海辺での魂の邂逅の歌が照らし出すもの──パリでの細川俊夫の室内オペラ《二人静──海から来た少女》の世界初演に接して

2017-12-02 00-36-23

《二人静》初演の演奏会「二つの魂」のプログラム表紙

海辺には波が打ち寄せ、それとともに時空を隔てたものたちが流れ着く。そこに佇む者のなかにもまた、遠く隔たったものが去来する。こうした意味で漂着の場とも言うべき海辺は、オペラ《松風》以来、細川俊夫の舞台作品の一つのエレメントを形成しつつある。いや、ソプラノとオーケストラのための《嘆き》のような彼の声楽作品からも、波打ち際に佇むなか、禍々しくさえある巨大な波濤に魂が呑み込まれていく者の姿が感じられる。そして、《松風》において細川が示していたのは、海辺が漂着の場であるだけでなく──もしこういう言葉を造るならば──、憑着の場でもあるということである。平田オリザとの共作によるオペラ《海、静かな海》でもそうだったが、海辺に佇む者のなかに死者、あるいは行方が分からなくなってしまった者の魂が入り込んで、生者を深く揺さぶるのだ。

細川と平田の二度目の共作による新しい室内オペラ《二人静──海から来た少女》は、まさにこの海辺における魂の憑着を強い音楽で描きながら、死者を抱えた孤独な人間が海岸に立ち尽くしている現在を鋭く照らし出す作品と言えよう。この作品は、平田が能の「二人静」を現代の物語に翻案して書いた原作を基に書かれている。舞台は今や吉野の山ではなく、地中海の浜辺。そこに立っているのは、海の向こう側の戦地から逃れてきた難民の少女である。小舟で波間を漂うなかで失った弟を思う彼女の心に、900年前に世を去った静御前の魂が取り憑く。その役を歌うのは能役者。《二人静》は、細川が能の謡いと舞いそのものを初めて舞台に導入した作品でもある。能の精神からオペラを書き継いできた細川の新たな境地を示す作品としても注目される。

2017年12月1日、パリのフェスティヴァル・ドートンヌ(秋季芸術祭)の一環として、フィルハーモニー・ド・パリのコンサート・ホールで行なわれたその世界初演に接することができた。難民の少女ヘレンの役を歌ったのは、ソプラノのケルスティン・アヴェモ(Kerstin Avemo)。2012年のルール・トリエンナーレにおける細川の《班女》の公演で花子の役を歌って、鮮烈な印象を観客に残した歌手である。静御前の魂を演じたのは青木涼子。能の謡いを生かした現代の音楽の世界を越境的に切り開きつつある彼女が、昨年の4月に馬場法子の能オペラ《葵》(Nôpera«Aoi»)の見事な初演を成し遂げたことは、パリの人々の記憶に新しいにちがいない。マティアス・ピンチャー(Matthias Pintscher)指揮のアンサンブル・アンテルコンタンポランが、二人の歌を支えながら作品の世界を現出させていた。

作品は、風の音を含んだ不穏なざわめきから始まる。《班女》や《松風》は、柔らかな風が漂うなかに何者かの気配を感じさせるかたちで始まるが、《二人静》の始まりは、どこか重苦しい空気が支配していて、その流れはやがて渦をなして激しい嵐のように吹きすさぶ。その動きが胸を締めつけるように高まっていった先に訪れる静寂のなかに、難民の少女が一人しゃがみ込んでいるのを目の当たりにするとき、この孤独な少女ヘレンの姿に、戦場と化した故郷での恐怖、生活のすべてが根こそぎに破壊された苦しみ、そして地中海を渡って岸辺に辿り着くまでの苦難が刻み込まれていることに思いを致さないわけにはいかない。むろん、これらの苦悩はけっして彼女だけのものではない。もしかすると、戦地から逃れられなかった者たちや、地中海の波間に沈んでしまった者たちの無念の思いが、ヘレンという人物には凝縮されているのかもしれない。そしてその思いは、今も内海の水底で渦巻いている。

「私はどこから来たの?/私はどこへ行くの?」と自問しながら立ち上がり、海を逃れてくる過程で弟を失った苦しみを歌うヘレンの背後に静御前の霊が出現する。その姿が徐々に近づいてくると、音楽の強度がさらに増してくる。そこにある凄まじいまでに張りつめた響きには、自分だけが生き残ってしまったことへの罪責感に苛まれながら、死者とのあいだに引き裂かれた二つの魂が、900年もの時を越えて重なり合おうとするところにある緊張が凝縮されているように聴こえた。「君がため、春の野に出でて若菜摘む/我が衣手に雪は降りつつ」と、袖を雪に濡らしながら春の七草を探す情景を暗示しつつ歌う静にヘレンが問いかけ、それに静が応じるところでは、まだ二つの魂は並立したままである。しかし、仏教で言う回向(供養)を求める静は、ヘレンの心のなかへ入り込もうとする。そして、それを拒もうとするヘレンの肩に、静の手がそっと乗せられる瞬間には、《二人静》という作品の焦点があると考えられる。

この瞬間に、静御前とヘレンのあいだに一つの回路が切り開かれる。二つの魂は、最も親しい者を奪われた苦悩において一つになるのだ。今や静の苦悩はヘレンのそれであり、ヘレンが抱える死は、静のなかにある死でもある。ヘレンと静が一つの魂となって歌うところには、《二人静》という作品における主題のうえでも、音楽的にも核心的なものが含まれていよう。ソプラノの声と能の謡いの声という、一般的には異質と見られる二つの声が折り重なるところには、たしかに心地よい美しさがあるわけではない。しかし、二つの声が一つの響きを形成するところでは、二つにして一つであることと、そこにある魂の呼応の奇跡が独特の強度で表わされている。ヘレンと静が一緒に歌う瞬間は、《班女》以来細川が決定的な場面で響かせてきた、二つの声が完全には重なり合わないなかで独特の調和を形づくる二重唱の変容と見られる一方で、まさにその変容とともに新しい音楽の地平を切り開いているとも思われる。

二人の声が強度を孕んだ一つの層を成すなかで、生まれたばかりの子どもを殺された静の苦悩が他者によって深く受け止められる。すると静の魂はヘレンのなかから脱け去って、静かに舞い始める。その時間は、絶えず垂直的に区切られては始まる一つの間として、時の水平的な進行を宙吊りにしていた。鼓の音を思わせる打楽器の音を中心としたその時間の簡潔な響きは、能役者の舞いを生かすものと言えよう。青木涼子の舞いは、静御前の魂の深く静かな喜びを感じさせるかたちで様式化されたものであったし、また彼女の声は、全体の響きの底から聞こえてくる強さを示してもいた。ケルスティン・アヴェモの途方もない振幅を持った表現にも瞠目させられた。静が息子を殺されるに至った骨肉の戦いと、故郷での「兄弟たち」の戦いとを重ねて、二つにして一つの苦しみを歌う彼女の声には、空間を切り裂くような強さがあった。

絶えず水底を暗示しつつ重い緊張を湛えながら持続する響き──そのなかで、他の舞台作品にも増して低音が強調されていたと思われる──の上で、二人の魂が最終的に一つの歌を響かせるところにある音楽と、必要最小限に切り詰められた舞台演出──それはほぼ身ぶりと舞いだけであったと言ってよい──は、まさにその表現の強度において、遙かな時を越えた魂の邂逅を浮かび上がらせながら、次のヘレンと静が生まれ続けている現在を鋭く照らし出していると言えよう。シリアなどでの殺し合いは止まず、戦地から逃れようとする人々も、途上で次々と命を落としている。その傷を背負って、今も少女が波打ち際にうずくまっているにちがいない。その孤独な魂に誰が語りかけるのだろう。彼女の許に静は来るのだろうか。

北へ向かうヘレンの足跡を、これから降る雪は隠してくれるかもしれないが、彼女の傷が癒えることはないだろう。とはいえ、静の魂に出会うことのできた彼女は、苦しみが他者に受け止められうることへの希望を胸に、他者たちのあいだを歩み続けることができることができるかもしれない。歌うようなマリンバの響きを含んだ柔らかな響きが漂うなかにヘレンの姿が徐々に消え入って、曲が閉じられる瞬間は、どこかこのような未来を微かに暗示しているように思われた。難民となって漂流する人々が抱えるものを、魂の呼応のなかから問いかけるとともに、彷徨う二つの魂が交差し、苦悩を通い合わせる可能性を響かせる作品が、今ここに生まれたことの意義は計り知れない。それに接する者は漂着にして憑着の場である海辺へ誘われて、今どのような歴史的世界に、どのような人々のあいだに生きているかを、深いところから省みることができるだろう。そのような潜在力を含む室内オペラ《二人静──海から来た少女》が、ピンチャーが指揮するアンサンブル・アンテルコンタンポランの精緻な演奏によって、明確な姿で世に送り出されたことは実に喜ばしい。

なお、細川と平田の《二人静》が初演された演奏会には、「二つの魂」というタイトルが付されていた。「二つの魂」という言葉は、ヘレンと静、細川と平田と同時に、細川と武満徹の二人の作曲家を象徴するものである。《二人静》の上演に先立っては、細川のバス・フルートのための《息の歌》、武満の室内アンサンブルのための《群島S》、そして同じ武満のフルート、ハープ、ヴィオラのための《そして、それが風だったことを知った》が演奏された。なかでも《息の歌》は、《二人静》を貫く音楽の息遣いを暗示させるとともに、作品の終盤における見事なバス・クラリネットの独奏を予感させるものであった。武満の《群島S》は、この室内オペラの世界を柔らかな響きのなかに垣間見せてくれた。なお《二人静》は、12月3日にはケルンのフィルハーモニーで、パリと同じ二人の歌い手、そしてピンチャー指揮のアンサンブル・アンテルコンタンポランによって上演される。受け容れた難民たちとともに歩もうとしていると同時に、それをめぐって数々の軋轢を抱えているドイツの地で、この新しい作品はどのように受け止められるのだろうか。

広告

細川俊夫『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』刊行記念トーク・ショー[2017年3月4日/ESPACE BIBLIO]のお知らせ

51fwl3vou1l昨年12月に拙訳にてアルテスパブリッシングより刊行された、細川俊夫著『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(聞き手:ヴァルター゠ヴォルフガング・シュパーラー)の刊行を記念して開催されるトーク・ショー「細川俊夫の創作の背景にせまる──尹伊桑、武満徹、そしてオペラへの道」をご案内いたします。来たる3月4日(土)15:00より駿河台のESPACE BIBLIOにて開催されるトーク・ショーでは、著者の細川俊夫さんをお迎えして、本書において初めて語り下ろされた、この世界的な作曲家の創作の軌跡の背景にあるものや、本書では語られなかったエピソードなどを、2012年にドイツで本書の原書が刊行されて以後の作曲活動を含めて詳しくお話しいただきます。また、今回は特別ゲストとして、世界を代表するリコーダー奏者の鈴木俊哉さんをお迎えいたします。細川さんのお話と鈴木さんの演奏によって、本書の内容を具体的に感じ取っていただきながら、細川さんの「空間と時間の書(カリグラフィー)」としての音楽を身近に感じていただけるものと考えております。会場などの情報は、末尾に記しておきます。開催に向けてご尽力くださっているESPACE BIBLIOの関係者のみなさまに、この場を借りて心より感謝申し上げます。

本書『細川俊夫 音楽を語る』の概要はすでに別稿に記しましたし、版元のアルテスパブリッシングのウェブサイト(こちらから直接本をご購入いただくこともできます)にも記されておりますので、ここでは繰り返しません。今回の「細川俊夫×柿木伸之トーク・ショー」では、この「対話による自伝」に語られた半生と作曲の足跡のうち、とくにベルリン留学時代の尹伊桑との師弟関係や、細川さんの広島での少年時代にまで遡る武満徹との関係に焦点を絞りながら、これらの作曲家の音楽との対照において、細川さんの音楽世界を浮き彫りにしたいと考えております。鈴木さんの演奏を交えながら、これらの作曲家と細川さんのあいだにある東洋の伝統楽器へのアプローチの相違などにも光を当てることができるのでは、とも思います。2012年以後の作曲の展開を語っていただく際には、オペラ《班女》、そして《松風》の一部の貴重な映像を見ながら、ちょうど一年前にハンブルクで平田オリザさんの演出により初演された《海、静かな海》を含めたオペラの作曲についても詳しくうかがえるものと考えております。それをつうじて、オペラを含む音楽作品を世界中から委嘱され続けている細川さんの作曲の現在が、本書に語られた創作の源泉から浮かび上がることでしょう。細川さんの音楽世界の展開の軌跡とその今にじかに接することのできる3月4日のトーク・ショーへ、ぜひお誘い合わせのうえお越しください。多くの方のご来場を心よりお待ち申し上げております。

  • 日時:2017年3月4日(土)15:00〜17:00(14:30開場)
  • 会場:ESPACE BIBLIO(エスパス・ビブリオ)※リンク先に地図があります。〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台1-7-10YK駿河台ビルB1F
  • 参加費:1,500円(当日精算)
  • 予約制:Eメール(info@espacebiblio.superstudio.co.jp)または電話(Tel.: 03-6821-5703)にて受付(定員60名)。Eメールでご予約の際には、上記のアドレス宛に件名「3/4細川氏トーク希望」にて、お名前、電話番号、参加人数をお知らせください。追って返信で予約完了が伝えられるそうです。電話による予約は、火曜日から土曜日の11:30〜20:00のあいだ受け付けているとのことです。20170304%e7%b4%b0%e5%b7%9dx%e6%9f%bf%e6%9c%a8%e3%83%88%e3%83%bc%e3%82%af_a6%e7%89%883rd

細川俊夫のオペラ《海、静かな海》の世界初演を振り返るシンポジウムのご案内

中央大学人文科学研究所公開シンポジウムflyer東日本大震災と福島第一原子力発電所の過酷事故が起きてから5年の月日が経ちました。それとともに、これらの出来事が人々の魂に残した傷がいかに深かったかが、浮き彫りになりつつあるように思われます。被災した人々のそれぞれの場所での生活再建がままならない状況は言うまでもありませんが、津波などで肉親を亡くし、自分だけが生き残ったことの負い目を抱えるなかで心身を磨り減らし、早く亡くなる人が後を絶たないことも、座視できないことでしょう。こうした問題があるなかで、未だ2600名に近い行方不明者がいることは、非常に痛ましいことです。その一部が、防護服なしには捜索に行くことすらできない場所に置き去りにされていること、それはいわゆる「原子力政策」の取り返しのつかない過ちを物語っているばかりでなく、壊滅的な放射能汚染の危険をも告げているのではないでしょうか。にもかかわらず、政府と電力会社は、原子力発電所の再稼働を押し進めています。

このように、大震災も原発事故も未だけっして終わっていないなか、深刻な危機に直面している現在を照らし出すとともに、そこに生きることを根底から見つめ直させるのが、今年の1月24日にハンブルク州立歌劇場で世界初演された細川俊夫さんのオペラ《海、静かな海》だと思われます。ケント・ナガノさんの指揮と平田オリザさんの演出による世界初演の模様は、3月14日の午前0時よりNHK-BSの「プレミアムシアター」の枠内で放送されましたので、ご覧になった方もおられることでしょう。この放送を私も見ました。すでに別稿に記したとおり、私は《海、静かな海》の世界初演をハンブルクで観ているわけですが、「フクシマへのレクイエム」と題されたドキュメンタリーとともにその初演を見直すことで、新たに知ったことや発見したことがありました。細川さんの音楽や、福島と広島の結びつきなどについても、あらためて考えさせられたところです。

さて、来たる2016年3月26日(土)に、細川さんの《海、静かな海》のハンブルクでの世界初演、そしてその模様の放送を踏まえたうえで、この新たなオペラの世界初演の意義を検討し、現代のオペラの可能性を、その社会との関係などを含めて考えるシンポジウム「ドイツでオペラをつくるということ──ハンブルク歌劇場での細川俊夫《海、静かな海》初演を振り返る」が、中央大学の人文科学研究所の主催により開催されます。時間は14時より17時半までで、会場は中央大学後楽園キャンパスの6210号室です。昨年のシンポジウム「《リアの物語》から考える──日本での現代オペラ上演の現状と課題」と同様、今回も現代のオペラの可能性を世界的な動向を視野に追求し続けておられる、中央大学の森岡実穂さんにコーディネイトしていただきました。今回のシンポジウムにおいては、細川さん自身が《リアの物語》から《海、静かな海》に至るオペラ作曲の歩みを語ってくださるのが何よりも貴重と思われます。細川さんにとって、オペラの作曲とは何か、またどのような音楽思想の下で《海、静かな海》が作曲されたのか、といったことを詳しくうかがえることでしょう。

また、演出家の佐藤美晴さんより、《海、静かな海》のハンブルクでの世界初演のプロダクションに演出助手として加わった経験をお話しいただけるのも、とても貴重なことでしょう。ドイツにおけるオペラ制作の実情を詳しくうかがうなかで、日本におけるオペラ制作の課題も浮かび上がってくるのではないでしょうか。私も、「細川俊夫の作品に見る現代の芸術としてのオペラの可能性」と題して拙いお話をさせていただきます。主にドイツと広島で細川俊夫さんのオペラ作品の上演に接してきた経験を振り返りることで、《海、静かな海》の細川さんのオペラ作品における位置を測り、その初演を振り返ることによって、大震災と原発事故後の現代に向き合うこの新たなオペラの特徴を掘り下げ、さらに細川さんの作品から見て取られる、現代の芸術としてのオペラの可能性の一端に迫ることができれば、と考えております。

ご参加の方々を交えた議論をつうじて、《海、静かな海》の初演の意義をさらに掘り下げ、現代の芸術としてのオペラの可能性を検討できれば、実りあるシンポジウムになることでしょう。現代の音楽に関わっておられる方々、オペラや演劇など、舞台芸術に関わっておられる方々、これらの芸術に関心をお持ちの方々などが、数多く議論に加わってくださることを願っております。入場無料で、事前の申し込みも不要とのことです。お問い合わせ先は、中央大学人文科学研究所(Tel.: 042-674-3270)です。共催に加わってくださった東京ドイツ文化センターのウェブサイト日本独文学会のウェブサイトにも、情報が掲載されております。どうぞ奮ってご参加ください。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。

細川俊夫のオペラ《海、静かな海》の世界初演に接して

波の打ち寄せる音が微かに聞こえてくるなか、一人また一人と街の人々が灯籠を手に海辺へ集まってくる。やがて響く下から突き上げるような地鳴りの音。それに続く、湧き立ち、押し寄せるような打楽器の前奏とともに、細川俊夫のオペラ《海、静かな海(Stilles Meer)》の世界初演(2016年1月24日、ハンブルク州立歌劇場にて)は始まった。その響きは、東日本大震災の被災地で今も断続的に続いている地震と、5年が経とうとする大震災の衝撃のフラッシュ・バックとを、一つながらに表わしているように感じられてならない。細川のこれまでのオペラには見られない激烈な一撃による開始は、取り返しのつかない出来事の傷痕が残る海辺へ、聴衆を一瞬で惹きつけていた。しばらくして、この打楽器だけの前奏が静まると、そこに留まり、生き続けることの内側にあるものが、歌とともに響いてくる。

1034_3_Stilles_Meer_Hero_2

細川俊夫《海、静かな海》の舞台 ©Staatsoper Hamburg

地震が続き、震災の記憶が回帰する場所に留まること。それは何よりもまず、世界の崩壊への恐怖に脅えながら日々を過ごすことである。原発事故がもたらした土壌と水質の放射能汚染によって壊されてしまった日常を。そのことは、視覚的にも表現されていた。舞台上に垂直に吊るされた細長い灯は、今も事故を起こした原子炉に残る燃料棒を思い起こさせずにはおかない。人々の暮らしは、いつでも倒れて、世界をそこに生きる生命もろとも根底から破壊しかねない燃料棒の下にあるのだ。

震災と原発事故によって震撼させられた後の世界に生きることへの不安は、折々に繰り返される合唱の歌によっても表現される。「月のない夜は星に聞け。/星のない夜は波に聞け。波のない夜は雲に聞け……/山は死ぬるか?/海は死ぬるか?/空は死ぬるか?」この詩句を歌う音型は、とくに節の末尾の音の上昇において、細川が6年前にドレスデン空襲と広島への原爆投下の犠牲者に捧げた《星のない夜──四季へのレクイエム》(2010年)の合唱の旋律を思い起こさせずにおかない。世界の崩壊を予感するようなゲオルク・トラークルの詩を響かせるその旋律は、自然の底知れぬ力に慄きながら、生への祈りを響かせていた。《海、静かな海》における合唱は、それを反響させるかのように、世界の終わりの予感に脅えながら、生存への切なる願いを歌っているように聞こえた。その響きは、初めのうち少し生硬だったが、徐々にしなやかさと説得力を増していった。最後の場面の合唱の清澄な響きは、作品の全体を聴衆に深く印象づけたにちがいない。

最初の合唱が静まると、オーケストラの緊張に満ちた響きが、静かに空間に浸透していく。それはこのオペラの基調をなしながら、象徴的な装置とともに一つの舞台を形成するものと言えよう。その舞台の上で、震災と原発事故の後の痛々しい現実と、冥想とが、歌とともに浸透し合う。そして、被災地であるとともに、夢幻の世界でもあるこの舞台を結節点として、震災の津波で夫と息子を失ったバレエ教師クラウディア、その夫の姉ハルコ、そしてクラウディアの元恋人で、彼女を連れ戻しにドイツからやって来たシュテファンの思いが交錯する。平田オリザの原作による台本と彼の演出は、この三人の主人公の人物像を見事に描き分けていたが、細川の音楽は、三者が区別されながら通じ合う──だからこそ、三者は激しく思いをぶつけ合うのだ──ところにも光を当てている。三者が相通じるのは、死者、とりわけクラウディアとシュテファンのあいだに生まれた息子マックスへの哀惜の思いである。これを細川は最終的に、念仏の声に収斂させる。

「南無阿弥陀仏」の念仏の声は、能の「隅田川」から取られたものであり、その一節を三人が演じてみようとする際に聞かれる。オペラ《海、静かな海》は、「隅田川」を重要な準拠枠とし、その能と同じく、息子の死を受け容れられない母親を軸にドラマを展開させながら、この母親の、能のなかで歌われるように「狂うて」いるかのようですらある死者の許への跳躍を音楽で響かせ、死者とともに生きる魂の姿を浮き彫りにする。このオペラも細川のこれまでのオペラと同様に、能の精神を現代に生かすことで、被災地を舞台とする今回のオペラの舞台にこそ相応しいかたちで、死者と生者のあいだを開き、そこに留まることの核心に迫ろうとしているのだ。そのことは、夢幻の世界への魂の上昇を、歌のかたちで響かせることによってこそ可能なのである。

そのための声の選択は、実に興味深い。クラウディアの役がソプラノの声域に、またハルコの役がメゾ・ソプラノの声域に割り当てられることは容易に想像がつくとしても、シュテファンの役がカウンター・テナーによって歌われるのは、やや意外に思われるだろう。しかし、音楽を聴き続けるうちに、そのことに重要な意味があることが分かってくる。三重唱になる場面では、近接した音域で歌うハルコとシュテファンの声の上に、クラウディアの声が浮き上がり、同時に彼女と残りの二人の立場の違いが浮き彫りになる。他方で、シュテファンが一人で歌う場面では、津波で流された息子へ語りかける言葉に、まさに能が表現してきた、彼岸へ向かう魂の動きが込められるのである。この役を歌ったベジュン・メータは、きわめて完成度の高い歌唱で、シュテファンの哀惜と絶望を切々と響かせていた。

シュテファンとともにクラウディアに息子の死を受け容れさせようとするハルコを歌った、藤村実穂子の存在感も忘れがたい。「マックスは死んだのよ」という突き刺すようなハルコのひと言は、彼女が死者への思いとのあいだに引き裂かれながら、被災地の現実を凝視しようとしているだけに重みがある。そのことを歌う「汚れた子供……」と始まる一節は、原発事故に遭うということを、その奥底から抉り出していたのではないだろうか。切り詰められた伴奏の上で歌われるこの一節は、オペラの舞台の肉眼では見えない現実を、聴き手に鋭く突きつけるものと言えよう。その現実を生きながら、同時に冥想の世界に留まり、息子の魂の傍らに生き続けようとするのがクラウディアであるが、彼女の役を歌ったスザンネ・エルマークは、細やかなニュアンスを湛えた声と振幅の豊かな表現で、彼岸と此岸を媒介する役を見事に演じていた。津波に流された死体のありさまを抉り出す強い歌もさることながら、能舞台の橋掛かりのような通路の上で歌われる、彼岸へ立ち昇るかのような、柔らかな祈りの歌が何よりも印象的であった。その美しさは、死者へ思いを寄せ、死者に応えようとする魂の美しさだったのではないだろうか。

これら三人の主人公をはじめとする役柄のために細川が書いた音楽は、彼のこれまでのオペラに比べると、素直に歌う部分が多いように聞こえるが、それによって言葉が明確に響いたのは、《海、静かな海》のリブレットの性格にも、またオペラ自体の性格にも相応しいのではないだろうか。その一方で、打楽器だけの間奏曲──前奏にはその一部が採られている──がとくに印象的なオーケストラのパートは、非常に表情が豊かである。総奏で、激烈な高まりと、静謐さの双方を表現する一方、自在に楽器編成を変えながら、多彩な響きを聞かせている。それによって、このオペラの舞台における時間の重層性を表現することに成功していた。先に触れたハルコの歌の伴奏の張りつめた静けさとともに、クラウディアの柔らかな歌にエコーのように寄り添うヴィオラの独奏がとくに印象的であった。ケント・ナガノ指揮によるオーケストラの演奏は、すでにして説得力豊かであったが、公演を重ねるごとにさらに精度と表現の振幅を増していくだろう。

「隅田川」を使ってクラウディアにマックスの死を受け容れさせ、彼女をドイツへ帰そうというハルコとシュテファンの試みは、クラウディアを説得するには至らず、彼女が語るように、それぞれが「それぞれの故郷に」赴くことになる。三人が三様の方向へ歩み始め、彼岸の灯籠流しを終えた人々が防護服を着けて墓地へ向かおうとするなか、音楽は穏やかに静まっていく。震災も原発事故もまったく終熄していない──そのことは、人々を危険な「避難区域」の墓地へ導くロボットがはっきりと表わしている──なかで、死者の傍らに留まりながら、また震災と原発事故のトラウマを抱えながら日々を歩んでいこうとする姿の静けさ。それは、水面が優しく輝く海の静けさと呼応している。その地点まで、震災と原発事故に遭った後に生きること自体を、その可能性において突き詰めていくオペラ《海、静かな海》には、現在への厳しい問いも含まれていよう。

オペラの舞台となった街の灯籠流しには、広島と長崎で今も続けられている灯籠流しとある共通点がある。それは、いずれの灯籠流しも、どこで死んだかも、どこに遺体があるのかも、核のために分からなくなってしまった死者に捧げられているということである。《海、静かな海》というオペラ自体も、これらの場所の灯籠のように、そのような死者に捧げられているにちがいない。それを貫く独特の静けさは、未だ遺体の見つからない死者の存在を忘却し、波間に置き去りにして、ひたすら「前へ」、原発を再び動かしてでも進もうとする国の喧騒を、無言のうちに鋭く問いただしていよう。2016年1月24日、細川俊夫のオペラ《海、静かな海》は、聴衆の盛大な喝采とともに、現在への問いを含みながら、ハンブルクから世に送り出された。この出来事に立ち会った者は、震災も原発事故もまだけっして終わっていないことを、深く心に刻んだはずである。