早春の仕事と所感

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広島市植物公園にて

Social distancingという言葉を人類で共有しなければならない状況になりました。新型コロナウィルス感染症(Covid-19)の広がりは、人と人が住まいの外でじかに接触することを、いかなる場合にも極力避けなければならない段階に来ています。息苦しく、気持ちの塞ぐ境遇を脱する見通しは当分立ちそうにありませんが、状況をこれ以上悪化させないためには、今はsocial distancingに努めるしかないのは自明でしょう。在宅での生活の支援を含め、その条件を社会で整えなければならないのは、言うまでもありません。

Social distancingという言葉は、一般に「社会的距離」と訳されているようですが、socialという単語には「社交的」という意味もあります。人付き合いを続け、共に生きていくために、互いの立場や境遇に可能な限り配慮しながら、今は感染拡大の防止に必要な物理的距離を保つ、というようにsocial distancingの意味を理解してはいかがでしょう。国家のことを語るのは正直気後れしますが、このことは国と国の関係にも当てはまるでしょう。特定の国を一方的に遠ざけるようなことは、後に禍根を残すだけです。

むしろ国際的な相互理解にもとづいて、国境での人の出入りのコントロールを検疫を含めて強化するとともに、帰国者を含めた入国者の一定期間の隔離が必要ならば、そのための移動と滞在生活の条件を保証することが、まず必要でしょう。そして、新型コロナウィルスへの感染を広げないために今必要なsocial distancingが何かを、国内にいるすべての人に対し、科学的な根拠にもとづいて論理的に説明すると同時に、社会的な行動制限に伴う損失を埋め合わせる枠組みを提示したうえで、国内での感染防止策を徹底することが、政府の第一の責務のはずです。

残念ながら、何ら根拠のない各種学校の休校「要請」が象徴するように、この国の政府は、自分たちの「やってる感」を演出することに血道を上げています。その中枢を占める人々の言動からは、社会的な行動が制限されざるをえないなかで、国内に生きる人々の生活を保障することへの真摯な問題意識が感じられたためしがありません。それが少しでもあるなら、「商品券」を配るなどという発想は出て来ないはずです。にもかかわらず、そのような政府が「緊急事態宣言」すら出せるようになってしまいました。このことこそが生命の危険です。

それもさることながら、新型コロナウィルスの人から人への感染が始まった頃から危惧しているのが、感染症の流行によって人々が分断され、差別が横行するようになることです。すでにそれはさまざまなかたちで現われています。今回のウィルス禍は、人々の心の奥に潜む差別意識を剝き出しにしただけでなく、マスクや食料品を不必要に買い集めようとする行動が示すように、高度に情報化された新自由主義の浸透が、いかに人間の魂を蝕んでいるかを露呈させました。

今は、根拠のない情報にけっして躍らされることなく、それぞれの住まいで知恵を深め、それを身体的接触を介することなく交換し、互いの立場を理解し合いながら、現在の苦境をともに潜り抜ける道を探る時でしょう。Social distancingという言葉は、このことを指し示していると思われます。その際に最も頼りになるのが本でしょう。本は、自分を時空を隔てた他者と結びつけながら、自分の境遇をその歴史的な背景を含めて照らし出してくれます。Social distancingが、そのような良書との出会いの契機になることを願ってやみません。

それにしても、現在の厳しい状況の下で多くの文化的な催しが中止や延期を余儀なくされていることは寂しいことですし、何よりもそのために大きな経済的な損失を負う組織や、フリーランスのアーティストの苦悩を思うと言葉がありません。一日も早く文化を担う組織の存続とアーティストの生活を保障する仕組みが整えられる必要があるはずです。文化に携わる人々が、この社会に生きる人々の魂の陶冶を担い──これが「文化」の原義です──、社会の礎を築いていることを、今こそ省みるべきでしょう。

今からすると、2月の15日と16日に広島で細川俊夫さんの《松風》の公演が無事に行なわれたことは奇跡のようにすら思われます。Hiroshima Happy New Ear Opera IVとして、アステールプラザの能舞台を用いて開催された上演には、両日とも満席に近いお客さまにお越しいただきました。主催組織のひろしまオペラ・音楽推進委員会の一員として、あらためて感謝申し上げます。非常に充実した内容の上演になったと思います。すでにMercure des Artsに能登原由美さんによる公演評が掲載されています。

1268前後しますが、『週刊金曜日』2020年2月14日号に、旧陸軍被服支廠倉庫の再生へ向けて「戦争と被爆の記憶が刻まれた建物をアジア各地域と連帯する文化拠点に」と題する小論を寄稿させていただきました。「加害と被害、二重の記憶をとどめる戦争遺構」というテーマの下で掲載されています。被服支廠が戦争の時代にどのような場所だったかを切明千恵子さんの証言を基に掘り下げ、解体へ向けた県当局の動きと、それに抗して保存を求める運動を浮き彫りにした宮崎園子さんの「解体計画に揺れる広島・被服支廠」と併せてご笑覧いただければ幸いです。

3月7日に発売された講談社の文芸誌『群像』2020年4月号の「論点」の欄には、「抗う言葉を分かち合う──芸術と批評の関係をめぐって」と題する小論を寄稿させていただきました。この息苦しい時代に芸術が何でありうるかを、ニーチェの『悲劇の誕生』の顰みに倣えばベンヤミンの精神から、批評との緊密な関係のうちに探る内容の論考です。批評的な反省を内在させた創作と、言説としての批評が協働し合うなかに、生命があまりにもないがしろにされる流れに抗い、生きることに踏みとどまる芸術の営みがありうるのではないか、という考えを表題に込めました。

202004表題に掲げた芸術作品を「抗う言葉」と見る視点は、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』、それに触れた詩人パウル・ツェランのビューヒナー賞受賞講演「子午線」、そしてビューヒナー戯曲の最終部のリュシールの言葉を用いたヴォルフガング・リームの《街路、リュシール》を論じることをつうじて得ました。今年の1月25日に東京交響楽団の定期演奏会でリームの作品を、角田祐子さんの素晴らしい歌唱とともに聴けたことは、拙稿を綴る重要な契機の一つとなりました。

今回の小論では、ベンヤミンの「写真小史」などの議論に接続させるかたちで、佐々木知子さんの写真集『Ground』所収の長崎の写真を、新国立美術館で開催されていた「DOMANI・明日2020」展で見た藤岡亜弥さんの広島の写真とともに取り上げています。佐々木さんの写真と出会えたこと、そして藤岡さんの「川はゆく」シリーズに向き合う機会を得たことも、拙稿の展開の重要な契機となりました。

拙稿の後半では、ファシズムによる「政治の審美主義化」に抗する「芸術の政治化」をめぐるベンヤミンの議論を、「ディセンサス」を鍵語とするジャック・ランシエールの芸術論とも照らし合わせ、複数性を生きる民衆を創造する芸術の可能性にも触れました。その際に、作品の「抗う言葉」を構成し、伝える言説としての批評の役割にも論及しています。美術出版社の『美術手帖』4月号のテーマが「表現の自由」ですが、それをめぐる議論とも緩やかに呼応する内容もあるかと思います。

Ground_展示DM_book obscura_omoteこの間、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書)をめぐって二つの動きがありました。まず、2月29日に本川町のREADAN DEATにて、写真家の佐々木知子さんと「土地の記憶、闇を歩く批評」と題して対談を行ないました。丁寧に準備してくださったおかげで、選りすぐりの本と器に囲まれながら、佐々木さんの写真集『Ground』に収録された長崎の写真とそれが喚起する記憶について、またある場所に立って写真を撮る行為と言葉を発することの関係について、拙著の内容とも絡めながら密度の濃い議論ができました。

佐々木さんとの対談では、カーテンを引いて視界を遮断することなく、歴史的な現在を凝視する思考と、その媒体としての写真の可能性などについて、多くを考えさせられました。拙著でも論じた言葉そのものの肯定性について、新たな視角から省みる機会ともなりました。今回の対談の場をご準備くださったREADAN DEAT店主の清政さん、『Ground』版元tentoの漆原さんに心から感謝申し上げます。また、当日は約20名の方にお集まりいただきました。大変な状況のなか、足を運んでくださったことに心から感謝しております。

それから、3月15日の中國新聞読書面の「著者に聞く」コーナーで、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』をご紹介いただきました。インタヴューを丁寧にまとめて、言語、芸術、歴史を問うベンヤミンの危機の時代の思考の足跡を辿る本書の特徴を浮かび上がらせてくれた森田裕美さんに心より感謝申し上げます。拙著が新たな読者と出会うきっかけになることを願っています。

記事の後半は、本書の成り立ちと広島との関わりにも触れています。核分裂が発見された研究所のそばにあるベルリン自由大学の図書館に日々籠もってベンヤミンの著作に取り組むなかから生まれたこの小さな本に込められた思考を、「核の普遍史」に抗する広島からの、そして他の場所とも結びつく想起の営みの意義を考えるのに少しでも生かせればと思います。

IMG_0634その後、勤務先の大学の図書館の司書の方が、この記事を使って私の著書のコーナーを作ってくださいました。来館者が拙著を知る契機を設けてくださったことに感謝申し上げます。ご報告が遅くなりましたが、拙著は、みすず書房の月刊『みすず』2020年1・2月合併号における「2019年読書アンケート」特集で、姜信子さんと成田龍一さんに挙げていただいています。「歴史の反転」へ向かうベンヤミンの思考に着目した本書の趣旨を深く汲んだお二人のご紹介に、心より感謝申し上げます。

時代は先の見えない、そして息苦しい闇と化しつつあります。そのなかを歩むのに、拙著が少しでもお役に立てたらと願っています。早いもので三月もあとわずかです。次の仕事を少しでも先に進めておかなければなりません。厳しい状況が続きますが、適度な緊張感と社交的な距離を保ちながら、お健やかにお過ごしください。

広島での細川俊夫のオペラ《松風》の上演へのお誘い

EHZb3NYUUAIgu_g早いもので1月が終わろうとしています。ここ広島では真冬とは思えない暖かな日が続いています。みなさまいかがお過ごしでしょうか。来たる2月15日(土)と16日(日)に、ひろしまオペラ・音楽推進委員会が主催するHiroshima Happy New Ear Opera IVとして、細川俊夫のオペラ《松風》の公演が、広島市のJMSアステールプラザの中ホールで開催されます。主催組織の委員の一人として、多くの方々にご覧いただきたいと願っています。

細川俊夫さんを音楽監督に迎え、その作品をはじめとする現代の音楽を軸とする演奏会シリーズ、Hiroshima Happy New Earでは、2012年からHiroshima Happy New Ear Operaとして、2012年から細川さんのオペラを上演しています。最初に取り上げられたのは《班女》(平田オリザ演出)で、2015年には《リアの物語》(ルーカ・ヴェッジェッティ演出)、2018年には再び《班女》(岩田達宗演出)を、いずれも能舞台を使って上演してきました。

第4回を迎える今回、満を持して《松風》を取り上げます。この作品に関しては、好評を博した2018年2月の新国立劇場での日本初演をご記憶の方も多いことでしょう。サシャ・ヴァルツさんの振り付けと塩田千春さんの美術による2011年の世界初演以来の舞台は、細川さんの音楽とともにオペラの新しい姿を、日本の観客に鮮烈に印象づけました。それによって《松風》のイメージが決定づけられている面もありますが、広島の《松風》のプロダクションは、初演のそれとはまったく異なった作品像を提示するものです。

今回も上演に能舞台が用いられます。演出を担当するのは、前回の《班女》に続いて岩田達宗さんです。昨日(1月29日)行なわれた公開リハーサルの際に岩田さんは、オペラ《松風》の台本がドイツの女性作家ハンナ・デュブゲンによって書かれたことを重視しておられました。原作を生かしながらも、男性の原作者とは異なった感性によって作られたリブレットを介することで、およそ600年前に世阿弥が能曲として書き記した内実が、現代の身体に甦ることを、岩田さんの演出は示してくれるにちがいありません。

須磨の浦の海女、松風と村雨の姉妹は、そこで出会った在原行平への恋情を募らせながらこの世を去ったわけですが、その魂のなかで、思慕の念は狂おしいまでに高まっていきます。そして、恋慕の情の高まりは、魂がこの世に回帰することによって、すなわち身体の現象において表現されうるのです。このことを、能舞台を用いた今回の演出は、オペラの第二場の姉妹の美しい二重唱から証明してくれるはずです。そして、それを可能にする音楽家も、広島でのプロダクションには集まっています。

EHZb3NkUUAAEFuZ指揮を担当するのは、2012年からずっと広島での細川さんのオペラを指揮してきた川瀬賢太郎さんです。細川さんの音楽の息遣いを一貫した流れに生かし、歌とともに豊かに響かせる川瀬さんの音楽作りは、高い評価を得てきました。そのいっそうの深まりが示されることでしょう。松風と村雨の役を歌うのも、Hiroshima Happy New Ear Operaの第1回公演から見事な歌唱を聴かせてきた半田美和子さんと藤井美雪さん。第二場の二重唱と第三場の松風のアリアは本当に楽しみです。

《松風》というオペラは、手の届かないところに他者がいるからこそ、一体となろうとするまでに思い焦がれるという人間の逆説と、そこにある懊悩からの救済の可能性もまた、他者との邂逅のうちにあるという洞察とを、風が吹き、波が打ち寄せる岸辺を感じさせる音楽によって伝えています。能舞台を用いてその魅力を凝縮されたかたちで表現する上演をぜひご覧ください。今回の公演は、キャストを含めて日本人による最初の《松風》の上演ということになります。広島からの、そして日本からの《松風》の誕生の瞬間を、多くの方とともに見届けたいと願っております。

公開リハーサルを見て、舞台が順調に仕上がってきていることを確信しました。お見逃しのないよう、お誘い合わせのうえ、チケットをお早めにお求めください。2月15日(土)、16日(日)とも、開演は14:00です。両日とも、終演後にトークが計画されています。広島県内はもとより、九州、そして関西や関東からも日帰りで、あるいは旬の牡蠣を楽しむことを込みに小旅行を兼ねてお越しいただけることでしょう。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。今回の《松風》の公演のプログラムにも、作品解説の小文を寄稿させていただきました。ご観覧の際にご笑覧いただけたら幸いです。

Chronicle 2019

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周防大島の夕暮れ

広島でいつになく暖かい大晦日を迎えています。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。気候が穏やかなことは、年を追うごとに寒さに弱くなる身にはありがたいとはいえ、それを手放しで喜ぶ気にはなれません。これもやはり地球規模の気候変動の影響なのではないか、という思いを拭えないからです。

今年、温暖化に対する無為無策を力を込めて批判する国連でのグレタ・トゥンベリさんのスピーチが話題になりました。その言葉は、前へ進むことが、次世代の未来を閉ざすかたちで生存の環境を破壊することでしかないことを突きつけました。にもかかわらず、列島の人々は虚妄の未来に躍らされているままです。

まず求められているのは、立ち止まって足下を見つめ直すことでしょう。どのような歴史が積み重なった現在に生きているのかを考え、生き方を変えていくことでしか生存の道筋は開かれないでしょう。そして、いわゆる「負の歴史」も刻まれた近代の遺構と向き合うことは、そのきっかけになるはずです。

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旧陸軍被服支廠の窓

現在広島県は、県当局が管理する広島市南区の旧陸軍被服支廠倉庫の三棟のうち、二棟を解体するという方針を示そうとしています。その考えには、軍都にして被爆地であることが刻まれた広島にこそ求められる、歴史への真摯さに背反する重大な問題が含まれていると思われます。歴史的な建物を残し、活用する可能性へ向けて、市民を交えて知恵を絞るのが先ではないでしょうか。

禍々しいまでの威容を湛えて立ち並ぶ被服支廠の建物は、近代日本の戦争と植民地主義の記憶と、被爆の記憶を一つながらに伝えています。その軍服工場では、朝鮮人を含む人々が苛酷な労働を強いられました。また被爆直後には、重傷を負った多くの人々がその建物に運び込まれて命を落としています。

そのような被服支廠の建物を、死者の記憶に思いを馳せながら歴史的な現在を見つめ直し、さらに広島の記憶を他の場所の記憶と照らし合わせる場として再生させる可能性を提示する小文「生存の文化の拠点としての『倉庫』の再生のために」を、若い人たちが立ち上げた「被服支廠キャンペーン」に応えて寄稿しました。ご覧いただけると幸いです。

それにしても、この一年ほど神話が消費されることによって、歴史の隠蔽が進んだ年もなかったでしょう。それによって演出された天皇の代替わりに対する「奉祝」ムードが、「オリンピック」への狂躁へと接続されるなか、幾重にも差別が組み込まれた「公」に同調する雰囲気が醸成されています。

この多幸症的な空気のなか、植民地支配下の強制労働も、人が被曝を強いられることも、生活をその原風景もろとも壊されるかたちで戦争に巻き込まれることも、現在の問題であり続けていることが、すっかり忘れられています。これらは今、日本列島に生きる人々の生を日々蝕んでいるにもかかわらず。

歴史の忘却と、前へ進むことへの幻想は表裏一体です。そこに「国民」を束ねるかたちで、現政権とその取り巻きは、人民のもの、すなわちres publicaを私物化しています。今や自分たちが犯したあらゆる不正と犯罪を隠蔽しながらメディアと官僚機構を操り、差別を問いただす表現を抑圧することが、「公」と化しつつあります。「未来」とは、この連中の利権の拡大という虚妄でしかありません。

そのような私物化のファシズムのために、天皇の代替わりの一連の行事まで利用された観すらあります。ただしそのことは、神話的な天皇制を拵えて、国民を支配の対象としながら、性急に帝国主義的な近代化を押し進めた、遅れて来た近代国家としての日本の無惨な成れの果てを示すものでもあると思われます。

日本列島ではこのような破滅的な地点にまで立ち至った近代の歴史的な過程に向き合い、それが進行する内部で、「進歩」が打ち捨ててきた歴史の残骸の一つひとつを拾い上げ、そこに沈澱した記憶から、近代の歴史を総体として捉え返す思考。その回路を探究していたのが、ヴァルター・ベンヤミンでした。

473158今年の9月20日には、二十世紀前半に文筆家として活動したユダヤ人思想家ベンヤミンの思考を、神話に抗いながら言語、芸術、歴史をその可能性において問う批評と捉え、その足跡を辿った小著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を、岩波新書の一冊として上梓することができました。

岩波新書編集部の中山永基さんはじめ、そのためにお力添えくださった方々に、この場を借りてあらためて感謝申し上げます。本書の内容については、このウェブサイトの別のページに少し詳しく記してありますのでご参照ください。すでにお手に取ってくださった多くのみなさまに心より感謝申し上げます。

本書は期せずして、ある意味ではベンヤミンが生きた時代よりも息苦しい闇のなかに送り出されることになりました。その闇のなかで、他者と、そして死者とともに生きる道を探る思考の歩みのお伴して、来年はさらに多くの方に読んでいただけたらと願っております。来年は、ベンヤミン没後80年の年です。

ちなみに、今年は彼の友人だったテーオドア・W・アドルノの没後50年の年でした。アドルノとベンヤミンの往復書簡を検討し、両者がファシズムに抗する美学の共同戦線を模索していたことを示したうえで、そのための両者の思考が、相異なった方向性を持つメディアを創る言葉の探究に結びついたことを描く論考「メディアを創る言葉へ──ベンヤミンとアドルノの書の死後の生によせて」も年末に執筆しました。

こちらは岩波新書編集部のウェブサイト「B面の岩波新書」に、「新書余滴」として掲載されております。ご覧いただけると幸いです。今年こうして一冊の小さな本とそれに関連する論考を公にできたことは幸いでしたが、哲学と美学に関する自分の研究をさらに深めて公にする仕事は、充分だったとは言えません。

EHZb3NYUUAIgu_gベンヤミンの没後80年と被爆から75年の節目を迎える2020年は、拙著を丁寧に精読してくださっている方々がいることを胸に刻みながら研究にしっかりと取り組み、その成果をお伝えできるよう努めたいと思います。併せて、芸術に関わる仕事にも、力の及ぶ範囲で取り組んでいきたいと考えています。来年2月には早速、広島で細川俊夫さんのオペラ《松風》の公演があります。

今年も音楽と美術にまたがるかたちで、芸術に関する小文を公にする機会に恵まれました。それを設けてくださった方々に感謝申し上げます。とくに、広島交響楽団のディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethovenのプログラム・ノートを、連載のように執筆する機会をいただいたことは幸いでした。それによって、この二人の作曲家とその音楽について学ぶことができました。

今年一年のみなさまのご支援やご指導に心より感謝申し上げます。来たる2020年がみなさまにとって、少しでも幸多く平和な年であることを願っております。変わらぬご指導のほどよろしくお願いいたします。

■Chronicle 2019

  • 2018年12月27日:神戸・ユダヤ文化研究会の雑誌『ナマール』第23号に、「天使の変貌──ベンヤミンにおける言語と歴史をめぐる思考の像」と題する論文が掲載されました。パウル・クレーの《新しい天使》を手に入れて以来、ベンヤミンの生涯の節目に、ないしは危機に彼の著作に描き出された天使の像を、言語と歴史を徹底的に問う彼の思考を読み解く鍵として検討するものです。
  • 1月12日:フタバ図書MEGA祇園中筋店で「今、地域で生きる/暮らすということ」第2回として開催された森元斎さんのトークで聞き手を務めました。
  • 3月6日:佐藤零郎監督の映画『月夜釜合戦』の批評新聞『CALDRONS』に、「手つきと身ぶり──広島で『月夜釜合戦』を『山谷──やられたらやりかえせ』とともに観て」と題する批評が掲載されました。2018年1月13日、『山谷──やられたらやりかえせ』の監督の一人山岡強一の命日に、この映画と『月夜釜合戦』を観たのを踏まえ、後者を前者に対する応答と捉えるとともに、両者の対照を指摘し、佐藤零郎監督の劇映画『月夜釜合戦』の独特の特徴を浮き彫りにする映画評です。
  • 3月9日:東京文化会館小ホールで開催された演奏会「現代音楽と能〜くちづけ」のプログラムに、「閾(しきい)を開く声──青木涼子の謡の展開によせて」と題する小文が掲載されました。現代音楽と協働しながら彼岸と此岸の閾を開き、うたう可能性を開拓し続けている青木さんの活動を、パリでの細川俊夫さんの《二人静》の初演のことを含めて伝える内容のものです。
  • 3月21日:神戸大学で開催された第14回形象論研究会で、クリストフ・メンケの美学について研究報告を行ないました。
  • 4月〜7月:広島市立大学国際学部の専門科目として、共生の哲学I、社会文化思想史II、専門演習I、卒論演習I、そして多文化共生入門と国際研究入門の一部を担当しました。多文化共生入門ではコーディネーターも務めました。全学共通系科目の世界の文学の2コマと平和と人権Aの1コマも担当しました。大学院では、全研究科共通科目の人間論A、国際学研究科の現代思想Iを担当しました。広島大学の教養科目である戦争と平和に関する学際的考察でも、2コマの講義を担当しました。
  • 4月6日:国際交流基金のウェブ・マガジン『をちこち』に寄稿した「魂の息吹が交響する場を開く作品の予感 ──2018年度国際交流基金賞受賞記念イベント「越境する魂の邂逅」における文学と音楽の共鳴に接して」と題するエッセイの英語訳“Premonitions of Works Where Souls Reverberate”が、同ウェブ・マガジンに掲載されました。
  • 4月14日:本願寺の聞法会館で開催された公開シンポジウム「『戦争/暴力』と人間 ──美術と音楽が伝えるもの」第2回「総力戦体制下の芸術」で、司会とコメンテイターを務めました。
  • 5月17日:広島交響楽団ディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethoven第1回演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。
  • 6月1日〜11日:Erasmus Plusにもとづくハノーファー専科大学(Hochschule Hannover)と広島市立大学の交流事業に参加しました。ハノーファー専科大学の第V学部で二つの講義を行ない、同学部などに属する教員との交流を深めました。
  • 6月15日:批評誌Mercure des Artsに、「初夏のドイツへの旅より──ベルリンとブラウンシュヴァイクで接した公演を心に刻む」と題する批評が掲載されました。2019年6月1日から11日にかけてハノーファーとベルリンに出張した際に接したオペラの公演と演奏会の批評で、6月5日にブラウンシュヴァイク州立劇場で観たミェチスワフ・ヴァインベルグのオペラ《女船客》の公演の批評を、作品の紹介を交えて記したほか、6月8日のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会におけるマリア・ジョアン・ピレシュの演奏の批評を、彼女のピアニズムと教育活動に論及するかたちで記しました。
  • 6月17日:JMSアステールプラザで開催されたひろしまオペラ・音楽推進委員会主催の演奏会Hiroshima Happy New Ear XXVII:次世代の作曲家たちVIの終演後のトークで進行役を務めました。
  • 7月19日:「本とうつわの小さな店」READAN DEATで開催された瀬尾夏美さんの著書『あわいゆくころ──陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019年)の出版記念トーク・イヴェントで、瀬尾さんと対談しました。
  • 9月12日:武生国際音楽祭の武生国際作曲ワークショップにて、「芸術のなかの批評──ヴァルター・ベンヤミンの美学を手がかりに」と題するレクチャーを行ないました。ベンヤミンのロマン主義論とバロック悲劇論、そして「技術的複製可能性の時代の芸術作品」の議論が、批評を組み込んだ芸術の姿を提示していることを示し、作曲家がみずからの方法論を歴史的文脈のなかで反省することの重要性を問いかけました。
  • 9月18日:立命館大学衣笠キャンパスで開催されたジェノサイドと奴隷制を考えるブレイン・ストーミングで「M・ヴァインベルグとその《女船客》」と題するレクチャーを行ないました。ヴァインベルグの生涯と音楽、そしてそのオペラ《女船客》を紹介しました。
  • 9月20日:岩波新書の一冊として『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を上梓しました。最新の研究にもとづくヴァルター・ベンヤミンの思想への入門書となる評伝です。時代の危機を見通しながら、その危機のうちに決定的な岐路を見て取るベンヤミンの思考を批評と特徴づけながら、それが言語とは、芸術とは、そして歴史とは何かを、これらを生きる可能性へ向けて根底から問うていることを浮き彫りにしました。戦争とファシズムの時代を生きたベンヤミンの足跡から彼の言語哲学、美学、歴史哲学を描き出し、著作への入り口を示す一書で、略年譜と主要参考文献一覧も付されています。
  • 9月28日:ひろしまオペラルネッサンス2019年度公演モーツァルト《魔笛》プログラムに、プログラム・ノート「『人間』を問う特異な歌芝居(ジングシュピール)──モーツアルトの《魔笛》によせて」が掲載されました。作品成立の背景とともに、これが「歌芝居(ジングシュピール)」として書かれていることを踏まえながら、《魔笛》という作品において自由な人間の尊厳が歌い上げられる一方で、「人間」と認められていない者の側から「人間」であること自体への問いが今に鋭く突きつけられていることを指摘するものです。
  • 10月〜2019年2月:広島市立大学国際学部の専門科目として、共生の哲学II、社会文化思想史I、卒論演習IIを担当しています。全学共通系科目として、哲学Bも担当しています。これに加え、広島大学の教養科目哲学Aを担当しました。
  • 10月1日:日本社会文学会の会報『社会文学通信』に、「岩崎稔氏の基調講演印象記」が掲載されました。6月30日に早稲田大学で開催された日本社会文学会2019年度春季大会のシンポジウム「歴史学と文学──言語論的転回以後を考える」で岩崎稔さんが基調講演を行ないましたが、ヘイドン・ホワイトの『メタ・ヒストリー』とそれ以後の彼の理論の展開に定位しつつ、修辞学の伝統を重視するホワイトの議論の可能性を、出来事を語る可能性へ向けて掘り下げる講演の趣旨を紹介したものです。
  • 10月4日:広島交響楽団ディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethoven第2回演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。
  • 10月12日:小山市立車屋美術館での呉夏枝さんの個展「手にたくす、糸へたくす」のカタログに、「記憶の多島海へ──呉夏枝のほぐす芸術によせて」と題する評論が掲載されました。作家の芸術の歩みを、記憶の越境的な継承の可能性へ向けて論じるものです。
  • 10月15日:批評誌Mercure des Artsに、「30回目の武生国際音楽祭に参加して」が掲載されました。今年30回目を迎えた武生国際音楽祭にゲスト講師として参加しての報告です。9月の音楽祭で新たな音楽が生まれた様子を伝えると同時に、音楽家が出会い、世界的な音楽創造の芽が育まれる場として続いてきた武生国際音楽祭の意義にも触れました。
  • 10月22日:8・6ヒロシマ大行動実行委員会が主催した拡声器規制問題に関する第2回公開討論会(広島市東区民文化センター)にパネリストの一人として参加しました。平和祈念式典のあり方を、市民自身がどのように考えるか、という問いを広く共有することが必要であることなどを論じました。
  • 11月2日:広島市立大学広島平和研究所の直野章子さんが主催したシンポジウム「記憶の存在論と歴史の地平」に、ディスカッサントとして参加し、「記憶から歴史を問う──想起の経験から歴史の地平を開くために」と題する問題提起を行ないました。
  • 11月15日:中国文芸研究会の主催によりハナワインで開催された拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』の合評会に参加しました。
  • 11月19日:NHK交響楽団のウェブサイトに、「エルネスト・ブロッホとその音楽のユダヤ的要素」と題した小文が掲載されました。ブロッホのヘブライ狂詩曲《ソロモン/シェロモ》をはじめ、彼の「ユダヤ連作 Jewish Cycle」を中心に、彼の音楽のユダヤ的な要素を焦点とした小伝です。
  • 12月5日:広島交響楽団ディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethoven第3回演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。
  • 12月22日:福岡のブックカフェ本のあるところajiroにて、「ベンヤミンを読み始めるために──『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を入り口に」と題するトークを行ないました。ベンヤミンがどのような時代に生き、またそのなかでどのような問いに取り組んだかを、拙著『ヴァルター・ベンヤミン』に沿ってお話ししました。
  • 12月23日:被服支廠キャンペーンのnoteに、「生存の文化の拠点としての『倉庫』の再生のために」と題する小文を寄稿しました。被服支廠の建物の一角で繰り広げられた被爆死の光景を描く峠三吉の「倉庫の記録」を読み直したうえで、総力戦と被爆の記憶を一つながらに伝えるこの赤煉瓦の建物を、戦争と核開発の歴史に立ち向かう想起の文化が創られる空間として再生させる可能性を探る文章です。
  • 12月29日:岩波新書編集部のウェブサイト「B面の岩波新書」の連載「新書余滴」として、「メディアを創る言葉へ──ベンヤミンとアドルノの書の死後の生によせて」と題する論考を寄稿しました。拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』のとくに後半部の補遺として、ベンヤミンとアドルノの1930年代後半の往復書簡を読み解き、その思想の相即と背馳を検討しました。

細川俊夫のオペラ《松風》の日本初演について

スキャン厳しい寒さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。ここ広島でも朝晩は氷点下の日が続いていますが、このようなことは初めてです。北陸から北日本にかけては、ここ数日大変な大雪が降って、すでにさまざまな被害が出ていると聞きます。心よりお見舞い申し上げます。それにしても早いもので、すでに二月も中旬にさしかかっています。新国立劇場で行なわれる細川俊夫さんオペラ《松風》の日本初演が一週間後に迫りました。《松風》の公演は、2月16日(金)、17日(土)、18日(日)の三日間、新国立劇場オペラパレスにて開催されます。16日が19:00開演で、17日と18日が15:00開演です。この公演について、私からもいくつかお伝えしておきます。

今回の《松風》の公演の舞台は、2011年5月に行なわれたブリュッセルでの世界初演と同じ、舞踊家にして振り付け師であるサシャ・ヴァルツさんの演出と振り付けによるものです。ブリュッセル、ワルシャワ、ルクセンブルク、ベルリン、リールで上演が繰り返され、一昨年の秋には香港でも上演されたこの舞台が、7年近くの時を経て東京で披露されることになります。海に象徴される自然と魂の内的な共鳴を響かせる細川さんの音楽、歌手や合唱も一体となったサシャ・ヴァルツ&カンパニーの身体表現、そして塩田千春さんのインスタレーションが緊密に結びついたプロダクションは、《松風》というオペラの原型を示すものでしょう。そもそもこのオペラ自体、ヴァルツさんと細川さんの邂逅と緊密な交流のなかから生まれた作品と言えます。

スキャン 1このオペラにおいては、世阿弥の「松風」を題材としながら、その要素を新たなオペラの形式原理に昇華させることによって、ニーチェの顰みに倣うなら、能の精神からのオペラの姿が、先日広島で上演された前作の《班女》よりさらに深化されています。とくに死者の魂が地上に降り立ってその苦悩を歌い、舞うなかで他者の魂と結びいて浄化されるという垂直性を含んだ過程が、時間的な音楽の展開と空間的な身体の動きが緊密に結びついたかたちで、かつ彼岸と此岸の橋渡しを含んだ仕方で表現されることは、《松風》の際立った特徴の一つと考えられます。このことが、オペラそのものの新たな地平を切り開いたことは、初演のプロダクションのヨーロッパ、そして香港での成功が物語るとおりです。「松風」という能を、東洋に生まれた者ならではの感性と現代の音楽の思考をもって内奥から摑むことから生まれた新たなオペラを、ついに東京で経験できるのです。そのことが、日本列島からの新たな創造の契機になってほしいものです。

《松風》というオペラは、2011年3月11日に起きた東日本大震災と、それに続く福島第一原子力発電所の事故によって動揺した後の世界に送り出されました。死者の嘆きが、あるいは死者を内に抱えることの苦悩が、松風と村雨の歌に象徴されるように心の底から語り出されるとともに、二人の魂に遭遇する旅の僧の存在が示すように、それを受け止める者がいるということの重要性は、震災以後ますます高まっていると思われます。そのことを噛みしめる意味でも、《松風》が日本で上演されることには大きな意義があるのではないでしょうか。音楽の愛好家、オペラや現代舞踊の愛好家のみならず、多くの人が《松風》の上演を体験されることを、心から願っております。新国立劇場のWebボックスオフィスによりますと、初日の16日と楽日の18日の公演には、まだ少し席に空きがあるようです。

今回の《松風》の公演に出演する歌手にも期待されます。松風と村雨の役を歌うイルゼ・エーレンスさんとシャルロッテ・ヘッレカントさんは、サシャ・ヴァルツの演出によるプロダクションですでに歌ったことのある歌手ですし、私も二人の声を一度聴いています。なかでも昨年武生国際音楽祭で聴いたエーレンスさんの澄みきっていながら芯のある声は、鮮烈な印象を残しました。松風の役にぴったりの歌手と言えるでしょう。この二人の歌手も一体となった、サシャ・ヴァルツ&カンパニーの舞踊もさることながら、その場を織りなす塩田千春さんの舞台美術も魅力的です。現在、塩田さんの新作展も、東京のケンジタキギャラリーにて開催されているとのことです。美術も含めて、初演に続くベルリンでの2011年夏の公演以来、ほぼ7年ぶりに《松風》の舞台に接することができるのを、心から楽しみにしているところです。

このように魅力的な新国立劇場の《松風》の公演を、はなはだ微力ながら少しお手伝いさせていただいてることを、身に余る光栄と感じております。すでに1月10日には、公演のプレ・イヴェントとして国立能楽堂で開催された座談会「能とオペラ──『松風』をめぐって」の末席に加わらせていただきました。2月17日(土)の公演の終演後には、細川俊夫さんとサシャ・ヴァルツさんをお迎えしてのアフター・トークも計画されておりまして、その聞き手役を仰せつかっております。《松風》日本初演の手応えとともに、作品の成立過程や特徴などについてお話をうかがえればと考えて準備を進めております。なお、このトークには、16日か18日のチケット(半券)でも入場できるとのことです。それから、公演プログラムには、オペラ《松風》を一つの結節点とする細川俊夫さんの音楽の歩みを綴ったエッセイを寄稿させていただきました。公演へお越しの際にご笑覧いただけたら幸いです。

広島での細川俊夫のオペラ《班女》公演のお知らせなど

59ed522f77a14早いもので、年が明けてからすでに20日が過ぎました。ここ数日は穏やかな気候が続きましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。広島では、Hiroshima Happy New Ear Opera IIIとして開催される細川俊夫さんのオペラ《班女》の公演が一週間後に迫りました。この公演の主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、まずはこの公演をご案内申し上げます。《班女》の公演は、1月27日(土)と28日(日)の二日にわたり、キャストを替えて開催されます。会場は広島市中区のJMSアステールプラザの中ホールで、そこに備え付けられている能舞台を用いて上演が行なわれます。開演は、両日とも14時からで、およそ90分の上演(休憩はありません)の後にはトークも行なわれます。

広島で細川さんの《班女》が上演されるのは二度目です。2012年に行なわれたHiroshima Happy New Ear Opera Iの公演で取り上げられたのがこの作品で、その際には、先日パリで初演された細川さんの室内オペラ《二人静》の原作と演出を手がけた平田オリザさんによる演出でした。今回の公演で演出を受け持つのは、全国各地で一人ひとりの登場人物を音楽とともに力強く生かすオペラの舞台を作り上げている岩田達宗さんです。昨年のひろしまオペラルネッサンスの公演でもモーツァルトの《コジ・ファン・トゥッテ》の素晴らしい舞台を届けてくれた岩田さんが、能に特有の身体性と原作の「近代能」としての特性を生かしながら、どのような現代人のドラマを提示するか、大いに期待されます。

59ed522fc9530指揮を受け持つのは、2012年の《班女》以来、オペラをはじめ細川さんの作品の数々を手がけてきた川瀬賢太郎さん。いっそう深まった解釈によって、夢想と現実が交錯するこのオペラの音楽の美質を研ぎ澄まして届けてくれるにちがいありません。歌手には、前回のプロダクションでも素晴らしい歌を聴かせてくれた半田美和子さんと藤井美雪さんに、2015年の《リアの物語》の公演で活躍した柳清美さん、折河宏治さん、山岸玲音さん、それに2014年のひろしまオペラルネッサンスの公演で素晴らしいカルメンを聴かせてくれた福原寿美枝さんが加わります。キャストの異なる二公演を比べるのも一興でしょう。最近進境著しい広島交響楽団のメンバーによるアンサンブルが加わるのも魅力的です。

三島由紀夫が世阿弥の「班女」を翻案して『近代能楽集』に収めた能を原作とし、ドナルド・キーンによるその英訳をリブレットに用いた細川さんのオペラ《班女》の音楽は、夢想と現実を往還しながら、人が「狂気」と呼ぶ心境のうちにある深い憧れと鋭い洞察を、書の線を描く歌によって響かせるとともに、夢想と現実の相克を抉り出します。2018年の広島での公演では、その現代のオペラとしての新たな魅力が能舞台の上に照らし出されるに違いありません。この能舞台を使っての稽古も重ねられて、準備にもいっそう熱が入っています。お見逃しのないよう、お誘い合わせのうえお越しください。広島県内はもとより、九州、そして関西や関東からも日帰りで、あるいは旬の広島の牡蠣を楽しむことを込みにした小旅行を兼ねてお越しいただけることでしょう。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。なお、今回の《班女》の公演のプログラムにも、作品解説の小文を寄稿させていただきました。

能とオペラちらし(アトレ会員用)さて、2月の16日から18日にかけては、今度は新国立劇場で細川さんのオペラ《松風》の日本初演が行なわれるわけですが、1月10日にはそのプレ・イヴェントとして国立能楽堂で開催された座談会「能とオペラ──『松風』をめぐって」に参加しました。前半には、能の「松風」より「汐汲みの段」と「狂乱の段」が舞囃子形式で上演され、後半には、これらの場面に対応するオペラ《松風》の上演記録映像の上映と、能とオペラ双方の「松風」をめぐる座談が行なわれました。その座談の末席に加わらせていただき、多くの刺激を受けました。前半では、銕仙会主宰の観世銕之丞さんの見事な謡と舞、そして法政大学能楽研究所の宮本圭造さんの解説によって、世阿弥の「松風」において謡うことと謡われる言葉、そして身体的表現が緊密に組み合わさっていることがよく伝わってきました。

また、能の上演を見た後でオペラの《松風》の上演映像を見ることで、細川さんとサシャ・ヴァルツさんが、謡うことと舞うことの結びつきを、独自のアプローチで現代のオペラに生かしていることも、あらためて考えさせられました。座談のなかで細川さんが、歌うことにおける遠く隔たった他者、ないしは死者との交感の可能性に触れておられたことと、どのような演出にも耐える強度に貫かれた音楽を書くという、オペラにおける作曲家の使命を語っておられたことは、噛みしめておかなければと思います。それから、オペラと能の双方を現代の芸術として生かし続けるためには、一見「わからない」ものに敢えて飛び込んで、それを自分のなかで深めていけるような若い人々を育てることと、そのような人々が集う場を作ることの双方が必要であることも、座談のなかで議論されました。議論の概要とダイジェスト版の映像は、すでに新国立劇場のウェブサイトの「公演関連ニュース」にて紹介されております。

今月は、この他にも座談の場に加わる機会が二度ありました。1月13日には、カフェ・テアトロ・アビエルトで佐藤零郎監督の新作映画『月夜釜合戦』をめぐる座談に、行友太郎さん、崔真碩さん、森元斎さんとともに参加しました。この日アビエルトでは、毎年『山谷(やま)やられたらやりかえせ』の上映会が開催されています。この映画の共同監督の一人山岡強一の命日に因んで行なわれるものです。すでにこの上映会で三度『山谷』は見ていますが、見るたびに今と結びつけて新たに考えさせられるものがあります。その問題は、年を追うごとに深刻なものになってきている気もします。

0113今年の上映会では、この『山谷』に加えて『月夜釜合戦』が上映されたわけです。山谷とともに代表的な寄せ場として知られる大阪の釜ヶ崎を舞台にした「釜」をめぐる騒動を通して、そこに生きるさまざまな人々のしたたかにして愛すべき生きざまを、ジェントリフィケーションが進む以前のこの街への哀惜も込めて鋭く浮き彫りにするこの劇映画は、痛快ななかに込み上げてくるものがある作品でした。『山谷、やられたらやりかえせ』と併せて見ることで、『月夜釜合戦』が、この映画の呼びかけにドラマをもって応えているところがよく伝わってきました。手つきをはじめとする身振りへの着目は、これらの作品に通底するところでしょう。歴史の流れを食い止めるような強度を持った人間の身体の躍動を、釜ヶ崎での生活のなかに浮き彫りにするこの作品が、広島で劇場公開されるのが待ち遠しいところです。

Komori&Seo_Postcard1月16日(火)には、Social Book Cafe ハチドリ舎で、広島市現代美術館で開催中の小森はるか+瀬尾夏美「波のした、土のうえ」巡回展のスピンオフ企画のトーク・セッションに、進行役として参加しました。ナイトトーク「仙台から/広島から」と題して開催される今回のセッションには、小森さん、瀬尾さんの他、同じく現代美術館で開催されている特別展「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」に興味深い作品を出品されている平野薫さんが座談に加わりました。ともにある場所に生きることのうちに、あるいはそのなかで着古された服に沈澱した記憶の痕跡を辿り、みずからを繰り広げるようにその記憶を解きほぐしていくような創作に取り組まれているアーティストたちの人と人の関係のなかでの活動について、とても刺激的なお話を聴くことができました。

現代美術館での「波のした、土のうえ」巡回展も非常に興味深いです。二人で陸前高田市を訪れたことをきっかけに結成された小森さんと瀬尾さんの「アート・ユニット」が、詩、絵画、ヴィデオ・アートなどいくつものメディアを駆使して、路地や浜辺などで聴き取った被災地に生きる、あるいは生きていた人々の物語を、さらにはその風景を細やかに描き取った作品や、現在進行形の記録などが展示されています。特別展「交わるいと」と併せてぜひご覧ください。ここでご紹介したような、芸術を通してこの世界に、この時代に、死者のことを忘れることなく生き延びることを、さらにはその自由を考える場で、今年もみなさまとご一緒できることを願っております。日曜から週明けにかけて、強い低気圧が日本列島を通過して天気が荒れるとも聞いております。お身体にお気をつけてお過ごしください。

海辺での魂の邂逅の歌が照らし出すもの──パリでの細川俊夫の室内オペラ《二人静──海から来た少女》の世界初演に接して

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《二人静》初演の演奏会「二つの魂」のプログラム表紙

海辺には波が打ち寄せ、それとともに時空を隔てたものたちが流れ着く。そこに佇む者のなかにもまた、遠く隔たったものが去来する。こうした意味で漂着の場とも言うべき海辺は、オペラ《松風》以来、細川俊夫の舞台作品の一つのエレメントを形成しつつある。いや、ソプラノとオーケストラのための《嘆き》のような彼の声楽作品からも、波打ち際に佇むなか、禍々しくさえある巨大な波濤に魂が呑み込まれていく者の姿が感じられる。そして、《松風》において細川が示していたのは、海辺が漂着の場であるだけでなく──もしこういう言葉を造るならば──、憑着の場でもあるということである。平田オリザとの共作によるオペラ《海、静かな海》でもそうだったが、海辺に佇む者のなかに死者、あるいは行方が分からなくなってしまった者の魂が入り込んで、生者を深く揺さぶるのだ。

細川と平田の二度目の共作による新しい室内オペラ《二人静──海から来た少女》は、まさにこの海辺における魂の憑着を強い音楽で描きながら、死者を抱えた孤独な人間が海岸に立ち尽くしている現在を鋭く照らし出す作品と言えよう。この作品は、平田が能の「二人静」を現代の物語に翻案して書いた原作を基に書かれている。舞台は今や吉野の山ではなく、地中海の浜辺。そこに立っているのは、海の向こう側の戦地から逃れてきた難民の少女である。小舟で波間を漂うなかで失った弟を思う彼女の心に、900年前に世を去った静御前の魂が取り憑く。その役を歌うのは能役者。《二人静》は、細川が能の謡いと舞いそのものを初めて舞台に導入した作品でもある。能の精神からオペラを書き継いできた細川の新たな境地を示す作品としても注目される。

2017年12月1日、パリのフェスティヴァル・ドートンヌ(秋季芸術祭)の一環として、フィルハーモニー・ド・パリのコンサート・ホールで行なわれたその世界初演に接することができた。難民の少女ヘレンの役を歌ったのは、ソプラノのケルスティン・アヴェモ(Kerstin Avemo)。2012年のルール・トリエンナーレにおける細川の《班女》の公演で花子の役を歌って、鮮烈な印象を観客に残した歌手である。静御前の魂を演じたのは青木涼子。能の謡いを生かした現代の音楽の世界を越境的に切り開きつつある彼女が、昨年の4月に馬場法子の能オペラ《葵》(Nôpera«Aoi»)の見事な初演を成し遂げたことは、パリの人々の記憶に新しいにちがいない。マティアス・ピンチャー(Matthias Pintscher)指揮のアンサンブル・アンテルコンタンポランが、二人の歌を支えながら作品の世界を現出させていた。

作品は、風の音を含んだ不穏なざわめきから始まる。《班女》や《松風》は、柔らかな風が漂うなかに何者かの気配を感じさせるかたちで始まるが、《二人静》の始まりは、どこか重苦しい空気が支配していて、その流れはやがて渦をなして激しい嵐のように吹きすさぶ。その動きが胸を締めつけるように高まっていった先に訪れる静寂のなかに、難民の少女が一人しゃがみ込んでいるのを目の当たりにするとき、この孤独な少女ヘレンの姿に、戦場と化した故郷での恐怖、生活のすべてが根こそぎに破壊された苦しみ、そして地中海を渡って岸辺に辿り着くまでの苦難が刻み込まれていることに思いを致さないわけにはいかない。むろん、これらの苦悩はけっして彼女だけのものではない。もしかすると、戦地から逃れられなかった者たちや、地中海の波間に沈んでしまった者たちの無念の思いが、ヘレンという人物には凝縮されているのかもしれない。そしてその思いは、今も内海の水底で渦巻いている。

「私はどこから来たの?/私はどこへ行くの?」と自問しながら立ち上がり、海を逃れてくる過程で弟を失った苦しみを歌うヘレンの背後に静御前の霊が出現する。その姿が徐々に近づいてくると、音楽の強度がさらに増してくる。そこにある凄まじいまでに張りつめた響きには、自分だけが生き残ってしまったことへの罪責感に苛まれながら、死者とのあいだに引き裂かれた二つの魂が、900年もの時を越えて重なり合おうとするところにある緊張が凝縮されているように聴こえた。「君がため、春の野に出でて若菜摘む/我が衣手に雪は降りつつ」と、袖を雪に濡らしながら春の七草を探す情景を暗示しつつ歌う静にヘレンが問いかけ、それに静が応じるところでは、まだ二つの魂は並立したままである。しかし、仏教で言う回向(供養)を求める静は、ヘレンの心のなかへ入り込もうとする。そして、それを拒もうとするヘレンの肩に、静の手がそっと乗せられる瞬間には、《二人静》という作品の焦点があると考えられる。

この瞬間に、静御前とヘレンのあいだに一つの回路が切り開かれる。二つの魂は、最も親しい者を奪われた苦悩において一つになるのだ。今や静の苦悩はヘレンのそれであり、ヘレンが抱える死は、静のなかにある死でもある。ヘレンと静が一つの魂となって歌うところには、《二人静》という作品における主題のうえでも、音楽的にも核心的なものが含まれていよう。ソプラノの声と能の謡いの声という、一般的には異質と見られる二つの声が折り重なるところには、たしかに心地よい美しさがあるわけではない。しかし、二つの声が一つの響きを形成するところでは、二つにして一つであることと、そこにある魂の呼応の奇跡が独特の強度で表わされている。ヘレンと静が一緒に歌う瞬間は、《班女》以来細川が決定的な場面で響かせてきた、二つの声が完全には重なり合わないなかで独特の調和を形づくる二重唱の変容と見られる一方で、まさにその変容とともに新しい音楽の地平を切り開いているとも思われる。

二人の声が強度を孕んだ一つの層を成すなかで、生まれたばかりの子どもを殺された静の苦悩が他者によって深く受け止められる。すると静の魂はヘレンのなかから脱け去って、静かに舞い始める。その時間は、絶えず垂直的に区切られては始まる一つの間として、時の水平的な進行を宙吊りにしていた。鼓の音を思わせる打楽器の音を中心としたその時間の簡潔な響きは、能役者の舞いを生かすものと言えよう。青木涼子の舞いは、静御前の魂の深く静かな喜びを感じさせるかたちで様式化されたものであったし、また彼女の声は、全体の響きの底から聞こえてくる強さを示してもいた。ケルスティン・アヴェモの途方もない振幅を持った表現にも瞠目させられた。静が息子を殺されるに至った骨肉の戦いと、故郷での「兄弟たち」の戦いとを重ねて、二つにして一つの苦しみを歌う彼女の声には、空間を切り裂くような強さがあった。

絶えず水底を暗示しつつ重い緊張を湛えながら持続する響き──そのなかで、他の舞台作品にも増して低音が強調されていたと思われる──の上で、二人の魂が最終的に一つの歌を響かせるところにある音楽と、必要最小限に切り詰められた舞台演出──それはほぼ身ぶりと舞いだけであったと言ってよい──は、まさにその表現の強度において、遙かな時を越えた魂の邂逅を浮かび上がらせながら、次のヘレンと静が生まれ続けている現在を鋭く照らし出していると言えよう。シリアなどでの殺し合いは止まず、戦地から逃れようとする人々も、途上で次々と命を落としている。その傷を背負って、今も少女が波打ち際にうずくまっているにちがいない。その孤独な魂に誰が語りかけるのだろう。彼女の許に静は来るのだろうか。

北へ向かうヘレンの足跡を、これから降る雪は隠してくれるかもしれないが、彼女の傷が癒えることはないだろう。とはいえ、静の魂に出会うことのできた彼女は、苦しみが他者に受け止められうることへの希望を胸に、他者たちのあいだを歩み続けることができることができるかもしれない。歌うようなマリンバの響きを含んだ柔らかな響きが漂うなかにヘレンの姿が徐々に消え入って、曲が閉じられる瞬間は、どこかこのような未来を微かに暗示しているように思われた。難民となって漂流する人々が抱えるものを、魂の呼応のなかから問いかけるとともに、彷徨う二つの魂が交差し、苦悩を通い合わせる可能性を響かせる作品が、今ここに生まれたことの意義は計り知れない。それに接する者は漂着にして憑着の場である海辺へ誘われて、今どのような歴史的世界に、どのような人々のあいだに生きているかを、深いところから省みることができるだろう。そのような潜在力を含む室内オペラ《二人静──海から来た少女》が、ピンチャーが指揮するアンサンブル・アンテルコンタンポランの精緻な演奏によって、明確な姿で世に送り出されたことは実に喜ばしい。

なお、細川と平田の《二人静》が初演された演奏会には、「二つの魂」というタイトルが付されていた。「二つの魂」という言葉は、ヘレンと静、細川と平田と同時に、細川と武満徹の二人の作曲家を象徴するものである。《二人静》の上演に先立っては、細川のバス・フルートのための《息の歌》、武満の室内アンサンブルのための《群島S》、そして同じ武満のフルート、ハープ、ヴィオラのための《そして、それが風だったことを知った》が演奏された。なかでも《息の歌》は、《二人静》を貫く音楽の息遣いを暗示させるとともに、作品の終盤における見事なバス・クラリネットの独奏を予感させるものであった。武満の《群島S》は、この室内オペラの世界を柔らかな響きのなかに垣間見せてくれた。なお《二人静》は、12月3日にはケルンのフィルハーモニーで、パリと同じ二人の歌い手、そしてピンチャー指揮のアンサンブル・アンテルコンタンポランによって上演される。受け容れた難民たちとともに歩もうとしていると同時に、それをめぐって数々の軋轢を抱えているドイツの地で、この新しい作品はどのように受け止められるのだろうか。

武生国際音楽祭2017に参加して

Takefu-International-Music-Festival-2017-Leaflet第28回目を迎えた武生国際音楽祭2017に、今年は作曲ワークショップの特別ゲストとして参加させていただきました。9月13日に武生に入ってから17日の音楽祭最終日まで、数多くの演奏会とレクチャーに接することができて、とても言葉では言い尽くせない多くの刺激を受けることができました。この音楽祭の重要な特徴をなすワークショップでは一回レクチャーを持たせていただきましたが、それをつうじて、私のほうが学ぶことが多かったです。このような機会を設けてくださった武生国際音楽祭の音楽監督の細川俊夫さん、コンサート・プロデューサーの伊藤恵さん、そして理事長の笠原章さんをはじめとする武生国際音楽祭推進会議のみなさまに、まずは心から感謝申し上げます。本当にお世話になりました。

5日にわたって聴かせていただいた演奏会は、どれも印象深いものでしたが、とくに9月14日の夜に聴いた「マエストロの調べ──イリヤ・グリンゴルツを迎えて」、15日の夜に聴いた「細川俊夫と仲間たち」、そして最終日の17日に聴いた「ユン・イサンの音楽──100年目の誕生日に寄せて」は、忘れがたい演奏会となりました。まず、細川俊夫さんの作曲の師であった尹伊桑の百回目の誕生日に行なわれた「ユン・イサンの音楽」では、深い吐息とともに発せられた一つの音が、自己自身を拡げながら渦巻くように力強く発展していくこの作曲家の音楽の凝縮された姿を、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラの独奏のうちに聴くことができました。一つの音に潜在する響きを聴き出しながら、書の線として展開する細川さんの音楽の源泉の一つがここにあることがあらためて実感されました。

なかでも、尹が十二音技法を用いながら、この西洋音楽の論理の展開に、朝鮮半島の伝統的な音楽や朗唱の要素によって息を吹き込んだ1963年成立の二つの作品、フルートとピアノのための《ガラク(歌楽)》、ヴァイオリンとピアノのための《ガーザ(歌詞)》の音楽の凝縮度の高さには目を瞠りました。演奏会の冒頭で細川さんが、日本の植民地主義によって言語を奪われた経験を持つ尹は、自身の音楽のうちに自分自身の言葉を求めていたと語られたのを感銘深く聴きましたが、これらの二つの作品で尹は、やがて彼自身にも及ぶことになる軍事政権の圧政のなかで、魂が息づく余地を、作曲の方法を突き詰めながら切り開こうとしているように聴こえます。そして、そのような作曲の基本的な姿勢は、今あらためて顧みられる必要があるのではないでしょうか。とりわけ、張りつめた静けさのなかを一段一段上って、言わば舞台の上で音の舞いを羽ばたかせた後、静かな祈りへ還っていく過程を示す《ガラク》の音楽を、温かさと強さを兼ね備えた音で歌い抜いた上野由恵さんのフルートには心を動かされました。上野さんは、無伴奏フルートのための《エチュード》からの三曲でも見事な演奏を聴かせてくれました。

尹の《ガーザ》で、静かな息遣いが徐々に熱を帯びて、忘我の朗詠にまで高揚していく過程を、美しい音で、かつひたひたと迫り来るような緊張感を持って表現したイリヤ・グリンゴルツさんのヴァイオリンには、今回の音楽祭で最も驚嘆させられました。14日の「マエストロの調べ」で彼は、伊藤恵さんの豊かな歌を持ったピアノのサポートを得ながら、シューベルトのイ短調のソナチネとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「クロイツェル」の完璧と言って過言ではない演奏を披露してくれましたが、連綿と連なっていくかのような旋律線のなかに起こるドラマを、恐ろしいまでの凝縮度を具えた音楽に造形したシューベルトのソナチネの演奏は、とくに感動的でした。ベートーヴェンの「クロイツェル」ソナタでは、それぞれのフレーズの特質を繊細な感覚で生かしながら、音楽の自然な流れを造形する演奏に感銘を受けました。この曲の両端楽章の躍動も実に魅力的でしたが、その途方もない振幅のなかで澄んだ響きが保たれているのにも驚かされます。13日の夜には、グリンゴルツさんは、見事としか言いようのないパガニーニのカプリースの演奏も披露してくれました。

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珠寳さんによる、水辺から野への歩みと夏から秋への季節の変化を、儚さを感じさせるかたちに表現した引接寺での作品。

15日から16日にかけては、「細川俊夫と仲間たち」の演奏会と「新しい地平」シリーズで、同時代の数多くの作品を聴くことができましたが、とくに「細川俊夫と仲間たち」では、今まで実演に接することのできなかった細川さんの作品を聴くことができて嬉しかったです。なかでも、メシアンの《世の終わりのための四重奏曲》と同じ楽器編成で書かれた《時の花》では、弦楽器とクラリネットが織りなす柔らかな響きの層のなかにピアノの音が静かに打ち込まれることによって、時の動きが始まり、その動きが、分割不可能な時のなかで過去と現在が絶えず浸透し合うのを象徴しながら、渦巻くように高まっていく一連の動きが実に美しく響きました。また、フルートと弦楽三重奏のために書かれた《綾》における、フルートとヴィオラの深い息遣いをもった歌の掛け合いが、やがてどこか取り憑かれたかのように激しい動きへと高揚していく音楽の推移も、聴き手の心を渦のなかへ巻き込んでいくような強さを示していたと思います。これらの二曲を含む細川さんの作品は、毎年武生国際音楽祭で活躍している音楽家が構成する「タケフ・アンサンブル」によって、今年の10月にヴェネツィア・ビエンナーレでも披露されることになっています。

同じ「細川俊夫と仲間たち」で聴いたイザベル・ムンドリーさんの作品も印象深いものでした。とりわけ器楽アンサンブルのための《リエゾン》において、緊張感に満ちた持続のなかから、とても繊細で、しかも緻密に構成された響きが閃くのが印象的でした。《織る夜》においては、分割された声の構成的でかつニュアンスに富んだ扱いが、詩の壊れやすい世界を生かしていたと思います。この作品では、太田真紀さんの声が、こうした作品の特徴を見事に生かしていました。二日にわたって聴いた「新しい地平」シリーズのなかでは、陰翳に富んだ響きのなかから対がニュアンスを変えつつ生じてくる三浦則子さんの二台のピアノのための《二つの眼》や、笛と鼓を介した密やかな遣り取りが、声を通わせる対話に発展して、また遠ざかっていく金子仁美さんの《歌をうたい…I》などを面白く聴きました。これらの他に、ドイナ・ロタルさんのフルート独奏のための《JYOTIS》を、素晴らしい曲と感じました。東方教会とルーマニアの民俗音楽から得られた魅力的な歌の線に息が吹き込まれ、音楽の強度が増していくのが、マリオ・カローリさんの素晴らしい演奏によって聴衆に届けられました。彼は、尹の《ソリ》でも見事な演奏を聴かせてくれました。

こうした息遣いと深く結びついた音楽の力は、ヨーロッパの音楽の核心にあるものでもあるはずです。それがとても魅力的に発揮されたのが、16日夜の演奏会「珠玉の室内楽と魅惑の歌声」でした。なかでも、毛利文香さんと津田裕也さんが奏でたシューベルトの幻想曲の豊かな歌と感興に満ちた演奏は、敢えて「幻想曲」と銘打たれた作曲家晩年の作品の魅力を見事に伝えていたと思います。コーダの直前の歌の広がりと、そこからの追い込みには心を奪われました。こうして若い演奏家が自身の音楽を深化させている姿に接することができるのも、この音楽祭の魅力の一つでしょう。最終日の「ファイナル・コンサート」でのシューマンのピアノ五重奏曲の闊達な演奏や、先の「マエストロの調べ」におけるシューベルトの弦楽五重奏曲の躍動感と歌に満ちた演奏も、若い音楽家たちの成長を実感させるものでした。

16日夜の演奏会の最後に演奏された、イルゼ・エーレンスさんの独唱によるマーラーのリュッケルトの詩による五つの歌曲にも感嘆させられました。第4曲「私はこの世の人ではなくなった」と第5曲「真夜中に」における高揚には神々しいまでの輝きがありました。彼女は、来年2月に細川さんのオペラ《松風》の新国立劇場での日本初演で、タイトル・ロールを歌うことになっています。彼女は、「ファイナル・コンサート」でのブルックナーの《テ・デウム》でも独唱を務めましたが、自身のパートで見事な歌唱を聴かせるのみならず、合唱のパートもほぼすべて歌って、武生の人々の歌唱を支えていました。こうした姿勢に表われるエーレンスさんの人間としての温かさも、実に魅力的でした。彼女のサポートと相俟って、《テ・デウム》は力強く響いたと思います。台風が近づいていたので、最終日の演奏会への影響が心配されましたが、「ファイナル・コンサート」まで無事に盛況のうちに開催されたのは、実に喜ばしいことです。

作曲ワークショップでは、文学研究者にして音楽学者でもあるラインハルト・マイヤー゠カルクスさんと作曲家のイザベル・ムンドリーさんのレクチャーから多くを学ぶことができました。《アヴァンチュール》に代表されるリゲティの声の扱いとその背景にある前世紀の芸術運動について、細川さんの声の扱いの方法とその深化について、さらにムンドリーさんが音楽が生じてくる動きそのものに着目しながら作曲する方法や、その前提となる思想について興味深いお話をうかがいました。今回は、私もワークショップにて、「嘆きの変容──〈うた〉の美学のために」というテーマでお話ししました。困難な世界のなか、他者とのあいだで、そして死者とともに生きることを悲しみとともにわが身に引き受ける嘆きを掘り下げ、その嘆きを響かせるという観点から、〈うたう〉ことを、さらに言えば〈うた〉の出来事を、文学と音楽を往還するかたちで考察する内容のものです。慣れないことでいくつか反省点もありましたが、若い作曲家の方々にとっていくつか刺激になるものが話には含まれていたようで、後でいくつも質問をいただきました。その準備の過程では、学ぶことがとても多かったです。

このように、作曲家と演奏家にとって確かな手応えのあった、そして私にとっても刺激に満ちた今回の武生国際音楽祭に参加させていただいたことに、重ねて心から感謝申し上げます。また次回も、この音楽祭のために武生を訪れるのを、とても楽しみにしております。そして、この音楽祭が、武生の街における日常的な芸術の営み──それは、この街の至るところにある寺院やギャラリー、さらにはカフェのような場所で、美術作品の展示のみならず、詩的な作品の朗読やレクチャー、小さなパフォーマンスなどをつうじて行なわれうることでしょう──をつうじて、より深く人々のあいだに根づくことを願っております。音楽祭が開催された越前市文化センターの周りには、立派な図書館や子どもが遊ぶスペースが整えられていて、さまざまな背景を持った子どもたちの声が夕暮れ時まで響いていました。その声のなかに、武生の街の新たな文化の胎動があるのかもしれません。

細川俊夫『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』刊行記念トーク・ショー[2017年3月4日/ESPACE BIBLIO]のお知らせ

51fwl3vou1l昨年12月に拙訳にてアルテスパブリッシングより刊行された、細川俊夫著『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(聞き手:ヴァルター゠ヴォルフガング・シュパーラー)の刊行を記念して開催されるトーク・ショー「細川俊夫の創作の背景にせまる──尹伊桑、武満徹、そしてオペラへの道」をご案内いたします。来たる3月4日(土)15:00より駿河台のESPACE BIBLIOにて開催されるトーク・ショーでは、著者の細川俊夫さんをお迎えして、本書において初めて語り下ろされた、この世界的な作曲家の創作の軌跡の背景にあるものや、本書では語られなかったエピソードなどを、2012年にドイツで本書の原書が刊行されて以後の作曲活動を含めて詳しくお話しいただきます。また、今回は特別ゲストとして、世界を代表するリコーダー奏者の鈴木俊哉さんをお迎えいたします。細川さんのお話と鈴木さんの演奏によって、本書の内容を具体的に感じ取っていただきながら、細川さんの「空間と時間の書(カリグラフィー)」としての音楽を身近に感じていただけるものと考えております。会場などの情報は、末尾に記しておきます。開催に向けてご尽力くださっているESPACE BIBLIOの関係者のみなさまに、この場を借りて心より感謝申し上げます。

本書『細川俊夫 音楽を語る』の概要はすでに別稿に記しましたし、版元のアルテスパブリッシングのウェブサイト(こちらから直接本をご購入いただくこともできます)にも記されておりますので、ここでは繰り返しません。今回の「細川俊夫×柿木伸之トーク・ショー」では、この「対話による自伝」に語られた半生と作曲の足跡のうち、とくにベルリン留学時代の尹伊桑との師弟関係や、細川さんの広島での少年時代にまで遡る武満徹との関係に焦点を絞りながら、これらの作曲家の音楽との対照において、細川さんの音楽世界を浮き彫りにしたいと考えております。鈴木さんの演奏を交えながら、これらの作曲家と細川さんのあいだにある東洋の伝統楽器へのアプローチの相違などにも光を当てることができるのでは、とも思います。2012年以後の作曲の展開を語っていただく際には、オペラ《班女》、そして《松風》の一部の貴重な映像を見ながら、ちょうど一年前にハンブルクで平田オリザさんの演出により初演された《海、静かな海》を含めたオペラの作曲についても詳しくうかがえるものと考えております。それをつうじて、オペラを含む音楽作品を世界中から委嘱され続けている細川さんの作曲の現在が、本書に語られた創作の源泉から浮かび上がることでしょう。細川さんの音楽世界の展開の軌跡とその今にじかに接することのできる3月4日のトーク・ショーへ、ぜひお誘い合わせのうえお越しください。多くの方のご来場を心よりお待ち申し上げております。

  • 日時:2017年3月4日(土)15:00〜17:00(14:30開場)
  • 会場:ESPACE BIBLIO(エスパス・ビブリオ)※リンク先に地図があります。〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台1-7-10YK駿河台ビルB1F
  • 参加費:1,500円(当日精算)
  • 予約制:Eメール(info@espacebiblio.superstudio.co.jp)または電話(Tel.: 03-6821-5703)にて受付(定員60名)。Eメールでご予約の際には、上記のアドレス宛に件名「3/4細川氏トーク希望」にて、お名前、電話番号、参加人数をお知らせください。追って返信で予約完了が伝えられるそうです。電話による予約は、火曜日から土曜日の11:30〜20:00のあいだ受け付けているとのことです。20170304%e7%b4%b0%e5%b7%9dx%e6%9f%bf%e6%9c%a8%e3%83%88%e3%83%bc%e3%82%af_a6%e7%89%883rd

サントリー芸術財団Summer Festival 2013より

9月の3日と5日に、サントリー芸術財団が主催するSummer Festival 2013の一環として行なわれた、サントリーホール国際作曲委嘱シリーズの演奏会を聴かせていただきました。今年のテーマ作曲家は細川俊夫さんで、9月3日に開催されたのは、細川さんの弦楽四重奏曲を、最初期の作品から最新の作品まで通観する演奏会、5日に開催されたのは、サントリーホールからの委嘱作品である細川さんのトランペット協奏曲《霧のなかで》の世界初演を中心とする管弦楽作品の演奏会でした。

9月5日の演奏会の開演前には、プレ・トークが行なわれ、その聞き手を務めさせていただきました。先頃ザルツブルク音楽祭で世界初演されたソプラノとオーケストラのための《嘆き》や、演奏会で一部が取り上げられるオペラ『松風』など、最近の作品について、世界初演を迎えるトランペット協奏曲《霧のなかで》について、そしてこの国際作曲委嘱シリーズの創設者である武満徹さんの遺志に沿って、細川さんが最も影響を受けた作曲家と最も将来を嘱望する作曲家の作品を取り上げた、演奏会のプログラム全体のコンセプトについて、細川さんにお話をうかがいました。

それから、Summer Festival 2013のプログラムには、「照応のなかに開花する〈うた〉へ──細川俊夫の近作に聴く〈うた〉の探究」と題するささやかなエッセイを寄稿させていただきました。人間が飼い馴らすことのできない自然との、宇宙的とも言える照応関係が身体的に生きられるなかから開花する〈うた〉、この自然と共振する魂の内側から響き出る〈うた〉を追求する細川さんの作曲活動を、先頃広島で日本初演された尺八協奏曲《旅X──野ざらし》、ベルリンなどで再演されたオペラ《松風》、9月3日にも取り上げられた弦楽四重奏曲《開花》などのうちに見届けようとするものです。

9月3日と5日の演奏会の印象を、それぞれ短く記しておきます[すでにFacebookの私のウォールに記したことと内容的に重なっている点、ご容赦ください]と、まず、9月3日に開催されたディオティマ弦楽四重奏団による、細川俊夫さんの弦楽四重奏曲を集めた演奏会[サントリーホール小ホール「ブルーローズ」]では、このクァルテットの研ぎ澄まされた響きによって、細川さん独特の書の線をなす響きに込められた動きや歌が、余すところなく、かつ濃密な時間のなかで表現されていたのが、非常に感銘深かったです。響きの繊細さが、曲の特色を生かすかたちで発揮されたのが、最新の《遠い声》の演奏で、雲が漂うようにゆったりと流れ、時折笙の音を思わせる響きのなかに、繊細な、自然と感応するなかから歌い出される密やかな歌が、歩むように響いているのを聴くことができました。6月に世界初演されたばかりで、この日の演奏が日本初演だったこの曲は、深く聴くことに誘う一曲と思われます。

また、4つの楽器の音が、ごく近い音で静かに折り重なるなかから音のドラマが展開するのは、最初に1980年の《原像》から変わらない細川さんの弦楽四重奏曲の特徴で、とくにこの最初期の作品では、張りつめた響きのなかから、強い情念を感じさせる音楽が高まっていきます。濃密な沈黙もこの作品の特徴をなすもので、そこにチェロのピツィカートが打ち込まれ、そこからクァルテット全体で琵琶の即興演奏のような音楽が展開する一節がとくに印象深かったです。そこを聴きながら、あるいはコル・レーニョの連打が内的な葛藤を表現する一節を聴きながら、広島で聴いた、これも最初期のヴァイオリン独奏のための《ウィンター・バード》や、武満徹さんの1960年代の作品を思い出しました。

これらの2曲のあいだには、《開花》、《沈黙の花》、そして《書》からの4曲が演奏されましたが、それらの演奏は、ディオティマ弦楽四重奏団が曲を完全に手中に収めていることを感じさせる、見事なものでした。《開花》では、憧れに満ちた歌と、深いところから高まっていく生命の蠢きとの対照が、《沈黙の花》では、移ろいのなかの濃密な音楽の展開が、洗練された響きで、かつ深い音楽的な必然性をもって鳴り響いていました。《書》のまさに一筆の線は、つい先日武生で聴いたときより、さらに鋭敏さを増したような気がします。《原像》から《遠い声》まで、細川さんの弦楽四重奏曲にひとすじの線が貫かれていることに深く聴き入ることができた演奏会でした。

9月5日の管弦楽作品の演奏会[サントリーホール大ホール]では、近作のオペラ《松風》より松風のアリアと委嘱作品のトランペット協奏曲《霧のなかで》を中心に、このシリーズの創設者である武満徹の志に沿って、細川俊夫が影響を受けた作曲家として、ジェルジ・リゲティの作品として《ミステリーズ・オヴ・マカーブル》が、また将来を最も嘱望する作曲家の作品として、フランチェスコ・フィリデイさんのチェロ協奏曲《全ての愛の身振り》が演奏されました。オーケストラは、準メルクルさん指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。すべての作品を優れて音楽的な流れをもってわがものにした指揮の下、献身的とも言える素晴らしい演奏を繰り広げていました。

まず、フィリデイさんの作品では、死を予感させる大太鼓の音が打ち込まれるなかから、怯えるような繊細な響き──彼自身が親しんでいるオルガンの響きを思わせます──が浮かび上がった後、特殊奏法や噪音も駆使しつつ、複雑ながらも厳密なリズムで構成されたチェロの独奏が、オーケストラとよく噛み合いながら凄まじいまでのクライマックスを築いていくのに圧倒されました。そこには、どこか死の不安に駆られながら、生に、その象徴としての愛することにしがみつくことの狂おしさも表現されていたように思います。チェロの最低音がチューニングを下げながらオーケストラの低音と溶け合って、そこから浄化された響きが、生の根底から響くように立ち現われてきたのには、感動を覚えました。作品の要求に見事に応える多井智紀さんの独奏も素晴らしかったです。

次に演奏されたのが、細川俊夫さんのオペラ『松風』より、松風のアリア。曲は、オペラの前奏曲と、主人公の松風が松の木陰に在原行平の姿を幻視し、それと忘我のうちに一体化していく第4景の音楽によって構成されており、松風の妹の村雨のパートを、イェルーン・ベルヴァーツさんのトランペットが担当しました。松風を歌うのは、オペラの初演でも歌ったバーバラ・ハンニガンさんです。サンプリングされた水音のなかから立ち上がる、気配を感じさせる響きが夜を現出させ、海辺の風景を形づくっていきます。そこに松風の声が、行平の名を呼びながら静かに入り込んできて、行平を思いのなかで追いながら高まっていく過程が、湧き上がる情念に身を捩らせるかのような、激しい動きをもった線をなしながら、松風の狂おしいまでの思いを響かせていました。ハンニガンさんの声は、この曲に求められる妖しいまでの艶やかさと、空間を突き抜けるような強さとを兼ね備えていて、とくに行平の狩衣を掻き抱いて忘我の境地に至ろうとする瞬間は、強い印象を残しました。

休憩を挟んで、細川さんのトランペット協奏曲《霧のなかで》の世界初演が行なわれました。海鳴りのような響きも聴こえるなかから、漂うような響きが徐々に立ち上がってきて、そのなかに独奏トランペットが、静かに歩むように響いてきます。やがて、霧をなすオーケストラの響きが高まってきてうねりをなし、人を圧倒する力を持って押し寄せてきます。その波の大きさは、今までに耳にしたことのないほどのものでしたが、それとともに、波に巻き込まれてもがくかのようなトランペットの独奏が強い印象を残しました。独奏を担当したベルヴァーツさんは、輝かしい音と素晴らしい技巧で、時に霧を突き抜けるような音を響かせながら、時折マウスピースを取り、ミュートを付けた楽器を通して、魅力的な声も響かせていました。ミュートを替えるごとに声色を変えるその声は、オーケストラの響きのなかからだと、深いところから聴こえるようでもあり、深く聴くことに誘う歌を響かせるようでもありました。最後に、ミュートを付けたトランペットの音が、風のような響きのなかへ消え入っていく瞬間は、旅人が霧のなかへ歩み去っていくさまを思わせるもので、感銘深かったです。

最後に、リゲティのオペラ『ル・グラン・マカーブル』より、ゲポポのアリアを中心に構成された《ミステリーズ・オヴ・マカーブル》が演奏されましたが、ここではハンニガンさんが歌いながら指揮を執り、一つのオペラティックでもあり、舞踏的でもあるようなシーンを現出させていました。歌うだけでも大変な技巧を要し、指揮するのにも高度な技術を要するこの曲を、ハンニガンさんは完全にわがものにしていて、圧倒されます。根拠なき恐怖に駆られ、過度に緊張したゲポポが、リゲティの哄笑を聴かせるようなアンサンブルの響きと、丁々発止の遣り取りを繰り広げながら、歯車が狂うように狂気に陥っていくさまを、ハンニガンは聴き手を拉し去るような速度感を持ったパフォーマンスで表現していました。この夜演奏されたいずれの曲も、生きることの底にある狂おしさを、音楽ですくい取ろうとする深い〈うた〉に満ちていて、演奏会全体としても深い感銘を残しました。そのことは、生涯にわたり〈うた〉を愛し続けた武満徹さんの志にも適ったことと思われます。

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