早春の仕事と所感

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広島市植物公園にて

Social distancingという言葉を人類で共有しなければならない状況になりました。新型コロナウィルス感染症(Covid-19)の広がりは、人と人が住まいの外でじかに接触することを、いかなる場合にも極力避けなければならない段階に来ています。息苦しく、気持ちの塞ぐ境遇を脱する見通しは当分立ちそうにありませんが、状況をこれ以上悪化させないためには、今はsocial distancingに努めるしかないのは自明でしょう。在宅での生活の支援を含め、その条件を社会で整えなければならないのは、言うまでもありません。

Social distancingという言葉は、一般に「社会的距離」と訳されているようですが、socialという単語には「社交的」という意味もあります。人付き合いを続け、共に生きていくために、互いの立場や境遇に可能な限り配慮しながら、今は感染拡大の防止に必要な物理的距離を保つ、というようにsocial distancingの意味を理解してはいかがでしょう。国家のことを語るのは正直気後れしますが、このことは国と国の関係にも当てはまるでしょう。特定の国を一方的に遠ざけるようなことは、後に禍根を残すだけです。

むしろ国際的な相互理解にもとづいて、国境での人の出入りのコントロールを検疫を含めて強化するとともに、帰国者を含めた入国者の一定期間の隔離が必要ならば、そのための移動と滞在生活の条件を保証することが、まず必要でしょう。そして、新型コロナウィルスへの感染を広げないために今必要なsocial distancingが何かを、国内にいるすべての人に対し、科学的な根拠にもとづいて論理的に説明すると同時に、社会的な行動制限に伴う損失を埋め合わせる枠組みを提示したうえで、国内での感染防止策を徹底することが、政府の第一の責務のはずです。

残念ながら、何ら根拠のない各種学校の休校「要請」が象徴するように、この国の政府は、自分たちの「やってる感」を演出することに血道を上げています。その中枢を占める人々の言動からは、社会的な行動が制限されざるをえないなかで、国内に生きる人々の生活を保障することへの真摯な問題意識が感じられたためしがありません。それが少しでもあるなら、「商品券」を配るなどという発想は出て来ないはずです。にもかかわらず、そのような政府が「緊急事態宣言」すら出せるようになってしまいました。このことこそが生命の危険です。

それもさることながら、新型コロナウィルスの人から人への感染が始まった頃から危惧しているのが、感染症の流行によって人々が分断され、差別が横行するようになることです。すでにそれはさまざまなかたちで現われています。今回のウィルス禍は、人々の心の奥に潜む差別意識を剝き出しにしただけでなく、マスクや食料品を不必要に買い集めようとする行動が示すように、高度に情報化された新自由主義の浸透が、いかに人間の魂を蝕んでいるかを露呈させました。

今は、根拠のない情報にけっして躍らされることなく、それぞれの住まいで知恵を深め、それを身体的接触を介することなく交換し、互いの立場を理解し合いながら、現在の苦境をともに潜り抜ける道を探る時でしょう。Social distancingという言葉は、このことを指し示していると思われます。その際に最も頼りになるのが本でしょう。本は、自分を時空を隔てた他者と結びつけながら、自分の境遇をその歴史的な背景を含めて照らし出してくれます。Social distancingが、そのような良書との出会いの契機になることを願ってやみません。

それにしても、現在の厳しい状況の下で多くの文化的な催しが中止や延期を余儀なくされていることは寂しいことですし、何よりもそのために大きな経済的な損失を負う組織や、フリーランスのアーティストの苦悩を思うと言葉がありません。一日も早く文化を担う組織の存続とアーティストの生活を保障する仕組みが整えられる必要があるはずです。文化に携わる人々が、この社会に生きる人々の魂の陶冶を担い──これが「文化」の原義です──、社会の礎を築いていることを、今こそ省みるべきでしょう。

今からすると、2月の15日と16日に広島で細川俊夫さんの《松風》の公演が無事に行なわれたことは奇跡のようにすら思われます。Hiroshima Happy New Ear Opera IVとして、アステールプラザの能舞台を用いて開催された上演には、両日とも満席に近いお客さまにお越しいただきました。主催組織のひろしまオペラ・音楽推進委員会の一員として、あらためて感謝申し上げます。非常に充実した内容の上演になったと思います。すでにMercure des Artsに能登原由美さんによる公演評が掲載されています。

1268前後しますが、『週刊金曜日』2020年2月14日号に、旧陸軍被服支廠倉庫の再生へ向けて「戦争と被爆の記憶が刻まれた建物をアジア各地域と連帯する文化拠点に」と題する小論を寄稿させていただきました。「加害と被害、二重の記憶をとどめる戦争遺構」というテーマの下で掲載されています。被服支廠が戦争の時代にどのような場所だったかを切明千恵子さんの証言を基に掘り下げ、解体へ向けた県当局の動きと、それに抗して保存を求める運動を浮き彫りにした宮崎園子さんの「解体計画に揺れる広島・被服支廠」と併せてご笑覧いただければ幸いです。

3月7日に発売された講談社の文芸誌『群像』2020年4月号の「論点」の欄には、「抗う言葉を分かち合う──芸術と批評の関係をめぐって」と題する小論を寄稿させていただきました。この息苦しい時代に芸術が何でありうるかを、ニーチェの『悲劇の誕生』の顰みに倣えばベンヤミンの精神から、批評との緊密な関係のうちに探る内容の論考です。批評的な反省を内在させた創作と、言説としての批評が協働し合うなかに、生命があまりにもないがしろにされる流れに抗い、生きることに踏みとどまる芸術の営みがありうるのではないか、という考えを表題に込めました。

202004表題に掲げた芸術作品を「抗う言葉」と見る視点は、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』、それに触れた詩人パウル・ツェランのビューヒナー賞受賞講演「子午線」、そしてビューヒナー戯曲の最終部のリュシールの言葉を用いたヴォルフガング・リームの《街路、リュシール》を論じることをつうじて得ました。今年の1月25日に東京交響楽団の定期演奏会でリームの作品を、角田祐子さんの素晴らしい歌唱とともに聴けたことは、拙稿を綴る重要な契機の一つとなりました。

今回の小論では、ベンヤミンの「写真小史」などの議論に接続させるかたちで、佐々木知子さんの写真集『Ground』所収の長崎の写真を、新国立美術館で開催されていた「DOMANI・明日2020」展で見た藤岡亜弥さんの広島の写真とともに取り上げています。佐々木さんの写真と出会えたこと、そして藤岡さんの「川はゆく」シリーズに向き合う機会を得たことも、拙稿の展開の重要な契機となりました。

拙稿の後半では、ファシズムによる「政治の審美主義化」に抗する「芸術の政治化」をめぐるベンヤミンの議論を、「ディセンサス」を鍵語とするジャック・ランシエールの芸術論とも照らし合わせ、複数性を生きる民衆を創造する芸術の可能性にも触れました。その際に、作品の「抗う言葉」を構成し、伝える言説としての批評の役割にも論及しています。美術出版社の『美術手帖』4月号のテーマが「表現の自由」ですが、それをめぐる議論とも緩やかに呼応する内容もあるかと思います。

Ground_展示DM_book obscura_omoteこの間、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書)をめぐって二つの動きがありました。まず、2月29日に本川町のREADAN DEATにて、写真家の佐々木知子さんと「土地の記憶、闇を歩く批評」と題して対談を行ないました。丁寧に準備してくださったおかげで、選りすぐりの本と器に囲まれながら、佐々木さんの写真集『Ground』に収録された長崎の写真とそれが喚起する記憶について、またある場所に立って写真を撮る行為と言葉を発することの関係について、拙著の内容とも絡めながら密度の濃い議論ができました。

佐々木さんとの対談では、カーテンを引いて視界を遮断することなく、歴史的な現在を凝視する思考と、その媒体としての写真の可能性などについて、多くを考えさせられました。拙著でも論じた言葉そのものの肯定性について、新たな視角から省みる機会ともなりました。今回の対談の場をご準備くださったREADAN DEAT店主の清政さん、『Ground』版元tentoの漆原さんに心から感謝申し上げます。また、当日は約20名の方にお集まりいただきました。大変な状況のなか、足を運んでくださったことに心から感謝しております。

それから、3月15日の中國新聞読書面の「著者に聞く」コーナーで、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』をご紹介いただきました。インタヴューを丁寧にまとめて、言語、芸術、歴史を問うベンヤミンの危機の時代の思考の足跡を辿る本書の特徴を浮かび上がらせてくれた森田裕美さんに心より感謝申し上げます。拙著が新たな読者と出会うきっかけになることを願っています。

記事の後半は、本書の成り立ちと広島との関わりにも触れています。核分裂が発見された研究所のそばにあるベルリン自由大学の図書館に日々籠もってベンヤミンの著作に取り組むなかから生まれたこの小さな本に込められた思考を、「核の普遍史」に抗する広島からの、そして他の場所とも結びつく想起の営みの意義を考えるのに少しでも生かせればと思います。

IMG_0634その後、勤務先の大学の図書館の司書の方が、この記事を使って私の著書のコーナーを作ってくださいました。来館者が拙著を知る契機を設けてくださったことに感謝申し上げます。ご報告が遅くなりましたが、拙著は、みすず書房の月刊『みすず』2020年1・2月合併号における「2019年読書アンケート」特集で、姜信子さんと成田龍一さんに挙げていただいています。「歴史の反転」へ向かうベンヤミンの思考に着目した本書の趣旨を深く汲んだお二人のご紹介に、心より感謝申し上げます。

時代は先の見えない、そして息苦しい闇と化しつつあります。そのなかを歩むのに、拙著が少しでもお役に立てたらと願っています。早いもので三月もあとわずかです。次の仕事を少しでも先に進めておかなければなりません。厳しい状況が続きますが、適度な緊張感と社交的な距離を保ちながら、お健やかにお過ごしください。

神無月の仕事──『ヴァルター・ベンヤミン』刊行から一か月を経て

十月も下旬というのに、ここ広島ではまだ日中の気温が高く、何を着て出かけるか迷う今日この頃です。先月から今月にかけて、二つの巨大な台風が相次いで列島を襲い、ご存知のとおり、痛ましい被害が各地に深い傷を残しています。被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。

473158さて、先月20日に岩波新書の一冊として拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を上梓してから一か月が経ちました。この間すでに、いくつもの温かいお言葉をいただいております。読者のなかには文字通り精読してくださっている方もおられて、著者冥利に尽きると感じております。

拙著『ヴァルター・ベンヤミン』をいち早くお手に取ってくだり、ご感想をお寄せくださった方々に心より感謝申し上げます。おかげさまで、この種の書籍としては比較的多くの読者の手許に届いているようです。拙著は、図書新聞の第3421(2019年11月2日)号の「ポケットブック」のコーナーをはじめ、各種媒体でも紹介され始めています。

今、思わぬかたちで、ベンヤミンが抱いていた問いがアクチュアリティを帯びていると感じています。その一つは、拙著の主に第四章で論じた、今芸術は何でありうるかという問いではないでしょうか。彼は、知覚経験が変容し、従来の意味で「美しい」芸術作品が成り立ちえなくなっている状況のなかで、芸術が、そして作品がどのようにありうるかを、同時代の芸術の動きを見据えながら問うています。

あいちトリエンナーレとその「表現の不自由・その後」展をめぐっては、芸術は民衆に役立つものであるべきだといった、民衆を上から統治の対象としてしか見ていない言説も聞かれました。しかし、ベンヤミンはむしろ、そのような対象とはならない民衆そのものが生じる媒体として、芸術作品が創造される可能性を、新たな、批評を内在させた芸術のうちに見届けようとしていました。

こうして、ベンヤミンの思考が取り組んだ問題がアクチュアリティを帯びて浮上することは、同時に彼が生きた時代よりもその闇が深まったことの徴候でもあるでしょう。とくに、行き交う情報のいっそうの断片化が進むなか、歴史修正主義が精神を蝕むかたちで浸透しつつあることは、排他的ないし排外主義的な暴力としても現われながら、現代の闇を深めていると感じています。

ベンヤミンの著作には、こうした現在の闇の要因を見通しながら、そのなかを歩むことへ向けた思考のきっかけや手がかりが含まれていると考えて、拙著を公にしました。彼の批評的な思考の足跡を、彼の生涯のなかに浮かび上がらせた拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を書店で見かけられたら、お手に取っていただけると幸いです。

71293874_2691610117558010_7584518907336065024_oところで、今月は芸術に関わる仕事をいくつか公にすることができました。機会を与えてくださった方々に感謝申し上げます。まず、10月4日に開催された広島交響楽団のディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethovenの第2回演奏会のプログラムに、曲目解説を寄稿させていただきました。

この演奏会では、何よりも細川さんの《月夜の蓮》を望みうる最高の演奏で聴けたのが嬉しかったです。児玉桃さんの明晰でありながら、豊かな歌に貫かれたピアノに、下野竜也さんが指揮するオーケストラが見事に応えて、生気に満ちた流れた生まれていました。

72554808_2726928977359457_3251842159254437888_oまた、10月12日から栃木県の小山市立車屋美術館で始まった呉夏枝さんの個展「手にたくす、糸へたくす」のカタログにも、「記憶の多島海へ──呉夏枝のほぐす芸術によせて」と題する小文を寄稿させていただきました。作家の芸術の歩みを、記憶の越境的な継承の可能性へ向けて論じるものです。

糸を扱う手仕事によって、言葉にならなかった記憶の気配を伝える空間を開き、その継承の回路を紡いできた呉夏枝さんの仕事の多彩さを伝える展示も楽しみなところです。この機会に、多くの方に彼女の芸術に触れていただきたいと思います。

それから、10月15日に発行された芸術批評誌『Mercure des Arts』の第49号には、今年30回目を迎えた武生国際音楽祭にゲスト講師として参加しての報告を寄稿させていただきました。9月の音楽祭で新たな音楽が生まれた様子を伝えると同時に、音楽家が出会い、世界的な音楽創造の芽が育まれる場として続いてきた武生国際音楽祭の意義にも触れました。ご一読いただけると幸いです。

10月22日には、8・6ヒロシマ大行動実行委員会が主催した、拡声器規制問題に関する第2回公開討論会にパネリストの一人として参加しました。その際、毎年8月6日に開催される平和祈念式典のあり方を、市民自身がどのように考えるか、という問いを広く共有することが必要であることや、式典会場周辺での拡声機使用を条例で規制することは、表現の自由に抵触する危険があることなどを論じました。

討論会では、平和祈念式典の成り立ちを歴史的に検証することへの問いを含め、さまざまな視点からの発言があって、多くを学ぶことができました。あいちトリエンナーレに対する文化庁の補助金不交付の問題とも通底するものを含んだ拡声器規制問題については、広島に注目する世界中の人々を失望させることにならないよう、市当局の動きなどを注視していきたいと考えています。

71184137_3005860276108036_4509768596271923200_o来たる11月2日には、勤務先の大学の広島平和研究所の直野章子さんが主催されるシンポジウム「記憶の存在論と歴史の地平」に、ディスカッサントとして参加させていただきます。直野さんはじめ、このテーマをめぐる研究をリードしている学者が顔を揃えるこのシンポジウムにご関心のある方は、広島市立大学のサテライトキャンパスへお越しください。参加は無料です。

11月中旬からは、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』の合評会や刊行記念のトークなども続きます。12月22日に開催される福岡市の書店&カフェ「本のあるところajiro」でのトークについては、広報も始まっています。これらについては、FacebookTwitterでも情報を発信していきたいと考えております。拙著にご関心のある方とお会いできることを、心から楽しみにしております。

もうしばらくしたら、広島にも紅葉の季節が訪れます。それとともに朝晩は冷え込むことでしょう。台風やその後の大雨のために避難生活を余儀なくされている方々にとっては、寒さがとりわけ厳しくなると思います。どうかみなさまお身体大切にお過ごしください。