早いものでもう桜が咲き、学期の始まる四月がやって来ます。今年の二月から三月にかけても、原稿執筆などの仕事で非常に慌ただしく過ごしていたのですが、幸い三月の下旬になって仕事がひと段落しましたので、家族と小旅行に出かけました。先日は、車で奥出雲と飯南を回って、八岐大蛇の伝説で知られる須佐之男命ゆかりの神社を二社訪ねました。どちらかと言うと家族の希望に従ってのことでしたが、中国山地から出雲、石見、そして隠岐島にかけては、まつろわぬ神々の痕跡がさまざまな形で残っているように思えて、この地域に対する関心を徐々に深めつつあるところです。
須佐神社本殿
とくに印象深かったのが、出雲市の佐田町にある須佐神社でした。出雲風土記に須佐之男命の終焉の地として記されている場所に造営されたこの神社では、何と言っても大社造りの立派な本殿が目を惹きますが、それがうっそうと繁る木々のあいだに、少し隠れるように建っているのを眺めると、本殿の壮大さとこの地に積み重なった歳月の重みの両方が伝わってくるような気がします。この本殿が、樹齢千年を超えるという大杉の傍らに建っているのも、荒ぶる神の魂を鎮めるこの神社に相応しく思われました。
小旅行と言えば、三月の連休には、佐賀県の吉野ヶ里遺跡と大分県の日田市も訪れました。吉野ヶ里遺跡では、遺跡保存のあり方について大いに考えさせられましたが、その問題は、平和記念資料館の改築が始まった広島でも他人事ではない問題です。吉野ヶ里遺跡で見応えがあったのは、発掘当時の状態が屋内に保存されている墳丘墓で、当時の死者の弔い方を偲ぶことができます。この地域では、基本的に甕を二つ合わせるかたちで棺を作って、身体を屈めた遺体を埋葬していたようですが、そのさまは、カプセルを埋めるようでもあり、どこか胎内回帰のようでもあります。
三隈川の夕暮れ
日田では、水郷の風情とかつての天領の街並みを楽しむことができました。夕暮れ時、三隈川には屋形船が出ていました。個人的には、商家の立ち並ぶ街──あちこちで古い雛飾りを展示していました──よりも、水辺の風景のほうが気に入りました。日田の街で一つ興味深かったのが、咸宜園という、江戸後期から明治期にかけて開かれていた私塾の跡でした。廣瀬淡窓が1817年に開いたこの塾では、平等な教育と塾生による自治が徹底されていたことを、案内の方が熱心に説明してくれました。高野長英や大村益次郎らを輩出したことでも知られているようです。当時の多くの私塾同様、教育の中心に置かれていたのは漢籍の講読だったようですが、漢詩人だった廣瀬淡窓が、詩学を最も重視していたことは、あらためて見直されてよいことでしょう。詩的な作品を読み、あるいはみずから詩的な言葉を綴ることによって、他者への想像力を育むことが今、何にもまして求められているのではないでしょうか。
他者への想像力の重要性に気づかされたもう一つの機会として、五味川純平の小説『戦争と人間』にもとづく山本薩夫監督の映画の第一部を紹介する講演の準備過程がありました。大陸進出を企てる財閥の一族を軸に、群像劇のかたちで日本の侵略戦争の歴史を叙事詩的に描いたこの映画をDVDで見ながら、日本人の俳優が、中国や朝鮮の人々を実に生き生きと演じているのに、少し驚かされたのです。もちろん、俳優のあいだで演技にばらつきがありますし、そこにあるのはあくまで日本人のなかの他者像であるという限界があるとはいえ、演技そのものと映画の作り方から、竹内好が「方法としてのアジア」に綴ったような、個として生きている他者を内側から理解することへの熱意のようなものが感じられました。
もしかすると、そのような熱意にもとづく想像力の逞しさが、かつては映画そのものを形づくっていたのかもしれません。今日では、最近も起こった中沢啓治の漫画『はだしのゲン』をめぐる教育現場の出来事が象徴するように、大人が子どもたちの想像力の芽を摘むような行動を繰り返しているように思えてなりません。それとともに、硬直した、しかも何らリアリティを持たない虚像としての他者像だけが巷間に溢れるようになってしまっています。それに憎悪をぶつけることへの安易な共感が、「売れるコンテンツ」の消費とともに蔓延し、さらにそのことが戦争の可能性へ向けて動員されようとしているのを、他者に深く共感する力と、この自分を超えた存在に対する想像力を拓くことによって食い止めることは、文化に携わる者の喫緊の課題と思われます。
なお、山本薩夫の映画『戦争と人間』の第一部を紹介する講演は、広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン出張講座」として、2月23日の午後に広島市映像文化ライブラリーで行ないました。「映画から見つめる日本の戦争の歴史」と題して行なったこの講演では、当時のスター俳優を惜しみなく出演させて、さまざまな立場から日本の侵略戦争と関わった「人間」を浮き彫りにしたこの映画の魅力を、上述の点を含めてご紹介しました。それから、2月7日付の中国新聞には、「佐村河内守作曲」とされていた作品が新垣隆さんによる代作であったという問題と、それに伴って浮上した問題について、一篇の記事を寄稿[記事見出し:「作品批評の在り方検証を」]させていただきました。とくに、あらためて浮き彫りになった文化産業の問題は、上で指摘した問題とも通底するものでしょう。
さて、このように講演や原稿執筆などで忙しくしているあいだにも、素晴らしい音楽と舞台に触れる機会があったのは幸せなことでした。まず、去る2月11日に、大久保の淀橋教会の小原記念チャペルにて、鈴木俊哉リサイタルとして開催された細川俊夫さんのポートレイト・コンサートを聴きました。そこでは、リコーダー奏者の鈴木俊哉さんをはじめとする最良の理解者たちの素晴らしい演奏によって、細川さんの音楽の世界が見事に開かれました。その印象は、稿を改めて記すことにいたします。それから、3月12日には、新国立劇場で、コルンゴルトの《死の都》の新演出初演を観ました。何と言っても卓抜なアイディアに満ちた舞台が最初から最後までとても美しかったです。死んだ妻マリーの思い出の品が聖遺物のように聖櫃に収められているのが、中世から時間を止めたようなブリュージュの街の風景と重なるあたり、とくに魅力的でした。
主人公パウルが見ている死者の世界──そこにはマリーがいる、ということで彼女の亡霊が終始黙役で舞台に出ていました──を美しく描くことに力を入れたカスパー・ホルテンの演出は、全体的に作品の魅力を引き出していたように思います。歌手のなかでは、マリエッタ/マリー(の声)役のミーガン・ミラーが何と言っても素晴らしく、最初のリュートの歌も、最後の勝ち誇る生者の歌も圧倒的でした。それ以外の歌手も高水準の歌唱を聴かせていたと思います。惜しまれるのは、ヤロスラフ・キズリンクの指揮する東京交響楽団の響きがややまとまりを欠き、コルンゴルトの音楽のハッとさせるような音色の変化や、陶酔的な響きの魅力が今ひとつ伝わってこなかったことです。日本語字幕も、誰がどのような心境で語っているかをもう少し大事にした訳であれば、聴衆が作品の世界に入っていく手助けになったのでは、と自戒も込めながら申し上げておきたいと思います。とはいえ、全体としては、音楽的にも、舞台演出のうえでも、コルンゴルトの《死の都》が20世紀のオペラの傑作であることを実感させる初演でした。
最後に、私事にわたりますが、この三月に、「ベンヤミンの言語哲学」をテーマとする論文により、母校の上智大学より博士(哲学)の学位を授与されました。博士後期課程の三年を経てすぐに哲学科の助手になったことや、さまざまな曲折のなかで研究をまとめるのに時間がかかったことなどのために、博士号修得が今頃になってしまいました。昨今の騒動により、日本国内で得た博士号の価値は零落してしまっているのかもしれませんが、私自身はこれを一つの節目として、さらに研究に精進していきたいと思います。それから、学位論文を元にした本も、夏頃にはお届けしたいとも考えております。