ベルリン通信VIII/Nachricht aus Berlin VIII

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リリエンタール公園にて

ベルリンでは木々の葉が落ちて冬の気候になってきました。11月はすっきりと晴れる日が何日もあって嬉しかったのですが、そのような日の夜には気温が氷点下5度ほどまで下がります。翌朝は空気が痛いくらいに冷たいですし、池の水も凍っています。しかし、そのような寒い朝に道を歩くのは、けっして嫌いではありません。何よりも気持ちが引き締まりますし、心なしか頭がすっきりするような気もします。とはいえ、しっかり着込むことは欠かせません。マフラーと手袋も手放せなくなってきました。長いドイツの冬の到来です。

さて、11月も論文などを書いているうちにあっという間に過ぎて行きましたが、それにしてもこのひと月は、いろいろなことが起きました。その一つとしてアメリカ合衆国の大統領選挙のことを挙げなければと思いますのは、今から12年前にポツダムで4か月だけ在外研究を行なったときにも、アメリカの大統領選挙の帰趨をドイツのメディアをつうじて見ていたからです。小ブッシュがアル・ゴアに対する怪しげな勝利を収めたあの選挙です。その時は選挙から一夜明けて愕然とさせられましたが、それから12年後の今回は、衝撃を受けるというよりも、このような人物が選ばれる現実を前にして胸苦しい気持ちになりました。

メキシコとの国境に移民の流入を防ぐフェンスを設けようと公言したり、ムスリムの入国禁止方針を打ち出したりした人物がアメリカの次期大統領に当選してしまったことによって、まずは、ドイツ国内ではAfD(ドイツのための選択肢)が代表するような、あるいは周囲の国々ではフランスの国民戦線、ハンガリーやポーランドの現政権などに代表される排外主義的なポピュリズムが勢いづくことが懸念されます。その懸念は、ドイツではすぐに各メディアで次々に表明されていました。それと同時に、オクスフォード辞典が今年の言葉に選んだのが、“post-truth”であったことが示すように、大声で大勢の感情に訴えれば──インターネット上のソーシャル・メディアは、まさにそのことを可能にするメディアでもあるでしょう──、どんな嘘であってもまかり通ってしまうようになることが危惧されます。また、それとともに真理を追求する知の営みに対する冷笑が伝染し、作られた感情でしかない「本音」が、他者への攻撃性を剝き出しにしながら公的空間を喧騒で覆うようになれば──それは、とくにインターネット上ではつとに広がっている問題ですが──、きわめて息苦しい、そして声を持ちえない者たちにとっては生きること自体も非常に困難な時代が訪れることになります。

41cbey-9uml-_sx298_bo1204203200_こうした時期に、みずからの知性をもって知を探究するところに啓蒙を見るカントの議論を戦後のドイツであらためて検討し、ナチズムの問題を掘り下げるところに、「アウシュヴィッツ以後」の「自己陶冶」としての教育と文化の可能性を模索するアドルノの『自律への教育』(原千史他訳、中央公論新社)を学生と読んでいる──ちなみに、ゼミは在外研究中もSkypeを使って続けています──のも、何かの巡り合わせでしょう。本書の冒頭には、「民主主義に抗してファシズム的傾向が生きながらえることより、民主主義の内部に国民社会主義(ナチズム)が生きながらえることのほうが、潜在的にはより脅威だ」という認識の下、「過去の総括」とは、ナチズムを含めた過去の問題を現在の自分自身の問題として正視することであると論じる「過去の総括とは何を意味するのか」という、とりわけ日本で振り返られるべき講演が収録されています。

そして、「過去の出来事の原因が取り除かれた時初めて、過去は総括されたのだと言ってもよい」と結ばれるこの講演に続いては、「哲学と教師」という、これも「教養」と「教育」の概念を考えるうえできわめて重要な──それゆえ、大学の関係者にはぜひ一読してほしい──講演が収められていますが、そのなかには、まさにこの“post-truth”の時代にに語りかけているかに思える一節があります。「『知識人』という表現が国民社会主義によって信用を失墜させられたことは、私にはかえってその表現を肯定的に受け取る理由にしか思えません。自己省察の第一歩とは、蒙昧をより高い徳と見なさないことや啓蒙を馬鹿にしないことではなく、むしろ知識人排斥の扇動──それがどのように偽装されたものであろうとも──に対して抵抗することです」(42頁)。とても残念なことに、アドルノの『自律への教育』の日本語訳は、今年から品切れ状態で、一般の書店での入手が難しくなっているのですが、例えばエドワード・W・サイードの『知識人とは何か』(大橋洋一訳、平凡社ライブラリー)と照らし合わせながら、今あらためて読み直されるべき一書かと思われます。

ところで、秋が学会シーズンだというのは日本もドイツも同じで、私もいくつかの学会や研究会合に足を運んで講演などを聴きました。初日しか行けなかったのですが、興味深かったのが、ベルリン文学・文化研究センターの研究会として開催された「理論゠歴史を書く──何を目的に、どのように、そして誰のために?」というテーマの学会で、そこでは理論ないし理論形成そのものの歴史化、さらには歴史的な文脈における再検討の可能性ということがテーマになっていました。今日の人文学研究の潮流を反映したテーマかもしれません。なかには、戦後ドイツにおける「哲学」という「学問分野」の形成過程を考察の対象としながら、あらためて理論としての哲学の位置と意義を探る講演もありました。このような問題設定そのものは、こと哲学に関して言えば、思想の内実を離れてエピソード的な事実の集積に流れてしまう危険性も帯びていますが、同時代の状況のなかに浮かび上がる哲学者の歴史意識は、私自身の問題意識からしても興味深いところです。

なかでもアドルノの同時代に対する批判的な問題意識が、一貫して音楽作品に関する批評的な言説をつうじて表明されていることを辿り、アドルノの歴史意識に迫ろうとする講演を興味深く聴きました。この点が、晩年のアドルノにまで当てはまるかどうかに関しては検討の余地があるかもしれませんが、講演のなかで引用された彼の音楽論の言葉を辿ると、彼の歴史意識が、時折ハイデガーが人間存在の歴史性を論じる文脈で用いている概念を批判的に引用しながら表現されているように見えます。思えばハイデガーとの対決は、1930年代初頭以来、アドルノの哲学的思考のテーマの一つでした。ちなみに、こうしたことが気になったのも、ちょどベンヤミンの歴史哲学とハイデガーの歴史論を対照させた以前の論文を見直していたからでした。

51fwl3vou1l11月上旬には、現代を代表する作曲家の一人である細川俊夫さんが、ご自身の半生と作曲活動の軌跡を、創造の核心にある思想とともに語った対談書の日本語版の刊行へ向けた、校正や巻末資料の準備といった作業を終えることができました。すでに別稿に記しましたように、拙訳による日本語版は、『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』の表題で、アルテスパブリッシングより刊行されます。12月12日に各書店で発売されますので、お手に取っていただければ幸いです。音楽を愛好する方々に音楽そのものを深く考えさせる一冊として、あるいは作曲を志す方々に刺激と示唆を与える一冊として、多くの方に読んでいただけることを願ってやみません。人間と自然の関わりを、そこにある生の息吹を響かせる芸術の力を深く考えさせる内容を含んだ一書と考えております。

11月の26日と27日には、広島市のアステールプラザにて、ひろしまオペラルネッサンスの今年の公演が開催され、プッチーニの「三部作」より、《修道女アンジェリカ》と《ジャンニ・スキッキ》が上演されましたが、この公演のプログラムに、「生がその全幅において肯定される場を開くオペラ」と題したプログラム・ノートを寄稿させていただきました。プッチーニが「三部作」の作曲に際してダンテの『神曲』を意識していたことに着目しながら、プッチーニのオペラの独自性に迫ろうとする内容のものです。それから、11月29日には、すでに日本語で書いた論文の原稿をドイツ語に訳して、お世話になっているベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキウムで発表する機会にも恵まれました。やはりディスカッションには多くの課題を残しましたが、論文の趣旨を深く理解して、それを現在の、それこそ”post-truth”的状況に生かすうえで考えるべき問題を指摘したコメントが得られたのは収穫でした。

シーズン真っ盛りの11月は、かなりの数の演奏会やオペラの公演に足を運びました。故パトリス・シェローの演出による州立歌劇場でのリヒャルト・シュトラウスの《エレクトラ》の公演と、サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会は、本当に忘れられないものとなりました。また、ベルリン・ドイツ・オペラでのマイアベーアの《ユグノー教徒》の上演は、多くのことを考えさせるものでした。これらについてお伝えするとなると、かなり長くなってしまうので、場を改めてということにさせていただければと思います。これらとともに印象に残ったのが、イヴァン・フィッシャーの指揮によるベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の演奏会でした。11月に二度聴いたその演奏会はいずれも、今ベルリンで聴くべきコンビがここにあることを、音楽を聴く喜びとともに実感させました。なかでもベートーヴェンの交響曲第4番とシューベルトの交響曲第5番の演奏は、楽譜に書かれた音の潜在力を、しなやかな歌心をもって発揮させていました。清新でかつ充実した内容の演奏を繰り広げる両者の協働が長続きしないのが非常に残念ですが、イヴァン・フィッシャーが指揮するコンツェルトハウス管弦楽団の演奏会を聴けることは、今ベルリンに滞在していて最も幸せに思えることの一つです。

今回は最後に、一つ美術の展覧会をご紹介しておきます。ハンブルク駅現代美術館に改装中のNeue Nationalgalerieの作品の一部を展示するために設けられているNeue Galerieでは、現在「ヒエログリフ」と題するエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー展が開催されています。キルヒナーは、好きな画家の一人なので見に行きました。スペースの関係で絵画の出品数は少ないのですが、ダヴォス時代の作品を含めて興味深い作品がいくつか並んでいます。もちろんあの《ポツダム広場》も架かっているのですが、それとともに面白いのは、この大作のために彼が残した、きわめて簡潔に身体像を捉えるスケッチが展示されていることです。「ヒエログリフ(象形文字)」というのは、キルヒナー自身が、身体の動き──彼は一貫して舞踊などの身体表現に強い関心を持っていました──を平面上の輪郭線に翻訳する際に用いていた、彼独特の素描言語を表わす概念とのこと。その広がりが、デッサンのみならず、舞踊の様子を収めた写真などにも見て取られているのが、今回の展覧会の特徴と言えるかもしれません。また、その言語の形成に、カール・アインシュタインのアフリカの彫刻についての書物などに触発されたアフリカの美術への関心も深く関わっていることも、展示から伝わってきます。

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ジェンダルメンマルクトにて

ともあれ、ヒエログリフとしてのデッサンを見ることをつうじて、《ポツダム広場》の画面から、街路を行き交う人の動きがさらに強く感じられるようになった気がします。この傑作が描かれてからすでに一世紀を超える年月を経て、ポツダム広場の様子はすっかり変わってしまいましたが、その一角やコンツェルトハウスの前のジェンダルメンマルクト、それにアレクサンダー広場のような場所には、11月の最後の週末から、クリスマスの市が立ち、多くの人々で賑わうようになっています。日が落ちると、どこからともなく人が集まってきて、市のなかはかなり混み合います。すでに寒いうえ、夕方ともなれば真っ暗になってしまうので、そうでもしないと精神的にも厳しいのかもしれません。例年より少し早い待降節(アドヴェント)の訪れとともに始まったクリスマスの季節、街は色とりどりの灯と人々の賑わいで彩られるようになりますが、私は図書館にさらに深く籠もって研究に勤しまなければと思います。気がつけば、滞在期間があと二か月ほどになってしまいました。どうかみなさま、ご健康でよいクリスマスの時季をお過ごしください。

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ベルリン通信II/Nachricht aus Berlin II

[2016年6月3日]

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庭に咲いていたスズラン

「妙なる月、五月に(Im wunderschönen Monat Mai)」。よく知られているように、ハインリヒ・ハイネの『歌の本』から採られた詩によるローベルト・シューマンの《詩人の恋》は、この言葉から始まります。この連作歌曲の第1曲に用いられた詩においてハイネは、五月に草木が花を咲かせるのに恋の開花を重ねるわけですが、そのように自然の生長と感情の湧出を結びつけられる背景には、言うまでもなく、ドイツ語圏の人々のこの月に対する特別な思いがあります。それを表わすのが、「花盛り(Maienblüte)」、「五月祭(Maifeier)」、「五月鰈(Maischolle)」といった「五月(Mai)」が語頭に付く言葉の数々なのでしょう。ドイツ語の辞書を開くと、そのような言葉が格別に多いことに驚かされます。

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オースドルフの廃墟の風景

そのような言葉の一つに、スズラン(Maiglöckchen)があります。スズランは、ドイツで好まれている春の花の一つで、ベルリンの住まいの庭でも可憐な花を咲かせていました。これをはじめとして、五月はまさに花盛りの季節なのですが、ドイツにいると、草木の花々が深い緑のなかでこそ光彩を放つことが実感されます。もちろん、春のまだ柔らかな日差しも欠かせません。それらを求めて、ドイツの人々はしばしばかなり長い散歩に出かけます。それに倣ってある晴れた日に、住まいのあるリヒターフェルデと隣町のテルトウのあいだに広がる草原へ出かけたことがありました。そこにはかつてオースドルフという農村があったのですが、1968年に旧東ドイツがアメリカ合衆国の管理区域とのあいだに緩衝地帯を造る際に、住民は強制的に移住させられ、村は破壊されてしまったそうです。木立のなかの散歩道を歩いているうちに、40年近く前に壊された農家の廃墟とおぼしい場所に辿り着きました。

この五月には、これまで活字をつうじてしか接することのなかった学者の講演に接する機会に恵まれました。まず、“Embodiment”(肉体化、具体化)をテーマとする現象学の学会の締めくくりに行なわれたベルンハルト・ヴァルデンフェルスの講演は、自己関係ないし自己再帰的な関係と、そこからこぼれ落ちる異他的な次元とが身体においてつねに相即していることを、自然と文化の接点として詳細に論じるものでした。また、ダーレム人文学センターの「ヘーゲル講義」として行なわれたエレーヌ・シクスーの講演“Ay yay! The Cry of Literature”は、文学の営みの新たな地平を開く、感銘深い内容のものでした。「叫ぶこと(Schrei)」と「書くこと(Schreiben)」のあいだを縫って、音声としては消え去っていく叫びの「死後の生」を定着させて展開させる「書記」の営為を、そこに内在する殺害の問題にも触れながら、その可能性において問う講演として聴きました。

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ポンピドゥー・センターのクレー展看板

五月の下旬には再びパリへ出かけ、ポンピドゥー・センターで開催されている大規模なパウル・クレー展「作品におけるイロニー」に関連して二日にわたりGoethe-Institut Parisにて開かれた国際コロック「パウル・クレー──新たな視点」を聴きました。すでに「ベルリン通信I」でご紹介したように、この展覧会にはヴァルター・ベンヤミンが私蔵していた《新しい天使》が出品されている(ただしオリジナルは最初の2か月のみ)のですが、コロックで聴いたアニー・ブールヌフさんの発表によると、その水彩画の台紙には宗教改革者マルティン・ルターを描いた19世紀の版画が使われていて、その隅にはこの版画のモデルと目されるルターの肖像の作者ルーカス・クラナッハのモノグラムが暗示されているそうです。ベンヤミンは、そのことにどれほど気づいていたのでしょうか。

このコロックでは、クレーの画業がその前史と後史も含めて浮き彫りにされるとともに、同時代の芸術運動との関連においても検討されました。そのことは、クレーとピカソの関係に焦点が絞られた観のある展覧会の内容を補完するものでもあったように思われます。ただし、ここで付け加えておかなければならないのは、今回の展覧会のように、クレーの画業をその最初期から最晩年に至るまで通観できるのみならず、《Insula Dulcamara》をはじめとする大規模な作品もまとまったかたちで見られる展覧会は、きわめて稀だということです。ポンピドゥー・センターのクレー展の会期は8月1日までです。それまでにパリへお出かけになる機会のある方には、ご覧になることを強くお薦めいたします。なお、11月からはベルンのパウル・クレー・センターで、クレーとシュルレアリスムの関係を照らし出す展覧会が開催されるとのこと。こちらも見逃せません。

さて、五月のベルリンでは、演奏会やオペラなどの公演が盛んに行なわれていたわけですが、研究などが忙しく、あまり頻繁に出かけることはできませんでした。観たなかで興味深かったのは、コーミッシェ・オーパーで行なわれたヘルベルト・フリッチュの演出によるモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の公演と、州立歌劇場で行なわれたミヒャエル・タールハイマーの演出による《魔弾の射手》の公演でした。前者では、作品の「ドラマ・ジョコーゾ」としての側面をブラック・ユーモアも交えながら掘り下げ、登場人物の無意識の欲動にまで迫ろうとする演出によって、見ごたえのある舞台を提示されていたと思います。後者では、作品の内実を深く掘り下げ、悪の問題に迫った演出が印象的でした。狩人をはじめとする村の人々の身ぶりの様式化には、共同体という閉域に対する批判的な眼差しも込められていたと感じました。マックス役を歌ったアンドレアス・シャーガーの歌唱を含め、音楽も非常に充実した《魔弾の射手》の公演でした。六月はもう少し多く演奏会場や劇場へ出かけたいと思います。

相変わらず、ベルリン自由大学の文献学図書館などの施設を利用しながら、〈残余からの歴史〉の概念の理論的な探究に接続されるべきベンヤミンの歴史哲学の研究に没頭していたわけですが、現在その現時点での成果を六月末のコロキウムで報告すべく、論文をまとめつつあるところです。主に批判版全集の第19巻に収録された「歴史の概念について」のテクストを検討して見えてきたことと、これまでの研究を結びつけるかたちで執筆を進めています。そろそろ日本語の草稿をドイツ語に翻訳していかなければなりません。他にもいくつかの仕事を並行して進めておりますが、その成果は7月末から8月にかけてお届けできるものと思います。

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ヒロシマ・ナガサキ広場の表示

それから、四月の末のことになりますが、現在の研究とも通底する内容の二点の拙論を公表する機会に恵まれました。一つは、6月23日まで横浜美術館で開催されている展覧会「複製技術と美術家たち──ピカソからウォーホルまで」のカタログに寄稿した「切断からの像──ベンヤミンとクレーにおける破壊からの構成」です。ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」をはじめとする著作で示している、完結した形象の破壊、技術の介入によるアウラの剝奪、時の流れの切断などをつうじて新たな像の構成へ向かう発想を、クレーがとくに第一次世界大戦中からその直後にかけての時期に集中的に示している、作品の切断による新たな像の造形と照らし合わせ、両者のモティーフの内的な類縁性と同時代性にあらためて光を当てようと試みるものです。もう一点は、法政大学出版会から刊行された『続・ハイデガー読本』に収録された「ブロッホ、ローゼンツヴァイク、ベンヤミン──反転する時間、革命としての歴史」という小論で、これら三人のユダヤ系の思想家と、初期のハイデガーの時間論と歴史論を照らし合わせ、ユダヤ系の思想家たちが構想する「救済」と結びついた歴史の理論と、『存在と時間』の「歴史性」の概念に最初の結実を見ることになるハイデガーの歴史論との差異を見通す視座を探る内容のものです。

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広島と長崎の原爆犠牲者追悼モニュメント

早いもので、「妙なる月」はすでにうち過ぎ、六月にさしかかっているわけですが、五月の最後の日には、ポツダム郊外のグリーブニツ湖畔のヒロシマ・ナガサキ広場に置かれた、広島と長崎への原子爆弾の投下による犠牲者を追悼するモニュメントを見ることができました。碑銘が刻まれ、それぞれ広島と長崎で被爆した石が埋め込まれた石板と、核による苦しみが今も続いていることの重さを感じさせる大きな石とから成るモニュメントの造形は、彫刻家の藤原信さんによるものですが、モニュメントの設置に尽力したのが、ベルリンで高分子物理化学の研究を積み、ベルリン工科大学などで教鞭を執った後、自身の広島での被爆体験を証言し続けた外林秀人さんだったそうです。このモニュメントは、1945年7月25日に当時のアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンが原子爆弾投下の命令を下したとされる邸宅に向き合うかたちで置かれています。文学的な装いを持ちながら、相変わらず原爆を投下する立場から語られる現在のアメリカ大統領の広島での「所感」を聞きながら、このことの意味を考えなければならないと思いました。

二つの研究会に参加して

パウル・ツェランの「死のフーガ」の詳細な註解書

パウル・ツェランの「死のフーガ」の詳細な註解書

早いもので、2014年も暮れようとしています。この冬は、例年になく厳しいものになりそうです。時ならぬ大雪が示すように寒さも厳しいですが、それは厳しい抵抗の日々の到来を告げるかのようです。華やかさを装いながら人々の苦難を食い物にし、働く人々の生活を破壊し、そして核によって生命そのものを壊滅させることでますます増殖しようとしている権力に、そのファシズムの文字通り「神話的」な暴力にいかに立ち向かうか、そしていかに他者とともに生きることに踏み止まるかが、これから問われることになるでしょう。

さて、そのような厳しい日々を生き抜く道を探るうえでも、この師走に二つの研究会に参加できたことは非常に刺激的でした。その一つは、2014年12月14日に東京ドイツ文化センターにて第3回日独哲学会議として開催された、マルティン・ハイデガーのいわゆる『黒ノート』についてのワークショップです。この『黒ノート』とは、ハイデガーが密かに記していた哲学的手記とでも言うべきノートで、彼が死後に全集の最後の巻として公刊することを指示していたものです。このほど、その遺志に反するかたちで出版されたこの『黒ノート』ですが、出版に先だってその内容の一部が伝えられた際に、そこに反ユダヤ主義的な言辞が含まれることが激しい論議を呼び、「ハイデガー問題」が再燃することになりました。

今回の東京の会議には、現在全3巻1200ページに及ぶ『黒ノート』のテクストを編集したヴッパータール大学のペーター・トラヴニーさんが招かれていて、そこに込められたハイデガーの思想について、詳しく聞くことができました。また、このテクストとそれをめぐるヨーロッパの議論をいち早く紹介した三島憲一さんをはじめとする日本の研究者が、『黒ノート』が問いかけるものを議論しました。個人的には、例えば、単独性と共存のあいだの断層をはじめとする、ハイデガーの思想そのものに内在するいくつかの断層を指摘した加藤恵介さんの報告が、ハイデガーのテクストへの新たな切り口を示すものと思われました。

もし、その断層が、三島さんの指摘する「公共性」ないし「世界性」の欠如──例えば、ハイデガーのユダヤ人観はユダヤ教を欠いた一面的なもので、それ自体反ユダヤ主義的なソースにもとづいているようです──のなかで、一種の決断によって架橋され、それとともに「民族」、「人種」、さらには「存在論的マニ教主義」が語られているとすれば、トラヴニーさんが『黒ノート』に見る「存在史的反ユダヤ主義」の問題はきわめて根深く、それは和辻哲郎らの京都学派におけるハイデガー受容にも、さらには今日「日本人」をことさらに言挙げする排他的言説の淵源にも、深刻な問いを投げかけるものと言わざるをえません。

さらに、この催しそのものが、日本におけるこれからのハイデガー受容に、すなわち今ハイデガーを読むことに、重い問いを突きつけるものであったように思います。そのテクストでハイデガーが「世界ユダヤ人組織」といった不穏な言葉を語っているのを、現在を照らす問題としてどのように受け止められるかに、このワークショップでトラヴニーさんが言及していた哲学者の感受性、とくに受苦に対する感受性が表われることでしょう。ハイデガーの『黒ノート』については、今後も日本国内で論じられる機会があると聞いています。哲学の徒の一人として、そこでの言論の動向を注視したいと思います。

もう一つの研究会は、2014年12月21日に、九州大学西新プラザで開催された第46回原爆文学研究会でした。この研究会がここのところ連続して行なっている「戦後70年」を考えるワークショップの一つ「カタストロフィと〈詩〉」での報告を、おかげさまで大過なく終えることができました。それにしても今回の原爆文学研究会は、刺激に満ちたものでした。このような濃密かつ多様な観点に開かれた議論の場でお話させていただいたことを、心から光栄に思っています。ワークショップのコーディネーターの野坂昭雄さんはじめ原爆文学研究会のみなさまに心から感謝申し上げます。

ナーズム・ヒクメットの「希望」という素晴らしい詩との出会いから始まった今回の研究会の前半のワークショップ「古典詩と現代詩の協奏」では、生身で歴史的な問題と格闘し、その過程で身を削って、言葉とともに身についた心性を乗り越えようとする詩の試みや、言葉の重層性と可塑性を最大限に活かす語の配置によって、現在の問題の核心に踏み込む詩の試みに、詩の朗読をつうじてじかに触れられたのは、本当に得がたい体験でした。言葉の肌理ないし肌触りにじかに触れられる場としてのポエトリー・リーディングの重要性も、あらためて実感しました。

私が報告させていただいた後半のワークショップでは、高橋由貴さんによる原民喜の作品の精緻な読解から、晩年の作品を、散文と詩を往還して読み解くことの重要性とともに、失語を潜り抜けて生まれた作品における渦や緑のような形象の重要性についても教えられました。また、中原中也記念館館長の中原豊さんからは、須藤洋平という独特の感性をもって大震災と原発事故に向き合う詩人の作品を、その成立の背景とともにご紹介いただき、大変興味深かったです。私の報告は、アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」という言葉を、その文脈から跡づけ、そこに含まれる問いを取り出したうえで、それに対する詩の応答の一端を、原民喜とパウル・ツェランの詩作のうちに求め、そこに表われる詩の変貌ないし変革に、破局の後の詩の可能性を見ようとするものでした。その内容が活字化されましたら、またお伝えします。

今回の報告に、すでに膨大なツェラン研究の成果を充分に盛り込めなかったのは残念ですが、それは今後の研究の課題としたいと思います。拙い報告を聴きに来てくださった方、熱心にご質問くださった方には心から感謝申し上げます。全体として今回の研究会は、批評性を自己自身のうちに含みながら破局的な現実の深奥に踏み込む詩の力を再確認する場になったと思います。中原さんによると、須藤洋平にとって「死にっぱぐれた」自分が「塩辛い」生を生きることと、詩を書くことは一つとのことですが、そのように生そのものを賭けて書かれた詩を、今こそこの世界に生きる糧にしなればと思うことしきりでした。言葉の欠片を拾い上げ、それが響かせるものを聴き分けながら、人々を搦め捕り、束ねようとする言葉の喧騒に立ち向かう詩の営みは、地上にそれでも生き続けるための抵抗の拠点の一つになりうるのではないでしょうか。もしかすると、フリードリヒ・ヘルダーリンが語った「人はこの地上に詩的に住む」という言葉は今、このような可能性へ向けて読み直されうるのかもしれません。