広島交響楽団第369回定期演奏会を聴いて

369アダージョのテンポを規定する、前へ進むと言うよりは一歩踏みしめるごとに深まっていくようなリズムのなかから、ヴァイオリンの奏でる最初の主題が密やかに響き始めると、この優しくも確かな祈りの歌が、微かな熱を帯びて胸に染み込んできた。ブルックナーの第8交響曲の全体を貫く、畏れながら高みへ向かおうとする精神の姿を凝縮させた主題が、波が寄せては返すようにして徐々に高揚していく歩みを、今日の下野竜也が指揮する広島交響楽団の演奏以上に意味深く聴いたことはなかった。この歩みの頂点では、シンバルとトライアングルが打ち鳴らされるが、その音は、会場に満ちた響きを芯から輝かせるものだった。そこに至るまでに挟まれる、主にチェロが奏でるもう一つの主題も、深沈とした響きの奥から実に柔らかく響いていた。

ブルックナーの第8交響曲を取り上げた広島交響楽団の定期演奏会は、下野竜也の音楽総監督就任披露の演奏会だったわけだが、作品の精神がそこにあることを示すアダージョの演奏は、下野と広島交響楽団の将来を約束するものだったと言えよう。第一、第二ヴァイオリンを両翼に配し、舞台の一番奥にコントラバスを並べた楽器配置が功を奏したとも言えようが、このオーケストラがここまでの一体性をもって、奥行きの深い、そして聴く者の魂の奥底に染み込む響きを奏でたのは、今まで聴いたことがなかった。このように、オーケストラの潜在力を一つのアンサンブルとして引き出したのは、ブルックナーの交響曲を愛してやまない下野の指揮である。その解釈は、複雑なテクスチュアの全体を見通して間然するところがない。以前に第4交響曲の演奏でもそう感じたが、下野の指揮するブルックナーの演奏は、一つの形を伝える流れを持っている。

第一楽章と第二楽章がいずれもいくぶん速めのテンポで、ほぼアタッカで続けられたのには少し驚かされたが、悠揚迫らないながらもけっして弛緩することのないテンポによる後半の二つの楽章の演奏──それは、下野が選択したハース版の特性を生かしきったものと言えよう──を聴けば、そのような行き方にも納得させられる。第一楽章で、第8交響曲のもう一つの顔とも言うべき峻厳さが説得的に示されていたのも印象に残る。コーダの手前では黙示録的なファンファーレが仮借なく吹き鳴らされ、その後まったくリタルダンドすることなく楽章が閉じられた。スケルツォの第二楽章におけるリズムの躍動も素晴らしかったが、流れにもう少し余裕があったほうがよかったかもしれない。とくにトリオでは、主部とのコントラストを際立たせる意味でも、あと少し歌が広がるのを聴きたかった。

フィナーレの演奏は、落ち着いたテンポと丁寧な仕上げで、音楽の荘厳さを最大限に引き出したもの。ともすれば皮相に響きがちなトランペットやティンパニの音も、壮大な響きの構成のなかにしっかりと位置づけられている。第一楽章の主題が厳しく再現されてからコーダに至る流れは、慄くような歌を交えながら作品の大きさをあらためて示すものだった。ただ、これほどまでにブルックナーの第8交響曲の内実を響かせえた下野竜也と広島交響楽団の解釈がもはや会場に収まりきれないことが、演奏の傷となって表われていたのも確かである。すでに大阪のザ・シンフォニーホールでの演奏を終えて広島での演奏に臨んだ奏者の様子からは、広島文化学園HBGホールの残響の乏しさに対する戸惑いが感じられた。ピアノで入る箇所のアインザッツが乱れたり、響かないなかで何とか音を鳴らそうとするあまり、ダイナミック・レンジが狭くなってしまったりしている箇所が散見されたのは惜しまれる。

会場にもう一秒の残響があれば、思いきったピアニッシモにも挑戦できたはずだし、とくに第一楽章の展開部では、横に広がる音型とリズミックな動きの対照が、いっそうの高揚感をもって響いたにちがいない。下野竜也と広島交響楽団のコンビの門出の演奏会は、両者がすでに世界から聴衆を集めうるほどの充実した音楽に達していることを示すものである。このコンビを大事に育てることを考えるのであれば、何よりもまず広島の地に欠けている音楽専用ホールの必要性をあらためて痛感しなければならない。下野の広島交響楽団音楽総監督就任披露の定期演奏会は、彼のブルックナー指揮者としての実力と、それによって引き出されたオーケストラのアンサンブルの可能性をいかんなく示すと同時に、広島の聴衆に、積年の重い課題を突きつけるものだった。

広島交響楽団第338回定期演奏会を聴いて

雨が上がって春の日差しが戻った休日(4月29日)の午後、広島文化学園HBGホールで広島交響楽団の第338回定期演奏会を聴いた。下野竜也の指揮で、シューマンのヴァイオリン協奏曲にブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」というプログラム。新緑の季節に相応しいプログラムではないだろうか。

まず、後半のブルックナーの演奏が、下野の最近の音楽の充実を物語る内容だった。この「ロマンティック」交響曲の独特の瑞々しさがよく表われた演奏だったと思う。何よりも印象的だったのが、下野が響きのバランスに細心の注意を払いながら、いささかの無理も感じさせない音楽の運びを示していたこと。それによって、時として埋もれがちな低声や内声の動きが聞こえてきて、響きがいっそう有機的になるとともに、この曲を特徴づける豊かな歌がしなやかに息づく。なかでも、第2楽章のヴィオラの歌は実に魅力的に響いた。強奏が続く部分から弱奏の部分への移行の処理も細やかだったし、フィナーレのコーダでこの曲のさまざまな要素が結集しながら徐々に壮大なクライマックスを築いていくあたりは、今回の演奏の白眉だったのではないだろうか。それだけに、最後の和音がまだ響いているうちに「ブラヴォー」の声と拍手が始まってしまったのは残念でならない。東京のいくつかのホールで行なわれているように、指揮者がタクトを降ろすまで拍手など控えてほしい、とアナウンスで要請するしかないのかもしれない。

「ロマンティック」交響曲の演奏に戻ると、今回の演奏は、曲を完全に手中に収めた指揮者が、その意図をしっかりと伝えるならば、広響が非常に内容豊かな演奏を繰り広げうることを証明した好例と言えよう。とはいえ、この曲からはもう少し深い静けさと、そこからいくらかの疾走感を伴って湧き上がる響きを聴きたかった、という気持ちも拭えない。そして、下野はさらにもう一段振幅の大きな音楽を響かせたかったのでは、という印象も受けたが、それはこのホールの条件からしても難しかったかもしれない。

前半のシューマンのヴァイオリン協奏曲では、独奏を担当した若い三浦文彰の奏でる美音とその音楽の繊細さが光った。さまざまな意味で聴かせるのが難しいこの曲を、三浦がここまでの完成度をもって弾ききったことは特筆に値しよう。とくに、濁ることのない重音の響きのなかから溢れ出る瑞々しい歌は、とても魅力的だった。ただ、フレージングがやや窮屈になって、音楽を持て余している印象を受ける箇所が散見されたのは惜しまれる。そのために、音楽の奥行きが狭くなり、シューマンの音楽に求められる陰翳が少し損なわれてしまった。もっと自由にテンポを動かしながら歌ってもよかったのではないか。三浦が──人生のそれも含めて──経験を積んで、もっと振幅の大きな音楽を聴かせるようになってからこの曲に臨んだら、きっと本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれるにちがいない。

シューマンの演奏でもう一つ惜しまれるのは、下野の音楽性がどちらかと言うとブルックナーにより親和的だったせいだろうか、オーケストラの響きが、全体的に腰が重すぎたこと。もう少し躍動感のあるリズムで、独奏に機敏に反応してもよかったのではないだろうか。このようにいくつか惜しまれる点があるとはいえ、ここまでの水準の演奏で、めったに取り上げられないシューマンのヴァイオリン協奏曲を聴くことができたことと、それをつうじて将来を嘱望される才能に巡り合えたことは、率直に喜びたいと思う。

広響定期338Flyer