細川俊夫ポートレイト・コンサートを聴いて

去る2月11日、大久保の淀橋教会の小原記念チャペルにて、鈴木俊哉リサイタルとして開催された細川俊夫ポートレイト・コンサートを聴いた。すべての曲を演奏したリコーダー奏者の鈴木俊哉をはじめとする最良の理解者たちの素晴らしい演奏によって、細川の音楽の世界がきわめて凝縮されたかたちで小さなチャペルのなかに開かれた。全体として、静寂のなかから生起してくる一つの音自身の生命を、打ち込みや撥ね、擦れや滲みを含んだ書の線として歌い抜く細川の音楽が、非常に生き生きと響いた演奏会になったと思われる。

演奏会の冒頭で細川が、ヴェーベルンが論じた「音楽思考 der musikalische Gedanke」について語っていたが、細川の音楽においては、この「音楽思考」の精神を生命の息吹が貫いていることを、鈴木俊哉のリコーダー演奏を聴きながらあらためて思った。また、宮田まゆみの笙、辺見康孝らの弦楽四重奏は、ひと筋の線としての音が、風景のなかに、万物照応とともに、あるいは他の生命とせめぎ合うなかに、垂直的に螺旋を描く時のなかに響いてくることを、見事に示していた。

演奏された6曲のなかでことに興味深かったのが、今回が世界初演だった、声とバス・リコーダー、弦楽四重奏のための「つれない人」。会場の四隅に配された弦楽四重奏と風鈴が、優れて儀式的と言える空間を開き、気配を漂わせるなかに、鈴木のバス・リコーダーと太田真紀の声によって、恋破れた男の嘆息そのものが徐々に響いてくる過程が、一つの凝縮されたモノドラマをなしているようだった。そのテクストが、仮名という日本独自の表現言語が形成されつつあった頃の古今和歌集から採られていて、かつその詞が言葉になろうとするあわいが、そこにある息のめぐらしとともに強調されていたところが非常に印象的で、そこは音楽そのもののあり方を象徴しているようでもあった。

演奏会の前半と後半が、それぞれリコーダー独奏で始まり、徐々に演奏者を増やして、音の響く場が、図に対する地が立ち現われてくるプログラムの構成になっていたのも、面白く思われた。冒頭で極度の緊張と豊かな表現の振幅をもって演奏された《線Ib》の線を描く運動に内在する、生の深みから音が立ち上がる動きが、《垂直の歌Ib》で深く掘り下げられているように感じたのも、細川の音楽に長年にわたって取り組み続けてきた鈴木の演奏あってのことだろう。彼の演奏は、《鳥たちへの断章IIIb》では、鳥たちが羽ばたきながら示す、凄まじいまでの、どこか「怒り」すら感じさせる生命力を横溢させていた。

リコーダーと弦楽四重奏のための《断章II》では、両者の響きが溶け合うのに身を委せ、雲が流れゆく風景と耳を一体化させる喜びも味わうことができた。音そのものを、それを貫く気息を深く聴くことから生まれる音楽と、それがもたらす深い喜びが何ものにも代えがたいことを、その危機のなかであらためて噛みしめる演奏会となった。細川俊夫ポートレート・コンサートFlyer

小旅行と近況の報告

早いものでもう桜が咲き、学期の始まる四月がやって来ます。今年の二月から三月にかけても、原稿執筆などの仕事で非常に慌ただしく過ごしていたのですが、幸い三月の下旬になって仕事がひと段落しましたので、家族と小旅行に出かけました。先日は、車で奥出雲と飯南を回って、八岐大蛇の伝説で知られる須佐之男命ゆかりの神社を二社訪ねました。どちらかと言うと家族の希望に従ってのことでしたが、中国山地から出雲、石見、そして隠岐島にかけては、まつろわぬ神々の痕跡がさまざまな形で残っているように思えて、この地域に対する関心を徐々に深めつつあるところです。

須佐神社本殿

須佐神社本殿

とくに印象深かったのが、出雲市の佐田町にある須佐神社でした。出雲風土記に須佐之男命の終焉の地として記されている場所に造営されたこの神社では、何と言っても大社造りの立派な本殿が目を惹きますが、それがうっそうと繁る木々のあいだに、少し隠れるように建っているのを眺めると、本殿の壮大さとこの地に積み重なった歳月の重みの両方が伝わってくるような気がします。この本殿が、樹齢千年を超えるという大杉の傍らに建っているのも、荒ぶる神の魂を鎮めるこの神社に相応しく思われました。

小旅行と言えば、三月の連休には、佐賀県の吉野ヶ里遺跡と大分県の日田市も訪れました。吉野ヶ里遺跡では、遺跡保存のあり方について大いに考えさせられましたが、その問題は、平和記念資料館の改築が始まった広島でも他人事ではない問題です。吉野ヶ里遺跡で見応えがあったのは、発掘当時の状態が屋内に保存されている墳丘墓で、当時の死者の弔い方を偲ぶことができます。この地域では、基本的に甕を二つ合わせるかたちで棺を作って、身体を屈めた遺体を埋葬していたようですが、そのさまは、カプセルを埋めるようでもあり、どこか胎内回帰のようでもあります。

三隈川の夕暮れ

三隈川の夕暮れ

日田では、水郷の風情とかつての天領の街並みを楽しむことができました。夕暮れ時、三隈川には屋形船が出ていました。個人的には、商家の立ち並ぶ街──あちこちで古い雛飾りを展示していました──よりも、水辺の風景のほうが気に入りました。日田の街で一つ興味深かったのが、咸宜園という、江戸後期から明治期にかけて開かれていた私塾の跡でした。廣瀬淡窓が1817年に開いたこの塾では、平等な教育と塾生による自治が徹底されていたことを、案内の方が熱心に説明してくれました。高野長英や大村益次郎らを輩出したことでも知られているようです。当時の多くの私塾同様、教育の中心に置かれていたのは漢籍の講読だったようですが、漢詩人だった廣瀬淡窓が、詩学を最も重視していたことは、あらためて見直されてよいことでしょう。詩的な作品を読み、あるいはみずから詩的な言葉を綴ることによって、他者への想像力を育むことが今、何にもまして求められているのではないでしょうか。

他者への想像力の重要性に気づかされたもう一つの機会として、五味川純平の小説『戦争と人間』にもとづく山本薩夫監督の映画の第一部を紹介する講演の準備過程がありました。大陸進出を企てる財閥の一族を軸に、群像劇のかたちで日本の侵略戦争の歴史を叙事詩的に描いたこの映画をDVDで見ながら、日本人の俳優が、中国や朝鮮の人々を実に生き生きと演じているのに、少し驚かされたのです。もちろん、俳優のあいだで演技にばらつきがありますし、そこにあるのはあくまで日本人のなかの他者像であるという限界があるとはいえ、演技そのものと映画の作り方から、竹内好が「方法としてのアジア」に綴ったような、個として生きている他者を内側から理解することへの熱意のようなものが感じられました。

もしかすると、そのような熱意にもとづく想像力の逞しさが、かつては映画そのものを形づくっていたのかもしれません。今日では、最近も起こった中沢啓治の漫画『はだしのゲン』をめぐる教育現場の出来事が象徴するように、大人が子どもたちの想像力の芽を摘むような行動を繰り返しているように思えてなりません。それとともに、硬直した、しかも何らリアリティを持たない虚像としての他者像だけが巷間に溢れるようになってしまっています。それに憎悪をぶつけることへの安易な共感が、「売れるコンテンツ」の消費とともに蔓延し、さらにそのことが戦争の可能性へ向けて動員されようとしているのを、他者に深く共感する力と、この自分を超えた存在に対する想像力を拓くことによって食い止めることは、文化に携わる者の喫緊の課題と思われます。

なお、山本薩夫の映画『戦争と人間』の第一部を紹介する講演は、広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン出張講座」として、2月23日の午後に広島市映像文化ライブラリーで行ないました。「映画から見つめる日本の戦争の歴史」と題して行なったこの講演では、当時のスター俳優を惜しみなく出演させて、さまざまな立場から日本の侵略戦争と関わった「人間」を浮き彫りにしたこの映画の魅力を、上述の点を含めてご紹介しました。それから、2月7日付の中国新聞には、「佐村河内守作曲」とされていた作品が新垣隆さんによる代作であったという問題と、それに伴って浮上した問題について、一篇の記事を寄稿[記事見出し:「作品批評の在り方検証を」]させていただきました。とくに、あらためて浮き彫りになった文化産業の問題は、上で指摘した問題とも通底するものでしょう。

さて、このように講演や原稿執筆などで忙しくしているあいだにも、素晴らしい音楽と舞台に触れる機会があったのは幸せなことでした。まず、去る2月11日に、大久保の淀橋教会の小原記念チャペルにて、鈴木俊哉リサイタルとして開催された細川俊夫さんのポートレイト・コンサートを聴きました。そこでは、リコーダー奏者の鈴木俊哉さんをはじめとする最良の理解者たちの素晴らしい演奏によって、細川さんの音楽の世界が見事に開かれました。その印象は、稿を改めて記すことにいたします。それから、3月12日には、新国立劇場で、コルンゴルトの《死の都》の新演出初演を観ました。何と言っても卓抜なアイディアに満ちた舞台が最初から最後までとても美しかったです。死んだ妻マリーの思い出の品が聖遺物のように聖櫃に収められているのが、中世から時間を止めたようなブリュージュの街の風景と重なるあたり、とくに魅力的でした。

主人公パウルが見ている死者の世界──そこにはマリーがいる、ということで彼女の亡霊が終始黙役で舞台に出ていました──を美しく描くことに力を入れたカスパー・ホルテンの演出は、全体的に作品の魅力を引き出していたように思います。歌手のなかでは、マリエッタ/マリー(の声)役のミーガン・ミラーが何と言っても素晴らしく、最初のリュートの歌も、最後の勝ち誇る生者の歌も圧倒的でした。それ以外の歌手も高水準の歌唱を聴かせていたと思います。惜しまれるのは、ヤロスラフ・キズリンクの指揮する東京交響楽団の響きがややまとまりを欠き、コルンゴルトの音楽のハッとさせるような音色の変化や、陶酔的な響きの魅力が今ひとつ伝わってこなかったことです。日本語字幕も、誰がどのような心境で語っているかをもう少し大事にした訳であれば、聴衆が作品の世界に入っていく手助けになったのでは、と自戒も込めながら申し上げておきたいと思います。とはいえ、全体としては、音楽的にも、舞台演出のうえでも、コルンゴルトの《死の都》が20世紀のオペラの傑作であることを実感させる初演でした。

最後に、私事にわたりますが、この三月に、「ベンヤミンの言語哲学」をテーマとする論文により、母校の上智大学より博士(哲学)の学位を授与されました。博士後期課程の三年を経てすぐに哲学科の助手になったことや、さまざまな曲折のなかで研究をまとめるのに時間がかかったことなどのために、博士号修得が今頃になってしまいました。昨今の騒動により、日本国内で得た博士号の価値は零落してしまっているのかもしれませんが、私自身はこれを一つの節目として、さらに研究に精進していきたいと思います。それから、学位論文を元にした本も、夏頃にはお届けしたいとも考えております。

徐京植、韓洪九、高橋哲哉『フクシマ以後の思想をもとめて──日韓の原発・基地・歴史を歩く』

本書は、いみじくも言及されているように、1930年代の満州国が回帰したような状況、すなわち満州国の建設に主要な役割を果たした者、この傀儡国家の軍隊の将校だった者、そして当時満州で抗日闘士として戦った者、それぞれの子孫が北東アジアの対立構図に顔を揃えている状況のなかで、韓国の歴史家、在日の思想家、日本の哲学者が、福島、陜川、ソウル、東京、済州島、沖縄を訪ねて行なった鼎談をまとめた一冊である。

これらの場所は、満州国に象徴されるような欺瞞をもって人々に犠牲を強いてきた暴力、とりわけ国家の暴力、さらにはそれと同一化した人種主義の暴力が噴き出ている歴史の現場でもある。そうした場所において、暴力の犠牲者たちに、あるいは今もその暴力に立ち向かっている者たちに思いを馳せるなかからこそ展開される思考が、生きている者ばかりでなく、死者たちすら脅かしつつある現在を、そこに陸続している歴史とともに鋭く照らし出している。

論じられている問題は多岐にわたるが、問題どうしが通底し合う地点が指し示されることによって、これらの場所が結び合わされるところが興味深い。なかでも、済州島と沖縄が、国家暴力の犠牲者の追悼の問題をめぐって、また軍事基地開発の問題をめぐって、相互に照らし合う関係にあることを認識することは重要と思われる。また、「韓国の広島」とも呼ばれる──なぜそう呼ばれるのかは、広島が帝国日本の拠点であったことから考えられなければならないはずだ──陜川で、広島で被爆した人々を苦しめている構造が今、福島で原発事故の被害に遭った人々にのしかかってきていることも忘れられてはならないことであろう。

このようにして、場所と場所を結び合わせ、苦難の記憶を照らし合わせるなかでこそ、国家暴力への順応を拒みながら、それが陸続し、跋扈しつつある希望なき状況を、国境を越えてともに見通す、もう一つの歴史への回路が開かれるのかもしれない。日本では原発の再稼働と輸出の準備が進められ、沖縄と済州島では軍事基地の開発が進められつつある、きわめて危機的な状況を、東アジアの歴史から、かつその歴史を分有する可能性へ向けて見通す視座を与える鼎談書と言えよう。編集者と訳者による詳細な注も理解の助けになる。鼎談『フクシマ以後の思想をもとめて』書影

[平凡社、2014年]