広島へ/Nach Hiroshima

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役所からの帰り道に見た現役のトラバント

ここ数日ベルリンでは、この冬では比較的寒い日々が続いています。日中でも気温が氷点下二、三度で、空はどんよりと曇っています。あらためてドイツで冬を過ごしていることを実感させる気候ですが、そのようななかで、ベルリンの住居を引き払い、広島へ帰るための準備を進めていました。寒さのなかを半時間ほど歩いて、地区の役所の支所へ住民登録解除の手続きに行ったり、荷物をまとめたりしていたところです。何と言っても、研究のために買いためた本を箱詰めして送り出す作業が難儀でした。昨年四月からの勤務先の大学の学外長期研修制度によるベルリンでの研究滞在を終えて、広島へ帰ります。あっという間に過ぎた十か月でした。

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桜の時季に滞在が始まりました。

滞在期間は、ベルリン自由大学の哲学科のジュビレ・クレーマー教授にお世話になりながら研究を進めました。おかげで、人文学に関する文献が豊富に揃ったこの大学の文献学図書館をほぼ毎日利用できましたし、またクレーマー教授のコロキウムで研究の中間的な成果を発表してフィードバックを得ることもできました。初めの頃には、ベルリン芸術アカデミーのヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフにも、文献のことをはじめ何かとお世話になりました。ベルリンでの研究環境は、ほぼ申し分なかったと言えるでしょう。ただ、それを生かしきれたかと自問すると、やはり忸怩たるものが残ります。もう少し文献を読めたはずだという思いを拭えません。

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初夏から夏にかけては多くの果物を味わいました。写真は市場で見た巨大な西瓜。

ベルリンでは〈残余からの歴史〉の概念を、ヴァルター・ベンヤミンの歴史への問いを引き継ぎながら、哲学的かつ美学的に探究する研究に取り組んでいました。そのためには、当然ながらベンヤミン自身の問題意識をいっそう掘り下げなければなりません。滞在期間の前半は、彼の遺稿「歴史の概念について」の批判版のテクストと、それに関連した二次文献を読み、あらためて彼の歴史哲学とは何か、という問題に取り組んでいました。また、歴史と芸術の接点を探りつつ美学的な問題意識を深めるためには、ベンヤミンの『ドイツ悲哀劇の根源』が重要であると感じましたので、滞在期間の後半には、そのテクストとこれに関連した文献を繙読しておりました。

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秋のリリエンタール公園

本来ならば、ある程度雑事から解放されている研究滞在の期間にこそ、基礎的な文献をもっと多く読んでおかなければならないのでしょうが、さまざまなことに追われて、思うようには読めなかったというのが正直なところです。とはいえ、ベンヤミンの著作にある程度時間をかけて取り組むなかで、彼の思考への見通しを、微かながら得ることができました。帰国後に少し落ち着いたら、これを何らかのかたちで提示することへ向けた仕事にも取り組まなければと思います。それから、すでに昨年のクロニクルに記しましたように、中國新聞のコラム「緑地帯」などへの寄稿をつうじて、研究に取り組みながら、あるいはベルリンに滞在しながら考えたことを広くお伝えする機会に恵まれたのは幸いでした。

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冬景色

なかでも、昨夏に雑誌『現代思想』の「〈広島〉の思想──いくつもの戦後史」特集に、「そこに歴史はない──ベルリンからグラウンド・ゼロとしての広島を思う」と題する拙論を寄稿させていただいたことは、現在の問題意識を明確にする契機となりました。そこに一端を描いた、ベルリンと広島を大西洋と太平洋を越えて結び、今も続いている「核の普遍史」とも言うべき歴史には、広島から、あるいは広島を思うなかから立ち向かわなければならないでしょう。そして、生存そのものを脅かすこの「普遍史」に抗いつつ、今ここに死者の魂とともに生きる余地を探る営為のうちに、〈残余からの歴史〉を位置づけたいと考えているところです。

過酷な歴史的過程の残滓であるとともに、「歴史」によって抑圧されながらも残り続けている残余としての記憶から、ないしはその消えつつある痕跡から、一つひとつの出来事を想起し、一人ひとりの死者に思いを馳せると同時に、「歴史」とされてきた物語を総体として問いただすところにあるもう一つの歴史、この〈残余からの歴史〉。ベンヤミンの言葉を借りるならば「瓦礫を縫う道」としてのその方法を、さらに彼の思想の研究を深めながら、また広島で原民喜などの作品を読みながら、あるいは歴史学との対話をつうじて探究しなければと考えています。記憶殺しと歴史の骨抜きがとくに日本で進行するなかで、歴史とは何かという問いにはもう少しこだわってみたいと思います。

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フィルハーモニーとともに、コンツェルトハウスへも何度も足を運びました。

ところで、今回の研究滞在中には、細川俊夫さんの『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』の日本語版が、関係者のご尽力により、アルテスパブリッシングより拙訳にて刊行されました。世界的な作曲家の「対話による自伝」とも言うべき本書を、細川さんが最初に留学したベルリンに滞在しているあいだに世に送ることができたのには、巡り合わせのようなものを感じます。そこで細川さんが、ご自身の作曲活動の軌跡とともに語っておられる、音楽の核心にあるものは、これからさらに深めていかなければと考えています。ベルリンでは、かなりの数の演奏会やオペラなどの公演に足を運びました。熱気に包まれた会場で音楽に耳を傾け、舞台に目を凝らしながら、音楽とは何か、オペラの上演は今どのようにありうるか、という問いがいつも脳裡に浮かんでいました。そうして考えたことも、広島で音楽に関わる仕事に生かしていきたいと思います。

それから、滞在期間にベルリンからヨーロッパ各地へ何度か出かけられたのも、忘れられないことの一つです。なかでも大規模なパウル・クレー展が行なわれていたパリへの旅、ベンヤミンが自死を遂げたポルボウへの旅、そして最近のベルンとチューリヒへの旅からは、今後の研究にとってきわめて重要な経験を得ることができました。それによって、ベンヤミンの思考の軌跡をいっそう広い歴史的文脈に位置づける視野が開けたと感じています。また、ハノーファーとハンブルクでは、広島とドイツを結ぶ非常に興味深い試みにも接することができました。これらの旅をつうじて得られた刺激や人間関係も、今後の研究と教育に生かしていかなければなりません。

今回は家族とともにベルリンに滞在しました。娘が公立の小学校に通ったので、それに関わる細々としたことに時間を取られることも多かったのですが、娘の担任の教師やクラスメイトの親など、おそらく単身での滞在では出会うことのない人々とめぐり逢うことができたのもよい経験でした。娘は友達に恵まれ、何人か親友もできました。近いうちに親友との再会の機会を設けなければと思います。また、住まいの家主がとても親切だったのにも助けられました。こうした人々がいたおかげで、温かい日常を過ごすことができたと思います。ベルリンで出会った、あるいは再会した友人たちにも、さまざまな場面で助けられました。心から感謝しています。

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ちょうどベルリン映画祭の準備が本格化しています。

滞在期間には、昨年の12月に起きたトラックによる無差別殺傷事件のように衝撃的な出来事も起きましたが、この事件の後のベルリンの人々の落ち着いた生活ぶりには、多くを学ばされました。現在、世界を不安が覆うなか、憎悪が人々のあいだを引き裂いているのは確かでしょう。それに、それに乗じたとも言える由々しい政治的な動きは、すでに始まっています。しかし、後戻りできないかたちで雑種化し、さまざまな背景を持つ人々の交差路となっているベルリンの日常を生きる人々は、このことがいかに誤っているかを深く理解していると思います。それに、ダニエル・バレンボイムのように、人の注意力を細やかにしながら人と人を結びつける音楽の力を確信しているベルリンの優れた音楽家は、音楽に取り組む者にとって、人を他者に開く人文的な知が重要であることも深く理解しています。おそらくは、憎悪をその歴史的な根から照らし出し、他者とともに生きるうえで困難でありながら大切な問題を考えることへ人を導くことによって、こうした芸術家の営みを支えるところには、この困難な時代における哲学の課題の一つがあることでしょう。このような問題意識を抱きながら、また広島での仕事に戻りたいと思います。今日広島へ発ちます。

Chronicle 2016

IMG_2190流行語の類いには普段まったく関心がありませんし、とくに日本で「流行語」と呼ばれるものには、これからも興味が持てないと思いますが、イギリスのオクスフォード辞典の発行元とドイツ語協会が「今年の言葉」に、揃って英語で言う“post-truth”(ドイツ語では„postfaktisch“)を選んだことは、現実に世界を覆いつつある由々しい動きを映し出しているように見えます。事実を突き止め、真実を伝えることはもはや尊重されず、威勢よく見えたり、「元気になる」ように響いたりしさえすれば、あるいは「センセーショナル」でありさえすれば、どのような嘘でもまかり通ってしまい、大衆を動かしてしまう時代が実際に到来しつつあるというヨーロッパの人々の認識が、そこには表われているのではないでしょうか。それを象徴するのが、EU離脱の判断を下したイギリス連邦の国民投票と、アメリカ合衆国の大統領選挙の結果であったということは、ここドイツでは、この一年の回顧のなかでしばしば耳にします。

IMG_1977これらを含む動きのなかで無視しえない役割を果たしている──それゆえ、現在ドイツでも対策が進められているようです──のが、英語で“fake news”(ドイツ語では„falsche Nachrichten“)と呼ばれるものですが、これは不安を抱えて孤立した個人に、とりわけ強く訴えかけます。すでに都市に「大衆」が出現した19世紀に、鋭敏な芸術家が気づいていたとおり、そのセンセーションに反応することで、こうした個人は自己の存在を確かめ、それによって「マス」として一様に行動するようになるのです。ベルリンのクリスマスの市へのトラックによる襲撃事件が起きた後、実際にそのようにして„falsche Nachrichten“に踊らされる人々を目にしました。そのことを利用するのを、「新たなポピュリズム」と呼ぶ必要はないでしょう。嘘への反応を束ねることは、ファシズムの定義に当初から含まれていることではないでしょうか。ただし、その具体的な技術には、ディジタル時代ならではの変化が見られるようです。たまたま目にした新聞記事では、インターネットをつうじて世界中にばらまかれた“fake news”が、マケドニアの小さな街で作られている様子がリポートされていました。

IMG_2045とはいえ、日本の人々はすでに、とくに現政権下で長いこと“post-truth”的状況を生きているのではないでしょうか。たまに日本のマス・メディアのウェブサイトを見ると、そのような思いを強くせざるをえません。もちろん、地道に事実を追い、真実を伝えようと努めているジャーナリストがいることは存じていますし、その仕事に対してはいくら敬意を表わしても足りないと思っています。しかし、実際に公共空間にたれ流されているのは、世界で、いや日本でも今何が起きているのかを忘れさせながら、「日本」への空虚なナルシシズムを助長させる、その本質が“fake”であるとしか言いようのない「ニュース」ではないでしょうか。そのようななか、とくに沖縄の人々の生活を踏みにじるかたちで、日米の軍事的な一体性を強める基地建設が進められ、憲法の下で禁じられていたはずの海外派兵が既成事実化されようとしています。まもなく任期を終えようとしているオバマ大統領の広島訪問も、日本の現首相のパール・ハーバー訪問も、そのような「日米同盟」の動きを覆い隠すかたちで演出された観は否めません。

img_0199このような状況に対して、現在ヨーロッパで生活している経験にもとづいて一つだけ言いうることがあるとすれば、そうして戦争のなかに入り込んでいくことによって、戦争に関わる暴力は必ず、袋を裏返すかのようにして、形を変えて自分たちに跳ね返ってくるということです。今年に入ってもヨーロッパで繰り返し起きている痛ましい出来事のいくつかは、そのことを示していることでしょう。それに憎悪をもって応じるなら、このことは実際に住んでいる空間を、自分の手で破壊することになります。なぜなら、集団どうしの憎悪は、すでに後戻りできないほど雑種化し、複雑化した社会を、根底から破壊するからです。憎悪は、異質な人々のあいだを引き裂いてしまいます。そして今、そのことに“post-truth”的状況がひと役買っていることは、何よりも憂慮すべきことと思われます。センセーションに身を委せ、みずから知り、考えることを止めてしまうと、他者を集合的な属性でしか見られなくなって、他者の一人ひとりに対する細やかな注意力が失われてしまうのではないでしょうか。憎悪の根にそのような問題があることを示している一つが、最近通読したカロリン・エームケの近著『憎悪に抗して』(Calorin Emcke, Gegen den Hass, Frankfurt a.M.: Fischer, 2016)です。

img_2377それなしには「愛」の概念すらも考えられない、一人ひとりの他者に対する注意力。これが他者とのあいだに生きるなかに、不可欠のかたちで働いていることを思い出させ、それを深める契機をもたらしうるのが、人文学の知であり、芸術の営みであるはずです。これらの使命は今、従来にも増して重いものがあると考えられます。私自身は現在、一人ひとりの他者に対する細やかさを、歴史を生きるなかに、さらに言えば死者の魂とともに生きるなかに──それは、地上の生の基本的な条件をなしているはずです──回復する道を、歴史そのものを問うことをつうじて探っているところです。幸いなことに、今年は4月からそのための研究の機会をここベルリンで得ておりますが、時が経つのは早いもので、その期間も残り少なくなってまいりました。下記のクロニクルに挙げましたように、論文などはいくつか執筆し、すでに公にする機会にも恵まれておりますが、文献研究にはまだまだ不足を感じています。そして、あともう一つ論文をある程度の形にしておきたいとも考えています。

51fwl3vou1l今年は12月に入って、積年の課題であった細川俊夫さんの対談書Toshio Hosokawa — Stille und Klang, Schatten und Licht: Gespräche mit Walter-Wolfgang Sparrerの翻訳を世に送ることができました。『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』という訳題にてアルテスパブリッシングから刊行されております。自然のなかに生きる魂の息吹から音楽そのものを考えさせる一書として、お手に取っていただければ幸いです。刊行に至る過程は、私にとって非常に学ぶことの多いものでした。また、自分の表現力のなさを呪いながら論文をドイツ語に訳して発表する機会を持てたのも、よい経験でした。校閲者と原稿を遣り取りする過程も学ぶことが多かったですし、論文の趣旨を理解してくれる人がいたことは、本当に嬉しかったです。中國新聞文化面「緑地帯」に、「ベルリン−ヒロシマ通信」と題するコラムを連載できたのも、またとない経験でした。これらを、今後少しずつ思考の表現形態の幅を広げる足がかりにできればと思いますが、その前提として地道な研究の積み重ねがあることは言うまでもないことでしょう。引き続きご指導のほどよろしくお願い申し上げます。来たる年がみなさまにとって、少しでも平和で幸せに満ちた一年になりますように。

■Chronicle 2016

  • 1月25日:芸術批評誌『リア』第36号の特集「2015 戦争を視る」に、「褐色の時代に抗いながら戦争の核心に迫る表現の交響──広島県立美術館での『戦争と平和展』を見て」という表題の小文を寄稿させていただきました。2015年7月25日から9月13日まで広島県立美術館で開催された「戦争と平和展」の展覧会評です。ミロの《絵画》と靉光の自画像の同時代的な呼応を出発点としながら、ピカソ、井上長三郎、オットー・ディックス、浜田知明、香月泰男らにおける戦争の暴力の核心に迫る表現に触れるとともに、この展覧会に出品されていた作品からうかがえる戦争画の問題性にも言及する内容のものです。
  • 1月27日/2月3日/2月10日:ヒロシマ平和映画祭2015/16の催しとして、「奥間勝也Artist Talk+新作上映会──広島で記憶と継承を考える:沖縄の映像作家を迎えて」と「消された記憶の痕跡を辿り、現在の暴力の淵源に迫る映画『ルート181:パレスチナ〜イスラエル 旅の断章』上映会」を、広島市立大学講堂小ホールを会場に開催しました。また、2月10日には、「ドキュメンタリー作品上映+Talk Session:ヒロシマ/広島/廣島を映像で見つめ、伝える──映像作家・プロデューサー平尾直政さんを迎えて」を広島市立大学サテライトキャンパスにて開催しました。
  • 2月27日:成田龍一さんをはじめとする研究者が続けておられる科研費の研究会で最近の仕事を取り上げていただきました。岩崎稔さんに『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)を、村上陽子さんには『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ』(インパクト出版会、2015年)を、それぞれ綿密な読解にもとづいて論じていただきました。これらに対する応答の時間も取っていただきました。
  • 3月1日:形象論研究会の雑誌『形象』創刊号に、「ベンヤミンの形象の理論──仮象批判から記憶の形象へ」と題する論文と森田團さんの『ベンヤミン──媒質の哲学』(水声社、2011年)の書評が掲載されました。論文は、ベンヤミンが初期から最晩年に至るまで繰り広げた形象の理論を、彼の言語哲学、歴史哲学、美学の結節点と捉えたうえで、彼の思考の核心をなすものとして浮き彫りにしようとする内容のものです。言語を媒体と考える言語哲学を踏まえつつ、形象それ自体が媒体として捉えられていることを念頭に置きながら、「美しい仮象」の批判を経て、想起の媒体にして新たな歴史の場となる可能性へ向けて形象の概念を洗練させていくベンヤミンの思考を辿りました。
  • 3月20日:広島で開催された森元斎さんの著書『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社)の合評会で、「出来事の生成の哲学、あるいは生きられるアナキズム」と題する書評を発表しました。
  • 3月20日:広島市立大学広島平和研究所編『平和と安全保障を考える事典』(法律文化社)に、マルクス主義、国際共産主義運動、プロレタリア独裁、失地回復主義の項目を寄稿しました。
  • 3月26日:中央大学後楽園キャンパスにて開催された中央大学人文科学研究所の公開シンポジウム「ドイツでオペラをつくるということ──ハンブルク歌劇場での細川俊夫《海、静かな海》初演を振り返る」にパネリストとして参加し、「細川俊夫の作品に見る現代の芸術としてのオペラの可能性」と題する発表を行ないました。ベルリンでの《松風》、デュイスブルクでの《班女》、広島での《班女》および《リアの物語》というように、ドイツと広島で細川俊夫さんのオペラ作品の上演に接してきた経験を振り返りつつ、能の精神から現代のオペラの表現の地平を開拓してきた細川作品の特質に触れました。そのことを踏まえて、ハンブルクで初演された《海、静かな海》の細川さんのオペラ作品における位置をあらためて測り、その初演を振り返ることによって、東日本震災および原発事故後の現代に向き合うこの新たなオペラの特徴を現代の芸術としてのオペラの可能性へ向けて考察しました。
  • 4月1日:広島市立大学の学外長期研修制度にもとづくベルリンでの在外研究が始まりました。ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授の下で「〈残余からの歴史〉の哲学的・美学的探究」という研究課題に取り組んでいます。主に、ベルリン自由大学の文献学図書館とヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフを利用しながら研究を進めています。前期中の卒業論文の指導「卒論演習I」は、Skypeをつうじて行ないました。
  • 4月10日:出版総合誌『出版ニュース』2016年4月上旬号の「書きたいテーマ・出したい本」コーナーに「残余からの歴史へ」と題する小文を寄稿しました。詩人パウル・ツェランが語った、破局を潜り抜けて最後に残った言葉を手引きに、破局の残余の記憶が星座のような布置を形成し、相互に照らし合わせるなかに、現在の危機が照らし出されるような残余からの歴史の理論的な構想を提示する内容のものです。
  • 4月23日:4月23日から6月5日まで横浜美術館にて開催された「複製技術と美術家たち──ピカソからウォーホルまで」展のカタログに、「切断からの像──ベンヤミンとクレーにおける破壊からの構成」という論考を寄稿させていただきました。ベンヤミンが先の「複製技術時代の芸術作品」をはじめとする著作で示している、完結した形象の破壊、技術の介入によるアウラの剝奪、時の流れの切断などをつうじて新たな像の構成へ向かう発想を、クレーがとくに第一次世界大戦中からその直後にかけての時期に集中的に示している、作品の切断による新たな像の造形と照らし合わせ、両者のモティーフの内的な類縁性と同時代性にあらためて光を当てようと試みるものです。
  • 5月6日:秋富克哉、安部浩、古荘真敬、 森一郎編『続・ハイデガー読本』(法政大学出版局)に、「ブロッホ、ローゼンツヴァイク、ベンヤミン──反転する時間、革命としての歴史」と題する論文を寄稿しました。これら三人のユダヤ系の思想家と、初期のハイデガーの時間論と歴史論を照らし合わせ、ユダヤ系の思想家たちが構想する「救済」と結びついた歴史の理論と、『存在と時間』の「歴史性」の概念に最初の結実を見ることになるハイデガーの歴史論との差異を見通す視座を探る内容のものです。
  • 5月19日/20日:4月6日から8月1日にかけてパリのポンピドゥー・センターで開催された大規模なパウル・クレー展「パウル・クレー──作品におけるイロニー」に関連して関連してGoethe-Institut Parisにて開かれた国際コロック「パウル・クレー──新たな視点」に参加しました。展覧会評と合わせたその報告記は、形象論研究会の雑誌『形象』第2号に掲載される予定です。
  • 6月27日:ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキウムにて、ヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学についての研究の初期の成果を「想起からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学」と題して発表する講演を行ないました。
  • 7月27日:青土社の『現代思想』2016年8月号の特集「〈広島〉の思想──いくつもの戦後史」に、「そこに歴史はない──ベルリンからグラウンド・ゼロとしての広島を思う」と題する論文を寄稿しました。ベルリンと広島のアメリカを介した結びつきに、広島の被爆から現在も続く核の歴史の起源があることを確認したうえで、その歴史を担う人物としてのアメリカ合衆国大統領の来訪を迎えた広島の現在を、歴史的かつ批判的に考察する内容のものです。とくにそこにある「軍都」の記憶の抑圧と国家権力を正当化する物語への同一化が、沖縄の米軍基地の問題をはじめとする現在の歴史的な問題の忘却に結びついていることを指摘しました。そのうえで、一人ひとりの死者の許に踏みとどまるかたちで被爆の記憶を継承していくことのうちに、国家権力の道具となることなく、他者とともに歴史を生きる道筋があることを、残余からの歴史の概念の研究構想のかたちで示唆し、この歴史のグラウンド・ゼロとして広島を捉え返す思考の方向性を提示しました。
  • 8月16日〜19日:広島市立大学国際学部の専門科目「共生の哲学I」の集中講義を行ないました。
  • 8月30日〜9月8日:中國新聞文化面の「緑地帯」に、「ベルリン−ヒロシマ通信」と題する全8回のコラムを寄稿しました。ベルリンでの在外研究期間中に見聞きしたことを交えつつ、今も続く核の歴史に、記憶することをもってどのように向き合いうるか、その際に芸術がどのような力を発揮しうるか、といった問いをめぐる思考の一端を綴るものです。
  • 8月31日:原爆文学研究会の会誌『原爆文学研究』第15号に、能登原由美さんの著書『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』(春秋社、2015年)の書評を寄稿しました。長年にわたり著者が取り組んできた「ヒロシマと音楽」委員会の調査活動の経験にもとづく楽曲分析と平和運動史を含んだ現代音楽史の叙述によって、「ヒロシマ」が鳴り響いてきた磁場を、政治的な力学を内包する場として、「ヒロシマ」の物語の陥穽も含めて浮き彫りにするものと本書を捉え、今後もつねに立ち返られるべき参照点と位置づける内容のものです。
  • 9月25日/26日:ヴァルター・ベンヤミンが1940年に自死を遂げたスペインのポルボウを調査に訪れました。それをつうじて得られたことはいずれ著書などに反映させたいと考えています。
  • 10月〜2月:広島市立大学国際学部の専門科目「専門演習II」と「卒論演習II」(卒論指導)を、Skypeをつうじて行なっています。「専門演習II」では、テオドーア・W・アドルノの『自律への教育』(原千史他訳、中央公論新社)を講読しています。
  • 10月2日:ハンブルク・ドイツ劇場で活躍されている俳優の原サチコさんがハノーファーで続けておられるHiroshima-Salon(ハノーファー州立劇場のCumberlandsche Galerieにて)のトーク・セッションに参加させていただき、今ここで原爆を記憶することの意義と課題、そしてギュンター・アンダースの思想について、少しお話させていただきました。
  • 10月20日/21日:ミュンヒェンのHaus der Kunstで開催されている„Postwar: Kunst zwischen Pazifik und Atlantik, 1945-1965“を観覧しました。この展覧会は、第二次世界大戦終結後の20年間の美術の展開ないし変貌を、Postwarという視点から、太平洋と大西洋の両方にまたがる世界的な視野を持って捉えようとする大規模なものです。そこに丸木位里、丸木俊の《原爆の図》から2点が出品されたことも含め、お伝えしていく予定です。
  • 11月26日:ひろしまオペラ・音楽推進委員会が主催したひろしまオペラルネッサンス2016年度公演《修道女アンジェリカ》、《ジャンニ・スキッキ》(11月26日/27日、JMSアステールプラザ大ホールにて)のプログラムに、「生がその全幅において肯定される場を開くオペラ──プッチーニの『三部作』に寄せて」と題するプログラム・ノートを寄稿しました。「三部作」の作曲に際してプッチーニがダンテの『神曲』を意識していたことを踏まえつつ、第一次世界大戦のさなかに書かれたこのオペラの独自性に迫ろうとする内容のものです。歌とハーモニーの美しさが際立つ《修道女アンジェリカ》とドラマの展開が特徴的な《ジャンニ・スキッキ》の魅力に触れつつ、「三部作」が、ダンテの作品とは異なったかたちで生がその全幅において掬い取られる場を開いていると指摘しました。
  • 11月29日:ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキウムで、「形象における歴史──ベンヤミンの歴史哲学における構成の理論」と題する論文をドイツ語に訳したものを発表する講演を行ないました。その日本語の原稿は、形象論研究会の会誌『形象』の第2号に掲載される予定です。
  • 12月12日:細川俊夫さんの対談書『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』が、拙訳にてアルテスパブリッシングから刊行されました。2012年にドイツで出版された細川俊夫さんと音楽学者ヴァルター゠ヴォルフガング・シュパーラーさんの対談書Toshio Hosokawa — Stille und Klang, Schatten und Licht: Gespräche mit Walter-Wolfgang Sparrer (Hofheim: Wolke, 2012) の日本語版です。現代を代表する作曲家細川俊夫さんがその半生とともに、創作と思索の軌跡を語った対談書ですが、細川さんの作曲活動の全体に見通しを与えながら、その音楽の核心にあるものを浮かび上がらせる、本格的な細川俊夫論でもあります。一書にまとまった評論としては世界初です。日本語版には、細川さん自身による新たな序文、豊富な写真や譜例の他、2016年前半までの年譜、作品目録、ディスコグラフィを収録しています。

ベルリン通信IV/Nachricht aus Berlin IV

[2016年8月1日]

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ベルリンの壁が残されているEastside Galleryからオーバーバウム橋を望む風景

ベルリンの七月は予想した以上に涼しく、夏の暑さを感じる日が少なかったように思います。今年はやや特別なのかもしれませんが、気候がずっと不安定で、一日のあいだにも目まぐるしく天気が変化しています。七月中旬には、曇りがちで、気温が20度ほどまでしか上がらない日が続いた時期もあり、そのせいで風邪を引いてしまいました。七月は蒸し暑いものと思い込んでいる身体が対応しきれなかったのでしょう。このような不安定な気候は、どこか人を不安にさせるものですが、それが的中したかのように、ドイツでは七月の下旬に、痛ましい出来事が相次ぎました。ヴュルツブルクで発生した列車内での刺傷事件に始まり、ミュンヒェンのショッピング・センターで起きた銃乱射事件、それにアンスバッハの野外コンサートの会場での自爆事件と日を置くことなく起き、ドイツ社会は大きく揺さぶられました。

捜査の進展により、徐々に容疑者のバックグラウンドが明らかになりつつありますが、これらの凶行に及んだのがいずれも社会から孤立した一人の若者であったことは、ドイツの社会を、ひいては人間関係を成り立たせていた根本的な何かが、すでに壊れてしまっていることを露呈させているのかもしれません。このことを感じ取っている人々は、シリアなどからドイツへ難を逃れてきた人々を何らかのかたちで社会に参加させる努力を続けています。七月の末には、Souk Berilinによるストリート・フードのフェスティヴァルに家族で出かけましたが、そこにはシリアやアフガニスタンなどの料理が並んでいました。きっとこれらの国々から逃れてきた人々も、料理の腕を振るったことでしょう。ステージでは、何人かの難民がベルリンまでの道程を語っていました。

言うまでもなく、こうした催しよりも重要なのが日常的な人間関係ですが、その背景にある他者観に関しては、ドイツでは両義的な様相が垣間見えます。ベルリンのような、すでにさまざまなバックグラウンドを持つ人々を受け容れている都市ではとくに、多くの人々がどこから来た人に対してもオープンですが、やはり差別を含んだ排外主義的な考えが浸透しつつあるのも確かで、このことを視線から感じることもあります。このような状況のなかで、娘が一人ひとりを大切にする温かい雰囲気のなかで学べたのは、幸運なことと言わなければなりません。7月20日でベルリンの公立の学校は夏休みに入り、娘も通知表をもらって来たわけですが、その二日前には、放課後に親たちで準備した終業パーティーが近くの公園で催され、担任の教師にプレゼントが贈られました。教師のほうでも、一人ひとりの生徒に手作りの小さな贈り物を用意していました。25人に満たないクラスだからこそ可能なことでしょう。

0711_GS_201608私がお世話になっているベルリン自由大学の夏学期はほぼ終わったようで、おおよそ毎日通っている文献学図書館の利用者もまばらになってきました。七月の下旬は、試験の準備や課題の研究のために図書館へ来る学生が多く、空いている席を見つけるのに苦労することもしばしばでした。このあたりは、日本の大学とまったく同じです。今は、静かになった図書館で、これまでの研究をさらに発展させる道筋を探るべく、文献を読むことに再び力を入れようとしています。7月の下旬には、これまでの研究を、今後の研究の構想も含めて日本語でお伝えする機縁にも恵まれました。その原稿を書くことは、広島の現在をベルリンから見つめながら、私自身が広島との結びつきのなかで哲学することをあらためて問い直す機会ともなりました。

 

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『現代思想』所載の拙稿で触れたかつてのカイザー・ヴィルヘルム研究所の建物

先日発売された青土社の『現代思想』の2016年8月号の特集は、「〈広島〉の思想──いくつもの戦後史」で、尊敬する友人や先達たちが力のこもった論考や記事を寄せて、広島の現在を照らし出し、広島という場に凝縮されている問題を掘り起こしています。私もその特集に、「そこに歴史はない──ベルリンからグラウンド・ゼロとしての広島を思う」と題する小文を寄稿させていただきました。ベルリンと広島のアメリカを介した結びつきに、現在も続く核の歴史の起源があることを確認し、その歴史を担う人物を迎えた広島の現在を、歴史哲学的に考察する内容のものです。広島に見られる「軍都」の記憶の抑圧と国家権力を正当化する物語への同一化が、沖縄の米軍基地の問題をはじめとする現在の歴史的な問題の忘却に結びついていることを指摘したうえで、一人ひとりの死者の許に踏みとどまるかたちで被爆の記憶を継承していくことのうちに、国家権力の道具となることなく、他者とともに歴史を生きる道筋があることを、残余からの歴史の概念の研究構想のかたちで示そうと試みました。ご関心がお有りの方にご笑覧いただければ幸いです。

さて、演奏団体や劇場のシーズンは、だいたい七月の前半で終わるので、先月はあまり生の音楽に触れる機会はなかったのですが、中旬にはベルリン州立歌劇場で、シーズン末の„INFEKTION!“の一環で上演されたサルヴァトーレ・シャリーノの室内オペラ《裏切りのわが瞳》(原題は“Luci mie traditrici”)を観ることができました。冒頭に子どもの声で印象的に歌われるカルロ・ジェスアルドのフランス語のシャンソンを軸に、妻とその愛人を殺害するに至るこの作曲家の物語(実話)が、間奏による何度かの中断を挟みながら展開され、バロック悲劇的とも言える破局の結末を迎えるこのオペラにおいて最も印象的だったのが、独特の風や気配を感じさせるシャリーノの音楽のなかに、冒頭のシャンソンが緻密に組み込まれていたことでした。また、恋と嫉妬における人間の盲目──それゆえに瞳は裏切るのでしょう──を鋭く浮き彫りにするこのオペラは、短いながら非常にスリリングでした。ユルゲン・フリムによる様式感のある洗練された演出の下、素晴らしい演奏でシャリーノの音楽の時空間の広がりを体験することができました。

七月は、演奏会場や劇場に出かけなかった代わりに、いくつか美術の展覧会を見に行きました。そのうち二つの展覧会をご紹介しておくと、まず絵画館(Gemäldegalerie)では、特別展„El Sigro de Oro: Die Ära Velàzquez“(「黄金の世紀──ベラスケスの時代」)が開催されています。フェリペ四世の時代を中心に、スペインが栄えていた主に17世紀の絵画と彫刻を集めた展覧会で、非常に見ごたえがありました。会場に入ってすぐのところでエル・グレコの素晴らしい《受胎告知》が見られますし、もちろんベラスケスの力強い人物の造形も堪能できます。ムリリョのイメージが少し変わる宗教画もいくつかありました。もちろん、彼らしい優しい絵もあります。とはいえ何よりも印象深かったのは、スルバランの作品。着衣の重みが質感とともに迫ってくるような聖フランチェスコの肖像には、思わず見入ってしまいました。イベリア半島の各地方の特徴も興味深く感じたところです。

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聖アンドレアス教会

もう一つご紹介しておきたいのは、ハンブルク駅現代美術館での「暗黒の時代──コレクションのいくつかの歴史 1933〜1945年」という展示です。ナチスが政権の座にあったこの期間のナショナル・ギャラリーのコレクション史を示す展示です。改装中の新ナショナル・ギャラリーのコレクションの一部が、こちらの美術館の一角に企画展のかたちで展示されるようになっています。イタリアも含めたファシズムに利用された作品とともに、「頽廃芸術」の烙印を押されて没収された作品などが、この時代におけるそれらの作品の歴史とともに展示されていました。小規模ながら、歴史的な資料とともに非常に見ごたえのある展示です。まず興味深かったのは、カール・ホーファーの《暗黒の部屋》と題された1943年の作品。太鼓を叩く人物を中心に、この時代の剝き出しにされた人間の虚ろな姿が、独特の彫刻的なところもある輪郭線とともに浮かび上がっています。近くに架かっていたパウル・クレーの《時》という小さな作品とともに、この時代を象徴するものと見えます。ホーファーの実作を見るのは初めてでしたが、具象的な画風を貫いた同時代の日本の画家とも比較研究されたらよい画家とも思われました。アルノルト・ベックリンの《死の島》は、この絵が総統の執務室を飾っている写真とともに展示されています。

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テルトウ旧市街の風景

「暗黒の時代」の展示で個人的に最も印象的だったのは、いずれも「頽廃芸術」とされたエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーとリオネル・ファイニンガーの作品でした。とくに後者のテルトウの街の風景を深い色調のなかに緻密に造形した《テルトウII》は、彼の傑作の一つと思われました。そこには教会の塔が浮かび上がっていますが、それは今もテルトウの旧市街にある聖アンドレアス教会の塔です。それが実際にはどのような様子か気になったので、晴れた日の夕方、娘と一緒に散歩がてらその教会へ行ってみました。思ったよりもこぢんまりとした佇まいです。建物の前には、1265年に街の教会となった経緯が書かれたプレートがありました。その後1801年に消失した建物の再建には、カール・フリードリヒ・シンケルが関わり、擬古典主義とネオ・ゴシックを折衷するかたちで外観を設計したとのことですが、確かにベルリンのネオ・ゴシックの教会とは趣を異にしています。この塔のフォルムに、ファイニンガーを触発するものがあったのでしょう。さまざまな石を埋め込んだ外壁も、遊びがある感じでです。テルトウの街も、ベルリンの街とは違った雰囲気でした。学校が夏休みのあいだ、ベルリンの近郊の街へもできるだけ出かけたいと思います。なかにはドイツの現代史を現在との関わりで考えるうえで重要な場所もあります。

ベルリン通信II/Nachricht aus Berlin II

[2016年6月3日]

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庭に咲いていたスズラン

「妙なる月、五月に(Im wunderschönen Monat Mai)」。よく知られているように、ハインリヒ・ハイネの『歌の本』から採られた詩によるローベルト・シューマンの《詩人の恋》は、この言葉から始まります。この連作歌曲の第1曲に用いられた詩においてハイネは、五月に草木が花を咲かせるのに恋の開花を重ねるわけですが、そのように自然の生長と感情の湧出を結びつけられる背景には、言うまでもなく、ドイツ語圏の人々のこの月に対する特別な思いがあります。それを表わすのが、「花盛り(Maienblüte)」、「五月祭(Maifeier)」、「五月鰈(Maischolle)」といった「五月(Mai)」が語頭に付く言葉の数々なのでしょう。ドイツ語の辞書を開くと、そのような言葉が格別に多いことに驚かされます。

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オースドルフの廃墟の風景

そのような言葉の一つに、スズラン(Maiglöckchen)があります。スズランは、ドイツで好まれている春の花の一つで、ベルリンの住まいの庭でも可憐な花を咲かせていました。これをはじめとして、五月はまさに花盛りの季節なのですが、ドイツにいると、草木の花々が深い緑のなかでこそ光彩を放つことが実感されます。もちろん、春のまだ柔らかな日差しも欠かせません。それらを求めて、ドイツの人々はしばしばかなり長い散歩に出かけます。それに倣ってある晴れた日に、住まいのあるリヒターフェルデと隣町のテルトウのあいだに広がる草原へ出かけたことがありました。そこにはかつてオースドルフという農村があったのですが、1968年に旧東ドイツがアメリカ合衆国の管理区域とのあいだに緩衝地帯を造る際に、住民は強制的に移住させられ、村は破壊されてしまったそうです。木立のなかの散歩道を歩いているうちに、40年近く前に壊された農家の廃墟とおぼしい場所に辿り着きました。

この五月には、これまで活字をつうじてしか接することのなかった学者の講演に接する機会に恵まれました。まず、“Embodiment”(肉体化、具体化)をテーマとする現象学の学会の締めくくりに行なわれたベルンハルト・ヴァルデンフェルスの講演は、自己関係ないし自己再帰的な関係と、そこからこぼれ落ちる異他的な次元とが身体においてつねに相即していることを、自然と文化の接点として詳細に論じるものでした。また、ダーレム人文学センターの「ヘーゲル講義」として行なわれたエレーヌ・シクスーの講演“Ay yay! The Cry of Literature”は、文学の営みの新たな地平を開く、感銘深い内容のものでした。「叫ぶこと(Schrei)」と「書くこと(Schreiben)」のあいだを縫って、音声としては消え去っていく叫びの「死後の生」を定着させて展開させる「書記」の営為を、そこに内在する殺害の問題にも触れながら、その可能性において問う講演として聴きました。

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ポンピドゥー・センターのクレー展看板

五月の下旬には再びパリへ出かけ、ポンピドゥー・センターで開催されている大規模なパウル・クレー展「作品におけるイロニー」に関連して二日にわたりGoethe-Institut Parisにて開かれた国際コロック「パウル・クレー──新たな視点」を聴きました。すでに「ベルリン通信I」でご紹介したように、この展覧会にはヴァルター・ベンヤミンが私蔵していた《新しい天使》が出品されている(ただしオリジナルは最初の2か月のみ)のですが、コロックで聴いたアニー・ブールヌフさんの発表によると、その水彩画の台紙には宗教改革者マルティン・ルターを描いた19世紀の版画が使われていて、その隅にはこの版画のモデルと目されるルターの肖像の作者ルーカス・クラナッハのモノグラムが暗示されているそうです。ベンヤミンは、そのことにどれほど気づいていたのでしょうか。

このコロックでは、クレーの画業がその前史と後史も含めて浮き彫りにされるとともに、同時代の芸術運動との関連においても検討されました。そのことは、クレーとピカソの関係に焦点が絞られた観のある展覧会の内容を補完するものでもあったように思われます。ただし、ここで付け加えておかなければならないのは、今回の展覧会のように、クレーの画業をその最初期から最晩年に至るまで通観できるのみならず、《Insula Dulcamara》をはじめとする大規模な作品もまとまったかたちで見られる展覧会は、きわめて稀だということです。ポンピドゥー・センターのクレー展の会期は8月1日までです。それまでにパリへお出かけになる機会のある方には、ご覧になることを強くお薦めいたします。なお、11月からはベルンのパウル・クレー・センターで、クレーとシュルレアリスムの関係を照らし出す展覧会が開催されるとのこと。こちらも見逃せません。

さて、五月のベルリンでは、演奏会やオペラなどの公演が盛んに行なわれていたわけですが、研究などが忙しく、あまり頻繁に出かけることはできませんでした。観たなかで興味深かったのは、コーミッシェ・オーパーで行なわれたヘルベルト・フリッチュの演出によるモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の公演と、州立歌劇場で行なわれたミヒャエル・タールハイマーの演出による《魔弾の射手》の公演でした。前者では、作品の「ドラマ・ジョコーゾ」としての側面をブラック・ユーモアも交えながら掘り下げ、登場人物の無意識の欲動にまで迫ろうとする演出によって、見ごたえのある舞台を提示されていたと思います。後者では、作品の内実を深く掘り下げ、悪の問題に迫った演出が印象的でした。狩人をはじめとする村の人々の身ぶりの様式化には、共同体という閉域に対する批判的な眼差しも込められていたと感じました。マックス役を歌ったアンドレアス・シャーガーの歌唱を含め、音楽も非常に充実した《魔弾の射手》の公演でした。六月はもう少し多く演奏会場や劇場へ出かけたいと思います。

相変わらず、ベルリン自由大学の文献学図書館などの施設を利用しながら、〈残余からの歴史〉の概念の理論的な探究に接続されるべきベンヤミンの歴史哲学の研究に没頭していたわけですが、現在その現時点での成果を六月末のコロキウムで報告すべく、論文をまとめつつあるところです。主に批判版全集の第19巻に収録された「歴史の概念について」のテクストを検討して見えてきたことと、これまでの研究を結びつけるかたちで執筆を進めています。そろそろ日本語の草稿をドイツ語に翻訳していかなければなりません。他にもいくつかの仕事を並行して進めておりますが、その成果は7月末から8月にかけてお届けできるものと思います。

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ヒロシマ・ナガサキ広場の表示

それから、四月の末のことになりますが、現在の研究とも通底する内容の二点の拙論を公表する機会に恵まれました。一つは、6月23日まで横浜美術館で開催されている展覧会「複製技術と美術家たち──ピカソからウォーホルまで」のカタログに寄稿した「切断からの像──ベンヤミンとクレーにおける破壊からの構成」です。ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」をはじめとする著作で示している、完結した形象の破壊、技術の介入によるアウラの剝奪、時の流れの切断などをつうじて新たな像の構成へ向かう発想を、クレーがとくに第一次世界大戦中からその直後にかけての時期に集中的に示している、作品の切断による新たな像の造形と照らし合わせ、両者のモティーフの内的な類縁性と同時代性にあらためて光を当てようと試みるものです。もう一点は、法政大学出版会から刊行された『続・ハイデガー読本』に収録された「ブロッホ、ローゼンツヴァイク、ベンヤミン──反転する時間、革命としての歴史」という小論で、これら三人のユダヤ系の思想家と、初期のハイデガーの時間論と歴史論を照らし合わせ、ユダヤ系の思想家たちが構想する「救済」と結びついた歴史の理論と、『存在と時間』の「歴史性」の概念に最初の結実を見ることになるハイデガーの歴史論との差異を見通す視座を探る内容のものです。

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広島と長崎の原爆犠牲者追悼モニュメント

早いもので、「妙なる月」はすでにうち過ぎ、六月にさしかかっているわけですが、五月の最後の日には、ポツダム郊外のグリーブニツ湖畔のヒロシマ・ナガサキ広場に置かれた、広島と長崎への原子爆弾の投下による犠牲者を追悼するモニュメントを見ることができました。碑銘が刻まれ、それぞれ広島と長崎で被爆した石が埋め込まれた石板と、核による苦しみが今も続いていることの重さを感じさせる大きな石とから成るモニュメントの造形は、彫刻家の藤原信さんによるものですが、モニュメントの設置に尽力したのが、ベルリンで高分子物理化学の研究を積み、ベルリン工科大学などで教鞭を執った後、自身の広島での被爆体験を証言し続けた外林秀人さんだったそうです。このモニュメントは、1945年7月25日に当時のアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンが原子爆弾投下の命令を下したとされる邸宅に向き合うかたちで置かれています。文学的な装いを持ちながら、相変わらず原爆を投下する立場から語られる現在のアメリカ大統領の広島での「所感」を聞きながら、このことの意味を考えなければならないと思いました。

ベルリン通信I/Nachricht aus Berlin I

[2016年5月1日]

ベルリンへ来ると、どこか故郷へ帰って来たような安心感があります。2004年の10月から翌年2月にかけて、在外研究のためにポツダムに滞在していたあいだ、週に一回か二回は電車でベルリンに通っていましたし、その前後にも年に一度は研究のために、あるいは音楽を聴くためにベルリンを訪れていたからです。少しごみごみとした街の空気、せわしく人が行き交う駅から聞こえる電車の音、美術館や博物館の佇まい。どれも懐かしく感じられます。

旅行者としてベルリンを訪れているうちならこういった感慨に浸ることもできるのでしょうが、いざ住むとなるとそのような暇はないというのが実情です。来年2月までの在外研究のためにベルリンに到着して一か月が経ちましたが、あっという間に過ぎました。役所での住民登録に始まり、娘の小学校探し、銀行の口座開設など、思った以上に労力と時間を要しました。とくに役所での手続きは、最近予約なしでは原則として受け付けないようになったこともあって、ベルリンの市民にとっても大変なようです。住まいの家主さんをはじめ、周りの人々の協力を得て、事務的な手続きは、外国人局での在留許可申請を除いて、何とかほぼすべて片づきました。

こちらでは、ベルリン自由大学の哲学科にお世話になりながら、主にヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学の研究を進めています。主著のMedium, Bote, Übertragung: Kleine Metaphysik der Medialität (Suhrkamp, 2008) が日本語に訳されている(『メディア、使者、伝達作用──メディア性の「形而上学」の試み』晃洋書房、2014年)哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキアム(大学院生以上向けのゼミ)に出させていただきながら、ベンヤミンが問うた歴史の概念を掘り下げることになります。クレーマー教授はとても気さくで、後進の教育にも熱心な方と見受けられました。

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ベルリン自由大学文献学図書館の外観

普段はベルリン自由大学の文献学図書館(Philologische Bibliothek)を利用して、ベンヤミンの歴史哲学に関係する文献を渉猟しています。人間の脳をイメージした設計で2006年のベルリン建築賞を受賞したこの図書館には、人文学関係の文献が豊富に揃っています。何よりも、開架式の図書館なのがありがたいです。適度な広がりのある静かな空間で、必要な本をすぐに手に取って読むことができます。それから、もちろんベルリン芸術アカデミー付設のWalter Benjamin Archivも、重要な研究の拠点です。こちらの司書の方にも何かとお世話になっています。

これらの施設を利用しながら、ベンヤミンの歴史哲学の研究を深め、それを現在構想している〈残余からの歴史〉の概念の理論的な探究に接続させたいと考えています。ひとまず、ベンヤミンに関する研究を近いうちにまとめて、先のクレーマー教授のコロキアムで報告させていただく予定です。それゆえ、とくに今月は研究のピッチを上げなければなりません。懸案だった他のプロジェクトも動き出したので、徐々に本業のほうが忙しくなってきました。

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リリエンタール公園の桜並木

ベルリンでは、市内南西部のリヒターフェルデという郊外の街に住んでいます。緑豊かなところで、雰囲気も落ち着いています。晴れた朝には、実にさまざまな鳥の声が聞こえます。リスが木に登っていくのを何度か見かけましたし、夜にキツネが道路を歩いているのに出くわしたこともあります。近くには、グライダーの有人飛行実験によりライト兄弟以後の航空機開発に貢献したオットー・リリエンタールを記念した公園があります。そこの桜並木が、最近ようやく満開になりました。ただ、ベルリンは四月の末まで非常に寒い日が続いていて、最低気温はずっと氷点下近くでした。雹や雨混じりの雪が降ることもありました。幸い、ここへ来て春らしい暖かさが戻りつつあります。

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ティタニア・パラストの外壁の銘板

リヒターフェルデの最寄りの駅からベルリンの市街中心へは、電車で15分から20分ほどですので、交通の便も悪くはありません。ただし、ちょっとした買い物があるときには、バスでシュテーグリッツという少し大きな街へ出るほうが便利です。ここには、ティタニア・パラストという、戦後しばらくベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏会場に使っていた映画館があります。ベルリン自由大学の創立記念式典が開催された場所でもあります。最近そこでこのオーケストラの定期演奏会のライヴ・ヴューイングを見ました。今はどこにでもあるシネマ・コンプレックスになっています。

ちなみに、現在およそ週に一回ほどのペースで、演奏会やオペラの公演にも通っています。なかでも感銘深かったのが、ベルリン・ドイツ・オペラで観たヤナーチェクの《マクロプロス事件》の公演でした。作品に正面から取り組みながら洗練されたダーフィト・ヘルマン演出による舞台と、ドナルド・ラニクルズの指揮の下での充実した音楽が見事に合致していました。今月観たオペラの公演でもう一つ忘れられないのが、パリの郊外で見たフランチェスコ・フィリデイの新作オペラ《ジョルダーノ・ブルーノ》の公演でした。宇宙の無限を説いたルネサンスの哲学者ブルーノの思想と生涯を、彼の焚刑に至るまで非常に説得的に、かつ現在の問題を投げかけるものとして描き出していたと思います。

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パリのパサージュの一つで

4月の下旬には、勤務先の大学で取得した休日を利用してパリへ三日間出かけました。ベルリンからパリへは二時間足らずのフライトです。旅行の目的はこの《ジョルダーノ・ブルーノ》と馬場法子さんの新作で能楽師の青木涼子さんが主演するNôpéra《葵》の公演を観ること、それにポンピドゥー・センターで始まった大規模なパウル・クレー展「作品におけるイロニー」を観ることでした。このクレー展には、ヴァルター・ベンヤミンが私蔵していた二つのクレーの絵《新しい天使》と《奇跡の上演》が初めて揃うので、見逃さないわけにはいきません。初めて実物を見た《奇跡の上演》は、クレーの魅力が凝縮された一枚と思います。ベンヤミンが友人に宛てた手紙のなかで、これ以上美しい絵を見たことがないと語った気持ちも分かります。

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こちらの桜の多くは八重桜のような感じで、あまり花の儚さは感じさせません。

これら以外にも傑作や貴重な作品が集まっていて、かつクレーの画業も新たな視点から見直させるパリのクレー展に関連しては、5月下旬にコロックも予定されています。そちらにも出かけるつもりでおります。それまでにベンヤミンの歴史哲学に関する研究の現時点での成果を示す論考に目鼻を付けておきたいものです。先に記した施設で本を読む時間を持てる幸せを噛みしめながら腰を据えて文献に取り組み、それをつうじて得られた知見を深めていきたいと思います。ベルリンはこれから一年で最も美しい季節を迎えますので、当地の緑の豊かさも家族で味わいたいものです。ハインリヒ・ハイネが歌った「妙なる月(Der wunderschöne Monat)」がみなさまにも訪れますように。

イスラエルでの国際ヴァルター・ベンヤミン協会の大会に参加して

闇のなかからふと現われ出たその「天使」は、あらぬところへ来てしまった子どものように、落ち着かない様子で漂っていた。それはもはや場所ではないところに、一つの〈あいだ〉にいるのだ。大きく見開いたその両眼は、それぞれ異なった方向を見つめている。そうして境界領域に浮遊しているという点では、これを「天使」と呼べるのかもしれない。とはいえ、その姿も〈あいだ〉にあると言うほかない。鳥の羽とも退化した手ともつかぬ両腕を広げながら、この「天使」は、人と獣のあいだを、彼岸と此岸のあいだを漂うのだ。

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パウル・クレー《新しい天使》/Paul Klee, »Angelus Novus«, 1920 [Public Domain]

イェルサレムのイスラエル博物館で初めて目の当たりにした、パウル・クレーの《新しい天使(Angelus Novus)》(1920年)のこうした姿は、それ自体、当地のヘブライ大学とテル・アヴィヴ大学で12月13日から16日にかけて開催された国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究大会(International Walter Benjamin Society Conference “SPACES, PLACES, CITIES, AND SPATIALITY”)のテーマであった、ベンヤミンの思考における「空間」を開くようであった。その「空間」とは、それ自体として「閾」という境界領域である。それは生と死のあいだに、生誕や再生と、生まれ損なうこととのあいだに開かれる。彼が「空虚で均質な」と形容した「進歩」や「成長」の時空間に空隙を穿つようにして。

したがって、今回の学会全体のテーマであった「空間」は、ひと言で言えば、体験とは異なった経験の媒体であり、ベンヤミンが言う優れた意味での「根源」でもある。その現代の時空間におけるトポグラフィーを、みずから撮影したり、蒐集したりした映像そのものに語らせるかたちで、そしてベンヤミンの著作の読解を一歩進めるかたちで示していたのが、12月14日にテル・アヴィヴで行なわれた、ジョルジュ・ディディ゠ユベルマンの基調講演だった。そのなかで彼が、ベンヤミンの根本的な慎み深さを指摘していたのが印象に残っている。

その慎み深さは、例えば、「ベルリン年代記」のなかでベンヤミンが、自分が文章を書く際に「私」という主語を立てることを自分に禁じていた、と語っていたことに表われていよう。それによって、この「年代記」をはじめとする著作で、記憶の像がおのずと立ち現われてくるのだ。そのような意味で優れてベンヤミン的と言える手つきで、ディディ゠ユベルマンは、「名もなき者たち」の痕跡を辿り、大都市の片隅の薄明を捉えていた。

都市の薄明が浮かび上がらせるのは、両義性の空間である。両義性を帯びた事物のうちに過ぎ去ったものと今との緊張に満ちた布置を捉えることで、ベンヤミンは、「十九世紀の首都」パリのパサージュを近代の「根源史」の場として描き出すこと。これをベンヤミンはついに成し遂げえなかったわけだが、そのような歴史の場としてのパリの空間が、ナポリ、ベルリンといった、ベンヤミンが他の著作でその像を浮かび上がらせた都市の空間に通じていることも、今回の学会の主要なテーマの一つであった。それが取り上げられる際に、彼がナポリの建築空間に見た「多孔性」がしばしば指摘されていたが、その概念を、現代の空間ないし空間経験にどのように位置づけるか、またそのことにもとづいて、経験そのものをどのように捉え返すか、ということは、あらためて課題として浮き彫りになったと思われる。

「冥府」へ通じた「閾」にしてもう一つの歴史の経験の場である「パサージュ」、それは残存するものが来たるべきものとなって回帰する場でもある。「翻訳者の課題」が原作の「残存」を翻訳の出発点に置いていることを念頭に置きつつ、ベンヤミンが要請する字句どおりの翻訳──それは文字を、文字の姿のままに受け容れることだ──がもたらす言語の「非接合」によって開かれる言語そのもののパサージュ、すなわち「翻訳者の課題」に言う「アーケード」を、言語自体の媒体性ないし霊媒性を構成するものと捉え、このパサージュを、「根源史」の媒体としてのパリのパサージュと橋渡ししようとする議論は、示唆に富むものであった。

想起の媒体として根源史を形づくるとベンヤミンが考える「像」──それは彼によれば、言語的なものである──のうちにある時間の空間化を、それ自体として、「空虚で均質な時間」と神話的な歴史の連続の双方を中断する時間性において捉えることも、ベンヤミンの思考における「時空間/時代(Zeitraum)」としての空間の問題として浮上したのではないだろうか。さらに、その静止した「時空間」を構成する「時代の夢(Zeit-traum)」からの「目覚め」をどのように考えるか、という問題は、ベンヤミンの著作の読解をつうじて、今ここにある時空間をどのように見通せるか、という問いにも通じていよう。

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テル・アヴィヴの海岸にて

今回の国際学会では、「イスラエルにおけるベンヤミン」というテーマのパネル・ディスカッションの場が持たれたが、議論がイスラエルの国内政治の問題をめぐって噛み合わないままで、占領とは何か、また占領する力の上に成り立つイスラエルとはそもそも何か、というところにまで及ばなかったのは惜しまれる。こうした問題は、生涯シオニズムに批判的で、ついにパレスティナの地に足を踏み入れることのなかったベンヤミンの「暴力批判論」などを読み直す視点からこそ、問題そのものに介入するかたちで論じられうるのではないだろうか。今回の学会では、イスラエルでの学会に相応しく、と言うべきか、ベンヤミンの思考を、ゲルショム・ショーレム、マルティン・ブーバー、ヘルマン・コーエン、フランツ・ローゼンツヴァイクといった同時代のユダヤ系の思想家との布置のなかに浮かび上がらせようとする議論が目についた。

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ヘブライ大学のあるスコープス山からのイェルサレム郊外の開発地の眺め

学会の期間中には、テル・アヴィヴ美術館で、ベルリン芸術アカデミー付設のベンヤミンの手稿などが、「ヴァルター・ベンヤミン──亡命のアーカイヴ」のテーマの下で、ベンヤミンの著作に触発されて創られた現代芸術作品とともに展示されていた。それを見ると、ベンヤミンがいかに緻密にみずからの著作を組み立てていたかが伝わってくる。ゲーテの『親和力』の批評では、全体の細かな構成を一枚の紙に書き出したうえで、その組み立てどおりに小さな文字で原稿を書き、さらにその縁に、構想を組み立てた際に記した小見出しを転記しているのである。あるいは、カフカ論では、断章を記した紙を切り、紙片を並べ直して草稿を組み立てている。こうした手法は、いったん描いた作品を切り分けることで新たな像を浮かび上がらせた、クレーの手法と一脈通じるところがあるのかもしれない。『パサージュ論』では、独特の記号を駆使して構想を組み立てているのが印象的である。

学会の最終日には、学会の会場を抜け出して、ヘブライ大学のあるスコープス山とは反対側のヘルツルの丘──そこには「ユダヤ人国家」の発案者の一人テオドール・ヘルツルの墓がある──にあるヤド・ヴァシェム・ホロコースト博物館を訪れた。たしかに、ショアー、すなわち「ホロコースト」の歴史に関する展示は、エマヌエル・リンゲルバウムがゲットーのなかに残そうとしたアーカイヴのそれを含む貴重なドキュメントと、生還者──そのなかにヘウムノの生き残りであるシモン・スレブニクの姿があった──へのインタヴュー映像を巧みに配して、差別と迫害の下での生と死を、さらに絶滅の暴力の下に置かれることを、それぞれのゲットーや収容所の特徴を含めてありありと、かつ胸に迫るかたちで浮かび上がらせるものと言える。しかし、全体からは、ナチスの支配下における蜂起のヒロイズムを称揚し、オスカー・シンドラーをはじめとするユダヤ人を救った「義人」の力を強調することが、最終的に生還者たちの手によるイスラエルの建国へ流れ込んでいく、ナショナリスティックなストーリーの流れを感じないではいられない。「名前の部屋」の圧倒的な空間のなかに佇みながら、ここに「名もなき者」たちの場所はあるのだろうか、と自問せざるをえなかった。

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フェリックス・ヌスバウム《難民》/Felix Nussbaum, »Le réfusié« 1939

ヤド・ヴァシェムの「ホロコースト」の歴史に関する展示からは、ショアーに至る迫害と抹殺をもたらした問題そのものが未だ解決されていないどころか、現代の世界で新たなかたちで深刻化していることを考え続けようという問題意識を感じ取ることはできなかった。歴史に関する展示のスペースに併設されている、「ホロコーストの芸術」を展示している美術館で目にすることのできた、フェリックス・ヌスバウムの《難民(Le réfugié)》(1939年)が、現在の問題の所在を静かに、しかし鋭く照らし出しているように思われた。その絵のなかでは、地球儀の置かれた長い机の傍らで、行き場を失った一人が頭を抱えて座り込んでいる。

晩秋から初冬にかけての演奏会と仕事

早いもので、今年も残すところ二週間足らずとなりました。冬とは思えない、どこか生暖かい感じの気候が続いていますが、お変わりありませんか。私はと言いますと、今年はいつになく慌ただしい師走を過ごしているところですが、この一週間ほどは、広島を離れて自分の研究の位置を省みたり、世界的な研究の動向に触れたり、さらには現代世界の問題が凝縮している状況に接したりすることができました。そこからあらためて広島の現在についても考えさせられました。これについてはまた稿をあらためてお伝えすることにして、ここでは、11月下旬から12月初旬にかけて聴くことのできた演奏会と、それに関わる仕事のことをご報告することにします。

まず、11月21日と28日の二日にわたり、細川俊夫さんの還暦を記念して企画された「細川俊夫10×6還暦記念コンサート」を聴かせていただきました。細川さんが作品を発表し始めた頃からともに歩んできたアーティストや、これからの音楽を担う若いアーティストがみずからの音楽を携えて集い、細川さんの音楽をその原点から見つめ直す、還暦記念に相応しい連続演奏会でした。細川さんの音楽思想の四つのテーマを軸とした構成によって、細川さんの音楽思想の深まりを辿る場にもなったと思います。演奏会のウェブサイトとフライヤーにこの演奏会に寄せる小文を寄稿させていただいたことを、非常に光栄に思っております。

まず、印象的だったのが、両日の演奏会の冒頭に、和楽器の本曲の演奏が置かれたことです。尺八の音が空間全体を震わせながら立ち上がり、笙の音が幾重にも襞を拡げていくところに、細川さんの音楽の源にあるものを垣間見る思いがしました。沈黙のなかから生の息遣いとともに響き始め、空間と共振しながらひと筋の線を描いていく、空間と時間の書(カリグラフィー)としての音楽、それが日本の伝統のなかで追求されてきた音楽と深いところで呼応し合っていることを、アコーディオン独奏のための《メローディア》(1979年)のような最初期の作品からも、はっきりと感じ取ることができました。

今回の連続演奏会では、この作品をはじめ、とくに楽器の独奏のために書かれた作品が、細川さんの音楽が、「作曲するとは自分自身の楽器を作り上げることである」というヘルムート・ラッヘンマン(彼も最近80歳の誕生日を迎えたようですね)の理念を、彼の音楽とは異なったかたちで、時空の書の線を描くかたちで実現していることを、強く感じさせました。なかでも、フルート独奏のための《線》(1984/86年)の上野由恵さんの演奏は、細川さんの音楽の展開の大きな足がかりとなったこの作品の新たな可能性を感じさせる、素晴らしいものでした。また、ヴィオラ独奏のための《哀歌》(2011年)における赤坂智子さんの演奏は、東日本大震災の衝撃の後の細川さんの音楽の深まりを歌心をもって響かせる、実に印象的なものでした。

今回の演奏会でこれらの他にとくに印象に残ったのは、太田真紀さんの声の充実ぶりでした。ジャチント・シェルシの作品で、この同時代の作曲家が細川さんと同様に一つの声から一つの世界を開く音楽を追求していることを見事に響かせた後、演奏会を締めくくる《三つの天使の歌》(2014年)では、警告し、絶望を歌いながら、地上に生きることを見つめ直させる天使の声を空間に屹立させていました。この曲では、吉野直子さんのハープにより、天使の歌が深い哀しみのなかから発せられていることも感じられました。そして、吉野さんのハープと宮田まゆみさんの笙は、《うつろひ》(1986年)をはじめとする作品で、非日常的でありながら、世界そのものを構成するものが凝縮されたかたちで現出する儀式的な場を開く、という細川さんの音楽のもう一つの側面を浮き彫りにしていました。吉野さんのハープとサクソフォンの大石将紀さんの《弧のうた》(1999年)は、今回の演奏会全体を、細川さんの音楽の新たな展開へ向けて象徴する、見事なものだったと思います。

11月29日には、紀尾井ホールにて、ヴィオラ奏者の今井信子さんの三回にわたるリサイタルのシリーズ「夢」の第三回を聴きました。“Clarinet Trio”と題された今回の演奏会は、クラリネット、ヴィオラ、ピアノの三重奏のために書かれたモーツァルト、シューマン、クルターグの作品をプログラムの中心に置いたうえで、ブラームス晩年の二曲のクラリネット、あるいはヴィオラのためのソナタを、クラリネットとヴィオラで演奏するという充実した内容の演奏会でした。クラリネットがヒェン・ハレヴィでピアノが韓国出身の新鋭キム・ソヌク。表現意欲に満ちたこの二人の冴えた演奏を今井さんが豊かな響きで受け止めて、温かくもスリリングなアンサンブルが繰り広げられていました。

とくに、モーツァルトのケーゲルシュタット・トリオがこれほど豊かな振幅を持って奏でられたのは、これまで聴いたことがありませんでした。個人的に嬉しかったのは、クルターグの《ローベルト・シューマンへのオマージュ》を実演で聴けたことです。シューマンの引き裂かれた内面を掘り下げながら、それをクルターグ自身の音楽と共鳴させるこの作品の「夜の音楽」は、非常に魅力的に思われました。クラリネットによるブラームスの第1番のソナタも、楽器の持ち味を最大限に生かした好演でしたが、何よりも素晴らしかったのが、今井信子さんのヴィオラによる第2番のソナタの演奏。自然な息遣いで連綿と歌い継いでいくヴィオラの響きが、会場を満たしていました。

20151204

チャリティークリスマスコンサートflyer

12月4日には、エリザベト音楽大学のセシリアホールで行なわれた、同大学のチャリティークリスマスコンサートを聴きました。この演奏会では、20世紀初頭の夭折の詩人ゲオルク・トラークルが四季に寄せた詩をテクストに自然の深い息遣いを響かせながら、季節が巡るなかに、第二次世界大戦の末期に起きた二つの凄惨な出来事、ドレスデン空襲と広島への原爆投下という出来事の記憶を深く刻み込む、細川俊夫さんの《星のない夜》が演奏されました。この作品の解説と歌詞対訳を、演奏会のプログラムに寄稿させていただいたことを、とても光栄に感じています。この作品を取り上げようと決意された大学関係者の方々にも、心からの敬意を表わしたいと思います。《星のない夜》の演奏は、一音一音に熱意のこもった素晴らしいもので、とくにソプラノの小林良子さんが、澄んだ声ときれいな発音で一つひとつのフレーズを美しく響かせる演奏を聴かせてくれたのが印象的した。細川さんの音楽思想が集約されたこの作品に耳を傾けながら、70年前に起きた出来事に思いを馳せ、今を見つめ直す機縁を与える、被爆70年の記念に相応しい演奏だったと思います。

12月6日には、三原市芸術文化センターポポロへ、大阪フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会を聴きに行きました。音楽監督の井上道義の指揮で、アールトネンの交響曲第2番「ヒロシマ」とブルックナーの交響曲第4番、それに佐藤眞のよく知られた「大地讃頌」が、冒頭に地元の合唱団と演奏されました。朝比奈隆が、今から60年前に広島で当時の関西交響楽団と演奏したアールトネンの「ヒロシマ」交響曲と、これも朝比奈が自家薬籠中のものとしていたブルックナーの「ロマンティック」交響曲が井上道義の指揮の下でどのように響くのか、楽しみに出かけました。

アールトネンの交響曲に関しては、この曲とその演奏史をずっと辿って来られた能登原由美さんがこのほど公刊された素晴らしい本『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』(春秋社)を読んで、少し「予習」して行ったので、いろいろと考えさせられるところがありました。1947年に着手され、1949年に完成したというこの作品は、広島の被爆についての情報が未だきわめて乏しいなかで、原子爆弾の被害を人類の問題として受け止め、そこからの人間の再生を願って書かれたものとひとまず言えるでしょうか。音楽そのものは、同郷のシベリウスからの深い影響の下、映画音楽などの作曲の経験なども踏まえながら書かれていると思われます。同時代のショスタコーヴィチの一部の作品と呼応するようなリアリズムないし描写性を示すところもあります。井上道義の指揮による今回の「ヒロシマ」交響曲の演奏は、井上なりの解釈の下で、「交響曲」としての構成よりも、一篇の交響詩としての流れを重視して、標題音楽的な要素を生かしながら一気に聴かせるものだったのではないでしょうか。序奏で重苦しく奏でられたモティーフが、終楽章で長調に転じて回帰し、再生への願いを込めて徐々に熱を帯びていくあたり、引きつけるものがありました。

後半のブルックナーの交響曲の演奏は、各楽章の主題をゆったりと歌わせながら、それに各声部が対位法的に絡む動きもしっかりと響かせることによって、歌謡性と響きの充実を両立させた、とても聴き応えのあるものでした。井上は、とくに両端楽章で細かいアゴーギグを加えることで、彼ならではの曲の流れを作り出していました。この曲でも井上は、ブロックごとの構築性よりも、全体の自然な流れを重視していたように思いますし、それが彼ならではのブルックナーへのアプローチなのでしょう。とくに第2楽章と第4楽章は、美しい演奏に仕上がっていたと思われます。

第2楽章では、見事なテンポ設定の下で、最初にチェロに現われる憂いを帯びた主題が連綿と歌い継がれていく流れが素晴らしかったですし、第4楽章では、大きな広がりを持った響きのなかに第二主題をゆったりと響かせることが、音楽の大きな起伏を作り、最終的に壮大なクライマックスを現出させたあたりは、実に感銘深かったです。全体的に、ピアノの音量が大きすぎる印象を受けましたが、それは楽員が、井上の意図するところを懸命に実現させようとした結果かもしれません。井上と大阪フィルハーモニーの関係が深まれば、表現の振幅はおのずと広がることでしょう。

ともあれ、両者のブルックナー演奏の朝比奈時代とはひと味異なる方向性を垣間見ることもできました。大阪フィルハーモニーの演奏を聴くのは、実に久しぶりでしたが、重心の低い、聴き応えのある響きは相変わらずでしたし、さらにそこに透明感も加わってきているようにも思われます。もう一つ印象深かったのは、槇文彦が設計したポポロの音響の見事さです。充分な残響のなかで総奏が輝かしく響くのみならず、そのなかで内声の細かい動きもよく聞こえます。三原市民の素晴らしい財産と言うべきこのホールを、しっかりと生かし続けてほしいものです。

Die_Zwitscher-Maschine_(Twittering_Machine)

Paul Klee, »Die Zwitscher-Maschine«(1922)

最後に、話題が少し音楽から美術へスライドするかもしれませんが、ベルンのパウル・クレー・センターに集うクレーの美術の世界的な研究者が主体となって編集され、このほどその創刊号がオンラインで発行された、クレー研究の国際的な雑誌“Zwitscher-Maschine”──この表題は、クレーの水彩画《さえずり機械》(1922年)に由来しています──に、今夏栃木県の宇都宮美術館で開催されたクレー展「だれにもないしょ。」の展覧会評を、英語で掲載していただきました。拙稿の掲載の機縁を作ってくださり、そのために編集を含めご尽力くださった、チューリヒ大学の柿沼万里江さんと翻訳者のデイヴィッド・ノーブルさんに心からの感謝を捧げたいと思います。拙稿は、ご興味のある方にご一読いただけると幸いです。ヴァイオリンを愛し、生涯にわたり音楽を着想の源泉とし続けたクレーの作品を新たな角度から見直す、ささやかなきっかけになればと願っております。

パウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」を観て

宇都宮美術館におけるパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」flyer

宇都宮美術館におけるパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」flyer

「愚かさは、カフカのお気に入りのものたち──ドン・キホーテから助手たちを経て動物たちに至るまで──の本質をなすものだ。〔中略〕カフカにとって、次のことだけは疑いもなく確かなことだった──まず第一に、人は誰かを助けるためには愚か者でなければならないということ、第二に、愚か者の助力だけが真に助けであるということ。不確かなのは、ただ、その助けがまだ人間の役に立つのかという点だけだ」。

現在宇都宮美術館で開催されているパウル・クレー展「だれにも、ないしょ。」の最終章のタイトル「愚か者の助力」は、ここに引いたヴァルター・ベンヤミンが友人のゲルショム・ショーレムに宛てた書簡のなかでフランツ・カフカの文学の核心にあるものを論じる一節から採られている。この最終章の空間に集められているのは、《何が足りないのだろう?》(1930年)という自嘲的とも見える小品に描かれた胴体のない人物=動物像をはじめ、出来損ないの被造物=生きものたちの形象である。クレーが晩年に集中的に描いた天使たちもまた、こうした被造物の仲間なのだ。

クレーの天使たちは、神の使者として地上に真理を啓示する力を未だ手にしていない。同じ空間のなかに展示されている《天使、まだ手探りをする》(1939年)に描かれた天使の姿が示すように、真理から遠ざかり、歪んでしまった世界のなかでもがいている。もしかすると、人に手を差し延べることは、この天使の手探りのような、盲目的でどこか愚かしい身ぶりでしかありえないのかもしれない。しかし、この祈りのような身ぶりがもたらすメタモルフォーズ──たとえそれが、《巣を発明した雌》(1925年)のような異形の生きものを産むものであったとしても──こそが、生あるものたちの息遣いなのだ。

このことを、クレーの開く「遊戯空間」は、いたずらっぽい微笑みとともに示している。「だれにも、ないしょ。」というテーマで開催されている今回のクレー展は、どこか出来損ないのところを含むことで、分類し、飼い馴らす眼差しを逃れていく生きものたちが変貌のなかに息づくこの「遊戯空間」に独特の時空間へ見る者を誘い、形象のさらなる解読を触発する展覧会であると言えよう。これほどまでに豊かな知覚経験のなかで、クレーの絵画の新たな奥行きを、彼の創作過程をも垣間見ながら楽しむことができるクレー展は、少なくとも日本ではこれまでなかったのではないだろうか。そのことは言うまでもなく、クレー独特のテーマの下にさまざまな時期の作品を、互いに響き合うよう配置しうるまでに深められたクレー研究に裏打ちされている。

今回のクレー展において重要と思われたのはまず、彼の絵画についてつとに指摘されてきた音楽性が深められる経験である。クレーの「遊戯空間」に鳴り響く音楽は、《赤のフーガ》(1920年)のような独特のポリフォニーであるが、それは複数の声部の共鳴であるだけにとどまらず、そのなかから第三のものが生まれてくるダイナミズムともなる。本展覧会の第2章「多声楽」は、その響きの振幅の大きさをも存分に味わえる場となっていた。例えば《島》(1932年)では、点描を駆使した色彩のポリフォニーの海のなかから、閉じることのない島の形態が、多次元的な運動とともに浮かび上がってくる。

あるいは、クレーのポリフォニーの響きは、《光にさらされた葉》(1929年)においては、補色という両極の混合によって作られた色彩のグラデーションを形成しながら、一枚の葉を生成させる。ゲーテの言う、植物の生成そのものを象徴する「原現象」としての葉を静かに差し出すようにして。この作品の静謐さは、初期作品《裸体》(1910年)の神秘的な静けさにも通じていよう。この作品には、画面を90度反転させた状態の赤外線写真が添えられていたが、それに浮かび上がる小さな人物が、実際の画面では、身ごもっているとも見える悲しげな裸体の女性の胸の辺りに、微かに浮遊している。

そのことは、小さな人物が生まれ出る前に埋葬されてしまっていることを告げながら、同時にこの人物が、女性の悲しみのなかに懐胎され、甦ろうとしていることをも暗示しているのではないだろうか。塗り重ねによる画面の重層化によっても表わされるクレーのポリフォニーは、生と死のあわいへも、見る者を誘っているのだ。このことは死者の深い哀悼にもとづいていよう。とりわけ、第一次世界大戦でおびただしい死を経験したクレーは、歴史の遺物を自然が侵食する廃墟のなかから、生きものたちが甦り、息づく場を開こうとしているのではないか。このことを暗示しているのが、第3章「デモーニッシュな童話劇」に集められた、緑が印象的な作品群であろう。

なかでも、《女の館》(1921年)は、深い闇のなかから明滅する緑がメルヒェン的な、自然と人工物の境界を不分明にするような形態を浮かび上がらせ、もう一つの世界への玄関へ見る者を誘う。また、《小道具の静物たち》(1923年)では、打ち捨てられた小道具たちが、怪しい光を放ちながら動き始める。その時間が、現実世界のクロノロジカルな時間とは別の時間であることも、クレーの絵画は優れて音楽的に示しているのだ。そのことは、第1章「何のたとえ?」に集められた、音楽のフェルマータやターンの記号をモティーフとした作品が、説得的に示しているのではないだろうか。

時間の転回をもたらす装飾音ターンの記号は、《子ども》(1918年)の顔では、後の《新しい天使》(1920年)を思わせる顔を形づくっているが、《ある音楽家のための楽譜》(1924年)では、矩形の形態が分解して落下する運動の時間を、ぐっと繋ぎ止めているようにも見える。他方、眼を思わせるフェルマータの記号は、《アクセントのある風景》(1934年)では、時の静止をもたらすとともに、風景をたわませ、緑に息を吹き込む。このような、もう一つの時間によって貫かれることによって、生あるものたちが──失われたものも含め──甦り、メタモルフォーズのなかに息づく世界。これをクレーの絵画は構成するわけだが、そこへと誘うのが、本展覧会の第5章の表題にもなっている「中間世界の子どもたち」であろう。

最晩年の《無題[子どもと凧]》(1940年)に登場する、体が手紙と化した子どもは、自分がいる画面の裏側にある楽園、《無題[花と蛇]》の世界──それを見せる展示から、クレーの両面制作の重要性も伝わってくる──へ、見る者を導くかのようだ。その姿は、メタモルフォーズとともに生あるものの形態が浮かび上がってくる源泉へ見る者を招待する、クレーの絵画そのものの象徴でもあるのかもしれない。そして、今回のクレー展「だれにも、ないしょ。」は、その招待に応じてクレーのいたずらっぽい微笑みの足跡を辿ることで、けっして完結することのない彼の世界の内奥へ、豊かな音楽の経験と新たな知見とともに導かれる、希有な機会と言えよう。《プルンのモザイク》(1931年)などの傑作も集まっている。

[2015年7月5日〜9月6日:宇都宮美術館/9月19日〜11月23日:兵庫県立美術館

連続講演会「ベンヤミンの哲学」のお知らせ

パウル・クレー《新しい天使》/Paul Klee, »Angelus Novus«, 1920 [Public Domain]

パウル・クレー《新しい天使》/Paul Klee, »Angelus Novus«, 1920 [Public Domain]

早いもので四月も下旬となりました。からりと晴れたかと思うと嵐のような雨風が襲来したりと気候不安定な日々が続いておりますが、お元気でお過ごしでしょうか。新しい年度が始まり、いつにない緊張感をもって仕事や勉学に臨んだ疲れが出る頃かもしれません。体調に気をつけたいものです。

さて、このたび東京ドイツ文化センター図書館のご尽力により、拙著『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)の内容を基に、ヴァルター・ベンヤミンの思想を紹介する、3回シリーズの講演の機会をいただきました。「ベンヤミンの哲学──言語哲学と歴史哲学」というテーマの下、20世紀前半の危機に向き合いながら、文筆家として多彩な活躍を示したこの希有な思想家の思考を解きほぐしながら、その著作をこの危機の時代に読み直す意義に迫ることができればと考えております。

拙著『ベンヤミンの言語哲学』では、ベンヤミンがパウル・クレーの水彩画《新しい天使》を手に入れて以来、生涯の節目ごとにその著作のうちに描き出した天使の像を、言語の本質へ向かうベンヤミンの思考の像として見据えながら、彼の青年期から早過ぎた晩年に至る思考のうちに、言語をその本質から捉え返しながら言語の可能性を照らし出そうとする一貫した言語哲学を見て取ろうと試みました。今度の連続講演では、そのような拙著の視点を生かしながら、ベンヤミンの哲学的思考を、そのアクチュアリティにおいてお伝えしたいと願っております。第1回ではベンヤミンの生涯と著作を概観し、第2回では彼の言語哲学を、第3回では彼の歴史哲学を中心にお話しするつもりです。各回の詳細につきましては、東京ドイツ文化センターの催し物情報をご覧ください。

拙著『ベンヤミンの言語哲学』の書影です。あらかじめ読んでいただけたら幸甚です。

拙著『ベンヤミンの言語哲学』の書影です。あらかじめ読んでいただけたら幸甚です。

ベンヤミンは、死者でもある他者に応えながら言葉を生き抜く道筋を、翻訳という視点から示すとともに、そこに内在する過去の想起の働きから歴史そのものを捉え直す可能性を指し示しています。そのような彼の哲学を、放射能によって生そのものが根幹から蝕まれようとするなか、戦死を含む死に至るまで生命が絞り取られようとしている危機的な状況に立ち向かいながら、他者とともに生きることを言葉をもって深く肯定する余地を今ここに切り開く思考──それはベンヤミンがさまざまな場所で論及しているように、立ち止まることから始まることでしょう──のきっかけをもたらすものとしてご紹介することを目指したいと思います。

ベンヤミンの文学的著作や思想に、あるいは哲学そのものに関心をお持ちの方が数多く参加してくださることをお待ちしております。今の状況のなかで少し立ち止まって考えてみたいと思われる方のご参加も、もちろん歓迎いたします。ディスカッションのなかで、さまざまな関心を交換しながら、ベンヤミンを読み直す可能性を探ることができればよいのではないでしょうか。

講演会は、7月31日、8月28日、9月25日のいずれも金曜日の18:30より開催されます。会場は、東京ドイツ文化センター(ゲーテ・インスティトゥート)2階の図書館です。参加費は無料です。参加をご希望の方は、東京ドイツ文化センター図書館に、Eメール(yoshitsugu[アットマーク]tokyo.goethe.de)かお電話(03-3584-3203)でお申し込みください。みなさまのお越しを心からお待ち申し上げております。

ミュンヒェンへの旅より

ミュンヒェン中央駅の少し北の石畳に見つけた石版

ミュンヒェン中央駅の少し北の石畳に見つけた石版

10月31日から11月4日にかけて、3泊5日とごく短期間ではありましたが、久しぶりにミュンヒェンへ出かけておりました。主な目的は、すでに別稿に記しましたように、バイエルン国立歌劇場におけるベルント・アロイス・ツィンマーマンのオペラ《軍人たち》の上演を観ることと、もう一つ、今まで訪れたことがなかったダッハウの強制収容所跡を訪れることでした。《軍人たち》の上演そのものについては、別稿をご参照いただくとして、最近観たオペラの公演のなかで最も優れたものの一つと言えるこの公演について、ここで付け加えることがあるとすれば、それは会場の熱気でしょうか。

10月31日、11月2日と二回観た公演のいずれもほぼ満席で、公演が始まる前から劇場は期待感に包まれておりました。二度目に観に行ったときには、開演1時間前から始まるEinführung(鑑賞の手引き、とでも訳せましょうか)──ドイツで演奏会やオペラ公演の前にしばしば行なわれる導入の講演で、オペラ劇場では劇場所属のドラマトゥルクが、時にピアノ演奏も交えつつ、作品やプロダクションの特徴を紹介します──に間に合うよう出かけたのですが、その会場のホールがすでに満員で、2回目の講演まで半時間ほど待つことになりました。その間、コーヒーを飲みながら、論考やドキュメントなどで一冊の本と言えるほど充実した内容のプログラムの一部を読むことができました。たしかに、この強烈な公演の前半だけで帰ってしまう人もいたにはいたのですが、そのような人たちは、舞台上でダンサーたちが裸体を血痕とともに露わにすることで暗示している暴力を、今も自分たちが生み出していることを正視しようとしないのでしょう。

11月1日には、同じバイエルン国立歌劇場でレオシュ・ヤナーチェクの《マクロプロス事件》の公演も観ることができました。カレル・チャペックの同名の戯曲にもとづくこのオペラでは、人間が死すべき者であることや、近代人のアイデンティティの複数性ないし多面性が、ルドルフ二世に仕えた錬金術師の父親が作った不老長寿の秘薬のおかげで337年生きたという主人公エミリア・マルティによって、非常に興味深いかたちで問題化されるわけですが、この主人公を歌ったナージャ・ミッチェルは、芯のある声で、オペラの舞台で卓越したプリマ・ドンナを演じるという困難な課題に応えていたように思います。彼女の歌に寄り添うヴィオラ・ダモーレの演奏も魅力的でした。この古い楽器は、ヤナーチェクの他のオペラ、例えば《カーチャ・カバノヴァー》でも重要な役割を果たします。

バイエルン国立歌劇場の《マクロプロス事件》公演のポスター

バイエルン国立歌劇場の《マクロプロス事件》公演のポスター

アルベルト・グレゴルを演じたパヴェル・ツェルノクはじめ、他の歌手たちもなかなかの力演を示していましたが、最も印象的だったのは、文字通り惚け役であるハウクを演じたライナー・ゴールドベルクの歌唱でした。未だ伸びのある声と巧妙な演技で、圧倒的な存在感を示していたと思います。ヤナーチェクの音楽に通暁しているというトマーシュ・ハヌスの指揮も素晴らしく、躍動感のある音楽の運びを示すだけでなく、深い間のなかかから劇的な瞬間を響かせてもいました。アルパード・シリングの演出には、いくつか疑問が残ります。最初の場面の弁護士の部屋に無数の椅子を積み重ね、時の堆積を表現するあたり、最近広島市現代美術館で写真で見たドリス・サルセドの作品を思わせて興味深いものがありましたが、最後の場面で、うずくまったエミリアと不老長寿の秘薬の処方箋を手に立つクリスタの上に、氷山を思わせる白い樹脂製の山が覆いかぶさるのは、あまりにも人為的で、かつ本来焼かれることになっている処方箋の行く末を曖昧にするものに思われました。それから、エミリアの337年の生涯が示すように、人が複数の名を名乗って、さまざまな「何者か」でありうることにも、もう少し光を当ててもよかったのではないでしょうか。

新しいレーンバッハハウスの玄関を屋内より

新しいレーンバッハハウスの玄関を屋内より

11月1日の日中は、最近改装されたレーンバッハハウスでじっくりと絵を見ました。展示スペースが大幅に拡がっていて、この美術館の柱である「青騎士」の画家たちの展示作品はもちろんのこと、とくにカンディンスキーとミュンターの展示作品がかなり増えている印象を受けます。同じ風景をこの二人がどのように描いているかを見比べたりできるよう、展示も工夫されています。カンディンスキーの作品の色彩、とくに色の配置と形態の関係にあらためて感銘を受けました。クレーの作品の展示も、以前より増えていて、拙宅の玄関にポスターを掛けている《薔薇の庭園》の実作を見られただけでなく、ちょっとした発見もありました。1921年の《野苺》という作品と1922年の《野人》という作品に、1920年の《新しい天使》に似た形態が見られるのです。この時期のクレーを貫くモティーフを暗示しているのかもしれません。オットー・ディクスらのいわゆる「新即物主義」の画家たちの作品の展示にも、その後のナチズムへの態度を配置で暗示するなどの工夫がなされていましたし、気鋭の作家ヴォルフガング・ティルマンスの作品にもスペースが割かれていました。建物や庭園も綺麗ですし、中央駅から歩いても行けますから、ミュンヒェンへ来られた際の訪問先としてお薦めしておきたいと思います。

レーンバッハハウスの庭園を二階回廊より

レーンバッハハウスの庭園を二階回廊より

翌11月2日は午前中に、今まで訪れたことのなかったピナコテーク・デア・モデルネ(現代美術館)の展示作品を見ました。まず建物の大きさに驚かされましたが、全体としては、ロンドンのテイト・モダンを横に広げた感じでしょうか。特別展として、ジャック・リプシッツの素描や写真が展示されていたり、ヨーゼフ・ボイスの新たな民主主義へ向けた「社会的彫刻」や複製による発信をはじめとするさまざまな試みが展示されていたのを興味深く見ましたが、やはり圧倒的な印象を残したのは、いわゆる「現代の古典」の絵画の膨大な展示でしょうか。キルヒナー、クレー、カンディンスキーの魅力的な作品が数多く展示されているだけでなく、シュルレアリスムの展開を見通せるようにもなっています。《ティロル》をはじめ、フランツ・マルクとアウグスト・マッケという第一次世界大戦で斃れた二人の画家の到達点を示す作品を目の当たりにし、しばらくその場を動くことができませんでした。

この日の午後には、ミュンヒェン在住の音楽批評家マックス・ニフラーさんに、イギリス庭園での散歩にお誘いいただきました。穏やかな日差しに黄色に色づいた木々の葉が映えるなかを一緒に歩きながら、たくさんの貴重なお話をうかがうことができました。バイエルン国立歌劇場で上演されているツィンマーマンの《軍人たち》にも話が及び、その初演を担当したミヒャエル・ギーレンは、ユダヤ系の出自を持ち、ナチスの迫害を受けた者としての実存的な決断として、このオペラのケルンでの初演の指揮を引き受けたのだと語っておられました。第二次世界大戦の戦いにドイツ軍の兵士として従軍し、負傷した経験を持つツィンマーマンがこの作品を書いたこととの符合を感じさせるお話です。イギリス庭園では、スポーツに汗を流したり、マースと呼ばれる1リットルのビア・ジョッキを傾けたりと、人々が思い思いに日曜の午後を楽しんでいました。

»Arbeit macht frei«と書かれた鉄扉が失われたダッハウ強制収容所の入口

»Arbeit macht frei«と書かれた鉄扉が失われたダッハウ強制収容所の入口

滞在最終日の11月3日は、午前中からダッハウの強制収容所跡へ出かけましたが、そこに着くなり、衝撃的な出来事を目の当たりにすることになりました。写真から分かるように、収容所の監視塔の下の鉄扉が»Arbeit macht frei«(「労働は自由にする」)の文字ごと無くなっています。11月1日から2日の夜間に盗まれたとのことでした。まだ犯人が捕まっていないので、誰がどのような意図をもってこの扉を盗んだのかはわかりませんが、ナチスの蛮行を象徴するものがこの場から取り去られること自体に、途方もない気味の悪さを覚えます。歴史修正主義の臭いを感じないではいられません。その日の昼前に行なわれた記者会見で述べられていたように、この歴史的な場所を保存することの精神の根幹を傷つける犯行であるのは確かでしょう。ちなみにこの扉は、1936年に強制労働によって鋳造されたオリジナルで、同じ文字を掲げた門が、よく知られているように、後にアウシュヴィッツにも造られました。アウシュヴィッツのそれも、一度盗まれて破壊されています。

そのようなわけで、空の色とは対照的に、非常に重苦しい気持ちを抱えながら収容所の施設を見て回ることになりました。1933年に開設されたこのダッハウの強制収容所は、最初の大規模な強制収容所の一つで、その後の強制収容所およびその運営のモデルとなっています。この収容所は、収容所を支配する親衛隊幹部の訓練地の役割も担っていたようです。さらに、この収容所の火葬場には、小規模ながらガス室も備わっていました。ここで「選別」された囚人たちが次々とガス殺されていたわけですが、それは東方の占領地に設けられた絶滅収容所における殺戮の実験の意味合いもあったのかもしれません。資料館では、こうしたことが歴史的背景とともに、きわめて詳細に説明されていました。心理学者のブルーノ・ベッテルハイムがここに収容されていたのはよく知られていますが、チェコの作家にして画家で、カレル・チャペックの兄のヨーゼフ・チャペックもダッハウに収容されていたことも知りました。カレル・チャペックの戯曲にもとづくオペラを観た直後だっただけに、このことは胸に迫るものがありました。

ダッハウ強制収容所の木立のあるメイン・ストリート

ダッハウ強制収容所の木立のあるメイン・ストリート

ところで、今回の旅行ではあまり落ち着いて食事をする暇がなく、朝食以外にまともに座って食べたのは、11月1日の夜の《マクロプロス事件》の公演後に、たまたま見かけたイタリア料理の店でペンネ・アラビアータを食べたときだけでした。勘定を済ませてその店を出るとき、Auf Wiedersehen!(さようなら)と店の人に声を掛けたところ、「チャオ、チャオ!」と愛想よく挨拶を返してくれたのですが、それを耳にして思い出したのが、旅のあいだ読んでいたヘルタ・ミュラーの小説»Herztier«(『心の獣』とでも訳せるでしょうか)の一節でした。そこでは、どこかで覚えた「チャオ、チャオ」の言葉をルーマニアの子どもが使うのを、大人が制止するのです。独裁者チャウシェスクの名を思い起こすから、というわけですが、それほどまでに彼の独裁の恐怖が、ルーマニアの人々、とりわけ彼の独裁体制に順応できない人々の身体に浸透しているのを、ミュラーの小説は、時に韻文の響きを聴かせる文体で、非常に細やかに描き出しています。この小説の錯綜した時間は、相互監視体制の暴力が、亡命に成功した人の心にも癒しがたい傷を残していることを暗示しているにちがいありません。

ドイツの東西統一と東ヨーロッパの「民主化」の決定的な契機となったベルリンの壁の崩壊から、今年の11月8日でちょうど四半世紀が経ちますが、このような節目に、ミュラーの文学が迫っているような、旧東側の独裁体制下に生きた人々の記憶を、例えば、今パレスティナで隔離壁によって、移動の自由をはじめ、あらゆる自由を奪われるだけでなく、不断の監視に曝されてもいる人々の経験と照らし合わせることが重要なのではないでしょうか。そうして、この隔離壁に象徴される新たな、時に不可視の壁が、レイシズムとも結びつきながら人々のあいだに張り巡らされていくのを食い止めることが喫緊の課題であることを、祝祭に湧きつつあるドイツに短いあいだ滞在して、あらためて思わざるをえませんでした。