Chronicle 2016

IMG_2190流行語の類いには普段まったく関心がありませんし、とくに日本で「流行語」と呼ばれるものには、これからも興味が持てないと思いますが、イギリスのオクスフォード辞典の発行元とドイツ語協会が「今年の言葉」に、揃って英語で言う“post-truth”(ドイツ語では„postfaktisch“)を選んだことは、現実に世界を覆いつつある由々しい動きを映し出しているように見えます。事実を突き止め、真実を伝えることはもはや尊重されず、威勢よく見えたり、「元気になる」ように響いたりしさえすれば、あるいは「センセーショナル」でありさえすれば、どのような嘘でもまかり通ってしまい、大衆を動かしてしまう時代が実際に到来しつつあるというヨーロッパの人々の認識が、そこには表われているのではないでしょうか。それを象徴するのが、EU離脱の判断を下したイギリス連邦の国民投票と、アメリカ合衆国の大統領選挙の結果であったということは、ここドイツでは、この一年の回顧のなかでしばしば耳にします。

IMG_1977これらを含む動きのなかで無視しえない役割を果たしている──それゆえ、現在ドイツでも対策が進められているようです──のが、英語で“fake news”(ドイツ語では„falsche Nachrichten“)と呼ばれるものですが、これは不安を抱えて孤立した個人に、とりわけ強く訴えかけます。すでに都市に「大衆」が出現した19世紀に、鋭敏な芸術家が気づいていたとおり、そのセンセーションに反応することで、こうした個人は自己の存在を確かめ、それによって「マス」として一様に行動するようになるのです。ベルリンのクリスマスの市へのトラックによる襲撃事件が起きた後、実際にそのようにして„falsche Nachrichten“に踊らされる人々を目にしました。そのことを利用するのを、「新たなポピュリズム」と呼ぶ必要はないでしょう。嘘への反応を束ねることは、ファシズムの定義に当初から含まれていることではないでしょうか。ただし、その具体的な技術には、ディジタル時代ならではの変化が見られるようです。たまたま目にした新聞記事では、インターネットをつうじて世界中にばらまかれた“fake news”が、マケドニアの小さな街で作られている様子がリポートされていました。

IMG_2045とはいえ、日本の人々はすでに、とくに現政権下で長いこと“post-truth”的状況を生きているのではないでしょうか。たまに日本のマス・メディアのウェブサイトを見ると、そのような思いを強くせざるをえません。もちろん、地道に事実を追い、真実を伝えようと努めているジャーナリストがいることは存じていますし、その仕事に対してはいくら敬意を表わしても足りないと思っています。しかし、実際に公共空間にたれ流されているのは、世界で、いや日本でも今何が起きているのかを忘れさせながら、「日本」への空虚なナルシシズムを助長させる、その本質が“fake”であるとしか言いようのない「ニュース」ではないでしょうか。そのようななか、とくに沖縄の人々の生活を踏みにじるかたちで、日米の軍事的な一体性を強める基地建設が進められ、憲法の下で禁じられていたはずの海外派兵が既成事実化されようとしています。まもなく任期を終えようとしているオバマ大統領の広島訪問も、日本の現首相のパール・ハーバー訪問も、そのような「日米同盟」の動きを覆い隠すかたちで演出された観は否めません。

img_0199このような状況に対して、現在ヨーロッパで生活している経験にもとづいて一つだけ言いうることがあるとすれば、そうして戦争のなかに入り込んでいくことによって、戦争に関わる暴力は必ず、袋を裏返すかのようにして、形を変えて自分たちに跳ね返ってくるということです。今年に入ってもヨーロッパで繰り返し起きている痛ましい出来事のいくつかは、そのことを示していることでしょう。それに憎悪をもって応じるなら、このことは実際に住んでいる空間を、自分の手で破壊することになります。なぜなら、集団どうしの憎悪は、すでに後戻りできないほど雑種化し、複雑化した社会を、根底から破壊するからです。憎悪は、異質な人々のあいだを引き裂いてしまいます。そして今、そのことに“post-truth”的状況がひと役買っていることは、何よりも憂慮すべきことと思われます。センセーションに身を委せ、みずから知り、考えることを止めてしまうと、他者を集合的な属性でしか見られなくなって、他者の一人ひとりに対する細やかな注意力が失われてしまうのではないでしょうか。憎悪の根にそのような問題があることを示している一つが、最近通読したカロリン・エームケの近著『憎悪に抗して』(Calorin Emcke, Gegen den Hass, Frankfurt a.M.: Fischer, 2016)です。

img_2377それなしには「愛」の概念すらも考えられない、一人ひとりの他者に対する注意力。これが他者とのあいだに生きるなかに、不可欠のかたちで働いていることを思い出させ、それを深める契機をもたらしうるのが、人文学の知であり、芸術の営みであるはずです。これらの使命は今、従来にも増して重いものがあると考えられます。私自身は現在、一人ひとりの他者に対する細やかさを、歴史を生きるなかに、さらに言えば死者の魂とともに生きるなかに──それは、地上の生の基本的な条件をなしているはずです──回復する道を、歴史そのものを問うことをつうじて探っているところです。幸いなことに、今年は4月からそのための研究の機会をここベルリンで得ておりますが、時が経つのは早いもので、その期間も残り少なくなってまいりました。下記のクロニクルに挙げましたように、論文などはいくつか執筆し、すでに公にする機会にも恵まれておりますが、文献研究にはまだまだ不足を感じています。そして、あともう一つ論文をある程度の形にしておきたいとも考えています。

51fwl3vou1l今年は12月に入って、積年の課題であった細川俊夫さんの対談書Toshio Hosokawa — Stille und Klang, Schatten und Licht: Gespräche mit Walter-Wolfgang Sparrerの翻訳を世に送ることができました。『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』という訳題にてアルテスパブリッシングから刊行されております。自然のなかに生きる魂の息吹から音楽そのものを考えさせる一書として、お手に取っていただければ幸いです。刊行に至る過程は、私にとって非常に学ぶことの多いものでした。また、自分の表現力のなさを呪いながら論文をドイツ語に訳して発表する機会を持てたのも、よい経験でした。校閲者と原稿を遣り取りする過程も学ぶことが多かったですし、論文の趣旨を理解してくれる人がいたことは、本当に嬉しかったです。中國新聞文化面「緑地帯」に、「ベルリン−ヒロシマ通信」と題するコラムを連載できたのも、またとない経験でした。これらを、今後少しずつ思考の表現形態の幅を広げる足がかりにできればと思いますが、その前提として地道な研究の積み重ねがあることは言うまでもないことでしょう。引き続きご指導のほどよろしくお願い申し上げます。来たる年がみなさまにとって、少しでも平和で幸せに満ちた一年になりますように。

■Chronicle 2016

  • 1月25日:芸術批評誌『リア』第36号の特集「2015 戦争を視る」に、「褐色の時代に抗いながら戦争の核心に迫る表現の交響──広島県立美術館での『戦争と平和展』を見て」という表題の小文を寄稿させていただきました。2015年7月25日から9月13日まで広島県立美術館で開催された「戦争と平和展」の展覧会評です。ミロの《絵画》と靉光の自画像の同時代的な呼応を出発点としながら、ピカソ、井上長三郎、オットー・ディックス、浜田知明、香月泰男らにおける戦争の暴力の核心に迫る表現に触れるとともに、この展覧会に出品されていた作品からうかがえる戦争画の問題性にも言及する内容のものです。
  • 1月27日/2月3日/2月10日:ヒロシマ平和映画祭2015/16の催しとして、「奥間勝也Artist Talk+新作上映会──広島で記憶と継承を考える:沖縄の映像作家を迎えて」と「消された記憶の痕跡を辿り、現在の暴力の淵源に迫る映画『ルート181:パレスチナ〜イスラエル 旅の断章』上映会」を、広島市立大学講堂小ホールを会場に開催しました。また、2月10日には、「ドキュメンタリー作品上映+Talk Session:ヒロシマ/広島/廣島を映像で見つめ、伝える──映像作家・プロデューサー平尾直政さんを迎えて」を広島市立大学サテライトキャンパスにて開催しました。
  • 2月27日:成田龍一さんをはじめとする研究者が続けておられる科研費の研究会で最近の仕事を取り上げていただきました。岩崎稔さんに『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)を、村上陽子さんには『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ』(インパクト出版会、2015年)を、それぞれ綿密な読解にもとづいて論じていただきました。これらに対する応答の時間も取っていただきました。
  • 3月1日:形象論研究会の雑誌『形象』創刊号に、「ベンヤミンの形象の理論──仮象批判から記憶の形象へ」と題する論文と森田團さんの『ベンヤミン──媒質の哲学』(水声社、2011年)の書評が掲載されました。論文は、ベンヤミンが初期から最晩年に至るまで繰り広げた形象の理論を、彼の言語哲学、歴史哲学、美学の結節点と捉えたうえで、彼の思考の核心をなすものとして浮き彫りにしようとする内容のものです。言語を媒体と考える言語哲学を踏まえつつ、形象それ自体が媒体として捉えられていることを念頭に置きながら、「美しい仮象」の批判を経て、想起の媒体にして新たな歴史の場となる可能性へ向けて形象の概念を洗練させていくベンヤミンの思考を辿りました。
  • 3月20日:広島で開催された森元斎さんの著書『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社)の合評会で、「出来事の生成の哲学、あるいは生きられるアナキズム」と題する書評を発表しました。
  • 3月20日:広島市立大学広島平和研究所編『平和と安全保障を考える事典』(法律文化社)に、マルクス主義、国際共産主義運動、プロレタリア独裁、失地回復主義の項目を寄稿しました。
  • 3月26日:中央大学後楽園キャンパスにて開催された中央大学人文科学研究所の公開シンポジウム「ドイツでオペラをつくるということ──ハンブルク歌劇場での細川俊夫《海、静かな海》初演を振り返る」にパネリストとして参加し、「細川俊夫の作品に見る現代の芸術としてのオペラの可能性」と題する発表を行ないました。ベルリンでの《松風》、デュイスブルクでの《班女》、広島での《班女》および《リアの物語》というように、ドイツと広島で細川俊夫さんのオペラ作品の上演に接してきた経験を振り返りつつ、能の精神から現代のオペラの表現の地平を開拓してきた細川作品の特質に触れました。そのことを踏まえて、ハンブルクで初演された《海、静かな海》の細川さんのオペラ作品における位置をあらためて測り、その初演を振り返ることによって、東日本震災および原発事故後の現代に向き合うこの新たなオペラの特徴を現代の芸術としてのオペラの可能性へ向けて考察しました。
  • 4月1日:広島市立大学の学外長期研修制度にもとづくベルリンでの在外研究が始まりました。ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授の下で「〈残余からの歴史〉の哲学的・美学的探究」という研究課題に取り組んでいます。主に、ベルリン自由大学の文献学図書館とヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフを利用しながら研究を進めています。前期中の卒業論文の指導「卒論演習I」は、Skypeをつうじて行ないました。
  • 4月10日:出版総合誌『出版ニュース』2016年4月上旬号の「書きたいテーマ・出したい本」コーナーに「残余からの歴史へ」と題する小文を寄稿しました。詩人パウル・ツェランが語った、破局を潜り抜けて最後に残った言葉を手引きに、破局の残余の記憶が星座のような布置を形成し、相互に照らし合わせるなかに、現在の危機が照らし出されるような残余からの歴史の理論的な構想を提示する内容のものです。
  • 4月23日:4月23日から6月5日まで横浜美術館にて開催された「複製技術と美術家たち──ピカソからウォーホルまで」展のカタログに、「切断からの像──ベンヤミンとクレーにおける破壊からの構成」という論考を寄稿させていただきました。ベンヤミンが先の「複製技術時代の芸術作品」をはじめとする著作で示している、完結した形象の破壊、技術の介入によるアウラの剝奪、時の流れの切断などをつうじて新たな像の構成へ向かう発想を、クレーがとくに第一次世界大戦中からその直後にかけての時期に集中的に示している、作品の切断による新たな像の造形と照らし合わせ、両者のモティーフの内的な類縁性と同時代性にあらためて光を当てようと試みるものです。
  • 5月6日:秋富克哉、安部浩、古荘真敬、 森一郎編『続・ハイデガー読本』(法政大学出版局)に、「ブロッホ、ローゼンツヴァイク、ベンヤミン──反転する時間、革命としての歴史」と題する論文を寄稿しました。これら三人のユダヤ系の思想家と、初期のハイデガーの時間論と歴史論を照らし合わせ、ユダヤ系の思想家たちが構想する「救済」と結びついた歴史の理論と、『存在と時間』の「歴史性」の概念に最初の結実を見ることになるハイデガーの歴史論との差異を見通す視座を探る内容のものです。
  • 5月19日/20日:4月6日から8月1日にかけてパリのポンピドゥー・センターで開催された大規模なパウル・クレー展「パウル・クレー──作品におけるイロニー」に関連して関連してGoethe-Institut Parisにて開かれた国際コロック「パウル・クレー──新たな視点」に参加しました。展覧会評と合わせたその報告記は、形象論研究会の雑誌『形象』第2号に掲載される予定です。
  • 6月27日:ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキウムにて、ヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学についての研究の初期の成果を「想起からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学」と題して発表する講演を行ないました。
  • 7月27日:青土社の『現代思想』2016年8月号の特集「〈広島〉の思想──いくつもの戦後史」に、「そこに歴史はない──ベルリンからグラウンド・ゼロとしての広島を思う」と題する論文を寄稿しました。ベルリンと広島のアメリカを介した結びつきに、広島の被爆から現在も続く核の歴史の起源があることを確認したうえで、その歴史を担う人物としてのアメリカ合衆国大統領の来訪を迎えた広島の現在を、歴史的かつ批判的に考察する内容のものです。とくにそこにある「軍都」の記憶の抑圧と国家権力を正当化する物語への同一化が、沖縄の米軍基地の問題をはじめとする現在の歴史的な問題の忘却に結びついていることを指摘しました。そのうえで、一人ひとりの死者の許に踏みとどまるかたちで被爆の記憶を継承していくことのうちに、国家権力の道具となることなく、他者とともに歴史を生きる道筋があることを、残余からの歴史の概念の研究構想のかたちで示唆し、この歴史のグラウンド・ゼロとして広島を捉え返す思考の方向性を提示しました。
  • 8月16日〜19日:広島市立大学国際学部の専門科目「共生の哲学I」の集中講義を行ないました。
  • 8月30日〜9月8日:中國新聞文化面の「緑地帯」に、「ベルリン−ヒロシマ通信」と題する全8回のコラムを寄稿しました。ベルリンでの在外研究期間中に見聞きしたことを交えつつ、今も続く核の歴史に、記憶することをもってどのように向き合いうるか、その際に芸術がどのような力を発揮しうるか、といった問いをめぐる思考の一端を綴るものです。
  • 8月31日:原爆文学研究会の会誌『原爆文学研究』第15号に、能登原由美さんの著書『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』(春秋社、2015年)の書評を寄稿しました。長年にわたり著者が取り組んできた「ヒロシマと音楽」委員会の調査活動の経験にもとづく楽曲分析と平和運動史を含んだ現代音楽史の叙述によって、「ヒロシマ」が鳴り響いてきた磁場を、政治的な力学を内包する場として、「ヒロシマ」の物語の陥穽も含めて浮き彫りにするものと本書を捉え、今後もつねに立ち返られるべき参照点と位置づける内容のものです。
  • 9月25日/26日:ヴァルター・ベンヤミンが1940年に自死を遂げたスペインのポルボウを調査に訪れました。それをつうじて得られたことはいずれ著書などに反映させたいと考えています。
  • 10月〜2月:広島市立大学国際学部の専門科目「専門演習II」と「卒論演習II」(卒論指導)を、Skypeをつうじて行なっています。「専門演習II」では、テオドーア・W・アドルノの『自律への教育』(原千史他訳、中央公論新社)を講読しています。
  • 10月2日:ハンブルク・ドイツ劇場で活躍されている俳優の原サチコさんがハノーファーで続けておられるHiroshima-Salon(ハノーファー州立劇場のCumberlandsche Galerieにて)のトーク・セッションに参加させていただき、今ここで原爆を記憶することの意義と課題、そしてギュンター・アンダースの思想について、少しお話させていただきました。
  • 10月20日/21日:ミュンヒェンのHaus der Kunstで開催されている„Postwar: Kunst zwischen Pazifik und Atlantik, 1945-1965“を観覧しました。この展覧会は、第二次世界大戦終結後の20年間の美術の展開ないし変貌を、Postwarという視点から、太平洋と大西洋の両方にまたがる世界的な視野を持って捉えようとする大規模なものです。そこに丸木位里、丸木俊の《原爆の図》から2点が出品されたことも含め、お伝えしていく予定です。
  • 11月26日:ひろしまオペラ・音楽推進委員会が主催したひろしまオペラルネッサンス2016年度公演《修道女アンジェリカ》、《ジャンニ・スキッキ》(11月26日/27日、JMSアステールプラザ大ホールにて)のプログラムに、「生がその全幅において肯定される場を開くオペラ──プッチーニの『三部作』に寄せて」と題するプログラム・ノートを寄稿しました。「三部作」の作曲に際してプッチーニがダンテの『神曲』を意識していたことを踏まえつつ、第一次世界大戦のさなかに書かれたこのオペラの独自性に迫ろうとする内容のものです。歌とハーモニーの美しさが際立つ《修道女アンジェリカ》とドラマの展開が特徴的な《ジャンニ・スキッキ》の魅力に触れつつ、「三部作」が、ダンテの作品とは異なったかたちで生がその全幅において掬い取られる場を開いていると指摘しました。
  • 11月29日:ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキウムで、「形象における歴史──ベンヤミンの歴史哲学における構成の理論」と題する論文をドイツ語に訳したものを発表する講演を行ないました。その日本語の原稿は、形象論研究会の会誌『形象』の第2号に掲載される予定です。
  • 12月12日:細川俊夫さんの対談書『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』が、拙訳にてアルテスパブリッシングから刊行されました。2012年にドイツで出版された細川俊夫さんと音楽学者ヴァルター゠ヴォルフガング・シュパーラーさんの対談書Toshio Hosokawa — Stille und Klang, Schatten und Licht: Gespräche mit Walter-Wolfgang Sparrer (Hofheim: Wolke, 2012) の日本語版です。現代を代表する作曲家細川俊夫さんがその半生とともに、創作と思索の軌跡を語った対談書ですが、細川さんの作曲活動の全体に見通しを与えながら、その音楽の核心にあるものを浮かび上がらせる、本格的な細川俊夫論でもあります。一書にまとまった評論としては世界初です。日本語版には、細川さん自身による新たな序文、豊富な写真や譜例の他、2016年前半までの年譜、作品目録、ディスコグラフィを収録しています。

ベルリン通信IV/Nachricht aus Berlin IV

[2016年8月1日]

IMG_2190

ベルリンの壁が残されているEastside Galleryからオーバーバウム橋を望む風景

ベルリンの七月は予想した以上に涼しく、夏の暑さを感じる日が少なかったように思います。今年はやや特別なのかもしれませんが、気候がずっと不安定で、一日のあいだにも目まぐるしく天気が変化しています。七月中旬には、曇りがちで、気温が20度ほどまでしか上がらない日が続いた時期もあり、そのせいで風邪を引いてしまいました。七月は蒸し暑いものと思い込んでいる身体が対応しきれなかったのでしょう。このような不安定な気候は、どこか人を不安にさせるものですが、それが的中したかのように、ドイツでは七月の下旬に、痛ましい出来事が相次ぎました。ヴュルツブルクで発生した列車内での刺傷事件に始まり、ミュンヒェンのショッピング・センターで起きた銃乱射事件、それにアンスバッハの野外コンサートの会場での自爆事件と日を置くことなく起き、ドイツ社会は大きく揺さぶられました。

捜査の進展により、徐々に容疑者のバックグラウンドが明らかになりつつありますが、これらの凶行に及んだのがいずれも社会から孤立した一人の若者であったことは、ドイツの社会を、ひいては人間関係を成り立たせていた根本的な何かが、すでに壊れてしまっていることを露呈させているのかもしれません。このことを感じ取っている人々は、シリアなどからドイツへ難を逃れてきた人々を何らかのかたちで社会に参加させる努力を続けています。七月の末には、Souk Berilinによるストリート・フードのフェスティヴァルに家族で出かけましたが、そこにはシリアやアフガニスタンなどの料理が並んでいました。きっとこれらの国々から逃れてきた人々も、料理の腕を振るったことでしょう。ステージでは、何人かの難民がベルリンまでの道程を語っていました。

言うまでもなく、こうした催しよりも重要なのが日常的な人間関係ですが、その背景にある他者観に関しては、ドイツでは両義的な様相が垣間見えます。ベルリンのような、すでにさまざまなバックグラウンドを持つ人々を受け容れている都市ではとくに、多くの人々がどこから来た人に対してもオープンですが、やはり差別を含んだ排外主義的な考えが浸透しつつあるのも確かで、このことを視線から感じることもあります。このような状況のなかで、娘が一人ひとりを大切にする温かい雰囲気のなかで学べたのは、幸運なことと言わなければなりません。7月20日でベルリンの公立の学校は夏休みに入り、娘も通知表をもらって来たわけですが、その二日前には、放課後に親たちで準備した終業パーティーが近くの公園で催され、担任の教師にプレゼントが贈られました。教師のほうでも、一人ひとりの生徒に手作りの小さな贈り物を用意していました。25人に満たないクラスだからこそ可能なことでしょう。

0711_GS_201608私がお世話になっているベルリン自由大学の夏学期はほぼ終わったようで、おおよそ毎日通っている文献学図書館の利用者もまばらになってきました。七月の下旬は、試験の準備や課題の研究のために図書館へ来る学生が多く、空いている席を見つけるのに苦労することもしばしばでした。このあたりは、日本の大学とまったく同じです。今は、静かになった図書館で、これまでの研究をさらに発展させる道筋を探るべく、文献を読むことに再び力を入れようとしています。7月の下旬には、これまでの研究を、今後の研究の構想も含めて日本語でお伝えする機縁にも恵まれました。その原稿を書くことは、広島の現在をベルリンから見つめながら、私自身が広島との結びつきのなかで哲学することをあらためて問い直す機会ともなりました。

 

Dahlem_Thielallee_Hahn-Meitner-Bau

『現代思想』所載の拙稿で触れたかつてのカイザー・ヴィルヘルム研究所の建物

先日発売された青土社の『現代思想』の2016年8月号の特集は、「〈広島〉の思想──いくつもの戦後史」で、尊敬する友人や先達たちが力のこもった論考や記事を寄せて、広島の現在を照らし出し、広島という場に凝縮されている問題を掘り起こしています。私もその特集に、「そこに歴史はない──ベルリンからグラウンド・ゼロとしての広島を思う」と題する小文を寄稿させていただきました。ベルリンと広島のアメリカを介した結びつきに、現在も続く核の歴史の起源があることを確認し、その歴史を担う人物を迎えた広島の現在を、歴史哲学的に考察する内容のものです。広島に見られる「軍都」の記憶の抑圧と国家権力を正当化する物語への同一化が、沖縄の米軍基地の問題をはじめとする現在の歴史的な問題の忘却に結びついていることを指摘したうえで、一人ひとりの死者の許に踏みとどまるかたちで被爆の記憶を継承していくことのうちに、国家権力の道具となることなく、他者とともに歴史を生きる道筋があることを、残余からの歴史の概念の研究構想のかたちで示そうと試みました。ご関心がお有りの方にご笑覧いただければ幸いです。

さて、演奏団体や劇場のシーズンは、だいたい七月の前半で終わるので、先月はあまり生の音楽に触れる機会はなかったのですが、中旬にはベルリン州立歌劇場で、シーズン末の„INFEKTION!“の一環で上演されたサルヴァトーレ・シャリーノの室内オペラ《裏切りのわが瞳》(原題は“Luci mie traditrici”)を観ることができました。冒頭に子どもの声で印象的に歌われるカルロ・ジェスアルドのフランス語のシャンソンを軸に、妻とその愛人を殺害するに至るこの作曲家の物語(実話)が、間奏による何度かの中断を挟みながら展開され、バロック悲劇的とも言える破局の結末を迎えるこのオペラにおいて最も印象的だったのが、独特の風や気配を感じさせるシャリーノの音楽のなかに、冒頭のシャンソンが緻密に組み込まれていたことでした。また、恋と嫉妬における人間の盲目──それゆえに瞳は裏切るのでしょう──を鋭く浮き彫りにするこのオペラは、短いながら非常にスリリングでした。ユルゲン・フリムによる様式感のある洗練された演出の下、素晴らしい演奏でシャリーノの音楽の時空間の広がりを体験することができました。

七月は、演奏会場や劇場に出かけなかった代わりに、いくつか美術の展覧会を見に行きました。そのうち二つの展覧会をご紹介しておくと、まず絵画館(Gemäldegalerie)では、特別展„El Sigro de Oro: Die Ära Velàzquez“(「黄金の世紀──ベラスケスの時代」)が開催されています。フェリペ四世の時代を中心に、スペインが栄えていた主に17世紀の絵画と彫刻を集めた展覧会で、非常に見ごたえがありました。会場に入ってすぐのところでエル・グレコの素晴らしい《受胎告知》が見られますし、もちろんベラスケスの力強い人物の造形も堪能できます。ムリリョのイメージが少し変わる宗教画もいくつかありました。もちろん、彼らしい優しい絵もあります。とはいえ何よりも印象深かったのは、スルバランの作品。着衣の重みが質感とともに迫ってくるような聖フランチェスコの肖像には、思わず見入ってしまいました。イベリア半島の各地方の特徴も興味深く感じたところです。

IMG_2091

聖アンドレアス教会

もう一つご紹介しておきたいのは、ハンブルク駅現代美術館での「暗黒の時代──コレクションのいくつかの歴史 1933〜1945年」という展示です。ナチスが政権の座にあったこの期間のナショナル・ギャラリーのコレクション史を示す展示です。改装中の新ナショナル・ギャラリーのコレクションの一部が、こちらの美術館の一角に企画展のかたちで展示されるようになっています。イタリアも含めたファシズムに利用された作品とともに、「頽廃芸術」の烙印を押されて没収された作品などが、この時代におけるそれらの作品の歴史とともに展示されていました。小規模ながら、歴史的な資料とともに非常に見ごたえのある展示です。まず興味深かったのは、カール・ホーファーの《暗黒の部屋》と題された1943年の作品。太鼓を叩く人物を中心に、この時代の剝き出しにされた人間の虚ろな姿が、独特の彫刻的なところもある輪郭線とともに浮かび上がっています。近くに架かっていたパウル・クレーの《時》という小さな作品とともに、この時代を象徴するものと見えます。ホーファーの実作を見るのは初めてでしたが、具象的な画風を貫いた同時代の日本の画家とも比較研究されたらよい画家とも思われました。アルノルト・ベックリンの《死の島》は、この絵が総統の執務室を飾っている写真とともに展示されています。

IMG_2075

テルトウ旧市街の風景

「暗黒の時代」の展示で個人的に最も印象的だったのは、いずれも「頽廃芸術」とされたエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーとリオネル・ファイニンガーの作品でした。とくに後者のテルトウの街の風景を深い色調のなかに緻密に造形した《テルトウII》は、彼の傑作の一つと思われました。そこには教会の塔が浮かび上がっていますが、それは今もテルトウの旧市街にある聖アンドレアス教会の塔です。それが実際にはどのような様子か気になったので、晴れた日の夕方、娘と一緒に散歩がてらその教会へ行ってみました。思ったよりもこぢんまりとした佇まいです。建物の前には、1265年に街の教会となった経緯が書かれたプレートがありました。その後1801年に消失した建物の再建には、カール・フリードリヒ・シンケルが関わり、擬古典主義とネオ・ゴシックを折衷するかたちで外観を設計したとのことですが、確かにベルリンのネオ・ゴシックの教会とは趣を異にしています。この塔のフォルムに、ファイニンガーを触発するものがあったのでしょう。さまざまな石を埋め込んだ外壁も、遊びがある感じでです。テルトウの街も、ベルリンの街とは違った雰囲気でした。学校が夏休みのあいだ、ベルリンの近郊の街へもできるだけ出かけたいと思います。なかにはドイツの現代史を現在との関わりで考えるうえで重要な場所もあります。

節目の夏の仕事

原民喜の持ち家の庭の川縁に被爆以前から生えていたという被爆柳

原民喜の持ち家の庭の川縁に被爆以前から生えていたという被爆柳

2015年8月6日、広島は被爆から70年の節目を迎えました。そのことは何よりもまず、広島で被爆を記憶していくことに重い課題を突きつけるものとして受け止められる必要があるでしょう。原爆を直接体験しなかった人々が、被爆の痕跡と死者の記憶を深く胸に刻みながら、同時に広島で何が起きたのか、なぜ起きたのか、と問い続けながら、みずからの手で被爆の記憶を絶えず新たに呼び起こし、伝えていかなければならない時代が到来しています。そして、そのことは今や、世界史的な文脈のなかに広島を位置づけながら、他の場所で起きた、あるいは起きつつある苦難の出来事と、広島の被爆を照らし合わせることで現在を見通し、同様のことが繰り返されることを食い止めようと努めることでもあるはずです。このように、今ここで被爆を記憶することついての理論的な考察の一端を、先頃上梓した拙著『パット剝ギトッテシマッタ後の世界──ヒロシマを想起する思考』(インパクト出版会、2015年)のなかに示しておきましたので、ご一読いただけるとありがたいです。

さて、被爆という出来事を、他の出来事と照らし合わせながら、その特異性において記憶する具体的な実践の可能性を探るうえで、8月7日という被爆の記憶の継承へ向けて新たな一歩を記すべき日に行なわれた、アニー・デュトワさんの講演は示唆に富むものだったのではないでしょうか。当日は、この講演を含む「アニー・デュトワ博士と広島の学生との平和交流&萩原麻未による被爆ピアノ演奏」(広島交響楽団主催)の進行役を務めさせていただきました。アニー・デュトワさんは、5日に行なわれた広島交響楽団の「平和の夕べ」コンサートで、これ以上はありえないと思われるベートーヴェンのピアノ協奏曲とシューマンの小品の演奏を聴かせてくれたマルタ・アルゲリッチの愛娘。その演奏会に来られた方には、チャールズ・レズニコフの詩と原民喜の詩を、作家の平野啓一郎さんとの絶妙の掛け合いとともに印象深く朗読されたのが記憶に新しいところでしょう。

デュトワさんの講演は、アウシュヴィッツとヒロシマがいずれも語りえない、自分の経験と関連づけるのがきわめて困難な出来事である点で通底していることを念頭に置きつつ、そのような出来事を、自分と結びつけながら、かつ現在の問題として理解することの重要性を、ヨーロッパ中から集まった17、8歳の若者たちとアウシュヴィッツを訪れた経験にもとづいて語りかける内容でした。まず、今なお歴史修正主義がはびこるなかで、歴史的な事実をしっかりと知っておくことがまず重要であることを、ショアー(ホロコースト)にまつわる基本的な事実やデータを紹介しつつ述べておられましたが、知識としての歴史だけではけっして充分ではないことを強調されていました。犠牲者に共感しつつ、なぜこのようなことが起きたのかを、想像力を働かせて自分の問題として理解しようとしなければ、将来を切り開く行動は生まれないとのことです。

そのために、デュトワさんがヨーロッパの若者たちと参加した“Trains des milles”(千人の列車)プロジェクトは、さまざま工夫を行なっているようです。例えば、近代史上の人物を一人選んで、この人物にとって最も大事な身の回りの物は何かを考え、その人物のスーツケース──ユダヤ人たちがアウシュヴィッツへ携えて行ったスーツケースです──を自分で作り、個々人の経験への共感の回路を開く試みがなされているとのことでした。また、若者たちは34時間かけて列車でアウシュヴィッツを目指すわけですが、その列車にはアウシュヴィッツの生き残りが同乗し、みずからの体験を語るのだそうです。広島における被爆の記憶、ないしは戦争の記憶の継承の可能性を考えるうえでも参考になることの多いプロジェクトではないでしょうか。

デュトワさんは、ヨーロッパで極右勢力がじわじわと拡大し、反ユダヤ主義をはじめとするレイシズムが声高になりつつあるなかで、“Trains des milles”のようなプロジェクトの重要性はいっそう高まっていると述べていました。まして歴史修正主義が一種の大衆性すら帯びるなか、ヘイト・スピーチがパブリックな媒体においても行なわれているこの国では、そうしたプロジェクトは喫緊の課題と言うほかありません。同時にこうした若者が参加するプロジェクトに、文学や音楽をはじめ、芸術に触れる機会を組み込み、若者たちのなかに共感の回路を開くことの重要性も、デュトワさんと確認し合ったところです。広島ではとくに、原爆文学と呼ばれる文学の作品を深く味わう機会を設けることが大事ではないでしょうか。その一つとして原民喜の被爆時の足どりを辿るフィールドワークは、非常に有意義な機会と思われます。

8月5日、広島花幻忌の会が主催する原民喜の「夏の花」を歩くフィールドワークに、学生たちと参加しました。炎天下を、原民喜が目の当たりにした被爆時の光景を思いながら、彼の生家の跡から「夏の花」の基になる「原爆被災時のノート」が書き始められた東照宮まで歩きました。民喜の甥の時彦さんのお話を聞きながら、また原民喜の文学を研究されている竹原陽子さんの朗読を聴きながら、被爆時の原民喜の足跡を辿ることができるのは、「夏の花」を深く読むうえでも、この作品に込められた記憶を絶えず新たに呼び覚ましていくうえでも、とても貴重なことです。もっと多くの若い人たちに参加してほしいものです。

ところで、広島と長崎の被爆とともに、敗戦からも70年が経とうとしていますが、それとともに戦争の記憶が薄れ、戦争体験者の平和への切なる願いも、忘れられつつあるように思えてなりません。まさにそのような今、「平和」という言葉が、生きることから掠め取られ、殺し、殺されるのに人を駆り立てるのに使われ始めています。そして、そのような、いわゆる「安保法制」の確立へ向けた動きを貫くのは、記憶殺しとも言うべき歴史修正主義であり、帝国日本の植民地主義を支えたレイシズムです。こうした考えを抱きながら、現政権の無法なやり方を批判する拙稿を、週刊書評紙『図書新聞』第3218号(2015年8月8日)の特集「『戦争法案』に反対する」に掲載していただきました。

拙稿は、「記憶を分有する民衆を、来たるべき東洋平和へ向けて創造する──平和を掠め取り、言葉を奪い、生きることを収奪する力に抗して」という表題のものですが、これは今年のささやかな平和宣言です。平和という言葉のみならず、言葉そのものを、さらには生きること自体を食い物にしながら、平和主義を根幹から骨抜きにしようとする政権の無法な動きを、歴史的な問題として見据えつつ、まさにその動きに抗して、国会前で、各地の街頭で、そして大学のキャンパスで生まれつつある言葉を、記憶を分有する民衆の創造へ向けて結び合わせることを要請する内容の小文を書きました。ご高覧いただけたら幸いです。

7月31日には、東京ドイツ文化センター図書館での連続講演会「ベンヤミンの哲学──言語哲学と歴史哲学」の第1回「導入:ベンヤミンの生涯と著作」を何とか終えることができました。お運びくださったみなさまに心から感謝申し上げます。聴き手の熱心さがひしひしと伝わり、とても話しやすかったです。ベンヤミンの生涯を通観するかたちで話をするのは初めてでしたが、とてもよい経験になりました。次回のテーマは「ベンヤミンの言語哲学」、拙著『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)の内容をかみ砕きながら、かつ今回の反省点も踏まえつつ、言葉への問いをご参加のみなさまと共有できるよう努めたいと思います。

それにしても今年は酷暑が続きます。みなさまくれぐれもお身体に気をつけて、この厳しい夏を乗り切ってください。私も、この暑さのなか、大学の講義などのさまざまな仕事をこなす傍ら、ひたすら原稿を書き続けてきたので、さすがに少々夏バテ気味です。ひとまず、上記の『図書新聞』紙への寄稿の原稿をはじめ、急ぎの原稿はすべて出し終えたこともあり、10日から14日までは、鹿児島の実家に帰省して休暇を取ることにいたします。その間、英気を養いながら、次の仕事のためのアイディアを温めたいと考えております。

小著『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ──ヒロシマを想起する思考』を上梓しました

9784755402562このたび『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ──ヒロシマを想起する思考』と題する小著を、インパクト出版会から上梓しました。よく知られた原民喜の詩句を表題に用いた本書を、広島と長崎が被爆から70年の節目を迎えようとしている時期に世に送り出すことに、身の引き締まる思いです。本書には、2007年から今年までのあいだに、ちょうど一年前に上梓した『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社)に組み込まれた論文を書き継ぐ傍らで、広島の地での文化に関わる活動のさまざまな機会に応じて書かれた論文や評論、そしていくつかの講演録が収録されています。論考を最初に発表する機会を与えてくださった方々や講演の機会を設けてくださった方々に、この場を借りて心から感謝申し上げます。靉光の《眼のある風景》を生かすかたちで美しく装幀していただいたのも大きな喜びです。

本書に収録された論考や講演録を貫いているのは、原民喜が「パット剝ギトッテシマッタ アトノセカイ」と呼んだ広島の焦土の光景や、そこにいた人々のことを今ここで想起する可能性を、芸術のうちに、さらには言葉そのもののうちに探りながら、「平和」を、死者を含む他者とともに生きることのうちに取り戻そうとする思考のもがきです。ここ広島でも「平和」が、権力者とそれにすり寄った大勢順応主義者の手に落ちつつあるなか、生存そのものの危機が迫っていますが、そのような今こそ、このもがきの跡を敢えてお示ししたいと考えて、本書をお届けする次第です。本書の焦点は「ヒロシマ/広島/廣島」にありますが、そこには近代、そして現代の日本の問題が凝縮されているとも考えております。さまざまな角度からお読みいただけたらと願っております。以下、本書の内容をごく簡単にご紹介しておきます。

序として掲げたのは、広島が帝国の軍都であったことを省みながら、70年前の出来事を、今も続く暴力の歴史の中断とともに開かれる来たるべき東アジアへ向けて想起しようという本書の基本的な問題意識を示すものです。第1部には、想起の媒体としての芸術作品のあり方を掘り下げながら、死者とともに生きる場を切り開く芸術の力に迫ろうとする評論や講演を収めました。第2部の中心をなすのは、ヒロシマ平和映画祭やそれに関連する催しの際に行なわれた講演です。その基調をなすのは、広島の抵抗としての文化の遺産を、生の肯定へ向けて継承する可能性を模索する思考です。第3部には、合評会などの機会に発表された書評を中心とする批評を集めました。作曲家詐称問題に触れた評論も収録しています。第4部に収められているのは、今ここで被爆の記憶を継承すること自体へ思考を差し向け、被爆の記憶を世界的なものとして受け継ぐことにもとづいて追求されるべき平和の可能性を、他者とともに生きることのうちに探った論考です。ヒロシマを想起することを主題とする書き下ろしの論考が含まれています。付録として、広島の文化を培っていくために致命的に欠けている施設の建設の提案も収録しました。

このような構成で送り出される本書の議論には、言うまでもなく、尽くされていない点が多々あるでしょうし、哲学と美学からのアプローチの限界が露呈しているところもあることでしょう。これらについてはみなさまから忌憚のないご指摘をいただけたら幸いです。何よりも、本書の問題提起を契機に、軍都廣島と戦後の広島の歴史を、現在を照らし出すものとして捉え直すことや、被爆の記憶の証言を深く受け止め、その記憶を、他者の苦難の記憶にも呼応するかたちで継承することについて、そして広島の芸術と文化のあり方について議論が深まることを心から願っております。

『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ──ヒロシマを想起する思考』目次

はしがき

序 広島の鎮まることなき魂のために

第一部 記憶する芸術の可能性へ向けて

  • 未聞の記憶へ──記憶の痕跡としての、想起の媒体としての芸術作品の経験、その広島における可能性
  • 記憶する身体と時間──ヒロシマ・アート・ドキュメント2008によせて
  • 耳を澄ます言葉へ──今、ヒロシマを語り、歌う可能性へ向けて
  • 芸術の力で死者の魂と応え合う時空間を──被爆七十周年の広島における表現者の課題

第二部 映画から問う平和と文化

  • 「平和」の摩滅に抗する映画の経験へ──ヒロシマ平和映画祭2007へ向けて
  • アメリカ、オキナワ、ヒロシマの現在へ──ヒロシマ平和映画祭2009への導入
  • 生の肯定としての文化を想起し、想像し、創造するために──「表現の臨界点(クリティカル・ポイント)──広島の現在と赤狩り、安保、沖縄」プロジェクトを振り返って
  • 抵抗としての文化を継承し、生の肯定を分かち合う──ヒロシマ平和映画祭2011における「抵抗としての文化」プロジェクトによせて

第三部 ヒロシマ批評草紙

  • 「ゲン」体験と「正典」の解体──吉村和真、福間良明編著『「はだしのゲン」がいた風景──マンガ・戦争・記憶』書評
  • 「ひろしまの子」たちの声に耳を開く──東琢磨『ヒロシマ独立論』書評
  • 封印の歴史を逆撫でする──高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ──米核実験と民間防衛計画』書評
  • 「受忍」の論理を越えるために──直野章子『被ばくと補償──広島、長崎、そして福島』書評
  • 作品批評の在り方検証を──作曲家詐称問題に関する中国新聞への寄稿記事
  • 「多数」としての「ひと(サラム)」を生きることを呼びかける言葉の創造──崔真碩『朝鮮人はあなたに呼びかけている──ヘイトスピーチを越えて』書評

第四部 記憶の継承から他者とのあいだにある平和へ

  • 広島から平和を再考するために──記憶の継承から他者とのあいだにある平和へ
  • 歓待と応答からの共生──他者との来たるべき共生へ向けた試論
  • 残傷の分有としての継承──今ここで被爆の記憶を受け継ぐために

付録 [不採択]被爆七十周年記念事業案

あとがき

[本書は、お近くの比較的大型の書店のほか、Amamzon.co.jp楽天ブックスhonto紀伊國屋BookwebMARUZEN & JUNKUDOエルパカBOOKSセブンネットショッピングHonya Clubなどでご購入いただけます。]

殿敷侃の点描

jyuban-thumb-320xauto-1245

《釋明昭信女A》

足袋に残された皺は、持ち主の足の形のみならず、その身のこなしや佇まいをも物語っているにちがいない。その内側には、持ち主の汗や垢のみならず、床と土を踏みしめた記憶も沈着しているだろう。そのような足袋が、漆黒の闇のなかから、異様な存在感をもって浮かび上がってくる。広島県の廿日市市役所の隣に設けられている、はつかいち美術ギャラリーで開催されていた展覧会「殿敷侃──現代社会への警鐘」(2013年8月1日~9月1日)で目にした《釋明昭信女》(1978年)と題された殿敷侃(1942~92年)の絵画は、この戒名を授かることになった母親への哀惜に捧げられた作品と言えようが、それは足袋の右片方だけを、その皺のみならず、染みや色のくすみに至るまで、恐ろしいまでに緻密に描くことによって、この足袋を履いて生きていた者の存在を、その生きざまとともに伝えながら、その不在を突きつけてもいる。

殿敷の母親は、夫を探して原子爆弾が投下された直後の広島に入り、負ぶっていた当時3歳の殿敷とともに二次被爆した。足袋の肌理には、その後遺症と経済的な困窮に苦しみながら息子を育てた母親の過酷な生の記憶が染みついていよう。《釋明昭信女》の画面は、張りつめた静けさに貫かれたなかに、時間を積み重ねて生じた足袋そのものの質量を、ただならぬ気配をもって浮かび上がらせているが、それによって殿敷は、母親がもういないことを噛みしめているように見える。もう一つ、細密な点描で母親が身に着けていたものを描いて母親を哀悼する作品に、母親の襦袢を描いた《釋明昭信女A》(1978年)があるが、それは、無造作に広げられた襦袢を描き出して、蝕まれた身体をかつて包んでいたことを痛切に感じさせる。

母親の足袋も襦袢も、点描で描かれている。無数の点によって、履き込まれた足袋が、着込まれた襦袢が浮き彫りにされているのだ。一つひとつの点を打ち込む筆の尖端には、母親に寄せる思いが、その生命を蝕み、奪った原子爆弾への怨念などとともに、凝集していたにちがいない。殿敷の点描は、自分自身の記憶と思いを研ぎ澄ませ、一つひとつの点に凝縮させながら、一つの形象を浮き彫りにする技法として見いだされたのではないだろうか。そのように、点描が第一次的には自分自身へ向かうものであることを示しつつ、爆心地に佇む自分の像を描き出したのが、《自画像の風景》(1975年)と言えよう。この作品は、細密でありながら異化されている──右眼だけが、別人の眼のように大きく開いている──と同時に、死骸のような冷たさをもった殿敷自身の姿を、不穏な背景のなかに浮かび上がった広島の廃墟の上に出現させている。それが屹立する様子は、何かに、おそらくは忘却に抗うようでもある。もしかしたら、敗戦から30年後の年──それは「復帰」した沖縄で「海洋博」が催された年でもある──に描かれた殿敷の自画像においても、靉光らの自画像と通底する抵抗が貫かれているのかもしれない。

この《自画像の風景》は、自画像の周りにシュルレアリスム的とも見えるモティーフを配して、どこか寓意的でもある。そのなかでとくに印象的なのが、前景に置かれた段ボール箱のなかから、原子爆弾のキノコ雲が立ち上っている様子。原爆投下の記憶は、けっして封じ込められることなく噴き出てくることを暗示しているのだろうか。その傍らでは、殿敷の頭部が白骨化していくのが描かれている。この作品は、一つの出来事が過ぎ去ることなく記憶に甦ってくる動きと、二次被爆によって蝕まれた自分の身体──それは記憶の場でもあるのだけれども──が朽ちていく動きという、相反する動向を一つの画面のなかで対峙させているのかもしれない。この作品における殿敷の自画像は、両者がせめぎ合うなかに立っているようだ。そして、画面全体は、この作品の殿敷に直接の影響を与えたであろうシュルレアリスムの絵画のみならず、アウシュヴィッツで惨殺されたフェリックス・ヌスバウムの、自嘲的とも言える寓意性を示す作品を思わせるところもある。

ところで、後に銅版画でも突き詰められることになる殿敷の点描は、モティーフを細密に描き出すのみならず、無機的な物が持つ、人の手を拒むかのようなざらざらとした質感を表現するものでもあろう。被爆死した父親の唯一の遺品である鉄兜と、それが発見された場所の煉瓦とを描いた《釋寛量信士》(1977年)や、原爆ドームの下に散乱する瓦礫の一つを拾い上げた《ドームのレンガ》(1977年)では、殿敷の点描のそうした特徴が強く表われているように見える。いや、生き物も、《カニ》(1977年)などが示すように、人が知るのとは別の相貌を帯びながらこちらへ迫ってくる。こうした、言わば物自体に迫ろうとするアプローチも、靉光に通じるものであろう。靉光は、きわめて緻密な筆遣いによって、殿敷は、研ぎ澄まされた点描によって、物を解き放とうとしたのではないだろうか。

廃物の集積を自然の空間に解放しようとしたり、自然の力を食い込ませることで建築物を廃墟の相において現出させようとしたりする、殿敷の早すぎた晩年の美術館をはみ出した行き方は、1982年にカッセルの「ドクメンタ7」でヨーゼフ・ボイスの《7000本の樫の木》に接したことをきっかけとして始まったと語られることが多いが、たしかに直接のきっかけはそこにあるとしても、潜在的にはすでに点描のなかで、こうしたインスタレーションやパフォーマンスにおいて実現されるべきことが試されてきたのではないだろうか。点描で描かれた《クシ》や《ノコ》が密やかに何かを語り始めるように、自然の樹木の上に、あたかもそこから生えてきたかのように置かれた古タイヤも、そのひび割れから、それが経てきた歳月を物語り始めるにちがいない。その声をいつか聴いてみたいと思う。