神無月の仕事──『ヴァルター・ベンヤミン』刊行から一か月を経て

十月も下旬というのに、ここ広島ではまだ日中の気温が高く、何を着て出かけるか迷う今日この頃です。先月から今月にかけて、二つの巨大な台風が相次いで列島を襲い、ご存知のとおり、痛ましい被害が各地に深い傷を残しています。被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。

473158さて、先月20日に岩波新書の一冊として拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を上梓してから一か月が経ちました。この間すでに、いくつもの温かいお言葉をいただいております。読者のなかには文字通り精読してくださっている方もおられて、著者冥利に尽きると感じております。

拙著『ヴァルター・ベンヤミン』をいち早くお手に取ってくだり、ご感想をお寄せくださった方々に心より感謝申し上げます。おかげさまで、この種の書籍としては比較的多くの読者の手許に届いているようです。拙著は、図書新聞の第3421(2019年11月2日)号の「ポケットブック」のコーナーをはじめ、各種媒体でも紹介され始めています。

今、思わぬかたちで、ベンヤミンが抱いていた問いがアクチュアリティを帯びていると感じています。その一つは、拙著の主に第四章で論じた、今芸術は何でありうるかという問いではないでしょうか。彼は、知覚経験が変容し、従来の意味で「美しい」芸術作品が成り立ちえなくなっている状況のなかで、芸術が、そして作品がどのようにありうるかを、同時代の芸術の動きを見据えながら問うています。

あいちトリエンナーレとその「表現の不自由・その後」展をめぐっては、芸術は民衆に役立つものであるべきだといった、民衆を上から統治の対象としてしか見ていない言説も聞かれました。しかし、ベンヤミンはむしろ、そのような対象とはならない民衆そのものが生じる媒体として、芸術作品が創造される可能性を、新たな、批評を内在させた芸術のうちに見届けようとしていました。

こうして、ベンヤミンの思考が取り組んだ問題がアクチュアリティを帯びて浮上することは、同時に彼が生きた時代よりもその闇が深まったことの徴候でもあるでしょう。とくに、行き交う情報のいっそうの断片化が進むなか、歴史修正主義が精神を蝕むかたちで浸透しつつあることは、排他的ないし排外主義的な暴力としても現われながら、現代の闇を深めていると感じています。

ベンヤミンの著作には、こうした現在の闇の要因を見通しながら、そのなかを歩むことへ向けた思考のきっかけや手がかりが含まれていると考えて、拙著を公にしました。彼の批評的な思考の足跡を、彼の生涯のなかに浮かび上がらせた拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を書店で見かけられたら、お手に取っていただけると幸いです。

71293874_2691610117558010_7584518907336065024_oところで、今月は芸術に関わる仕事をいくつか公にすることができました。機会を与えてくださった方々に感謝申し上げます。まず、10月4日に開催された広島交響楽団のディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethovenの第2回演奏会のプログラムに、曲目解説を寄稿させていただきました。

この演奏会では、何よりも細川さんの《月夜の蓮》を望みうる最高の演奏で聴けたのが嬉しかったです。児玉桃さんの明晰でありながら、豊かな歌に貫かれたピアノに、下野竜也さんが指揮するオーケストラが見事に応えて、生気に満ちた流れた生まれていました。

72554808_2726928977359457_3251842159254437888_oまた、10月12日から栃木県の小山市立車屋美術館で始まった呉夏枝さんの個展「手にたくす、糸へたくす」のカタログにも、「記憶の多島海へ──呉夏枝のほぐす芸術によせて」と題する小文を寄稿させていただきました。作家の芸術の歩みを、記憶の越境的な継承の可能性へ向けて論じるものです。

糸を扱う手仕事によって、言葉にならなかった記憶の気配を伝える空間を開き、その継承の回路を紡いできた呉夏枝さんの仕事の多彩さを伝える展示も楽しみなところです。この機会に、多くの方に彼女の芸術に触れていただきたいと思います。

それから、10月15日に発行された芸術批評誌『Mercure des Arts』の第49号には、今年30回目を迎えた武生国際音楽祭にゲスト講師として参加しての報告を寄稿させていただきました。9月の音楽祭で新たな音楽が生まれた様子を伝えると同時に、音楽家が出会い、世界的な音楽創造の芽が育まれる場として続いてきた武生国際音楽祭の意義にも触れました。ご一読いただけると幸いです。

10月22日には、8・6ヒロシマ大行動実行委員会が主催した、拡声器規制問題に関する第2回公開討論会にパネリストの一人として参加しました。その際、毎年8月6日に開催される平和祈念式典のあり方を、市民自身がどのように考えるか、という問いを広く共有することが必要であることや、式典会場周辺での拡声機使用を条例で規制することは、表現の自由に抵触する危険があることなどを論じました。

討論会では、平和祈念式典の成り立ちを歴史的に検証することへの問いを含め、さまざまな視点からの発言があって、多くを学ぶことができました。あいちトリエンナーレに対する文化庁の補助金不交付の問題とも通底するものを含んだ拡声器規制問題については、広島に注目する世界中の人々を失望させることにならないよう、市当局の動きなどを注視していきたいと考えています。

71184137_3005860276108036_4509768596271923200_o来たる11月2日には、勤務先の大学の広島平和研究所の直野章子さんが主催されるシンポジウム「記憶の存在論と歴史の地平」に、ディスカッサントとして参加させていただきます。直野さんはじめ、このテーマをめぐる研究をリードしている学者が顔を揃えるこのシンポジウムにご関心のある方は、広島市立大学のサテライトキャンパスへお越しください。参加は無料です。

11月中旬からは、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』の合評会や刊行記念のトークなども続きます。12月22日に開催される福岡市の書店&カフェ「本のあるところajiro」でのトークについては、広報も始まっています。これらについては、FacebookTwitterでも情報を発信していきたいと考えております。拙著にご関心のある方とお会いできることを、心から楽しみにしております。

もうしばらくしたら、広島にも紅葉の季節が訪れます。それとともに朝晩は冷え込むことでしょう。台風やその後の大雨のために避難生活を余儀なくされている方々にとっては、寒さがとりわけ厳しくなると思います。どうかみなさまお身体大切にお過ごしください。

皐月に聴く広響

2019_A4_01(0311)_3去る5月17日(金)から、広島交響楽団の新しいディスカバリー・シリーズ「ベートーヴェン生誕250周年交響曲シリーズ:Hosokawa×Beethoven」が始まりました。今シーズンの四回の演奏会では、ベートーヴェンの交響曲とともに細川俊夫さんの四曲の協奏曲的な作品が取り上げられます。下野竜也さんが広島交響楽団とともにどのようなベートーヴェン像を提示するか、非常に興味深く思っています。

第1回の演奏会では、オペラ《フィデリオ》序曲と交響曲第1番が演奏されます。四回の演奏会で、ベートーヴェンがこのオペラのために書いた四曲の序曲をすべて聴けるというのも、このシリーズの魅力の一つでしょう。なお、このシリーズのプログラムに、曲目の解説を寄稿させていただいています。貴重な機会をくださった関係者のみなさまに心より感謝申し上げます。

初回の演奏会では、宮田まゆみさんの笙で細川さんの《雲と光》を聴けるのを、非常に楽しみにしていました。『細川俊夫 音楽を語る』(アルテスパブリッシング)で詳しく論じられているこの作品を、実演で聴いてみたいとずっと願っていたものですから。雲と光の繊細な関係が心の動きとも呼応しながら響く作品です。

実際、深い共感をもって奏でられた細川さんの《雲と光》がとくに素晴らしかったです。下野さんの指揮の下、明確な音楽の運びのなかに、雲間に光が明滅する空間が豊かに広がる演奏でした。嵐の過ぎた後に響いてくる宮田さんの笙の響きは、本当に美しかったです。もちろん、ベートーヴェンの二曲も聴き応えがありました。

《フィデリオ》の序曲の力感に満ちた演奏には高揚させられましたし、交響曲第1番では若い作曲家の並々ならぬ意欲を実感できました。今回の演奏では、第2楽章の演奏を、とくに美しく思いました。作曲家が想定していたであろう、着実な歩みを感じさせるテンポのなかで、弦楽器の旋律が折り重なり、管楽器の充実した響きがどこまでも広がっていく音楽も、ベートーヴェンにしか書きえなかったことでしょう。交響曲第2番が取り上げられる次回がますます楽しみです。

369_A4_表それから、5月25日(金)に開催された第390回定期演奏会では、素晴らしいブルックナーを聴くことができました。音楽の壮大さを実感させる説得的な構築性と、豊かな歌謡性とを兼ね備えた第5交響曲の演奏だったと思います。ブルックナーに特別な愛着を持つ下野竜也さんの緻密な解釈に応えて、オーケストラが豊かな響きを紡ぎ出していたのも印象的でした。

冒頭のバスのピツィカートの音型をしっかりと響かせた上に、下野さんは余裕のあるテンポで声部を重ね、大きな建築物を造り上げていましたが、その過程に自然な流れがあって、けっして物々しくなることがなかったことは、解釈の際立った美点と思われました。また、この点は、第5交響曲に凝縮されるブルックナーの音楽そのものについてあらためて考えさせます。

アダージョの楽章が終わりにさしかかり、テンポがほぼ半分に落ちてから、分散和音的な音型が連綿と歌い込まれるなか、音楽が徐々に高まっていくのを聴きながら、ふと思いました。ブルックナーという作曲家は、人為的な構築と有機的な生成の合致という不可能なことを、音楽によって成し遂げようとしたのではないか、その試みが彼の祈りだったのでは、と。

四つの楽章を貫くかたちでこの神的な対立物の一致を目指す作曲家の姿勢が、最も率直に表われているのが第5交響曲なのかもしれません。そして、その歩みが一つの緊密な音楽のなかに回帰するからこそ、フィナーレのコラールは感動的なのでしょう。昨日は最後にこのことを聴き取ることができました。その意味でも充実した演奏だったと思います。

たしかにブルックナーの音楽には、ゴシックの聖堂を思わせる高さがあります。しかし、その構造体が内からの歌で満たされなければ、何の意味も持たないと彼が考えていたことは、交響曲の随所に書き込まれた豊かな旋律から明らかでしょう。今回の演奏では、緩徐楽章の第二主題がとりわけ美しく響きました。第一楽章の途中で序奏のアダージョが回帰した際に、下野さんがヴァイオリンを艶やかに響かせたのも忘れられません。

演奏会のプログラムには、下野さんが大阪フィルハーモニー交響楽団で研修されていた頃の朝比奈隆さんとの思い出が綴られていました。冒頭からの低音の響かせ方や、フィナーレの第二主題の軽やかさに、彼から受け継いだものを感じました。その一方で、透明感すら感じさせる見通しのよい響きと、自然な流れは、下野さんならではのものと思われました。

広島交響楽団は今回、金管セクションをはじめとして非常に充実した響きを聴かせていました。下野さんの指揮との一体性がいっそう高まった印象です。その一方で、とくに対位法の複雑さが極まるところで、セクション内の、あるいはセクション間のアンサンブルにもう一歩緊密さを求めたい気もしました。また下野さんの指揮でブルックナーの交響曲が聴ける日を楽しみに待ちたいと思います。

道を拓く歩みの強さを聴く──広島交響楽団新ディスカバリー・シリーズ「黄昏の維納」第8回を聴いて

20181116222648-0001を拓く歩みは、一歩一歩が強くなければならない。草をかき分けた先にある地面を踏みしめる物理的な力だけではない。その一歩に込められる意志も強くなければ、歩みはそこで止まってしまうだろう。そしてその意志は、確かな信念と豊かな創造力によって支えられていなければならない。野生の混沌のなかから一つの世界を創造し、ある方向への見通しを切り開くことができなければ、一本の道を拓くことはできない。

シューベルトのすべての交響曲を、新ヴィーン楽派を象徴する作品と突き合わせる広島交響楽団の新ディスカバリー・シリーズ「黄昏の維納」の最終回の演奏会(2019年1月25日、JMSアステールプラザ大ホールにて)で、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲とシューベルトの「大ハ長調」交響曲を聴いて、この二人のヴィーン生まれの作曲家の音楽には、道を拓く歩みの強さがあると感じた。ここで道とは、シューベルトの場合はベートーヴェン以後に音楽が進みうる道であり、シェーンベルクの場合には、言うまでもなく、調性音楽以後の音楽が進むべき道である。

シェーンベルクがアメリカへ亡命してから最初の大規模な作品であるヴァイオリン協奏曲には、自身の十二音技法の可能性を新天地で拡げ、この技法が開拓する音楽の新たな境地を合衆国の聴衆に知らしめたいという意欲が漲っている。そのことは、ヴァイオリン協奏曲の伝統的な三楽章形式を、十二音技法で改鋳しようとしているところにも表われていよう。しかし、亡命者シェーンベルクがアメリカで活動する際に、数々の困難に直面せざるをえなかったことは想像に難くない。不安のなかで、ナチスの迫害の恐怖が脳裡によぎることもあっただろう。

厳格な論理で組み立てられていながら、そのように歴史的な状況を生きる人間の息遣いを感じさせるのが、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の特徴と言えるかもしれない。この曲は、画家としての才能も示したこの作曲家の音楽による自画像にも見える。三管編成の管弦楽が織りなす響きのなかを、個としての魂が、時にときめきながら、あるいは時に打ちひしがれながら歩んでいく。その歩みの強さを、魂を取り囲む響きの豊かさとともに感じることができたのは実演ならではのことである。

177初演を手がけたルイス・クラスナー(この人名に関してプログラムに誤植があった)の独奏による演奏など、録音でこの作品を聴くことはあったが、実演に接するのは今回が初めてだった。第二楽章で、木管などと独奏が密やかな対話を繰り広げた後、疾走する管弦楽の上で独奏が悲痛な歌を響かせるに至るあたりなど、実演でこそ、音楽の展開の強度が伝わってくる。今回それにじかに触れて、とくに印象深かったのは、川久保賜紀の独奏である。彼女のヴァイオリンの音の強さ、そして緻密に造形された音の運動を、感情のこもった魂の躍動として響かせる、彼女の音楽の豊かさには瞠目させられた。

演奏困難ですらある技巧がちりばめられたシェーンベルクの協奏曲を、川久保が魅力的に響かせることに成功した要因の一つが、彼女のヴァイオリンのG線の音の強さであろう。その強さとは、芯を保ちながら広がる強さである。それによって、重音も、フラジョレットも、奥行きを感じさせながら豊かに響く。決然とした独奏とともに始まる第三楽章の終わりで、伴奏付きカデンツァのような独奏の展開が熱を帯び、エネルギーを凝縮させたオーケストラと対峙するに至る展開には心を打たれた。

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲は、彼が50歳になろうとする時期に書かれているが、シューベルトの最後の交響曲は、この作曲家の30歳に満たない頃の作品である。その規模の大きさは、ベートーヴェン以後に書かれうる交響曲の道を探り当てた喜びの表われでもあろうが、その一時間ほどの歩みを貫くのは、音楽を前へ前へ運んでいく若々しいエネルギーである。下野竜也の解釈は、このエネルギーを最大限に発揮させることを重視するものだった。そのために彼ならではの緻密な楽譜の読みが存分に活かされていたのが、今回の演奏の特徴と言えよう。

シューベルトの音楽の最大の特徴である魅力的なメロディを充分に歌わせながらも、それを前へ運ぶ細かい動きを強調する下野のアプローチによって、「大ハ長調」交響曲の全曲が若々しい躍動感で貫かれていた。物理的なテンポをとくに速いとは感じなかったが、きびきびとしながら力強い歩みが特徴的な演奏だったと思う。そのために、すべての反復が実行されたにもかかわらず、曲の長さはまったく感じられなかった。曲の後半を特徴づける、踏みしめて跳ね上がるようなリズムの力感も、フォルテでの響きの威容と迫力も素晴らしかったが、他方で響きの見通しのよさが失われることはない。スケルツォのトリオで、それこそ「天国的」にたゆたうような響きを造形するのに、トロンボーンが重要な役割を果たしているのに気づかされた。

とくに第三楽章と第四楽章で、下野の解釈が生きていて、作曲家のとめどなく湧き上がる楽想が、シューベルトに独特の響きと変化に富んだその推移に結びついていることを実感できた。とくに、フィナーレの音楽が徐々に熱を帯びて、途方もないエネルギーを発散するに至る演奏の展開には、心からの感動を覚えた。他方で、前半の二楽章では、もう少し繊細な歌を、奥行きのある響きのなかで聴きたかった。細かい動きに光を当てたこともあって、音量のミニマムなレヴェルが上がってしまったために、表現の振幅がやや狭くなってしまったことは惜しまれる。緩徐楽章のクライマックスの後の歌は、もう少し密やかに、探るように響き始めてもよかったのではないだろうか。

音楽の若々しさを重視するアプローチと、世代交代が進みつつあるオーケストラの若さとが、響きのエネルギーとリズムの躍動に結びつくと同時に、それによって聞こえなくなるものがあれることも感じさせたシューベルトのハ長調交響曲の演奏と聴いたが、演奏環境がもう少し整っていれば、下野と広響のコンビは、この作品への取り組みにおいて、もっと冒険して表現の幅を広げられたにちがいない。今回の会場のアステールプラザ大ホールは、定期演奏会の会場よりも個々の音の存在感をはっきりと伝えるし、演奏家と聴衆の一体感も生まれやすい。しかし、けっして残響が豊かとは言えないなかで、繊細な表現を紡ぐのは難しいだろう。例えば、オーケストラ・ピットの上に舞台を設ける際に、オーケストラの背後に張られる壁が、もう少し反響するものだったらどうだろうか。

それから、今回の演奏会には700名近くの聴衆が集まったようだが、演奏者の顔ぶれとプログラムからすれば、もう少し来場者があってもよいのでは、と思わざるをえない。聴衆を増やすためには、演奏会に出かけること自体を魅力的にする努力も求められよう。ホワイエで、遠方から来たと思われる聴衆の一人が、クロークはどこか案内係に尋ねる場面を目にしたが、そこで案内されるのがクロークならぬ有料のロッカーでは、気が殺がれるはずだ。こうした細かいところを改善しながら、演奏会を魅力的なものにし、聴取の文化を育んでいくこと。それによってこそ、音楽専用のホールを整備することをはじめ、広島の音楽をめぐる環境を改善することを求める声が、人々のあいだから湧き起こるにちがいない。

ひろしまオペラルネッサンスのモーツァルト《イドメネオ》公演へのお誘い

痛ましい災害が続いて心の落ち着かなかった夏がようやく終わろうとしています。広島では日中もだいぶ過ごしやすくなってきました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。広島でひろしまオペラルネッサンスと現代音楽の演奏会シリーズ“Hiroshima Happy New Ear”を主催しているひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、みなさまを、今広島で観られるべきモーツァルトのオペラの公演へお誘いしたく、筆を執りました。

5b1f8deb01ad4今年のひろしまオペラルネッサンスの公演では、モーツァルトの《イドメネオ》(《クレタの王イドメネオ》KV 366)が取り上げられます。20代半ばのモーツァルトが書いたこの作品の広島初演ということになります。公演の初日がいよいよ明日に迫りました。トロイア戦争後のクレタ島を舞台に、戦いの後に生きる人間の苦悩に迫ることによって、オペラそのもの変革を試みた若きモーツァルトの意欲作を、戦火止まぬ現代に生きる者への深い問いかけを含むものとして観ることのできる無二の機会です。どうかお見逃しのないよう、9月22日(土)と23日(日)は広島のJMSアステールプラザへお越しください。両日とも開演は14:00です。

戦争を起こした人間は、たとえ生き残ったとしても、その戦いによって癒えることのない傷を負い、その死者の影の下で生きていかざるをえません。そして、この傷は次の世代へも形を変えながら受け継がれてしまいます。それとともに愛と誓約のあいだに、恋と復讐のあいだに、さらには二つの国のあいだに引き裂かれる人間の魂に迫ったモーツァルトの音楽は、旧来のオペラ・セリアの枠組みを内側から越えていかざるをえませんでした。さらに、オペラのなかで海の波濤にも喩えられる激しい感情を伝えるために、オーケストレーションを含めた音楽の造りも革新的なものになっています。マンハイムやパリなどへの旅をつうじて培ったものを惜しみなく注ぎ込み、クラリネットを含む大規模なオーケストラを活躍させる《イドメネオ》の音楽には、モーツァルトの意欲が漲っています。

ちなみに、《イドメネオ》には、モーツァルトのその後のオペラを予感させるところもあります。愛し合う若い二人(イリアとイダマンテ)が苦難を潜り抜けるさまは、《魔笛》の二人の主人公の生きざまを思わせますし、第二幕の行進曲は、《フィガロの結婚》のそれとどこか似ています。モーツァルト自身、《イドメネオ》をみずからのオペラの原形を示すものとして大事にしてきました。ただしこのオペラには、彼の他のオペラにはあまり見られない際立った特徴があります。それは、雄弁なレチタティーヴォ・アコンパニャート(オーケストラ伴奏によるレチタティーヴォ)によって、主要な場面が繰り広げられていることです。ここにある情景の展開とドラマの緊迫も見どころの一つです。《イドメネオ》に示されるレチタティーヴォ・アコンパニャートによってドラマを繰り広げる手法は、モーツァルト以後のロマン主義のオペラを予感させるところがありますが、彼自身のその後のオペラでは背景に退くことになります。

5b1f8deb654c6今回の広島での《イドメネオ》の上演の特色の一つとして、プロダクションによってはカットされることのある第三幕のエレットラ(オレステスとともに父の復讐を果たしたエレクトラです)のアリアが演奏されることが挙げられます。このアリアは、この女性のなかに積み重なった幾世代にもわたる恩讐を噴き出させるもので、モーツァルトの他の作品にも例を見ない激しさを持っています。先日、この幕のオーケストラとの音楽稽古を聴かせていただきましたが、これを含め、第三幕のいずれのアリアも素晴らしかったです。この稽古で、下野竜也さんの指揮の下、複雑なスコアの機微を伝える音楽が仕上がってきていることを実感できました。ぜひご期待ください。

《イドメネオ》が今あらためて注目される理由として、古代ギリシアから題材を採りながら、きわめて現代的な問題に触れていることが挙げられます。オペラの舞台となるクレタ島には、今も戦争の傷を負った難民が漂着しています。幾重もの意味で今広島で取り上げるに相応しい《イドメネオ》を、今回も人間の感情の細やかな表現に長けた岩田達宗さんの演出で観ることができます。また、このオペラではオーケストラが非常に重要な役割を果たしますが、広島交響楽団が音楽監督の下野さんの指揮の下でピットに入るのも注目されるところでしょう。よりすぐりの歌手たちの歌も期待されるところです。お誘い合わせのうえ、今度の週末はひろしまオペラルネッサンスの《イドメネオ》の公演へお越しください。心よりお待ち申し上げております。なお、今回もプログラムに拙文を寄稿させていただきました。ご来場の際にご笑覧いただければ幸いです。

広島交響楽団第369回定期演奏会を聴いて

369アダージョのテンポを規定する、前へ進むと言うよりは一歩踏みしめるごとに深まっていくようなリズムのなかから、ヴァイオリンの奏でる最初の主題が密やかに響き始めると、この優しくも確かな祈りの歌が、微かな熱を帯びて胸に染み込んできた。ブルックナーの第8交響曲の全体を貫く、畏れながら高みへ向かおうとする精神の姿を凝縮させた主題が、波が寄せては返すようにして徐々に高揚していく歩みを、今日の下野竜也が指揮する広島交響楽団の演奏以上に意味深く聴いたことはなかった。この歩みの頂点では、シンバルとトライアングルが打ち鳴らされるが、その音は、会場に満ちた響きを芯から輝かせるものだった。そこに至るまでに挟まれる、主にチェロが奏でるもう一つの主題も、深沈とした響きの奥から実に柔らかく響いていた。

ブルックナーの第8交響曲を取り上げた広島交響楽団の定期演奏会は、下野竜也の音楽総監督就任披露の演奏会だったわけだが、作品の精神がそこにあることを示すアダージョの演奏は、下野と広島交響楽団の将来を約束するものだったと言えよう。第一、第二ヴァイオリンを両翼に配し、舞台の一番奥にコントラバスを並べた楽器配置が功を奏したとも言えようが、このオーケストラがここまでの一体性をもって、奥行きの深い、そして聴く者の魂の奥底に染み込む響きを奏でたのは、今まで聴いたことがなかった。このように、オーケストラの潜在力を一つのアンサンブルとして引き出したのは、ブルックナーの交響曲を愛してやまない下野の指揮である。その解釈は、複雑なテクスチュアの全体を見通して間然するところがない。以前に第4交響曲の演奏でもそう感じたが、下野の指揮するブルックナーの演奏は、一つの形を伝える流れを持っている。

第一楽章と第二楽章がいずれもいくぶん速めのテンポで、ほぼアタッカで続けられたのには少し驚かされたが、悠揚迫らないながらもけっして弛緩することのないテンポによる後半の二つの楽章の演奏──それは、下野が選択したハース版の特性を生かしきったものと言えよう──を聴けば、そのような行き方にも納得させられる。第一楽章で、第8交響曲のもう一つの顔とも言うべき峻厳さが説得的に示されていたのも印象に残る。コーダの手前では黙示録的なファンファーレが仮借なく吹き鳴らされ、その後まったくリタルダンドすることなく楽章が閉じられた。スケルツォの第二楽章におけるリズムの躍動も素晴らしかったが、流れにもう少し余裕があったほうがよかったかもしれない。とくにトリオでは、主部とのコントラストを際立たせる意味でも、あと少し歌が広がるのを聴きたかった。

フィナーレの演奏は、落ち着いたテンポと丁寧な仕上げで、音楽の荘厳さを最大限に引き出したもの。ともすれば皮相に響きがちなトランペットやティンパニの音も、壮大な響きの構成のなかにしっかりと位置づけられている。第一楽章の主題が厳しく再現されてからコーダに至る流れは、慄くような歌を交えながら作品の大きさをあらためて示すものだった。ただ、これほどまでにブルックナーの第8交響曲の内実を響かせえた下野竜也と広島交響楽団の解釈がもはや会場に収まりきれないことが、演奏の傷となって表われていたのも確かである。すでに大阪のザ・シンフォニーホールでの演奏を終えて広島での演奏に臨んだ奏者の様子からは、広島文化学園HBGホールの残響の乏しさに対する戸惑いが感じられた。ピアノで入る箇所のアインザッツが乱れたり、響かないなかで何とか音を鳴らそうとするあまり、ダイナミック・レンジが狭くなってしまったりしている箇所が散見されたのは惜しまれる。

会場にもう一秒の残響があれば、思いきったピアニッシモにも挑戦できたはずだし、とくに第一楽章の展開部では、横に広がる音型とリズミックな動きの対照が、いっそうの高揚感をもって響いたにちがいない。下野竜也と広島交響楽団のコンビの門出の演奏会は、両者がすでに世界から聴衆を集めうるほどの充実した音楽に達していることを示すものである。このコンビを大事に育てることを考えるのであれば、何よりもまず広島の地に欠けている音楽専用ホールの必要性をあらためて痛感しなければならない。下野の広島交響楽団音楽総監督就任披露の定期演奏会は、彼のブルックナー指揮者としての実力と、それによって引き出されたオーケストラのアンサンブルの可能性をいかんなく示すと同時に、広島の聴衆に、積年の重い課題を突きつけるものだった。

広島交響楽団第338回定期演奏会を聴いて

雨が上がって春の日差しが戻った休日(4月29日)の午後、広島文化学園HBGホールで広島交響楽団の第338回定期演奏会を聴いた。下野竜也の指揮で、シューマンのヴァイオリン協奏曲にブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」というプログラム。新緑の季節に相応しいプログラムではないだろうか。

まず、後半のブルックナーの演奏が、下野の最近の音楽の充実を物語る内容だった。この「ロマンティック」交響曲の独特の瑞々しさがよく表われた演奏だったと思う。何よりも印象的だったのが、下野が響きのバランスに細心の注意を払いながら、いささかの無理も感じさせない音楽の運びを示していたこと。それによって、時として埋もれがちな低声や内声の動きが聞こえてきて、響きがいっそう有機的になるとともに、この曲を特徴づける豊かな歌がしなやかに息づく。なかでも、第2楽章のヴィオラの歌は実に魅力的に響いた。強奏が続く部分から弱奏の部分への移行の処理も細やかだったし、フィナーレのコーダでこの曲のさまざまな要素が結集しながら徐々に壮大なクライマックスを築いていくあたりは、今回の演奏の白眉だったのではないだろうか。それだけに、最後の和音がまだ響いているうちに「ブラヴォー」の声と拍手が始まってしまったのは残念でならない。東京のいくつかのホールで行なわれているように、指揮者がタクトを降ろすまで拍手など控えてほしい、とアナウンスで要請するしかないのかもしれない。

「ロマンティック」交響曲の演奏に戻ると、今回の演奏は、曲を完全に手中に収めた指揮者が、その意図をしっかりと伝えるならば、広響が非常に内容豊かな演奏を繰り広げうることを証明した好例と言えよう。とはいえ、この曲からはもう少し深い静けさと、そこからいくらかの疾走感を伴って湧き上がる響きを聴きたかった、という気持ちも拭えない。そして、下野はさらにもう一段振幅の大きな音楽を響かせたかったのでは、という印象も受けたが、それはこのホールの条件からしても難しかったかもしれない。

前半のシューマンのヴァイオリン協奏曲では、独奏を担当した若い三浦文彰の奏でる美音とその音楽の繊細さが光った。さまざまな意味で聴かせるのが難しいこの曲を、三浦がここまでの完成度をもって弾ききったことは特筆に値しよう。とくに、濁ることのない重音の響きのなかから溢れ出る瑞々しい歌は、とても魅力的だった。ただ、フレージングがやや窮屈になって、音楽を持て余している印象を受ける箇所が散見されたのは惜しまれる。そのために、音楽の奥行きが狭くなり、シューマンの音楽に求められる陰翳が少し損なわれてしまった。もっと自由にテンポを動かしながら歌ってもよかったのではないか。三浦が──人生のそれも含めて──経験を積んで、もっと振幅の大きな音楽を聴かせるようになってからこの曲に臨んだら、きっと本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれるにちがいない。

シューマンの演奏でもう一つ惜しまれるのは、下野の音楽性がどちらかと言うとブルックナーにより親和的だったせいだろうか、オーケストラの響きが、全体的に腰が重すぎたこと。もう少し躍動感のあるリズムで、独奏に機敏に反応してもよかったのではないだろうか。このようにいくつか惜しまれる点があるとはいえ、ここまでの水準の演奏で、めったに取り上げられないシューマンのヴァイオリン協奏曲を聴くことができたことと、それをつうじて将来を嘱望される才能に巡り合えたことは、率直に喜びたいと思う。

広響定期338Flyer