サントリーホール「作曲家の個展II」細川俊夫&望月京を聴いて

20190628114943930_0001-1-212x300民衆の祭りの音楽を形づくる要素の一つに、執拗なまでの反復がある。同じリズムが太鼓などの打楽器で、あるいは同じメロディが笛や歌で何度も何度も繰り返される。それに乗って人々が路上を踊り歩くなかで、いつしか集団が熱を帯びてくる。それとともに、人間のうちに潜み、日常生活の秩序のなかでは馴致され、覆い隠されている力が剝き出しになる。祭りの喧騒のなかにこの動物的とも言える力が露呈することと、各地の祭りでしばしば肌が露わにされることには、何か関係があるのだろうか。

望月京は、人間の世界が「コスモス」として分節される手前にあって、この生き物の生を衝き動かしている混沌とした力に、早くから惹かれていたのかもしれない。ヒトという動物が生き続けるなかに絶えず働いていながら、ときにその途方もない攻撃性としても現われる力。祭りのなかで人間の動物性として噴出するこの力に、音楽で立ち返り、その動力を汲み出そうとする望月の作曲の方向性は、2010年に東京フィルハーモニー交響楽団の創立百年を祝うために書かれた、オーケストラのための《むすび》からも聴き取られるのではないだろうか。

サントリー芸術財団の創立50年を記念して2019年11月28日にサントリーホールで開催された「作曲家の個展II」──実質的には望月と細川俊夫の二人展であるが──の冒頭でこの《むすび》が演奏されたが、その後半でチェロのオスティナート的な音型が高まった後、混沌を感じさせる響きのなかに、途方もないエネルギーが凝縮される。そこには、曲の前半部でどこからともなく響き始めて高揚し、華やいだ雰囲気を醸し出した打楽器のリズムを衝き動かしていた力が、一気に流れ込んでいるようにも聴こえた。

このことはさらに、新たな生命が芽吹いているのを言祝ぐような響きが、どこか浮き立つような祭りの予感として、きわめて繊細に構成されていたのと、コントラストをなしていよう。祭りには、世界の始まりの模倣という側面がある。そこにある儀式的な秩序と、これを形づくる運動を衝き動かす力の緊張が、祭りそのものを成り立たせている。これら相対立するものの「むすび」を響かせる方向性を、打楽器を音楽の前面に押し出すことで徹底させたのが、今回の「個展」で世界初演された《オルド・アプ・カオ》であろう。

「混沌からの秩序」と直訳できる表題を持つこの打楽器とオーケストラのための作品もまた、非常に繊細な響きから始まるが、それは冒頭からすでに不穏さを帯びている。そのなかからやがてイサオ・ナカムラの奏でる打楽器が響き始める。オーケストラの打楽器セクションに近い奥まった場所から現われた彼は、ギロを擦ったり、叩いたりしながら前へ進み出て、指揮台の横に据えられた一群の打楽器を駆使した圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。それとオーケストラの打楽器の緊張に満ちた掛け合いが、音楽の推移の一つの軸となっていた。

ナカムラのパフォーマンスは、文字通り全身を、生の根源にある力の媒体として躍動させていた。ただし、その運動はつねに一つの律動を形づくってもいる。音楽において混沌とした力の蠢きは、リズムとしてのみ響くのだ。足踏みのなかからポリリズム的に動きが生成するさまは、そのことを象徴していよう。そのような打楽器の独奏と、舞台後方の打楽器の鋭い音響とが応え合ったり、あるいは対立したりしながら音楽がダイナミックに高揚していく音楽の推移は、今回の新作において最も強い魅力を放っていた。

その過程で聞こえた音のなかで最も印象の残ったのが、ナカムラが細長いマレットで大太鼓の金枠を擦る音である。音量的にはさほど大きくないものの、その摩擦音は、打音とはまったく異質に響き、何よりもその鋭さが、音響そのものを断ち切る強さを示していた。それによってもたらされる中間休止が、絶えず新たな「混沌からの秩序」を響かせる望月の新作の末尾で響いた、希望と諦念の双方を含み持つかのように柔らかに浮遊する響きは、人間の世界を統べる秩序を、その起源から考えることへ誘っているように聴こえた。

世界の起源にあるのは力である。ただし、その力は生命の営みから発現する。そう考えるなら、望月が作曲のなかで追求してきたことと、細川俊夫が絶えず表現しようと試みてきたことは、通底していることになろう。細川は、自身の音楽を書と捉えるようになって以来、書の運筆を動かす息に関心を寄せてきた。息ないし気息は、言うまでもなく、プネウマのような古語が示すように、太古から生命の原理と見られてきた。呼吸にも示されるその循環的な運動を響かせる媒体として、細川は笙という古い楽器を見いだしたのだった。

このことを示すのが、1980年代半ばに書かれた笙とハープのための《うつろひ》であるが、以来細川は笙を用いた作品を書き継いでいくことになる。そして、今回の「個展」において日本初演されたオルガンとオーケストラのための《抱擁──光と影》(2016/17年)は、笙と同じく空気で管を振動させて音を響かせるパイプオルガンを、気息の媒体として用いた作品と言えよう。オルガン独奏のための《雲景》(2000年)をベースに書かれたこの曲は、柔らかなオルガンの響きに先導されて始まる。

陰と陽の対照を含んだオルガンの響きがオーケストラの響きに入り込み、さらにオーケストラとともに最初の響きの明暗を展開していくことが、音楽の基本的な推移を形づくっていると聴こえたが、他方で陰陽の対照が巨視的に、上昇的な運動によって特徴づけられる部分と、下降する運動が折り重なる部分とによって示されるのも興味深い。そして、オーケストラとオルガンが一体となって、光と影の緊張に孕まれた力を、輝かしい音響の強さとして広大な空間に放つ「抱擁」の瞬間に、この作品の頂点があることは間違いない。

とはいえ、それ以上に魅力的だったのは、作品の後半でオルガンの響きがオーケストラのなかに徐々に浸透していくことが、弦楽器の各セクションの独奏のアンサンブルに結びつき、そこに体温を感じさせる響きが生まれたことだった。そこには「抱擁」が身体的な行為であることだけでなく、自分とは異なる者に抱きとめられることでもあることも表現されていたのではないだろうか。クリスティアン・シュミットの独奏は、作品への深い共感を感じさせるものだった。古い教会のオルガンだったら、どのような響きが生まれていただろうか。

《抱擁》においてオルガンとオーケストラが響かせた、陰陽の対照のなかに何かを現わし、世界を出現させる気息の循環運動は、今回の「個展」において世界初演されたオーケストラのための《渦》においては、生命の原基としての海のなかから響くことになる。寄せては返すその波動を音響の空間的な運動として表現するために、オーケストラは、二群の弦楽器と打楽器、管楽器、そして舞台両翼の金管楽器のバンダの五グループに分けられている。柔らかな弦楽器の響きの層に、しずくが落ちるようにハープの撥音が乗るところから音響の運動が始まる。

この《渦》という作品において特徴的なのは、《記憶の海へ──ヒロシマ・シンフォニー》(1998/99年)などの海をテーマとした作品において用いられていたバンダが、基本的には響きの空間的な運動を構成する要素として用いられていることである。その効果も相まって、オーケストラの各グループを、さざめくような音響が往還する運動が繰り返されるとともに、じわじわと、螺旋を描くように全体の水位が上昇する。そして、ついには渦をなす響きが舞台から溢れ出るかのようなクライマックスに至る。

このとき、波に呑み込まれたかのような気持ちにならざるをえない。細川は開演前のトークにおいて、海に関連した音楽を書くとき、東日本大震災の途方もない津波を思い起こしてしまうと語っていたが、そこにも表われたような、巨大な自然の力が溢れ出すのに巻き込まれているような感慨を、この新作の頂点で抱かざるをえなかった。生命を育む海、それは渦をなしながら、ときに恐ろしい牙を剝いて命あるものを呑み込む。そのことに対する畏怖も、《渦》の響きには含まれているのかもしれない。

とはいえ、音楽はやがて静まっていく。柔らかに空間を包んでいく響きが、水面の煌めきと水気を感じさせる潤いを帯びていたのが印象的だった。最後に残るのは水の滴る音。それが聞こえるのは地上である。聴き手は今、波打ち際に佇んでいるのではないだろうか。《松風》、《海、静かな海》、《二人静》といった、海辺を舞台とする細川のオペラの登場人物のように。《渦》の穏やかな終結部は、狂おしいまでの生命の営みと言語を絶する災厄の記憶を湛えながら広がる海に、聴き手を向き合わせるように思われる。

細川俊夫と望月京の二人展として開催された今回の「作曲家の個展」では、人間の世界の根源にあるものに対する両者の関心が呼応し合うことが確かめられるなか、命あるものを動かす力と息吹へ向かう思索を響かせる二人の音楽の最新の姿が力強く響いた。曲の緻密な分析に裏打ちされた杉山洋一の明快な指揮の下、東京都交響楽団が機能性を発揮して、新たな楽譜が見事に響いたのは確かだが、音楽の大きな流れを見通したなかで、演奏家が自発性を発揮する局面があってもよかったかもしれない。

神無月の仕事──『ヴァルター・ベンヤミン』刊行から一か月を経て

十月も下旬というのに、ここ広島ではまだ日中の気温が高く、何を着て出かけるか迷う今日この頃です。先月から今月にかけて、二つの巨大な台風が相次いで列島を襲い、ご存知のとおり、痛ましい被害が各地に深い傷を残しています。被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。

473158さて、先月20日に岩波新書の一冊として拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を上梓してから一か月が経ちました。この間すでに、いくつもの温かいお言葉をいただいております。読者のなかには文字通り精読してくださっている方もおられて、著者冥利に尽きると感じております。

拙著『ヴァルター・ベンヤミン』をいち早くお手に取ってくだり、ご感想をお寄せくださった方々に心より感謝申し上げます。おかげさまで、この種の書籍としては比較的多くの読者の手許に届いているようです。拙著は、図書新聞の第3421(2019年11月2日)号の「ポケットブック」のコーナーをはじめ、各種媒体でも紹介され始めています。

今、思わぬかたちで、ベンヤミンが抱いていた問いがアクチュアリティを帯びていると感じています。その一つは、拙著の主に第四章で論じた、今芸術は何でありうるかという問いではないでしょうか。彼は、知覚経験が変容し、従来の意味で「美しい」芸術作品が成り立ちえなくなっている状況のなかで、芸術が、そして作品がどのようにありうるかを、同時代の芸術の動きを見据えながら問うています。

あいちトリエンナーレとその「表現の不自由・その後」展をめぐっては、芸術は民衆に役立つものであるべきだといった、民衆を上から統治の対象としてしか見ていない言説も聞かれました。しかし、ベンヤミンはむしろ、そのような対象とはならない民衆そのものが生じる媒体として、芸術作品が創造される可能性を、新たな、批評を内在させた芸術のうちに見届けようとしていました。

こうして、ベンヤミンの思考が取り組んだ問題がアクチュアリティを帯びて浮上することは、同時に彼が生きた時代よりもその闇が深まったことの徴候でもあるでしょう。とくに、行き交う情報のいっそうの断片化が進むなか、歴史修正主義が精神を蝕むかたちで浸透しつつあることは、排他的ないし排外主義的な暴力としても現われながら、現代の闇を深めていると感じています。

ベンヤミンの著作には、こうした現在の闇の要因を見通しながら、そのなかを歩むことへ向けた思考のきっかけや手がかりが含まれていると考えて、拙著を公にしました。彼の批評的な思考の足跡を、彼の生涯のなかに浮かび上がらせた拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』を書店で見かけられたら、お手に取っていただけると幸いです。

71293874_2691610117558010_7584518907336065024_oところで、今月は芸術に関わる仕事をいくつか公にすることができました。機会を与えてくださった方々に感謝申し上げます。まず、10月4日に開催された広島交響楽団のディスカバリー・シリーズHosokawa×Beethovenの第2回演奏会のプログラムに、曲目解説を寄稿させていただきました。

この演奏会では、何よりも細川さんの《月夜の蓮》を望みうる最高の演奏で聴けたのが嬉しかったです。児玉桃さんの明晰でありながら、豊かな歌に貫かれたピアノに、下野竜也さんが指揮するオーケストラが見事に応えて、生気に満ちた流れた生まれていました。

72554808_2726928977359457_3251842159254437888_oまた、10月12日から栃木県の小山市立車屋美術館で始まった呉夏枝さんの個展「手にたくす、糸へたくす」のカタログにも、「記憶の多島海へ──呉夏枝のほぐす芸術によせて」と題する小文を寄稿させていただきました。作家の芸術の歩みを、記憶の越境的な継承の可能性へ向けて論じるものです。

糸を扱う手仕事によって、言葉にならなかった記憶の気配を伝える空間を開き、その継承の回路を紡いできた呉夏枝さんの仕事の多彩さを伝える展示も楽しみなところです。この機会に、多くの方に彼女の芸術に触れていただきたいと思います。

それから、10月15日に発行された芸術批評誌『Mercure des Arts』の第49号には、今年30回目を迎えた武生国際音楽祭にゲスト講師として参加しての報告を寄稿させていただきました。9月の音楽祭で新たな音楽が生まれた様子を伝えると同時に、音楽家が出会い、世界的な音楽創造の芽が育まれる場として続いてきた武生国際音楽祭の意義にも触れました。ご一読いただけると幸いです。

10月22日には、8・6ヒロシマ大行動実行委員会が主催した、拡声器規制問題に関する第2回公開討論会にパネリストの一人として参加しました。その際、毎年8月6日に開催される平和祈念式典のあり方を、市民自身がどのように考えるか、という問いを広く共有することが必要であることや、式典会場周辺での拡声機使用を条例で規制することは、表現の自由に抵触する危険があることなどを論じました。

討論会では、平和祈念式典の成り立ちを歴史的に検証することへの問いを含め、さまざまな視点からの発言があって、多くを学ぶことができました。あいちトリエンナーレに対する文化庁の補助金不交付の問題とも通底するものを含んだ拡声器規制問題については、広島に注目する世界中の人々を失望させることにならないよう、市当局の動きなどを注視していきたいと考えています。

71184137_3005860276108036_4509768596271923200_o来たる11月2日には、勤務先の大学の広島平和研究所の直野章子さんが主催されるシンポジウム「記憶の存在論と歴史の地平」に、ディスカッサントとして参加させていただきます。直野さんはじめ、このテーマをめぐる研究をリードしている学者が顔を揃えるこのシンポジウムにご関心のある方は、広島市立大学のサテライトキャンパスへお越しください。参加は無料です。

11月中旬からは、拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』の合評会や刊行記念のトークなども続きます。12月22日に開催される福岡市の書店&カフェ「本のあるところajiro」でのトークについては、広報も始まっています。これらについては、FacebookTwitterでも情報を発信していきたいと考えております。拙著にご関心のある方とお会いできることを、心から楽しみにしております。

もうしばらくしたら、広島にも紅葉の季節が訪れます。それとともに朝晩は冷え込むことでしょう。台風やその後の大雨のために避難生活を余儀なくされている方々にとっては、寒さがとりわけ厳しくなると思います。どうかみなさまお身体大切にお過ごしください。

皐月に聴く広響

2019_A4_01(0311)_3去る5月17日(金)から、広島交響楽団の新しいディスカバリー・シリーズ「ベートーヴェン生誕250周年交響曲シリーズ:Hosokawa×Beethoven」が始まりました。今シーズンの四回の演奏会では、ベートーヴェンの交響曲とともに細川俊夫さんの四曲の協奏曲的な作品が取り上げられます。下野竜也さんが広島交響楽団とともにどのようなベートーヴェン像を提示するか、非常に興味深く思っています。

第1回の演奏会では、オペラ《フィデリオ》序曲と交響曲第1番が演奏されます。四回の演奏会で、ベートーヴェンがこのオペラのために書いた四曲の序曲をすべて聴けるというのも、このシリーズの魅力の一つでしょう。なお、このシリーズのプログラムに、曲目の解説を寄稿させていただいています。貴重な機会をくださった関係者のみなさまに心より感謝申し上げます。

初回の演奏会では、宮田まゆみさんの笙で細川さんの《雲と光》を聴けるのを、非常に楽しみにしていました。『細川俊夫 音楽を語る』(アルテスパブリッシング)で詳しく論じられているこの作品を、実演で聴いてみたいとずっと願っていたものですから。雲と光の繊細な関係が心の動きとも呼応しながら響く作品です。

実際、深い共感をもって奏でられた細川さんの《雲と光》がとくに素晴らしかったです。下野さんの指揮の下、明確な音楽の運びのなかに、雲間に光が明滅する空間が豊かに広がる演奏でした。嵐の過ぎた後に響いてくる宮田さんの笙の響きは、本当に美しかったです。もちろん、ベートーヴェンの二曲も聴き応えがありました。

《フィデリオ》の序曲の力感に満ちた演奏には高揚させられましたし、交響曲第1番では若い作曲家の並々ならぬ意欲を実感できました。今回の演奏では、第2楽章の演奏を、とくに美しく思いました。作曲家が想定していたであろう、着実な歩みを感じさせるテンポのなかで、弦楽器の旋律が折り重なり、管楽器の充実した響きがどこまでも広がっていく音楽も、ベートーヴェンにしか書きえなかったことでしょう。交響曲第2番が取り上げられる次回がますます楽しみです。

369_A4_表それから、5月25日(金)に開催された第390回定期演奏会では、素晴らしいブルックナーを聴くことができました。音楽の壮大さを実感させる説得的な構築性と、豊かな歌謡性とを兼ね備えた第5交響曲の演奏だったと思います。ブルックナーに特別な愛着を持つ下野竜也さんの緻密な解釈に応えて、オーケストラが豊かな響きを紡ぎ出していたのも印象的でした。

冒頭のバスのピツィカートの音型をしっかりと響かせた上に、下野さんは余裕のあるテンポで声部を重ね、大きな建築物を造り上げていましたが、その過程に自然な流れがあって、けっして物々しくなることがなかったことは、解釈の際立った美点と思われました。また、この点は、第5交響曲に凝縮されるブルックナーの音楽そのものについてあらためて考えさせます。

アダージョの楽章が終わりにさしかかり、テンポがほぼ半分に落ちてから、分散和音的な音型が連綿と歌い込まれるなか、音楽が徐々に高まっていくのを聴きながら、ふと思いました。ブルックナーという作曲家は、人為的な構築と有機的な生成の合致という不可能なことを、音楽によって成し遂げようとしたのではないか、その試みが彼の祈りだったのでは、と。

四つの楽章を貫くかたちでこの神的な対立物の一致を目指す作曲家の姿勢が、最も率直に表われているのが第5交響曲なのかもしれません。そして、その歩みが一つの緊密な音楽のなかに回帰するからこそ、フィナーレのコラールは感動的なのでしょう。昨日は最後にこのことを聴き取ることができました。その意味でも充実した演奏だったと思います。

たしかにブルックナーの音楽には、ゴシックの聖堂を思わせる高さがあります。しかし、その構造体が内からの歌で満たされなければ、何の意味も持たないと彼が考えていたことは、交響曲の随所に書き込まれた豊かな旋律から明らかでしょう。今回の演奏では、緩徐楽章の第二主題がとりわけ美しく響きました。第一楽章の途中で序奏のアダージョが回帰した際に、下野さんがヴァイオリンを艶やかに響かせたのも忘れられません。

演奏会のプログラムには、下野さんが大阪フィルハーモニー交響楽団で研修されていた頃の朝比奈隆さんとの思い出が綴られていました。冒頭からの低音の響かせ方や、フィナーレの第二主題の軽やかさに、彼から受け継いだものを感じました。その一方で、透明感すら感じさせる見通しのよい響きと、自然な流れは、下野さんならではのものと思われました。

広島交響楽団は今回、金管セクションをはじめとして非常に充実した響きを聴かせていました。下野さんの指揮との一体性がいっそう高まった印象です。その一方で、とくに対位法の複雑さが極まるところで、セクション内の、あるいはセクション間のアンサンブルにもう一歩緊密さを求めたい気もしました。また下野さんの指揮でブルックナーの交響曲が聴ける日を楽しみに待ちたいと思います。

「くちづけ──現代音楽と能」を聴いて

53570254_2329870843731941_7859440378133348352_n去る3月9日に東京文化会館の小ホールで、日本とハンガリーが外交関係を結んで150年になるのを記念して開催された演奏会「現代音楽と能──くちづけ」を聴くことができました。何よりも、細川俊夫さんの《線VI》を挟んで、エトヴェシュ・ペーテルの《HARAKIRI》と《くちづけ》の実演に接することができたのが嬉しかったです。45年の時を隔てて書かれたこれらの作品の対照的な性格を、とくに興味深く聴かせていただきました。これらの演奏に先立ち、中堀海都とバログ・マーテーという、日本とハンガリーの若い作曲家の作品の世界初演がありました。

三島由紀夫の割腹自殺の報に触発されて書かれたバーリント・イシュトヴァーンの寓意的な詩を用いた《HARAKIRI》は、一見「腹切り」とは無関係に見える営みが語られるなかに、自死への歩みとは何かが、声と器楽が呼応するなかにひたひたと迫ってくる作品と言えるでしょう。青木涼子さんの謡は、とくに「七枚の布団」を親しい人に分けようと思うなかで、死へ向かう者の狂気が徐々に高まっていく過程を、胸に迫るかたちで伝えていました。

声の変化もさることながら、さりげない前後の動きも、情景が禍々しさを増していくのを説得的に伝えていたと思います。青木さんの顔を面を被っているかのように浮かび上がらせる照明も効果的でした。謡を支えるバス・クラリネットの二重奏が、たゆたうような後奏に至るまで一つの流れを形づくるなか、木を叩く音が死への時を刻んでいくのも印象深かったです。これらの響きに耳を傾けながら、ある軍人の夫妻の自殺の過程を描いた三島の小説を思い出していました。

1973年に書かれた《HARAKIRI》という作品からは、バルトークの《中国の不思議な役人》のような作品とも通底するような象徴性が感じられますが、アレッサンドロ・バリッコの小説『絹』に想を得て2018年に書かれた《くちづけ》は、声と器楽を巧みに生かして、絹を求めてフランスから日本に来た商人の心に深く刻み込まれることになる情景を明瞭に描き出しながら、そのなかに「くちづけ」をめぐる心の動きを細やかに響かせる作品と思われます。

ここでも青木さんの声が、茶器を介した「くちづけ」の場面に繰り広げられるドラマを伝える決定的な役割を果たしていました。とりわけ、語りから謡への移行の瞬間が非常に魅力的で、唇の付けられた茶碗へと手を伸ばすところにある胸の高まりに聴き手を引き込んでいました。商人と一度限りの「くちづけ」を交わす少女のどこか神秘的な魅力と、まっさらな絹を一つながらに象徴するかのような衣裳も、今回の舞台に相応しく思われました。

器楽がこのモノ・ドラマを形づくるうえで重要な役割を果たしていることも、表現力豊かな演奏から伝わってきました。なかでも、斎藤和志さんのフルートの音色と、神田佳子さんのパーカッションのパフォーマンス(バス・ドラムにテープを貼って剝がすことも含めて)は、持続のなかの変化を魅力的に伝えていたと思います。神田さんは、細川さんの打楽器独奏のための《線VI》で、空間に線が描き出されていく動きを、文字通り全身で表現していました。

演奏会の前半に初演された二人の作曲家の作品も、それぞれに魅力的でした。マーテーさんの作品におけるクロマティック・タムタムと器楽の対話の求心性と、中堀さんの作品における、霧のような響きのなかから風景が展開していく音楽の豊かな広がりは、一見対照的ですが、いずれも一つの世界に沈潜していく冥想的な性格を示している点、興味深かったです。このことが独特の美しい響きに結実していることは、二人の作曲家がすでに洗練された語法を確立しつつあることを感じさせます。他方で、今見つめている世界を突き抜けるような何かを、時間的にも凝縮された作品に結びつけられるなら、二人は新たな時代を切り開く音楽を届けられるのでは、とも感じました。

今回の「現代音楽と能〜くちづけ」のプログラムに、「閾(しきい)を開く声──青木涼子の謡の展開によせて」と題する小文を寄稿させていただきました。この演奏会が示したように、現代音楽と協働しながら、彼岸と此岸の閾を開き、うたう可能性を開拓し続けている彼女の活動を、パリでの細川さんの《二人静》の初演のことを含めてお伝えする内容のものです。これを振り返る機会をくださった関係者のみなさまに心から感謝しております。

秋の旅と仕事

朝晩は冷え込むようになってきましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。月日が経つのは早いもので、すでに師走の足音が聞こえてくる時期になりました。溜まった仕事に少し焦りを覚える今日この頃です。広島では、日中はまだ晩秋とは思えない暖かさの日が続いています。すでに別稿でお知らせしましたように、先月の中旬に、ハンブルクへ出かけてペーター・ルジツカのオペラ《ベンヤミン》を観たわけですが、それに先立ってはミュンヒェンを訪れました。これを含めた10月のごく短いドイツへの旅のことや、その前後の仕事について、ここでご報告しておきたいと思います。

三原市の佛通寺の紅葉

10月13日に、ミュンヒェンのNS-Dokumentationszentrum(ナチズムに関するドキュメンテーション・センター)を初めて訪れました。この州都がナチズムの運動の発祥の地であり、かつ一貫してその中心的な拠点として機能し続けたことを、写真をはじめとする同時代のドキュメントによって、克明に跡づける展示でした。それをつうじて、ナチズムとは何か、ミュンヒェンの何がこれを生み、そして支えたのかが浮かび上がってきます。

とくに印象に残ったのが、現在も続く反ユダヤ主義を含む人種差別の問題にも光が当てられていたことでした。ドイツでは人種差別的な動機にもとづく暴力事件が増え続けていますし、極右政党への支持の広がりが示すように、差別扇動も影響を広げつつあります。このセンターの展示は、そうした問題を歴史的な関連を顧みながら考える視野を開くものと言えるでしょう。もちろん、ナチスの支配に対する抵抗についても展示のスペースが割かれています。

このセンターでもう一つ印象的だったのは、豊富な資料が調えられた図書室が備わっていることでした。そこには、1933年にセンターの建物のすぐ近くにあるケーニヒ広場で行なわれた焚書の対象になった書籍のコレクションも展示されていました。当時の初版が粘り強く集められていました。その説明の末尾には、書を燃やす者は、いずれ人間を燃やすことになるというハイネの言葉が引かれていました。

NS-Dokumentationszentrumを辞した後、ほど近いレンバッハハウスに立ち寄ったところ、アルフレート・クビーンの画業を、この美術館の展示の核をなす青騎士の画家たちの芸術との対照において浮き彫りにする展覧会„Phantastisch!: Alfred Kubin und der Blaue Reiter“が開かれていました(会期は2019年の2月17日まで)。最初期の線描から、青騎士の画家たちとの交流のなかから生まれた彩色作品の数々、そして小説『裏面』や版画集『サンサーラ』の世界に至るまで、非常に興味深く見ました。

自分を駆り立てる妄念を一つの像に研ぎ澄まし、それによって、黙示録的ですらある破滅の情景をも浮かび上がらせるクビーンの幻想の世界を堪能することができます。『裏面』を再読したいと思いました。彼がエドガー・アラン・ポーらの本にも挿絵を描いていることや、『裏面』のパウル・シェーアバルトの『レサベンディオ』との同時代性も触れられていましたし、青騎士の画家たちとの交流を示すドキュメントも数多く展示されていました。

クビーンの年譜に、交友のあったパウル・クレーの死に衝撃を受けたことが記されていましたが、会場に展示されていたクレーの初期の線描作品を見ると、たしかに両者に相通じるものがあるのを感じます。それにしても、レンバッハハウスのクレーの部屋は、いつ訪れても気持ちが落ち着きます。展示作品の数はそう多くはないとはいえ、どの作品も素晴らしいです。ワシリー・カンディンスキーの初期作品の一つ《色彩豊かな生(Das bunte Leben)》が掛かっていましたが、図らずもアクチュアリティのある表題と思いました。 

今回ミュンヒェンに立ち寄った目的の一つに、ゴットフリート・フォン・アイネムのオペラ《ダントンの死》の上演を観ることがありました。アルバン・ベルクの《ヴォツェック》同様、ゲオルク・ビュヒナーの戯曲にもとづくこのオペラの実演を、一度見てみたいと思っていたのです。フォン・アイネムの生誕百年を記念して、今年はいくつかの劇場で彼の作品が取り上げられているようですが、10月13日の夜にミュンヒェンのGärterplatztheater(敢えて日本語にすると「庭師広場劇場」になります)で、革命期のパリを舞台とした《ダントンの死》の上演を観ることができました。

G・フォン・アイネム《ダントンの死》公演プログラムより

この劇場の内部は馬蹄型の古い形式を残していて、舞台もとても広いとは言えないのですが、ギュンター・クレーマーの演出は、そうした制約を逆に、テロルの下、息苦しさのなかに生きることを描き出すのに最大限に生かすものだったと思われました。テロルに曝されてもなお、人民の自由に殉じる自分の生き方を貫こうとするダントンたちと、テロルに訴えることによってしか自分を保つことのできないロベスピエールらとの対照を、現代の問題として浮かび上がらせるコンセプトの下、テーブルと演台を兼ねた装置を最大限に活用した演出は、おおむね説得的に思われました。

黒い片庇のキャップを被ったロベスピエールの一党は、現代の排他主義的なポピュリストを思わせますし、彼がつねにどこかおどおどしている様子からは、日本の権力者の姿も透けて見えます。逆に、人民への呼びかけが書かれたフライヤーを一心に印刷し続けるリュシーユの姿は、ナチスの支配に抵抗した「白バラ」のゾフィー・ショルを思わせるところがあります。彼女が刷ったフライヤーが、裁判の場面の終わり近くで上から客席に撒かれるという演出は、舞台の世界に観客を引き込んでいました。

このとき合唱は、四階の客席の左右に別れて、一方はダントンの側に、他方はロベスピエールの側に立って、激しく言葉をぶつけ合っているわけですが、その迫力はかなりのものでした。全体的に合唱の力演が光りました。アンソニー・ブラマルの指揮の下、オーケストラも、スコアのテクスチュアをしっかりと音にした演奏を繰り広げていました。ブラマルの指揮は、アイネムの音楽の独特の運動性を最大限に生かして、間然するところのない流れを形成していました。

同時に《ダントンの死》の音楽には、抒情的な歌も含まれていますが、その多くが割り当てられるリュシーユの役を歌ったマリア・ツェレングという歌手の歌には、切々とした美しさがありました。主役のダントンを歌ったマティーア・メイチという歌手は、この日の公演が初登場だったようですが、歌唱からも演技からも人格的な大きさが感じられて、役に相応しく思われました。彼の妻ジュリーを演じたソーナ・マクドナルドは、舞台の世界へ観客を導き入れる口上を、台本にあらためて付け加えられたビュヒナーの言葉で述べる重要な役回りでしたが、それに圧倒的な演技力で応えていました。

「国王万歳」と叫ぶまでのリュシーユの立ち振る舞いなど、疑問に思われるところもないわけではありませんでしたし、隅々まで洗練された上演というわけでもありませんでしたが、全体としては、フォン・アイネムの《ダントンの死》を、息苦しい現在に生きることへの深い問いかけを含んだ作品として舞台に載せ、そのテクストと音楽を力強く響かせた上演だったと思います。観ることができてよかったです。

ハンブルクからミュンヒェン経由で羽田空港に到着した10月16日に、国際交流基金賞の授賞式があり、今年の基金賞を受賞された細川俊夫さんの作曲活動を紹介するスピーチをさせていただきました。細川さんとともに作家の多和田葉子さんが受賞されたのも、非常に喜ばしいことでした。10月18日には、虎ノ門のJTアートホールアフィニスにて、多和田さんと細川さんが国際交流基金賞を受賞されたのを記念して、「越境する魂の邂逅」と題する対談とパフォーマンスの夕べが催されましたが、その前半の対談で、お二人の公開の場では初めての対談のモデレーターを務めました。熱心に参加してくださったみなさまに心より感謝申し上げます。

「越境する魂の邂逅」フライヤー

当日は進行役の私が、控え室でのおしゃべりも含めて、お二人のお話をずっと楽しませていただきました。ちょうど20年になるお二人の交流や、細川さんのオペラ《地震、夢》の内容をめぐるお話もさることながら、後半に朗読された多和田さんの『飛魂』をめぐって展開された、作曲と詩作の通底する次元をめぐるお話はことに興味深いものでした。貴重なお話を繰り広げてくださった多和田さんと細川さんにもここから感謝しております。

後半のパフォーマンスでは、吉野直子さんと上野由恵さんの素晴らしい演奏と、多和田さんの想像力を掻き立てる朗読が見事に共鳴していました。上野さんの独奏による《息の歌》と《垂直の歌》も、そして吉野さんの独奏による《ゲジーネ》も、深い沈黙のなかから、全身の息遣いとともに強い歌を響かせる見事な演奏でしたが、『飛魂』の朗読のために新たに書かれた、バス・フルートとハープのための音楽と朗読が響き合う様子はとくに印象深かったです。

低いフルートの音とハープの音が、どこか小説のなかの池や林を思わせる場を開くとともに、朗読をつうじて言葉の一つひとつが、その多層性において立ち上がってくるのを感じながら、またその声が時に音と溶け合ったり、協奏的な緊張関係を示したりするのを聴きながら、来たるべき舞台作品の一場面を予感しておりました。今回の初のコラボレーションが、近い将来における一つのオペラなどでの協働につながることを願ってやみません。

10月上旬には、月曜社より東琢磨、川本隆史、仙波希望編『忘却の記憶 広島』が刊行されました。およそ10年越しの企画がこうして実現する運びとなり、とても感慨深いです。最終的に若手の研究者の新鮮な論考を組み込んだことで、「ヒロシマ」を形づくる忘却をいくつもの視角から問うばかりでなく、忘れつつ生きるなかに潜む記憶にも光を当てる一書に仕上がったことを、嬉しく思っています。また、人々の新たな結びつきのなかで「ジモト」を掘り起こす活動の息吹が伝えられているのも、本書の重要な特徴と言えるでしょう。

『忘却の記憶 広島』書影

旧稿ながら、私も「記憶する言葉へ──忘却と暴力の歴史に抗して」を寄稿させていただきました。聞く耳を持たないかたちで「ヒロシマ」を「発信」し、「平和」を訴える身ぶりのうちにある権力への同一化を問題にしたうえで、それを内側から乗り越える可能性を、「歴史」による忘却に被われた場所から記憶を細やかに掘り起こす詩的言語のうちに探るものです。

さらに、忘却され、抑圧され続ける「軍都=学都」の記憶を問う小田智敏さんの労作が公刊されたことも喜ばしいことです。私とともに学んだ鍋島唯衣さんが本書で、被爆再現人形をめぐる平和記念資料館の展示史についての論考を公にされたことも嬉しく思っています。新たに加わった執筆者と編者の尽力により、『忘却の記憶』は、資料的にも充実した一冊となりました。ヒロシマ/広島への今までにないアプローチを示しながら、この場所とその記憶の時空を問ううえで不可欠の端緒をあらためて伝える本書を、お手に取っていただければ幸いです。

武生国際音楽祭2018に参加して

41992189_2070441386341556_3393495407651717120_o第29回目を迎えた武生国際音楽祭に、国際作曲ワークショップの特別ゲストとして参加させていただきました。9月11日に一度家族で武生へ行って、ブラームスの作品を中心とした演奏会を堪能した後、翌日いったん広島へ帰り、もう一度13日に武生に入って、16日の音楽祭最終日まで、数多くの演奏会とレクチャーに接することができました。作曲ワークショップではレクチャーを持たせていただきましたが、それをつうじてむしろ私のほうが多くを学ばせていただきました。このような機会を設けてくださった武生国際音楽祭の音楽監督の細川俊夫さん、コンサート・プロデューサーの伊藤恵さん、そして理事長の笠原章さんをはじめとする武生国際音楽祭推進会議のみなさまに、まずは心から感謝申し上げます。本当にお世話になりました。

9月11日から国際作曲ワークショップのレクチャーに参加させていただいて、電子音楽の作曲法など多くを学ぶことができました。13日の作曲ワークショップでは、「〈こだま〉の変容──〈こだま〉としての〈うた〉へ」というテーマのレクチャーを持たせていただきました。「かたる」ことと「うたう」ことのつながりを踏まえつつ、「こだま」の概念を手がかりに、現代において「うたう」余地を探る視点を提示するないようのものです。アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」という言葉と、それに応答したツェランの詩を取り上げつつ、この詩に言われる「まだ歌える歌」を、音楽言語を含む言語の震撼──ベンヤミンの「こだま」のイメージは、「こだまする」ことにこの震撼を見る視点をもたらします──の先に探る拙い講演に対しては、多くの貴重なコメントや質問をいただきました。

この国際作曲ワークショップとともに、それに連動するかたちで、ゲストとして招聘されている作曲家の作品を中心とした演奏会「新しい地平」が開催されるのが、武生国際音楽祭の重要な特徴をなしています。ワークショップに参加している作曲家たちが刺激を得る機会であると同時に、一般の聴衆に同時代の音楽の息吹を伝える機会として、この音楽祭の柱の一つになっていると言ってよいでしょう。今年の「新しい地平」の枠で演奏された、ないしは世界初演された作品はいずれも完成度の高いもので、聴き応えがありました。「新しい地平I」で演奏された三浦則子さんの《アニトヤ》では、繊細な響きがしばし漂った後、旋回しながら虚空へ消えていく過程が美しく、サンスクリット語で「無常」を意味する表題にも相応しかったです。同じ演奏会で取り上げられたチャールズ・クォンさんの《風が自らを探し求めるかのように》における、風を孕み、かつ間を含んだ息の旋回を感じさせる音楽の運動も面白く聴きました。

「新しい地平II」では、坂田直樹さんと神山奈々さんの新作がとくに印象的でした。坂田さんの《胞子》には、ベルクソンのいう「生命の躍動」を伴った有機物の生成が、特殊奏法を巧みに織り交ぜながらダイナミックに表現されていましたし、神山さんの《線香花火》からは、人の行き交う風景のなかに、鮮やかさと儚さの双方を含んだ光の明滅が感じられました。「新しい地平III」では、5月に広島で聴いた細川俊夫さんの《三つの愛の歌》のほか、ベッティーナ・スクリプチャクさんの《ダフネの歌》など感銘深い作品が続きました。とくにこのピアノ独奏のための曲では、モティーフの緊密な展開が精妙な変化を生んでいるのが印象的でした。ひたすら耳を澄ますことでルイジ・ノーノを偲ぶ思いを深めていくクラウス・フーバーの《嘆き》を、マリオ・カーロリさんの素晴らしい演奏で聴けたのも貴重でした。

今回の音楽祭では、この《嘆き》とともに、昨年亡くなったフーバーの笙と打楽器のための《黒い嘆き》の実演に接することができたのが貴重でした。宮田まゆみさんの笙に葛西友子さんの打楽器という、望みうる最高の組み合わせでこの作品を聴けたのは本当に幸運でした。広島の被爆から半世紀の節目に当たる1995年の秋吉台での初演を念頭に細川さんがフライブルクでの師に委嘱したこの作品は、井伏鱒二の『黒い雨』からの抜粋と『万葉集』から選ばれた歌を、笙と、瓦を含む打楽器との静かな対話のなかで朗読し、これらのテクストの内実に迫ろうとしています。被爆するとはどういうことか、という問いに向き合いながら、言語を絶する出来事に遭って苦悩する魂に静かに思いを馳せ、その言葉を刻んでいく過程に耳を澄ますなかで、時空を越えた魂の邂逅の場を開く音楽の力をあらためて感じました。折々に《黒い嘆き》が再演されることを願ってやみません。

この音楽祭の恒例となっている「細川俊夫と仲間たち」では、まず細川さんの《レテ(忘却)の水》の実演に接することができたのが、個人的に嬉しかったです。弦楽が織りなす柔らかな響きの層が徐々に撓んで、そこからおのずと激しい、忘れようとしても忘れられないことへの苦悩を感じさせる展開が生まれてくるのが、とくに印象に残りました。ピアノの強い打ち込みが開く深淵の上で明滅するモティーフも美しかったです。オペラ《海、静かな海》とも関連の深い作品とのことです。この演奏会では、ベッティーナ・スクリプチャクさんの《裂け目》の実演にも触れることができました。モティーフの緊密な展開が、響きの多次元的な運動に見事に結びついた作品と感じました。

とはいえ、今回は何と言ってもヨハネス・マリア・シュタウトさんの四つの作品を聴くことができたのが大きな収穫でした。洗練された、かつ独特の強度を示す響きが精妙に変化していくのがとくに印象的で、室内楽作品の静かな部分は、無類の繊細さを示していたと思われます。《透かし模様》や《シドナム・ミュージック》のような作品が、ブラームスのクラリネット三重奏曲やドビュッシーのフルートとヴィオラとハープのためのソナタを意識しているというように、音楽の伝統をその精神において受け継ぎながら、オリジナリティの高い響きを、鮮やかなリズムの展開とともに実現させたシュタウトさんの音楽が、これからどのように展開していくのか、楽しみになりました。

伊藤恵さんのプロデュースによる、ブラームスの音楽の系譜を照らし出す室内楽や歌曲の演奏会も、非常に充実していました。まず、9月11日の「セルゲ・ツィンマーマン&伊藤恵リサイタル」が感銘深かったです。今回ツィンマーマンは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ全三曲のうち、第2番と第3番を演奏しましたが、いずれの曲でも、きわめて繊細な歌のなかから、深い情感と凛とした曲の形が浮かび上がってきました。万全の体調ではなかったとのことですが、持ち前の美音に徐々に熱がこもってくる演奏には、強い説得力がありました。これに続くピアノ五重奏曲の演奏では、若い弦楽器奏者たちがツィンマーマンに触発されて、実に繊細な表現を示していました。それによって、この作品のテクスチュアが最大限に生かされていたと思います。振幅の大きな表現のなかで、歌の陰翳とリズムの躍動の双方が生きていました。そして、これらのすべてを、しっかりとした歩みのなかで連綿と歌い継いでいく伊藤恵さんのピアノが支えていました。

13日の夜のシューマンとブラームスの室内楽を中心とする演奏会も、濃密な内容でした。最後に演奏されたブラームスのクラリネット五重奏曲で、上田希さんのクラリネットが振幅の大きな表現を示していたのがとくに印象的でした。とくに緩徐楽章の中間のあたりで、翳りを帯びた歌が、深沈とした響きのなかから心のなかで叫ぶように立ち上がってくる瞬間には心を打たれました。シューマンのピアノ五重奏曲では、こちらも緩徐楽章でのヴィオラの情熱的な歌が素晴らしかったです。イレー・スーさんがシューマンの《ミルテの花》と《リーダークライス》からの合計9曲を歌いましたが、湧き上がる感情と深い息遣いが自然に一つとなった歌唱は、本当に魅力的でした。

15日夜の「ウィーン音楽の伝統」では、まず赤坂智子さんのヴィオラでリゲティの無伴奏ソナタの抜粋を聴けたのが嬉しかったです。彼女の鋭敏な感性によるアプローチのおかげで、ディアスポラとしてのリゲティの郷愁と屈折が陰翳豊かに表現されていました。この曲に彼の音楽が凝縮されているという思いを新たにしました。続くリヒャルト・シュトラウスの《四つの最後の歌》におけるイレー・スーさんの歌唱は、風景のなかでこれまでの過ぎ来し方を噛みしめながら「生きた」ことに然りと言う歌の豊かさを、温かい息遣いで届けてくれました。北村朋幹さんの繊細なピアノによって、歌の美しさがいっそう際立っていたと思います。この夜の最後に演奏されたブラームスの弦楽六重奏曲第2番では、若い音楽家の素晴らしい技量と感性がこの作品に込められた作曲家の情熱を、新鮮に表現していました。スケルツォの楽章で聴かれる迸るような熱情とリズムの躍動もさることながら、とくに両端楽章の第二主題の繊細な歌とそれを支える響きは、この作品の魅力を再発見させてくれるものでした。

16日ののファイナル・コンサートは、時宗と天台宗の声明が響いた後、リゲティの《マカーブルの秘密の儀式》という瀆神的な黙示録が奏でられ、最後にブラームスのドイツ・レクイエムが演奏されるという、浮き沈みの激しい、そして幾重もの意味で挑戦的なプログラムでした。リゲティの作品では、今年もイェルーン・ベルワルツさんの素晴らしいトランペットを聴くことができました。ブラームスのレクイエムでは、金井勇さんの編曲が、作品の特徴を巧みに生かしていたのが印象的でした。イレー・スーさんの豊かな歌と合唱の力演にも感銘を受けました。今年の武生国際音楽祭に寄せられた作品とその演奏は、今までにない高い水準を示していたのではないでしょうか。ここが今まさに生まれつつある音楽の中心の一つだという思いを新たにしました。このことが広く認知されて、来年30回の節目を迎えるこの音楽祭に、さらに多くの人々が集まることを願っています。

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細川俊夫のオペラ《地震・夢》の世界初演に接して

2018-07-02 00-27地表の揺れは収まった。今や自然現象としての地震は、過ぎ去ったのかもしれない。しかし、大地の揺れとそれがもたらした空が閉じるほどの破壊の衝撃は、けっして過ぎ去ることはない。動揺のなかで心のなかに刻まれた地震の爪痕は、余震のようにその記憶を回帰させ続ける。いくつもの夢として。細川俊夫のオペラ《地震・夢》のドイツ語の原題„Erdbeben. Träume“は、このことを暗示しているのではないだろうか。その舞台では、地震とそれに続くおぞましい出来事のなかで孤児となった一人の少年が、余震としての夢を辿り、赤ん坊の頃に自分が、そして生みの親が何を体験したのかを目の当たりにする。この少年の名はフィリップ。ハインリヒ・フォン・クライストの小説「チリの地震」で、ジェロニモとジョセフェの禁断の愛によって生まれ、この両親が虐殺された後、息子を殺されたエルヴィーレとフェルナンドの夫妻の養子となった子どもである。

2018年7月1日にシュトゥットガルト州立歌劇場で世界初演を迎えた《地震・夢》のリブレットは、「チリの地震」を基に、現代ドイツを代表する作家マルセル・バイアーの手によって書かれた。バイアーのテクストは、クライストの小説の基本的な結構と筋を生かしながらも、その作品世界を詩的に、いくつもの夢の世界として展開させている。当然ながら、それによってテクストに加わる抒情性は、登場人物に歌う声を与えるのみならず、1647年にチリで起きた大地震の歴史的文脈を離れて、地震とそれに続く出来事を、身近で起きたこと、あるいは起きうることとして想像する余地をも開いている。そのような台本を響かせる細川の音楽は、それ自体として夢の世界の内奥へ観客を引き込む回路をなしていると言える。観客はフィリップとともに、いくつもの夢として回帰する地震とそれに続く出来事を潜り抜けるのだ。

全18景から成る《地震・夢》の最初の情景は、不穏な風の音が渦巻くなかに開かれる。2016年1月27日にハンブルクで初演された《海、静かな海》は、激しい打楽器の前奏から始まったが、《地震・夢》は、オラトリオ《星のない夜──四季へのレクイエム》(2010年)のように、死者の吐息のようでもある風音とともに始まるのだ。やがて地の底から衝撃を浸透させるかのような打撃音とともに鳴り始める管弦楽の響きは、大地の底知れぬ力のみならず、地震の後に起きる惨劇をも予感させる。その響きは、垂直的な深さと内的な密度の点で、これまでの細川の舞台作品で聴かれた管弦楽の響きのそれを凌駕するように思われる。そのような管弦楽の響きの強度が随所に生かされているのが、《地震・夢》という作品の特徴と言えよう。なかでもそれが際立つのが、三つの「オーケストラのモノローグ」である。「震動、津波」、「生」、「死」とそれぞれ題された三つの「モノローグ」は、かつて起きた、そして今夢見られている出来事の「独白」と言えるかもしれない。これらは、劇の進行を中断しながら、出来事そのものへ観る者を引き入れる。

「震動、津波」では、地の底から湧き立つ打楽器を中心とした響きが、すべてをなぎ倒し、洗い流す力が渦をなすさまだけでなく、その力が破壊の後も渦巻きながら漂っているさまをも表わしているようだったし、「生」では、災厄の後にこそ人が抱く生きることへの渇望が響いているようだったが、これら以上に印象深かったのが「死」の音楽である。コンスタンツェ、ジェロニモ、ジョセフェ、そして乳児──フェルナンドとエルヴィーレの子である──が虐殺された後で、これら四人を哀悼するその深沈とした響きは、アルバン・ベルクの《ヴォツェック》の幕切れ近くのアダージョを思わせながら、災厄のなかで非命の死を強いられること、そのことに対する哀しみを深淵から湧き上がらせる。その響きは、《地震・夢》という作品の核心をなすものとさえ言えよう。シルヴァン・カンブルランの指揮による歌劇場のオーケストラは、深い息遣いでこの哀悼の音楽を響かせていた。細川のオラトリオ《ヒロシマ・声なき声》の初演を手がけ、その音楽を熟知したカンブルランの指揮の下、オーケストラは終始緊密なアンサンブルで、《地震・夢》の音楽の特色をいかんなく発揮させていたと思われる。

今回の初演においては、管弦楽とともに、オペラ雑誌『オーパンヴェルト』で2017年の最優秀のアンサンブルに選ばれた合唱団の素晴らしさも特筆されるべきであろう。集団としての歌唱の力強さと、一人ひとりの演技力によって、災害の後のユートピアとしての分け隔てない連帯の発生と、その連帯の集合的な狂気への転化とが、説得的に表現されていた。大規模な合唱がひとまとまりの集団として活躍するのも《地震・夢》というオペラの特徴であるが、シュトゥットガルトの合唱団は、それを舞台上に見事に発揮させていたと思われる。合唱団は、そのように群衆として動くのみならず、舞台裏で風の音とともに、無名の死者たちのように舞台上の登場人物に語りかける。合唱のこうした影のコロスとでも言うべき役割も忘れられてはならないはずだ。その息遣いに乗って、愛を語るにしてもどこか不安に駆られたアリアや重唱が繰り広げられるのも、このオペラの特色と言えよう。

歌手のなかでは、エルヴィーレ役を歌ったゾフィー・マリリーが、第11景の「告別のアリア」を哀しみの籠もった声で響かせて、とくに印象深かった。ジョセフェ役を歌ったエステル・ディルケスと、ジェロニモ役を歌ったドミニク・グローセの絶望の表現も、切々とした感銘深いものだった。とはいえ、主要な登場人物を演じた歌手たちは、それぞれ単独でと言うよりは、合唱を含めたアンサンブルのなかで、演技力を含めたその美質を発揮させていたように思われる。そして、そこにはドラマそのものを、登場人物の布置として表現されるアンサンブルによって表現し、そのなかで個々人の歌唱力と演技力を生かす、ヨッシ・ヴィーラーの演出上のコンセプトも表われていたと考えられる。ヴィーラーと、ドラマトゥルクのセルジオ・モラビトのシュトゥットガルトでの最後の協働による《地震・夢》の緊密な舞台は、一時の階級なき社会を生への渇望に満ちたものとして、また扇動された群衆の狂気を鬼気迫るものとして描き出すことに成功していた。

このように共生へ向けた連帯と、虐殺への狂気とが現出する場として、舞台上に据えられた橋が重要な役割を果たすわけだが、アンナ・フィーブロックによるその装置は、その手前に据えられたコンクリート造りに見える建物の廃墟を含め、日本の震災で津波に洗われた橋を思い起こさせずにはおかない。彼女を含めたシュトゥットガルトの《地震・夢》の制作チームは、福島を訪れ、震災に遭う経験への省察を深めてきた。それが、舞台装置とそれを生かしたドラマの表現に生きていたのではないだろうか。装置は、全体として上下に動くように造られていたが、その揺れるような運動のなかに横たわる、大地の猛威に曝された剝き出しの身体は、津波の後で波間に漂う屍のようにも見えた。そして橋は、能舞台の橋懸かりを思わせるかたちで、一貫して敷居の役割を果たしていたのではないだろうか。それはまず、舞台上で繰り広げられる夢の世界への敷居であると同時に、連帯から排他的な集合的な狂気への敷居の役割も果たしている。そこに立って、災厄とそれに続く惨劇を目の当たりにすることは、幼い子どもには確かに辛い体験である。原サチコが黙役で演じたフィリップは、それに対する抵抗を示しながら、厳しい葛藤を経て、最後には自分がかつて記憶の彼方で体験したことを引き受けようとしていたのではないだろうか。

それにしても、狂気に駆られた群衆が現出させる惨劇は凄惨きわまりない。その凄まじさは、「サディスティックな少年」と名づけられた児童合唱が加わることで増幅されていよう。クライストの原作では虐殺そのものの下手人であるペドリーリョは、バイヤーの台本では、原作における司祭の役割も含みながら、群衆の煽動者となるわけだが、その役を歌ったトルステン・ホフマンの演技力も際立っていた。ペドリーリョの演説によって焚きつけられた群衆が、コンスタンツェ、ジェロニモ、ジョセフェ、そして乳飲み子の四名に襲いかかる様子は、音楽の高まりと相俟って恐ろしいまでの勢いを示していた。そのような虐殺への狂気に駆られた群衆に関して、今回の舞台では反ユダヤ主義との結びつきが暗示されていた──虐殺の現場に、キッパに似た帽子が投げ捨てられていた──と思われるが、日本の震災の廃墟を思わせる装置の上で惨劇が演じられるのを目の当たりにするとき、関東大震災の際の朝鮮人やアナーキストなどの虐殺や、それを反復する火種を孕んだ被災地でのデマの拡散を思わずにはいられなかった。舞台上の橋は、異質な他者を虐殺する──それは社会的に抹殺することも含まれよう──群衆の狂気を、未だ過ぎ去らない問題として受け止めることへ、観る者を導く役割も果たしているのかもしれない。

装置としての橋と緊密なアンサンブルを繰り広げるかたちで、《地震・夢》というオペラにおいてまさに橋の役割を果たすのが、細川の音楽である。プログラムに寄せられた文章のなかで細川は、自身の音楽を能の橋懸かりに準えている。その点で、《地震・夢》において、彼の能の精神にもとづくオペラの基本的なコンセプトは、音楽の内部に凝縮されていると言えよう。それは、オーケストラによる「死」のモノローグが示すように、地震とそれに続く出来事の犠牲者への哀悼を音楽に浸透させ、死者を橋としての舞台に回帰させること──それは細川のオペラのある意味で反オペラ的な特徴である──に結びついている。このことが、《地震・夢》においては、地震とその後の出来事の記憶を、いくつもの夢として描くバイアーの台本のコンセプトと呼応しているにちがいない。その最も際立った特徴が、死者に声を与えていることである。最後の場面で霊魂と化したジョセフェとジェロニモは歌う。「ある者は獣が鳴くのを聞く。別の者は……」と。確かに東日本震災の死者たちは、避難区域に取り残された家畜の声を聞いているはずだ。

36465733_1626825124112935_4303460576647970816_n《地震・夢》というオペラは、橋懸かりとしての音楽を軸としたアンサンブルとして、18の相を示す一つの橋をなしていると考えられる。それは、地震に遭い、その後の惨劇に直面した死者たちの記憶の世界──それは、悪夢を含んだ「いくつもの夢」である──のただなかへ観る者を導きながら、死者への哀悼から今ここにある危険を見通す回路を指し示している。満場の歓呼によって迎えられたその初演によって、細川とバイアー、そしてシュトゥットガルトのアンサンブルは、クライストがその小説の緊密なテクストのなかに描き込んだ要素を、深い嘆きを含んだ現代の詩的な表現──それは広い意味で「うたう」ことである──によって舞台上に解き放ったうえで、震災をはじめとする災害と、群衆による虐殺を歴史的に経験した後に、他者たちのあいだに生きることへの深い問いかけに再結晶させたと言えよう。

五月の音楽

32266933_1882631815122515_1986807641556385792_n早いもので、もう五月が終わろうとしています。広島では、ここのところ梅雨の訪れを感じさせるじめじめとした気候が続いています。今年も気の滅入る季節が巡って来たようです。それにしても、四月に年度が改まってからは慌ただしかったです。ここに至るまで、振り返る暇もないほど雑事に追われておりました。そのために報告がすっかり遅くなってしまいましたが、5月18日には、「魔術としての音楽」というテーマの下、Hiroshima Happy New Earの第25回の演奏会が、JMSアステールプラザのオーケストラ等練習場にて開催されました。開演前に土砂降りの雨が降るなど悪天候に見舞われましたが、会場には多くの熱心な聴衆が集まりました。主催組織のひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、ご来場くださったみなさまにあらためて心より感謝申し上げます。

さて、今回のHiroshima Happy New Earでは、歌うこと、ないしは声を発することの根源として、現代の作曲家があらためて秘教的な儀式の姿に着目し、そのなかで音楽の可能性を探究したことを示す作品が中心となりました。なかでも、《山羊座の歌》をはじめとするジャチント・シェルシの作品を、その研究を重ねて来られた太田真紀さんの声で聴けたのは、実に貴重でした。《山羊座の歌》からの抜粋を演奏される際に、太田さんは、シェルシとともにこの作品を作り上げたと言っても過言ではない、平山美智子の形見の衣裳を着ておられました。それによって、彼女とシェルシのあいだで生成する歌の魂をも引き受けようとするかのような、非常に求心力の強い演奏を聴くことができたのは、忘れがたい体験となりました。時にノイズに限りなく接近するほどの多彩さを持った声が、空間を揺さぶり、その揺らぎのなかから声の新たな響きが生じ、さらには打楽器をはじめ他の楽器の音と呼応する過程に引き込まれました。

それは、太田さんの声の表現が、非常に大きな振幅を示していただけでなく、彼女の声そのものが、各作品の音楽の核心を捉えていることを示す芯を具えているからではないでしょうか。そのことは、とくに細川俊夫さんの《スペル・ソング》と《三つの愛の歌》の各曲を、ひと筋の線を描く歌として響かせることに結びついていたと思われます。とくに後者では、和泉式部の断ちがたい思いの強さが、歌の強度となって響いていたのではないでしょうか。そのことと同時に特筆されるべきは、大石将紀さんのサクソフォンの素晴らしさです。柔らかなピアニッシモから、空間を深く揺さぶるフォルティッシモに至るまで、豊かな、そして歌心に満ちた音色を一貫させる演奏で、とくにルチアーノ・ベリオの《セクエンツァ》の一曲を聴けたのも忘れがたいです。細かなモティーフが、それ自身のうちから発展していくことによって織りなされる15分に及ぶ音楽が、間然することなく、一つの歌として響いていました。

今回のHiroshima Happy New Earでとりわけ印象深かったのは、細かなモティーフを基に発展していく独唱ないし独奏の音楽が、それ自身の響きによって一つの儀式的な空間を形成していたことでした。魔術的な結界でもあるような時空間を織り直す音楽の力にも触れることができました。この五月には、そのようなHiroshima Happy New Ear以外に、新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く機会もありました。指揮は、今年85歳になるというミシェル・プラッソン。彼の演奏には主にディスクをつうじて親しんできましたが、その最近の充実ぶりは、サン゠サーンスの「オルガン」交響曲などが取り上げられたパリ管弦楽団の演奏会(サル・プレイエル)や、パリのオペラ座(バスティーユ)でのグノーの《ファウスト》の指揮をつうじて実感してきたところです。今回の演奏も、非常に内容の濃いものでした。

サントリーホールで行なわれた新日本フィルハーモニーの第589回定期演奏会は、ドビュッシーの《夜想曲》からの二曲(「雲」と「祭り」)と神秘劇《聖セバスティアンの殉教》からの交響的断章、そしてフランクの交響曲ニ短調というプログラムでしたが、この二人の作曲家が書いたすべてのフレーズに、いやすべての音に息が吹き込まれた素晴らしい演奏でした。微かなピツィカートの音からも気配が感じられます。柔らかな響きが徐々に色合いを変えていく動きが、外界と内面の照応を感じさせる《夜想曲》からの「雲」も、聖性を強調するコラール風の響きが、どこか艶めかしい身体性も感じさせる《聖セバスティアンの殉教》からの音楽も、非常に印象的だったのですが、何と言ってもフランクの交響曲が、圧倒的な印象を残しました。音楽そのものの息遣いを生かした緩急によって見事に歌い上げられた交響曲を聴くことができました。

深沈とした最初の動機から、すべてのフレーズが深い情感を湛えながらしなやかに歌い継がれていくだけでなく、そのあいだに絶妙の間合いがあって、それが実に自然な音楽の流れに結びついていました。緩徐楽章のコーラングレによる主題が、楽章の後半でもう一度歌われる際に、プラッソンがぐっとテンポを落としたのには驚かされましたが、それによってこの主題の寂寥感がいっそう際立っていました。曲の終わりで、この主題を含めた先行の主題が回帰して、輝きと香気に満ちた響きのなかに掬い取られていくのには心からの感動を覚えました。終演後の様子では、プラッソンも演奏に心からの満足を覚えていたようです。フランス近代音楽の精髄が生き生きと響いた演奏会だったにもかかわらず、聴衆の入りが少々寂しかったのだけが残念でした。プラッソンは、日本では未だ「知る人ぞ知る」存在なのかもしれません。

この五月には、音楽を聴くだけでなく、自分で演奏に加わる機会もありました。妻が続けている弦楽四重奏のグループでヴィオラを弾いておられる方が、ご家族の事情で、今日廿日市市文化ホールさくらぴあの小ホールで行なわれた「五月の風」という室内楽合同発表会に、直前に出られなくなってしまったため、急遽代役で出演することになったというわけです。曲はモーツァルトの「狩り」の名で知られる弦楽四重奏曲第17番変ロ長調。長いこと楽器に触れていなかった身には相当にチャレンジングな曲で、今日の演奏も反省すべき点だらけの出来でしたが、練習で何度か合わせるうちに、曲の魅力を感じられるようになってきたのも確かです。とくに第三楽章のアダージョは、本当に美しい音楽だと思います。作品の美質を演奏で深める余裕が、時間的にも技術的にもなかったのは非常に残念でしたが、これに触れる機会をいただけたのには感謝しています。できれば、ヴィオラを弾くことも細々と続けたいものです。

DecUUDOVQAAKsfRところで、ひろしまオペラ・音楽推進委員会が主催するひろしまオペラルネッサンスの今年の公演で取り上げられるのは、モーツァルトのオペラ・セリア《イドメネオ》です。トロイア戦争後のクレタ島を舞台とするこの中期の作品は、ダ・ポンテ三部作などの後期のオペラに比べると馴染みが薄いかもしれませんが、二十代半ばのモーツァルトが並々ならぬ意欲をもって書いた音楽と、それによる人物描写の密度などから、近年再評価が高まっています。四年前に東京二期会が現代的な演出で取り上げたのも、記憶に新しいことでしょう。そのような《イドメネオ》という作品に、岩田達宗さんの演出と、広島交響楽団の音楽監督である下野竜也さんの指揮がどのようにアプローチするのか、非常に楽しみなところです。9月22日(土)と23日(日)に予定されている《イドメネオ》の公演についても、随時お伝えしていきたいと思います。ぜひご期待ください。

細川俊夫のオペラ《松風》の日本初演について

スキャン厳しい寒さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。ここ広島でも朝晩は氷点下の日が続いていますが、このようなことは初めてです。北陸から北日本にかけては、ここ数日大変な大雪が降って、すでにさまざまな被害が出ていると聞きます。心よりお見舞い申し上げます。それにしても早いもので、すでに二月も中旬にさしかかっています。新国立劇場で行なわれる細川俊夫さんオペラ《松風》の日本初演が一週間後に迫りました。《松風》の公演は、2月16日(金)、17日(土)、18日(日)の三日間、新国立劇場オペラパレスにて開催されます。16日が19:00開演で、17日と18日が15:00開演です。この公演について、私からもいくつかお伝えしておきます。

今回の《松風》の公演の舞台は、2011年5月に行なわれたブリュッセルでの世界初演と同じ、舞踊家にして振り付け師であるサシャ・ヴァルツさんの演出と振り付けによるものです。ブリュッセル、ワルシャワ、ルクセンブルク、ベルリン、リールで上演が繰り返され、一昨年の秋には香港でも上演されたこの舞台が、7年近くの時を経て東京で披露されることになります。海に象徴される自然と魂の内的な共鳴を響かせる細川さんの音楽、歌手や合唱も一体となったサシャ・ヴァルツ&カンパニーの身体表現、そして塩田千春さんのインスタレーションが緊密に結びついたプロダクションは、《松風》というオペラの原型を示すものでしょう。そもそもこのオペラ自体、ヴァルツさんと細川さんの邂逅と緊密な交流のなかから生まれた作品と言えます。

スキャン 1このオペラにおいては、世阿弥の「松風」を題材としながら、その要素を新たなオペラの形式原理に昇華させることによって、ニーチェの顰みに倣うなら、能の精神からのオペラの姿が、先日広島で上演された前作の《班女》よりさらに深化されています。とくに死者の魂が地上に降り立ってその苦悩を歌い、舞うなかで他者の魂と結びいて浄化されるという垂直性を含んだ過程が、時間的な音楽の展開と空間的な身体の動きが緊密に結びついたかたちで、かつ彼岸と此岸の橋渡しを含んだ仕方で表現されることは、《松風》の際立った特徴の一つと考えられます。このことが、オペラそのものの新たな地平を切り開いたことは、初演のプロダクションのヨーロッパ、そして香港での成功が物語るとおりです。「松風」という能を、東洋に生まれた者ならではの感性と現代の音楽の思考をもって内奥から摑むことから生まれた新たなオペラを、ついに東京で経験できるのです。そのことが、日本列島からの新たな創造の契機になってほしいものです。

《松風》というオペラは、2011年3月11日に起きた東日本大震災と、それに続く福島第一原子力発電所の事故によって動揺した後の世界に送り出されました。死者の嘆きが、あるいは死者を内に抱えることの苦悩が、松風と村雨の歌に象徴されるように心の底から語り出されるとともに、二人の魂に遭遇する旅の僧の存在が示すように、それを受け止める者がいるということの重要性は、震災以後ますます高まっていると思われます。そのことを噛みしめる意味でも、《松風》が日本で上演されることには大きな意義があるのではないでしょうか。音楽の愛好家、オペラや現代舞踊の愛好家のみならず、多くの人が《松風》の上演を体験されることを、心から願っております。新国立劇場のWebボックスオフィスによりますと、初日の16日と楽日の18日の公演には、まだ少し席に空きがあるようです。

今回の《松風》の公演に出演する歌手にも期待されます。松風と村雨の役を歌うイルゼ・エーレンスさんとシャルロッテ・ヘッレカントさんは、サシャ・ヴァルツの演出によるプロダクションですでに歌ったことのある歌手ですし、私も二人の声を一度聴いています。なかでも昨年武生国際音楽祭で聴いたエーレンスさんの澄みきっていながら芯のある声は、鮮烈な印象を残しました。松風の役にぴったりの歌手と言えるでしょう。この二人の歌手も一体となった、サシャ・ヴァルツ&カンパニーの舞踊もさることながら、その場を織りなす塩田千春さんの舞台美術も魅力的です。現在、塩田さんの新作展も、東京のケンジタキギャラリーにて開催されているとのことです。美術も含めて、初演に続くベルリンでの2011年夏の公演以来、ほぼ7年ぶりに《松風》の舞台に接することができるのを、心から楽しみにしているところです。

このように魅力的な新国立劇場の《松風》の公演を、はなはだ微力ながら少しお手伝いさせていただいてることを、身に余る光栄と感じております。すでに1月10日には、公演のプレ・イヴェントとして国立能楽堂で開催された座談会「能とオペラ──『松風』をめぐって」の末席に加わらせていただきました。2月17日(土)の公演の終演後には、細川俊夫さんとサシャ・ヴァルツさんをお迎えしてのアフター・トークも計画されておりまして、その聞き手役を仰せつかっております。《松風》日本初演の手応えとともに、作品の成立過程や特徴などについてお話をうかがえればと考えて準備を進めております。なお、このトークには、16日か18日のチケット(半券)でも入場できるとのことです。それから、公演プログラムには、オペラ《松風》を一つの結節点とする細川俊夫さんの音楽の歩みを綴ったエッセイを寄稿させていただきました。公演へお越しの際にご笑覧いただけたら幸いです。

広島での細川俊夫のオペラ《班女》公演のお知らせなど

59ed522f77a14早いもので、年が明けてからすでに20日が過ぎました。ここ数日は穏やかな気候が続きましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。広島では、Hiroshima Happy New Ear Opera IIIとして開催される細川俊夫さんのオペラ《班女》の公演が一週間後に迫りました。この公演の主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、まずはこの公演をご案内申し上げます。《班女》の公演は、1月27日(土)と28日(日)の二日にわたり、キャストを替えて開催されます。会場は広島市中区のJMSアステールプラザの中ホールで、そこに備え付けられている能舞台を用いて上演が行なわれます。開演は、両日とも14時からで、およそ90分の上演(休憩はありません)の後にはトークも行なわれます。

広島で細川さんの《班女》が上演されるのは二度目です。2012年に行なわれたHiroshima Happy New Ear Opera Iの公演で取り上げられたのがこの作品で、その際には、先日パリで初演された細川さんの室内オペラ《二人静》の原作と演出を手がけた平田オリザさんによる演出でした。今回の公演で演出を受け持つのは、全国各地で一人ひとりの登場人物を音楽とともに力強く生かすオペラの舞台を作り上げている岩田達宗さんです。昨年のひろしまオペラルネッサンスの公演でもモーツァルトの《コジ・ファン・トゥッテ》の素晴らしい舞台を届けてくれた岩田さんが、能に特有の身体性と原作の「近代能」としての特性を生かしながら、どのような現代人のドラマを提示するか、大いに期待されます。

59ed522fc9530指揮を受け持つのは、2012年の《班女》以来、オペラをはじめ細川さんの作品の数々を手がけてきた川瀬賢太郎さん。いっそう深まった解釈によって、夢想と現実が交錯するこのオペラの音楽の美質を研ぎ澄まして届けてくれるにちがいありません。歌手には、前回のプロダクションでも素晴らしい歌を聴かせてくれた半田美和子さんと藤井美雪さんに、2015年の《リアの物語》の公演で活躍した柳清美さん、折河宏治さん、山岸玲音さん、それに2014年のひろしまオペラルネッサンスの公演で素晴らしいカルメンを聴かせてくれた福原寿美枝さんが加わります。キャストの異なる二公演を比べるのも一興でしょう。最近進境著しい広島交響楽団のメンバーによるアンサンブルが加わるのも魅力的です。

三島由紀夫が世阿弥の「班女」を翻案して『近代能楽集』に収めた能を原作とし、ドナルド・キーンによるその英訳をリブレットに用いた細川さんのオペラ《班女》の音楽は、夢想と現実を往還しながら、人が「狂気」と呼ぶ心境のうちにある深い憧れと鋭い洞察を、書の線を描く歌によって響かせるとともに、夢想と現実の相克を抉り出します。2018年の広島での公演では、その現代のオペラとしての新たな魅力が能舞台の上に照らし出されるに違いありません。この能舞台を使っての稽古も重ねられて、準備にもいっそう熱が入っています。お見逃しのないよう、お誘い合わせのうえお越しください。広島県内はもとより、九州、そして関西や関東からも日帰りで、あるいは旬の広島の牡蠣を楽しむことを込みにした小旅行を兼ねてお越しいただけることでしょう。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。なお、今回の《班女》の公演のプログラムにも、作品解説の小文を寄稿させていただきました。

能とオペラちらし(アトレ会員用)さて、2月の16日から18日にかけては、今度は新国立劇場で細川さんのオペラ《松風》の日本初演が行なわれるわけですが、1月10日にはそのプレ・イヴェントとして国立能楽堂で開催された座談会「能とオペラ──『松風』をめぐって」に参加しました。前半には、能の「松風」より「汐汲みの段」と「狂乱の段」が舞囃子形式で上演され、後半には、これらの場面に対応するオペラ《松風》の上演記録映像の上映と、能とオペラ双方の「松風」をめぐる座談が行なわれました。その座談の末席に加わらせていただき、多くの刺激を受けました。前半では、銕仙会主宰の観世銕之丞さんの見事な謡と舞、そして法政大学能楽研究所の宮本圭造さんの解説によって、世阿弥の「松風」において謡うことと謡われる言葉、そして身体的表現が緊密に組み合わさっていることがよく伝わってきました。

また、能の上演を見た後でオペラの《松風》の上演映像を見ることで、細川さんとサシャ・ヴァルツさんが、謡うことと舞うことの結びつきを、独自のアプローチで現代のオペラに生かしていることも、あらためて考えさせられました。座談のなかで細川さんが、歌うことにおける遠く隔たった他者、ないしは死者との交感の可能性に触れておられたことと、どのような演出にも耐える強度に貫かれた音楽を書くという、オペラにおける作曲家の使命を語っておられたことは、噛みしめておかなければと思います。それから、オペラと能の双方を現代の芸術として生かし続けるためには、一見「わからない」ものに敢えて飛び込んで、それを自分のなかで深めていけるような若い人々を育てることと、そのような人々が集う場を作ることの双方が必要であることも、座談のなかで議論されました。議論の概要とダイジェスト版の映像は、すでに新国立劇場のウェブサイトの「公演関連ニュース」にて紹介されております。

今月は、この他にも座談の場に加わる機会が二度ありました。1月13日には、カフェ・テアトロ・アビエルトで佐藤零郎監督の新作映画『月夜釜合戦』をめぐる座談に、行友太郎さん、崔真碩さん、森元斎さんとともに参加しました。この日アビエルトでは、毎年『山谷(やま)やられたらやりかえせ』の上映会が開催されています。この映画の共同監督の一人山岡強一の命日に因んで行なわれるものです。すでにこの上映会で三度『山谷』は見ていますが、見るたびに今と結びつけて新たに考えさせられるものがあります。その問題は、年を追うごとに深刻なものになってきている気もします。

0113今年の上映会では、この『山谷』に加えて『月夜釜合戦』が上映されたわけです。山谷とともに代表的な寄せ場として知られる大阪の釜ヶ崎を舞台にした「釜」をめぐる騒動を通して、そこに生きるさまざまな人々のしたたかにして愛すべき生きざまを、ジェントリフィケーションが進む以前のこの街への哀惜も込めて鋭く浮き彫りにするこの劇映画は、痛快ななかに込み上げてくるものがある作品でした。『山谷、やられたらやりかえせ』と併せて見ることで、『月夜釜合戦』が、この映画の呼びかけにドラマをもって応えているところがよく伝わってきました。手つきをはじめとする身振りへの着目は、これらの作品に通底するところでしょう。歴史の流れを食い止めるような強度を持った人間の身体の躍動を、釜ヶ崎での生活のなかに浮き彫りにするこの作品が、広島で劇場公開されるのが待ち遠しいところです。

Komori&Seo_Postcard1月16日(火)には、Social Book Cafe ハチドリ舎で、広島市現代美術館で開催中の小森はるか+瀬尾夏美「波のした、土のうえ」巡回展のスピンオフ企画のトーク・セッションに、進行役として参加しました。ナイトトーク「仙台から/広島から」と題して開催される今回のセッションには、小森さん、瀬尾さんの他、同じく現代美術館で開催されている特別展「交わるいと──『あいだ』をひらく術として」に興味深い作品を出品されている平野薫さんが座談に加わりました。ともにある場所に生きることのうちに、あるいはそのなかで着古された服に沈澱した記憶の痕跡を辿り、みずからを繰り広げるようにその記憶を解きほぐしていくような創作に取り組まれているアーティストたちの人と人の関係のなかでの活動について、とても刺激的なお話を聴くことができました。

現代美術館での「波のした、土のうえ」巡回展も非常に興味深いです。二人で陸前高田市を訪れたことをきっかけに結成された小森さんと瀬尾さんの「アート・ユニット」が、詩、絵画、ヴィデオ・アートなどいくつものメディアを駆使して、路地や浜辺などで聴き取った被災地に生きる、あるいは生きていた人々の物語を、さらにはその風景を細やかに描き取った作品や、現在進行形の記録などが展示されています。特別展「交わるいと」と併せてぜひご覧ください。ここでご紹介したような、芸術を通してこの世界に、この時代に、死者のことを忘れることなく生き延びることを、さらにはその自由を考える場で、今年もみなさまとご一緒できることを願っております。日曜から週明けにかけて、強い低気圧が日本列島を通過して天気が荒れるとも聞いております。お身体にお気をつけてお過ごしください。