安部公房『他人の顔』

機会があって、安部公房の『他人の顔』を久しぶりに再読した。主人公自身を含めたさまざまな「他人」たちの視線が集まる「表面」として「顔」を浮かびあがらせ、さらにはその「表面」と「内面」なるものの区別を無意味にすることによって、「自己」というものをその根底から揺さぶる小説である。

化学研究者として研究所のなかで一定の地位を得ている主人公の男にとって、液体酸素の不意の爆発によって自分の顔にできたケロイド痕は、「蛭の巣」であり、顔に穿たれた「深い洞穴」にほかならなかった。彼はそれを地肌と見まがうほどに精巧な「仮面」で埋めようとする。物語の大部分は、そのための孤独な暗闘を妻へ向けて綴った彼の手記によって構成されているが、安部は、そこに日常的な空間を言わばさっと異境化しながらその骨組みを浮かび上がらせる洞察をちりばめると同時に、主人公が一定の「男」というジェンダーを背負った自分に囚われ続けていることを、手記のうちにさらけ出させてもいる。

それにしても、顔の「洞穴」はなぜ「仮面」によって埋められなければならなかったのか。それは何よりも主人公が妻との関係を回復したかったからである。彼が顔に包帯を巻いて生活するようになって以来、妻とのあいだを支配していたのは、「あのこわれた楽器のような沈黙」だったのだ。彼は「自分と他人を結ぶ通路」をもう一度切り開くべく、仮面の制作に没頭する。そして、他人の顔から顔型を取り、柔らかい高分子樹脂の仮面を作りあげ、それを着けて街を出歩くようになると、だんだんと彼の仮面制作を衝き動かしていた欲望が浮かび上がってくるのである。その欲望とは性欲にほかならなかった。彼が回復したいのは妻との性的な関係だったのである。だからこそ仮面の男は、妻の好むような顔つきをした、ちょっとした伊達男でなければならなかったのだ。主人公は、妻を誘惑できる「他人の顔」を身に着けようとしたのである。

彼は化学者らしくこの「他人の顔」を、一貫して一つの物的な対象として見ている。人間の顔をさまざまな特徴に分解し、それを組み合わせることによって作りあげられた顔とは、あくまで妻との関係を取り戻すための道具にすぎないのである。だからこそ、彼は仮面の顔に引きずられてしまう自分に気づくときに苛立ってしまうのだ。彼は、「他人の顔」を「仮面」として対象化することによって、「化学者」であり、「男」である自分を保持しようとする。そして、そのためには、「仮面」と「自分」との関係はいつか清算されなければならない。彼は、他人との通路としての「顔」の重要性を認めつつも、そこから隔てられたところに「本当」の自分があることを信じてやまないのである。

しかしながら、妻のほうは、そのような「表面」としての「仮面」と、「内面」としてある「自分」との区別を認めていない。仮面の男の誘いに乗った彼女は、「他人の顔」という新しい顔をした夫を、まさに自分の夫として受け容れた。彼女は、新しい顔を見せるところに夫自身の姿を認めたのである。そして、そのことを知らず、妻は仮面の男に誘惑されたのであり、自分は妻に裏切られたのだ、と信じ込んでいる男は、彼女に言わせれば、「顔は人間同士の通路だなどと言いながら、税関の役人みたいに、自分の扉のことしか考えない、巻き貝のようなあなた」でしかない。

そのように顔の現われと自己の所在を同一視する彼女の考えを徹底させるなら、「表情」というものが、他者がそれを認め、それに呼応するところで初めてある一つの表情として意味をもつように、一人ひとりの自己も顔において現われるとともに、それを他者が認めるところに生まれる、ということになるのだろうか。さらには、自己は「内面」に「存在する」のではなく、他者とのあいだに「生成」するのであり、顔とはそのような自己の媒体である、ということにもなるのかもしれない。だとすれば、「顔」はどこに位置づけられるのか。

少なくとも主人公の妻にとっては、人工の皮膚をもった顔面でも、その人自身の姿を示す「顔」でありえたのだ。当初劇で用いられる「仮面」を意味し、後に「人格」や神の「位格」を意味するようになった「ペルソナ」という語はそれ自体、「それを通して (per) 」何かが「鳴り響く (sonare) 」ことを意味している。少なくとも、人間の顔の固定された表面としての側面ではなく、「おもて」を示すことで他者に対して鳴り響き、語りかける顔のはたらきに注目しながら、自己のありようを問い直す必要があるのかもしれない。主人公の手記の後に挿入された妻からの手紙は、そのような問いの契機をもたらすものと考えられる。さらにその後に置かれている、主人公がかつて正視できなかった映画の物語は、ゲーテの『親和力』に挿入されたノヴェレのようであると同時に、ケロイド痕と「広島」という固有名詞を結びつけることによって、「他人の顔」に対する読者の視線を問題化してもいる。

さて、この妻からの手紙を読んだ主人公は、「仮面」の顔ではなしえなかった真の「行為」のために、いったん捨てた仮面を再び被って外へ出る。彼はどのような「顔」で「行為」へ赴こうとしているのだろうか。その「行為」の物語は未だ書かれていない。

[安部公房『他人の顔』新潮文庫、1968年/2005年10月18日執筆]

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初夏の仕事、能と現代音楽の共鳴

本当に早いもので、そろそろあちこちから梅雨明けの声が聞かれる時季となりました。この時季、急な豪雨が来たり、猛暑に見舞われたりと気候が不安定ですので、みなさまくれぐれも体調などに気をつけてお過ごしください。最近では、初夏に大きな台風が日本列島に上陸するようにもなってきました。先の台風で被害に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げます。

さて、この6月から7月上旬にかけても、非常に慌ただしく過ぎていきました。心も身体も追いつかないくらい、さまざまなことがあった今年の初夏でした。まず、6月7日(土)のことですが、広島市映像文化ライブラリーでのポーランド映画祭2014のなかで、ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の傑作『サラゴサの写本』(1965年)が上映された際に、広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン出張講座」ということで、この作品を紹介するお話をさせていただきました。ナポレオン戦争下のサラゴサで発見された手稿本のなかで、さまざまな物語が無限に組み合わさっていくさまを、実に魅力的に描き出したこの映画のなかでは、今私たちも幻視すべき、異質な者たちが共存する世界が繰り広げられています。また、その世界を小説のうちに現出させた原作者ヤン・ポトツキが示す、歓待性にもとづく精神の自由も、あらためて顧みられるべきではないでしょうか。

それにしても、この『サラゴサの写本』という映画をつうじて、ハスという監督に出会えたのは幸運でした。翌日には、ブルーノ・シュルツの小説にもとづく『砂時計』(1973年)を見ましたが、そこでは、映像のマニエリスムとハシディズム的な幻想が一つになって、驚くべき世界が繰り広げられていて、圧倒されました。今回のポーランド映画祭では、これらのハス監督の作品以外に、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』というアンジェイ・ワイダの初期の傑作を見ました。前者では、明暗の対照のなかに極限的な緊張のうちにある心理が鋭く浮き彫りにされるさまが鮮烈でしたし、後者には、最近の『カティンの森』まで貫かれるワイダのテーマが、凝縮されたかたちで浮かび上がっているように思われました

さて、6月から7月上旬にかけては、二つの評論を公表させていただきました。一つは、5月2日に広島市の東区民文化センターのスタジオ2で行なわれた「人間そっくり」の公演の批評で、こちらは、広島芸術学会の会報128号に掲載していただきました。この公演は、京都の演劇ユニットこのしたやみと三重県の劇団Hi!Position!!による、安部公房の小説『人間そっくり』を構成したテクストのリーディングによるもので、拙稿「『そっくり』の深淵へ──このしたPosition!!リーディング公演『人間そっくり』を観て」では、この公演を、リーディングと巧みな演出によって安部公房の作品の論理的な仕掛けを生かしたスリリングな舞台とご紹介しました。

もう一つは、スーザン・バック=モースの『ベンヤミンとパサージュ論──見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014年)の書評で、こちらは図書新聞の3166号(2014年7月12日付)に掲載していただきました。「大衆文化の夢から目覚め、歴史の主体になれ──歴史への覚醒の場をなす形象の座標系」という表題で、過分にも一面の頭に載せていただいております。バック=モースのこの本は、ベンヤミンの『パサージュ論』の古典的と言ってよい研究ですが、そこにあるベンヤミンの「弁証法的形象」を媒体とする「根源史」の試みの救出に光を当てることで、歴史修正主義とも結びついた今日の大衆文化からの歴史への覚醒を今に語りかける一書として、日本の読者に紹介する内容となりました。おそらく編集者のほうでも、この点に注目してくださったのだろうと思います。ちなみに、四半世紀以上前に刊行された原書は、「見ることの弁証法」という表題が示すとおり、「目の人」としてベンヤミンを特徴づけるのに一役買った書物ですが、現在では彼の思想の音響的なモティーフに注目する研究も増えてきています。今年3月に、広島大学大学院総合科学研究科人間文化講座の論集『人間文化研究』第6号に載せていただいた拙論「谺の詩学試論──ベンヤミンにおける『谺』の形象を手がかりに」も、こうした方向性を示す一つと言えるでしょう。

このように、講演したり評論を執筆したりするあいだにも、大学での講義や演習、そして年々増えるばかりの雑務に追われていたわけですが、大学院の演習では、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(上村忠男+廣石正和訳、月曜社、2001年)を、学生たちと読み直すことができました。ところどころあまりに存在論的と思われる議論も見られますが、アガンベンのこの論考は、証言の可能性を、言語自体の──不可能性と隣り合わせの──可能性から照らし出すとともに、証人であることを主体そのものの「脱主体化」から捉え直させる重要な文献であることは間違いありません。これから、この論考をはじめとするアガンベンの仕事や、ベンヤミンの歴史哲学的なテクストなどの再読をつうじて「残余からの歴史」ということを考え、被爆の記憶を──ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」へ向けて──継承することの世界的な意義にも、わずかなりとも光を当てられたらと思います。それから、ベンヤミンの言語哲学を論じた小著は、まもなくお手に取っていただけます。ご笑覧いただけたら幸いです。こちらについては、稿をあらためてご紹介いたします。

ところで、6月には幸運にも、いくつか非常に充実した内容の演奏会を聴くことができました。それについては、すでに別の記事でお伝えしましたので、ここでは一枚の素敵な、そしてこれからの音楽の可能性を考えるうえで非常に重要なディスクをご紹介しておきたいと思います。6月初旬に、敬愛する能楽師青木涼子さんが、デビュー・アルバム『能×現代音楽』をコジマ録音より出されました(ALCD-98)。これは、青木さんが2010年より“Noh×Contemporary Music”のテーマの下、ヨーロッパの作曲家に能に触発された作品を委嘱し、演奏し続けてきた取り組みの精華であると同時に、青木さんの能謡の魅力が、現代音楽の多彩な書法との共鳴のなかで見事に発揮された一枚であると言えるでしょう。東京オペラシティの今年のコンポージアムで、青木さんの手で日本初演されたペーテル・エトヴェシュの《Harakiri》の演奏も収められています。

このディスクを聴いていて、何よりも素晴らしいと思われるのは、現代の作曲家が、楽器の特殊奏法を含む新たな書法を駆使して、音響の身体性とも言うべき次元を追求しているのが、青木さんの声と共鳴し合っているところです。青木さんの声には、一本の芯とともに、深みと広がりが具わっているのですが、そんな彼女の声は、息遣いとともに周囲の空気に浸透し、またそこから立ち上がってきます。あたかもそれに触発されるかのように、作曲家たちは、響きが生まれる瞬間に注意を差し向けているように聞こえます。また、それによって何かが出現する気配が感じられるのが、この『能×現代音楽』というアルバムの大きな魅力ではないでしょうか。この気配こそ、能をはじめとする舞台芸術の場を開き、満たすとともに、歌う/謡うことを一つの出来事として成り立たせていると考えられます。この出来事のなかで、言葉が意味を帯びて響いてくることでしょう。

青木さんのアルバムのなかで、ことに魅力的に思われたのが、冒頭に収められたフェデリコ・ガルデッラの《風の声》でした。バス・フルートによって奏でられる音楽が、緊密なテクスチュアのなかで楽音と息音を行き来し、響きの襞を感じさせるのが、『井筒』の能謡と見事に調和して、時間的にも奥行きのある世界が開かれています。三島由紀夫の割腹自殺に触発されて書かれたエトヴェシュの《Harakiri》では、自死を遂げるなかで三島の脳裡に去来する想念が、最終的に彼の命を絶つ禍々しい音が断続的に、異様な身体性を伴って響く時間のなかで、聴き手にひたひたと迫るかたちで掘り下げれているように思われました。音楽をその根源に立ち返らせながら、音楽を舞台空間に、あるいはその空間自体を開くかたちで響かせる可能性をじかに感じさせる──マドリッドでヴォルフガング・リームのオペラ《メキシコの征服》にも出演された青木さんの活躍は、それを体現するものと言えるかもしれません──青木さんのアルバム『能×現代音楽』が、能楽を含めたこの時代の音楽の新たな展開を触発するかたちで広く聴かれることを願っております。

青木涼子アルバム表紙1