節目の夏の演奏会を聴いて

縮景園の被爆銀杏

縮景園の被爆銀杏

広島と長崎の被爆、そして日本の敗戦から70年の節目を迎えるこの夏、平和への願いをさらに深めながら新たにするきっかけとなる演奏会を聴く機会に恵まれた。まず、挙げなければならないのは、8月5日に広島文化学園HBGホールで開催された広島交響楽団の「平和の夕べ」コンサート。このオーケストラの第1回の定期演奏会でも演奏されたというベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調で独奏を務めたマルタ・アルゲリッチが、さらに若々しさと瑞々しさを増した音楽を聴かせてくれたのは忘れられない。

アルゲリッチの音楽の魅力は、最初の一音のなかから止めどなく音楽が湧き出てくる一方で、天衣無縫と呼ぶほかないパッセージの連なりに、おのずと必然性が具わってくることであろう。第1楽章の独奏の始まりから、楽想が溢れ出るのにすっかり引き込まれてしまった。また、彼女の演奏歴を顧みると、自分の音楽に適合した形式を具えた曲を厳選していることが分かる。この日演奏されたベートーヴェンの第1番の協奏曲も、そのような曲の一つであることが非常に説得的に伝わってきたが、そのことを越えて、アルゲリッチは、この協奏曲に横溢する若々しい生命力を、優れて音楽的に発揮させていた。とくに、フィナーレのロンドで彼女のピアノは、時に卑俗になりがちなパッセージでもけっして気品を失わないフレージングを示しながら、驚くべき速度感を示していた。

他方で、研ぎ澄まされた弱音で音楽をどこまでも深めることができるのも、アルゲリッチの演奏の魅力である。それがいかんなく発揮されたのが、緩徐楽章の最終部。恐ろしいまでの緊張感に会場が包まれたが、まさにそのなかから、最終楽章のロンドの主題が走り出したのである。ただ、そこに至る少し手前で、音楽がもう少し高まっていたならば、演奏全体としての弱音の表現に、いっそうの深みが出たのではないだろうか。オーケストラに、もう一歩踏み込んだ演奏の積極性を求めたかった。盛んな拍手に応えてアルゲリッチは、アンコールにシューマンの《幻想小品集》より「夢のもつれ」を、これ以上ない自在さのなかに、微かな翳りを添えながら聴かせてくれた。

休憩の後、ヒンデミットの交響曲《世界の調和》が演奏されたが、どちらかと言うとトゥッティの強奏が耳を引くことの多いこの曲では、全体の響きにもう少し有機的な一体感が欲しかった。それがないと、この曲が作曲された困難な時代に抗う音楽の抵抗力が伝わってこない。むしろ印象的だったのは静かな箇所で、とくに第2楽章の後半で、打楽器によるほの暗い、ヒンデミット独特の響きが聴かれた後、二本のヴィオラが奏でるパッセージは、静謐な美しさを示していた。独奏ヴァイオリンの優しく、どこか物悲しい歌も存在感を示していたし、第2楽章とフィナーレにおける木管楽器の独奏も素晴らしかった。これらのなかから響く、時代に抗う生命の息遣いと共振するところからこそ、平和への願いが深められるにちがいない。

7月11日には、すみだトリフォニーホールで、新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴くことができた。ダニエル・ハーディングの指揮で、マーラーの交響曲第2番ハ短調《復活》が演奏されたが、その演奏は、これまでのハーディングによるマーラーの演奏をはるかに凌駕しているように思われた。宇宙に満ちる魂の響きが深い沈黙から生成することを教えてくれる《復活》交響曲の演奏だった。

今回の演奏で非常に興味深く思われたのは、ハーディングが、一つひとつのフレーズを充分に時間を取って響かせながら、生命の蠕動とも言うべき細かいモティーフの一つひとつを、またその絡み合いを実に意味深く聴かせていたこと。これらの発展の末にこそ、強烈なエネルギーが、苦悩の叫びや切なる祈りとなって放射されることを、非常に説得的に示した解釈だった。

死への恐怖に苛まれた孤独な魂が、万物に満ちるアニマと共鳴し始める過程を彩る、「少年の魔法の角笛」の世界の歌の豊かさも特筆されるべきだろう。自然に流れる歌の潤いは実に魅力的で、アンダンテの楽章のフレージングは、これしかないと思うほど素晴らしいものだった。その一方で、肺腑を抉るような激しい表現にも欠けることのない演奏だった。とくに管楽器の各奏者の独奏や、各セクションのアンサンブルは、全曲にわたって高い完成度を示していた。

アルトのクリスティアーネ・ストーティンは、もしかしたら声質のうえでマーラー向きではなかったかもしれないが、「原光」の歌そのものは充分に説得的。ベルリンで何度かその声を聴いたことのあるドロテア・レシュマンは、期待どおりの豊かな声を聴かせていた。栗友会合唱団の振幅の大きな歌唱も印象深かった。宇宙の深淵の前に立たせるかのような深い沈黙からの発展の末に、「死して成る」生命への深い願いを高らかに歌い上げるフィナーレは、今まで聴いたなかで最も感動的だった。

7月27日には、JMSアステールプラザの大ホールで、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会を聴くことができたが、そこでのバッハのロ短調ミサ曲の演奏の素晴らしさについては、もはや多言を要しないだろう。ホールの音響がいささか残響に乏しいため、各声部の対位法的な絡み合いが明瞭に聞こえる一方で、管楽器の演奏がいささか苦しそうであったが、全体の響きの清澄さは申し分ない。澄んだ響きのなかで掘り下げられる悲しみと、魂の奥底からどこまでも広がっていく平和への祈りに深く心を揺さぶられた。 そのような平和への祈りを、舞台上の演奏家と聴衆が共にできることの喜びを噛みしめるところから、70年の節目からの一歩を踏み出すべきではないだろうか。

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広島交響楽団第338回定期演奏会を聴いて

雨が上がって春の日差しが戻った休日(4月29日)の午後、広島文化学園HBGホールで広島交響楽団の第338回定期演奏会を聴いた。下野竜也の指揮で、シューマンのヴァイオリン協奏曲にブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」というプログラム。新緑の季節に相応しいプログラムではないだろうか。

まず、後半のブルックナーの演奏が、下野の最近の音楽の充実を物語る内容だった。この「ロマンティック」交響曲の独特の瑞々しさがよく表われた演奏だったと思う。何よりも印象的だったのが、下野が響きのバランスに細心の注意を払いながら、いささかの無理も感じさせない音楽の運びを示していたこと。それによって、時として埋もれがちな低声や内声の動きが聞こえてきて、響きがいっそう有機的になるとともに、この曲を特徴づける豊かな歌がしなやかに息づく。なかでも、第2楽章のヴィオラの歌は実に魅力的に響いた。強奏が続く部分から弱奏の部分への移行の処理も細やかだったし、フィナーレのコーダでこの曲のさまざまな要素が結集しながら徐々に壮大なクライマックスを築いていくあたりは、今回の演奏の白眉だったのではないだろうか。それだけに、最後の和音がまだ響いているうちに「ブラヴォー」の声と拍手が始まってしまったのは残念でならない。東京のいくつかのホールで行なわれているように、指揮者がタクトを降ろすまで拍手など控えてほしい、とアナウンスで要請するしかないのかもしれない。

「ロマンティック」交響曲の演奏に戻ると、今回の演奏は、曲を完全に手中に収めた指揮者が、その意図をしっかりと伝えるならば、広響が非常に内容豊かな演奏を繰り広げうることを証明した好例と言えよう。とはいえ、この曲からはもう少し深い静けさと、そこからいくらかの疾走感を伴って湧き上がる響きを聴きたかった、という気持ちも拭えない。そして、下野はさらにもう一段振幅の大きな音楽を響かせたかったのでは、という印象も受けたが、それはこのホールの条件からしても難しかったかもしれない。

前半のシューマンのヴァイオリン協奏曲では、独奏を担当した若い三浦文彰の奏でる美音とその音楽の繊細さが光った。さまざまな意味で聴かせるのが難しいこの曲を、三浦がここまでの完成度をもって弾ききったことは特筆に値しよう。とくに、濁ることのない重音の響きのなかから溢れ出る瑞々しい歌は、とても魅力的だった。ただ、フレージングがやや窮屈になって、音楽を持て余している印象を受ける箇所が散見されたのは惜しまれる。そのために、音楽の奥行きが狭くなり、シューマンの音楽に求められる陰翳が少し損なわれてしまった。もっと自由にテンポを動かしながら歌ってもよかったのではないか。三浦が──人生のそれも含めて──経験を積んで、もっと振幅の大きな音楽を聴かせるようになってからこの曲に臨んだら、きっと本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれるにちがいない。

シューマンの演奏でもう一つ惜しまれるのは、下野の音楽性がどちらかと言うとブルックナーにより親和的だったせいだろうか、オーケストラの響きが、全体的に腰が重すぎたこと。もう少し躍動感のあるリズムで、独奏に機敏に反応してもよかったのではないだろうか。このようにいくつか惜しまれる点があるとはいえ、ここまでの水準の演奏で、めったに取り上げられないシューマンのヴァイオリン協奏曲を聴くことができたことと、それをつうじて将来を嘱望される才能に巡り合えたことは、率直に喜びたいと思う。

広響定期338Flyer