早春の仕事など

IMG_0080柔らかな陽射しを楽しむかのような鳥たちの声が聞こえる日が多くなり、ようやく春の訪れを実感できるようになってきました。近所の公園の桜の古木にも、花をのぞかせ始めたつぼみがちらほらと見られます。最近目にしたヘルダーリンのフランクフルト時代の断片は、このような一見穏やかな春の萌しのうちに、老いとそこにある硬直に立ち向かう若々しさそのものを、それを貫く生命の迸る動きを鋭敏に感じ取っていました。できればいかに忙しいなかでも、そのような生命の力を内に感じていたいものです。早いもので、広島に戻ってすでに一か月半が過ぎましたが、その間二週間の集中講義を含めて非常に慌ただしく過ごしておりました。その間の活動を、ここでご報告しておきたいと思います。

まず、3月4日には、駿河台のESPACE BIBLIOにて細川俊夫著『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(柿木伸之訳、アルテスパブリッシング、2016年)の刊行を記念して開催されたトーク・ショー「細川俊夫の創作の背景にせまる──尹伊桑、武満徹、そしてオペラへの道」の聞き手役を務めました。このトーク・ショーでは、著者の細川俊夫さんをお迎えして、本書において初めて語り下ろされたこの世界的な作曲家の創作の軌跡の背景にあるものなどを、2012年にドイツで本書の原書が刊行されて以後の作曲活動を含めて詳しくお話しいただきました。また、特別ゲストとしてリコーダー奏者の鈴木俊哉さんをお迎えして、細川さんの創作活動の里程標をなす作品を演奏していただきました。51fwl3vou1l

幸い、トーク・ショーには会場が満員になるほどのお客様にお越しいただき、心から感謝しております。鈴木さんの素晴らしい演奏と貴重なオペラ上演の映像を交えての細川さんのお話には、尹伊桑や武満徹との関わりについて初めて聞く話がいくつもありましたし、細川さんの音楽そのものについて改めて深く考えさせられる言葉や、現代日本の状況に対する重要な問題提起もありました。このような充実した場をご用意くださったエスパス・ビブリオのみなさま、アルテスパブリッシングの木村さんに、心から感謝申し上げます。

また、3月11日には、成蹊大学アジア太平洋研究センターの主催で開催されるシンポジウム「カタストロフィと詩──吉増剛造の『仕事』から出発して」にお招きいただき、パネリストの一人として「言葉を枯らしてうたえ──吉増剛造の詩作から〈うた〉を問う」という発表をさせていただきました。ヴォイス・レコーダーを構え、じっとこちらを見つめる吉増剛造さんを前に、またかねがね尊敬している錚々たる方々のあいだで少し緊張しましたが、何とか役目を果たすことができました。最近のものを含めた吉増さんの詩作を読み解きながら、また奇しくもまったく同じテーマ(「カタストロフィと〈詩〉」)で行なわれた三年前の原爆文学研究会のワークショップで原民喜やパウル・ツェランの詩についてお話ししたことを少し振り返りながら、今〈うたう〉可能性を詩のうちに探る内容のお話をさせていただきました。

17218299_1434549826597385_7177254774096220764_oまさに東日本大震災が起きた日に開催されたこのシンポジウムは、これまで参加させていただいたシンポジウムのなかで、最も密度の濃いものの一つでした。吉増さんの詩作の初期から『怪物君』(みすず書房、2016年)にまで貫かれているものを文脈を広げながら掘り下げ、詩とは何か、詩を書くとはどういうことかを突き詰めていく思考が、4時間以上にわたって積み重ねられました。そのような議論が最後に『怪物君』とは何かという点に収斂したのは、この日のシンポジウムに相応しかったと思われます。吉祥寺という場所で胸騒ぎを覚えながら引用した原民喜の「鎮魂歌」の一節に「僕は結びつく」という言葉がありますが、自分のなかでいくつものモティーフが結びつき、たくさんの宿題を持ち帰ることができました。それに吉増さんを介して、素晴らしい方々とも出会うこともできました。このような場を作ってくださった、李静和さんと成蹊大学アジア太平洋研究センターのみなさんに、あらためて心から感謝申し上げます。

それから、図書新聞の第3297号(3月25日発売)に、竹峰義和さんの近著『〈救済〉のメーディウム──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会、2016年)の書評を書かせていただきました。「媒体の美学の可能性──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲの不実な遺産相続の系譜から浮かび上がるもの」と題する拙稿では、時に「剽窃」と非難されることもあるアドルノによるベンヤミンの思想の継承に内在する、破壊的ですらある読み替えが思想の内実を批評的に生かしていることや、師にあたるアドルノが映画や放送メディアのうちに見ようとした可能性を、師とは異なった方向性において開拓するクルーゲの仕事に光を当てる本書の議論が、「フランクフルト学派」のもう一つの系譜とともに、知覚経験を解放する「救済の媒体(メーディウム)」の美学の可能性を示している点に触れました。この原稿が、ベルリン滞在中に公刊を予定して書いた最後の原稿ということになります。

この間、いくつか印象深い演奏会や展覧会に接して、自分の仕事の出発点を顧みる機会を得られたのは幸いでした。まず、3月3日に六本木のギャラリーOta Fine Arts, Tokyoにて、「ニルヴァーナからカタストロフィーへ──松澤宥と虚空間のコミューン」を見ました。嶋田美子さんの素晴らしいキュレーションによって精選された貴重なドキュメントの数々は、松澤宥という、その緻密な思考にもとづくアートによって、アートを突き抜けたアーティストの行為の軌跡と、それを結節点として世界中のアーティストが結びついていくさまを実に生き生きと伝えるものでした。松澤が一つのマンダラの形で構想していた、物質の滅却、人類の滅亡、さらにはその先にある虚無へ向けた思考の布置を構成していくアートを今どのように捉えるか、という点は、膨大な資料の解読にもとづくこれからの研究によって掘り下げられなければならないと思います。

とはいえ、松澤が拠点を置いた諏訪と広島、長崎を結びつけたこともある彼の仕事が、そこに生まれる呼応関係によって、危機的な現在を照らし出すものだということは、展示からひしひしと伝わってきました。そのことは同時に、とくに日本列島に生きる者たちが外的にも内的にも取り返しのつかないカタストロフィに足を踏み入れつつあることを問いただしているようにも感じられます。諏訪の松澤宥プサイの部屋を訪れて、彼を結節点とするアートの強度とアクチュアリティを、資料から計測する研究者が出て来ることを願ってやみません。松澤の空への呼びかけに応じて集まったアーティストたちによる、手書きによって構成された葉書や書簡、そして電報(テレグラムとしてさらに考えてみたいところです)の数々も、新たなポエジーの胎動を感じさせるものでした。

17350038_1444674655584902_3959852989274643360_o3月12日には、横浜のみなとみらいホールで横浜芸術アクション事業Just Composed 2017 in Yokohamaの「能・謡×弦楽四重奏」の演奏会を聴きました。馬場法子さんの《ハゴロモ・スイーツ》の世界初演を聴いて、出かけた甲斐があったと思いました。青木涼子さんの声と謡を見事に生かしながら、能の「羽衣」のエッセンスをなす要素を新鮮に、潮風と気配を感じさせる風景のなかに響かせていたのが印象に残ります。楽器の生かし方も、モノ・オペラとしての空間の演出も、実に巧みだったと思います。終演後に馬場さんからお話をうかがって、これらが謡の綿密な研究の成果であることも分かりました。ステファノ・ジェルヴァッゾーニの《夜の響き、山の中より》も、西行法師の歌の配列のなかに声を多彩に生かしながら一つのモノ・ドラマを現出させる作品として興味深く聴きました。能の謡とミニマムな器楽アンサンブルのコラボレーションに可能性を感じさせる演奏会でした。

3月16日には、京都のVoice Gallery pfs/wにて呉夏枝さんの個展「仮想の島── grandmother island 第1章」を見ました。亜麻を素材にグァテマラやインドネシアの織物の技法を参照しながら丹念に織られた地図、ないしは海図としての織物は、けっして平面で完結することなく、中空で螺旋をなしながら、あるいは地下茎を伸ばしながら、別の時空へ連なっていきます。その様子は、人が記憶の越境的な連なりを生きていることと同時に、いくつもの記憶が海を越えて遭遇する可能性をも暗示しているように見えます。海の上に火山島を思わせる島が浮かび上がる風景は、いくつもの記憶が折り重なり、さらには生の記憶が歴史と痛みとともに交錯することによって織りなされているのではないでしょうか。

目を変えながら織られた織物の上に黒のなかのさまざまな色が滲み出る──それが、島の像の存在感と遠さを一つながらに醸し出していました──ところには、テクスト、あるいはテクスチュアからこぼれ落ちるものが染み出ているようにも見えました。作品のテーマとなっている地図ないし海図とは、このような過程に人を引き込む一つの閾としての空間に身を置く一人ひとりの記憶のなかに織られていくものと思われます。そのことは、吉増剛造さんとパウル・ツェランが詩作を、織ったり、編んだりすることに喩えていたことにも呼応することでしょう。風を感じさせる空間が形づくられていたことも印象的でした。もしかするとそのことは、作家の創作の新たな段階を暗示するものかもしれません。

それにしても、この一月半のあいだ、ベルリン滞在の準備に追われていた一年前に比べてさらに社会が息苦しくなっていることを、さらにその息苦しさが、思想とその表現の自由が最後まで守り抜かれるべき場さえも覆おうとしていることを、実感せざるをえませんでした。もし、幾重もの不正と汚職をめぐる狂騒に紛れて共謀罪──「テロ等準備罪」なるものは、共謀罪以外の何ものでもありません──が法的に作られるなら、思想信条の自由が、それを表現する権利が実質的に奪われるのではと危惧しています。それによって、精神は萎縮し、上目遣いの自粛が蔓延し、いかがわしい「公益」なるものが幅を利かせる社会が出来上がるでしょう。そのような状況のなかで、人が息苦しさと無力さに押し潰されてしまう前に何ができるかを、新たな年度が始まる4月へ向けて、自分の置かれた場所で考えてみたいと思います。

 

広島へ/Nach Hiroshima

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役所からの帰り道に見た現役のトラバント

ここ数日ベルリンでは、この冬では比較的寒い日々が続いています。日中でも気温が氷点下二、三度で、空はどんよりと曇っています。あらためてドイツで冬を過ごしていることを実感させる気候ですが、そのようななかで、ベルリンの住居を引き払い、広島へ帰るための準備を進めていました。寒さのなかを半時間ほど歩いて、地区の役所の支所へ住民登録解除の手続きに行ったり、荷物をまとめたりしていたところです。何と言っても、研究のために買いためた本を箱詰めして送り出す作業が難儀でした。昨年四月からの勤務先の大学の学外長期研修制度によるベルリンでの研究滞在を終えて、広島へ帰ります。あっという間に過ぎた十か月でした。

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桜の時季に滞在が始まりました。

滞在期間は、ベルリン自由大学の哲学科のジュビレ・クレーマー教授にお世話になりながら研究を進めました。おかげで、人文学に関する文献が豊富に揃ったこの大学の文献学図書館をほぼ毎日利用できましたし、またクレーマー教授のコロキウムで研究の中間的な成果を発表してフィードバックを得ることもできました。初めの頃には、ベルリン芸術アカデミーのヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフにも、文献のことをはじめ何かとお世話になりました。ベルリンでの研究環境は、ほぼ申し分なかったと言えるでしょう。ただ、それを生かしきれたかと自問すると、やはり忸怩たるものが残ります。もう少し文献を読めたはずだという思いを拭えません。

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初夏から夏にかけては多くの果物を味わいました。写真は市場で見た巨大な西瓜。

ベルリンでは〈残余からの歴史〉の概念を、ヴァルター・ベンヤミンの歴史への問いを引き継ぎながら、哲学的かつ美学的に探究する研究に取り組んでいました。そのためには、当然ながらベンヤミン自身の問題意識をいっそう掘り下げなければなりません。滞在期間の前半は、彼の遺稿「歴史の概念について」の批判版のテクストと、それに関連した二次文献を読み、あらためて彼の歴史哲学とは何か、という問題に取り組んでいました。また、歴史と芸術の接点を探りつつ美学的な問題意識を深めるためには、ベンヤミンの『ドイツ悲哀劇の根源』が重要であると感じましたので、滞在期間の後半には、そのテクストとこれに関連した文献を繙読しておりました。

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秋のリリエンタール公園

本来ならば、ある程度雑事から解放されている研究滞在の期間にこそ、基礎的な文献をもっと多く読んでおかなければならないのでしょうが、さまざまなことに追われて、思うようには読めなかったというのが正直なところです。とはいえ、ベンヤミンの著作にある程度時間をかけて取り組むなかで、彼の思考への見通しを、微かながら得ることができました。帰国後に少し落ち着いたら、これを何らかのかたちで提示することへ向けた仕事にも取り組まなければと思います。それから、すでに昨年のクロニクルに記しましたように、中國新聞のコラム「緑地帯」などへの寄稿をつうじて、研究に取り組みながら、あるいはベルリンに滞在しながら考えたことを広くお伝えする機会に恵まれたのは幸いでした。

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冬景色

なかでも、昨夏に雑誌『現代思想』の「〈広島〉の思想──いくつもの戦後史」特集に、「そこに歴史はない──ベルリンからグラウンド・ゼロとしての広島を思う」と題する拙論を寄稿させていただいたことは、現在の問題意識を明確にする契機となりました。そこに一端を描いた、ベルリンと広島を大西洋と太平洋を越えて結び、今も続いている「核の普遍史」とも言うべき歴史には、広島から、あるいは広島を思うなかから立ち向かわなければならないでしょう。そして、生存そのものを脅かすこの「普遍史」に抗いつつ、今ここに死者の魂とともに生きる余地を探る営為のうちに、〈残余からの歴史〉を位置づけたいと考えているところです。

過酷な歴史的過程の残滓であるとともに、「歴史」によって抑圧されながらも残り続けている残余としての記憶から、ないしはその消えつつある痕跡から、一つひとつの出来事を想起し、一人ひとりの死者に思いを馳せると同時に、「歴史」とされてきた物語を総体として問いただすところにあるもう一つの歴史、この〈残余からの歴史〉。ベンヤミンの言葉を借りるならば「瓦礫を縫う道」としてのその方法を、さらに彼の思想の研究を深めながら、また広島で原民喜などの作品を読みながら、あるいは歴史学との対話をつうじて探究しなければと考えています。記憶殺しと歴史の骨抜きがとくに日本で進行するなかで、歴史とは何かという問いにはもう少しこだわってみたいと思います。

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フィルハーモニーとともに、コンツェルトハウスへも何度も足を運びました。

ところで、今回の研究滞在中には、細川俊夫さんの『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』の日本語版が、関係者のご尽力により、アルテスパブリッシングより拙訳にて刊行されました。世界的な作曲家の「対話による自伝」とも言うべき本書を、細川さんが最初に留学したベルリンに滞在しているあいだに世に送ることができたのには、巡り合わせのようなものを感じます。そこで細川さんが、ご自身の作曲活動の軌跡とともに語っておられる、音楽の核心にあるものは、これからさらに深めていかなければと考えています。ベルリンでは、かなりの数の演奏会やオペラなどの公演に足を運びました。熱気に包まれた会場で音楽に耳を傾け、舞台に目を凝らしながら、音楽とは何か、オペラの上演は今どのようにありうるか、という問いがいつも脳裡に浮かんでいました。そうして考えたことも、広島で音楽に関わる仕事に生かしていきたいと思います。

それから、滞在期間にベルリンからヨーロッパ各地へ何度か出かけられたのも、忘れられないことの一つです。なかでも大規模なパウル・クレー展が行なわれていたパリへの旅、ベンヤミンが自死を遂げたポルボウへの旅、そして最近のベルンとチューリヒへの旅からは、今後の研究にとってきわめて重要な経験を得ることができました。それによって、ベンヤミンの思考の軌跡をいっそう広い歴史的文脈に位置づける視野が開けたと感じています。また、ハノーファーとハンブルクでは、広島とドイツを結ぶ非常に興味深い試みにも接することができました。これらの旅をつうじて得られた刺激や人間関係も、今後の研究と教育に生かしていかなければなりません。

今回は家族とともにベルリンに滞在しました。娘が公立の小学校に通ったので、それに関わる細々としたことに時間を取られることも多かったのですが、娘の担任の教師やクラスメイトの親など、おそらく単身での滞在では出会うことのない人々とめぐり逢うことができたのもよい経験でした。娘は友達に恵まれ、何人か親友もできました。近いうちに親友との再会の機会を設けなければと思います。また、住まいの家主がとても親切だったのにも助けられました。こうした人々がいたおかげで、温かい日常を過ごすことができたと思います。ベルリンで出会った、あるいは再会した友人たちにも、さまざまな場面で助けられました。心から感謝しています。

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ちょうどベルリン映画祭の準備が本格化しています。

滞在期間には、昨年の12月に起きたトラックによる無差別殺傷事件のように衝撃的な出来事も起きましたが、この事件の後のベルリンの人々の落ち着いた生活ぶりには、多くを学ばされました。現在、世界を不安が覆うなか、憎悪が人々のあいだを引き裂いているのは確かでしょう。それに、それに乗じたとも言える由々しい政治的な動きは、すでに始まっています。しかし、後戻りできないかたちで雑種化し、さまざまな背景を持つ人々の交差路となっているベルリンの日常を生きる人々は、このことがいかに誤っているかを深く理解していると思います。それに、ダニエル・バレンボイムのように、人の注意力を細やかにしながら人と人を結びつける音楽の力を確信しているベルリンの優れた音楽家は、音楽に取り組む者にとって、人を他者に開く人文的な知が重要であることも深く理解しています。おそらくは、憎悪をその歴史的な根から照らし出し、他者とともに生きるうえで困難でありながら大切な問題を考えることへ人を導くことによって、こうした芸術家の営みを支えるところには、この困難な時代における哲学の課題の一つがあることでしょう。このような問題意識を抱きながら、また広島での仕事に戻りたいと思います。今日広島へ発ちます。

節目の夏の仕事

原民喜の持ち家の庭の川縁に被爆以前から生えていたという被爆柳

原民喜の持ち家の庭の川縁に被爆以前から生えていたという被爆柳

2015年8月6日、広島は被爆から70年の節目を迎えました。そのことは何よりもまず、広島で被爆を記憶していくことに重い課題を突きつけるものとして受け止められる必要があるでしょう。原爆を直接体験しなかった人々が、被爆の痕跡と死者の記憶を深く胸に刻みながら、同時に広島で何が起きたのか、なぜ起きたのか、と問い続けながら、みずからの手で被爆の記憶を絶えず新たに呼び起こし、伝えていかなければならない時代が到来しています。そして、そのことは今や、世界史的な文脈のなかに広島を位置づけながら、他の場所で起きた、あるいは起きつつある苦難の出来事と、広島の被爆を照らし合わせることで現在を見通し、同様のことが繰り返されることを食い止めようと努めることでもあるはずです。このように、今ここで被爆を記憶することついての理論的な考察の一端を、先頃上梓した拙著『パット剝ギトッテシマッタ後の世界──ヒロシマを想起する思考』(インパクト出版会、2015年)のなかに示しておきましたので、ご一読いただけるとありがたいです。

さて、被爆という出来事を、他の出来事と照らし合わせながら、その特異性において記憶する具体的な実践の可能性を探るうえで、8月7日という被爆の記憶の継承へ向けて新たな一歩を記すべき日に行なわれた、アニー・デュトワさんの講演は示唆に富むものだったのではないでしょうか。当日は、この講演を含む「アニー・デュトワ博士と広島の学生との平和交流&萩原麻未による被爆ピアノ演奏」(広島交響楽団主催)の進行役を務めさせていただきました。アニー・デュトワさんは、5日に行なわれた広島交響楽団の「平和の夕べ」コンサートで、これ以上はありえないと思われるベートーヴェンのピアノ協奏曲とシューマンの小品の演奏を聴かせてくれたマルタ・アルゲリッチの愛娘。その演奏会に来られた方には、チャールズ・レズニコフの詩と原民喜の詩を、作家の平野啓一郎さんとの絶妙の掛け合いとともに印象深く朗読されたのが記憶に新しいところでしょう。

デュトワさんの講演は、アウシュヴィッツとヒロシマがいずれも語りえない、自分の経験と関連づけるのがきわめて困難な出来事である点で通底していることを念頭に置きつつ、そのような出来事を、自分と結びつけながら、かつ現在の問題として理解することの重要性を、ヨーロッパ中から集まった17、8歳の若者たちとアウシュヴィッツを訪れた経験にもとづいて語りかける内容でした。まず、今なお歴史修正主義がはびこるなかで、歴史的な事実をしっかりと知っておくことがまず重要であることを、ショアー(ホロコースト)にまつわる基本的な事実やデータを紹介しつつ述べておられましたが、知識としての歴史だけではけっして充分ではないことを強調されていました。犠牲者に共感しつつ、なぜこのようなことが起きたのかを、想像力を働かせて自分の問題として理解しようとしなければ、将来を切り開く行動は生まれないとのことです。

そのために、デュトワさんがヨーロッパの若者たちと参加した“Trains des milles”(千人の列車)プロジェクトは、さまざま工夫を行なっているようです。例えば、近代史上の人物を一人選んで、この人物にとって最も大事な身の回りの物は何かを考え、その人物のスーツケース──ユダヤ人たちがアウシュヴィッツへ携えて行ったスーツケースです──を自分で作り、個々人の経験への共感の回路を開く試みがなされているとのことでした。また、若者たちは34時間かけて列車でアウシュヴィッツを目指すわけですが、その列車にはアウシュヴィッツの生き残りが同乗し、みずからの体験を語るのだそうです。広島における被爆の記憶、ないしは戦争の記憶の継承の可能性を考えるうえでも参考になることの多いプロジェクトではないでしょうか。

デュトワさんは、ヨーロッパで極右勢力がじわじわと拡大し、反ユダヤ主義をはじめとするレイシズムが声高になりつつあるなかで、“Trains des milles”のようなプロジェクトの重要性はいっそう高まっていると述べていました。まして歴史修正主義が一種の大衆性すら帯びるなか、ヘイト・スピーチがパブリックな媒体においても行なわれているこの国では、そうしたプロジェクトは喫緊の課題と言うほかありません。同時にこうした若者が参加するプロジェクトに、文学や音楽をはじめ、芸術に触れる機会を組み込み、若者たちのなかに共感の回路を開くことの重要性も、デュトワさんと確認し合ったところです。広島ではとくに、原爆文学と呼ばれる文学の作品を深く味わう機会を設けることが大事ではないでしょうか。その一つとして原民喜の被爆時の足どりを辿るフィールドワークは、非常に有意義な機会と思われます。

8月5日、広島花幻忌の会が主催する原民喜の「夏の花」を歩くフィールドワークに、学生たちと参加しました。炎天下を、原民喜が目の当たりにした被爆時の光景を思いながら、彼の生家の跡から「夏の花」の基になる「原爆被災時のノート」が書き始められた東照宮まで歩きました。民喜の甥の時彦さんのお話を聞きながら、また原民喜の文学を研究されている竹原陽子さんの朗読を聴きながら、被爆時の原民喜の足跡を辿ることができるのは、「夏の花」を深く読むうえでも、この作品に込められた記憶を絶えず新たに呼び覚ましていくうえでも、とても貴重なことです。もっと多くの若い人たちに参加してほしいものです。

ところで、広島と長崎の被爆とともに、敗戦からも70年が経とうとしていますが、それとともに戦争の記憶が薄れ、戦争体験者の平和への切なる願いも、忘れられつつあるように思えてなりません。まさにそのような今、「平和」という言葉が、生きることから掠め取られ、殺し、殺されるのに人を駆り立てるのに使われ始めています。そして、そのような、いわゆる「安保法制」の確立へ向けた動きを貫くのは、記憶殺しとも言うべき歴史修正主義であり、帝国日本の植民地主義を支えたレイシズムです。こうした考えを抱きながら、現政権の無法なやり方を批判する拙稿を、週刊書評紙『図書新聞』第3218号(2015年8月8日)の特集「『戦争法案』に反対する」に掲載していただきました。

拙稿は、「記憶を分有する民衆を、来たるべき東洋平和へ向けて創造する──平和を掠め取り、言葉を奪い、生きることを収奪する力に抗して」という表題のものですが、これは今年のささやかな平和宣言です。平和という言葉のみならず、言葉そのものを、さらには生きること自体を食い物にしながら、平和主義を根幹から骨抜きにしようとする政権の無法な動きを、歴史的な問題として見据えつつ、まさにその動きに抗して、国会前で、各地の街頭で、そして大学のキャンパスで生まれつつある言葉を、記憶を分有する民衆の創造へ向けて結び合わせることを要請する内容の小文を書きました。ご高覧いただけたら幸いです。

7月31日には、東京ドイツ文化センター図書館での連続講演会「ベンヤミンの哲学──言語哲学と歴史哲学」の第1回「導入:ベンヤミンの生涯と著作」を何とか終えることができました。お運びくださったみなさまに心から感謝申し上げます。聴き手の熱心さがひしひしと伝わり、とても話しやすかったです。ベンヤミンの生涯を通観するかたちで話をするのは初めてでしたが、とてもよい経験になりました。次回のテーマは「ベンヤミンの言語哲学」、拙著『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)の内容をかみ砕きながら、かつ今回の反省点も踏まえつつ、言葉への問いをご参加のみなさまと共有できるよう努めたいと思います。

それにしても今年は酷暑が続きます。みなさまくれぐれもお身体に気をつけて、この厳しい夏を乗り切ってください。私も、この暑さのなか、大学の講義などのさまざまな仕事をこなす傍ら、ひたすら原稿を書き続けてきたので、さすがに少々夏バテ気味です。ひとまず、上記の『図書新聞』紙への寄稿の原稿をはじめ、急ぎの原稿はすべて出し終えたこともあり、10日から14日までは、鹿児島の実家に帰省して休暇を取ることにいたします。その間、英気を養いながら、次の仕事のためのアイディアを温めたいと考えております。

小著『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ──ヒロシマを想起する思考』を上梓しました

9784755402562このたび『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ──ヒロシマを想起する思考』と題する小著を、インパクト出版会から上梓しました。よく知られた原民喜の詩句を表題に用いた本書を、広島と長崎が被爆から70年の節目を迎えようとしている時期に世に送り出すことに、身の引き締まる思いです。本書には、2007年から今年までのあいだに、ちょうど一年前に上梓した『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社)に組み込まれた論文を書き継ぐ傍らで、広島の地での文化に関わる活動のさまざまな機会に応じて書かれた論文や評論、そしていくつかの講演録が収録されています。論考を最初に発表する機会を与えてくださった方々や講演の機会を設けてくださった方々に、この場を借りて心から感謝申し上げます。靉光の《眼のある風景》を生かすかたちで美しく装幀していただいたのも大きな喜びです。

本書に収録された論考や講演録を貫いているのは、原民喜が「パット剝ギトッテシマッタ アトノセカイ」と呼んだ広島の焦土の光景や、そこにいた人々のことを今ここで想起する可能性を、芸術のうちに、さらには言葉そのもののうちに探りながら、「平和」を、死者を含む他者とともに生きることのうちに取り戻そうとする思考のもがきです。ここ広島でも「平和」が、権力者とそれにすり寄った大勢順応主義者の手に落ちつつあるなか、生存そのものの危機が迫っていますが、そのような今こそ、このもがきの跡を敢えてお示ししたいと考えて、本書をお届けする次第です。本書の焦点は「ヒロシマ/広島/廣島」にありますが、そこには近代、そして現代の日本の問題が凝縮されているとも考えております。さまざまな角度からお読みいただけたらと願っております。以下、本書の内容をごく簡単にご紹介しておきます。

序として掲げたのは、広島が帝国の軍都であったことを省みながら、70年前の出来事を、今も続く暴力の歴史の中断とともに開かれる来たるべき東アジアへ向けて想起しようという本書の基本的な問題意識を示すものです。第1部には、想起の媒体としての芸術作品のあり方を掘り下げながら、死者とともに生きる場を切り開く芸術の力に迫ろうとする評論や講演を収めました。第2部の中心をなすのは、ヒロシマ平和映画祭やそれに関連する催しの際に行なわれた講演です。その基調をなすのは、広島の抵抗としての文化の遺産を、生の肯定へ向けて継承する可能性を模索する思考です。第3部には、合評会などの機会に発表された書評を中心とする批評を集めました。作曲家詐称問題に触れた評論も収録しています。第4部に収められているのは、今ここで被爆の記憶を継承すること自体へ思考を差し向け、被爆の記憶を世界的なものとして受け継ぐことにもとづいて追求されるべき平和の可能性を、他者とともに生きることのうちに探った論考です。ヒロシマを想起することを主題とする書き下ろしの論考が含まれています。付録として、広島の文化を培っていくために致命的に欠けている施設の建設の提案も収録しました。

このような構成で送り出される本書の議論には、言うまでもなく、尽くされていない点が多々あるでしょうし、哲学と美学からのアプローチの限界が露呈しているところもあることでしょう。これらについてはみなさまから忌憚のないご指摘をいただけたら幸いです。何よりも、本書の問題提起を契機に、軍都廣島と戦後の広島の歴史を、現在を照らし出すものとして捉え直すことや、被爆の記憶の証言を深く受け止め、その記憶を、他者の苦難の記憶にも呼応するかたちで継承することについて、そして広島の芸術と文化のあり方について議論が深まることを心から願っております。

『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ──ヒロシマを想起する思考』目次

はしがき

序 広島の鎮まることなき魂のために

第一部 記憶する芸術の可能性へ向けて

  • 未聞の記憶へ──記憶の痕跡としての、想起の媒体としての芸術作品の経験、その広島における可能性
  • 記憶する身体と時間──ヒロシマ・アート・ドキュメント2008によせて
  • 耳を澄ます言葉へ──今、ヒロシマを語り、歌う可能性へ向けて
  • 芸術の力で死者の魂と応え合う時空間を──被爆七十周年の広島における表現者の課題

第二部 映画から問う平和と文化

  • 「平和」の摩滅に抗する映画の経験へ──ヒロシマ平和映画祭2007へ向けて
  • アメリカ、オキナワ、ヒロシマの現在へ──ヒロシマ平和映画祭2009への導入
  • 生の肯定としての文化を想起し、想像し、創造するために──「表現の臨界点(クリティカル・ポイント)──広島の現在と赤狩り、安保、沖縄」プロジェクトを振り返って
  • 抵抗としての文化を継承し、生の肯定を分かち合う──ヒロシマ平和映画祭2011における「抵抗としての文化」プロジェクトによせて

第三部 ヒロシマ批評草紙

  • 「ゲン」体験と「正典」の解体──吉村和真、福間良明編著『「はだしのゲン」がいた風景──マンガ・戦争・記憶』書評
  • 「ひろしまの子」たちの声に耳を開く──東琢磨『ヒロシマ独立論』書評
  • 封印の歴史を逆撫でする──高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ──米核実験と民間防衛計画』書評
  • 「受忍」の論理を越えるために──直野章子『被ばくと補償──広島、長崎、そして福島』書評
  • 作品批評の在り方検証を──作曲家詐称問題に関する中国新聞への寄稿記事
  • 「多数」としての「ひと(サラム)」を生きることを呼びかける言葉の創造──崔真碩『朝鮮人はあなたに呼びかけている──ヘイトスピーチを越えて』書評

第四部 記憶の継承から他者とのあいだにある平和へ

  • 広島から平和を再考するために──記憶の継承から他者とのあいだにある平和へ
  • 歓待と応答からの共生──他者との来たるべき共生へ向けた試論
  • 残傷の分有としての継承──今ここで被爆の記憶を受け継ぐために

付録 [不採択]被爆七十周年記念事業案

あとがき

[本書は、お近くの比較的大型の書店のほか、Amamzon.co.jp楽天ブックスhonto紀伊國屋BookwebMARUZEN & JUNKUDOエルパカBOOKSセブンネットショッピングHonya Clubなどでご購入いただけます。]

転機の二月に

早いもので、二月も終わりに近づいてきました。少しずつ春の兆しが感じられるようになっています。いつもにも増して厳しかったこの冬もようやく終わりに近づいてきたようですが、しばらくは寒暖の差が激しい日々が続くことでしょう。みなさまどうかご自愛ください。

さて、この二月には、いくつか転機となる、あるいはなるべきと思われる出来事がありました。なかでも、その最初の日に、ジャーナリストの後藤健二さんが、ISILの構成員の手によって殺害されたのには、大きな衝撃を受けました。紛争地の勇気ある取材をつうじて、現地の人々の困難な暮らしとそれが投げ掛ける問いを伝えてきたジャーナリストがこうして非業の死に追いやられたことに、深い悲しみを覚えないではいられません。

同時に、そこに至る日本政府当局の対応は、厳しく検証される必要があるとも思われます。「テロには屈しない」という言葉が喧しく繰り返されている裏で、どのような選択がなされていたのか、そこにどのような力が作用していたのか、といったことが明らかにされ、そこにある問題が追及されるべきでしょう。もし、その過程について「特定秘密保護」といったことが言われるとするならば、現在の政府は何を志向しているのかが、いよいよ深刻に問われなければならないはずです。

実際、日本のパスポートを携えて国境を越えていく人々が、命の危険に曝されないような状況を作るために外交的に働きかけることよりも、「日本人には指一本触れさせない」などと主張する武力を海外に拡大して、全世界的な戦争の一翼を担うことに、現政権が重心を置いていることが明白になりつつあります。海外への武器輸出や、海外での武力行使の道を拡げることに汲々とし、地元の移設反対派の住民を暴力で弾圧しながら、アメリカ軍の普天間基地の辺野古への移設へ向けた作業を強引に進めるやり方には、深い憂慮を覚えます。そして、「邦人保護」を名目に海外へ武力を送ろうという方向には、日本の戦争の歴史を重ねないではいられません。

ともあれ、2月1日を境に、日本の旅券を所持する者にとって世界は、根本のところで変わってしまったと思われます。そのような日に、一つの世界の崩壊を現出させるシェイクスピアの『リア王』を基に作曲された細川俊夫さんのオペラ《リアの物語》の広島での公演(Hiroshima Happy New Ear Opera II:細川俊夫《リアの物語》、2015年1月30日、2月1日、アステールプラザ中ホール)が楽日を迎えたのは、何かの巡り合わせなのかもしれません。すでに別のところで述べましたように、主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、プログラム・ノートを執筆し、日本語字幕の制作に携わり、プレ・トークとアフター・トークの司会を務めるかたちで、この公演をお手伝いさせていただきました。こうしたかたちで今回の公演に関わることができたことを、非常に光栄に思っています。また、全国各地からこの公演に駆けつけてくださったみなさまに、心から感謝申し上げます。

《リアの物語》の16年ぶりの上演となった今回の公演は、すでに各方面から好評をもって迎えられているようで、喜ばしく思っております。また、さまざまな意味で厳しい《リアの物語》という作品を、こうして演奏家と聴衆の集中力が一体となるようなかたちで舞台に載せることができたのは、Hiroshima Happy New Ear、ひろしまオペラルネッサンスといった、広島における地道な音楽活動の成果と思われます。しかし今は、今回の公演のなかで同時に、広島から新たなオペラを今後創り出していくうえでの課題も浮き彫りになったとも感じています。能舞台を用いて行なわれた今回の公演は、日本からの、そして広島からのオペラの創造の可能性を示すものであったと思われますが、その可能性を実現するためには、個々の演奏家とスタッフが音楽と舞台に対するみずからの役割と責任を明確にすることによって、芸術的な完成度、とりわけ音楽の完成度を高めることが急務ではないでしょうか。それをつうじて、今回の公演をオペラそのものの転機にする必要があると考えています。

この《リアの物語》の公演の二週間後、この公演で素晴らしい指揮を見せてくれた川瀬賢太郎さんが指揮台に立ち、リーガンの役を歌った半田美和子さんが、リゲティの《マカーブルの秘密》──これは、オペラ《ル・グラン・マカーブル》のゲポポのアリアを演奏会用に編曲したもので、バーバラ・ハンニガンが得意とする曲です──を歌うこともあって、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の神奈川県立音楽堂での定期演奏会を聴きに行きました(2月14日)。

この《マカーブルの秘密》が最初に演奏されたのですが、この曲で半田さんが、素晴らしい声と技巧で、リゲティの難曲のテクスチュアとテクストを余すところなく生かした演奏を繰り広げたのには、心動かされました。この作品をここまでの完成度で歌えるのは、日本では半田さんだけではないでしょうか。楽譜とテクストをしっかりと読み込んだ演奏によって、テクストの不条理さと、それが表わす錯乱も、表現として響いてきました。ドイツ語のテクストで歌われたのも、こうした行き方に相応しかったように思います。ドイツ語のほうが、断片化した言葉も含め、言葉が立って聞こえます。

川瀬賢太郎さんの指揮の下、神奈川フィルハーモニーのアンサンブルとの息も合っていて、半田さんの声と管楽器の響きが溶け合っているのが、表現に深みをもたらしていました。とくに声と管楽器の細かいトリルが遠くからひたひたと迫ってくるのには鳥肌が立ちました。以前に東京で接したバーバラ・ハンニガンのパフォーマンスほどには強い視覚性はないとはいえ、リゲティの音楽自体の凄さが研ぎ澄まされたかたちで伝わる演奏とパフォーマンスだったと思います。こうした演奏をつうじて、《マカーブルの秘密》が他ならぬリゲティの作品であることと、オペラの文脈を確かめることは絶対に必要ではないでしょうか。

その後、ハイドンの作品が二曲演奏されましたが、いずれの曲でも川瀬さんとオーケストラがよい関係を築いていることが音楽に表われていました。なかでも、交響曲第60番ハ長調「うかつ者」の演奏は素晴らしかったです。川瀬さんと神奈川フィルハーモニーはこの交響曲で、ハイドン独特のユーモアを存分に生かしつつ、躍動感と繊細な歌に満ちた演奏を繰り広げていました。この多彩な6楽章の交響曲のフィナーレのパフォーマンスも、実に楽しかったです。川瀬さんがここぞというところで示す音楽の推進力は目覚ましいもので、沸き立つようなリズムが聴衆の心を捕らえていました。それと田園情景を思わせる、ゆったりとした歌とのコントラストも生きていたと思います。チェロ協奏曲第1番では、独奏を担当した門脇大樹さんの端正な演奏もさることながら、川瀬さんが、ともすれば単調になりがちな伴奏から、実に豊かな歌を引き出していたのが印象に残ります。

神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会の翌日、渋谷の松濤美術館へロベール・クートラス展「夜を包む色彩」を見に行きました。小さくて静かな、そして手仕事の痕跡を残す夜の絵を興味深く見ることができました。聖堂の修復にも携わったことのある彼ならではの中世的なアルカイスムのなかに、ルドンを思わせる幻想性と、ルオーに見られるような聖性が同居するのが、とくに魅力的に思われます。また、小さなタロット・カード状の「カルト」に敢えて画面を制限しながら、そこに象徴性と意匠性を、素朴さを交えつつ凝縮させているのも面白かったです。そこに聖性と極端なまでの卑俗さの双方を込めながら、自分の存在の跡を執拗なまでに残そうとする画家の身ぶりからは、その深い存在の不安が感じられます。

ロベール・クートラス展flyer裏面

ロベール・クートラス展のflyer裏面

ちなみに、 「カルト」は極度の貧困のなかで夜ごと描かれたそうです。クートラスの晩祷の連作と言えましょうか。そこに中世の聖堂のファサードに見られる、人間の罪を象徴した像が表われるのも、聖堂の修復に携わった彼ならではのことかもしれません。祖霊への崇敬と魅力的な天使像の見られるグワッシュの作品や、テラコッタの立体作品も面白かったです。クートラスという画家のことは、これまで寡聞にして知らなかったのですが、よい出会いとなりました。

2月18日には、原民喜の甥の原時彦さんが、民喜の手帳を広島平和記念資料館に寄託されたとの報せを聞きました。この手帳の現物は、何度か見せていただいたことがありますが、とくに「夏の花」に描かれた場所を巡るフィールドワークの折に見せていただいたときのことを印象深く覚えています。「コハ今後生キノビテ コノ有様ヲツタヘヨト 天ノ命ナランカ」との決意を表わす文言が含まれる、自分が目にした広島の惨状を克明に記した「原爆被災時のノート」(その全文を土曜美術社刊の『新編原民喜詩集』などで読むことができます)がよく知られていますが、それ以外の部分にも反戦の意志が表われていたりして興味深いです。何よりも、こうして資料館に寄託されたのを機に、この手帳の存在が広く知られるようになるとともに、そのなかに記されたすべての文字が研究に活用される道がしっかりと開かれることが重要かと思います。

同時に、被爆から70年を迎えるこの年に寄託されたことは、一つの転機を示すものであると同時に、いくつもの問いを投げかけるものでもあるように感じます。峠三吉や栗原貞子らの作品の自筆草稿などとともに、世界記憶遺産への登録を目指す意味もあるとのことですが、登録されたなら、広島の人々は、この遺産を生かしていく使命を負うことになります。では、どのようにしてその使命を果たすことができるのでしょうか。何よりもまず、「娘を嫁に出すような心境だ」と新聞記者に語る時彦さんの思いに、どのようにして応えることができるのでしょう。広島における文学館の不在が、今あらためて問題として浮かび上がっているようにも思われます。

この二月、何冊かの本との出会いがありましたが、なかでも印象深かったのは、若松英輔さんが著わされた『吉満義彦──詩と天使の形而上学』(岩波書店、2014年)でした。吉満義彦は、近代日本のキリスト教思想史に大きな足跡を残した哲学者にして神学者です。私の母校の上智大学でも教えていたので、彼の名前を私の指導教員などの口から聞くこともあったのですが、彼のことを知る機会は、これまでほとんどありませんでした。若松さんの評伝を読んで初めて、彼が徳之島の出身で、私の高校の大先輩にも当たることを含めた彼の生涯と、霊性とは何かを問い続けた彼の思想に興味を覚えたところです。

徳之島などの南島で、珊瑚礁が死者の彼岸と生者の此岸のあいだに位置づけられていることと、吉満が、地上と超越者のあいだにある中間域を、死者との共生の場として、かつ形而上学の場として追求したこととが重なり合うところが、とくに興味深く感じられます。若松さんの評伝を、二読、三読しながら、吉満自身の著作にも触れてみたいと思います。同時に、「近代の超克」などへの彼のコミットメントも辿りながら、戦争の時代における天使的な思想の境位を確かめられればとも考えています。

この二月には、一つ小さな仕事を公にしました。広島芸術学会の会報第131号の巻頭言です。「芸術の力で死者の魂と応え合う時空間を──被爆70周年の広島における表現者の課題」という表題のごく短い文章で、細川俊夫さんのオペラ《リアの物語》が夢幻能の精神にもとづく作品で、その上演が死者とともにある空間を開くものであることや、原民喜の「鎮魂歌」がその強度において死者の嘆きを反響させていることを踏まえつつ、芸術の力によって死者とともに生きられる時空間を広島の地に切り開くことを、被爆70周年の広島における表現者の課題として提起する内容のものです。また、昨年12月に第46回原爆文学研究会の「『戦後70年』連続ワークショップⅣ──カタストロフィと〈詩〉」のなかで行なった報告「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌──パウル・ツェランと原民喜の詩を中心に」の要旨などを記した小文も、原爆文学研究会の会報第46号に掲載されております。

Chronicle 2014

ダニ・カラヴァン《初めに》(霧島アートの森)内部より

ダニ・カラヴァン《ベレシート(初めに)》(霧島アートの森野外展示)内部より

年の瀬にようやく寒さが落ち着いた感がありますが、今年の冬の寒さは例年になく厳しさで、12月中旬には広島でもかなりの雪が降り積もりました。すでに別稿で述べたとおり、それは息苦しい冬の時代の到来を告げるかのようでもあります。東日本大震災と福島の原子力発電所の重大事故を経て、日本列島の人々の暮らしは少しは身の丈に合ったものに変わるかと思いきや、二度の総選挙を経てこの国に残ったのは、救いがたくフラットで、目障りなほどに華やかさを装う「ニッポン」という虚像。この自己慰撫と他者への憎悪によってのみかろうじて維持しうる華やかさを増殖させるために、今や放射能の深刻な脅威が、日本列島の全域に実際に迫りつつあります。そして、そのキッチュなきらびやかさと表裏一体の排他的な歴史修正主義は、暴力の歴史の犠牲になった人々の尊厳を奪いながら、日本列島に生きる人々の世界的な信用を損ねています。

人々の生を資本に売り渡して圧殺する「ニッポン」という神話の暴力に抗して、まずアジアの島々の連なりのうちに息をつく余地を探ることが、どうやら来たる年の課題になりそうです。そのために、これまでにも増して地に足を着けて哲学することが求められるように思われてなりません。そこで来年はまず、被爆70周年を迎える広島の記憶を、その複数性と世界性において再考し、その痕跡と証言を今ここで見届け、聴き届ける可能性を考えてみたいと思います。今年夏に起きたイスラエル軍によるガザ地区の人々の虐殺も連なる暴力の歴史を見通し、それを食い止める可能性へ向けて、ヒロシマの記憶は継承されるべきではないでしょうか。そして、その理論をもう一つの歴史、「国民」の名の下の暴力の歴史の残余から描き出される歴史の概念に結びつけていくのが、次なる課題となることでしょう。

そのためにも、先頃批判版のテクストが刊行されたヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」を読み直すことが急務と思われます。その足がかりとして、今年の夏、奇しくもベンヤミンの誕生日に当たる7月15日に、学位論文を基にした著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』を平凡社から上梓することができました。そのためにご尽力くださった編集者の関正則さんと安井梨恵子さんに、あらためて心から感謝申し上げます。幸い拙著は、各方面で温かく迎えられているようで、すでに二つの書評が公にされ、一千人近い読者を得ています。また10月11日には、西南学院大学で拙著の合評会も催していただきました。その実現にご尽力くださった田村元彦さんと行友太郎さんに感謝申し上げます。

この合評会の場でも拙著に素晴らしいコメントをくださった森田團さんには、『週間読書人』紙の12月5日号に、「研究の大きな道標に──言語と歴史をめぐる思考の内的な連関を解釈する可能性を指し示す」と題する濃密な内容の書評をご寄稿いただきました。拙著の意義とアクチュアリティを緻密に読み解いたうえで、ベンヤミンの問いを受け継ごうとするモティーフまで汲んでくださっています。また、インパクト出版会の『インパクション』第197号には、細見和之さんによる拙著の書評「『歴史の天使』は破局に満ちたこの現在にあくまでとどまろうとする」が掲載されています。拙著のベンヤミン受容史における位置、彼の言語哲学と歴史哲学を接続させる議論の意義と射程などを明らかにするとともに、今後課題とすべき点もしっかり指摘した、非常に充実した内容の書評と受け止めております。これらを励みに、上に記したような課題に取り組むべく、研究に精進したいと思います。

今年も、講義と大学の公務と家事の合間を縫って研究と執筆を続ける日々が続いたわけですが、そのなかで、11月にバイエルン国立歌劇場で観たベルント・アロイス・ツィンマーマンの《軍人たち》をはじめ、素晴らしい音楽や舞台に触れられたのは大きな喜びでした。また、細川俊夫さんのモノドラマ《大鴉》の広島初演へ向けた日本語字幕制作や、武生国際音楽祭などでのレクチャーや演奏会をつうじて、音楽と言葉の関係について、実際に作品に触れながら考える機会を持てたことも刺激的でした。そして、私も「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌」という報告をさせていただいた12月下旬の原爆文学研究会は、あらためて詩を生きることの可能性を実感する貴重な機会となりました。詩を生きることの分有のためにも、言葉そのものをさらに掘り下げなければと思います。

以下に記すように今年一年の公的な活動を振り返ると、たしかに今年の前半はさまざまな仕事が積み重なって、相当に忙しかったことが分かります。そのためもあって、7月初旬に橈骨神経麻痺を発症し、2か月強にわたり利き手の右手が不自由な生活を余儀なくされました。おかげさまで今はほぼ何の問題もなく右手を使って仕事ができていますが、長いリハビリの日々は、生活観をかなり変えることになりました。以前は一顧だにしなかった筋力の強化のため、週二回ほどジムに通って、ウェイト・トレーニングとスイミングに取り組んでいます。その成果もあって基礎体力はいくぶん向上しました。引き続き体力の強化に努めながら、地道に仕事に取り組んでいきたいと思います。来たる年もよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。2015年がみなさまにとって少しでも平和で幸せに満ちた年になることを祈念しております。

■Chronicle 2014

  • 1月31日:細川俊夫さんの《星のない夜──四季へのレクイエム》の広島初演が行なわれた広島交響楽団第335回定期演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。この大規模な声楽作品《星のない夜》が、ゲオルク・トラークルの詩をつうじて、四季の循環とそのなかの生々流転を描きながら、広島への原子爆弾の投下とともに、ドレスデンへの空襲を想起する作品であることに触れたうえで、その構想の重要な契機となったのが、パウル・クレーの《新しい天使》とその絵に寄せられたテクストであることにも論及しています。《星のない夜》という作品全体の特徴を紹介し、この作品を、過去を想起するよう促す裂け目を含んだ新しい暦と特徴づけました。併せて、モーツァルトのフリーメイソンのための葬送音楽とヨーゼフ・マルティン・クラウスの交響曲嬰ハ短調の特徴も紹介しています。
  • 2月7日:同日付中国新聞29面に、「佐村河内守作曲」とされてきた作品の作曲者偽装問題について、「作品批評の在り方検証を」という論考を寄稿しました。「交響曲第1番HIROSHIMA」をはじめとする楽曲が別人の作曲によるものであったことが判明したことを受けて、その音楽自体を批評にもとづいて紹介するのではなく、耳が聞こえないなかで作曲する「現代のベートーヴェン」の神話だけを独り歩きさせてきた音楽業界とマス・メディアのあり方を批判し、そのイメージ戦略に乗って美談の消費に流れ、広島では「市民賞」を授与するにまで至った音楽文化のあり方に警鐘を鳴らす内容のものです。
  • 3月7日:学位請求論文「ベンヤミンの言語哲学──翻訳と想起」により、上智大学より博士(哲学)の学位を授与されました。この論文は、7月に刊行される著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社)の基になった論文です。本にするにあたり、終章を中心にかなり改稿しました。論文要約が上智大学学術情報リポジトリに掲載されています。
  • 3月20日:広島大学総合科学研究科人間存在研究領域人間文化研究会編『人間文化研究』第6号に、「谺の詩学試論──ベンヤミンにおける『谺』の形象を手がかりに」が掲載されました。2013年7月23日に、ポーランドのクラクフで開催された第19回国際美学会 (19th International Congress of Aesthetics) において英語で発表した原稿 (Toward the Poetics of Echo: From Revisiting the Image of “Echo” in Walter Benjamin’s Writings) のもとになった日本語の草稿を改稿したものです。ヴァルター・ベンヤミンの著作、とくに「翻訳者の課題」と「歴史の概念について」に見られる「谺(こだま:Echo)」の形象を批判的に検討するとともに、それが示唆する美的経験を、パウル・ツェランや原民喜の詩的作品のうちに見届けながら、「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマ」以後の詩的表現の可能性とともに、いわゆる「表象の限界」を超える歴史的想像力の可能性を探っています。
  • 4月1日:丸川哲史さんの著書『魯迅出門』(インスクリプト、2014年)の書評「転形期における魯迅の『文』の探究を世界的な文脈へ解放する」が、『情況』3・4月合併号に掲載されました。魯迅の文学を、従来の魯迅研究などから解放しつつ新たに読み解き、そこに世界史を自主的に構成する道の模索を見て取ろうとする本書の特色を、魯迅の「文」の探究を中心に論じています。この「文」の探究を、中国を越えて同時代の文学における「文」の試みと接続させることによって、魯迅を読み直す新たな、世界的な文脈を開いている点に光を当てるとともに、それによって魯迅とヴァルター・ベンヤミンの同時代性が浮き彫りになっている点に注目しました。
  • 4月〜7月:広島市立大学国際学部の専門科目として、「共生の哲学I」、「社会文化思想史I」、「多文化共生入門」の講義、「発展演習I」、「卒論演習I」、オムニバス講義の「国際研究入門」を担当しました。「国際研究入門」ではコーディネーターも務めました。大学院国際学研究科の「現代思想I」では、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(月曜社)を講読しました。全学共通科目として、「世界の文学」の2回の講義と「平和と人権A」の1回の講義を担当しました。広島大学では教養科目の「哲学A」の講義と「戦争と平和に関する総合的考察」の2回の講義を、日本赤十字広島看護大学では「人間の存在」の講義を担当しました。
  • 6月7日:広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン」事業の出張講座として、広島市映像文化ライブラリーにて「迷宮としての映画──ヴォイチェフ・イェジー・ハス監督『サラゴサの写本』」と題する短い講演を行ないました。ポーランド貴族ヤン・ポトツキが1804年から1805年にかけてロシアのサンクトペテルブルグで秘密出版した幻想的な小説『サラゴサ手稿』を原作とするハス監督のこの1965年の作品の映像美は、ルイス・ブニュエルをはじめとする世界中の映画監督を魅了してきましたが、そこではナポレオン戦争時代のスペインのサラゴサで一人の将校が偶然手に取った一冊の古い写本のなかで回想が別の回想を呼び、物語がいつ果てるともなく連なっていき、さながら映画そのものが迷宮と化すかのようです。今回の講演では、ハス監督の傑作をポトツキの小説とともに紹介しながら、この迷宮としての映画の魅力に迫りました。
  • 7月1日:広島芸術学会の『広島芸術学会会報』第128号に、「『そっくり』の深淵へ──このしたPosition!!リーディング公演『人間そっくり』を観て」という劇評が掲載されました。5月2日に広島市の東区民文化センターのスタジオ2で行なわれた「人間そっくり」の公演の批評で、京都の演劇ユニットこのしたやみと三重県の劇団Hi!Position!!による、安部公房の小説『人間そっくり』を構成したテクストのリーディングによる公演を、リーディングと巧みな演出によって安部公房の作品の論理的な仕掛けを生かしたスリリングな舞台と紹介しています。
  • 7月12日:『図書新聞』第3166号に、「大衆文化の夢から目覚め、歴史の主体になれ──歴史への覚醒の場をなす形象の座標系」と題するーザン・バック=モースの『ベンヤミンとパサージュ論──見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014年)の書評が掲載されました。ベンヤミンの『パサージュ論』の古典的研究を読み解き、そこにあるベンヤミンの「弁証法的形象」を媒体とする「根源史」の試みの救出に光を当てることで、歴史修正主義とも結びついた今日の大衆文化からの歴史への覚醒を今に語りかける一書として、日本の読者に紹介するものです。
  • 7月15日:著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』を平凡社より上梓しました。先に上智大学に提出された博士論文を改稿したものです。言語の本質を探究するベンヤミンの哲学的思考を、彼が生涯の節目ごとに著作のうちに描き出した天使の像に結晶するものと捉えつつ、そのような思考を、初期の言語論「言語一般および人間の言語について」から、遺稿となった最晩年の「歴史の概念について」に至るまで貫かれる思考として読み解き、ベンヤミンの思考を独特の言語哲学として描き出そうと試みるものです。本書は、言葉を発すること自体を「翻訳」と考えるベンヤミンの着想に注目しつつ、それが深化される過程を辿ることによって、言語そのものが、共約不可能な他者と呼応し合う回路を切り開く力を発揮しうることを示しています。さらに、過去の出来事を一つひとつ想起する経験のなかから、神話としての「歴史」による抑圧を乗り越えて新たに歴史を語る可能性をも、言語そのものから引き出そうとしています。もう少し詳細な内容と目次については、別稿をご参照ください。
  • 9月27日:9月27日と28日にアステールプラザ大ホールにて開催された、ひろしまオペラルネッサンスのビゼー作曲『カルメン』の公演のプログラムに、「掟を知らない自由を歌うオペラ、その掟破りの新しさ──ビゼーの『カルメン』に寄せて」と題するプログラム・ノートを寄稿しました。『カルメン』というのオペラの時代に先駆けた、かつ当時のオペラの慣習を破る新しさを紹介し、まさにそうした掟破りの新しさによって、けっして掟に縛られることのない、かつ身体的に生きられる自由が表現されていることを、時代背景などに目配りしつつ描き出すものです。
  • 10月〜2015年2月:広島市立大学国際学部の専門科目として、「共生の哲学II」、「社会文化思想史II」の講義、「発展演習II」、「卒論演習II」を担当しています。大学院国際学研究科の「現代思想II」では、カントの『判断力批判』の美と崇高の分析論を講読しています。全学共通科目として「哲学B」を担当しています。広島大学の教養科目「哲学B」の講義と、広島都市学園大学の「哲学」の講義も担当しています。
  • 11月16日:広島平和文化センターの主催による「国際交流・協力の日」の催しとして行なわれた広島市立大学国際学部の公開講座「大衆文化を通じた国際交流──世界各国における日本の大衆文化・日本における世界の大衆文化」の司会を務めました。
  • 12月21日:九州大学西新プラザで開催された第46回原爆文学研究会「戦後70年」連続ワークショップIV「カタストロフィと〈詩〉」 のパネリストとして、「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌──パウル・ツェランと原民喜を中心に」と題する研究報告を行ないました。テオドーア・W・アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」という言葉を、その文脈から跡づけ、そこに含まれる問いを取り出したうえで、それに対する詩の応答の一端を、原民喜とパウル・ツェランの詩作のうちに求め、そこに含まれる詩の変貌ないし変革に、破局の後の詩の可能性を見ようと試みるものです。

二つの研究会に参加して

パウル・ツェランの「死のフーガ」の詳細な註解書

パウル・ツェランの「死のフーガ」の詳細な註解書

早いもので、2014年も暮れようとしています。この冬は、例年になく厳しいものになりそうです。時ならぬ大雪が示すように寒さも厳しいですが、それは厳しい抵抗の日々の到来を告げるかのようです。華やかさを装いながら人々の苦難を食い物にし、働く人々の生活を破壊し、そして核によって生命そのものを壊滅させることでますます増殖しようとしている権力に、そのファシズムの文字通り「神話的」な暴力にいかに立ち向かうか、そしていかに他者とともに生きることに踏み止まるかが、これから問われることになるでしょう。

さて、そのような厳しい日々を生き抜く道を探るうえでも、この師走に二つの研究会に参加できたことは非常に刺激的でした。その一つは、2014年12月14日に東京ドイツ文化センターにて第3回日独哲学会議として開催された、マルティン・ハイデガーのいわゆる『黒ノート』についてのワークショップです。この『黒ノート』とは、ハイデガーが密かに記していた哲学的手記とでも言うべきノートで、彼が死後に全集の最後の巻として公刊することを指示していたものです。このほど、その遺志に反するかたちで出版されたこの『黒ノート』ですが、出版に先だってその内容の一部が伝えられた際に、そこに反ユダヤ主義的な言辞が含まれることが激しい論議を呼び、「ハイデガー問題」が再燃することになりました。

今回の東京の会議には、現在全3巻1200ページに及ぶ『黒ノート』のテクストを編集したヴッパータール大学のペーター・トラヴニーさんが招かれていて、そこに込められたハイデガーの思想について、詳しく聞くことができました。また、このテクストとそれをめぐるヨーロッパの議論をいち早く紹介した三島憲一さんをはじめとする日本の研究者が、『黒ノート』が問いかけるものを議論しました。個人的には、例えば、単独性と共存のあいだの断層をはじめとする、ハイデガーの思想そのものに内在するいくつかの断層を指摘した加藤恵介さんの報告が、ハイデガーのテクストへの新たな切り口を示すものと思われました。

もし、その断層が、三島さんの指摘する「公共性」ないし「世界性」の欠如──例えば、ハイデガーのユダヤ人観はユダヤ教を欠いた一面的なもので、それ自体反ユダヤ主義的なソースにもとづいているようです──のなかで、一種の決断によって架橋され、それとともに「民族」、「人種」、さらには「存在論的マニ教主義」が語られているとすれば、トラヴニーさんが『黒ノート』に見る「存在史的反ユダヤ主義」の問題はきわめて根深く、それは和辻哲郎らの京都学派におけるハイデガー受容にも、さらには今日「日本人」をことさらに言挙げする排他的言説の淵源にも、深刻な問いを投げかけるものと言わざるをえません。

さらに、この催しそのものが、日本におけるこれからのハイデガー受容に、すなわち今ハイデガーを読むことに、重い問いを突きつけるものであったように思います。そのテクストでハイデガーが「世界ユダヤ人組織」といった不穏な言葉を語っているのを、現在を照らす問題としてどのように受け止められるかに、このワークショップでトラヴニーさんが言及していた哲学者の感受性、とくに受苦に対する感受性が表われることでしょう。ハイデガーの『黒ノート』については、今後も日本国内で論じられる機会があると聞いています。哲学の徒の一人として、そこでの言論の動向を注視したいと思います。

もう一つの研究会は、2014年12月21日に、九州大学西新プラザで開催された第46回原爆文学研究会でした。この研究会がここのところ連続して行なっている「戦後70年」を考えるワークショップの一つ「カタストロフィと〈詩〉」での報告を、おかげさまで大過なく終えることができました。それにしても今回の原爆文学研究会は、刺激に満ちたものでした。このような濃密かつ多様な観点に開かれた議論の場でお話させていただいたことを、心から光栄に思っています。ワークショップのコーディネーターの野坂昭雄さんはじめ原爆文学研究会のみなさまに心から感謝申し上げます。

ナーズム・ヒクメットの「希望」という素晴らしい詩との出会いから始まった今回の研究会の前半のワークショップ「古典詩と現代詩の協奏」では、生身で歴史的な問題と格闘し、その過程で身を削って、言葉とともに身についた心性を乗り越えようとする詩の試みや、言葉の重層性と可塑性を最大限に活かす語の配置によって、現在の問題の核心に踏み込む詩の試みに、詩の朗読をつうじてじかに触れられたのは、本当に得がたい体験でした。言葉の肌理ないし肌触りにじかに触れられる場としてのポエトリー・リーディングの重要性も、あらためて実感しました。

私が報告させていただいた後半のワークショップでは、高橋由貴さんによる原民喜の作品の精緻な読解から、晩年の作品を、散文と詩を往還して読み解くことの重要性とともに、失語を潜り抜けて生まれた作品における渦や緑のような形象の重要性についても教えられました。また、中原中也記念館館長の中原豊さんからは、須藤洋平という独特の感性をもって大震災と原発事故に向き合う詩人の作品を、その成立の背景とともにご紹介いただき、大変興味深かったです。私の報告は、アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」という言葉を、その文脈から跡づけ、そこに含まれる問いを取り出したうえで、それに対する詩の応答の一端を、原民喜とパウル・ツェランの詩作のうちに求め、そこに表われる詩の変貌ないし変革に、破局の後の詩の可能性を見ようとするものでした。その内容が活字化されましたら、またお伝えします。

今回の報告に、すでに膨大なツェラン研究の成果を充分に盛り込めなかったのは残念ですが、それは今後の研究の課題としたいと思います。拙い報告を聴きに来てくださった方、熱心にご質問くださった方には心から感謝申し上げます。全体として今回の研究会は、批評性を自己自身のうちに含みながら破局的な現実の深奥に踏み込む詩の力を再確認する場になったと思います。中原さんによると、須藤洋平にとって「死にっぱぐれた」自分が「塩辛い」生を生きることと、詩を書くことは一つとのことですが、そのように生そのものを賭けて書かれた詩を、今こそこの世界に生きる糧にしなればと思うことしきりでした。言葉の欠片を拾い上げ、それが響かせるものを聴き分けながら、人々を搦め捕り、束ねようとする言葉の喧騒に立ち向かう詩の営みは、地上にそれでも生き続けるための抵抗の拠点の一つになりうるのではないでしょうか。もしかすると、フリードリヒ・ヘルダーリンが語った「人はこの地上に詩的に住む」という言葉は今、このような可能性へ向けて読み直されうるのかもしれません。

クラクフへの旅より

クラクフ旧市街の風景

クラクフ旧市街の風景

7月20日から24日にかけて、第19回国際美学会 [19th Jubilee International Congress of Aesthetics, Krakow 21.–27. July, 2013] で研究発表を行なうために、ポーランドのクラクフを訪れました。クラクフを訪れるのは、2009年の秋以来2度目ということになります。幸いなことに滞在中はずっと晴れていて、日差しに映える緑がとても美しかったです。クラクフの人々が憩う緑深い公園に囲まれるような感じで、歴史的な建造物が建ち並ぶ旧市街があるのですが、大きな市場の建物があるその中心は、世界各地から集まった観光客でかなりごった返していました。ちょうどヴァカンスの季節でもあります。

国際美学会は、古くはコペルニクスが、比較的新しいところではローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も学んだという中欧最古の大学の一つヤギエヴォ大学(1367年創立)の新しい講堂 [Auditorium Maximum] を会場に開催されています。旧市街の中心から少しばかり離れたところに、おそらくごく最近建てられたと思われる講堂は、非常に機能的で、大ホールを二つに分割して同時に使用できますし、映写や音響の装置が整った比較的小規模のホールやセミナー・ルームも数多く備わっています。そのため、膨大な数に及ぶ学会のセッションを、ほぼすべて同じ講堂の内部で回すことができています。これは、いくつものセッションを渡り歩きたい学会参加者にとっては非常に便利です。ロビーの横にはスタッフ常駐のクロークが、また地下には会食も可能なビストロも備わっています。このような施設が、広島市の千田町にある広島大学の跡地あたりに建設されれば、とも思ったところです。

7月23日の夜のセッションに組まれていた私の研究発表は、さまざまな方のサポートのおかげで、大過なく終えることができました。“Toward the Poetics of Echo: From Revisiting the Image of ‘Echo’ in Walter Benjamin’s Writings”というテーマで行なった発表は、ヴァルター・ベンヤミンの著作、とくに「翻訳者の課題」と「歴史の概念について」に見られる「谺(こだま:Echo)」の形象とそれが示唆する美的経験を検討しながら、「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマ」以後の詩的表現の可能性とともに、いわゆる「表象の限界」を超える歴史的想像力の可能性を探る試論とでも言うべき内容のものです。あるいは、自己が根底から震撼させられるほどの強度を持った「照応(コレスポンデンス)」の経験のなかから、言語の限界において「谺」としての言葉を響かせることのうちに、テオドーア・W・アドルノの「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である」という言明に応答する回路を探る試み、とも言えましょうか。発表のなかでは、パウル・ツェランの「黒土」や「帰郷」、あるいは原民喜が小説「夏の花」に挿入した詩や彼の「鎮魂歌」にも言及しました。温かい雰囲気のセッションで、何人もの方から好意的なコメントをいただけたのが嬉しかったです。内容的にはまだまだ詰めなければならない点がありますし、英語での研究発表にはいろいろと課題がありますが、ともあれまずはよい経験になったと思います。

ちなみに、“Aesthetics in Action”を全体のテーマとする今回の国際美学会を、クラクフ市は全面的に支援している──おそらく資金面でも相当に──ようで、この学会に合わせたいくつもの芸術に関わるアクティヴィティも企画されていました。まず、7月22日の夕方にはフィルハーモニー・ホールで、ヤチェク・カスプツィクの指揮による、クラクフのベートーヴェン・アカデミー管弦楽団の演奏会が行なわれ、国際美学会の枠内で開催されるこの演奏会のために作曲された、カロル・ネペルスキという若い作曲家の“Aisthetic Symphony”──「感性の交響曲」とでも訳せばよいのでしょうか──という作品が初演されました。オーケストラの楽器によって、あるいはそれ以外の水笛のような楽器によって、さらにはサンプリングされた音声によって響く断片的なモティーフを、いくつもの方向から響かせることで、聴覚を空間的に拡げていこうという発想そのものは理解できるのですが、音楽的にはそれほど面白いところのない単純なモティーフが、これまたあまり音楽的な必然性が感じられないかたちで延々と反復されるのは、個人的には聴いているのが辛かったです。

7月23日の夜遅くには、旧市街の中心にある時計塔に、アフガニスタンやイラクの戦争に動員されたポーランド兵およびその家族の言葉を、軍用車によって投影し、さらにその言葉を銃声とともに撃ち崩すという、現代芸術家のクシュシトフ・ヴォディチコのパフォーマンスが行なわれました。アメリカを中心とするいわゆる「テロとの戦争」の列に加わろうという国家政策のために、戦争のなかで心身に傷を受け、家族との関係にも傷を負わされた兵士、そしてその家族の言葉が、断片的な叫びとして突き刺すように時計塔に投げつけられ、それが轟音とともに掻き消されるのを目の当たりにすると、戦争の暴力が今なお続いていることを強く感じざるをえません。

前回2009年にクラクフへ初めて来たのは、そこからアウシュヴィッツを訪れるためだったのですが、今回も学会の予定が組まれていない7月21日を使って、アウシュヴィッツへ行ってきました。クラクフ本駅に隣接するバス・ターミナルから1時間半ほどのところにあります。アウシュヴィッツの展示やビルケナウの廃墟を見るのは今回が二度目なので、前回ほどの衝撃は受けなかったものの、これらの場所で行なわれた計画的にして大規模な抹殺の痕跡を目の当たりにすると、戦慄を覚えないではいられません。しかし、これを見据えて、何が行なわれたのかを、現在の問題として考え続けなければならないと思います。アウシュヴィッツのガス室やビルケナウのバラックからは、今も気配のようなものが感じられます。

さて、10時から15時までの時間、国立博物館でもあるアウシュヴィッツでは、見学者はガイド・ツアー──ビルケナウまで行くと4時間ほどかかります──への参加を義務づけられています。私は前回同様、英語のツアーに参加しました。そして今回も、国家資格を持ったガイド──その一人に『アウシュヴィッツ博物館案内』の著者の中谷剛さんがいます──がよく訓練されているばかりでなく、伝えることへの並々ならぬ熱意をもって見学者を導いてくれることに、感動すら覚えました。英語のツアーのグループの参加者は、当然ながら相当な人数だったのですが、今回の年配のガイドの方も、人混みを避けて見学者をうまく誘導し、展示に関して要を得た、かつ内容の深い説明をしてくれました。その言葉が、ガイドの方自身の言葉になっているので、何が問題なのかが非常によく伝わってくるのです。今、広島で養成されるべきは、このように自分自身の言葉で被爆の記憶をしっかりと伝えられる、プロフェッショナルでかつ真に熱意を持ったガイドではないでしょうか。