早春の仕事など

IMG_0080柔らかな陽射しを楽しむかのような鳥たちの声が聞こえる日が多くなり、ようやく春の訪れを実感できるようになってきました。近所の公園の桜の古木にも、花をのぞかせ始めたつぼみがちらほらと見られます。最近目にしたヘルダーリンのフランクフルト時代の断片は、このような一見穏やかな春の萌しのうちに、老いとそこにある硬直に立ち向かう若々しさそのものを、それを貫く生命の迸る動きを鋭敏に感じ取っていました。できればいかに忙しいなかでも、そのような生命の力を内に感じていたいものです。早いもので、広島に戻ってすでに一か月半が過ぎましたが、その間二週間の集中講義を含めて非常に慌ただしく過ごしておりました。その間の活動を、ここでご報告しておきたいと思います。

まず、3月4日には、駿河台のESPACE BIBLIOにて細川俊夫著『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(柿木伸之訳、アルテスパブリッシング、2016年)の刊行を記念して開催されたトーク・ショー「細川俊夫の創作の背景にせまる──尹伊桑、武満徹、そしてオペラへの道」の聞き手役を務めました。このトーク・ショーでは、著者の細川俊夫さんをお迎えして、本書において初めて語り下ろされたこの世界的な作曲家の創作の軌跡の背景にあるものなどを、2012年にドイツで本書の原書が刊行されて以後の作曲活動を含めて詳しくお話しいただきました。また、特別ゲストとしてリコーダー奏者の鈴木俊哉さんをお迎えして、細川さんの創作活動の里程標をなす作品を演奏していただきました。51fwl3vou1l

幸い、トーク・ショーには会場が満員になるほどのお客様にお越しいただき、心から感謝しております。鈴木さんの素晴らしい演奏と貴重なオペラ上演の映像を交えての細川さんのお話には、尹伊桑や武満徹との関わりについて初めて聞く話がいくつもありましたし、細川さんの音楽そのものについて改めて深く考えさせられる言葉や、現代日本の状況に対する重要な問題提起もありました。このような充実した場をご用意くださったエスパス・ビブリオのみなさま、アルテスパブリッシングの木村さんに、心から感謝申し上げます。

また、3月11日には、成蹊大学アジア太平洋研究センターの主催で開催されるシンポジウム「カタストロフィと詩──吉増剛造の『仕事』から出発して」にお招きいただき、パネリストの一人として「言葉を枯らしてうたえ──吉増剛造の詩作から〈うた〉を問う」という発表をさせていただきました。ヴォイス・レコーダーを構え、じっとこちらを見つめる吉増剛造さんを前に、またかねがね尊敬している錚々たる方々のあいだで少し緊張しましたが、何とか役目を果たすことができました。最近のものを含めた吉増さんの詩作を読み解きながら、また奇しくもまったく同じテーマ(「カタストロフィと〈詩〉」)で行なわれた三年前の原爆文学研究会のワークショップで原民喜やパウル・ツェランの詩についてお話ししたことを少し振り返りながら、今〈うたう〉可能性を詩のうちに探る内容のお話をさせていただきました。

17218299_1434549826597385_7177254774096220764_oまさに東日本大震災が起きた日に開催されたこのシンポジウムは、これまで参加させていただいたシンポジウムのなかで、最も密度の濃いものの一つでした。吉増さんの詩作の初期から『怪物君』(みすず書房、2016年)にまで貫かれているものを文脈を広げながら掘り下げ、詩とは何か、詩を書くとはどういうことかを突き詰めていく思考が、4時間以上にわたって積み重ねられました。そのような議論が最後に『怪物君』とは何かという点に収斂したのは、この日のシンポジウムに相応しかったと思われます。吉祥寺という場所で胸騒ぎを覚えながら引用した原民喜の「鎮魂歌」の一節に「僕は結びつく」という言葉がありますが、自分のなかでいくつものモティーフが結びつき、たくさんの宿題を持ち帰ることができました。それに吉増さんを介して、素晴らしい方々とも出会うこともできました。このような場を作ってくださった、李静和さんと成蹊大学アジア太平洋研究センターのみなさんに、あらためて心から感謝申し上げます。

それから、図書新聞の第3297号(3月25日発売)に、竹峰義和さんの近著『〈救済〉のメーディウム──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会、2016年)の書評を書かせていただきました。「媒体の美学の可能性──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲの不実な遺産相続の系譜から浮かび上がるもの」と題する拙稿では、時に「剽窃」と非難されることもあるアドルノによるベンヤミンの思想の継承に内在する、破壊的ですらある読み替えが思想の内実を批評的に生かしていることや、師にあたるアドルノが映画や放送メディアのうちに見ようとした可能性を、師とは異なった方向性において開拓するクルーゲの仕事に光を当てる本書の議論が、「フランクフルト学派」のもう一つの系譜とともに、知覚経験を解放する「救済の媒体(メーディウム)」の美学の可能性を示している点に触れました。この原稿が、ベルリン滞在中に公刊を予定して書いた最後の原稿ということになります。

この間、いくつか印象深い演奏会や展覧会に接して、自分の仕事の出発点を顧みる機会を得られたのは幸いでした。まず、3月3日に六本木のギャラリーOta Fine Arts, Tokyoにて、「ニルヴァーナからカタストロフィーへ──松澤宥と虚空間のコミューン」を見ました。嶋田美子さんの素晴らしいキュレーションによって精選された貴重なドキュメントの数々は、松澤宥という、その緻密な思考にもとづくアートによって、アートを突き抜けたアーティストの行為の軌跡と、それを結節点として世界中のアーティストが結びついていくさまを実に生き生きと伝えるものでした。松澤が一つのマンダラの形で構想していた、物質の滅却、人類の滅亡、さらにはその先にある虚無へ向けた思考の布置を構成していくアートを今どのように捉えるか、という点は、膨大な資料の解読にもとづくこれからの研究によって掘り下げられなければならないと思います。

とはいえ、松澤が拠点を置いた諏訪と広島、長崎を結びつけたこともある彼の仕事が、そこに生まれる呼応関係によって、危機的な現在を照らし出すものだということは、展示からひしひしと伝わってきました。そのことは同時に、とくに日本列島に生きる者たちが外的にも内的にも取り返しのつかないカタストロフィに足を踏み入れつつあることを問いただしているようにも感じられます。諏訪の松澤宥プサイの部屋を訪れて、彼を結節点とするアートの強度とアクチュアリティを、資料から計測する研究者が出て来ることを願ってやみません。松澤の空への呼びかけに応じて集まったアーティストたちによる、手書きによって構成された葉書や書簡、そして電報(テレグラムとしてさらに考えてみたいところです)の数々も、新たなポエジーの胎動を感じさせるものでした。

17350038_1444674655584902_3959852989274643360_o3月12日には、横浜のみなとみらいホールで横浜芸術アクション事業Just Composed 2017 in Yokohamaの「能・謡×弦楽四重奏」の演奏会を聴きました。馬場法子さんの《ハゴロモ・スイーツ》の世界初演を聴いて、出かけた甲斐があったと思いました。青木涼子さんの声と謡を見事に生かしながら、能の「羽衣」のエッセンスをなす要素を新鮮に、潮風と気配を感じさせる風景のなかに響かせていたのが印象に残ります。楽器の生かし方も、モノ・オペラとしての空間の演出も、実に巧みだったと思います。終演後に馬場さんからお話をうかがって、これらが謡の綿密な研究の成果であることも分かりました。ステファノ・ジェルヴァッゾーニの《夜の響き、山の中より》も、西行法師の歌の配列のなかに声を多彩に生かしながら一つのモノ・ドラマを現出させる作品として興味深く聴きました。能の謡とミニマムな器楽アンサンブルのコラボレーションに可能性を感じさせる演奏会でした。

3月16日には、京都のVoice Gallery pfs/wにて呉夏枝さんの個展「仮想の島── grandmother island 第1章」を見ました。亜麻を素材にグァテマラやインドネシアの織物の技法を参照しながら丹念に織られた地図、ないしは海図としての織物は、けっして平面で完結することなく、中空で螺旋をなしながら、あるいは地下茎を伸ばしながら、別の時空へ連なっていきます。その様子は、人が記憶の越境的な連なりを生きていることと同時に、いくつもの記憶が海を越えて遭遇する可能性をも暗示しているように見えます。海の上に火山島を思わせる島が浮かび上がる風景は、いくつもの記憶が折り重なり、さらには生の記憶が歴史と痛みとともに交錯することによって織りなされているのではないでしょうか。

目を変えながら織られた織物の上に黒のなかのさまざまな色が滲み出る──それが、島の像の存在感と遠さを一つながらに醸し出していました──ところには、テクスト、あるいはテクスチュアからこぼれ落ちるものが染み出ているようにも見えました。作品のテーマとなっている地図ないし海図とは、このような過程に人を引き込む一つの閾としての空間に身を置く一人ひとりの記憶のなかに織られていくものと思われます。そのことは、吉増剛造さんとパウル・ツェランが詩作を、織ったり、編んだりすることに喩えていたことにも呼応することでしょう。風を感じさせる空間が形づくられていたことも印象的でした。もしかするとそのことは、作家の創作の新たな段階を暗示するものかもしれません。

それにしても、この一月半のあいだ、ベルリン滞在の準備に追われていた一年前に比べてさらに社会が息苦しくなっていることを、さらにその息苦しさが、思想とその表現の自由が最後まで守り抜かれるべき場さえも覆おうとしていることを、実感せざるをえませんでした。もし、幾重もの不正と汚職をめぐる狂騒に紛れて共謀罪──「テロ等準備罪」なるものは、共謀罪以外の何ものでもありません──が法的に作られるなら、思想信条の自由が、それを表現する権利が実質的に奪われるのではと危惧しています。それによって、精神は萎縮し、上目遣いの自粛が蔓延し、いかがわしい「公益」なるものが幅を利かせる社会が出来上がるでしょう。そのような状況のなかで、人が息苦しさと無力さに押し潰されてしまう前に何ができるかを、新たな年度が始まる4月へ向けて、自分の置かれた場所で考えてみたいと思います。

 

広告

ベルリン通信I/Nachricht aus Berlin I

[2016年5月1日]

ベルリンへ来ると、どこか故郷へ帰って来たような安心感があります。2004年の10月から翌年2月にかけて、在外研究のためにポツダムに滞在していたあいだ、週に一回か二回は電車でベルリンに通っていましたし、その前後にも年に一度は研究のために、あるいは音楽を聴くためにベルリンを訪れていたからです。少しごみごみとした街の空気、せわしく人が行き交う駅から聞こえる電車の音、美術館や博物館の佇まい。どれも懐かしく感じられます。

旅行者としてベルリンを訪れているうちならこういった感慨に浸ることもできるのでしょうが、いざ住むとなるとそのような暇はないというのが実情です。来年2月までの在外研究のためにベルリンに到着して一か月が経ちましたが、あっという間に過ぎました。役所での住民登録に始まり、娘の小学校探し、銀行の口座開設など、思った以上に労力と時間を要しました。とくに役所での手続きは、最近予約なしでは原則として受け付けないようになったこともあって、ベルリンの市民にとっても大変なようです。住まいの家主さんをはじめ、周りの人々の協力を得て、事務的な手続きは、外国人局での在留許可申請を除いて、何とかほぼすべて片づきました。

こちらでは、ベルリン自由大学の哲学科にお世話になりながら、主にヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学の研究を進めています。主著のMedium, Bote, Übertragung: Kleine Metaphysik der Medialität (Suhrkamp, 2008) が日本語に訳されている(『メディア、使者、伝達作用──メディア性の「形而上学」の試み』晃洋書房、2014年)哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキアム(大学院生以上向けのゼミ)に出させていただきながら、ベンヤミンが問うた歴史の概念を掘り下げることになります。クレーマー教授はとても気さくで、後進の教育にも熱心な方と見受けられました。

IMG_1967

ベルリン自由大学文献学図書館の外観

普段はベルリン自由大学の文献学図書館(Philologische Bibliothek)を利用して、ベンヤミンの歴史哲学に関係する文献を渉猟しています。人間の脳をイメージした設計で2006年のベルリン建築賞を受賞したこの図書館には、人文学関係の文献が豊富に揃っています。何よりも、開架式の図書館なのがありがたいです。適度な広がりのある静かな空間で、必要な本をすぐに手に取って読むことができます。それから、もちろんベルリン芸術アカデミー付設のWalter Benjamin Archivも、重要な研究の拠点です。こちらの司書の方にも何かとお世話になっています。

これらの施設を利用しながら、ベンヤミンの歴史哲学の研究を深め、それを現在構想している〈残余からの歴史〉の概念の理論的な探究に接続させたいと考えています。ひとまず、ベンヤミンに関する研究を近いうちにまとめて、先のクレーマー教授のコロキアムで報告させていただく予定です。それゆえ、とくに今月は研究のピッチを上げなければなりません。懸案だった他のプロジェクトも動き出したので、徐々に本業のほうが忙しくなってきました。

IMG_0033

リリエンタール公園の桜並木

ベルリンでは、市内南西部のリヒターフェルデという郊外の街に住んでいます。緑豊かなところで、雰囲気も落ち着いています。晴れた朝には、実にさまざまな鳥の声が聞こえます。リスが木に登っていくのを何度か見かけましたし、夜にキツネが道路を歩いているのに出くわしたこともあります。近くには、グライダーの有人飛行実験によりライト兄弟以後の航空機開発に貢献したオットー・リリエンタールを記念した公園があります。そこの桜並木が、最近ようやく満開になりました。ただ、ベルリンは四月の末まで非常に寒い日が続いていて、最低気温はずっと氷点下近くでした。雹や雨混じりの雪が降ることもありました。幸い、ここへ来て春らしい暖かさが戻りつつあります。

IMG_1972

ティタニア・パラストの外壁の銘板

リヒターフェルデの最寄りの駅からベルリンの市街中心へは、電車で15分から20分ほどですので、交通の便も悪くはありません。ただし、ちょっとした買い物があるときには、バスでシュテーグリッツという少し大きな街へ出るほうが便利です。ここには、ティタニア・パラストという、戦後しばらくベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏会場に使っていた映画館があります。ベルリン自由大学の創立記念式典が開催された場所でもあります。最近そこでこのオーケストラの定期演奏会のライヴ・ヴューイングを見ました。今はどこにでもあるシネマ・コンプレックスになっています。

ちなみに、現在およそ週に一回ほどのペースで、演奏会やオペラの公演にも通っています。なかでも感銘深かったのが、ベルリン・ドイツ・オペラで観たヤナーチェクの《マクロプロス事件》の公演でした。作品に正面から取り組みながら洗練されたダーフィト・ヘルマン演出による舞台と、ドナルド・ラニクルズの指揮の下での充実した音楽が見事に合致していました。今月観たオペラの公演でもう一つ忘れられないのが、パリの郊外で見たフランチェスコ・フィリデイの新作オペラ《ジョルダーノ・ブルーノ》の公演でした。宇宙の無限を説いたルネサンスの哲学者ブルーノの思想と生涯を、彼の焚刑に至るまで非常に説得的に、かつ現在の問題を投げかけるものとして描き出していたと思います。

IMG_2027

パリのパサージュの一つで

4月の下旬には、勤務先の大学で取得した休日を利用してパリへ三日間出かけました。ベルリンからパリへは二時間足らずのフライトです。旅行の目的はこの《ジョルダーノ・ブルーノ》と馬場法子さんの新作で能楽師の青木涼子さんが主演するNôpéra《葵》の公演を観ること、それにポンピドゥー・センターで始まった大規模なパウル・クレー展「作品におけるイロニー」を観ることでした。このクレー展には、ヴァルター・ベンヤミンが私蔵していた二つのクレーの絵《新しい天使》と《奇跡の上演》が初めて揃うので、見逃さないわけにはいきません。初めて実物を見た《奇跡の上演》は、クレーの魅力が凝縮された一枚と思います。ベンヤミンが友人に宛てた手紙のなかで、これ以上美しい絵を見たことがないと語った気持ちも分かります。

IMG_0036

こちらの桜の多くは八重桜のような感じで、あまり花の儚さは感じさせません。

これら以外にも傑作や貴重な作品が集まっていて、かつクレーの画業も新たな視点から見直させるパリのクレー展に関連しては、5月下旬にコロックも予定されています。そちらにも出かけるつもりでおります。それまでにベンヤミンの歴史哲学に関する研究の現時点での成果を示す論考に目鼻を付けておきたいものです。先に記した施設で本を読む時間を持てる幸せを噛みしめながら腰を据えて文献に取り組み、それをつうじて得られた知見を深めていきたいと思います。ベルリンはこれから一年で最も美しい季節を迎えますので、当地の緑の豊かさも家族で味わいたいものです。ハインリヒ・ハイネが歌った「妙なる月(Der wunderschöne Monat)」がみなさまにも訪れますように。

武生国際音楽祭2015の演奏会などを聴いて

今年も9月9日の夜から12日の夕方にかけて、福井県越前市の武生で、26回目を迎える武生国際音楽祭2015のいくつかの演奏会や作曲ワークショップのセッションを聴かせていただいた。今回の音楽祭の白眉は、何と言っても9月11日の夜に行なわれた「細川俊夫と仲間たち」の演奏会だったのではないだろうか。この音楽祭の音楽監督を務める細川とともに歩んできた音楽家たちが、みずからの音楽をもって、来月に還暦を迎える細川の芸術を祝福する場になったと思われる。

とくに演奏会の後半で、細川の音楽を知悉した演奏家たちが、その内実を見事に引き出していたのが印象に残る。まず、フルート独奏のための《垂直の歌I》では、上野由恵が澄みきったひと筋の音で、歌の源泉とも言うべき魂の深奥へ聴き手の耳を誘っていた。上野のフルートが、そこに凝集してくる情念を徐々に音のエネルギーに変えながら高揚させ、それを爆発的に発散させた後、あたかも余韻のように最初の澄んだ音を回帰させたのには、深い浄化に至る魂の息遣いを聴く思いだった。

次に演奏されたピアノ独奏のための《エチュードII──点と線》では、山本純子のピアノが、夜闇に星々が微かに浮かび上がるようなモティーフを細やかなタッチで提示した後、徐々に強度を帯びていく持続を、音たちの共鳴のなかに自然に形成していくのに思わず引き込まれた。また《トリオ》では、ピアノの深い響きを背景としながら徐々に前景に浮かび上がるヴァイオリンとチェロの音が重なったり分かれたりしながら、最終的に、ともに嵐を起こすような強いエネルギーを放射するに至るのを印象深く聴きました。辺見康孝と多井智紀の表現は、内から湧き出てくる大きさと強さを増したように思われる。

そして、圧倒的な感銘を残したのが、大石将紀のテナー・サクソフォン、中川賢一のピアノ、葛西友子のパーカッションによる《ヴァーティカル・タイム・スタディII》。書の打ち込みから線が生じてくる瞬間のように、強い打撃音によって垂直的に断ち切られる瞬間を焦点としたこの作品において、この三名の演奏は完璧なアンサンブルで、空間が縦に裂けるかのような強烈な打撃音を響かせるのみならず、その余韻も実にニュアンス豊かに響かせていた。内部奏法も駆使した中川のピアノ演奏に、葛西の多彩な奏法を駆使した打楽器演奏が見事に呼応して、この作品でしか聴けない、深淵の上に緊張感を伴いながら漂う響きが生まれていた。それに乗って大石が、時に空間全体を震わせるかのような力を放つ強い音も聴かせつつ、非常に表現の振幅の大きな演奏を繰り広げたので、ホールの天井を突き抜けるかのような響きの垂直性が生まれていた。

この演奏会の前半では、細川の音楽から折々に刺激を受けてきた、彼より若い世代の四名の作曲家の作品が演奏されたが、そのなかでは、ディアナ・ロタルがソプラノ、フルート、クラリネット、ピアノ、パーカッションのために書いた《沈黙を破れ》という作品を、とても興味深く聴いた。声の動きと楽器の音をうまく溶け合わせ、かつ各楽器の響きを生かしながら、独特の浮遊感と神秘性を湛えた音響空間を、実に音楽的に現出させていた。伊藤弘之の木管五重奏のための《うつりゆく秋》も、四分音を独特のかたちで織り込んだテクスチュアで、たゆたうように風景が変化していく動きを見事に表現していたと思われる。

個人的に非常に印象深かったのは、フェデリコ・ガルデッラがフルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのために書いた《歌い沈黙する建築》だった。独特のほの暗い響きを造形しつつ、沈黙のなかから歌うような響きが明滅するのを、非常に細やかに表現した作品。ガルデッラの作品は、同じ9月11日の午前に行なわれた「新しい地平マチネコンサート」でも聴くことができた。こちらで演奏されたフルートのための《五つの夜想曲風コーラス》は、ひと筋の響きが徐々に複数化して合唱のように響き合いはじめる過程を焦点とした作品で、その繊細なテクスチュアを、マリオ・カローリのフルートが見事に響かせていた。ガルデッラが、作曲ワークショップのセッションで、これも魅力的なオーケストラ作品を紹介しながら、自分について、カスパー・ダフィート・フリードリヒの風景画において、無限に広がる風景を凝視し浮かび上がらせている海辺の修道僧のような存在でありたいと語っていたのも印象に残る。将来が楽しみな作曲家の一人である。

今年の作曲ワークショップでは、もう一人、ポーランド出身のベッティーナ・スクリプチャクという作曲家が、音楽評論家のマックス・ニフラーによって紹介されて、彼女の音楽にも興味を惹かれた。彼女の作品も非常に繊細なテクスチュアを持っていて、とくに先の「新しい地平マチネコンサート」で演奏された、クラリネット、チェロ、ピアノのための《イリュミナツィオーネン》では、非常に微かに響き始めたひと筋の音がやがて嵐のように、しかし緊密な構成感を保ちながら展開した後、天へと消え入っていくようなチェロの音に昇華されていきます。スクリプチャクは、もっと多くの作品が日本で紹介されてよい作曲家であろう。

9月12日にも二回にわたって行なわれた「新しい地平コンサート」では、思いがけずカイヤ・サーリアホの作品を3曲聴くことができた。マリオ・カローリのフルート独奏による《翼の簡潔さ》では、言葉が楽器の音に溶け入りながら詩の世界を繰り広げるのが興味深かったし、アンシ・カルトゥーネンのチェロが加わった《鏡》と彼の独奏による《七匹の蝶々》では、彼の演奏の素晴らしさも相俟って、非常に繊細な響きから澄んだ世界がすっと広がっていくのを聴くことができた。

サーリアホの作品以外では、ジョルジュ・アペルギスのテナー・サクソフォンのための《アルター・エゴ》が、影のような動きを面白く造形していた。金井勇の《造形的な事象》は、敢えて硬質な響きの造形を貫くことで、木管五重奏から独特の光彩のある一つの響きを引き出していたと思われる。ニーナ・シェンクが木管五重奏のために書いた《瞬間》は、自由無調の頃のシェーンベルクとも通底する独特の生命感を持った音響の運動性が面白いが、コーダの部分がストラヴィンスキーの《春の祭典》の一節によく似ているように聴こえたのは私だけだろうか。いずれの作品でも、スロヴェニアのスローウィンド木管五重奏団が、献身的とも言える演奏を聴かせてくれた。

このように、新しい音楽の生成の現場に立ち会うことができるのが、武生国際音楽祭の最大の魅力であるが、それと並んで、素晴らしい才能を持った若い音楽家たちの力のこもった演奏に接することができるのも、他には代えがたい魅力である。9月9日の夜には、「東欧弦楽作品の夕べ」と題する、若い音楽家たちがヤナーチェクやバルトークの難曲に挑む演奏会を聴いたが、まずヤナーチェクの弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル・ソナタ》で、若い弦楽器奏者たちで組織されるエール弦楽四重奏団が、この作品の強度を見事に響かせていたのに感嘆させられた。救いのない惨劇を人間存在の根底を抉り出すかたちで繰り広げる、彼のオペラの世界を凝縮したようなこの弦楽四重奏曲の恐ろしさが、四つの声部の緊密な絡み合いのなかから垣間見える演奏に仕上がっていた。

それ以上に驚嘆させられたのが、このエール弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲第4番の演奏。彼の音楽の多面的な魅力が、強い表現力を発揮させるかたちで、かつ緊密な構成の下で凝縮されたこの作品に漲るエネルギーが、若い演奏家たちの表現意欲と優れて音楽的なかたちで一体化した演奏だったと思う。野性的なリズムのモティーフが緊張の度を高めながら発展していく楽章も、密やかにさざめく夜の音楽が聴かれる楽章も、説得力に満ちた演奏に仕上がっていた。この翌日の午前に行なわれた弦楽器とピアノの「ミニコンサート」では、このクァルテットでヴィオラを弾く田原綾子が、豊かな音でシューマンの《おとぎの絵本》の歌心に溢れた演奏を聴かせてくれた。

同じ10日の夜に行なわれた「ブラームスと武満徹」をテーマとする演奏会の冒頭では、エール弦楽四重奏団でも弾いている若いチェリスト上野通明が、ブラームスのチェロ・ソナタ第2番を、驚くほど豊かな表現力で見事に演奏していたのに驚嘆させられました。経験を積んだチェリストにとっても、曲の全体を摑むのはけっして容易ではないこの曲の大きな流れを捉えながら、素晴らしい技巧で細部も音楽的に響かせた演奏だった。晩年に差し掛かろうとするブラームスの音楽の力強さと闊達さの双方が響いていた。曲の構造を浮き彫りにしながらチェロ独奏を支えた、伊藤恵のピアノも素晴らしい。

この演奏会で次に演奏された、武満徹のヴィオラ協奏曲《ア・ストリング・アラウンド・オータム》の細川俊夫によるピアノ伴奏への編曲版では、ヴィオリストの赤坂智子が、晩年の武満の「うた」を、深い息遣いと自然なフレージングで非常に豊かに響かせていた。間をたっぷり取りながら、歌が内から形を変えつつ湧き出るなか、風景が彩りを変えながら立ち上ってくるさまが、非常に美しく表現されていた。繊細なタッチで背景を織りなしながらヴィオラの「うた」を浮き上がらせた、津田裕也のピアノも印象に残る。

最後に演奏されたブラームスのクラリネット五重奏曲では、ミシェル・ルティエックのクラリネットが実に素晴らしかった。時に際立ちながら、また時に弦楽器のアンサンブルに溶け込みながら、憂いを帯びた歌を実に豊かに響かせていた。なかでも緩徐楽章で、聴こえるか聴こえないかのところで静かに張りつめたピアニッシモから音楽が熱を帯びていく辺りで、クラリネットの極限的とも言える表現に、弦楽器奏者たちが見事に反応して、内側から高まっていく音楽が生まれていたのには、心からの感動を覚えた。

引接寺で花士珠寳により献花された生花武生国際音楽祭のもう一つの魅力として、多くの社寺が建ち並ぶ武生の街が音楽に満ちた街に変わることがあるが、今回の音楽祭では9月9日の夜、引接寺で尺八、フルート、能、生花のコラボレーションによって構成された演奏会を聴くことができた。本堂の両翼から尺八が響いて奥行きのある空間が開かれるオープニングから引き込まれたが、とくに印象的だったのは、マリオ・カローリによるフルートの演奏。雨音が漏れ聞こえるなかをすっと貫くようなピアニッシモの持続音と空間を切り裂くような息の音を交錯させながら、素晴らしいシャリーノを聴かせてくれた。

この演奏会では能楽師の青木涼子が、謡いと舞いの身体的表現だけで、曲水の宴が繰り広げられるもう一つの世界へ聴衆を誘っていたのも感銘深い。最小限に切り詰められながらたゆたうような優雅さを示す表現が、一つの時空間を切り開く能の表現には、生花とも通底するものがあるにちがいない。花士珠寳の献花は、雨露を浴びながら上へ伸びようとする竹と、内へ籠もるような力を示す花の赤との拮抗のなかから一つの凝縮された自然界を繰り広げるもの。植物と対話するように草木や花を生けていたのも心に残る。

ある意味でこの由緒ある引接寺での演奏会が象徴するように、洋の東西を越える芸術の協働のなか、新しい音楽と若い才能が、伝統のある街のなかから世界へ羽ばたく音楽祭として、武生国際音楽祭がこれからもその独自の魅力をさらに深めながら続いていくことを願ってやまない。

初夏の仕事、能と現代音楽の共鳴

本当に早いもので、そろそろあちこちから梅雨明けの声が聞かれる時季となりました。この時季、急な豪雨が来たり、猛暑に見舞われたりと気候が不安定ですので、みなさまくれぐれも体調などに気をつけてお過ごしください。最近では、初夏に大きな台風が日本列島に上陸するようにもなってきました。先の台風で被害に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げます。

さて、この6月から7月上旬にかけても、非常に慌ただしく過ぎていきました。心も身体も追いつかないくらい、さまざまなことがあった今年の初夏でした。まず、6月7日(土)のことですが、広島市映像文化ライブラリーでのポーランド映画祭2014のなかで、ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の傑作『サラゴサの写本』(1965年)が上映された際に、広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン出張講座」ということで、この作品を紹介するお話をさせていただきました。ナポレオン戦争下のサラゴサで発見された手稿本のなかで、さまざまな物語が無限に組み合わさっていくさまを、実に魅力的に描き出したこの映画のなかでは、今私たちも幻視すべき、異質な者たちが共存する世界が繰り広げられています。また、その世界を小説のうちに現出させた原作者ヤン・ポトツキが示す、歓待性にもとづく精神の自由も、あらためて顧みられるべきではないでしょうか。

それにしても、この『サラゴサの写本』という映画をつうじて、ハスという監督に出会えたのは幸運でした。翌日には、ブルーノ・シュルツの小説にもとづく『砂時計』(1973年)を見ましたが、そこでは、映像のマニエリスムとハシディズム的な幻想が一つになって、驚くべき世界が繰り広げられていて、圧倒されました。今回のポーランド映画祭では、これらのハス監督の作品以外に、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』というアンジェイ・ワイダの初期の傑作を見ました。前者では、明暗の対照のなかに極限的な緊張のうちにある心理が鋭く浮き彫りにされるさまが鮮烈でしたし、後者には、最近の『カティンの森』まで貫かれるワイダのテーマが、凝縮されたかたちで浮かび上がっているように思われました

さて、6月から7月上旬にかけては、二つの評論を公表させていただきました。一つは、5月2日に広島市の東区民文化センターのスタジオ2で行なわれた「人間そっくり」の公演の批評で、こちらは、広島芸術学会の会報128号に掲載していただきました。この公演は、京都の演劇ユニットこのしたやみと三重県の劇団Hi!Position!!による、安部公房の小説『人間そっくり』を構成したテクストのリーディングによるもので、拙稿「『そっくり』の深淵へ──このしたPosition!!リーディング公演『人間そっくり』を観て」では、この公演を、リーディングと巧みな演出によって安部公房の作品の論理的な仕掛けを生かしたスリリングな舞台とご紹介しました。

もう一つは、スーザン・バック=モースの『ベンヤミンとパサージュ論──見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014年)の書評で、こちらは図書新聞の3166号(2014年7月12日付)に掲載していただきました。「大衆文化の夢から目覚め、歴史の主体になれ──歴史への覚醒の場をなす形象の座標系」という表題で、過分にも一面の頭に載せていただいております。バック=モースのこの本は、ベンヤミンの『パサージュ論』の古典的と言ってよい研究ですが、そこにあるベンヤミンの「弁証法的形象」を媒体とする「根源史」の試みの救出に光を当てることで、歴史修正主義とも結びついた今日の大衆文化からの歴史への覚醒を今に語りかける一書として、日本の読者に紹介する内容となりました。おそらく編集者のほうでも、この点に注目してくださったのだろうと思います。ちなみに、四半世紀以上前に刊行された原書は、「見ることの弁証法」という表題が示すとおり、「目の人」としてベンヤミンを特徴づけるのに一役買った書物ですが、現在では彼の思想の音響的なモティーフに注目する研究も増えてきています。今年3月に、広島大学大学院総合科学研究科人間文化講座の論集『人間文化研究』第6号に載せていただいた拙論「谺の詩学試論──ベンヤミンにおける『谺』の形象を手がかりに」も、こうした方向性を示す一つと言えるでしょう。

このように、講演したり評論を執筆したりするあいだにも、大学での講義や演習、そして年々増えるばかりの雑務に追われていたわけですが、大学院の演習では、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(上村忠男+廣石正和訳、月曜社、2001年)を、学生たちと読み直すことができました。ところどころあまりに存在論的と思われる議論も見られますが、アガンベンのこの論考は、証言の可能性を、言語自体の──不可能性と隣り合わせの──可能性から照らし出すとともに、証人であることを主体そのものの「脱主体化」から捉え直させる重要な文献であることは間違いありません。これから、この論考をはじめとするアガンベンの仕事や、ベンヤミンの歴史哲学的なテクストなどの再読をつうじて「残余からの歴史」ということを考え、被爆の記憶を──ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」へ向けて──継承することの世界的な意義にも、わずかなりとも光を当てられたらと思います。それから、ベンヤミンの言語哲学を論じた小著は、まもなくお手に取っていただけます。ご笑覧いただけたら幸いです。こちらについては、稿をあらためてご紹介いたします。

ところで、6月には幸運にも、いくつか非常に充実した内容の演奏会を聴くことができました。それについては、すでに別の記事でお伝えしましたので、ここでは一枚の素敵な、そしてこれからの音楽の可能性を考えるうえで非常に重要なディスクをご紹介しておきたいと思います。6月初旬に、敬愛する能楽師青木涼子さんが、デビュー・アルバム『能×現代音楽』をコジマ録音より出されました(ALCD-98)。これは、青木さんが2010年より“Noh×Contemporary Music”のテーマの下、ヨーロッパの作曲家に能に触発された作品を委嘱し、演奏し続けてきた取り組みの精華であると同時に、青木さんの能謡の魅力が、現代音楽の多彩な書法との共鳴のなかで見事に発揮された一枚であると言えるでしょう。東京オペラシティの今年のコンポージアムで、青木さんの手で日本初演されたペーテル・エトヴェシュの《Harakiri》の演奏も収められています。

このディスクを聴いていて、何よりも素晴らしいと思われるのは、現代の作曲家が、楽器の特殊奏法を含む新たな書法を駆使して、音響の身体性とも言うべき次元を追求しているのが、青木さんの声と共鳴し合っているところです。青木さんの声には、一本の芯とともに、深みと広がりが具わっているのですが、そんな彼女の声は、息遣いとともに周囲の空気に浸透し、またそこから立ち上がってきます。あたかもそれに触発されるかのように、作曲家たちは、響きが生まれる瞬間に注意を差し向けているように聞こえます。また、それによって何かが出現する気配が感じられるのが、この『能×現代音楽』というアルバムの大きな魅力ではないでしょうか。この気配こそ、能をはじめとする舞台芸術の場を開き、満たすとともに、歌う/謡うことを一つの出来事として成り立たせていると考えられます。この出来事のなかで、言葉が意味を帯びて響いてくることでしょう。

青木さんのアルバムのなかで、ことに魅力的に思われたのが、冒頭に収められたフェデリコ・ガルデッラの《風の声》でした。バス・フルートによって奏でられる音楽が、緊密なテクスチュアのなかで楽音と息音を行き来し、響きの襞を感じさせるのが、『井筒』の能謡と見事に調和して、時間的にも奥行きのある世界が開かれています。三島由紀夫の割腹自殺に触発されて書かれたエトヴェシュの《Harakiri》では、自死を遂げるなかで三島の脳裡に去来する想念が、最終的に彼の命を絶つ禍々しい音が断続的に、異様な身体性を伴って響く時間のなかで、聴き手にひたひたと迫るかたちで掘り下げれているように思われました。音楽をその根源に立ち返らせながら、音楽を舞台空間に、あるいはその空間自体を開くかたちで響かせる可能性をじかに感じさせる──マドリッドでヴォルフガング・リームのオペラ《メキシコの征服》にも出演された青木さんの活躍は、それを体現するものと言えるかもしれません──青木さんのアルバム『能×現代音楽』が、能楽を含めたこの時代の音楽の新たな展開を触発するかたちで広く聴かれることを願っております。

青木涼子アルバム表紙1