「くちづけ──現代音楽と能」を聴いて

53570254_2329870843731941_7859440378133348352_n去る3月9日に東京文化会館の小ホールで、日本とハンガリーが外交関係を結んで150年になるのを記念して開催された演奏会「現代音楽と能──くちづけ」を聴くことができました。何よりも、細川俊夫さんの《線VI》を挟んで、エトヴェシュ・ペーテルの《HARAKIRI》と《くちづけ》の実演に接することができたのが嬉しかったです。45年の時を隔てて書かれたこれらの作品の対照的な性格を、とくに興味深く聴かせていただきました。これらの演奏に先立ち、中堀海都とバログ・マーテーという、日本とハンガリーの若い作曲家の作品の世界初演がありました。

三島由紀夫の割腹自殺の報に触発されて書かれたバーリント・イシュトヴァーンの寓意的な詩を用いた《HARAKIRI》は、一見「腹切り」とは無関係に見える営みが語られるなかに、自死への歩みとは何かが、声と器楽が呼応するなかにひたひたと迫ってくる作品と言えるでしょう。青木涼子さんの謡は、とくに「七枚の布団」を親しい人に分けようと思うなかで、死へ向かう者の狂気が徐々に高まっていく過程を、胸に迫るかたちで伝えていました。

声の変化もさることながら、さりげない前後の動きも、情景が禍々しさを増していくのを説得的に伝えていたと思います。青木さんの顔を面を被っているかのように浮かび上がらせる照明も効果的でした。謡を支えるバス・クラリネットの二重奏が、たゆたうような後奏に至るまで一つの流れを形づくるなか、木を叩く音が死への時を刻んでいくのも印象深かったです。これらの響きに耳を傾けながら、ある軍人の夫妻の自殺の過程を描いた三島の小説を思い出していました。

1973年に書かれた《HARAKIRI》という作品からは、バルトークの《中国の不思議な役人》のような作品とも通底するような象徴性が感じられますが、アレッサンドロ・バリッコの小説『絹』に想を得て2018年に書かれた《くちづけ》は、声と器楽を巧みに生かして、絹を求めてフランスから日本に来た商人の心に深く刻み込まれることになる情景を明瞭に描き出しながら、そのなかに「くちづけ」をめぐる心の動きを細やかに響かせる作品と思われます。

ここでも青木さんの声が、茶器を介した「くちづけ」の場面に繰り広げられるドラマを伝える決定的な役割を果たしていました。とりわけ、語りから謡への移行の瞬間が非常に魅力的で、唇の付けられた茶碗へと手を伸ばすところにある胸の高まりに聴き手を引き込んでいました。商人と一度限りの「くちづけ」を交わす少女のどこか神秘的な魅力と、まっさらな絹を一つながらに象徴するかのような衣裳も、今回の舞台に相応しく思われました。

器楽がこのモノ・ドラマを形づくるうえで重要な役割を果たしていることも、表現力豊かな演奏から伝わってきました。なかでも、斎藤和志さんのフルートの音色と、神田佳子さんのパーカッションのパフォーマンス(バス・ドラムにテープを貼って剝がすことも含めて)は、持続のなかの変化を魅力的に伝えていたと思います。神田さんは、細川さんの打楽器独奏のための《線VI》で、空間に線が描き出されていく動きを、文字通り全身で表現していました。

演奏会の前半に初演された二人の作曲家の作品も、それぞれに魅力的でした。マーテーさんの作品におけるクロマティック・タムタムと器楽の対話の求心性と、中堀さんの作品における、霧のような響きのなかから風景が展開していく音楽の豊かな広がりは、一見対照的ですが、いずれも一つの世界に沈潜していく冥想的な性格を示している点、興味深かったです。このことが独特の美しい響きに結実していることは、二人の作曲家がすでに洗練された語法を確立しつつあることを感じさせます。他方で、今見つめている世界を突き抜けるような何かを、時間的にも凝縮された作品に結びつけられるなら、二人は新たな時代を切り開く音楽を届けられるのでは、とも感じました。

今回の「現代音楽と能〜くちづけ」のプログラムに、「閾(しきい)を開く声──青木涼子の謡の展開によせて」と題する小文を寄稿させていただきました。この演奏会が示したように、現代音楽と協働しながら、彼岸と此岸の閾を開き、うたう可能性を開拓し続けている彼女の活動を、パリでの細川さんの《二人静》の初演のことを含めてお伝えする内容のものです。これを振り返る機会をくださった関係者のみなさまに心から感謝しております。

初夏の仕事、能と現代音楽の共鳴

本当に早いもので、そろそろあちこちから梅雨明けの声が聞かれる時季となりました。この時季、急な豪雨が来たり、猛暑に見舞われたりと気候が不安定ですので、みなさまくれぐれも体調などに気をつけてお過ごしください。最近では、初夏に大きな台風が日本列島に上陸するようにもなってきました。先の台風で被害に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げます。

さて、この6月から7月上旬にかけても、非常に慌ただしく過ぎていきました。心も身体も追いつかないくらい、さまざまなことがあった今年の初夏でした。まず、6月7日(土)のことですが、広島市映像文化ライブラリーでのポーランド映画祭2014のなかで、ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の傑作『サラゴサの写本』(1965年)が上映された際に、広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン出張講座」ということで、この作品を紹介するお話をさせていただきました。ナポレオン戦争下のサラゴサで発見された手稿本のなかで、さまざまな物語が無限に組み合わさっていくさまを、実に魅力的に描き出したこの映画のなかでは、今私たちも幻視すべき、異質な者たちが共存する世界が繰り広げられています。また、その世界を小説のうちに現出させた原作者ヤン・ポトツキが示す、歓待性にもとづく精神の自由も、あらためて顧みられるべきではないでしょうか。

それにしても、この『サラゴサの写本』という映画をつうじて、ハスという監督に出会えたのは幸運でした。翌日には、ブルーノ・シュルツの小説にもとづく『砂時計』(1973年)を見ましたが、そこでは、映像のマニエリスムとハシディズム的な幻想が一つになって、驚くべき世界が繰り広げられていて、圧倒されました。今回のポーランド映画祭では、これらのハス監督の作品以外に、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』というアンジェイ・ワイダの初期の傑作を見ました。前者では、明暗の対照のなかに極限的な緊張のうちにある心理が鋭く浮き彫りにされるさまが鮮烈でしたし、後者には、最近の『カティンの森』まで貫かれるワイダのテーマが、凝縮されたかたちで浮かび上がっているように思われました

さて、6月から7月上旬にかけては、二つの評論を公表させていただきました。一つは、5月2日に広島市の東区民文化センターのスタジオ2で行なわれた「人間そっくり」の公演の批評で、こちらは、広島芸術学会の会報128号に掲載していただきました。この公演は、京都の演劇ユニットこのしたやみと三重県の劇団Hi!Position!!による、安部公房の小説『人間そっくり』を構成したテクストのリーディングによるもので、拙稿「『そっくり』の深淵へ──このしたPosition!!リーディング公演『人間そっくり』を観て」では、この公演を、リーディングと巧みな演出によって安部公房の作品の論理的な仕掛けを生かしたスリリングな舞台とご紹介しました。

もう一つは、スーザン・バック=モースの『ベンヤミンとパサージュ論──見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014年)の書評で、こちらは図書新聞の3166号(2014年7月12日付)に掲載していただきました。「大衆文化の夢から目覚め、歴史の主体になれ──歴史への覚醒の場をなす形象の座標系」という表題で、過分にも一面の頭に載せていただいております。バック=モースのこの本は、ベンヤミンの『パサージュ論』の古典的と言ってよい研究ですが、そこにあるベンヤミンの「弁証法的形象」を媒体とする「根源史」の試みの救出に光を当てることで、歴史修正主義とも結びついた今日の大衆文化からの歴史への覚醒を今に語りかける一書として、日本の読者に紹介する内容となりました。おそらく編集者のほうでも、この点に注目してくださったのだろうと思います。ちなみに、四半世紀以上前に刊行された原書は、「見ることの弁証法」という表題が示すとおり、「目の人」としてベンヤミンを特徴づけるのに一役買った書物ですが、現在では彼の思想の音響的なモティーフに注目する研究も増えてきています。今年3月に、広島大学大学院総合科学研究科人間文化講座の論集『人間文化研究』第6号に載せていただいた拙論「谺の詩学試論──ベンヤミンにおける『谺』の形象を手がかりに」も、こうした方向性を示す一つと言えるでしょう。

このように、講演したり評論を執筆したりするあいだにも、大学での講義や演習、そして年々増えるばかりの雑務に追われていたわけですが、大学院の演習では、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(上村忠男+廣石正和訳、月曜社、2001年)を、学生たちと読み直すことができました。ところどころあまりに存在論的と思われる議論も見られますが、アガンベンのこの論考は、証言の可能性を、言語自体の──不可能性と隣り合わせの──可能性から照らし出すとともに、証人であることを主体そのものの「脱主体化」から捉え直させる重要な文献であることは間違いありません。これから、この論考をはじめとするアガンベンの仕事や、ベンヤミンの歴史哲学的なテクストなどの再読をつうじて「残余からの歴史」ということを考え、被爆の記憶を──ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」へ向けて──継承することの世界的な意義にも、わずかなりとも光を当てられたらと思います。それから、ベンヤミンの言語哲学を論じた小著は、まもなくお手に取っていただけます。ご笑覧いただけたら幸いです。こちらについては、稿をあらためてご紹介いたします。

ところで、6月には幸運にも、いくつか非常に充実した内容の演奏会を聴くことができました。それについては、すでに別の記事でお伝えしましたので、ここでは一枚の素敵な、そしてこれからの音楽の可能性を考えるうえで非常に重要なディスクをご紹介しておきたいと思います。6月初旬に、敬愛する能楽師青木涼子さんが、デビュー・アルバム『能×現代音楽』をコジマ録音より出されました(ALCD-98)。これは、青木さんが2010年より“Noh×Contemporary Music”のテーマの下、ヨーロッパの作曲家に能に触発された作品を委嘱し、演奏し続けてきた取り組みの精華であると同時に、青木さんの能謡の魅力が、現代音楽の多彩な書法との共鳴のなかで見事に発揮された一枚であると言えるでしょう。東京オペラシティの今年のコンポージアムで、青木さんの手で日本初演されたペーテル・エトヴェシュの《Harakiri》の演奏も収められています。

このディスクを聴いていて、何よりも素晴らしいと思われるのは、現代の作曲家が、楽器の特殊奏法を含む新たな書法を駆使して、音響の身体性とも言うべき次元を追求しているのが、青木さんの声と共鳴し合っているところです。青木さんの声には、一本の芯とともに、深みと広がりが具わっているのですが、そんな彼女の声は、息遣いとともに周囲の空気に浸透し、またそこから立ち上がってきます。あたかもそれに触発されるかのように、作曲家たちは、響きが生まれる瞬間に注意を差し向けているように聞こえます。また、それによって何かが出現する気配が感じられるのが、この『能×現代音楽』というアルバムの大きな魅力ではないでしょうか。この気配こそ、能をはじめとする舞台芸術の場を開き、満たすとともに、歌う/謡うことを一つの出来事として成り立たせていると考えられます。この出来事のなかで、言葉が意味を帯びて響いてくることでしょう。

青木さんのアルバムのなかで、ことに魅力的に思われたのが、冒頭に収められたフェデリコ・ガルデッラの《風の声》でした。バス・フルートによって奏でられる音楽が、緊密なテクスチュアのなかで楽音と息音を行き来し、響きの襞を感じさせるのが、『井筒』の能謡と見事に調和して、時間的にも奥行きのある世界が開かれています。三島由紀夫の割腹自殺に触発されて書かれたエトヴェシュの《Harakiri》では、自死を遂げるなかで三島の脳裡に去来する想念が、最終的に彼の命を絶つ禍々しい音が断続的に、異様な身体性を伴って響く時間のなかで、聴き手にひたひたと迫るかたちで掘り下げれているように思われました。音楽をその根源に立ち返らせながら、音楽を舞台空間に、あるいはその空間自体を開くかたちで響かせる可能性をじかに感じさせる──マドリッドでヴォルフガング・リームのオペラ《メキシコの征服》にも出演された青木さんの活躍は、それを体現するものと言えるかもしれません──青木さんのアルバム『能×現代音楽』が、能楽を含めたこの時代の音楽の新たな展開を触発するかたちで広く聴かれることを願っております。

青木涼子アルバム表紙1