広島での細川俊夫のオペラ《班女》公演のお知らせなど

59ed522f77a14早いもので、年が明けてからすでに20日が過ぎました。ここ数日は穏やかな気候が続きましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。広島では、Hiroshima Happy New Ear Opera IIIとして開催される細川俊夫さんのオペラ《班女》の公演が一週間後に迫りました。この公演の主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、まずはこの公演をご案内申し上げます。《班女》の公演は、1月27日(土)と28日(日)の二日にわたり、キャストを替えて開催されます。会場は広島市中区のJMSアステールプラザの中ホールで、そこに備え付けられている能舞台を用いて上演が行なわれます。開演は、両日とも14時からで、およそ90分の上演(休憩はありません)の後にはトークも行なわれます。

広島で細川さんの《班女》が上演されるのは二度目です。2012年に行なわれたHiroshima Happy New Ear Opera Iの公演で取り上げられたのがこの作品で、その際には、先日パリで初演された細川さんの室内オペラ《二人静》の原作と演出を手がけた平田オリザさんによる演出でした。今回の公演で演出を受け持つのは、全国各地で一人ひとりの登場人物を音楽とともに力強く生かすオペラの舞台を作り上げている岩田達宗さんです。昨年のひろしまオペラルネッサンスの公演でもモーツァルトの《コジ・ファン・トゥッテ》の素晴らしい舞台を届けてくれた岩田さんが、能に特有の身体性と原作の「近代能」としての特性を生かしながら、どのような現代人のドラマを提示するか、大いに期待されます。

59ed522fc9530指揮を受け持つのは、2012年の《班女》以来、オペラをはじめ細川さんの作品の数々を手がけてきた川瀬賢太郎さん。いっそう深まった解釈によって、夢想と現実が交錯するこのオペラの音楽の美質を研ぎ澄まして届けてくれるにちがいありません。歌手には、前回のプロダクションでも素晴らしい歌を聴かせてくれた半田美和子さんと藤井美雪さんに、2015年の《リアの物語》の公演で活躍した柳清美さん、折河宏治さん、山岸玲音さん、それに2014年のひろしまオペラルネッサンスの公演で素晴らしいカルメンを聴かせてくれた福原寿美枝さんが加わります。キャストの異なる二公演を比べるのも一興でしょう。最近進境著しい広島交響楽団のメンバーによるアンサンブルが加わるのも魅力的です。

三島由紀夫が世阿弥の「班女」を翻案して『近代能楽集』に収めた能を原作とし、ドナルド・キーンによるその英訳をリブレットに用いた細川さんのオペラ《班女》の音楽は、夢想と現実を往還しながら、人が「狂気」と呼ぶ心境のうちにある深い憧れと鋭い洞察を、書の線を描く歌によって響かせるとともに、夢想と現実の相克を抉り出します。2018年の広島での公演では、その現代のオペラとしての新たな魅力が能舞台の上に照らし出されるに違いありません。この能舞台を使っての稽古も重ねられて、準備にもいっそう熱が入っています。お見逃しのないよう、お誘い合わせのうえお越しください。広島県内はもとより、九州、そして関西や関東からも日帰りで、あるいは旬の広島の牡蠣を楽しむことを込みにした小旅行を兼ねてお越しいただけることでしょう。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。なお、今回の《班女》の公演のプログラムにも、作品解説の小文を寄稿させていただきました。

能とオペラちらし(アトレ会員用)さて、2月の16日から18日にかけては、今度は新国立劇場で細川さんのオペラ《松風》の日本初演が行なわれるわけですが、1月10日にはそのプレ・イヴェントとして国立能楽堂で開催された座談会「能とオペラ──『松風』をめぐって」に参加しました。前半には、能の「松風」より「汐汲みの段」と「狂乱の段」が舞囃子形式で上演され、後半には、これらの場面に対応するオペラ《松風》の上演記録映像の上映と、能とオペラ双方の「松風」をめぐる座談が行なわれました。その座談の末席に加わらせていただき、多くの刺激を受けました。前半では、銕仙会主宰の観世銕之丞さんの見事な謡と舞、そして法政大学能楽研究所の宮本圭造さんの解説によって、世阿弥の「松風」において謡うことと謡われる言葉、そして身体的表現が緊密に組み合わさっていることがよく伝わってきました。

また、能の上演を見た後でオペラの《松風》の上演映像を見ることで、細川さんとサシャ・ヴァルツさんが、謡うことと舞うことの結びつきを、独自のアプローチで現代のオペラに生かしていることも、あらためて考えさせられました。座談のなかで細川さんが、歌うことにおける遠く隔たった他者、ないしは死者との交感の可能性に触れておられたことと、どのような演出にも耐える強度に貫かれた音楽を書くという、オペラにおける作曲家の使命を語っておられたことは、噛みしめておかなければと思います。それから、オペラと能の双方を現代の芸術として生かし続けるためには、一見「わからない」ものに敢えて飛び込んで、それを自分のなかで深めていけるような若い人々を育てることと、そのような人々が集う場を作ることの双方が必要であることも、座談のなかで議論されました。議論の概要とダイジェスト版の映像は、すでに新国立劇場のウェブサイトの「公演関連ニュース」にて紹介されております。

今月は、この他にも座談の場に加わる機会が二度ありました。1月13日には、カフェ・テアトロ・アビエルトで佐藤零郎監督の新作映画『月夜釜合戦』をめぐる座談に、行友太郎さん、崔真碩さん、森元斎さんとともに参加しました。この日アビエルトでは、毎年『山谷(やま)やられたらやりかえせ』の上映会が開催されています。この映画の共同監督の一人山岡強一の命日に因んで行なわれるものです。すでにこの上映会で三度『山谷』は見ていますが、見るたびに今と結びつけて新たに考えさせられるものがあります。その問題は、年を追うごとに深刻なものになってきている気もします。

0113今年の上映会では、この『山谷』に加えて『月夜釜合戦』が上映されたわけです。山谷とともに代表的な寄せ場として知られる大阪の釜ヶ崎を舞台にした「釜」をめぐる騒動を通して、そこに生きるさまざまな人々のしたたかにして愛すべき生きざまを、ジェントリフィケーションが進む以前のこの街への哀惜も込めて鋭く浮き彫りにするこの劇映画は、痛快ななかに込み上げてくるものがある作品でした。『山谷、やられたらやりかえせ』と併せて見ることで、『月夜釜合戦』が、この映画の呼びかけにドラマをもって応えているところがよく伝わってきました。手つきをはじめとする身振りへの着目は、これらの作品に通底するところでしょう。歴史の流れを食い止めるような強度を持った人間の身体の躍動を、釜ヶ崎での生活のなかに浮き彫りにするこの作品が、広島で劇場公開されるのが待ち遠しいところです。

Komori&Seo_Postcard1月16日(火)には、Social Book Cafe ハチドリ舎で、広島市現代美術館で開催中の小森はるか+瀬尾夏美「波のした、土のうえ」巡回展のスピンオフ企画のトーク・セッションに、進行役として参加しました。ナイトトーク「仙台から/広島から」と題して開催される今回のセッションには、小森さん、瀬尾さんの他、同じく現代美術館で開催されている特別展「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」に興味深い作品を出品されている平野薫さんが座談に加わりました。ともにある場所に生きることのうちに、あるいはそのなかで着古された服に沈澱した記憶の痕跡を辿り、みずからを繰り広げるようにその記憶を解きほぐしていくような創作に取り組まれているアーティストたちの人と人の関係のなかでの活動について、とても刺激的なお話を聴くことができました。

現代美術館での「波のした、土のうえ」巡回展も非常に興味深いです。二人で陸前高田市を訪れたことをきっかけに結成された小森さんと瀬尾さんの「アート・ユニット」が、詩、絵画、ヴィデオ・アートなどいくつものメディアを駆使して、路地や浜辺などで聴き取った被災地に生きる、あるいは生きていた人々の物語を、さらにはその風景を細やかに描き取った作品や、現在進行形の記録などが展示されています。特別展「交わるいと」と併せてぜひご覧ください。ここでご紹介したような、芸術を通してこの世界に、この時代に、死者のことを忘れることなく生き延びることを、さらにはその自由を考える場で、今年もみなさまとご一緒できることを願っております。日曜から週明けにかけて、強い低気圧が日本列島を通過して天気が荒れるとも聞いております。お身体にお気をつけてお過ごしください。

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広島市現代美術館の「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」展を観て

majiwaruito_flyer_j-284x400室内にいるのに、どこまでも広がっていく風景と、そのなかを漂う風が感じられる。風景を描くものを含めた作品を造形することが、しばしば空所を埋め、空気の通う場を塞ぐことに行き着くのに対し、広島市現代美術館で開催されている(2017年12月22日から2018年3月4日まで)「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」展の空間には、すみずみまで風が通っている。作品の外へ、さらには展示空間の外部へ訪れる者を誘うその風は、作品の造形そのものが呼び寄せている。繊維を素材とした作品が集められたこの特別展を見てまず強く感じたのは、糸で織ることが、空気の通う回路を、すなわち「あいだ」を開く行為であるということである。

最初の展示室に漂っている上原美智子の「あげずば織」の織物は、きわめて細いと同時に、どこか生きものやその土壌との繋がりを思わせる糸を用いて織られているが、そのテクスチュアはきわめて繊細であると同時に、微かな遊びを醸し出している。その確かでありながら柔らかな存在感が、風を呼び込んでいた。織物の傍らに蚕から吐き出された糸が置かれているのも、どこか風が通うなかに生きものたちが息づく風景を感じさせる。上原の作品とともに、外へ広がる風景を想像させる作品としてまず挙げられるべきは、呉夏枝が亜麻で織った“Floating forest”であろう。

今年の早春に京都で見たこの作家の《仮想の島》(付記参照)が、水中に根を張りながら、島々を繋ぐように造形されていたのに対し、今回の「交わるいと」展の地上と地下の「あいだ」の円筒状の吹き抜けの空間に吊られた「浮遊する森」は、中空で風を通い合わせながら応え合う島々とその森林の奥行きある空間を感じさせる。亜麻で織られた一枚一枚の織物は、波打ち際とそこに広がる岩礁とともに、そこから森が続いていくことを想像させるが、そのような織物が不規則に吊られている空間は、一つの多島海のようでもある。空間に風を孕んで浮遊する織物は、海に浮かぶ島々への、その森に息づく、あるいは眠るものたちへの入り口を開くとともに、別の島へも通じていよう。

「浮遊する森」を紡ぎ出す亜麻の織物において、もう一つ注目されるべきは、その重層的な陰翳を醸す色彩である。この色彩が、織物のなかに深い奥行きとともに、風景を形づくるものたちの存在感をもたらしているわけだが、それは糸を抜くことによって浮かび上がってくるのだという。織ることは同時にほぐすことでもあり、その行為が風景を開いている。その空間は他所へ通じる「閾(しきい)」と言えるかもしれない。その閾の空間において、想像力は島々へ、この多島海の向こうの島々へ、さらにはこれらを深層で結ぶ記憶へと誘われる。

地に足を着けた手仕事としての織りが、別の場所への閾としての「あいだ」を開きうることは、福本潮子の《対馬IX/X》からも見て取ることができよう。印象的な藍の開口部を示すこの織物は、その素材となる糸のみならず、染織の技術なども、島々を人々が行き交うなかから伝えられてきたことを思い起こさせる。また、胡桃の繊維からあたかも生成するように編まれた籠は、内部空間の多次元性を示しながら、別の空間への閾を無数に開いていた。そのような多孔的な籠が、北村武資の化学繊維でありながら繊細に空気を通わせる織物とともに置かれることで、柔らかな運動性も示していたのが印象的だった。

染織が、繊維を布の平面へと織り込み、色を染め込んでいくことであるだけでなく、糸をほぐし、色を抜いていくことでもあることは、今回の展覧会から教えられたことの一つであるが、このことが独特の力強い造形に結びついている作品として、加賀城健の《Manipulation──モツレル、ウンガ、ナガレノ》を挙げることができよう。色を抜き、素材のなかに入り込むように指で描くことによって生み出されたおびただしい管は、無数の管が入り組んだ都市の地下空間を感じさせながら、今も地の底から管が生成するかのようにこちらに迫ってくる。そのモノクロームの色合いが、視角によって変わってくるのも面白い。

あるいは、ほぐすことを徹底させることも、想像力を喚起する造形に結びつきうる。このことを説得的に示していたのが、平野薫の《初着》であろう。初めてのお宮参りの着物をほぐし尽くすことによって作られたこの作品は、その独特の纏わりつくような存在感によって、幼年期から衣類に染みついてきた記憶を辿ることへ誘うが、そのなかでとくに印象的だったのは、がま口のハンドバックがほぐされた姿だった。それは、身体のうちに今も蠢くものへの開口部を示しているようにも見える。

「交わるいと」展の展示において興味深いのは、二人ないし二組の制作者が対をなすかたちで作品が配されていることである。なかでも、きわめて繊細であると同時に、温かさと風を通す柔らかさを感じさせる高木秋子の着物と、知的障害者支援施設しょうぶ園の利用者たちによる、おのずと生えてくるように生成し、既成の型をはみだしながらも、形や色へのしなやかな愛情を感じさせる刺繍作品とが、一つの空間に置かれることによって生じる「対の遊び」には、心温まる面白さがあった。

このように、制作者の対のうちに「あいだ」を開くことも含めて、今回の「交わるいと」展からは、幾重にも折り重なったあいだを感じ取ることができる。もとより、糸を紡ぎ、織ること自体も、さらには言葉を紡ぎ、そのテクスチュアを織りなすことも──間テクスト性の概念を持ち出すまでもなく──、回路ないし通い路としてのあいだを開くことであろう。織物を、テクストを生む者は、人と人の、物と物の、あるいは場所と場所のあいだから自己を生成させている。その出来事によって開かれたあいだに身を置き、現代の社会でともすれば凝り固まってしまう自分を内側からほぐし、あいだの風景とそこを吹き抜ける風に身を委ねる、その深い愉しみがこの「交わるいと」展にはある。

【付記】呉夏枝個展「仮想の島── grandmother island 第1章」(Voice Gallery pfs/w)を見て(2017年3月17日記)

亜麻を素材にグァテマラやインドネシアの織物の技法を参照しながら丹念に織られた地図、ないしは海図としての織物は、けっして平面で完結することなく、中空で螺旋をなしながら、あるいは地下茎を伸ばしながら、別の時空へ連なっていく。その様子は、人が記憶の越境的な連なりを生きていることと同時に、いくつもの記憶が海を越えて遭遇する可能性をも暗示しているように見える。海の上に火山島を思わせる島が浮かび上がる風景は、いくつもの記憶が折り重なり、さらには生の記憶が歴史と痛みとともに交錯することによって織りなされているのかもしれない。

目を変えながら織られた織物の上に黒のなかのさまざまな色が滲み出る──それが、島の像の存在感と遠さを一つながらに醸し出していた──ところには、テクスト、あるいはテクスチュアからこぼれ落ちるものが染み出ているようにも見えた。作品のテーマとなっている地図ないし海図とは、このような過程に人を引き込む一つの閾としての空間に身を置く一人ひとりの記憶のなかに織られていくのかもしれない。そのことは、吉増剛造とパウル・ツェランが詩作を、織ったり、編んだりすることに喩えていたことにも呼応するだろう。ギャラリーの内部に風を感じさせる空間が形づくられていたことも印象的だった。

新緑の季節の仕事

[2017年4/5月]

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三滝の公園の新緑

木々の緑に映える陽射しが初夏の眩しさを感じさせるようになりました。よく晴れた日はまだ空気が乾いているので、体感のうえでは気持ちよく過ごすことができます。そうした日は、三滝橋を渡って、大田川放水路の堤の上を、山々の緑と足下の草花を眺めながら歩くようにしています。橋の上からは、海から上ってきた大きな魚が悠々と泳ぐのが見られることもあります。四月からの日々も非常に慌ただしく、かつ暗澹とせざるをえないことばかりが続くので、こうしてようやく勤め先に通えるだけの心身の平衡を保っているところです。とはいえ、折々に講演や寄稿などの機会をいただいて、そのたびに刺激を得ていることには救われています。そのような場をご用意くださった方々に、心から感謝しています。そこで、四月以降の活動を、この間に接した演奏会や映画などの印象を含めてご報告しておきたいと思います。

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晴れた日の大田川放水路

まず4月29日には、広島市現代美術館で特別展「殿敷侃──逆流の生まれるところ」に関連して、「逆流の芸術──ヒロシマ以後のアートとしての殿敷侃の芸術」と題する講演を行ないました。殿敷が晩年に自作について語った「逆流」という語の含意を、彼の制作を貫くモティーフを指し示すものとして掘り下げながら、彼の芸術をヒロシマ以後のアートとして、狭義の美術を越えた広い文脈のなかで捉え直す可能性を探るお話をさせていただきました。幸いにして会場が一杯になるほどの方々にお集まりいただきました。講演会の場をご準備くださった広島市現代美術館の関係者のみなさまとご来聴くださったみなさまに、あらためて感謝申し上げます。

b5884546-s5月21日まで開催されていた「殿敷侃──逆流の生まれるところ」は、原爆によって両親を失い、自身も被爆したことに向き合い続けながら、実にさまざまな作風を試み、平面も、さらにはアトリエをも飛び出していった殿敷侃の活動の全容を、各地から集められた膨大な作品と、それにまつわる貴重なドキュメントによって浮き彫りにしようとする意欲的な回顧展でした。それをつうじて、作品の形態を変えながらも、このちょうど四半世紀前に亡くなったアーティストが、絶えず打ち捨てられ、忘れられたものを拾い上げ、今に甦らせようとしていること、それによって彼の芸術が、現在に介入する一つの行為に結びついていることも、美術館の空間とのせめぎ合いから伝わってきます。この殿敷侃展が、彼の芸術の踏み込んだ研究と、彼の作品の美術館への収蔵の契機になることを願っています。

top_image5月4日には、横川シネマでおよそ一年ぶりに映画を見ました。見たのは空族の新作『バンコクナイツ』。前作の『サウダーヂ』同様、三時間という長さを感じさせないテンポのなかに、今作ではタイの東北部イサーン地方の歌が効果的に差し挟まれて、映画に奥行きを添えていました。タイとラオスでのロケによるスケールの大きなロードムーヴィーであるのも、『バンコクナイツ』の特色でしょう。同時に、植民地主義が形を変えながら人々の内面にまで浸透する現在に対峙するかたちで、イサーン地方の抵抗としての生活の伝統を、さらにはその森林に逃れた抵抗者たちの足跡を掘り下げることによって、時間的にも空間的にも深みのある作品に仕上がっていると感じました。金に目がくらんだ植民者の欲望がいくつもの角度からこれでもかと抉られるのは『サウダーヂ』にも通じますが、『バンコクナイツ』では、それと同時に歴史に翻弄された人々の悲しみが、映像によって深く掘り下げられているのが特徴的でしょう。映画で流れるイサーン地方の歌には、震災と原発事故に遭った東北地方の人々や、米軍基地によって生活が侵食され続けている沖縄の人々の悲しみも反響しているように感じました。

5月5日には、広島市と大邱広域市の姉妹都市提携20周年を記念してのオペラの共同制作公演をアステールプラザへ観に行きました。演目はプッチーニの《ラ・ボエーム》。合唱を含む歌手が大邱オペラハウスから来演し、広島交響楽団や広島ジュニアコーラスなどが広島側から演奏に加わるかたちで公演が開催されました。何よりも大邱を拠点に活躍する歌手たちの声の強さに驚かされました。なかでもイ・ユンギョンという歌手は、ミミの苦悩を振幅の大きな、かつ彫りの深い表現で歌い上げていました。声の美しさも特筆されます。第三幕以降の切々とした歌唱は、とくに印象的でした。また、マルチェッロ役を歌ったキム・スンチョルという歌手の自然な発声と懐の深い歌は、この歌手の並々ならぬ実力を示すものと思われました。プログラムに記されていたプロフィールを見ると、韓国の歌手たちが実に貪欲に、韓国の外に活躍の場を求めていることがうかがえます。演出にはいくつか注文を付けたいところがありましたが、今回の《ラ・ボエーム》の共同制作公演が、大邱のオペラが高水準で活況を呈していることを、素晴らしい歌とともに伝えるものだったのは確かでしょう。

18401940_1500969589955408_2240876196494931709_o5月15日には勤め先の広島市立大学で、クレズマーの1980年代後半におけるアメリカでのリヴァイヴァルと、その後のグローバルな展開を象徴するミュージシャンで、グラミー賞を受賞したバンドKlezmaticsの創立メンバーでもあるフランク・ロンドンさんを迎えての特別講義とささやかなライヴを開催しました。ロンドンさんは、クレズマーをはじめ移民音楽の研究に取り組んでおられる松山大学経済学部の黒田晴之さんのご尽力によりお招きすることができました。午後の特別講義にも、夕方のミニ・ライヴにも、学外から多くのお客さまにお越しいただきました。ご来聴に心から感謝申し上げます。

特別講義は、ワールド・ミュージックのブームに乗ったクレズマーのリヴァイヴァルを見つめてきた音楽批評家東琢磨さんが、ロンドンさんにインタヴューするかたちで行なわれました。東欧ユダヤ人の言語であるイディッシュとクレズマーの結びつきや、アメリカでの他の音楽との混淆による音楽の変化などが、ディアスポラ(世界各地への離散)を生きるユダヤ人の二重の生活とともに語られました。お話のなかでは、世界中のさまざまな音楽と接触しながらグローバルに生成するなかで、東欧ユダヤ人の文化に由来する特殊なものの普遍性を体現していく、ロンドンさんのクレズマーの特徴も示されました。ショアー(ホロコースト)の記憶に向き合い、この言い表わしがたいものを歌う可能性を追求する、みずからの音楽の使命にも触れておられました。

夕方のライヴは、日本でいち早くクレズマーの魅力を発見し、それとストリート・ミュージックとの融合を図ってきたバンド、ジンタらムータとの共演により行なわれました。結婚式の踊りに使われた音楽をはじめ伝統的なクレズマーのほか、実に多彩な曲が披露されましたが、なかでもかつて美空ひばりが唄った《お祭りマンボ》の演奏は、ロンドンさんとジンタらムータの出会いを象徴するものだったと言えるでしょう。心の奥底からの祈りを、驚くほどの振幅で聴かせる曲もあれば、会場を祝祭的な興奮の渦に巻き込む激しいリズムの音楽もありましたが、どの曲からも聴く者の魂を揺さぶる力が感じられました。原曲がイディッシュの平和を祈る歌“Sholem-lid”が日本語の訳詞でプログラムの最後に歌われたことは、非常に意味深いことだったと思われます。

banar_motohashi5月20日には、原爆の図丸木美術館で開催されている本橋成一写真展「ふたりの画家──丸木位里・丸木俊の世界」と関連して原爆文学研究会との共催で開催された、本橋さんの監督による映画『ナージャの村』(1997年)と、この作品の公開から20年後の再訪ドキュメントの上映後のトークの聞き手役を務めました。当時8歳だったナージャを、地に根を張った村人たちの生きざまのなかに浮かび上がらせた映画を、大人になって町で働くナージャが登場する報告映像と併せて見るなかで、チェルノブイリの原発事故によってばらまかれた放射能によって、彼女が帰るはずの場所が失われ、生き物との関わりを含めた風景のなかの生が根こそぎにされつつあることを、原発事故の福島で起きていることと結びつけながら思わざるをえませんでした。それに対する哀しみによって貫かれていることが、『ナージャの村』の映像を今に生かしている気がしてなりません。そして、再訪ドキュメントを見ると、『アレクセイと泉』(2002年)を含めた、チェルノブイリ原発事故後のベラルーシを撮った作品が、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)とも通底するかたちで、人と人の密な関係のなかに一つの出来事を浮き彫りにするものであることも伝わってきます。この人間関係の始まりを含めて興味深いお話を、本橋さんからうかがうことができました。丸木夫妻の写真も含め、本橋さんの映像は、立ち振る舞いや仕草の細部から、既成の人物像をはみ出す人物を浮かび上がらせています。写真展を含め、とても見応えがありました。

18671216_1516927588359608_6340337683729439282_n5月25日には東京オペラシティのコンサートホールで、コンポージアム2017「ハインツ・ホリガーを迎えて」の一環として《スカルダネッリ・ツィクルス》の日本初演が行なわれましたが、そのプログラムに「ヘルダーリンの詩と音楽」と題する小文を寄稿させていただきました。作品解説を補完するかたちでヘルダーリンの生涯と詩作を音楽との関わりにおいて紹介する内容のもので、アドルノのヘルダーリン論「パラタクシス」を参照して、とくに二十世紀以降の音楽とヘルダーリンの詩の親和性に着目しました。今回の記念碑的とも言うべき《スカルダネッリ・ツィクルス》の日本初演の印象は、すでに別稿に記したとおりですが、これに立ち会えたことをとても嬉しく思っています。実演を聴いて、最晩年のヘルダーリンの詩にもとづく無伴奏合唱曲《四季》、小管弦楽のための《スカルダネッリのための練習曲》、フルート独奏のための《(t)air(e)》によってまとめられたこの《ツィクルス》が、「スカルダネッリ」の署名を持つヘルダーリンの詩が生まれる世界を、その崩壊も含めて厳密に構成/作曲したものであることがよく分かりました。ラトヴィア放送合唱団、フェリックス・レングリのフルート、そしてアンサンブル・ノマドの演奏も素晴らしかったです。

18679097_1385938901514262_1156041139_n5月28日には、アステールプラザのオーケストラ等練習場で開催された「安保惠麻 現代への眼差し──20世紀のヴィオラ作品を中心に」を聴きました。現在広島交響楽団と神奈川フィルハーモニー管弦楽団の首席ヴィオラ奏者を兼任されている安保さんの独奏を、初めて間近で聴いたことになります。ショスタコーヴィチの最後の作品であるヴィオラ・ソナタを中心とした演奏会でしたが、とくにその終楽章は素晴らしかったです。中間のカデンツァ風の一節から徐々に静まっていく展開の緊張感には息を呑みました。安保さんのヴィオラの音は豊かでありながら透明性も兼ね備えているので、このソナタの第一楽章の微かなピツィカートもよく響きます。そのことを生かした振幅の大きな表現が魅力的な演奏でした。その前に取り上げられた武満徹の《星が道に降りてきた》も美しかったです。ピアノの響きが道を作るなかに、ヴィオラの闊達な動きが豊かな歌とともに響いていたと思います。リゲティのソナタが聴けたのも収穫でした。どの楽章からもひと筋の線が感じられました。広島を拠点に活躍されている作曲家徳永崇さんの《舟歌If》の初演もありました。音戸の舟歌が変奏されるなかに風景を感じさせる曲、という印象を受けました。

このようにして新緑の時季は慌ただしく過ぎ、早くも六月に入りました。忙しさにかまけ、肝心の研究に関わる仕事を進められていないのには忸怩たる思いです。今月からは研究とその成果の執筆に力を傾注しなければなりません。その際、今ここで哲学することの意義があらためて問われることになるでしょう。このことを思うとき、5月20日に訪れた原爆の図丸木美術館に展示されていた丸木夫妻の共作《大逆事件》(1989年)が目に浮かびます。1910年に明治天皇の暗殺を共謀したとの理由で官憲に摘発された人々のうち、死刑となった12名の姿が絞首のためのロープとともに浮かび上がるその画面は、内心の自由を根底から脅かす「共謀罪」が制定されようとしている現在を、静かに問いただしています。異論を封じ、自発的隷従──これが「忖度」の意味するところでしょう──を強いる法律の制定を、許しがたい不正と暴力を重ねながら急ぐ政権の欺瞞は食い止めたいと思いますし、同時にそれによって圧殺されることのない精神の在り処を、思考によって他者たちのあいだに切り開きたいとも考えているところです。