武生国際音楽祭2017に参加して

Takefu-International-Music-Festival-2017-Leaflet第28回目を迎えた武生国際音楽祭2017に、今年は作曲ワークショップの特別ゲストとして参加させていただきました。9月13日に武生に入ってから17日の音楽祭最終日まで、数多くの演奏会とレクチャーに接することができて、とても言葉では言い尽くせない多くの刺激を受けることができました。この音楽祭の重要な特徴をなすワークショップでは一回レクチャーを持たせていただきましたが、それをつうじて、私のほうが学ぶことが多かったです。このような機会を設けてくださった武生国際音楽祭の音楽監督の細川俊夫さん、コンサート・プロデューサーの伊藤恵さん、そして理事長の笠原章さんをはじめとする武生国際音楽祭推進会議のみなさまに、まずは心から感謝申し上げます。本当にお世話になりました。

5日にわたって聴かせていただいた演奏会は、どれも印象深いものでしたが、とくに9月14日の夜に聴いた「マエストロの調べ──イリヤ・グリンゴルツを迎えて」、15日の夜に聴いた「細川俊夫と仲間たち」、そして最終日の17日に聴いた「ユン・イサンの音楽──100年目の誕生日に寄せて」は、忘れがたい演奏会となりました。まず、細川俊夫さんの作曲の師であった尹伊桑の百回目の誕生日に行なわれた「ユン・イサンの音楽」では、深い吐息とともに発せられた一つの音が、自己自身を拡げながら渦巻くように力強く発展していくこの作曲家の音楽の凝縮された姿を、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラの独奏のうちに聴くことができました。一つの音に潜在する響きを聴き出しながら、書の線として展開する細川さんの音楽の源泉の一つがここにあることがあらためて実感されました。

なかでも、尹が十二音技法を用いながら、この西洋音楽の論理の展開に、朝鮮半島の伝統的な音楽や朗唱の要素によって息を吹き込んだ1963年成立の二つの作品、フルートとピアノのための《ガラク(歌楽)》、ヴァイオリンとピアノのための《ガーザ(歌詞)》の音楽の凝縮度の高さには目を瞠りました。演奏会の冒頭で細川さんが、日本の植民地主義によって言語を奪われた経験を持つ尹は、自身の音楽のうちに自分自身の言葉を求めていたと語られたのを感銘深く聴きましたが、これらの二つの作品で尹は、やがて彼自身にも及ぶことになる軍事政権の圧政のなかで、魂が息づく余地を、作曲の方法を突き詰めながら切り開こうとしているように聴こえます。そして、そのような作曲の基本的な姿勢は、今あらためて顧みられる必要があるのではないでしょうか。とりわけ、張りつめた静けさのなかを一段一段上って、言わば舞台の上で音の舞いを羽ばたかせた後、静かな祈りへ還っていく過程を示す《ガラク》の音楽を、温かさと強さを兼ね備えた音で歌い抜いた上野由恵さんのフルートには心を動かされました。上野さんは、無伴奏フルートのための《エチュード》からの三曲でも見事な演奏を聴かせてくれました。

尹の《ガーザ》で、静かな息遣いが徐々に熱を帯びて、忘我の朗詠にまで高揚していく過程を、美しい音で、かつひたひたと迫り来るような緊張感を持って表現したイリヤ・グリンゴルツさんのヴァイオリンには、今回の音楽祭で最も驚嘆させられました。14日の「マエストロの調べ」で彼は、伊藤恵さんの豊かな歌を持ったピアノのサポートを得ながら、シューベルトのイ短調のソナチネとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「クロイツェル」の完璧と言って過言ではない演奏を披露してくれましたが、連綿と連なっていくかのような旋律線のなかに起こるドラマを、恐ろしいまでの凝縮度を具えた音楽に造形したシューベルトのソナチネの演奏は、とくに感動的でした。ベートーヴェンの「クロイツェル」ソナタでは、それぞれのフレーズの特質を繊細な感覚で生かしながら、音楽の自然な流れを造形する演奏に感銘を受けました。この曲の両端楽章の躍動も実に魅力的でしたが、その途方もない振幅のなかで澄んだ響きが保たれているのにも驚かされます。13日の夜には、グリンゴルツさんは、見事としか言いようのないパガニーニのカプリースの演奏も披露してくれました。

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珠寳さんによる、水辺から野への歩みと夏から秋への季節の変化を、儚さを感じさせるかたちに表現した引接寺での作品。

15日から16日にかけては、「細川俊夫と仲間たち」の演奏会と「新しい地平」シリーズで、同時代の数多くの作品を聴くことができましたが、とくに「細川俊夫と仲間たち」では、今まで実演に接することのできなかった細川さんの作品を聴くことができて嬉しかったです。なかでも、メシアンの《世の終わりのための四重奏曲》と同じ楽器編成で書かれた《時の花》では、弦楽器とクラリネットが織りなす柔らかな響きの層のなかにピアノの音が静かに打ち込まれることによって、時の動きが始まり、その動きが、分割不可能な時のなかで過去と現在が絶えず浸透し合うのを象徴しながら、渦巻くように高まっていく一連の動きが実に美しく響きました。また、フルートと弦楽三重奏のために書かれた《綾》における、フルートとヴィオラの深い息遣いをもった歌の掛け合いが、やがてどこか取り憑かれたかのように激しい動きへと高揚していく音楽の推移も、聴き手の心を渦のなかへ巻き込んでいくような強さを示していたと思います。これらの二曲を含む細川さんの作品は、毎年武生国際音楽祭で活躍している音楽家が構成する「タケフ・アンサンブル」によって、今年の10月にヴェネツィア・ビエンナーレでも披露されることになっています。

同じ「細川俊夫と仲間たち」で聴いたイザベル・ムンドリーさんの作品も印象深いものでした。とりわけ器楽アンサンブルのための《リエゾン》において、緊張感に満ちた持続のなかから、とても繊細で、しかも緻密に構成された響きが閃くのが印象的でした。《織る夜》においては、分割された声の構成的でかつニュアンスに富んだ扱いが、詩の壊れやすい世界を生かしていたと思います。この作品では、太田真紀さんの声が、こうした作品の特徴を見事に生かしていました。二日にわたって聴いた「新しい地平」シリーズのなかでは、陰翳に富んだ響きのなかから対がニュアンスを変えつつ生じてくる三浦則子さんの二台のピアノのための《二つの眼》や、笛と鼓を介した密やかな遣り取りが、声を通わせる対話に発展して、また遠ざかっていく金子仁美さんの《歌をうたい…I》などを面白く聴きました。これらの他に、ドイナ・ロタルさんのフルート独奏のための《JYOTIS》を、素晴らしい曲と感じました。東方教会とルーマニアの民俗音楽から得られた魅力的な歌の線に息が吹き込まれ、音楽の強度が増していくのが、マリオ・カローリさんの素晴らしい演奏によって聴衆に届けられました。彼は、尹の《ソリ》でも見事な演奏を聴かせてくれました。

こうした息遣いと深く結びついた音楽の力は、ヨーロッパの音楽の核心にあるものでもあるはずです。それがとても魅力的に発揮されたのが、16日夜の演奏会「珠玉の室内楽と魅惑の歌声」でした。なかでも、毛利文香さんと津田裕也さんが奏でたシューベルトの幻想曲の豊かな歌と感興に満ちた演奏は、敢えて「幻想曲」と銘打たれた作曲家晩年の作品の魅力を見事に伝えていたと思います。コーダの直前の歌の広がりと、そこからの追い込みには心を奪われました。こうして若い演奏家が自身の音楽を深化させている姿に接することができるのも、この音楽祭の魅力の一つでしょう。最終日の「ファイナル・コンサート」でのシューマンのピアノ五重奏曲の闊達な演奏や、先の「マエストロの調べ」におけるシューベルトの弦楽五重奏曲の躍動感と歌に満ちた演奏も、若い音楽家たちの成長を実感させるものでした。

16日夜の演奏会の最後に演奏された、イルゼ・エーレンスさんの独唱によるマーラーのリュッケルトの詩による五つの歌曲にも感嘆させられました。第4曲「私はこの世の人ではなくなった」と第5曲「真夜中に」における高揚には神々しいまでの輝きがありました。彼女は、来年2月に細川さんのオペラ《松風》の新国立劇場での日本初演で、タイトル・ロールを歌うことになっています。彼女は、「ファイナル・コンサート」でのブルックナーの《テ・デウム》でも独唱を務めましたが、自身のパートで見事な歌唱を聴かせるのみならず、合唱のパートもほぼすべて歌って、武生の人々の歌唱を支えていました。こうした姿勢に表われるエーレンスさんの人間としての温かさも、実に魅力的でした。彼女のサポートと相俟って、《テ・デウム》は力強く響いたと思います。台風が近づいていたので、最終日の演奏会への影響が心配されましたが、「ファイナル・コンサート」まで無事に盛況のうちに開催されたのは、実に喜ばしいことです。

作曲ワークショップでは、文学研究者にして音楽学者でもあるラインハルト・マイヤー゠カルクスさんと作曲家のイザベル・ムンドリーさんのレクチャーから多くを学ぶことができました。《アヴァンチュール》に代表されるリゲティの声の扱いとその背景にある前世紀の芸術運動について、細川さんの声の扱いの方法とその深化について、さらにムンドリーさんが音楽が生じてくる動きそのものに着目しながら作曲する方法や、その前提となる思想について興味深いお話をうかがいました。今回は、私もワークショップにて、「嘆きの変容──〈うた〉の美学のために」というテーマでお話ししました。困難な世界のなか、他者とのあいだで、そして死者とともに生きることを悲しみとともにわが身に引き受ける嘆きを掘り下げ、その嘆きを響かせるという観点から、〈うたう〉ことを、さらに言えば〈うた〉の出来事を、文学と音楽を往還するかたちで考察する内容のものです。慣れないことでいくつか反省点もありましたが、若い作曲家の方々にとっていくつか刺激になるものが話には含まれていたようで、後でいくつも質問をいただきました。その準備の過程では、学ぶことがとても多かったです。

このように、作曲家と演奏家にとって確かな手応えのあった、そして私にとっても刺激に満ちた今回の武生国際音楽祭に参加させていただいたことに、重ねて心から感謝申し上げます。また次回も、この音楽祭のために武生を訪れるのを、とても楽しみにしております。そして、この音楽祭が、武生の街における日常的な芸術の営み──それは、この街の至るところにある寺院やギャラリー、さらにはカフェのような場所で、美術作品の展示のみならず、詩的な作品の朗読やレクチャー、小さなパフォーマンスなどをつうじて行なわれうることでしょう──をつうじて、より深く人々のあいだに根づくことを願っております。音楽祭が開催された越前市文化センターの周りには、立派な図書館や子どもが遊ぶスペースが整えられていて、さまざまな背景を持った子どもたちの声が夕暮れ時まで響いていました。その声のなかに、武生の街の新たな文化の胎動があるのかもしれません。

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晩秋から初冬にかけての演奏会と仕事

早いもので、今年も残すところ二週間足らずとなりました。冬とは思えない、どこか生暖かい感じの気候が続いていますが、お変わりありませんか。私はと言いますと、今年はいつになく慌ただしい師走を過ごしているところですが、この一週間ほどは、広島を離れて自分の研究の位置を省みたり、世界的な研究の動向に触れたり、さらには現代世界の問題が凝縮している状況に接したりすることができました。そこからあらためて広島の現在についても考えさせられました。これについてはまた稿をあらためてお伝えすることにして、ここでは、11月下旬から12月初旬にかけて聴くことのできた演奏会と、それに関わる仕事のことをご報告することにします。

まず、11月21日と28日の二日にわたり、細川俊夫さんの還暦を記念して企画された「細川俊夫10×6還暦記念コンサート」を聴かせていただきました。細川さんが作品を発表し始めた頃からともに歩んできたアーティストや、これからの音楽を担う若いアーティストがみずからの音楽を携えて集い、細川さんの音楽をその原点から見つめ直す、還暦記念に相応しい連続演奏会でした。細川さんの音楽思想の四つのテーマを軸とした構成によって、細川さんの音楽思想の深まりを辿る場にもなったと思います。演奏会のウェブサイトとフライヤーにこの演奏会に寄せる小文を寄稿させていただいたことを、非常に光栄に思っております。

まず、印象的だったのが、両日の演奏会の冒頭に、和楽器の本曲の演奏が置かれたことです。尺八の音が空間全体を震わせながら立ち上がり、笙の音が幾重にも襞を拡げていくところに、細川さんの音楽の源にあるものを垣間見る思いがしました。沈黙のなかから生の息遣いとともに響き始め、空間と共振しながらひと筋の線を描いていく、空間と時間の書(カリグラフィー)としての音楽、それが日本の伝統のなかで追求されてきた音楽と深いところで呼応し合っていることを、アコーディオン独奏のための《メローディア》(1979年)のような最初期の作品からも、はっきりと感じ取ることができました。

今回の連続演奏会では、この作品をはじめ、とくに楽器の独奏のために書かれた作品が、細川さんの音楽が、「作曲するとは自分自身の楽器を作り上げることである」というヘルムート・ラッヘンマン(彼も最近80歳の誕生日を迎えたようですね)の理念を、彼の音楽とは異なったかたちで、時空の書の線を描くかたちで実現していることを、強く感じさせました。なかでも、フルート独奏のための《線》(1984/86年)の上野由恵さんの演奏は、細川さんの音楽の展開の大きな足がかりとなったこの作品の新たな可能性を感じさせる、素晴らしいものでした。また、ヴィオラ独奏のための《哀歌》(2011年)における赤坂智子さんの演奏は、東日本大震災の衝撃の後の細川さんの音楽の深まりを歌心をもって響かせる、実に印象的なものでした。

今回の演奏会でこれらの他にとくに印象に残ったのは、太田真紀さんの声の充実ぶりでした。ジャチント・シェルシの作品で、この同時代の作曲家が細川さんと同様に一つの声から一つの世界を開く音楽を追求していることを見事に響かせた後、演奏会を締めくくる《三つの天使の歌》(2014年)では、警告し、絶望を歌いながら、地上に生きることを見つめ直させる天使の声を空間に屹立させていました。この曲では、吉野直子さんのハープにより、天使の歌が深い哀しみのなかから発せられていることも感じられました。そして、吉野さんのハープと宮田まゆみさんの笙は、《うつろひ》(1986年)をはじめとする作品で、非日常的でありながら、世界そのものを構成するものが凝縮されたかたちで現出する儀式的な場を開く、という細川さんの音楽のもう一つの側面を浮き彫りにしていました。吉野さんのハープとサクソフォンの大石将紀さんの《弧のうた》(1999年)は、今回の演奏会全体を、細川さんの音楽の新たな展開へ向けて象徴する、見事なものだったと思います。

11月29日には、紀尾井ホールにて、ヴィオラ奏者の今井信子さんの三回にわたるリサイタルのシリーズ「夢」の第三回を聴きました。“Clarinet Trio”と題された今回の演奏会は、クラリネット、ヴィオラ、ピアノの三重奏のために書かれたモーツァルト、シューマン、クルターグの作品をプログラムの中心に置いたうえで、ブラームス晩年の二曲のクラリネット、あるいはヴィオラのためのソナタを、クラリネットとヴィオラで演奏するという充実した内容の演奏会でした。クラリネットがヒェン・ハレヴィでピアノが韓国出身の新鋭キム・ソヌク。表現意欲に満ちたこの二人の冴えた演奏を今井さんが豊かな響きで受け止めて、温かくもスリリングなアンサンブルが繰り広げられていました。

とくに、モーツァルトのケーゲルシュタット・トリオがこれほど豊かな振幅を持って奏でられたのは、これまで聴いたことがありませんでした。個人的に嬉しかったのは、クルターグの《ローベルト・シューマンへのオマージュ》を実演で聴けたことです。シューマンの引き裂かれた内面を掘り下げながら、それをクルターグ自身の音楽と共鳴させるこの作品の「夜の音楽」は、非常に魅力的に思われました。クラリネットによるブラームスの第1番のソナタも、楽器の持ち味を最大限に生かした好演でしたが、何よりも素晴らしかったのが、今井信子さんのヴィオラによる第2番のソナタの演奏。自然な息遣いで連綿と歌い継いでいくヴィオラの響きが、会場を満たしていました。

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チャリティークリスマスコンサートflyer

12月4日には、エリザベト音楽大学のセシリアホールで行なわれた、同大学のチャリティークリスマスコンサートを聴きました。この演奏会では、20世紀初頭の夭折の詩人ゲオルク・トラークルが四季に寄せた詩をテクストに自然の深い息遣いを響かせながら、季節が巡るなかに、第二次世界大戦の末期に起きた二つの凄惨な出来事、ドレスデン空襲と広島への原爆投下という出来事の記憶を深く刻み込む、細川俊夫さんの《星のない夜》が演奏されました。この作品の解説と歌詞対訳を、演奏会のプログラムに寄稿させていただいたことを、とても光栄に感じています。この作品を取り上げようと決意された大学関係者の方々にも、心からの敬意を表わしたいと思います。《星のない夜》の演奏は、一音一音に熱意のこもった素晴らしいもので、とくにソプラノの小林良子さんが、澄んだ声ときれいな発音で一つひとつのフレーズを美しく響かせる演奏を聴かせてくれたのが印象的した。細川さんの音楽思想が集約されたこの作品に耳を傾けながら、70年前に起きた出来事に思いを馳せ、今を見つめ直す機縁を与える、被爆70年の記念に相応しい演奏だったと思います。

12月6日には、三原市芸術文化センターポポロへ、大阪フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会を聴きに行きました。音楽監督の井上道義の指揮で、アールトネンの交響曲第2番「ヒロシマ」とブルックナーの交響曲第4番、それに佐藤眞のよく知られた「大地讃頌」が、冒頭に地元の合唱団と演奏されました。朝比奈隆が、今から60年前に広島で当時の関西交響楽団と演奏したアールトネンの「ヒロシマ」交響曲と、これも朝比奈が自家薬籠中のものとしていたブルックナーの「ロマンティック」交響曲が井上道義の指揮の下でどのように響くのか、楽しみに出かけました。

アールトネンの交響曲に関しては、この曲とその演奏史をずっと辿って来られた能登原由美さんがこのほど公刊された素晴らしい本『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』(春秋社)を読んで、少し「予習」して行ったので、いろいろと考えさせられるところがありました。1947年に着手され、1949年に完成したというこの作品は、広島の被爆についての情報が未だきわめて乏しいなかで、原子爆弾の被害を人類の問題として受け止め、そこからの人間の再生を願って書かれたものとひとまず言えるでしょうか。音楽そのものは、同郷のシベリウスからの深い影響の下、映画音楽などの作曲の経験なども踏まえながら書かれていると思われます。同時代のショスタコーヴィチの一部の作品と呼応するようなリアリズムないし描写性を示すところもあります。井上道義の指揮による今回の「ヒロシマ」交響曲の演奏は、井上なりの解釈の下で、「交響曲」としての構成よりも、一篇の交響詩としての流れを重視して、標題音楽的な要素を生かしながら一気に聴かせるものだったのではないでしょうか。序奏で重苦しく奏でられたモティーフが、終楽章で長調に転じて回帰し、再生への願いを込めて徐々に熱を帯びていくあたり、引きつけるものがありました。

後半のブルックナーの交響曲の演奏は、各楽章の主題をゆったりと歌わせながら、それに各声部が対位法的に絡む動きもしっかりと響かせることによって、歌謡性と響きの充実を両立させた、とても聴き応えのあるものでした。井上は、とくに両端楽章で細かいアゴーギグを加えることで、彼ならではの曲の流れを作り出していました。この曲でも井上は、ブロックごとの構築性よりも、全体の自然な流れを重視していたように思いますし、それが彼ならではのブルックナーへのアプローチなのでしょう。とくに第2楽章と第4楽章は、美しい演奏に仕上がっていたと思われます。

第2楽章では、見事なテンポ設定の下で、最初にチェロに現われる憂いを帯びた主題が連綿と歌い継がれていく流れが素晴らしかったですし、第4楽章では、大きな広がりを持った響きのなかに第二主題をゆったりと響かせることが、音楽の大きな起伏を作り、最終的に壮大なクライマックスを現出させたあたりは、実に感銘深かったです。全体的に、ピアノの音量が大きすぎる印象を受けましたが、それは楽員が、井上の意図するところを懸命に実現させようとした結果かもしれません。井上と大阪フィルハーモニーの関係が深まれば、表現の振幅はおのずと広がることでしょう。

ともあれ、両者のブルックナー演奏の朝比奈時代とはひと味異なる方向性を垣間見ることもできました。大阪フィルハーモニーの演奏を聴くのは、実に久しぶりでしたが、重心の低い、聴き応えのある響きは相変わらずでしたし、さらにそこに透明感も加わってきているようにも思われます。もう一つ印象深かったのは、槇文彦が設計したポポロの音響の見事さです。充分な残響のなかで総奏が輝かしく響くのみならず、そのなかで内声の細かい動きもよく聞こえます。三原市民の素晴らしい財産と言うべきこのホールを、しっかりと生かし続けてほしいものです。

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Paul Klee, »Die Zwitscher-Maschine«(1922)

最後に、話題が少し音楽から美術へスライドするかもしれませんが、ベルンのパウル・クレー・センターに集うクレーの美術の世界的な研究者が主体となって編集され、このほどその創刊号がオンラインで発行された、クレー研究の国際的な雑誌“Zwitscher-Maschine”──この表題は、クレーの水彩画《さえずり機械》(1922年)に由来しています──に、今夏栃木県の宇都宮美術館で開催されたクレー展「だれにもないしょ。」の展覧会評を、英語で掲載していただきました。拙稿の掲載の機縁を作ってくださり、そのために編集を含めご尽力くださった、チューリヒ大学の柿沼万里江さんと翻訳者のデイヴィッド・ノーブルさんに心からの感謝を捧げたいと思います。拙稿は、ご興味のある方にご一読いただけると幸いです。ヴァイオリンを愛し、生涯にわたり音楽を着想の源泉とし続けたクレーの作品を新たな角度から見直す、ささやかなきっかけになればと願っております。

武生国際音楽祭2015の演奏会などを聴いて

今年も9月9日の夜から12日の夕方にかけて、福井県越前市の武生で、26回目を迎える武生国際音楽祭2015のいくつかの演奏会や作曲ワークショップのセッションを聴かせていただいた。今回の音楽祭の白眉は、何と言っても9月11日の夜に行なわれた「細川俊夫と仲間たち」の演奏会だったのではないだろうか。この音楽祭の音楽監督を務める細川とともに歩んできた音楽家たちが、みずからの音楽をもって、来月に還暦を迎える細川の芸術を祝福する場になったと思われる。

とくに演奏会の後半で、細川の音楽を知悉した演奏家たちが、その内実を見事に引き出していたのが印象に残る。まず、フルート独奏のための《垂直の歌I》では、上野由恵が澄みきったひと筋の音で、歌の源泉とも言うべき魂の深奥へ聴き手の耳を誘っていた。上野のフルートが、そこに凝集してくる情念を徐々に音のエネルギーに変えながら高揚させ、それを爆発的に発散させた後、あたかも余韻のように最初の澄んだ音を回帰させたのには、深い浄化に至る魂の息遣いを聴く思いだった。

次に演奏されたピアノ独奏のための《エチュードII──点と線》では、山本純子のピアノが、夜闇に星々が微かに浮かび上がるようなモティーフを細やかなタッチで提示した後、徐々に強度を帯びていく持続を、音たちの共鳴のなかに自然に形成していくのに思わず引き込まれた。また《トリオ》では、ピアノの深い響きを背景としながら徐々に前景に浮かび上がるヴァイオリンとチェロの音が重なったり分かれたりしながら、最終的に、ともに嵐を起こすような強いエネルギーを放射するに至るのを印象深く聴きました。辺見康孝と多井智紀の表現は、内から湧き出てくる大きさと強さを増したように思われる。

そして、圧倒的な感銘を残したのが、大石将紀のテナー・サクソフォン、中川賢一のピアノ、葛西友子のパーカッションによる《ヴァーティカル・タイム・スタディII》。書の打ち込みから線が生じてくる瞬間のように、強い打撃音によって垂直的に断ち切られる瞬間を焦点としたこの作品において、この三名の演奏は完璧なアンサンブルで、空間が縦に裂けるかのような強烈な打撃音を響かせるのみならず、その余韻も実にニュアンス豊かに響かせていた。内部奏法も駆使した中川のピアノ演奏に、葛西の多彩な奏法を駆使した打楽器演奏が見事に呼応して、この作品でしか聴けない、深淵の上に緊張感を伴いながら漂う響きが生まれていた。それに乗って大石が、時に空間全体を震わせるかのような力を放つ強い音も聴かせつつ、非常に表現の振幅の大きな演奏を繰り広げたので、ホールの天井を突き抜けるかのような響きの垂直性が生まれていた。

この演奏会の前半では、細川の音楽から折々に刺激を受けてきた、彼より若い世代の四名の作曲家の作品が演奏されたが、そのなかでは、ディアナ・ロタルがソプラノ、フルート、クラリネット、ピアノ、パーカッションのために書いた《沈黙を破れ》という作品を、とても興味深く聴いた。声の動きと楽器の音をうまく溶け合わせ、かつ各楽器の響きを生かしながら、独特の浮遊感と神秘性を湛えた音響空間を、実に音楽的に現出させていた。伊藤弘之の木管五重奏のための《うつりゆく秋》も、四分音を独特のかたちで織り込んだテクスチュアで、たゆたうように風景が変化していく動きを見事に表現していたと思われる。

個人的に非常に印象深かったのは、フェデリコ・ガルデッラがフルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのために書いた《歌い沈黙する建築》だった。独特のほの暗い響きを造形しつつ、沈黙のなかから歌うような響きが明滅するのを、非常に細やかに表現した作品。ガルデッラの作品は、同じ9月11日の午前に行なわれた「新しい地平マチネコンサート」でも聴くことができた。こちらで演奏されたフルートのための《五つの夜想曲風コーラス》は、ひと筋の響きが徐々に複数化して合唱のように響き合いはじめる過程を焦点とした作品で、その繊細なテクスチュアを、マリオ・カローリのフルートが見事に響かせていた。ガルデッラが、作曲ワークショップのセッションで、これも魅力的なオーケストラ作品を紹介しながら、自分について、カスパー・ダフィート・フリードリヒの風景画において、無限に広がる風景を凝視し浮かび上がらせている海辺の修道僧のような存在でありたいと語っていたのも印象に残る。将来が楽しみな作曲家の一人である。

今年の作曲ワークショップでは、もう一人、ポーランド出身のベッティーナ・スクリプチャクという作曲家が、音楽評論家のマックス・ニフラーによって紹介されて、彼女の音楽にも興味を惹かれた。彼女の作品も非常に繊細なテクスチュアを持っていて、とくに先の「新しい地平マチネコンサート」で演奏された、クラリネット、チェロ、ピアノのための《イリュミナツィオーネン》では、非常に微かに響き始めたひと筋の音がやがて嵐のように、しかし緊密な構成感を保ちながら展開した後、天へと消え入っていくようなチェロの音に昇華されていきます。スクリプチャクは、もっと多くの作品が日本で紹介されてよい作曲家であろう。

9月12日にも二回にわたって行なわれた「新しい地平コンサート」では、思いがけずカイヤ・サーリアホの作品を3曲聴くことができた。マリオ・カローリのフルート独奏による《翼の簡潔さ》では、言葉が楽器の音に溶け入りながら詩の世界を繰り広げるのが興味深かったし、アンシ・カルトゥーネンのチェロが加わった《鏡》と彼の独奏による《七匹の蝶々》では、彼の演奏の素晴らしさも相俟って、非常に繊細な響きから澄んだ世界がすっと広がっていくのを聴くことができた。

サーリアホの作品以外では、ジョルジュ・アペルギスのテナー・サクソフォンのための《アルター・エゴ》が、影のような動きを面白く造形していた。金井勇の《造形的な事象》は、敢えて硬質な響きの造形を貫くことで、木管五重奏から独特の光彩のある一つの響きを引き出していたと思われる。ニーナ・シェンクが木管五重奏のために書いた《瞬間》は、自由無調の頃のシェーンベルクとも通底する独特の生命感を持った音響の運動性が面白いが、コーダの部分がストラヴィンスキーの《春の祭典》の一節によく似ているように聴こえたのは私だけだろうか。いずれの作品でも、スロヴェニアのスローウィンド木管五重奏団が、献身的とも言える演奏を聴かせてくれた。

このように、新しい音楽の生成の現場に立ち会うことができるのが、武生国際音楽祭の最大の魅力であるが、それと並んで、素晴らしい才能を持った若い音楽家たちの力のこもった演奏に接することができるのも、他には代えがたい魅力である。9月9日の夜には、「東欧弦楽作品の夕べ」と題する、若い音楽家たちがヤナーチェクやバルトークの難曲に挑む演奏会を聴いたが、まずヤナーチェクの弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル・ソナタ》で、若い弦楽器奏者たちで組織されるエール弦楽四重奏団が、この作品の強度を見事に響かせていたのに感嘆させられた。救いのない惨劇を人間存在の根底を抉り出すかたちで繰り広げる、彼のオペラの世界を凝縮したようなこの弦楽四重奏曲の恐ろしさが、四つの声部の緊密な絡み合いのなかから垣間見える演奏に仕上がっていた。

それ以上に驚嘆させられたのが、このエール弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲第4番の演奏。彼の音楽の多面的な魅力が、強い表現力を発揮させるかたちで、かつ緊密な構成の下で凝縮されたこの作品に漲るエネルギーが、若い演奏家たちの表現意欲と優れて音楽的なかたちで一体化した演奏だったと思う。野性的なリズムのモティーフが緊張の度を高めながら発展していく楽章も、密やかにさざめく夜の音楽が聴かれる楽章も、説得力に満ちた演奏に仕上がっていた。この翌日の午前に行なわれた弦楽器とピアノの「ミニコンサート」では、このクァルテットでヴィオラを弾く田原綾子が、豊かな音でシューマンの《おとぎの絵本》の歌心に溢れた演奏を聴かせてくれた。

同じ10日の夜に行なわれた「ブラームスと武満徹」をテーマとする演奏会の冒頭では、エール弦楽四重奏団でも弾いている若いチェリスト上野通明が、ブラームスのチェロ・ソナタ第2番を、驚くほど豊かな表現力で見事に演奏していたのに驚嘆させられました。経験を積んだチェリストにとっても、曲の全体を摑むのはけっして容易ではないこの曲の大きな流れを捉えながら、素晴らしい技巧で細部も音楽的に響かせた演奏だった。晩年に差し掛かろうとするブラームスの音楽の力強さと闊達さの双方が響いていた。曲の構造を浮き彫りにしながらチェロ独奏を支えた、伊藤恵のピアノも素晴らしい。

この演奏会で次に演奏された、武満徹のヴィオラ協奏曲《ア・ストリング・アラウンド・オータム》の細川俊夫によるピアノ伴奏への編曲版では、ヴィオリストの赤坂智子が、晩年の武満の「うた」を、深い息遣いと自然なフレージングで非常に豊かに響かせていた。間をたっぷり取りながら、歌が内から形を変えつつ湧き出るなか、風景が彩りを変えながら立ち上ってくるさまが、非常に美しく表現されていた。繊細なタッチで背景を織りなしながらヴィオラの「うた」を浮き上がらせた、津田裕也のピアノも印象に残る。

最後に演奏されたブラームスのクラリネット五重奏曲では、ミシェル・ルティエックのクラリネットが実に素晴らしかった。時に際立ちながら、また時に弦楽器のアンサンブルに溶け込みながら、憂いを帯びた歌を実に豊かに響かせていた。なかでも緩徐楽章で、聴こえるか聴こえないかのところで静かに張りつめたピアニッシモから音楽が熱を帯びていく辺りで、クラリネットの極限的とも言える表現に、弦楽器奏者たちが見事に反応して、内側から高まっていく音楽が生まれていたのには、心からの感動を覚えた。

引接寺で花士珠寳により献花された生花武生国際音楽祭のもう一つの魅力として、多くの社寺が建ち並ぶ武生の街が音楽に満ちた街に変わることがあるが、今回の音楽祭では9月9日の夜、引接寺で尺八、フルート、能、生花のコラボレーションによって構成された演奏会を聴くことができた。本堂の両翼から尺八が響いて奥行きのある空間が開かれるオープニングから引き込まれたが、とくに印象的だったのは、マリオ・カローリによるフルートの演奏。雨音が漏れ聞こえるなかをすっと貫くようなピアニッシモの持続音と空間を切り裂くような息の音を交錯させながら、素晴らしいシャリーノを聴かせてくれた。

この演奏会では能楽師の青木涼子が、謡いと舞いの身体的表現だけで、曲水の宴が繰り広げられるもう一つの世界へ聴衆を誘っていたのも感銘深い。最小限に切り詰められながらたゆたうような優雅さを示す表現が、一つの時空間を切り開く能の表現には、生花とも通底するものがあるにちがいない。花士珠寳の献花は、雨露を浴びながら上へ伸びようとする竹と、内へ籠もるような力を示す花の赤との拮抗のなかから一つの凝縮された自然界を繰り広げるもの。植物と対話するように草木や花を生けていたのも心に残る。

ある意味でこの由緒ある引接寺での演奏会が象徴するように、洋の東西を越える芸術の協働のなか、新しい音楽と若い才能が、伝統のある街のなかから世界へ羽ばたく音楽祭として、武生国際音楽祭がこれからもその独自の魅力をさらに深めながら続いていくことを願ってやまない。