。能の精神からオペラを書き継いできた細川の新たな境地を示す作品としても注目される。

2017年12月1日、パリのフェスティヴァル・ドートンヌ(秋季芸術祭)の一環として、フィルハーモニー・ド・パリのコンサート・ホールで行なわれたその世界初演に接することができた。難民の少女ヘレンの役を歌ったのは、ソプラノのケルスティン・アヴェモ(Kerstin Avemo)。2012年のルール・トリエンナーレにおける細川の《班女》の公演で花子の役を歌って、鮮烈な印象を観客に残した歌手である。静御前の魂を演じたのは青木涼子。能の謡いを生かした現代の音楽の世界を越境的に切り開きつつある彼女が、昨年の4月に馬場法子の能オペラ《葵》(Nôpera«Aoi»)の見事な初演を成し遂げたことは、パリの人々の記憶に新しいにちがいない。マティアス・ピンチャー(Matthias Pintscher)指揮のアンサンブル・アンテルコンタンポランが、二人の歌を支えながら作品の世界を現出させていた。

作品は、風の音を含んだ不穏なざわめきから始まる。《班女》や《松風》は、柔らかな風が漂うなかに何者かの気配を感じさせるかたちで始まるが、《二人静》の始まりは、どこか重苦しい空気が支配していて、その流れはやがて渦をなして激しい嵐のように吹きすさぶ。その動きが胸を締めつけるように高まっていった先に訪れる静寂のなかに、難民の少女が一人しゃがみ込んでいるのを目の当たりにするとき、この孤独な少女ヘレンの姿に、戦場と化した故郷での恐怖、生活のすべてが根こそぎに破壊された苦しみ、そして地中海を渡って岸辺に辿り着くまでの苦難が刻み込まれていることに思いを致さないわけにはいかない。むろん、これらの苦悩はけっして彼女だけのものではない。もしかすると、戦地から逃れられなかった者たちや、地中海の波間に沈んでしまった者たちの無念の思いが、ヘレンという人物には凝縮されているのかもしれない。そしてその思いは、今も内海の水底で渦巻いている。

「私はどこから来たの?/私はどこへ行くの?」と自問しながら立ち上がり、海を逃れてくる過程で弟を失った苦しみを歌うヘレンの背後に静御前の霊が出現する。その姿が徐々に近づいてくると、音楽の強度がさらに増してくる。そこにある凄まじいまでに張りつめた響きには、自分だけが生き残ってしまったことへの罪責感に苛まれながら、死者とのあいだに引き裂かれた二つの魂が、900年もの時を越えて重なり合おうとするところにある緊張が凝縮されているように聴こえた。「君がため、春の野に出でて若菜摘む/我が衣手に雪は降りつつ」と、袖を雪に濡らしながら春の七草を探す情景を暗示しつつ歌う静にヘレンが問いかけ、それに静が応じるところでは、まだ二つの魂は並立したままである。しかし、仏教で言う回向(供養)を求める静は、ヘレンの心のなかへ入り込もうとする。そして、それを拒もうとするヘレンの肩に、静の手がそっと乗せられる瞬間には、《二人静》という作品の焦点があると考えられる。

この瞬間に、静御前とヘレンのあいだに一つの回路が切り開かれる。二つの魂は、最も親しい者を奪われた苦悩において一つになるのだ。今や静の苦悩はヘレンのそれであり、ヘレンが抱える死は、静のなかにある死でもある。ヘレンと静が一つの魂となって歌うところには、《二人静》という作品における主題のうえでも、音楽的にも核心的なものが含まれていよう。ソプラノの声と能の謡いの声という、一般的には異質と見られる二つの声が折り重なるところには、たしかに心地よい美しさがあるわけではない。しかし、二つの声が一つの響きを形成するところでは、二つにして一つであることと、そこにある魂の呼応の奇跡が独特の強度で表わされている。ヘレンと静が一緒に歌う瞬間は、《班女》以来細川が決定的な場面で響かせてきた、二つの声が完全には重なり合わないなかで独特の調和を形づくる二重唱の変容と見られる一方で、まさにその変容とともに新しい音楽の地平を切り開いているとも思われる。

二人の声が強度を孕んだ一つの層を成すなかで、生まれたばかりの子どもを殺された静の苦悩が他者によって深く受け止められる。すると静の魂はヘレンのなかから脱け去って、静かに舞い始める。その時間は、絶えず垂直的に区切られては始まる一つの間として、時の水平的な進行を宙吊りにしていた。鼓の音を思わせる打楽器の音を中心としたその時間の簡潔な響きは、能役者の舞いを生かすものと言えよう。青木涼子の舞いは、静御前の魂の深く静かな喜びを感じさせるかたちで様式化されたものであったし、また彼女の声は、全体の響きの底から聞こえてくる強さを示してもいた。ケルスティン・アヴェモの途方もない振幅を持った表現にも瞠目させられた。静が息子を殺されるに至った骨肉の戦いと、故郷での「兄弟たち」の戦いとを重ねて、二つにして一つの苦しみを歌う彼女の声には、空間を切り裂くような強さがあった。

絶えず水底を暗示しつつ重い緊張を湛えながら持続する響き──そのなかで、他の舞台作品にも増して低音が強調されていたと思われる──の上で、二人の魂が最終的に一つの歌を響かせるところにある音楽と、必要最小限に切り詰められた舞台演出──それはほぼ身ぶりと舞いだけであったと言ってよい──は、まさにその表現の強度において、遙かな時を越えた魂の邂逅を浮かび上がらせながら、次のヘレンと静が生まれ続けている現在を鋭く照らし出していると言えよう。シリアなどでの殺し合いは止まず、戦地から逃れようとする人々も、途上で次々と命を落としている。その傷を背負って、今も少女が波打ち際にうずくまっているにちがいない。その孤独な魂に誰が語りかけるのだろう。彼女の許に静は来るのだろうか。

北へ向かうヘレンの足跡を、これから降る雪は隠してくれるかもしれないが、彼女の傷が癒えることはないだろう。とはいえ、静の魂に出会うことのできた彼女は、苦しみが他者に受け止められうることへの希望を胸に、他者たちのあいだを歩み続けることができることができるかもしれない。歌うようなマリンバの響きを含んだ柔らかな響きが漂うなかにヘレンの姿が徐々に消え入って、曲が閉じられる瞬間は、どこかこのような未来を微かに暗示しているように思われた。難民となって漂流する人々が抱えるものを、魂の呼応のなかから問いかけるとともに、彷徨う二つの魂が交差し、苦悩を通い合わせる可能性を響かせる作品が、今ここに生まれたことの意義は計り知れない。それに接する者は漂着にして憑着の場である海辺へ誘われて、今どのような歴史的世界に、どのような人々のあいだに生きているかを、深いところから省みることができるだろう。そのような潜在力を含む室内オペラ《二人静──海から来た少女》が、ピンチャーが指揮するアンサンブル・アンテルコンタンポランの精緻な演奏によって、明確な姿で世に送り出されたことは実に喜ばしい。

なお、細川と平田の《二人静》が初演された演奏会には、「二つの魂」というタイトルが付されていた。「二つの魂」という言葉は、ヘレンと静、細川と平田と同時に、細川と武満徹の二人の作曲家を象徴するものである。《二人静》の上演に先立っては、細川のバス・フルートのための《息の歌》、武満の室内アンサンブルのための《群島S》、そして同じ武満のフルート、ハープ、ヴィオラのための《そして、それが風だったことを知った》が演奏された。なかでも《息の歌》は、《二人静》を貫く音楽の息遣いを暗示させるとともに、作品の終盤における見事なバス・クラリネットの独奏を予感させるものであった。武満の《群島S》は、この室内オペラの世界を柔らかな響きのなかに垣間見せてくれた。なお《二人静》は、12月3日にはケルンのフィルハーモニーで、パリと同じ二人の歌い手、そしてピンチャー指揮のアンサンブル・アンテルコンタンポランによって上演される。受け容れた難民たちとともに歩もうとしていると同時に、それをめぐって数々の軋轢を抱えているドイツの地で、この新しい作品はどのように受け止められるのだろうか。

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細川俊夫『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』刊行記念トーク・ショー[2017年3月4日/ESPACE BIBLIO]のお知らせ

51fwl3vou1l昨年12月に拙訳にてアルテスパブリッシングより刊行された、細川俊夫著『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(聞き手:ヴァルター゠ヴォルフガング・シュパーラー)の刊行を記念して開催されるトーク・ショー「細川俊夫の創作の背景にせまる──尹伊桑、武満徹、そしてオペラへの道」をご案内いたします。来たる3月4日(土)15:00より駿河台のESPACE BIBLIOにて開催されるトーク・ショーでは、著者の細川俊夫さんをお迎えして、本書において初めて語り下ろされた、この世界的な作曲家の創作の軌跡の背景にあるものや、本書では語られなかったエピソードなどを、2012年にドイツで本書の原書が刊行されて以後の作曲活動を含めて詳しくお話しいただきます。また、今回は特別ゲストとして、世界を代表するリコーダー奏者の鈴木俊哉さんをお迎えいたします。細川さんのお話と鈴木さんの演奏によって、本書の内容を具体的に感じ取っていただきながら、細川さんの「空間と時間の書(カリグラフィー)」としての音楽を身近に感じていただけるものと考えております。会場などの情報は、末尾に記しておきます。開催に向けてご尽力くださっているESPACE BIBLIOの関係者のみなさまに、この場を借りて心より感謝申し上げます。

本書『細川俊夫 音楽を語る』の概要はすでに別稿に記しましたし、版元のアルテスパブリッシングのウェブサイト(こちらから直接本をご購入いただくこともできます)にも記されておりますので、ここでは繰り返しません。今回の「細川俊夫×柿木伸之トーク・ショー」では、この「対話による自伝」に語られた半生と作曲の足跡のうち、とくにベルリン留学時代の尹伊桑との師弟関係や、細川さんの広島での少年時代にまで遡る武満徹との関係に焦点を絞りながら、これらの作曲家の音楽との対照において、細川さんの音楽世界を浮き彫りにしたいと考えております。鈴木さんの演奏を交えながら、これらの作曲家と細川さんのあいだにある東洋の伝統楽器へのアプローチの相違などにも光を当てることができるのでは、とも思います。2012年以後の作曲の展開を語っていただく際には、オペラ《班女》、そして《松風》の一部の貴重な映像を見ながら、ちょうど一年前にハンブルクで平田オリザさんの演出により初演された《海、静かな海》を含めたオペラの作曲についても詳しくうかがえるものと考えております。それをつうじて、オペラを含む音楽作品を世界中から委嘱され続けている細川さんの作曲の現在が、本書に語られた創作の源泉から浮かび上がることでしょう。細川さんの音楽世界の展開の軌跡とその今にじかに接することのできる3月4日のトーク・ショーへ、ぜひお誘い合わせのうえお越しください。多くの方のご来場を心よりお待ち申し上げております。

  • 日時:2017年3月4日(土)15:00〜17:00(14:30開場)
  • 会場:ESPACE BIBLIO(エスパス・ビブリオ)※リンク先に地図があります。〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台1-7-10YK駿河台ビルB1F
  • 参加費:1,500円(当日精算)
  • 予約制:Eメール(info@espacebiblio.superstudio.co.jp)または電話(Tel.: 03-6821-5703)にて受付(定員60名)。Eメールでご予約の際には、上記のアドレス宛に件名「3/4細川氏トーク希望」にて、お名前、電話番号、参加人数をお知らせください。追って返信で予約完了が伝えられるそうです。電話による予約は、火曜日から土曜日の11:30〜20:00のあいだ受け付けているとのことです。20170304%e7%b4%b0%e5%b7%9dx%e6%9f%bf%e6%9c%a8%e3%83%88%e3%83%bc%e3%82%af_a6%e7%89%883rd

広島での細川俊夫《リアの物語》公演のお知らせなど

Hiroshima Happy New Ear Opera II:細川俊夫《リアの物語》公演flyer

Hiroshima Happy New Ear Opera II:細川俊夫《リアの物語》公演flyer

早いもので、1月も半ばを過ぎました。原稿執筆に追われたこの半月でした。仕事の一つは、ある事典のためのヴァルター・ベンヤミンについての大項目の原稿の執筆で、彼の哲学を「経験」をキーワードに、以前に書いた中央公論新社の『哲学の歴史』第10巻所収の拙稿とは異なった角度から紹介する内容となりました。こちらは年内にはお届けできるものと思います。もう一つの仕事は、Hiroshima Happy New Ear Operaの第2回公演として行なわれる、細川俊夫さんのオペラ《リアの物語》の公演のプログラム・ノート。この細川さんの最初のオペラの原題が“Vision of Lear”であることに着目しつつ、これが能の精神からの新たなオペラの誕生を印づける作品であることを指摘する内容のものを書きました。その公演の初日まで二週間を切りましたので、広島での《リアの物語》の公演のことを、ここでもお知らせしておきます。

2012年1月の細川さんの《班女》の公演に続くHiroshima Happy New Ear Operaの第二回の公演として、《リアの物語》が1月30日(金)と2月1日(日)に広島市のアステールプラザ中ホールで上演されます。この作品の16年ぶりの日本での上演となります。2年前の《班女》と同様、能舞台を使って上演されるのが、何よりも注目されるところでしょう。細川さんが、能の精神に深く根差しながら、独自の音楽でシェイクスピアの『リア王』の核心に迫った最初のオペラ、そして従来の「オペラ」を超える新しいオペラが、この能舞台でどのように響くか、期待が膨らみます。また、能にインスパイアされつつ振り付けや舞台演出を続けてきたルーカ・ヴェジェッティさんによる演出も、能舞台を、そして能のさまざまな特性をフルに生かして、登場人物たちの魂を舞台に浮かび上がらせることでしょう。

リア役を歌うのは、欧米の数々の劇場で活躍するマレク・M・ガシュテッキさん。また、リアの三人の娘の役を歌うのは、《班女》で素晴らしい歌を聴かせた藤井美雪さんと半田美和子さん、そしてひろしまオペラルネッサンスで目覚ましい活躍を示している柳清美さんです。この四名をはじめ、いずれも実力ある歌手たちがキャストを務めるのも、期待をいっそう高めます。昨秋のモノドラマ《大鴉》の公演で素晴らしい指揮を見せた、川瀬賢太郎さんが指揮する広島交響楽団の演奏も聴き逃せません。1月30日が19時開演、2月1日が14時開演です。全国からこの《リアの物語》の公演にお越しくださることを願っております。満場の聴衆とともに、日本からの新たなオペラの可能性が開ける瞬間を見届けたいと思います。

最後に、本ウェブサイトに、別のウェブログに掲載していた書評のいくつかを、過去の資料の確認も兼ねて転載しておいたことをお伝えしておきます。すでに10年近く前に書いたものですから、今となっては拙いところが目立ちますが、2005年の後半から翌年にかけて、かなり集中的に読みつつ考えたことが、現在に至る思考の骨格を形成していることを、あらためて顧みたところです。少し舞台裏を明かしているところもあるかもしれません。また、ポツダムでの研究滞在を終えて帰国したところで被爆と敗戦から60年目の年を迎え、何とかしなければ、という思いが強かったのも確かです。被爆と敗戦から70年となる今年、先の戦争を引き起こした要因が未だ精算されないなか、原爆に遭った人々の思いを踏みにじるかたちで核の脅威が広がろうとしている歴史的な流れに対峙しながら、被爆の記憶を継承することの現在的な、そして世界的な可能性を探らなければ、と考えつつあるところです。