細川俊夫のオペラ《松風》の日本初演について

スキャン厳しい寒さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。ここ広島でも朝晩は氷点下の日が続いていますが、このようなことは初めてです。北陸から北日本にかけては、ここ数日大変な大雪が降って、すでにさまざまな被害が出ていると聞きます。心よりお見舞い申し上げます。それにしても早いもので、すでに二月も中旬にさしかかっています。新国立劇場で行なわれる細川俊夫さんオペラ《松風》の日本初演が一週間後に迫りました。《松風》の公演は、2月16日(金)、17日(土)、18日(日)の三日間、新国立劇場オペラパレスにて開催されます。16日が19:00開演で、17日と18日が15:00開演です。この公演について、私からもいくつかお伝えしておきます。

今回の《松風》の公演の舞台は、2011年5月に行なわれたブリュッセルでの世界初演と同じ、舞踊家にして振り付け師であるサシャ・ヴァルツさんの演出と振り付けによるものです。ブリュッセル、ワルシャワ、ルクセンブルク、ベルリン、リールで上演が繰り返され、一昨年の秋には香港でも上演されたこの舞台が、7年近くの時を経て東京で披露されることになります。海に象徴される自然と魂の内的な共鳴を響かせる細川さんの音楽、歌手や合唱も一体となったサシャ・ヴァルツ&カンパニーの身体表現、そして塩田千春さんのインスタレーションが緊密に結びついたプロダクションは、《松風》というオペラの原型を示すものでしょう。そもそもこのオペラ自体、ヴァルツさんと細川さんの邂逅と緊密な交流のなかから生まれた作品と言えます。

スキャン 1このオペラにおいては、世阿弥の「松風」を題材としながら、その要素を新たなオペラの形式原理に昇華させることによって、ニーチェの顰みに倣うなら、能の精神からのオペラの姿が、先日広島で上演された前作の《班女》よりさらに深化されています。とくに死者の魂が地上に降り立ってその苦悩を歌い、舞うなかで他者の魂と結びいて浄化されるという垂直性を含んだ過程が、時間的な音楽の展開と空間的な身体の動きが緊密に結びついたかたちで、かつ彼岸と此岸の橋渡しを含んだ仕方で表現されることは、《松風》の際立った特徴の一つと考えられます。このことが、オペラそのものの新たな地平を切り開いたことは、初演のプロダクションのヨーロッパ、そして香港での成功が物語るとおりです。「松風」という能を、東洋に生まれた者ならではの感性と現代の音楽の思考をもって内奥から摑むことから生まれた新たなオペラを、ついに東京で経験できるのです。そのことが、日本列島からの新たな創造の契機になってほしいものです。

《松風》というオペラは、2011年3月11日に起きた東日本大震災と、それに続く福島第一原子力発電所の事故によって動揺した後の世界に送り出されました。死者の嘆きが、あるいは死者を内に抱えることの苦悩が、松風と村雨の歌に象徴されるように心の底から語り出されるとともに、二人の魂に遭遇する旅の僧の存在が示すように、それを受け止める者がいるということの重要性は、震災以後ますます高まっていると思われます。そのことを噛みしめる意味でも、《松風》が日本で上演されることには大きな意義があるのではないでしょうか。音楽の愛好家、オペラや現代舞踊の愛好家のみならず、多くの人が《松風》の上演を体験されることを、心から願っております。新国立劇場のWebボックスオフィスによりますと、初日の16日と楽日の18日の公演には、まだ少し席に空きがあるようです。

今回の《松風》の公演に出演する歌手にも期待されます。松風と村雨の役を歌うイルゼ・エーレンスさんとシャルロッテ・ヘッレカントさんは、サシャ・ヴァルツの演出によるプロダクションですでに歌ったことのある歌手ですし、私も二人の声を一度聴いています。なかでも昨年武生国際音楽祭で聴いたエーレンスさんの澄みきっていながら芯のある声は、鮮烈な印象を残しました。松風の役にぴったりの歌手と言えるでしょう。この二人の歌手も一体となった、サシャ・ヴァルツ&カンパニーの舞踊もさることながら、その場を織りなす塩田千春さんの舞台美術も魅力的です。現在、塩田さんの新作展も、東京のケンジタキギャラリーにて開催されているとのことです。美術も含めて、初演に続くベルリンでの2011年夏の公演以来、ほぼ7年ぶりに《松風》の舞台に接することができるのを、心から楽しみにしているところです。

このように魅力的な新国立劇場の《松風》の公演を、はなはだ微力ながら少しお手伝いさせていただいてることを、身に余る光栄と感じております。すでに1月10日には、公演のプレ・イヴェントとして国立能楽堂で開催された座談会「能とオペラ──『松風』をめぐって」の末席に加わらせていただきました。2月17日(土)の公演の終演後には、細川俊夫さんとサシャ・ヴァルツさんをお迎えしてのアフター・トークも計画されておりまして、その聞き手役を仰せつかっております。《松風》日本初演の手応えとともに、作品の成立過程や特徴などについてお話をうかがえればと考えて準備を進めております。なお、このトークには、16日か18日のチケット(半券)でも入場できるとのことです。それから、公演プログラムには、オペラ《松風》を一つの結節点とする細川俊夫さんの音楽の歩みを綴ったエッセイを寄稿させていただきました。公演へお越しの際にご笑覧いただけたら幸いです。

広島での細川俊夫のオペラ《班女》公演のお知らせなど

59ed522f77a14早いもので、年が明けてからすでに20日が過ぎました。ここ数日は穏やかな気候が続きましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。広島では、Hiroshima Happy New Ear Opera IIIとして開催される細川俊夫さんのオペラ《班女》の公演が一週間後に迫りました。この公演の主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、まずはこの公演をご案内申し上げます。《班女》の公演は、1月27日(土)と28日(日)の二日にわたり、キャストを替えて開催されます。会場は広島市中区のJMSアステールプラザの中ホールで、そこに備え付けられている能舞台を用いて上演が行なわれます。開演は、両日とも14時からで、およそ90分の上演(休憩はありません)の後にはトークも行なわれます。

広島で細川さんの《班女》が上演されるのは二度目です。2012年に行なわれたHiroshima Happy New Ear Opera Iの公演で取り上げられたのがこの作品で、その際には、先日パリで初演された細川さんの室内オペラ《二人静》の原作と演出を手がけた平田オリザさんによる演出でした。今回の公演で演出を受け持つのは、全国各地で一人ひとりの登場人物を音楽とともに力強く生かすオペラの舞台を作り上げている岩田達宗さんです。昨年のひろしまオペラルネッサンスの公演でもモーツァルトの《コジ・ファン・トゥッテ》の素晴らしい舞台を届けてくれた岩田さんが、能に特有の身体性と原作の「近代能」としての特性を生かしながら、どのような現代人のドラマを提示するか、大いに期待されます。

59ed522fc9530指揮を受け持つのは、2012年の《班女》以来、オペラをはじめ細川さんの作品の数々を手がけてきた川瀬賢太郎さん。いっそう深まった解釈によって、夢想と現実が交錯するこのオペラの音楽の美質を研ぎ澄まして届けてくれるにちがいありません。歌手には、前回のプロダクションでも素晴らしい歌を聴かせてくれた半田美和子さんと藤井美雪さんに、2015年の《リアの物語》の公演で活躍した柳清美さん、折河宏治さん、山岸玲音さん、それに2014年のひろしまオペラルネッサンスの公演で素晴らしいカルメンを聴かせてくれた福原寿美枝さんが加わります。キャストの異なる二公演を比べるのも一興でしょう。最近進境著しい広島交響楽団のメンバーによるアンサンブルが加わるのも魅力的です。

三島由紀夫が世阿弥の「班女」を翻案して『近代能楽集』に収めた能を原作とし、ドナルド・キーンによるその英訳をリブレットに用いた細川さんのオペラ《班女》の音楽は、夢想と現実を往還しながら、人が「狂気」と呼ぶ心境のうちにある深い憧れと鋭い洞察を、書の線を描く歌によって響かせるとともに、夢想と現実の相克を抉り出します。2018年の広島での公演では、その現代のオペラとしての新たな魅力が能舞台の上に照らし出されるに違いありません。この能舞台を使っての稽古も重ねられて、準備にもいっそう熱が入っています。お見逃しのないよう、お誘い合わせのうえお越しください。広島県内はもとより、九州、そして関西や関東からも日帰りで、あるいは旬の広島の牡蠣を楽しむことを込みにした小旅行を兼ねてお越しいただけることでしょう。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。なお、今回の《班女》の公演のプログラムにも、作品解説の小文を寄稿させていただきました。

能とオペラちらし(アトレ会員用)さて、2月の16日から18日にかけては、今度は新国立劇場で細川さんのオペラ《松風》の日本初演が行なわれるわけですが、1月10日にはそのプレ・イヴェントとして国立能楽堂で開催された座談会「能とオペラ──『松風』をめぐって」に参加しました。前半には、能の「松風」より「汐汲みの段」と「狂乱の段」が舞囃子形式で上演され、後半には、これらの場面に対応するオペラ《松風》の上演記録映像の上映と、能とオペラ双方の「松風」をめぐる座談が行なわれました。その座談の末席に加わらせていただき、多くの刺激を受けました。前半では、銕仙会主宰の観世銕之丞さんの見事な謡と舞、そして法政大学能楽研究所の宮本圭造さんの解説によって、世阿弥の「松風」において謡うことと謡われる言葉、そして身体的表現が緊密に組み合わさっていることがよく伝わってきました。

また、能の上演を見た後でオペラの《松風》の上演映像を見ることで、細川さんとサシャ・ヴァルツさんが、謡うことと舞うことの結びつきを、独自のアプローチで現代のオペラに生かしていることも、あらためて考えさせられました。座談のなかで細川さんが、歌うことにおける遠く隔たった他者、ないしは死者との交感の可能性に触れておられたことと、どのような演出にも耐える強度に貫かれた音楽を書くという、オペラにおける作曲家の使命を語っておられたことは、噛みしめておかなければと思います。それから、オペラと能の双方を現代の芸術として生かし続けるためには、一見「わからない」ものに敢えて飛び込んで、それを自分のなかで深めていけるような若い人々を育てることと、そのような人々が集う場を作ることの双方が必要であることも、座談のなかで議論されました。議論の概要とダイジェスト版の映像は、すでに新国立劇場のウェブサイトの「公演関連ニュース」にて紹介されております。

今月は、この他にも座談の場に加わる機会が二度ありました。1月13日には、カフェ・テアトロ・アビエルトで佐藤零郎監督の新作映画『月夜釜合戦』をめぐる座談に、行友太郎さん、崔真碩さん、森元斎さんとともに参加しました。この日アビエルトでは、毎年『山谷(やま)やられたらやりかえせ』の上映会が開催されています。この映画の共同監督の一人山岡強一の命日に因んで行なわれるものです。すでにこの上映会で三度『山谷』は見ていますが、見るたびに今と結びつけて新たに考えさせられるものがあります。その問題は、年を追うごとに深刻なものになってきている気もします。

0113今年の上映会では、この『山谷』に加えて『月夜釜合戦』が上映されたわけです。山谷とともに代表的な寄せ場として知られる大阪の釜ヶ崎を舞台にした「釜」をめぐる騒動を通して、そこに生きるさまざまな人々のしたたかにして愛すべき生きざまを、ジェントリフィケーションが進む以前のこの街への哀惜も込めて鋭く浮き彫りにするこの劇映画は、痛快ななかに込み上げてくるものがある作品でした。『山谷、やられたらやりかえせ』と併せて見ることで、『月夜釜合戦』が、この映画の呼びかけにドラマをもって応えているところがよく伝わってきました。手つきをはじめとする身振りへの着目は、これらの作品に通底するところでしょう。歴史の流れを食い止めるような強度を持った人間の身体の躍動を、釜ヶ崎での生活のなかに浮き彫りにするこの作品が、広島で劇場公開されるのが待ち遠しいところです。

Komori&Seo_Postcard1月16日(火)には、Social Book Cafe ハチドリ舎で、広島市現代美術館で開催中の小森はるか+瀬尾夏美「波のした、土のうえ」巡回展のスピンオフ企画のトーク・セッションに、進行役として参加しました。ナイトトーク「仙台から/広島から」と題して開催される今回のセッションには、小森さん、瀬尾さんの他、同じく現代美術館で開催されている特別展「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」に興味深い作品を出品されている平野薫さんが座談に加わりました。ともにある場所に生きることのうちに、あるいはそのなかで着古された服に沈澱した記憶の痕跡を辿り、みずからを繰り広げるようにその記憶を解きほぐしていくような創作に取り組まれているアーティストたちの人と人の関係のなかでの活動について、とても刺激的なお話を聴くことができました。

現代美術館での「波のした、土のうえ」巡回展も非常に興味深いです。二人で陸前高田市を訪れたことをきっかけに結成された小森さんと瀬尾さんの「アート・ユニット」が、詩、絵画、ヴィデオ・アートなどいくつものメディアを駆使して、路地や浜辺などで聴き取った被災地に生きる、あるいは生きていた人々の物語を、さらにはその風景を細やかに描き取った作品や、現在進行形の記録などが展示されています。特別展「交わるいと」と併せてぜひご覧ください。ここでご紹介したような、芸術を通してこの世界に、この時代に、死者のことを忘れることなく生き延びることを、さらにはその自由を考える場で、今年もみなさまとご一緒できることを願っております。日曜から週明けにかけて、強い低気圧が日本列島を通過して天気が荒れるとも聞いております。お身体にお気をつけてお過ごしください。

新国立劇場でのヤナーチェク《イェヌーファ》の公演を観て

image.php2月28日に、研究会への出張から広島へ帰る前に新国立劇場で、ヤナーチェクのオペラ《イェヌーファ》の初日の公演を観ました。《イェヌーファ》は一度、2004/05年のシーズンにベルリンのコーミッシェ・オーパーで観ていますが、その際の歌唱はドイツ語でしたので、オリジナルのチェコ語で歌われる公演を観るのは初めてということになります。今回の公演では、何よりもヤナーチェクの音楽の強さに心を動かされました。彼の音楽が、影を帯びながら忍び寄るような響きから、人を打ちのめすかのように激しく高揚する響きに至るまで、魂の最も繊細でかつ無力な部分に迫り、そこにある動揺を最大限の振幅をもって抉り出していることが、トマーシュ・ハヌスの指揮による演奏によってあらためて伝わってきました。とりわけ聴く者の肺腑を抉るような沈黙の強さが印象に残ります。

ハヌスという指揮者は、2014年の11月にミュンヘンで同じヤナーチェクの《マクロプロス事件》の公演を観たときにも、素晴らしい演奏を聴かせていた記憶があります。彼の指揮に応える東京交響楽団の演奏も、有機的な響きによる間然することのないもので、幕を追うごとに響きの奥行きが増していったのも舞台に相応しく思われました。クリストフ・ロイによる演出は、けっして奇をてらうことなく、静けさに貫かれた舞台のなかで、細かな所作や距離感のなかにそれぞれの人物の複雑な心情を浮き彫りにしようとするものと見受けられましたが、これもヤナーチェクの音楽を生かしていたと思われます。ほとんどつねに非常に低い天井の室内でドラマが進行しますが、そのことが登場人物に絶えず重くのしかかるものを暗示し続けていました。

それによって、ある閉じた共同体の内部に生きてきたイェヌーファの養母コステルニチカの葛藤と動揺がとくに際立ってきますが、そのような演出に応えて、ジェニファー・ラーモアが非常に工夫された、繊細な歌唱を聴かせていたのに感銘を受けました。それによって、《イェヌーファ》というオペラの焦点の一つと言えるコステルニチカによる乳児殺しのドラマが、さらにはそこにある死の観念の憑依が、迫真性を帯びていました。もちろん、イェヌーファの役を歌ったミミャエラ・カウネの歌唱も申し分のないものでしたが、コステルニチカ役のラーモア、そしてブリヤ家の女主人の役を歌ったハンナ・シュヴァルツの襞を感じさせる歌唱に、ヤナーチェクに相応しいものを感じます。ラツァ役を歌ったヴィル・ハルトマンも、この若い男の一途さを強い声で見事に表現していたのではないでしょうか。ラツァとイェヌーファが、心身に傷を抱えながらもともに新たな人生を歩もうと決意するに至る二重唱は、実に感動的でした。

《イェヌーファ》の主要な登場人物を貫く動揺や葛藤は、閉鎖的な共同体の差別を含んだ因習、さらにはそれがもたらす名誉の観念を抱え込んでしまうことに起因しています。そのことは各人が、すでに因習を内面化しきった共同体の人々の眼差しに曝されたり、あるいはそれとぶつかったりするなかで生じるわけですが、今回の舞台では、こうした場面はそれほど強くは表現されていなかったのではないでしょうか。とくに集団のあまりにも人間的で過剰な演技が、そうした印象を喚起したかもしれません。個人的には、村の人々がどのように共同体に属しているのかも、ある種の冷たさとともに表現されてもよかったのでは、と思います。

とはいえ、全体として今回の《イェヌーファ》の公演は、ヤナーチェクの音楽の強度が、歌手の歌唱によって、またオーケストラの演奏によって舞台上に最大限に引き出された、とても完成度の高いものだったと考えられます。ただし、そのことを手放しで喜ぶことはできません。今回の《イェヌーファ》のプロダクションを、新国立劇場はみずからの「新制作」と称していますが、それは実際には、舞台装置も、主要な歌手のアンサンブルも、そして演出も、ベルリン・ドイツ・オペラですでに出来上がっていたプロダクションです。これが新国立劇場という場所で舞台に掛けられているのを前にしては、それにいったいどれほどの意味があるのか、そのことによってこの劇場は、どのようにオペラを作ろうとしているのか、さらには日本におけるオペラの将来をどのように考えているのか、といった問いを立てざるをえないわけですが、これらの問いを前にしては暗然とせざるをえないところもあります。