五月の音楽

32266933_1882631815122515_1986807641556385792_n早いもので、もう五月が終わろうとしています。広島では、ここのところ梅雨の訪れを感じさせるじめじめとした気候が続いています。今年も気の滅入る季節が巡って来たようです。それにしても、四月に年度が改まってからは慌ただしかったです。ここに至るまで、振り返る暇もないほど雑事に追われておりました。そのために報告がすっかり遅くなってしまいましたが、5月18日には、「魔術としての音楽」というテーマの下、Hiroshima Happy New Earの第25回の演奏会が、JMSアステールプラザのオーケストラ等練習場にて開催されました。開演前に土砂降りの雨が降るなど悪天候に見舞われましたが、会場には多くの熱心な聴衆が集まりました。主催組織のひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、ご来場くださったみなさまにあらためて心より感謝申し上げます。

さて、今回のHiroshima Happy New Earでは、歌うこと、ないしは声を発することの根源として、現代の作曲家があらためて秘教的な儀式の姿に着目し、そのなかで音楽の可能性を探究したことを示す作品が中心となりました。なかでも、《山羊座の歌》をはじめとするジャチント・シェルシの作品を、その研究を重ねて来られた太田真紀さんの声で聴けたのは、実に貴重でした。《山羊座の歌》からの抜粋を演奏される際に、太田さんは、シェルシとともにこの作品を作り上げたと言っても過言ではない、平山美智子の形見の衣裳を着ておられました。それによって、彼女とシェルシのあいだで生成する歌の魂をも引き受けようとするかのような、非常に求心力の強い演奏を聴くことができたのは、忘れがたい体験となりました。時にノイズに限りなく接近するほどの多彩さを持った声が、空間を揺さぶり、その揺らぎのなかから声の新たな響きが生じ、さらには打楽器をはじめ他の楽器の音と呼応する過程に引き込まれました。

それは、太田さんの声の表現が、非常に大きな振幅を示していただけでなく、彼女の声そのものが、各作品の音楽の核心を捉えていることを示す芯を具えているからではないでしょうか。そのことは、とくに細川俊夫さんの《スペル・ソング》と《三つの愛の歌》の各曲を、ひと筋の線を描く歌として響かせることに結びついていたと思われます。とくに後者では、和泉式部の断ちがたい思いの強さが、歌の強度となって響いていたのではないでしょうか。そのことと同時に特筆されるべきは、大石将紀さんのサクソフォンの素晴らしさです。柔らかなピアニッシモから、空間を深く揺さぶるフォルティッシモに至るまで、豊かな、そして歌心に満ちた音色を一貫させる演奏で、とくにルチアーノ・ベリオの《セクエンツァ》の一曲を聴けたのも忘れがたいです。細かなモティーフが、それ自身のうちから発展していくことによって織りなされる15分に及ぶ音楽が、間然することなく、一つの歌として響いていました。

今回のHiroshima Happy New Earでとりわけ印象深かったのは、細かなモティーフを基に発展していく独唱ないし独奏の音楽が、それ自身の響きによって一つの儀式的な空間を形成していたことでした。魔術的な結界でもあるような時空間を織り直す音楽の力にも触れることができました。この五月には、そのようなHiroshima Happy New Ear以外に、新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く機会もありました。指揮は、今年85歳になるというミシェル・プラッソン。彼の演奏には主にディスクをつうじて親しんできましたが、その最近の充実ぶりは、サン゠サーンスの「オルガン」交響曲などが取り上げられたパリ管弦楽団の演奏会(サル・プレイエル)や、パリのオペラ座(バスティーユ)でのグノーの《ファウスト》の指揮をつうじて実感してきたところです。今回の演奏も、非常に内容の濃いものでした。

サントリーホールで行なわれた新日本フィルハーモニーの第589回定期演奏会は、ドビュッシーの《夜想曲》からの二曲(「雲」と「祭り」)と神秘劇《聖セバスティアンの殉教》からの交響的断章、そしてフランクの交響曲ニ短調というプログラムでしたが、この二人の作曲家が書いたすべてのフレーズに、いやすべての音に息が吹き込まれた素晴らしい演奏でした。微かなピツィカートの音からも気配が感じられます。柔らかな響きが徐々に色合いを変えていく動きが、外界と内面の照応を感じさせる《夜想曲》からの「雲」も、聖性を強調するコラール風の響きが、どこか艶めかしい身体性も感じさせる《聖セバスティアンの殉教》からの音楽も、非常に印象的だったのですが、何と言ってもフランクの交響曲が、圧倒的な印象を残しました。音楽そのものの息遣いを生かした緩急によって見事に歌い上げられた交響曲を聴くことができました。

深沈とした最初の動機から、すべてのフレーズが深い情感を湛えながらしなやかに歌い継がれていくだけでなく、そのあいだに絶妙の間合いがあって、それが実に自然な音楽の流れに結びついていました。緩徐楽章のコーラングレによる主題が、楽章の後半でもう一度歌われる際に、プラッソンがぐっとテンポを落としたのには驚かされましたが、それによってこの主題の寂寥感がいっそう際立っていました。曲の終わりで、この主題を含めた先行の主題が回帰して、輝きと香気に満ちた響きのなかに掬い取られていくのには心からの感動を覚えました。終演後の様子では、プラッソンも演奏に心からの満足を覚えていたようです。フランス近代音楽の精髄が生き生きと響いた演奏会だったにもかかわらず、聴衆の入りが少々寂しかったのだけが残念でした。プラッソンは、日本では未だ「知る人ぞ知る」存在なのかもしれません。

この五月には、音楽を聴くだけでなく、自分で演奏に加わる機会もありました。妻が続けている弦楽四重奏のグループでヴィオラを弾いておられる方が、ご家族の事情で、今日廿日市市文化ホールさくらぴあの小ホールで行なわれた「五月の風」という室内楽合同発表会に、直前に出られなくなってしまったため、急遽代役で出演することになったというわけです。曲はモーツァルトの「狩り」の名で知られる弦楽四重奏曲第17番変ロ長調。長いこと楽器に触れていなかった身には相当にチャレンジングな曲で、今日の演奏も反省すべき点だらけの出来でしたが、練習で何度か合わせるうちに、曲の魅力を感じられるようになってきたのも確かです。とくに第三楽章のアダージョは、本当に美しい音楽だと思います。作品の美質を演奏で深める余裕が、時間的にも技術的にもなかったのは非常に残念でしたが、これに触れる機会をいただけたのには感謝しています。できれば、ヴィオラを弾くことも細々と続けたいものです。

DecUUDOVQAAKsfRところで、ひろしまオペラ・音楽推進委員会が主催するひろしまオペラルネッサンスの今年の公演で取り上げられるのは、モーツァルトのオペラ・セリア《イドメネオ》です。トロイア戦争後のクレタ島を舞台とするこの中期の作品は、ダ・ポンテ三部作などの後期のオペラに比べると馴染みが薄いかもしれませんが、二十代半ばのモーツァルトが並々ならぬ意欲をもって書いた音楽と、それによる人物描写の密度などから、近年再評価が高まっています。四年前に東京二期会が現代的な演出で取り上げたのも、記憶に新しいことでしょう。そのような《イドメネオ》という作品に、岩田達宗さんの演出と、広島交響楽団の音楽監督である下野竜也さんの指揮がどのようにアプローチするのか、非常に楽しみなところです。9月22日(土)と23日(日)に予定されている《イドメネオ》の公演についても、随時お伝えしていきたいと思います。ぜひご期待ください。

春のパリへの旅より

IMG_1725締め切りが迫っていた原稿に片が付き、その他の当面の仕事にもおおよその目処が立ったので、休暇を取って2年ぶりにパリへ行ってきました。3泊5日のごく短い滞在でしたが、そのあいだにいくつか興味深い演奏会や舞台に接することができました。まず、3月21日の夕方に到着してすぐ、国立音楽院の近くに最近オープンした Philharmonie de Parisへ、«À Pierre»と題するアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏会(指揮はマティアス・ピンチャー)を聴きに行きました。今年90歳になるピエール・ブーレーズに捧げられた演奏会です。

ブーレーズに何らかのかたちで師事した比較的若い作曲家4名の作品や、ブーレーズのために書かれたルイジ・ノーノの作品の演奏、さらにはブーレーズの断片的なモティーフによる即興演奏があった後に、ブーレーズの作品«… explosante-fixe …»が演奏されるという実に盛りだくさんなプログラムで、20:30に始まった演奏会が終わったときには、とっくに0時を回っていました。

若い作曲家の作品のなかでは、Benjamin Attahirという作曲家の«Takdima»(2014年)という曲が印象深かったです。舞台と客席後方に配した独奏ヴィオラを呼応させながら、ヴィオラの響きのニュアンスを生かした、独特の歌心に満ちた作品と思われました。ピアノの内部奏法を含めた特殊奏法を生かしつつ、密やかに愛を交わし合うような対話を響かせていました。

「青の沈黙」を表題に含むノーノの作品は、吸い込まれるような、少し恐ろしくもある、深くて静謐な空間を現出させていました。 こうした作品を聴いた後でブーレーズの曲を聴くと、とても古典的に聴こえます(作品そのものは20年ほど前のものですが)。同時に、これまでの作品をつなぐ糸のようなものも感じ取られる気がします。

3月22日の午後には、オペラ座のバスティーユの劇場で、グノーの《ファウスト》の公演を観ました。何よりも素晴らしかったのがミシェル・プラッソンの指揮で、音楽だけを考えるなら──個人的に、グノーの音楽にとくに親しみはないのですが、それでも──最高の出来の公演の一つに数えられると思いました。とりわけ充実していたのがオーケストラの響きで、すみずみまで生気が通った響きから時に香気が漂うあたり、とくにこの作品に相応しかったのではないでしょうか。プラッソンはすでにかなりの高齢と思いますが、彼の指揮は、時に沸き立つような推進力もオーケストラから引き出していました。歌手をしっかりコントロールして、引き締まった全体の運びを示していたのにも好感が持てます。

歌手たちの歌唱も充実していました。マルグリット役のクラシミラ・ストヤノヴァは、最初の声の出が今ひとつでしたが、どんどん調子を上げてきましたし、メフィストフェレス役のイルダール・アブドラザコフは終始力強さと巧さを示していました。ファウスト役のピョートル・ベザーラは、時に声がひっくり返りそうではらはらしましたが、よく伸びる声で、最後まで説得力ある歌を聴かせていたと思います。少々疑問を感じたのは、ジャン=ロマン・ヴェスペリーニの演出で、全体的に舞台空間、とくに装置の使い方に無駄が多い感じがします。

この《ファウスト》というオペラには、かろうじてゲーテの『ファウスト』の痕跡が残っているファウストとメフィストフェレスの関係以外に、戦争と別離、そして死というテーマがあるように思われますし、またそれは今回の演出でも帰還兵に伴われて登場する棺桶で暗示されていましたが、その扱いがやや装飾的で、テーマを掘り下げるのに結びついていないのにもどかしさを覚えました。とはいえ、演出が音楽を邪魔することはなく、プラッソンの指揮を存分に堪能できたのはよかったです。

《ファウスト》の公演の前には、シャンゼリゼ劇場で、カフェ・ツィンマーマンの演奏会を聴きました。ヴィヴァルディの協奏曲集《調和の霊感》を中心としたプログラムで、この協奏曲集をこれほど楽しんで聴けたのは初めてのことです。「カフェ・ツィンマーマン」の名に相応しいインティメートな雰囲気を醸すアンサンブルの緊密さのなかで、個々の楽器の繊細な音色の変化を生かしていたのが印象に残ります。ヴァイオリンとチェロの独奏がいずれも素晴らしかったです。

3月23日には、妻の希望もあって、チャイコフスキーの《白鳥の湖》の公演を観に行きました、プティパにもとづくヌレエフの新しい振り付けによる舞台は、音楽も含めかなり高水準だったと思います。バレエの身体的表現も、きわめて洗練されたものでした。この日の公演は、新しいエトワールのデビューの舞台だったようで、終演後は大変な盛り上がりでしたが、その雰囲気には正直付いて行けませんでした。

プティ・パレの展示室に置かれていたユーモラスな現代彫刻

プティ・パレの展示室に置かれていたユーモラスな現代彫刻

3月24日には、これまで行ったことのなかった、パリ市立近代美術館プティ・パレの市立美術館を訪れ、その常設展を見ました。いずれも入場無料にもかかわらず、非常に充実した内容のコレクションで、見ごたえがありました。プティ・パレでは、バルカン半島とロシアのイコンのコレクションを興味深く見ました。17世紀オランダの風景画など、古典的な絵画の展示も充実しています。クールベの《プルードンとその家族の肖像》が何気なく架かっていたのには驚きました。古典的な美術と現代美術の対話も試みられていました。

市立近代美術館は、ロベール・ドローネーのコレクションが有名で、もちろんその大きな画面の色彩は素晴らしいのですが、ルオーのコレクションや、キュビスムやシュルレアリスムの動向をまとめた展示室もきわめて重要と思われます。個人的には、モディリアーニ晩年の《碧い眼の女》に心惹かれました。クリスティアン・ボルタンスキーの展示室が閉まっていたのは非常に残念でした。

パリ市立近代美術館の前で

パリ市立近代美術館の前で

滞在の最終日に、ソルボンヌの近くでクスクスの昼食を取っていたら、ジャーマン・ウイングスの飛行機の墜落のニュースが飛び込んできました。150名近い人々──そのなかには素晴らしいヴァーグナー歌手が二人含まれていたそうです──の痛ましい死を前にすると、言葉もありません。操縦室に閉じこもって故意に機体をアルプスの山中に墜落させた副操縦士が、心の病を抱えてきたことが明らかになりつつありますが、彼がこのような行為に及んだのには、LCCの労働条件を含めた複合的な要因が作用していることでしょうし、その問題はけっして他人事ではないと思われます。

IMG_1727今回の旅の合間に、パリのパサージュを少しだけ見ることができたのは嬉しかったです。その写真を二枚掲載しておきます。グラン・ブールヴァール周辺にあるパサージュを、22日の夕方に歩き回ったわけですが、日曜日だったこともあり、多くの店が閉まっていて、全体的に薄暗かったのも、かえって趣と味わいがありました。現存最古のパサージュ・パノラマなど、ショー・ウィンドーが冥府に連なっているかのようです。かつてのモードが異貌を見せるなかに、過去が顔をのぞかせていました。