皐月に聴く広響

2019_A4_01(0311)_3去る5月17日(金)から、広島交響楽団の新しいディスカバリー・シリーズ「ベートーヴェン生誕250周年交響曲シリーズ:Hosokawa×Beethoven」が始まりました。今シーズンの四回の演奏会では、ベートーヴェンの交響曲とともに細川俊夫さんの四曲の協奏曲的な作品が取り上げられます。下野竜也さんが広島交響楽団とともにどのようなベートーヴェン像を提示するか、非常に興味深く思っています。

第1回の演奏会では、オペラ《フィデリオ》序曲と交響曲第1番が演奏されます。四回の演奏会で、ベートーヴェンがこのオペラのために書いた四曲の序曲をすべて聴けるというのも、このシリーズの魅力の一つでしょう。なお、このシリーズのプログラムに、曲目の解説を寄稿させていただいています。貴重な機会をくださった関係者のみなさまに心より感謝申し上げます。

初回の演奏会では、宮田まゆみさんの笙で細川さんの《雲と光》を聴けるのを、非常に楽しみにしていました。『細川俊夫 音楽を語る』(アルテスパブリッシング)で詳しく論じられているこの作品を、実演で聴いてみたいとずっと願っていたものですから。雲と光の繊細な関係が心の動きとも呼応しながら響く作品です。

実際、深い共感をもって奏でられた細川さんの《雲と光》がとくに素晴らしかったです。下野さんの指揮の下、明確な音楽の運びのなかに、雲間に光が明滅する空間が豊かに広がる演奏でした。嵐の過ぎた後に響いてくる宮田さんの笙の響きは、本当に美しかったです。もちろん、ベートーヴェンの二曲も聴き応えがありました。

《フィデリオ》の序曲の力感に満ちた演奏には高揚させられましたし、交響曲第1番では若い作曲家の並々ならぬ意欲を実感できました。今回の演奏では、第2楽章の演奏を、とくに美しく思いました。作曲家が想定していたであろう、着実な歩みを感じさせるテンポのなかで、弦楽器の旋律が折り重なり、管楽器の充実した響きがどこまでも広がっていく音楽も、ベートーヴェンにしか書きえなかったことでしょう。交響曲第2番が取り上げられる次回がますます楽しみです。

369_A4_表それから、5月25日(金)に開催された第390回定期演奏会では、素晴らしいブルックナーを聴くことができました。音楽の壮大さを実感させる説得的な構築性と、豊かな歌謡性とを兼ね備えた第5交響曲の演奏だったと思います。ブルックナーに特別な愛着を持つ下野竜也さんの緻密な解釈に応えて、オーケストラが豊かな響きを紡ぎ出していたのも印象的でした。

冒頭のバスのピツィカートの音型をしっかりと響かせた上に、下野さんは余裕のあるテンポで声部を重ね、大きな建築物を造り上げていましたが、その過程に自然な流れがあって、けっして物々しくなることがなかったことは、解釈の際立った美点と思われました。また、この点は、第5交響曲に凝縮されるブルックナーの音楽そのものについてあらためて考えさせます。

アダージョの楽章が終わりにさしかかり、テンポがほぼ半分に落ちてから、分散和音的な音型が連綿と歌い込まれるなか、音楽が徐々に高まっていくのを聴きながら、ふと思いました。ブルックナーという作曲家は、人為的な構築と有機的な生成の合致という不可能なことを、音楽によって成し遂げようとしたのではないか、その試みが彼の祈りだったのでは、と。

四つの楽章を貫くかたちでこの神的な対立物の一致を目指す作曲家の姿勢が、最も率直に表われているのが第5交響曲なのかもしれません。そして、その歩みが一つの緊密な音楽のなかに回帰するからこそ、フィナーレのコラールは感動的なのでしょう。昨日は最後にこのことを聴き取ることができました。その意味でも充実した演奏だったと思います。

たしかにブルックナーの音楽には、ゴシックの聖堂を思わせる高さがあります。しかし、その構造体が内からの歌で満たされなければ、何の意味も持たないと彼が考えていたことは、交響曲の随所に書き込まれた豊かな旋律から明らかでしょう。今回の演奏では、緩徐楽章の第二主題がとりわけ美しく響きました。第一楽章の途中で序奏のアダージョが回帰した際に、下野さんがヴァイオリンを艶やかに響かせたのも忘れられません。

演奏会のプログラムには、下野さんが大阪フィルハーモニー交響楽団で研修されていた頃の朝比奈隆さんとの思い出が綴られていました。冒頭からの低音の響かせ方や、フィナーレの第二主題の軽やかさに、彼から受け継いだものを感じました。その一方で、透明感すら感じさせる見通しのよい響きと、自然な流れは、下野さんならではのものと思われました。

広島交響楽団は今回、金管セクションをはじめとして非常に充実した響きを聴かせていました。下野さんの指揮との一体性がいっそう高まった印象です。その一方で、とくに対位法の複雑さが極まるところで、セクション内の、あるいはセクション間のアンサンブルにもう一歩緊密さを求めたい気もしました。また下野さんの指揮でブルックナーの交響曲が聴ける日を楽しみに待ちたいと思います。

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武生国際音楽祭2018に参加して

41992189_2070441386341556_3393495407651717120_o第29回目を迎えた武生国際音楽祭に、国際作曲ワークショップの特別ゲストとして参加させていただきました。9月11日に一度家族で武生へ行って、ブラームスの作品を中心とした演奏会を堪能した後、翌日いったん広島へ帰り、もう一度13日に武生に入って、16日の音楽祭最終日まで、数多くの演奏会とレクチャーに接することができました。作曲ワークショップではレクチャーを持たせていただきましたが、それをつうじてむしろ私のほうが多くを学ばせていただきました。このような機会を設けてくださった武生国際音楽祭の音楽監督の細川俊夫さん、コンサート・プロデューサーの伊藤恵さん、そして理事長の笠原章さんをはじめとする武生国際音楽祭推進会議のみなさまに、まずは心から感謝申し上げます。本当にお世話になりました。

9月11日から国際作曲ワークショップのレクチャーに参加させていただいて、電子音楽の作曲法など多くを学ぶことができました。13日の作曲ワークショップでは、「〈こだま〉の変容──〈こだま〉としての〈うた〉へ」というテーマのレクチャーを持たせていただきました。「かたる」ことと「うたう」ことのつながりを踏まえつつ、「こだま」の概念を手がかりに、現代において「うたう」余地を探る視点を提示するないようのものです。アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」という言葉と、それに応答したツェランの詩を取り上げつつ、この詩に言われる「まだ歌える歌」を、音楽言語を含む言語の震撼──ベンヤミンの「こだま」のイメージは、「こだまする」ことにこの震撼を見る視点をもたらします──の先に探る拙い講演に対しては、多くの貴重なコメントや質問をいただきました。

この国際作曲ワークショップとともに、それに連動するかたちで、ゲストとして招聘されている作曲家の作品を中心とした演奏会「新しい地平」が開催されるのが、武生国際音楽祭の重要な特徴をなしています。ワークショップに参加している作曲家たちが刺激を得る機会であると同時に、一般の聴衆に同時代の音楽の息吹を伝える機会として、この音楽祭の柱の一つになっていると言ってよいでしょう。今年の「新しい地平」の枠で演奏された、ないしは世界初演された作品はいずれも完成度の高いもので、聴き応えがありました。「新しい地平I」で演奏された三浦則子さんの《アニトヤ》では、繊細な響きがしばし漂った後、旋回しながら虚空へ消えていく過程が美しく、サンスクリット語で「無常」を意味する表題にも相応しかったです。同じ演奏会で取り上げられたチャールズ・クォンさんの《風が自らを探し求めるかのように》における、風を孕み、かつ間を含んだ息の旋回を感じさせる音楽の運動も面白く聴きました。

「新しい地平II」では、坂田直樹さんと神山奈々さんの新作がとくに印象的でした。坂田さんの《胞子》には、ベルクソンのいう「生命の躍動」を伴った有機物の生成が、特殊奏法を巧みに織り交ぜながらダイナミックに表現されていましたし、神山さんの《線香花火》からは、人の行き交う風景のなかに、鮮やかさと儚さの双方を含んだ光の明滅が感じられました。「新しい地平III」では、5月に広島で聴いた細川俊夫さんの《三つの愛の歌》のほか、ベッティーナ・スクリプチャクさんの《ダフネの歌》など感銘深い作品が続きました。とくにこのピアノ独奏のための曲では、モティーフの緊密な展開が精妙な変化を生んでいるのが印象的でした。ひたすら耳を澄ますことでルイジ・ノーノを偲ぶ思いを深めていくクラウス・フーバーの《嘆き》を、マリオ・カーロリさんの素晴らしい演奏で聴けたのも貴重でした。

今回の音楽祭では、この《嘆き》とともに、昨年亡くなったフーバーの笙と打楽器のための《黒い嘆き》の実演に接することができたのが貴重でした。宮田まゆみさんの笙に葛西友子さんの打楽器という、望みうる最高の組み合わせでこの作品を聴けたのは本当に幸運でした。広島の被爆から半世紀の節目に当たる1995年の秋吉台での初演を念頭に細川さんがフライブルクでの師に委嘱したこの作品は、井伏鱒二の『黒い雨』からの抜粋と『万葉集』から選ばれた歌を、笙と、瓦を含む打楽器との静かな対話のなかで朗読し、これらのテクストの内実に迫ろうとしています。被爆するとはどういうことか、という問いに向き合いながら、言語を絶する出来事に遭って苦悩する魂に静かに思いを馳せ、その言葉を刻んでいく過程に耳を澄ますなかで、時空を越えた魂の邂逅の場を開く音楽の力をあらためて感じました。折々に《黒い嘆き》が再演されることを願ってやみません。

この音楽祭の恒例となっている「細川俊夫と仲間たち」では、まず細川さんの《レテ(忘却)の水》の実演に接することができたのが、個人的に嬉しかったです。弦楽が織りなす柔らかな響きの層が徐々に撓んで、そこからおのずと激しい、忘れようとしても忘れられないことへの苦悩を感じさせる展開が生まれてくるのが、とくに印象に残りました。ピアノの強い打ち込みが開く深淵の上で明滅するモティーフも美しかったです。オペラ《海、静かな海》とも関連の深い作品とのことです。この演奏会では、ベッティーナ・スクリプチャクさんの《裂け目》の実演にも触れることができました。モティーフの緊密な展開が、響きの多次元的な運動に見事に結びついた作品と感じました。

とはいえ、今回は何と言ってもヨハネス・マリア・シュタウトさんの四つの作品を聴くことができたのが大きな収穫でした。洗練された、かつ独特の強度を示す響きが精妙に変化していくのがとくに印象的で、室内楽作品の静かな部分は、無類の繊細さを示していたと思われます。《透かし模様》や《シドナム・ミュージック》のような作品が、ブラームスのクラリネット三重奏曲やドビュッシーのフルートとヴィオラとハープのためのソナタを意識しているというように、音楽の伝統をその精神において受け継ぎながら、オリジナリティの高い響きを、鮮やかなリズムの展開とともに実現させたシュタウトさんの音楽が、これからどのように展開していくのか、楽しみになりました。

伊藤恵さんのプロデュースによる、ブラームスの音楽の系譜を照らし出す室内楽や歌曲の演奏会も、非常に充実していました。まず、9月11日の「セルゲ・ツィンマーマン&伊藤恵リサイタル」が感銘深かったです。今回ツィンマーマンは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ全三曲のうち、第2番と第3番を演奏しましたが、いずれの曲でも、きわめて繊細な歌のなかから、深い情感と凛とした曲の形が浮かび上がってきました。万全の体調ではなかったとのことですが、持ち前の美音に徐々に熱がこもってくる演奏には、強い説得力がありました。これに続くピアノ五重奏曲の演奏では、若い弦楽器奏者たちがツィンマーマンに触発されて、実に繊細な表現を示していました。それによって、この作品のテクスチュアが最大限に生かされていたと思います。振幅の大きな表現のなかで、歌の陰翳とリズムの躍動の双方が生きていました。そして、これらのすべてを、しっかりとした歩みのなかで連綿と歌い継いでいく伊藤恵さんのピアノが支えていました。

13日の夜のシューマンとブラームスの室内楽を中心とする演奏会も、濃密な内容でした。最後に演奏されたブラームスのクラリネット五重奏曲で、上田希さんのクラリネットが振幅の大きな表現を示していたのがとくに印象的でした。とくに緩徐楽章の中間のあたりで、翳りを帯びた歌が、深沈とした響きのなかから心のなかで叫ぶように立ち上がってくる瞬間には心を打たれました。シューマンのピアノ五重奏曲では、こちらも緩徐楽章でのヴィオラの情熱的な歌が素晴らしかったです。イレー・スーさんがシューマンの《ミルテの花》と《リーダークライス》からの合計9曲を歌いましたが、湧き上がる感情と深い息遣いが自然に一つとなった歌唱は、本当に魅力的でした。

15日夜の「ウィーン音楽の伝統」では、まず赤坂智子さんのヴィオラでリゲティの無伴奏ソナタの抜粋を聴けたのが嬉しかったです。彼女の鋭敏な感性によるアプローチのおかげで、ディアスポラとしてのリゲティの郷愁と屈折が陰翳豊かに表現されていました。この曲に彼の音楽が凝縮されているという思いを新たにしました。続くリヒャルト・シュトラウスの《四つの最後の歌》におけるイレー・スーさんの歌唱は、風景のなかでこれまでの過ぎ来し方を噛みしめながら「生きた」ことに然りと言う歌の豊かさを、温かい息遣いで届けてくれました。北村朋幹さんの繊細なピアノによって、歌の美しさがいっそう際立っていたと思います。この夜の最後に演奏されたブラームスの弦楽六重奏曲第2番では、若い音楽家の素晴らしい技量と感性がこの作品に込められた作曲家の情熱を、新鮮に表現していました。スケルツォの楽章で聴かれる迸るような熱情とリズムの躍動もさることながら、とくに両端楽章の第二主題の繊細な歌とそれを支える響きは、この作品の魅力を再発見させてくれるものでした。

16日ののファイナル・コンサートは、時宗と天台宗の声明が響いた後、リゲティの《マカーブルの秘密の儀式》という瀆神的な黙示録が奏でられ、最後にブラームスのドイツ・レクイエムが演奏されるという、浮き沈みの激しい、そして幾重もの意味で挑戦的なプログラムでした。リゲティの作品では、今年もイェルーン・ベルワルツさんの素晴らしいトランペットを聴くことができました。ブラームスのレクイエムでは、金井勇さんの編曲が、作品の特徴を巧みに生かしていたのが印象的でした。イレー・スーさんの豊かな歌と合唱の力演にも感銘を受けました。今年の武生国際音楽祭に寄せられた作品とその演奏は、今までにない高い水準を示していたのではないでしょうか。ここが今まさに生まれつつある音楽の中心の一つだという思いを新たにしました。このことが広く認知されて、来年30回の節目を迎えるこの音楽祭に、さらに多くの人々が集まることを願っています。

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晩秋から初冬にかけての演奏会と仕事

早いもので、今年も残すところ二週間足らずとなりました。冬とは思えない、どこか生暖かい感じの気候が続いていますが、お変わりありませんか。私はと言いますと、今年はいつになく慌ただしい師走を過ごしているところですが、この一週間ほどは、広島を離れて自分の研究の位置を省みたり、世界的な研究の動向に触れたり、さらには現代世界の問題が凝縮している状況に接したりすることができました。そこからあらためて広島の現在についても考えさせられました。これについてはまた稿をあらためてお伝えすることにして、ここでは、11月下旬から12月初旬にかけて聴くことのできた演奏会と、それに関わる仕事のことをご報告することにします。

まず、11月21日と28日の二日にわたり、細川俊夫さんの還暦を記念して企画された「細川俊夫10×6還暦記念コンサート」を聴かせていただきました。細川さんが作品を発表し始めた頃からともに歩んできたアーティストや、これからの音楽を担う若いアーティストがみずからの音楽を携えて集い、細川さんの音楽をその原点から見つめ直す、還暦記念に相応しい連続演奏会でした。細川さんの音楽思想の四つのテーマを軸とした構成によって、細川さんの音楽思想の深まりを辿る場にもなったと思います。演奏会のウェブサイトとフライヤーにこの演奏会に寄せる小文を寄稿させていただいたことを、非常に光栄に思っております。

まず、印象的だったのが、両日の演奏会の冒頭に、和楽器の本曲の演奏が置かれたことです。尺八の音が空間全体を震わせながら立ち上がり、笙の音が幾重にも襞を拡げていくところに、細川さんの音楽の源にあるものを垣間見る思いがしました。沈黙のなかから生の息遣いとともに響き始め、空間と共振しながらひと筋の線を描いていく、空間と時間の書(カリグラフィー)としての音楽、それが日本の伝統のなかで追求されてきた音楽と深いところで呼応し合っていることを、アコーディオン独奏のための《メローディア》(1979年)のような最初期の作品からも、はっきりと感じ取ることができました。

今回の連続演奏会では、この作品をはじめ、とくに楽器の独奏のために書かれた作品が、細川さんの音楽が、「作曲するとは自分自身の楽器を作り上げることである」というヘルムート・ラッヘンマン(彼も最近80歳の誕生日を迎えたようですね)の理念を、彼の音楽とは異なったかたちで、時空の書の線を描くかたちで実現していることを、強く感じさせました。なかでも、フルート独奏のための《線》(1984/86年)の上野由恵さんの演奏は、細川さんの音楽の展開の大きな足がかりとなったこの作品の新たな可能性を感じさせる、素晴らしいものでした。また、ヴィオラ独奏のための《哀歌》(2011年)における赤坂智子さんの演奏は、東日本大震災の衝撃の後の細川さんの音楽の深まりを歌心をもって響かせる、実に印象的なものでした。

今回の演奏会でこれらの他にとくに印象に残ったのは、太田真紀さんの声の充実ぶりでした。ジャチント・シェルシの作品で、この同時代の作曲家が細川さんと同様に一つの声から一つの世界を開く音楽を追求していることを見事に響かせた後、演奏会を締めくくる《三つの天使の歌》(2014年)では、警告し、絶望を歌いながら、地上に生きることを見つめ直させる天使の声を空間に屹立させていました。この曲では、吉野直子さんのハープにより、天使の歌が深い哀しみのなかから発せられていることも感じられました。そして、吉野さんのハープと宮田まゆみさんの笙は、《うつろひ》(1986年)をはじめとする作品で、非日常的でありながら、世界そのものを構成するものが凝縮されたかたちで現出する儀式的な場を開く、という細川さんの音楽のもう一つの側面を浮き彫りにしていました。吉野さんのハープとサクソフォンの大石将紀さんの《弧のうた》(1999年)は、今回の演奏会全体を、細川さんの音楽の新たな展開へ向けて象徴する、見事なものだったと思います。

11月29日には、紀尾井ホールにて、ヴィオラ奏者の今井信子さんの三回にわたるリサイタルのシリーズ「夢」の第三回を聴きました。“Clarinet Trio”と題された今回の演奏会は、クラリネット、ヴィオラ、ピアノの三重奏のために書かれたモーツァルト、シューマン、クルターグの作品をプログラムの中心に置いたうえで、ブラームス晩年の二曲のクラリネット、あるいはヴィオラのためのソナタを、クラリネットとヴィオラで演奏するという充実した内容の演奏会でした。クラリネットがヒェン・ハレヴィでピアノが韓国出身の新鋭キム・ソヌク。表現意欲に満ちたこの二人の冴えた演奏を今井さんが豊かな響きで受け止めて、温かくもスリリングなアンサンブルが繰り広げられていました。

とくに、モーツァルトのケーゲルシュタット・トリオがこれほど豊かな振幅を持って奏でられたのは、これまで聴いたことがありませんでした。個人的に嬉しかったのは、クルターグの《ローベルト・シューマンへのオマージュ》を実演で聴けたことです。シューマンの引き裂かれた内面を掘り下げながら、それをクルターグ自身の音楽と共鳴させるこの作品の「夜の音楽」は、非常に魅力的に思われました。クラリネットによるブラームスの第1番のソナタも、楽器の持ち味を最大限に生かした好演でしたが、何よりも素晴らしかったのが、今井信子さんのヴィオラによる第2番のソナタの演奏。自然な息遣いで連綿と歌い継いでいくヴィオラの響きが、会場を満たしていました。

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チャリティークリスマスコンサートflyer

12月4日には、エリザベト音楽大学のセシリアホールで行なわれた、同大学のチャリティークリスマスコンサートを聴きました。この演奏会では、20世紀初頭の夭折の詩人ゲオルク・トラークルが四季に寄せた詩をテクストに自然の深い息遣いを響かせながら、季節が巡るなかに、第二次世界大戦の末期に起きた二つの凄惨な出来事、ドレスデン空襲と広島への原爆投下という出来事の記憶を深く刻み込む、細川俊夫さんの《星のない夜》が演奏されました。この作品の解説と歌詞対訳を、演奏会のプログラムに寄稿させていただいたことを、とても光栄に感じています。この作品を取り上げようと決意された大学関係者の方々にも、心からの敬意を表わしたいと思います。《星のない夜》の演奏は、一音一音に熱意のこもった素晴らしいもので、とくにソプラノの小林良子さんが、澄んだ声ときれいな発音で一つひとつのフレーズを美しく響かせる演奏を聴かせてくれたのが印象的した。細川さんの音楽思想が集約されたこの作品に耳を傾けながら、70年前に起きた出来事に思いを馳せ、今を見つめ直す機縁を与える、被爆70年の記念に相応しい演奏だったと思います。

12月6日には、三原市芸術文化センターポポロへ、大阪フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会を聴きに行きました。音楽監督の井上道義の指揮で、アールトネンの交響曲第2番「ヒロシマ」とブルックナーの交響曲第4番、それに佐藤眞のよく知られた「大地讃頌」が、冒頭に地元の合唱団と演奏されました。朝比奈隆が、今から60年前に広島で当時の関西交響楽団と演奏したアールトネンの「ヒロシマ」交響曲と、これも朝比奈が自家薬籠中のものとしていたブルックナーの「ロマンティック」交響曲が井上道義の指揮の下でどのように響くのか、楽しみに出かけました。

アールトネンの交響曲に関しては、この曲とその演奏史をずっと辿って来られた能登原由美さんがこのほど公刊された素晴らしい本『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』(春秋社)を読んで、少し「予習」して行ったので、いろいろと考えさせられるところがありました。1947年に着手され、1949年に完成したというこの作品は、広島の被爆についての情報が未だきわめて乏しいなかで、原子爆弾の被害を人類の問題として受け止め、そこからの人間の再生を願って書かれたものとひとまず言えるでしょうか。音楽そのものは、同郷のシベリウスからの深い影響の下、映画音楽などの作曲の経験なども踏まえながら書かれていると思われます。同時代のショスタコーヴィチの一部の作品と呼応するようなリアリズムないし描写性を示すところもあります。井上道義の指揮による今回の「ヒロシマ」交響曲の演奏は、井上なりの解釈の下で、「交響曲」としての構成よりも、一篇の交響詩としての流れを重視して、標題音楽的な要素を生かしながら一気に聴かせるものだったのではないでしょうか。序奏で重苦しく奏でられたモティーフが、終楽章で長調に転じて回帰し、再生への願いを込めて徐々に熱を帯びていくあたり、引きつけるものがありました。

後半のブルックナーの交響曲の演奏は、各楽章の主題をゆったりと歌わせながら、それに各声部が対位法的に絡む動きもしっかりと響かせることによって、歌謡性と響きの充実を両立させた、とても聴き応えのあるものでした。井上は、とくに両端楽章で細かいアゴーギグを加えることで、彼ならではの曲の流れを作り出していました。この曲でも井上は、ブロックごとの構築性よりも、全体の自然な流れを重視していたように思いますし、それが彼ならではのブルックナーへのアプローチなのでしょう。とくに第2楽章と第4楽章は、美しい演奏に仕上がっていたと思われます。

第2楽章では、見事なテンポ設定の下で、最初にチェロに現われる憂いを帯びた主題が連綿と歌い継がれていく流れが素晴らしかったですし、第4楽章では、大きな広がりを持った響きのなかに第二主題をゆったりと響かせることが、音楽の大きな起伏を作り、最終的に壮大なクライマックスを現出させたあたりは、実に感銘深かったです。全体的に、ピアノの音量が大きすぎる印象を受けましたが、それは楽員が、井上の意図するところを懸命に実現させようとした結果かもしれません。井上と大阪フィルハーモニーの関係が深まれば、表現の振幅はおのずと広がることでしょう。

ともあれ、両者のブルックナー演奏の朝比奈時代とはひと味異なる方向性を垣間見ることもできました。大阪フィルハーモニーの演奏を聴くのは、実に久しぶりでしたが、重心の低い、聴き応えのある響きは相変わらずでしたし、さらにそこに透明感も加わってきているようにも思われます。もう一つ印象深かったのは、槇文彦が設計したポポロの音響の見事さです。充分な残響のなかで総奏が輝かしく響くのみならず、そのなかで内声の細かい動きもよく聞こえます。三原市民の素晴らしい財産と言うべきこのホールを、しっかりと生かし続けてほしいものです。

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Paul Klee, »Die Zwitscher-Maschine«(1922)

最後に、話題が少し音楽から美術へスライドするかもしれませんが、ベルンのパウル・クレー・センターに集うクレーの美術の世界的な研究者が主体となって編集され、このほどその創刊号がオンラインで発行された、クレー研究の国際的な雑誌“Zwitscher-Maschine”──この表題は、クレーの水彩画《さえずり機械》(1922年)に由来しています──に、今夏栃木県の宇都宮美術館で開催されたクレー展「だれにもないしょ。」の展覧会評を、英語で掲載していただきました。拙稿の掲載の機縁を作ってくださり、そのために編集を含めご尽力くださった、チューリヒ大学の柿沼万里江さんと翻訳者のデイヴィッド・ノーブルさんに心からの感謝を捧げたいと思います。拙稿は、ご興味のある方にご一読いただけると幸いです。ヴァイオリンを愛し、生涯にわたり音楽を着想の源泉とし続けたクレーの作品を新たな角度から見直す、ささやかなきっかけになればと願っております。