広島での細川俊夫のオペラ《班女》公演のお知らせなど

59ed522f77a14早いもので、年が明けてからすでに20日が過ぎました。ここ数日は穏やかな気候が続きましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。広島では、Hiroshima Happy New Ear Opera IIIとして開催される細川俊夫さんのオペラ《班女》の公演が一週間後に迫りました。この公演の主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、まずはこの公演をご案内申し上げます。《班女》の公演は、1月27日(土)と28日(日)の二日にわたり、キャストを替えて開催されます。会場は広島市中区のJMSアステールプラザの中ホールで、そこに備え付けられている能舞台を用いて上演が行なわれます。開演は、両日とも14時からで、およそ90分の上演(休憩はありません)の後にはトークも行なわれます。

広島で細川さんの《班女》が上演されるのは二度目です。2012年に行なわれたHiroshima Happy New Ear Opera Iの公演で取り上げられたのがこの作品で、その際には、先日パリで初演された細川さんの室内オペラ《二人静》の原作と演出を手がけた平田オリザさんによる演出でした。今回の公演で演出を受け持つのは、全国各地で一人ひとりの登場人物を音楽とともに力強く生かすオペラの舞台を作り上げている岩田達宗さんです。昨年のひろしまオペラルネッサンスの公演でもモーツァルトの《コジ・ファン・トゥッテ》の素晴らしい舞台を届けてくれた岩田さんが、能に特有の身体性と原作の「近代能」としての特性を生かしながら、どのような現代人のドラマを提示するか、大いに期待されます。

59ed522fc9530指揮を受け持つのは、2012年の《班女》以来、オペラをはじめ細川さんの作品の数々を手がけてきた川瀬賢太郎さん。いっそう深まった解釈によって、夢想と現実が交錯するこのオペラの音楽の美質を研ぎ澄まして届けてくれるにちがいありません。歌手には、前回のプロダクションでも素晴らしい歌を聴かせてくれた半田美和子さんと藤井美雪さんに、2015年の《リアの物語》の公演で活躍した柳清美さん、折河宏治さん、山岸玲音さん、それに2014年のひろしまオペラルネッサンスの公演で素晴らしいカルメンを聴かせてくれた福原寿美枝さんが加わります。キャストの異なる二公演を比べるのも一興でしょう。最近進境著しい広島交響楽団のメンバーによるアンサンブルが加わるのも魅力的です。

三島由紀夫が世阿弥の「班女」を翻案して『近代能楽集』に収めた能を原作とし、ドナルド・キーンによるその英訳をリブレットに用いた細川さんのオペラ《班女》の音楽は、夢想と現実を往還しながら、人が「狂気」と呼ぶ心境のうちにある深い憧れと鋭い洞察を、書の線を描く歌によって響かせるとともに、夢想と現実の相克を抉り出します。2018年の広島での公演では、その現代のオペラとしての新たな魅力が能舞台の上に照らし出されるに違いありません。この能舞台を使っての稽古も重ねられて、準備にもいっそう熱が入っています。お見逃しのないよう、お誘い合わせのうえお越しください。広島県内はもとより、九州、そして関西や関東からも日帰りで、あるいは旬の広島の牡蠣を楽しむことを込みにした小旅行を兼ねてお越しいただけることでしょう。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。なお、今回の《班女》の公演のプログラムにも、作品解説の小文を寄稿させていただきました。

能とオペラちらし(アトレ会員用)さて、2月の16日から18日にかけては、今度は新国立劇場で細川さんのオペラ《松風》の日本初演が行なわれるわけですが、1月10日にはそのプレ・イヴェントとして国立能楽堂で開催された座談会「能とオペラ──『松風』をめぐって」に参加しました。前半には、能の「松風」より「汐汲みの段」と「狂乱の段」が舞囃子形式で上演され、後半には、これらの場面に対応するオペラ《松風》の上演記録映像の上映と、能とオペラ双方の「松風」をめぐる座談が行なわれました。その座談の末席に加わらせていただき、多くの刺激を受けました。前半では、銕仙会主宰の観世銕之丞さんの見事な謡と舞、そして法政大学能楽研究所の宮本圭造さんの解説によって、世阿弥の「松風」において謡うことと謡われる言葉、そして身体的表現が緊密に組み合わさっていることがよく伝わってきました。

また、能の上演を見た後でオペラの《松風》の上演映像を見ることで、細川さんとサシャ・ヴァルツさんが、謡うことと舞うことの結びつきを、独自のアプローチで現代のオペラに生かしていることも、あらためて考えさせられました。座談のなかで細川さんが、歌うことにおける遠く隔たった他者、ないしは死者との交感の可能性に触れておられたことと、どのような演出にも耐える強度に貫かれた音楽を書くという、オペラにおける作曲家の使命を語っておられたことは、噛みしめておかなければと思います。それから、オペラと能の双方を現代の芸術として生かし続けるためには、一見「わからない」ものに敢えて飛び込んで、それを自分のなかで深めていけるような若い人々を育てることと、そのような人々が集う場を作ることの双方が必要であることも、座談のなかで議論されました。議論の概要とダイジェスト版の映像は、すでに新国立劇場のウェブサイトの「公演関連ニュース」にて紹介されております。

今月は、この他にも座談の場に加わる機会が二度ありました。1月13日には、カフェ・テアトロ・アビエルトで佐藤零郎監督の新作映画『月夜釜合戦』をめぐる座談に、行友太郎さん、崔真碩さん、森元斎さんとともに参加しました。この日アビエルトでは、毎年『山谷(やま)やられたらやりかえせ』の上映会が開催されています。この映画の共同監督の一人山岡強一の命日に因んで行なわれるものです。すでにこの上映会で三度『山谷』は見ていますが、見るたびに今と結びつけて新たに考えさせられるものがあります。その問題は、年を追うごとに深刻なものになってきている気もします。

0113今年の上映会では、この『山谷』に加えて『月夜釜合戦』が上映されたわけです。山谷とともに代表的な寄せ場として知られる大阪の釜ヶ崎を舞台にした「釜」をめぐる騒動を通して、そこに生きるさまざまな人々のしたたかにして愛すべき生きざまを、ジェントリフィケーションが進む以前のこの街への哀惜も込めて鋭く浮き彫りにするこの劇映画は、痛快ななかに込み上げてくるものがある作品でした。『山谷、やられたらやりかえせ』と併せて見ることで、『月夜釜合戦』が、この映画の呼びかけにドラマをもって応えているところがよく伝わってきました。手つきをはじめとする身振りへの着目は、これらの作品に通底するところでしょう。歴史の流れを食い止めるような強度を持った人間の身体の躍動を、釜ヶ崎での生活のなかに浮き彫りにするこの作品が、広島で劇場公開されるのが待ち遠しいところです。

Komori&Seo_Postcard1月16日(火)には、Social Book Cafe ハチドリ舎で、広島市現代美術館で開催中の小森はるか+瀬尾夏美「波のした、土のうえ」巡回展のスピンオフ企画のトーク・セッションに、進行役として参加しました。ナイトトーク「仙台から/広島から」と題して開催される今回のセッションには、小森さん、瀬尾さんの他、同じく現代美術館で開催されている特別展「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」に興味深い作品を出品されている平野薫さんが座談に加わりました。ともにある場所に生きることのうちに、あるいはそのなかで着古された服に沈澱した記憶の痕跡を辿り、みずからを繰り広げるようにその記憶を解きほぐしていくような創作に取り組まれているアーティストたちの人と人の関係のなかでの活動について、とても刺激的なお話を聴くことができました。

現代美術館での「波のした、土のうえ」巡回展も非常に興味深いです。二人で陸前高田市を訪れたことをきっかけに結成された小森さんと瀬尾さんの「アート・ユニット」が、詩、絵画、ヴィデオ・アートなどいくつものメディアを駆使して、路地や浜辺などで聴き取った被災地に生きる、あるいは生きていた人々の物語を、さらにはその風景を細やかに描き取った作品や、現在進行形の記録などが展示されています。特別展「交わるいと」と併せてぜひご覧ください。ここでご紹介したような、芸術を通してこの世界に、この時代に、死者のことを忘れることなく生き延びることを、さらにはその自由を考える場で、今年もみなさまとご一緒できることを願っております。日曜から週明けにかけて、強い低気圧が日本列島を通過して天気が荒れるとも聞いております。お身体にお気をつけてお過ごしください。

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出来事の生成の哲学、あるいは生きられるアナキズム

[森元斎『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社、2015年)によせて]

41qyoMxBevL._SX345_BO1,204,203,200_19世紀末から20世紀初頭にかけての哲学は、17世紀の哲学と同様に、自然科学の革命的な発見が世界像を根底から揺さぶるのに応えるという課題を背負わざるをえなかった。アーレントは、デカルトの哲学よりもガリレオの発見のほうが世界を変えたと語っているが、その衝撃を受け止めようとする17世紀の哲学は、世界の法則的認識に結びつく知の地平としての意識の働きに、人間の生の根拠を置いた。これに対して、デカルトとスピノザの時代からおよそ二世紀を経た時期の哲学は、例えばアインシュタインの相対性理論の衝撃を受け止めながら、知をもって自然の組成を人間の手で人間のために作り変える「科学技術」に結びつく意識の手前にある次元へ遡って、生きること自体を捉え直そうとしている。この次元にベルクソンは、生ある者が自己自身を不断に創造する生の躍動を見て取ったわけだが、その洞察のうちには同時に、この200年間の「進歩」に対する反省も込められているかもしれない。

ベルクソンと同時代を生きたホワイトヘッドは、自然を、けっして知の対象に還元することなく、あくまで生成の相において──しかも、まさにそのことによってアインシュタイン以後の物理学的な知にも開かれたかたちで──生涯にわたって考察し続けた。自然は、一つの出来事として経験され、そのとき時空間が開かれるかたちで一つの実在するものが立ち現われてくる。そこにある不断の移行の動きが、法則的にも認識されうるのだ。この過程が、すなわち一つの出来事を形づくる自然の蠢きが、世界の具体性をなしており、人も事物もこの具体性を生きている。森元斎の『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』の前半は、ホワイトヘッドが自然の生成のプロセスと結びついた具体性の次元を、実人生を賭けて、ベルクソンをはじめとする同時代人の思想との対決をつうじて省察していることを示している。著者によれば、ホワイトヘッドの自然哲学は、苛酷ですらあった彼自身の「経験の雫」なのである。

『具体性の哲学』の前半部においてはホワイトヘッドの哲学が、さらにライプニッツとドゥルーズの哲学との布置において検討されるが、そのことによって世界の具体性が、ドゥルーズがライプニッツのモナドのうちに読み込んだ、世界の、いや世界そのものの動的なヴィジョンとして生きられることが浮き彫りにされる。このとき、まさにモナドの概念が示すように、多から一が生成するわけだが、このとき一つの出来事が──この点ではライプニッツに反して──自己完結することはない。出来事自体は絶えず自然の生成過程のうちにあり、そのなかでつねに新たな要素を取り込みながら生長していくことをホワイトヘッドは洞察していたという。このことは例えば、一つの歴史的にも語られてきた出来事が、他の出来事と結びつきながら絶えず新たに捉え直されることなどとも関連づけられうるかもしれない。ただし著者によれば、そのようにして個々の出来事が実在することは、「抱握」の働きなしにはありえない。

「抱握」なしに世界の具体性はありえない。本書の議論において注目されるべきは、生長を伴った出来事、さらには「森羅万象」の媒体とも言うべき働きを表わすホワイトヘッドの「抱握」の概念が掘り下げられ、そこから近代の人間中心主義を乗り越える世界変革の思想が抽出されていることである。「抱握」において、人間も事物も森羅万象の一契機として、さらに言えばおのずから出来事として生成してくる。そのことに先立つこれらの本質は存在しない。むしろ「抱握」の働きのなかで、人間と事物は相互に結びつきながら絶えず新たに生まれ変わるのであり、このことが世界の具体性をなしている。いや、このときそれぞれ実在する生きものたちは、誕生しながら世界を「抱握」しているのであり、このことが最初に、そして具体性において世界を形成しているのだ。著者によれば、こうして生きものが世界そのものを変成させ、変革する主体へと生まれ変わる可能性を、自然がまさに自然として生成すること自体のうちに開いているのが、ホワイトヘッドの哲学の最も重要な知恵、すなわち「経験の雫」の一つなのである。

出来事が「抱握」されること、それが世界を具体性において開く。このことはホワイトヘッドにとっては当然ながら、世界の組成を法則的に認識することにも開かれているが、著者によると、出来事の「抱握」の始まりにあるのは、むしろ美的な「感得」である。そのことをホワイトヘッドの詩論の解釈をつうじて示す本書の後半部の議論は、彼の哲学を論じる文脈を広げるものでもあろう。例えば、第一次世界大戦中にベンヤミンは、意識の働きに先立って色彩がその野生の光彩において立ち現われてくる媒体としての「想像」を論じ、これを芸術の源泉に位置づけている。こうした初期の美学が、後に「複製技術時代の芸術作品」などで展開される、知覚経験の歴史的な変容を踏まえつつ世界の変革を志向する美学に結びつくわけだが、両者を貫く「知覚の学」は、ホワイトヘッドの「抱握」の美学とも通底していよう。ベンヤミンもホワイトヘッドも、出来事を具体的な生成において生きる次元を意識の底に見通しながら、そこから、ないしはそれにもとづく新たな美的経験から、芸術と技術の双方を捉え直そうとしていたのではないだろうか。

このようにホワイトヘッドの「抱握」概念を美的な「感得」から捉え返すとき、それはベルクソンが語り続けた「直観」と再び結びつく。そして、この地点において大杉栄がベルクソンのうちに「生の拡充」の可能性を見て取ろうとしていたことを想起するなら、アナキズムをその具体性において掘り下げる地平が開けるという。このことを指摘する最終部の議論は、本書の魅力をなすとともに、著者の今後の思考の展開を期待させる。アナキズムは、主権の否定といった抽象的かつ否定的な理念としてではなく、具体的な肯定性において生きられなければならない。そして、この生きられるアナキズムは、無籍者であることを貫いて最終的に自死を選んだ、金子ふみ子の「自分自身の体験から生まれた」思想と生きざまから読み取ることができる。天皇制をラディカルに否定し、ホワイトヘッドが「対象的不滅性」と呼んだ次元における魂の存続を信じた金子が身をもって示した、「戸籍」のようなものに寄りかかることなく、遭遇するもの物事を受け止めながら変成していく起源なき生が相互に結びつくとき、アナキズムが生きる可能性として具体化していくにちがいない。著者が洞察しているのは、その胎動が具体性を生きること自体のうちにあることにほかならない。

[本稿は、2016年3月20日に広島市留学生会館で開催された中国文芸研究会における森元斎『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』合評会にて発表された。]