サントリーホール「作曲家の個展II」細川俊夫&望月京を聴いて

20190628114943930_0001-1-212x300民衆の祭りの音楽を形づくる要素の一つに、執拗なまでの反復がある。同じリズムが太鼓などの打楽器で、あるいは同じメロディが笛や歌で何度も何度も繰り返される。それに乗って人々が路上を踊り歩くなかで、いつしか集団が熱を帯びてくる。それとともに、人間のうちに潜み、日常生活の秩序のなかでは馴致され、覆い隠されている力が剝き出しになる。祭りの喧騒のなかにこの動物的とも言える力が露呈することと、各地の祭りでしばしば肌が露わにされることには、何か関係があるのだろうか。

望月京は、人間の世界が「コスモス」として分節される手前にあって、この生き物の生を衝き動かしている混沌とした力に、早くから惹かれていたのかもしれない。ヒトという動物が生き続けるなかに絶えず働いていながら、ときにその途方もない攻撃性としても現われる力。祭りのなかで人間の動物性として噴出するこの力に、音楽で立ち返り、その動力を汲み出そうとする望月の作曲の方向性は、2010年に東京フィルハーモニー交響楽団の創立百年を祝うために書かれた、オーケストラのための《むすび》からも聴き取られるのではないだろうか。

サントリー芸術財団の創立50年を記念して2019年11月28日にサントリーホールで開催された「作曲家の個展II」──実質的には望月と細川俊夫の二人展であるが──の冒頭でこの《むすび》が演奏されたが、その後半でチェロのオスティナート的な音型が高まった後、混沌を感じさせる響きのなかに、途方もないエネルギーが凝縮される。そこには、曲の前半部でどこからともなく響き始めて高揚し、華やいだ雰囲気を醸し出した打楽器のリズムを衝き動かしていた力が、一気に流れ込んでいるようにも聴こえた。

このことはさらに、新たな生命が芽吹いているのを言祝ぐような響きが、どこか浮き立つような祭りの予感として、きわめて繊細に構成されていたのと、コントラストをなしていよう。祭りには、世界の始まりの模倣という側面がある。そこにある儀式的な秩序と、これを形づくる運動を衝き動かす力の緊張が、祭りそのものを成り立たせている。これら相対立するものの「むすび」を響かせる方向性を、打楽器を音楽の前面に押し出すことで徹底させたのが、今回の「個展」で世界初演された《オルド・アプ・カオ》であろう。

「混沌からの秩序」と直訳できる表題を持つこの打楽器とオーケストラのための作品もまた、非常に繊細な響きから始まるが、それは冒頭からすでに不穏さを帯びている。そのなかからやがてイサオ・ナカムラの奏でる打楽器が響き始める。オーケストラの打楽器セクションに近い奥まった場所から現われた彼は、ギロを擦ったり、叩いたりしながら前へ進み出て、指揮台の横に据えられた一群の打楽器を駆使した圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。それとオーケストラの打楽器の緊張に満ちた掛け合いが、音楽の推移の一つの軸となっていた。

ナカムラのパフォーマンスは、文字通り全身を、生の根源にある力の媒体として躍動させていた。ただし、その運動はつねに一つの律動を形づくってもいる。音楽において混沌とした力の蠢きは、リズムとしてのみ響くのだ。足踏みのなかからポリリズム的に動きが生成するさまは、そのことを象徴していよう。そのような打楽器の独奏と、舞台後方の打楽器の鋭い音響とが応え合ったり、あるいは対立したりしながら音楽がダイナミックに高揚していく音楽の推移は、今回の新作において最も強い魅力を放っていた。

その過程で聞こえた音のなかで最も印象の残ったのが、ナカムラが細長いマレットで大太鼓の金枠を擦る音である。音量的にはさほど大きくないものの、その摩擦音は、打音とはまったく異質に響き、何よりもその鋭さが、音響そのものを断ち切る強さを示していた。それによってもたらされる中間休止が、絶えず新たな「混沌からの秩序」を響かせる望月の新作の末尾で響いた、希望と諦念の双方を含み持つかのように柔らかに浮遊する響きは、人間の世界を統べる秩序を、その起源から考えることへ誘っているように聴こえた。

世界の起源にあるのは力である。ただし、その力は生命の営みから発現する。そう考えるなら、望月が作曲のなかで追求してきたことと、細川俊夫が絶えず表現しようと試みてきたことは、通底していることになろう。細川は、自身の音楽を書と捉えるようになって以来、書の運筆を動かす息に関心を寄せてきた。息ないし気息は、言うまでもなく、プネウマのような古語が示すように、太古から生命の原理と見られてきた。呼吸にも示されるその循環的な運動を響かせる媒体として、細川は笙という古い楽器を見いだしたのだった。

このことを示すのが、1980年代半ばに書かれた笙とハープのための《うつろひ》であるが、以来細川は笙を用いた作品を書き継いでいくことになる。そして、今回の「個展」において日本初演されたオルガンとオーケストラのための《抱擁──光と影》(2016/17年)は、笙と同じく空気で管を振動させて音を響かせるパイプオルガンを、気息の媒体として用いた作品と言えよう。オルガン独奏のための《雲景》(2000年)をベースに書かれたこの曲は、柔らかなオルガンの響きに先導されて始まる。

陰と陽の対照を含んだオルガンの響きがオーケストラの響きに入り込み、さらにオーケストラとともに最初の響きの明暗を展開していくことが、音楽の基本的な推移を形づくっていると聴こえたが、他方で陰陽の対照が巨視的に、上昇的な運動によって特徴づけられる部分と、下降する運動が折り重なる部分とによって示されるのも興味深い。そして、オーケストラとオルガンが一体となって、光と影の緊張に孕まれた力を、輝かしい音響の強さとして広大な空間に放つ「抱擁」の瞬間に、この作品の頂点があることは間違いない。

とはいえ、それ以上に魅力的だったのは、作品の後半でオルガンの響きがオーケストラのなかに徐々に浸透していくことが、弦楽器の各セクションの独奏のアンサンブルに結びつき、そこに体温を感じさせる響きが生まれたことだった。そこには「抱擁」が身体的な行為であることだけでなく、自分とは異なる者に抱きとめられることでもあることも表現されていたのではないだろうか。クリスティアン・シュミットの独奏は、作品への深い共感を感じさせるものだった。古い教会のオルガンだったら、どのような響きが生まれていただろうか。

《抱擁》においてオルガンとオーケストラが響かせた、陰陽の対照のなかに何かを現わし、世界を出現させる気息の循環運動は、今回の「個展」において世界初演されたオーケストラのための《渦》においては、生命の原基としての海のなかから響くことになる。寄せては返すその波動を音響の空間的な運動として表現するために、オーケストラは、二群の弦楽器と打楽器、管楽器、そして舞台両翼の金管楽器のバンダの五グループに分けられている。柔らかな弦楽器の響きの層に、しずくが落ちるようにハープの撥音が乗るところから音響の運動が始まる。

この《渦》という作品において特徴的なのは、《記憶の海へ──ヒロシマ・シンフォニー》(1998/99年)などの海をテーマとした作品において用いられていたバンダが、基本的には響きの空間的な運動を構成する要素として用いられていることである。その効果も相まって、オーケストラの各グループを、さざめくような音響が往還する運動が繰り返されるとともに、じわじわと、螺旋を描くように全体の水位が上昇する。そして、ついには渦をなす響きが舞台から溢れ出るかのようなクライマックスに至る。

このとき、波に呑み込まれたかのような気持ちにならざるをえない。細川は開演前のトークにおいて、海に関連した音楽を書くとき、東日本大震災の途方もない津波を思い起こしてしまうと語っていたが、そこにも表われたような、巨大な自然の力が溢れ出すのに巻き込まれているような感慨を、この新作の頂点で抱かざるをえなかった。生命を育む海、それは渦をなしながら、ときに恐ろしい牙を剝いて命あるものを呑み込む。そのことに対する畏怖も、《渦》の響きには含まれているのかもしれない。

とはいえ、音楽はやがて静まっていく。柔らかに空間を包んでいく響きが、水面の煌めきと水気を感じさせる潤いを帯びていたのが印象的だった。最後に残るのは水の滴る音。それが聞こえるのは地上である。聴き手は今、波打ち際に佇んでいるのではないだろうか。《松風》、《海、静かな海》、《二人静》といった、海辺を舞台とする細川のオペラの登場人物のように。《渦》の穏やかな終結部は、狂おしいまでの生命の営みと言語を絶する災厄の記憶を湛えながら広がる海に、聴き手を向き合わせるように思われる。

細川俊夫と望月京の二人展として開催された今回の「作曲家の個展」では、人間の世界の根源にあるものに対する両者の関心が呼応し合うことが確かめられるなか、命あるものを動かす力と息吹へ向かう思索を響かせる二人の音楽の最新の姿が力強く響いた。曲の緻密な分析に裏打ちされた杉山洋一の明快な指揮の下、東京都交響楽団が機能性を発揮して、新たな楽譜が見事に響いたのは確かだが、音楽の大きな流れを見通したなかで、演奏家が自発性を発揮する局面があってもよかったかもしれない。

細川俊夫《嵐のあとに》世界初演を聴いて

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生きていること、それはきわめて不確かなことではないだろうか。生きているとはそのまま、いつでも自分を消滅させうる力に曝されているということなのだろう。2011年3月11日の東日本大震災は、このことを思い知らせる出来事だった。いや、そればかりか、福島第一原子力発電所の過酷事故に結びついたこの震災は、人間が自分自身の生命をその根幹から破壊する目に見えない力を、自分の手で作り出し、ただでさえ不確かな生存を、さらに危ういものにしてしまっていることを突きつける出来事でもあった。

そのように脆くて儚い生のうちに、まだかろうじて留まっていることを確かめようとするとき、人は身をかがめ、足元を見つめるだろう。すると、みずからの生存そのものが深淵の上に漂っていることを、振り返らせられるかもしれない。しかし、このような地点からこそ、人は地上に生きることを、心の底から願うことができるのではないだろうか。2015年11月2日にサントリーホールで行なわれた東京都交響楽団の第797回定期演奏会で世界初演された細川俊夫の《嵐のあとに》は、生存そのものが曝されている深淵を前にしながら、生きることを切に祈る歌を、まさに嵐の後に響かせるものであった。

二人のソプラノとオーケストラのために書かれたこの曲は、冒頭から不穏な風音やパルス音を持続的に響かせる。それらが重なり合いながら蠕動し、やがてオーケストラの総奏による巨大な音の渦が形成されるが、それは文字通り嵐の表現であると同時に、災害などとともに姿を現わし、生あるものすべてを木の葉のように翻弄しながら消し去っていく、圧倒的な力の隠喩でもあるように思われた。多次元的に旋回し、吹きすさぶ音響の渦に巻き込まれていくような感覚を覚えながら、詩人パウル・ツェランが「迫奏(Engführung)」という詩(詩集『言葉の格子』所収)に書きつけた、「ハリケーン」という語を思い起こさないではいられなかった。

こうした嵐の表現において、打楽器の強い打撃音が繰り返し、聴く者の肺腑に食い込むように発せられたのが、《嵐のあとに》という曲でとくに印象に残ったことの一つである。とりわけ、太鼓の鋭い打撃音は、ソプラノの二重唱が始まった後も、時を刻む重要な役割を果たすことになる。この曲と同じく嵐の音楽を含むオペラ《リアの物語》──その広島での上演が2015 年1月30日と2月1日に行なわれたのは記憶に新しい──などでしばしば用いていた、時を垂直的に断ち切り、そこから新たに音楽を生成させていく表現を、細川は見直しながら、能の舞台に通じる儀式的な持続を、すなわち面を着けた人がシャーマン的な媒体となる時間を到来させるのに、新たに生かしているのかもしれない。

空間を切り裂くような強烈な響きとともに嵐が去った瞬間、恐怖を覚えるほどの深淵が開かれた。深く、また厳しく抉られた響きの洞が、時の流れを止めていた。その闇のなかから、ヘルマン・ヘッセの詩「嵐のあとの花」をテクストとする歌が慄くように響き始めたのである。自分を圧倒する力と生存そのものの不確かさを前に怯え、深く身をかがめたところから──ヘッセの詩は冒頭で、麻痺したように打ちひしがれた者の姿を描く──、徐々に身を起こすように高まっていく祈りの歌。それは、人間の魂の奥底にある、生への切なる願いを響かせる二人の巫女の歌であるが、それは人間の生存そのものにあって対をなす二つの側面──人為と自然、魂と肉体など──を絶えず交差させながら響かせる二重唱ではないだろうか。

この作品において細川は、ヘッセの詩にある、姉妹のようにとでも訳すべきgeschwisterlichという語──それは二度にわたってはっきりと歌われる──に導かれながら、巫女たちの対の歌を構成していたように思われる。一方の歌が他方の歌に影のように寄り添ったり、あるいは影のなかから一方が浮かび上がったりするなかに響く二つの声のハーモニーは、生存そのものの危うさと、そのなかからこそ発せられる切なる祈りとを、時に激しく、また時に繊細に響かせるものであった。

そうした二重唱において、スザンヌ・エルマークとイルゼ・エーレンスの歌唱が、オーケストラの総奏と拮抗する場面もある振幅の大きな表現のなかで、親密さを感じさせるアンサンブルと、声そのものの清澄さを保ち続けたことは感動的ですらあった。作品の組成を見事に捉えた大野和士の指揮の下、東京都交響楽団が実に有機的な響きを聴かせたことも、特筆されるべきであろう。ソプラノの二重唱が続くなかで、弦楽器の各セクションの独奏によって嵐の音楽が回想される場面でも、緊密なアンサンブルが光った。

嵐によって地面に叩きつけられた草花が徐々に頭をもたげるようにして、おずおずと身を起こし、世界へと微笑みかけながら歩み出ようとする声が、柔らかな響きのなかへ消え入ると、空間は深い静けさに包まれた。生存の根本的な危うさを直視し、この危うさもろとも生きることを肯定するところにある、深い、充実した静けさ。《嵐のあとに》という作品は、このような静けさを分かち合うことへ聴き手を導くが、そのことは人間と自然のあいだに、人々のあいだに、さらにはひとりの人間のなかにある、容易には調停しがたい相克を正視することとも切り離せない。そして、このように現代における人間の生存の困難さを見据えながら、対を生きることへの切なる願いを響かせるというモティーフは、来年1月にハンブルク国立歌劇場で初演される予定の新作オペラ《静かな海》にも通じるものでもあろう。

こうして細川の《嵐のあとに》が見事に初演された演奏会では、他にラヴェルの《スペイン狂詩曲》、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番、そしてドビュッシーの交響詩《海》が演奏された。プロコフィエフの作品でヴァイオリン独奏を務めたワディム・レーピンの演奏は、華やかさを抑えて作品の内実に迫ろうとするアプローチが、第1楽章ではやや空回りしている印象を受けたが、徐々に持ち前の闊達さが光ってきた。とくにフィナーレの高揚は見事だった。いずれの作品でも、東京都交響楽団の各セクションの繊細なハーモニーとしなやかな歌が印象的だったが、そのことはオーケストラのアンサンブルの完成度の高さを物語っていよう。曲のテクスチュアを最大限に生かそうとする大野和士の指揮も魅力的だった。今回の演奏会は、細川の作品を含むこの日の演奏曲目を中心としたプログラムで展開される、東京都交響楽団の創立50周年を記念するヨーロッパ・ツアーの成功を予感させる演奏会でもあった。