秋の旅と仕事

朝晩は冷え込むようになってきましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。月日が経つのは早いもので、すでに師走の足音が聞こえてくる時期になりました。溜まった仕事に少し焦りを覚える今日この頃です。広島では、日中はまだ晩秋とは思えない暖かさの日が続いています。すでに別稿でお知らせしましたように、先月の中旬に、ハンブルクへ出かけてペーター・ルジツカのオペラ《ベンヤミン》を観たわけですが、それに先立ってはミュンヒェンを訪れました。これを含めた10月のごく短いドイツへの旅のことや、その前後の仕事について、ここでご報告しておきたいと思います。

三原市の佛通寺の紅葉

10月13日に、ミュンヒェンのNS-Dokumentationszentrum(ナチズムに関するドキュメンテーション・センター)を初めて訪れました。この州都がナチズムの運動の発祥の地であり、かつ一貫してその中心的な拠点として機能し続けたことを、写真をはじめとする同時代のドキュメントによって、克明に跡づける展示でした。それをつうじて、ナチズムとは何か、ミュンヒェンの何がこれを生み、そして支えたのかが浮かび上がってきます。

とくに印象に残ったのが、現在も続く反ユダヤ主義を含む人種差別の問題にも光が当てられていたことでした。ドイツでは人種差別的な動機にもとづく暴力事件が増え続けていますし、極右政党への支持の広がりが示すように、差別扇動も影響を広げつつあります。このセンターの展示は、そうした問題を歴史的な関連を顧みながら考える視野を開くものと言えるでしょう。もちろん、ナチスの支配に対する抵抗についても展示のスペースが割かれています。

このセンターでもう一つ印象的だったのは、豊富な資料が調えられた図書室が備わっていることでした。そこには、1933年にセンターの建物のすぐ近くにあるケーニヒ広場で行なわれた焚書の対象になった書籍のコレクションも展示されていました。当時の初版が粘り強く集められていました。その説明の末尾には、書を燃やす者は、いずれ人間を燃やすことになるというハイネの言葉が引かれていました。

NS-Dokumentationszentrumを辞した後、ほど近いレンバッハハウスに立ち寄ったところ、アルフレート・クビーンの画業を、この美術館の展示の核をなす青騎士の画家たちの芸術との対照において浮き彫りにする展覧会„Phantastisch!: Alfred Kubin und der Blaue Reiter“が開かれていました(会期は2019年の2月17日まで)。最初期の線描から、青騎士の画家たちとの交流のなかから生まれた彩色作品の数々、そして小説『裏面』や版画集『サンサーラ』の世界に至るまで、非常に興味深く見ました。

自分を駆り立てる妄念を一つの像に研ぎ澄まし、それによって、黙示録的ですらある破滅の情景をも浮かび上がらせるクビーンの幻想の世界を堪能することができます。『裏面』を再読したいと思いました。彼がエドガー・アラン・ポーらの本にも挿絵を描いていることや、『裏面』のパウル・シェーアバルトの『レサベンディオ』との同時代性も触れられていましたし、青騎士の画家たちとの交流を示すドキュメントも数多く展示されていました。

クビーンの年譜に、交友のあったパウル・クレーの死に衝撃を受けたことが記されていましたが、会場に展示されていたクレーの初期の線描作品を見ると、たしかに両者に相通じるものがあるのを感じます。それにしても、レンバッハハウスのクレーの部屋は、いつ訪れても気持ちが落ち着きます。展示作品の数はそう多くはないとはいえ、どの作品も素晴らしいです。ワシリー・カンディンスキーの初期作品の一つ《色彩豊かな生(Das bunte Leben)》が掛かっていましたが、図らずもアクチュアリティのある表題と思いました。 

今回ミュンヒェンに立ち寄った目的の一つに、ゴットフリート・フォン・アイネムのオペラ《ダントンの死》の上演を観ることがありました。アルバン・ベルクの《ヴォツェック》同様、ゲオルク・ビュヒナーの戯曲にもとづくこのオペラの実演を、一度見てみたいと思っていたのです。フォン・アイネムの生誕百年を記念して、今年はいくつかの劇場で彼の作品が取り上げられているようですが、10月13日の夜にミュンヒェンのGärterplatztheater(敢えて日本語にすると「庭師広場劇場」になります)で、革命期のパリを舞台とした《ダントンの死》の上演を観ることができました。

G・フォン・アイネム《ダントンの死》公演プログラムより

この劇場の内部は馬蹄型の古い形式を残していて、舞台もとても広いとは言えないのですが、ギュンター・クレーマーの演出は、そうした制約を逆に、テロルの下、息苦しさのなかに生きることを描き出すのに最大限に生かすものだったと思われました。テロルに曝されてもなお、人民の自由に殉じる自分の生き方を貫こうとするダントンたちと、テロルに訴えることによってしか自分を保つことのできないロベスピエールらとの対照を、現代の問題として浮かび上がらせるコンセプトの下、テーブルと演台を兼ねた装置を最大限に活用した演出は、おおむね説得的に思われました。

黒い片庇のキャップを被ったロベスピエールの一党は、現代の排他主義的なポピュリストを思わせますし、彼がつねにどこかおどおどしている様子からは、日本の権力者の姿も透けて見えます。逆に、人民への呼びかけが書かれたフライヤーを一心に印刷し続けるリュシーユの姿は、ナチスの支配に抵抗した「白バラ」のゾフィー・ショルを思わせるところがあります。彼女が刷ったフライヤーが、裁判の場面の終わり近くで上から客席に撒かれるという演出は、舞台の世界に観客を引き込んでいました。

このとき合唱は、四階の客席の左右に別れて、一方はダントンの側に、他方はロベスピエールの側に立って、激しく言葉をぶつけ合っているわけですが、その迫力はかなりのものでした。全体的に合唱の力演が光りました。アンソニー・ブラマルの指揮の下、オーケストラも、スコアのテクスチュアをしっかりと音にした演奏を繰り広げていました。ブラマルの指揮は、アイネムの音楽の独特の運動性を最大限に生かして、間然するところのない流れを形成していました。

同時に《ダントンの死》の音楽には、抒情的な歌も含まれていますが、その多くが割り当てられるリュシーユの役を歌ったマリア・ツェレングという歌手の歌には、切々とした美しさがありました。主役のダントンを歌ったマティーア・メイチという歌手は、この日の公演が初登場だったようですが、歌唱からも演技からも人格的な大きさが感じられて、役に相応しく思われました。彼の妻ジュリーを演じたソーナ・マクドナルドは、舞台の世界へ観客を導き入れる口上を、台本にあらためて付け加えられたビュヒナーの言葉で述べる重要な役回りでしたが、それに圧倒的な演技力で応えていました。

「国王万歳」と叫ぶまでのリュシーユの立ち振る舞いなど、疑問に思われるところもないわけではありませんでしたし、隅々まで洗練された上演というわけでもありませんでしたが、全体としては、フォン・アイネムの《ダントンの死》を、息苦しい現在に生きることへの深い問いかけを含んだ作品として舞台に載せ、そのテクストと音楽を力強く響かせた上演だったと思います。観ることができてよかったです。

ハンブルクからミュンヒェン経由で羽田空港に到着した10月16日に、国際交流基金賞の授賞式があり、今年の基金賞を受賞された細川俊夫さんの作曲活動を紹介するスピーチをさせていただきました。細川さんとともに作家の多和田葉子さんが受賞されたのも、非常に喜ばしいことでした。10月18日には、虎ノ門のJTアートホールアフィニスにて、多和田さんと細川さんが国際交流基金賞を受賞されたのを記念して、「越境する魂の邂逅」と題する対談とパフォーマンスの夕べが催されましたが、その前半の対談で、お二人の公開の場では初めての対談のモデレーターを務めました。熱心に参加してくださったみなさまに心より感謝申し上げます。

「越境する魂の邂逅」フライヤー

当日は進行役の私が、控え室でのおしゃべりも含めて、お二人のお話をずっと楽しませていただきました。ちょうど20年になるお二人の交流や、細川さんのオペラ《地震、夢》の内容をめぐるお話もさることながら、後半に朗読された多和田さんの『飛魂』をめぐって展開された、作曲と詩作の通底する次元をめぐるお話はことに興味深いものでした。貴重なお話を繰り広げてくださった多和田さんと細川さんにもここから感謝しております。

後半のパフォーマンスでは、吉野直子さんと上野由恵さんの素晴らしい演奏と、多和田さんの想像力を掻き立てる朗読が見事に共鳴していました。上野さんの独奏による《息の歌》と《垂直の歌》も、そして吉野さんの独奏による《ゲジーネ》も、深い沈黙のなかから、全身の息遣いとともに強い歌を響かせる見事な演奏でしたが、『飛魂』の朗読のために新たに書かれた、バス・フルートとハープのための音楽と朗読が響き合う様子はとくに印象深かったです。

低いフルートの音とハープの音が、どこか小説のなかの池や林を思わせる場を開くとともに、朗読をつうじて言葉の一つひとつが、その多層性において立ち上がってくるのを感じながら、またその声が時に音と溶け合ったり、協奏的な緊張関係を示したりするのを聴きながら、来たるべき舞台作品の一場面を予感しておりました。今回の初のコラボレーションが、近い将来における一つのオペラなどでの協働につながることを願ってやみません。

10月上旬には、月曜社より東琢磨、川本隆史、仙波希望編『忘却の記憶 広島』が刊行されました。およそ10年越しの企画がこうして実現する運びとなり、とても感慨深いです。最終的に若手の研究者の新鮮な論考を組み込んだことで、「ヒロシマ」を形づくる忘却をいくつもの視角から問うばかりでなく、忘れつつ生きるなかに潜む記憶にも光を当てる一書に仕上がったことを、嬉しく思っています。また、人々の新たな結びつきのなかで「ジモト」を掘り起こす活動の息吹が伝えられているのも、本書の重要な特徴と言えるでしょう。

『忘却の記憶 広島』書影

旧稿ながら、私も「記憶する言葉へ──忘却と暴力の歴史に抗して」を寄稿させていただきました。聞く耳を持たないかたちで「ヒロシマ」を「発信」し、「平和」を訴える身ぶりのうちにある権力への同一化を問題にしたうえで、それを内側から乗り越える可能性を、「歴史」による忘却に被われた場所から記憶を細やかに掘り起こす詩的言語のうちに探るものです。

さらに、忘却され、抑圧され続ける「軍都=学都」の記憶を問う小田智敏さんの労作が公刊されたことも喜ばしいことです。私とともに学んだ鍋島唯衣さんが本書で、被爆再現人形をめぐる平和記念資料館の展示史についての論考を公にされたことも嬉しく思っています。新たに加わった執筆者と編者の尽力により、『忘却の記憶』は、資料的にも充実した一冊となりました。ヒロシマ/広島への今までにないアプローチを示しながら、この場所とその記憶の時空を問ううえで不可欠の端緒をあらためて伝える本書を、お手に取っていただければ幸いです。

広告

ミュンヒェンへの旅より

ミュンヒェン中央駅の少し北の石畳に見つけた石版

ミュンヒェン中央駅の少し北の石畳に見つけた石版

10月31日から11月4日にかけて、3泊5日とごく短期間ではありましたが、久しぶりにミュンヒェンへ出かけておりました。主な目的は、すでに別稿に記しましたように、バイエルン国立歌劇場におけるベルント・アロイス・ツィンマーマンのオペラ《軍人たち》の上演を観ることと、もう一つ、今まで訪れたことがなかったダッハウの強制収容所跡を訪れることでした。《軍人たち》の上演そのものについては、別稿をご参照いただくとして、最近観たオペラの公演のなかで最も優れたものの一つと言えるこの公演について、ここで付け加えることがあるとすれば、それは会場の熱気でしょうか。

10月31日、11月2日と二回観た公演のいずれもほぼ満席で、公演が始まる前から劇場は期待感に包まれておりました。二度目に観に行ったときには、開演1時間前から始まるEinführung(鑑賞の手引き、とでも訳せましょうか)──ドイツで演奏会やオペラ公演の前にしばしば行なわれる導入の講演で、オペラ劇場では劇場所属のドラマトゥルクが、時にピアノ演奏も交えつつ、作品やプロダクションの特徴を紹介します──に間に合うよう出かけたのですが、その会場のホールがすでに満員で、2回目の講演まで半時間ほど待つことになりました。その間、コーヒーを飲みながら、論考やドキュメントなどで一冊の本と言えるほど充実した内容のプログラムの一部を読むことができました。たしかに、この強烈な公演の前半だけで帰ってしまう人もいたにはいたのですが、そのような人たちは、舞台上でダンサーたちが裸体を血痕とともに露わにすることで暗示している暴力を、今も自分たちが生み出していることを正視しようとしないのでしょう。

11月1日には、同じバイエルン国立歌劇場でレオシュ・ヤナーチェクの《マクロプロス事件》の公演も観ることができました。カレル・チャペックの同名の戯曲にもとづくこのオペラでは、人間が死すべき者であることや、近代人のアイデンティティの複数性ないし多面性が、ルドルフ二世に仕えた錬金術師の父親が作った不老長寿の秘薬のおかげで337年生きたという主人公エミリア・マルティによって、非常に興味深いかたちで問題化されるわけですが、この主人公を歌ったナージャ・ミッチェルは、芯のある声で、オペラの舞台で卓越したプリマ・ドンナを演じるという困難な課題に応えていたように思います。彼女の歌に寄り添うヴィオラ・ダモーレの演奏も魅力的でした。この古い楽器は、ヤナーチェクの他のオペラ、例えば《カーチャ・カバノヴァー》でも重要な役割を果たします。

バイエルン国立歌劇場の《マクロプロス事件》公演のポスター

バイエルン国立歌劇場の《マクロプロス事件》公演のポスター

アルベルト・グレゴルを演じたパヴェル・ツェルノクはじめ、他の歌手たちもなかなかの力演を示していましたが、最も印象的だったのは、文字通り惚け役であるハウクを演じたライナー・ゴールドベルクの歌唱でした。未だ伸びのある声と巧妙な演技で、圧倒的な存在感を示していたと思います。ヤナーチェクの音楽に通暁しているというトマーシュ・ハヌスの指揮も素晴らしく、躍動感のある音楽の運びを示すだけでなく、深い間のなかかから劇的な瞬間を響かせてもいました。アルパード・シリングの演出には、いくつか疑問が残ります。最初の場面の弁護士の部屋に無数の椅子を積み重ね、時の堆積を表現するあたり、最近広島市現代美術館で写真で見たドリス・サルセドの作品を思わせて興味深いものがありましたが、最後の場面で、うずくまったエミリアと不老長寿の秘薬の処方箋を手に立つクリスタの上に、氷山を思わせる白い樹脂製の山が覆いかぶさるのは、あまりにも人為的で、かつ本来焼かれることになっている処方箋の行く末を曖昧にするものに思われました。それから、エミリアの337年の生涯が示すように、人が複数の名を名乗って、さまざまな「何者か」でありうることにも、もう少し光を当ててもよかったのではないでしょうか。

新しいレーンバッハハウスの玄関を屋内より

新しいレーンバッハハウスの玄関を屋内より

11月1日の日中は、最近改装されたレーンバッハハウスでじっくりと絵を見ました。展示スペースが大幅に拡がっていて、この美術館の柱である「青騎士」の画家たちの展示作品はもちろんのこと、とくにカンディンスキーとミュンターの展示作品がかなり増えている印象を受けます。同じ風景をこの二人がどのように描いているかを見比べたりできるよう、展示も工夫されています。カンディンスキーの作品の色彩、とくに色の配置と形態の関係にあらためて感銘を受けました。クレーの作品の展示も、以前より増えていて、拙宅の玄関にポスターを掛けている《薔薇の庭園》の実作を見られただけでなく、ちょっとした発見もありました。1921年の《野苺》という作品と1922年の《野人》という作品に、1920年の《新しい天使》に似た形態が見られるのです。この時期のクレーを貫くモティーフを暗示しているのかもしれません。オットー・ディクスらのいわゆる「新即物主義」の画家たちの作品の展示にも、その後のナチズムへの態度を配置で暗示するなどの工夫がなされていましたし、気鋭の作家ヴォルフガング・ティルマンスの作品にもスペースが割かれていました。建物や庭園も綺麗ですし、中央駅から歩いても行けますから、ミュンヒェンへ来られた際の訪問先としてお薦めしておきたいと思います。

レーンバッハハウスの庭園を二階回廊より

レーンバッハハウスの庭園を二階回廊より

翌11月2日は午前中に、今まで訪れたことのなかったピナコテーク・デア・モデルネ(現代美術館)の展示作品を見ました。まず建物の大きさに驚かされましたが、全体としては、ロンドンのテイト・モダンを横に広げた感じでしょうか。特別展として、ジャック・リプシッツの素描や写真が展示されていたり、ヨーゼフ・ボイスの新たな民主主義へ向けた「社会的彫刻」や複製による発信をはじめとするさまざまな試みが展示されていたのを興味深く見ましたが、やはり圧倒的な印象を残したのは、いわゆる「現代の古典」の絵画の膨大な展示でしょうか。キルヒナー、クレー、カンディンスキーの魅力的な作品が数多く展示されているだけでなく、シュルレアリスムの展開を見通せるようにもなっています。《ティロル》をはじめ、フランツ・マルクとアウグスト・マッケという第一次世界大戦で斃れた二人の画家の到達点を示す作品を目の当たりにし、しばらくその場を動くことができませんでした。

この日の午後には、ミュンヒェン在住の音楽批評家マックス・ニフラーさんに、イギリス庭園での散歩にお誘いいただきました。穏やかな日差しに黄色に色づいた木々の葉が映えるなかを一緒に歩きながら、たくさんの貴重なお話をうかがうことができました。バイエルン国立歌劇場で上演されているツィンマーマンの《軍人たち》にも話が及び、その初演を担当したミヒャエル・ギーレンは、ユダヤ系の出自を持ち、ナチスの迫害を受けた者としての実存的な決断として、このオペラのケルンでの初演の指揮を引き受けたのだと語っておられました。第二次世界大戦の戦いにドイツ軍の兵士として従軍し、負傷した経験を持つツィンマーマンがこの作品を書いたこととの符合を感じさせるお話です。イギリス庭園では、スポーツに汗を流したり、マースと呼ばれる1リットルのビア・ジョッキを傾けたりと、人々が思い思いに日曜の午後を楽しんでいました。

»Arbeit macht frei«と書かれた鉄扉が失われたダッハウ強制収容所の入口

»Arbeit macht frei«と書かれた鉄扉が失われたダッハウ強制収容所の入口

滞在最終日の11月3日は、午前中からダッハウの強制収容所跡へ出かけましたが、そこに着くなり、衝撃的な出来事を目の当たりにすることになりました。写真から分かるように、収容所の監視塔の下の鉄扉が»Arbeit macht frei«(「労働は自由にする」)の文字ごと無くなっています。11月1日から2日の夜間に盗まれたとのことでした。まだ犯人が捕まっていないので、誰がどのような意図をもってこの扉を盗んだのかはわかりませんが、ナチスの蛮行を象徴するものがこの場から取り去られること自体に、途方もない気味の悪さを覚えます。歴史修正主義の臭いを感じないではいられません。その日の昼前に行なわれた記者会見で述べられていたように、この歴史的な場所を保存することの精神の根幹を傷つける犯行であるのは確かでしょう。ちなみにこの扉は、1936年に強制労働によって鋳造されたオリジナルで、同じ文字を掲げた門が、よく知られているように、後にアウシュヴィッツにも造られました。アウシュヴィッツのそれも、一度盗まれて破壊されています。

そのようなわけで、空の色とは対照的に、非常に重苦しい気持ちを抱えながら収容所の施設を見て回ることになりました。1933年に開設されたこのダッハウの強制収容所は、最初の大規模な強制収容所の一つで、その後の強制収容所およびその運営のモデルとなっています。この収容所は、収容所を支配する親衛隊幹部の訓練地の役割も担っていたようです。さらに、この収容所の火葬場には、小規模ながらガス室も備わっていました。ここで「選別」された囚人たちが次々とガス殺されていたわけですが、それは東方の占領地に設けられた絶滅収容所における殺戮の実験の意味合いもあったのかもしれません。資料館では、こうしたことが歴史的背景とともに、きわめて詳細に説明されていました。心理学者のブルーノ・ベッテルハイムがここに収容されていたのはよく知られていますが、チェコの作家にして画家で、カレル・チャペックの兄のヨーゼフ・チャペックもダッハウに収容されていたことも知りました。カレル・チャペックの戯曲にもとづくオペラを観た直後だっただけに、このことは胸に迫るものがありました。

ダッハウ強制収容所の木立のあるメイン・ストリート

ダッハウ強制収容所の木立のあるメイン・ストリート

ところで、今回の旅行ではあまり落ち着いて食事をする暇がなく、朝食以外にまともに座って食べたのは、11月1日の夜の《マクロプロス事件》の公演後に、たまたま見かけたイタリア料理の店でペンネ・アラビアータを食べたときだけでした。勘定を済ませてその店を出るとき、Auf Wiedersehen!(さようなら)と店の人に声を掛けたところ、「チャオ、チャオ!」と愛想よく挨拶を返してくれたのですが、それを耳にして思い出したのが、旅のあいだ読んでいたヘルタ・ミュラーの小説»Herztier«(『心の獣』とでも訳せるでしょうか)の一節でした。そこでは、どこかで覚えた「チャオ、チャオ」の言葉をルーマニアの子どもが使うのを、大人が制止するのです。独裁者チャウシェスクの名を思い起こすから、というわけですが、それほどまでに彼の独裁の恐怖が、ルーマニアの人々、とりわけ彼の独裁体制に順応できない人々の身体に浸透しているのを、ミュラーの小説は、時に韻文の響きを聴かせる文体で、非常に細やかに描き出しています。この小説の錯綜した時間は、相互監視体制の暴力が、亡命に成功した人の心にも癒しがたい傷を残していることを暗示しているにちがいありません。

ドイツの東西統一と東ヨーロッパの「民主化」の決定的な契機となったベルリンの壁の崩壊から、今年の11月8日でちょうど四半世紀が経ちますが、このような節目に、ミュラーの文学が迫っているような、旧東側の独裁体制下に生きた人々の記憶を、例えば、今パレスティナで隔離壁によって、移動の自由をはじめ、あらゆる自由を奪われるだけでなく、不断の監視に曝されてもいる人々の経験と照らし合わせることが重要なのではないでしょうか。そうして、この隔離壁に象徴される新たな、時に不可視の壁が、レイシズムとも結びつきながら人々のあいだに張り巡らされていくのを食い止めることが喫緊の課題であることを、祝祭に湧きつつあるドイツに短いあいだ滞在して、あらためて思わざるをえませんでした。